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長岡 紘司

ながおか・ひろし
[Korean Page]

last update:20101031


日本ALS協会神奈川県支部・副支部長

・1978? 発病
・1984? 呼吸器装着

◆長岡 紘司 2009/11/26 「死の安楽について」
◆長岡 紘司 19870415 「針の息穴」
 日本ALS協会編[1987:056-080]*
*日本ALS協会 編 19870415 『いのち燃やさん』,静山社,278p. 1200 ※

 ・気管切開の日
 1984年?「二月十五日、食事の後、またも息苦しさに襲われた。長いすに横になったが、いつもと違い、なかなか回復しない。深呼吸ができない。ますます息苦しくなり,身体をよじり、(p.57)足をばたつかせる。息をするのが精一杯で、声を出すこともできない。
 そのうち、視野が狭くなってきた。電灯がついているのに、やけに暗い。耳が変だ。まるで洞穴で声を聞いているようだ。思考力が落ちた。聞こえる声が誰の声か判断がつかない。針の穴から息を吸うような息苦しさが続いた。
 担架に乗せられ、渋谷のT医大へ」(pp.57-58)
 挿管
 「急に、息が楽になった。先ほどまでの針の穴から息を吸うような苦しさが消え、胸のつかえがおりた感じがする。しかし長時間苦しんだため、体力を消耗し、声が出せない。/傍で、医師たちが、のどを切ろうと話し合っている。のどを切る!? 私ののどを切るというのか。
 ”やめてくれ! 息は戻った、切らんでくれ!”
 必死に叫んだが、声にはならず、のどを切られてしまった。」(p.58)
 気管切開、人工呼吸器装着。

 「夜中に息苦しくて、目が覚めた。[…](p.76)
 鈴をけり、妻を起こそうとした。しかし、いつもはすぐに起きてくれる妻が、何度鈴を鳴らしても起きてくれない。[…]
 心臓は高鳴り、身体が恐怖で冷たくなっていった。[…]
 死への恐れか、身体が震えてきた。[…]
 どのくらい時間がたったろう。妻はまだ気づいてくれない。右足をけって鈴を鳴らそうとするが、力尽きたのか、足が動かない。意志を伝える唯一の手段を奪われたと思った途端、”死”への恐怖がどっと押し寄せ、心臓は破裂しそうに高鳴り、身体の震えがますますひどくなった。はげしい孤独感に襲われた。
 いつしか、部屋にうっすらと光が射し込んできた。
 トントン、と階段を降りてくる音がする。小学四年生の娘が起きてきたのだ。鈴をけり、助けを求めた。」(pp.76-77)

◆1988年? 外出
 長岡 明美(神奈川県・海老名市ALS患者家族) 20010601
 「キカイで生きるということ」
 『難病と在宅ケア』07-03(2001-06):29-30
 夫=長岡紘司さん

 「夫はALSを発症して24年になります。人工呼吸器を装着して18年になり、10カ月入院生活をしていて、在宅療養は17年目を迎えました。」(p.29)
 「在宅療養4年目に、初めてストレッチャーに乗ってすぐ近くの小学校にお花見に外出しました。
 ……
 人工呼吸器患者が外出したのは初めてで、新聞に報道され、その後テレビにも放映されました。
 それを観たドクター達が、呼吸器をつけて外に出られるのだと部屋から一歩も出たことのない入院患者を病院の庭へ散歩させてくださるようになりました。」(p.29)

 

◆「「もはや」のこと」
 『JALSA』021号(1991/04/28):10-11

 「生きた屍。だれだってこんな姿では生きていたくないと願うのは当然です。しかし、たとえどのような姿になろうとも、生きていたいと願うことも、また当然のことではないかと私は思います。
 生命というものは、生まれてくることがその者の意志でないように、死にゆくときも、その者の意志であってはいけないことです。
 「生きる権利があるなら、死ぬ権利もあるはず」とおっしゃるかたも、おられるでしょうが、それこそ、ものの生き死にをつかさどる宇宙の摂理に反することではないでしょうか。」(p.10)
 「「あと二〜三年の命です。芝居をしてでもご主人には知られないように」ALSの告知を受けた妻の頭の中が真白になり、帰りの道すじも覚えていない程絶望の中、自宅に戻ったといいます。」(p.10)
 「医療者の中にはいまだALSに対して、理解をしめしてくださらない方々が、いらっしゃるというのは、誠に残念なことです。
 「ALS患者をかかえた家族は家庭が崩壊します」「患者が人工呼吸器を拒否していますから装着はしません」「この病は三〜五年の命です」「人工呼吸器の動きに息を合わせなさい」「たとえ内臓に異常がなくても当病院ではミキサー食はできません」「寝たきりの患者は、タンがつまって窒息のおそれがあるから、つねに側臥位をとらせなさい」「マーゲンチューブは細い方が入り易く、キシロカインゼリーはたっぷりとつけ、挿入に際してはピンセットを使います」「声をかけても返事がないのだから気切の患者には一方的な無言のケアでよい」「マーゲンチューブがうまくはいらないのは、患者が不器用でゴックンを出来ないためで、私の理解のなさではない」
 多くの方々はこのようなことは、とうに越えられていると思いますが、しかし又、お心あたりのある方も、まだまだいらっしゃるかもしれません。
 何しろ、ある著名な病院長でさえ声を失ったALS患者と、肯定、否定の意志疎通さえとろうとしなかった現状なのですから。」(p.11)

 

◆「特別寄稿」
 『JALSA』044号(1998/07/28):39

 「告知から二十年、人工呼吸器をつけて十四年目になる私はふつうに生きています。ふつうにねて目ざめ、ふつうのものを食べて、出し、ふつうに話し、要求し、ふつうにふつうに生きています。
 そんな私に松山の患者氏はいいました。「あなたは特別です。仲間はもっとドロドロした底辺にあえいでいる」と。確かにそうかもしれません。しかしどの病にも特別はあってはならないのです。」
◆長岡 明美(神奈川県・海老名市ALS患者家族) 20010601 「キカイで生きるということ」,『難病と在宅ケア』07-03(2001-06):29-30
 「いまだに人工的延命にこだわる患者さんがいますが、たとえば母乳の出ない母親が赤ちゃんにミルクを与えるのも人工的延命ではないでしょうか。病気になって薬を飲んだり注射をするのも、人工的延命ではないでしょうか。
 人工呼吸器がない時代の患者さんは、生きたくても生きられなかったのです。
 人工呼吸器をつけましょう。こんなすばらしい器械が利用できる良い時代になりました。人工呼吸器をつける前は相当苦しい状態になります。呼吸器をつけたある患者さんは「こんなに楽になるなら、もっと早くつければよかった」と感想を話していました。[…]
 夫は「呼吸器をつけないのは、正常に力強く働いている脳や内臓や皮膚や感情や自律神経に失礼ではないだろうか。つまり細胞殺しだ。」と言っています。[…]
 人工呼吸器をつけて生きるということは特別のことではなく、私達は歯が悪くなったら入れ歯を入れるのと同じように考えています。」(p.30)

 
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■立岩『ALS 不動の身体と息する機械』における言及

 [4]一九七八年・「あと二〜三年の命です。」(妻に。長岡[1991:10])  [32]一九七八年に妻が「あと二〜三年の命です」[4]と言われた長岡紘司(神奈川県)。「夫はALSを発症して二四年になります。人工呼吸器を装着して十八年になり、一〇カ月入院生活をしていて、在宅療養は十七年目を迎えました。」(長岡[2001:29])。
 [123]長岡紘司[32]は一九七八年頃に妻が知らされる。「「あと二〜三年の命です。芝居をしてでもご主人には知られないように」ALSの告知を受けた妻の頭の中が真白になり、帰りの道すじも覚えていない程絶望の中、自宅に戻ったといいます。」(長岡[1991:10])  [167]長岡紘司は、妻が一九七七年に告知される[32][123]。八三年「二月十五日、食事の後、またも息苦しさに襲われた。長いすに横になったが、いつもと違い、なかなか回復しない。深呼吸ができない。ますます息苦しくなり、身体をよじり、足をばたつかせる。息をするのが精一杯で、声を出すこともできない。/そのうち、視野が狭くなってきた。電灯がついているのに、やけに暗い。耳が変だ。まるで洞穴で声を聞いているようだ。思考力が落ちた。聞こえる声が誰の声か判断がつかない。針の穴から息を吸うような息苦しさが続いた。/担架に乗せられ、渋谷のT医大へ」(長岡[1987:57-58])
 [230]夫・紘司[167]が呼吸器をつけて一七年目の長岡明美の文章。「いまだに人工的延命にこだわる患者さんがいますが、たとえば母乳の出ない母親が赤ちゃんにミルクを与えるのも人工的延命ではないでしょうか。病気になって薬を飲んだり注射をするのも、人工的延命ではないでしょうか。/[…]/人工呼吸器をつけて生きるということは特別のことではなく、私達は歯が悪くなったら入れ歯を入れるのと同じように考えています。」(長岡[2001:30])
 [264]長岡紘司[167]。「夜中に息苦しくて、目が覚めた。[…]/鈴をけり、妻を起こそうとした。しかし、いつもはすぐに起きてくれる妻が、何度鈴を鳴らしても起きてくれない。[…]/心臓は高鳴り、身体が恐怖で冷たくなっていった。[…]/死への恐れか、身体が震えてきた。[…]/どのくらい時間がたったろう。妻はまだ気づいてくれない。右足をけって鈴を鳴らそうとするが、力尽きたのか、足が動かない。意志を伝える唯一の手段を奪われたと思った途端、”死”への恐怖がどっと押し寄せ、心臓は破裂しそうに高鳴り、身体の震えがますますひどくなった。はげしい孤独感に襲われた。/いつしか、部屋にうっすらと光が射し込んできた。/トントン、と階段を降りてくる音がする。小学四年生の娘が起きてきたのだ。鈴をけり、助けを求めた。」(長岡[1987:76-77])
 [287]長岡紘司(神奈川県)[264]は八八年頃に外出した。「夫はALSを発症して二四年になります。人工呼吸器を装着して十八年になり、十カ月入院生活をしていて、在宅療養は十七年目を迎えました。/在宅療養四年目に、初めてストレッチャーに乗ってすぐ近くの小学校にお花見に外出しました。[…]人工呼吸器患者が外出したのは初めてで、新聞に報道され、その後テレビにも放映されました。/それを観たドクター達が、呼吸器をつけて外に出られるのだと部屋から一歩も出たことのない入院患者を病院の庭へ散歩させてくださるようになりました。」(長岡[2001:29])


※おことわり
・このページは、公開されている情報に基づいて作成された、人・組織「について」のページです。その人や組織「が」作成しているページではありません。
・このページは、文部科学省科学研究費補助金を受けている研究(基盤(C)・課題番号12610172)のための資料の一部でもあります。
・作成:立岩 真也
・更新:20011117, 1211, 20020804, 0910, 1004, 15, 20030312, 0909, 20100131, 0217
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