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東日本大震災後の障害者運動の動き――災害支援のなかでの障害者
青木 千帆子
2011年7月31日 日本女性学会2011年度大会 ワークショップ3
於:名古屋市男女平等参画推進センター「つながれっとNAGOYA」
last update:20110723
1 はじめに
1.1 目的
本報告では、東日本大震災後の障害者運動家のとりくみをご紹介します。具体的には、1970年代
「青い芝の会」
という障害者自立生活運動に取り組んだ組織に所属していた
古井正代さん
という女性障害者の視点に基づいて
「被災地障がい者支援センターふくしま」
の活動をみていきたいと思います。これらの取り組みからは、介護の必要な高齢者・障害者も避難できるように避難所の体制を整えようとする「福祉避難所(★1)」が、現実には介護の必要な高齢者・障害者だけを集めてひとところに収容する場所と化してしまっていることを指摘します。「福祉避難所」とは、1995年阪神淡路大震災の時におきた問題を解決するために設置されることになった避難所です。
報告の最後には、被災した障害者を当事者が支援する上での課題に関して、介助者として同行した立場から問題提起させていただきたいと思います。
1.2 方法
本報告は、「被災地障がい者支援センターふくしま」から発行されている報告書(★2)、報告者が「被災地障がい者支援センターふくしま」の活動に参加した際にとったフィールドノート、及び被災した障害者に関する新聞報道(★3)をもとに構成します。報告者は、古井正代さんという女性の介助者として福島を訪問することになりました。古井さんは生まれつきの脳性まひ者で、1973年大阪青い芝の会事務局長、1974年関西青い芝会連合会会長、1976年全国青い芝の会総連合会事務局長を務め、障害者自立生活運動の中心を担っていた人です。青い芝の会とは、70年代を中心に障害者が地域で暮らすための権利と保障を求めて運動を展開した団体です。1970年に神奈川県で障害のある子どもをその母親が殺した事件に対する減刑嘆願運動が起き、これに対し異議を唱えたことで有名です。
2 東日本大震災から今までのJDF障がい者支援センターふくしまの動き
2.1 4月の訪問(4/17-20)
古井正代さんは4月17日から20日、そして5月11日から28日まで福島を訪問しています。「青い芝の会」で当時一緒に活動した仲間である
福永年久さん
という方と共に福島を訪れたのでした。福島での訪問先は、「JDF被災地障がい者支援センターふくしま(以下、支援センター)」です。ここでは、かつて古井さん・福永さんと一緒に青い芝の運動を展開した
白石清春さん
という方が代表を務めておられます。支援センターは3月11日の地震発生後、1週間目にあたる18日に第1回の会合を持ち活動を始めました。その後、正式に事務所を構え4月6日に開所式を開いています。この間、事務所を立ち上げる作業と同時に、1)障害者の安否確認と被災状況の調査、2)障害者の避難先への物資搬入とニーズ調査、3)避難所への支援センターの周知とニーズ調査を実施してきました。古井さんの介助者として報告者が最初に訪問した4月中旬は、これら1)〜3)の作業が終わり、あらたに4)避難指示区域に住む障害者の避難手段と避難先の確保と紹介へと取り組み始めたタイミングでした。
福島において避難指示は表1のように数回にわたり発せられ、避難者の多くは避難所を転々としています。4月の訪問時は福島第一原子力発電所を中心に同心円状に避難指示がでていましたが、実際には地形によって放射線量の濃淡があり、新たに川俣町や飯館村が計画的避難指示を受けていました。そこで、支援センターは一次避難所にいる障害者への支援と同時に、新たな避難指示区域に住む障害者の避難手段と避難先の確保と紹介をしようと、川俣町や飯館村での活動を展開していました。
しかし、支援センターにいて繰り返し聞かれたのは「障害者がいない」という報告でした。当時200ヶ所を超える一次避難所(★4)を回り100人程度にしか出会えていません。支援センターで開かれた会議では、1)一次避難所の環境では暮らせないため自宅に戻っている、2)二次避難所(★5)に移る段階で個別化・個室化してしまい、その足取りを状況を把握しきれなくなっている、という二つの理由が挙げられていました(2011年4月19日のフィールドノート)。
2.2 5月の訪問(5/14-21青木、5/21-5/27権藤)
さて、1回目の訪問から1か月後、再び古井正代さんの介助者として報告者は福島に行きました。支援センターの近くにはビッグパレットというとても大きな一次避難所があります。ここは福祉避難所にも指定されているのですが、ある日、肩書きのある一人の仲間と訪問した際、ビッグパレットでの医療を担当している医師から新しい情報がもたらされたのです。この医師からの情報によりますと、ビッグパレットには一時、介助を必要とする障害者・高齢者が100名以上滞在していたのだそうです。そして、彼・彼女らの多くが現在、近隣市町村の大規模福祉施設に滞在しているということです。なぜならば、この医師自身が介助を必要とする障害者・高齢者を「より安全な」大規模福祉施設へと移送することを徹底した人だからでした。
この情報提供以後、支援センターの活動には、5)大規模福祉施設へ避難している障害者を訪問する活動が加わりました。とはいえ、実は訪問した大規模福祉施設で障害者に会うことはほとんどできなかったのですが。それは、「風邪が流行っているから会えない(5月15日のフィールドノート)」などの理由からです。
3 見えてきた障害者の流れ
一方で新聞記事からは、3月11日の震災後の障害者の動きが見えてきます。ここでは例として、福島県双葉郡富岡町にある社会福祉法人福島県福祉事業協会の施設「東洋学園」の動きを追ってみましょう。
東洋学園は福島県双葉郡富岡町にある知的障害者入所施設です。まず、地震発生翌日の12日、入所の児童・生徒と20〜50代の大人計250人がバスで避難し福島県双葉郡川内村にある同法人の施設に入っています。しかしその日のうちに政府の避難指示の範囲が広がったため、夜中に再び移動。一次避難所になっていた川内村の小学校の体育館に到着。しかし、突然の環境の変化に大きな声を出したり、落ち着きを失ったりする子どもが相次ぎ「一般の人と一緒の避難所は無理」と考え、13日には学園が所有する福島県田村市の通所施設に移ります(2011/3/29 朝日新聞)。
しかし、40人定員の施設に250人が避難したため様々な困難が生じ、29日の晩に23歳の男性がてんかんの発作を悪化させ死亡します(2011/6/16 毎日新聞)。4月7日には東洋学園の入所者95人が千葉県鴨川市の県立鴨川青年の家に移動。5日には同じ法人が運営する障害者支援施設「あぶくま更生園」の入所者ら114人、11日には同法人の別施設の入所者68人が、11日までに各施設の職員96人も鴨川市に移り、施設機能の大半を移転させることになりました(2011/4/7 東京新聞)。結局現在も、東洋学園を含む福島県福祉事業協会の7施設から知的障害者を中心に272人の避難者が、千葉県鴨川市の県立鴨川青年の家で過ごしています。5月14日には避難している児童生徒らの入学式・始業式が、旧市立江見中学校で行われ「新しいスタート(2011/5/14 千葉日報)」が切られているようです。一方で、この避難先で11歳の女児が事故死(2011/4/27 毎日新聞)してきます。
このような施設から施設への移送は、施設の管理者・職員が入所している障害者を守ろうとする取り組みから展開されました。東洋学園の職員やボランティア約50人の中には津波で家が流されたり身内が行方不明になったりした人もいながら、入所者の生活を維持するため、洗濯や掃除、物資の調達や薬集めに奮闘していたそうです(2011/3/29 朝日新聞)。「もう限界。あと1カ月も持たない」といわれる状況の中、福祉避難所として指定を受けた県外の大規模福祉施設で被災者を受け入れる動きが広がっていき、その結果、入所している障害者も「これで少しはほっとできる(2011/3/26 毎日新聞)」、「皆さんに勇気づけられ、元気になれます」と安堵の表情を浮かべ(2011/3/24 毎日新聞)たとのこと。受け入れる側の施設も、国が一部負担することになっている人件費や介助費用がどのように支払われることになるのかが明らかではないままに被災した障害者を受け入れています。「施設の復旧や原発被害の沈静化までは時間がかかる。十分なお世話をしたい(2011/3/24 毎日新聞)」と語り、このような取り組みが「双方の間に災害支援協定などはないものの、県と市レベルでの珍しい連携支援が展開されている(2011/3/31 カナコロ)」と評されています。
4 かつての運動家は何を語るか
では、このような状況を、かつて障害者自立生活運動を担い、何人もの障害者を大規模福祉施設から地域へと連れ出してきた運動家たちはどのように見ていたのでしょうか。4月当初、古井正代さんは一次避難所での生活の厳しさを目の当たりにし、次のような発言をしていました。
「それまで、まがりなりにも地域生活を送れてきた家族が、一時避難の避難所での「集団生活」の暮らしにくさから、被災した自宅へ戻らざるをえなくなり、「いっそ障害者を施設入所させたい」という声さえ上がる厳しい現状です。(2011年4月22日 福島を訪問した古井正代さんからのメッセージ)」
しかし、2度目の訪問でみえてきた現実は少し異なるものでした。支援センターのスタッフが自宅や避難所を訪問し支援の必要な障害者を捜し歩いている間に、厚生労働省・地方自治体・大規模福祉施設の間での連絡・調整は着々と進んでいました。そして、障害者の地域での生活を支えてきたCIL系の当事者団体には何の情報も入らないままに、一次避難所から大規模福祉施設という流れができていたのです。5月に入り避難所や施設を訪問してまわった古井さんは次のように語ります。
「(できるだけ安全なところへという)医師の思いが分からないでもありません。しかし、あえて指摘させてもらうならば、避難所にきてから施設に移送される過程において、現状では障害者の決定権が入り込む余地は無いと予想されます。私たち障害者は、30年以上ずっと脱施設化に向けて運動を展開してきました。今被災地で障害者がおかれている状況はどうでしょうか。このような災害が起こるたびに障害者は人権も何も無い状況に何度もおかれることになってしまいます。(2011年5月16日 福島を再び訪問した古井正代さんからのメッセージ)」
「障害のある避難者を受け入れている(いた)社会福祉施設数箇所を回ってきました。そこでは、福島県内の施設から他県の施設へ、障害者が一斉に避難させられている様子が浮かび上がってきました。
思えば、介助の必要な障害者は、小さな時から親元から離れた入所施設へ預けられ、成長に従って県内の僻地から僻地へとその暮らしの場を変えてきました。このことと、今回真っ先に他県へと集団で移送されたことを考えると、障害者には郷土愛など発生する余地など無いのではないかと思えてしまいます。いえ、郷土愛を唱える余裕も、それを持つ権利も、与えられていないのではないでしょうか。(2011年5月21日 福島を再び訪問した古井正代さんからのメッセージ)」
福祉避難所は、阪神大震災の際には存在しませんでした。95年の地震の際、高齢者や障害者の「災害関連死」が相次いだのを教訓に設置されることになったものです。しかし、「被災地障がい者支援センターふくしま」の活動を通して見えてきた現実とは、福祉避難所が介護の必要な高齢者・障害者だけを集めてひとところに隔離・収容する場所と化してしまっているということでした。
その後、大阪に戻った古井さんは被災地における障害者の支援を訴えてまわります。そのなかで福祉避難所をめぐる問題の背景には、「障害者は無能である」という価値観が社会に深く根を張っていること、そして被災地の障害者を支援しようとしている人たちが、まさに今その価値観を再生産していることを強く意識していきます。
「『障害者として自覚した当事者を育てるための救援活動』が必要なのです。このわずかの角度のずれは、そのまま突っ走ると、やがてはとんでもなく違った方向へ行くことにもなりかねません。とっても大切な時期なので、そして、今こそ障害者の当事者としての社会的存在意義をひときわ輝かせるべき時なので、あえてここで強調しておきたいと思います。[…]
私が以前に福島に白石さんの助っ人に入ったというと、障害者も健全者も口を揃えて「ええっ!!邪魔だったんじゃないの?」「行って何するの?」「足手まといにしかならないじゃないか?」という声がわきおこりました。そういう価値観・常識こそが障害者の主体性を圧殺し、健全者が必要で障害者は不要という社会意識を拡大再生産し続けていることに、はっきり気づくべきです。(20110722 被災地への障害当事者による支援とは?)」
今福島では、地域に出て暮らしていた障害者も、大規模福祉施設で暮らしていた障害者も、「安全」「安心」を旗印に施設での保護・隔離が正当化されています。このような状況で、一度は地域で暮らしながら施設へと戻った障害者が、再び主体性を取り戻し地域生活を始めるためには、古井さんのような障害女性本人が復興支援に携わり障害者を無力化する価値観と戦っていくことがなによりも重要なのです。
5 介助者として
ところで、今回古井さんが福島を訪問するのに際し、介助者を確保するのに大変苦労しました。とりわけ、2回目の訪問は3週間近くに及び、私一人ではカバーし切れませんでした。いろんな方面に声をかけて介助者を募りましたが集まりきらず、滞在期間の一部は古井さんの家族が介助に入りました。とりわけ印象的だったのは、あるメーリングリストに私が介助者の募集を流した際、その直後に「若い女性はボランティアとしても汚染地域へは入らないようにしたほうがいいと思いますよ(2011年5月7日に送信されたメール)」というメールが流されたことでした。また、実は最初に福島を訪問した際、古井さん自身が私に「ここ(郡山)も放射能高いらしいよ。青木さん大丈夫?まだこれから子ども生んだりするんやろ。(4月17日のフィールドノート)」とたずねています。訪問した施設では、古井さんの後ろにいる介助者である私に向かって「私は誰と話したらいいんですかね」「あなたはどなたですか?」という問いが投げかけられ、支援センターにおいても全国から集まったボランティアの人たちが主張する古井さんを見て「このおばさん誰!?」と露骨に怪訝な表情を見せていました。そして、12枚目のスライドでご紹介しましたように、古井さん自身が福島に滞在したことに関し、「行って何するの?」「足手まといにしかならない」と正面から堂々と批判されています。
東日本大震災は、災害が起きる前からあった問題を浮き彫りにする契機だといえるでしょう。福島で出会った多くの障害女性は、本来利用することができるはずの支援も受けず、なすべき主張もせず暮らしてきていました。今、原発や福島をめぐって発せられる多くの発言の背景には、女性とは子どもを産むものであり、またその生まれてくる子どもは障害者であってはならないという図式が存在しています。そして女性と障害者をめぐる暗黙裡の図式が、古井さんの復興支援に携わろうとする熱意を「足手まとい」「迷惑」とよび、介助者に障害のある子を産む覚悟を問う問いを発せさせています。私は、介助者として古井さんが受ける風当たりの強さを目の当たりにするにつけ、黙して語らずという選択が福島で暮らす障害女性たちの生存戦略のようにも思えたのでした。それは、当然ながら沈黙を支持するということではなく、それほどまでに障害女性を抑圧する構造が重いものであるということです。
かつて原子力発電所反対運動と障害者をめぐって、また中絶する権利と優生思想をめぐって、女性運動と障害者運動をまたがる議論があったと理解しています。そのような議論は、一体現在にどのような結論を引き継いできたのでしょうか。私の不勉強ゆえに存じ上げない点はご容赦いただきたいのですが、古井さんから私に投げかけられた問い、そして、障害女性運動家を支える介助者の不足に関し、本日会場にいらっしゃる皆様からご教示いただけることがありましたら教わって帰りたいと思っています。
6 引用文献
資料
古井正代 2011年4月22日 福島を訪問した古井正代さんからのメッセージ (最終アクセス日2011年7月23日)
http://www.arsvi.com/w/fm09.htm#02
古井正代 2011年5月16日 福島を再び訪問した古井正代さんからのメッセージ (最終アクセス日2011年7月23日)
http://www.arsvi.com/w/fm09.htm#03
古井正代 2011年5月21日 福島を再び訪問した古井正代さんからのメッセージ (最終アクセス日2011年7月23日)
http://www.arsvi.com/w/fm09.htm#05
古井正代 2011年7月22日 20110722 被災地への障害当事者による支援とは? (最終アクセス日2011年7月23日)
http://www.arsvi.com/w/fm09.htm#10
厚生労働省 2008 「福祉避難所設置・運営に関するガイドライン」
http://www.sago-octagon.com/menu02/images/hukusihinanjo.pdf (最終アクセス日2011年6月15日)
被災地障がい者支援センターふくしま 2011 「被災地障がい者支援センターふくしま」
http://www.arsvi.com/o/s-fukushima.htm
(最終アクセス日2011年7月23日)
新聞記事
「災害関連死/命を救う支援態勢を早く」『神戸新聞』(2011年3月19日社説)http://www.kobe-np.co.jp/shasetsu/0003877451.shtml
「東日本大地震:いわき市の知的障害者ら受け入れ、NPO法人「よろずやたきの会」/平塚」『神奈川新聞』(2011年3月24日)http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1103240051/
「東日本大震災:福島・いわきから知的障害者ら83人、駒ケ根で受け入れ /長野」『毎日新聞』(2011年3月24日)http://mainichi.jp/area/nagano/news/20110324ddlk20040012000c.html
「福島第1原発事故 南相馬から避難79人 茨城」『産経新聞』(2011年3月24日)http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110324-00000004-san-l08
「被災者を受け入れ 翔の会 生活のための募金活動も」『タウンニュース 芽ヶ崎版』(2011年3月/25) http://www.townnews.co.jp/0603/2011/03/25/99684.html
「避難先スタッフ奮闘」『朝日新聞』(2011年3月28日)http://mytown.asahi.com/gunma/news.php?k_id=10000001103280001
「知的障害の子ら200人、避難先転々 職員「もう限界」」『朝日新聞』(2011年3月/29)http://www.asahi.com/national/update/0328/TKY201103280096.html
「東日本大震災:県がいわき市をサポート、物資輸送や給水車派遣/神奈川」『カナコロ』(2011年3月31日)http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1103310015/
「避難転々 鴨川で新生活」『東京新聞』(2011年4月7日)http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/20110407/CK2011040702000054.html?ref=rank
「24時間態勢、職員に疲労感 山田の障害者施設」『岩手日報』(2011年4月8日)http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20110408_20
「震災と社会保障―支え合いを考える好機に」『朝日新聞』(2011年4月/17社説)
「福島第1原発:11歳避難女児が水死 千葉・鴨川」『毎日新聞』(2011年4月27日)http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110428k0000m040053000c.html
「福島の障害児ら新たな一歩 旧江見中で入学・始業式 鴨川」『千葉日報』(2011年5月14日)http://www.chibanippo.co.jp/news/chiba/local_kiji.php?i=nesp1305351235
「東日本大震災:知的障害者、相次ぐ急死…避難先で発作など」『毎日新聞』(2011年6月16日)http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110617k0000m040096000c.html
7 注釈
★1 福祉避難所とは、二次避難所の一つとして位置づけられる。高齢者、障害者、妊産婦、乳幼児、病者等、一般的な避難所では生活に支障を来たす人たちのために、何らかの特別な配慮がされた避難所(厚生労働省, 2008)。バリアフリー化された施設や学校を自治体が指定する。
★2 「被災地障がい者支援センターふくしま」
http://www.arsvi.com/o/s-fukushima.htm
★3 「東日本大震災 障害者関連報道」
http://www.arsvi.com/d/d10201105p.htm
★4 一次避難所としては、学校や体育館など公共施設が指定される。参考資料として一次避難所での障害者個別実態把握状況を示す資料を準備した。同じ内容が
http://www.arsvi.com/o/s-fukushima.htm#07
に掲載されている。
★5 二次避難所としては、福島県内・県外に所在する旅館や公務員宿舎、民間空き住宅などがあてられた。
*作成:
青木 千帆子
UP:20110921 REV:
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災害と障害者・病者:東日本大震災
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