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他方の「革新」の側はどうか。[…]一つ、生きることは権利であると言う。それ以外のことを言う必要もないのだが、しかし自らの実感としても、また戦略としても、悲しい物語を語ることは多く、ここはそう大きくは変わらない。家族がまず負担を負うのが当然という主張は当然にここでは弱くなるが、ここでも、まず家族が負担を負い、それが大変なので政治に要求するという道筋はさほど変わらない。そして一つ、病気なら当然だが、医療を求める。自らや子どもが辛いのはまったくの現実だが、それは社会の理解を得て政治の力を引きだすためにも必要だ。また一つ、施設についてはそこを出されても生活できる見込みがないなら、護られるべきものとされる。労働者の組合もまた自らの職場を護ろうとする。
とすると大きな違いはないとも言える。これは、例えば軍事・外交について政治的な立場が左右で大きく異なり、容易に合致しないのと異なる。「医療・福祉」となれば、「より多く」という点で一致するのである。ただ、それでも、今でもそうだが、「政治」の話が嫌われ避けられることは多くある。嫌う人もたいがいの場合は十分に政治的なのだが、「(医療と福祉を)より多く」以外の政治的な主題とセットにされ、その全体を支持することが求められたりすることについて、さらに選挙に動員されたりすることについて、不快や警戒は生じる。そうして煙たがれるのはセットにする側もわかるから、ときにはセットにすることの正当性を主張することもあるが、他の多くの場合には遠慮したりその強さを加減することになる。
七一年に「特定疾患対策実施要綱」が発表され七二年から実施されたのだが、その年の四月「全国難病団体連絡協議会(全難連)」が結成される。他方、「日本患者・家族団体協議会(日患協、JPC)」は八六年六月結成。「結成宣言」には「社会保障の充実と民主主義の発達、そして何よりも平和」といった言葉がある[…]。少し薄められてはいるが、共産党的な言葉使いの組織ではあった。これには全国腎臓病患者連絡協議会(全腎協)など三一団体が加盟した。このJPC結成の時、全難連との合流がいったん実現しかけたが、結局流れたことがあった。全腎協の小林孟史はこの時に全難連の二人の代表の一人だったが、解任された。そのように捉えることができるのかどうか、もう一人の代表はあせび会の佐藤エミ子だったが、その著書(佐藤[1985])にも何も出てこないし、知っている可能性のある伊藤たてお(元JPA代表理事他)も葛城貞三の問い合せにわからないとしているのだが(葛城[2019【:40-41,44】])、当時の全難連側が政治色、むしろ政党色を嫌ってのことであった可能性はあると思う。JPCと全難連が合併、新たな患者団体「日本難病・疾病団体協議会(JPA)」になるのは、そのだいぶ後、二〇〇五年五月になる[…]☆14。
この狭義の「政治」を巡る配置は何をもたらしたか。障害児教育を巡る対立があったことは知られており、書かれたものもある。それは今述べてきたAとB二つの流れの間ではなく、「発達保障」を掲げ政党としては共産党を支持した側Aと、左派ではあるがその党と対立した側Cとの争いである。それは恐らく、この後のできごとのある部分にいくらか関わってはいると考える。ただ、Cの動きについては別のところで書いてもいる☆15。本書で確認されるのはむしろ、医療・医学・看護等に関わり、革新の側から、正義の側から発した人も、そしてその志を継続させた人も、その位置取りによって、体制を作り護る役割を果たしたことである。(『病者障害者の戦後――生政治史点描』、二一〇-二一七頁)