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『しかし、誰が、どのように、分配してきたのか――同和政策・地域有力者・都市大阪』(洛北出版)は
http://www.arsvi.com/b2010/1603yr.htm
矢野亮(現在は日本福祉大学教員)
http://www.arsvi.com/w/yr02.htm
の、下に出てくる博士論文が本になったもの。
山本崇記(現在は静岡大学教員)は
http://www.arsvi.com/w/yt02.htm
『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』
http://www.arsvi.com/b2010/1603rcav.htm
補章の「3穴があいているので埋める・塊を作る」より「代行者に権限が行く場合」。
フェイスブック上のこの文章と同じ文章は
http://www.arsvi.com/ts/20162192.htm
「■代行者に権限が行く場合
差異について、名乗ること、名乗らねばならないこと、このことと保障すること補償することとは大きく関わる。それが気にいらないなら無条件にというのでよいように思われる。しかしそれでは結局差異に対応できないというのが一つの問題だ。このことを述べた。
その問題が差別への対応の場面で生ずる。その博士論文(矢野[2015])において矢野亮が丹念に行ったその記述から見えてくるのは、それを巡る争い、問題の難しさでもある。また山本崇記の博士論文(山本[2009])他の仕事もそのような方向に読んでいくことができる。
ここまで種々の研究に隙間が開いていること、穴が開いていることを述べてきたのだが、部落差別に関わる領域については例外的に研究が厚く蓄積されてきた。完全な素人である私に言えることはほとんどない。ただ、前項に述べたことに関係する問題があること、現に生じていることは言える。
差別を解消しようと言う。すると普通は誰が被差別者かその特定から始まることになる。しかし、部落差別は名指されることにおいて現れてくるようなできごとでもある。すると誰が被差別者だと誰が決めるか。個別に指定することが問題であれば、被差別者側に委託し、そこが代表して受け取り、それを分けるというやり方は合理的な方法ではある。というか他のやり方をなかなか思いつかない。するとそこには権限が生じるし、権益が発生する。それは「取り合い」の世界にもなる。それは好ましくない結果も生じさせうる。その実際のところを知り、ではどのように考えるかという課題がある。
一つだけのものを記述する。その場において様々な力が働いてる。たんに今まで気づかなかったり、語る人がいなかったり、あるいは作為があり利害が働いて、見えなくなっている部分がある。それで取り出して丹念に記述する。それはそれとして意味がある。それを十分に書けたらそれだけでよいとも思う。しかしそれはただ特殊なことであるのか。そうではないはずだ。すくなくともそれだけではないことがある。個別の複雑なできごとをなにかの筋で捉えることもできる。それは実は多く基本的な問題に接合する。事件の記述が、ごく基本的な問題を考えさせてることにつながる。いろいろな人の仕事を見ているとそのように感じることがある。」