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横手興生病院ロボトミー糾弾(1974-)

精神障害/精神医療精神外科:ロボトミー


◆1936 A(藤井松吉――佐藤[1982(3)における仮名)、秋田県平鹿郡雄物川町に農家の12兄弟の8番目の6男として生まれる。(佐藤[1982(3):213])→16歳の時に兄を頼って上京→19歳の時に帰郷

◆1954 杉田病院開設(秋田県横手市)(杉田孝院長)(佐藤[1982(3):213])

◆1956 医療法人の資格を得て、横手興生病院とする(杉田孝院長)「ベッド数四百を越える、県下では有数の精神科単科病院である泊杉田はいまも院長を続ける傍ら、温泉旅館、本屋などを経営している。広大な田畑を所有し、<0213<「入院患者だった人間を、安い賃金で使っている」との噂も、横手周辺には流れている。(佐藤[1982(3):213-214])

◆1957/09 横手駅前に高橋耳鼻科医院がある。耳を患って、二十一歳の時診療を受けた藤井は、「たいしたことはないが、神経からきているのだろう」
 と、診断された。
「神経の痛いなら興生病院へ行けばよいだろう。あそこは神経病の治療をしているそうだ」と、五七年九月、同院外来を訪れた。」(佐藤[1982(3):213])

◆1957/10/03 A、横手興生病院入院(佐藤[1982(3):216])

◆1957/10/03-25 A、10日にわたって電気ショック(佐藤[1982(3):218])

◆1957/10/28 長兄名で「手術同意書」(信憑性が疑われる)(佐藤[1982(3):219])

◆1957/12/13 Aにロボトミー手術施行(佐藤[1982(3):217])
 「執刀医は、小林久夫だった。岩手医科大学を五三年に卒業後、同大精神科医局に籍を置き、月二、三回、興生病院に通っていた。医大を卒業してわずか三年目の医師に、藤井は施術されていたのだ。興生病院には他にも十名を越える被術者がいる。藤井以外の者にもメスをふるっていたのに違いない。
 小林は、岩手医大精神科医局で、”脳の生化学的研究”を手がけていた。「精神分裂病者新鮮脳より得た核蛋白及び核酸の抗原抗体反応」「精神分裂病脳およびその抽出粗製核蛋白のラッチ副腎皮質に及ぼす影響」などの研究報告が、五〇年代末の『精神神経学雑誌』に掲載されている。ロボトミー被術者や殺人死体から抽出した脳組織を、ラットや家兎に注入。反応を調べたと、得意げに記したレポートである。小林は現在、静岡県南伊豆にあ る南伊豆病隆(精神科、歯科)の院長をしている。」(佐藤[1982(3):219])

◆1958/02/01 A、横手興生病院退院(佐藤[1982(3):216])

◆1966 A、横浜港の登録日雇港湾労働者として働き始める(佐藤[1982(3):])

◆1971 A、生活保護を受給 「真面目によく働いていたが、一〜二年経つうちに事故はめだって多くなった。体力の衰えは、六六年に来た当時と比べものにならなかった。ついに過酷な港湾労働についていけなくなり、七一年、生活保護を受げるのだが、その過程で、彼の通院していた精神病院医師、ケースワーカーは、ロボトミーの疑いをいだいた。ちょうどその頃、東大の石川清医師は、「ロボトミー人体実験」を学会で告発していた。ロボトミーに対する関心は高まりつつあった。頭痛、不眠、緩慢な行動、反射能力の減弱など藤井の状態は、施術の後遺症とも考えられた。だが、当の藤井はなんの反応も示さず、いったんもちあがった疑いは立ち消えた。」(佐藤[1982(3):214])

◆1973 「二年後の七三年、札幌ロボトミー訴訟裁判開始。つづいて、名古屋でも提訴。日本精神神経学会のロボトミー人体実験糾弾決議と、ロボトミー批判が相ついでなされるなかで、港で働く仲間たちは、あらためて藤井に眼を向けばじめた。[…]
 全日本港湾労働組合関東地方横浜支部、京浜港運分会――横浜港で働く港湾労働者の組合である(正式名称は長く「全港湾横浜分会」と呼ばれているが、ここではさらに略して「分会」と記す)。藤井は当初から分会に加入していた。分会の役員を中心に、横手にも出向いてなおも調査を進めていぐうちに、藤井はかつて、横手の精神病院へ入院していたのがあきらかにされた。」(佐藤[1982(3):214])
 cf.全日本港湾労働組合 http://zenkowan.org/
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B8%AF%E6%B9%BE%E5%8A%B4%E5%83%8D%E7%B5%84%E5%90%88

◆1974/07  A支会(準)結成(横手興生病院ロボトミー糾弾)

 「伊藤 私はAさんの問題からロボトミー糾弾闘争に参加するようになったのですが、ロボトミー裁判が社会的に問題になったのは昭和四十八年の札幌北全病院事件(『創』八二年二月号参照)で、非常にセンセーショナル甫な事件でした。病院を脱走してきた人が不当な扱いを訴えるとともに、ロボトミー手術をやられたと。手術後半年もたたないうちに裁判になった。
 当時、ちょうど精神神経学会を中心に、人体実験に対する批判がなされていたし、続いて四十八年暮に名古屋で裁判が行われた。Aさんはそうしたマスコミの報道を知って、自分が受けた脳の手術がロボトミーではなかったかと思うようになったんです。
 私どもの運動がお医者さんが中心の札幌訴訟、名古屋訴訟と違う点は、Aさんを仲間とする労働組合が訴訟に取り組んでいることです。医師レベルで問題になっていたことが、社会的広がりを持った運動となっていく一端を担ったのではないかど思っています。ロボトミーが行われていること自体、さらに精神治療の名の下に精神病院に何年間も拘禁することが合法化されていることに非常に驚きを持ったというのが運動に関わった当時の率直な感想です。このような医療体制に対して闘っていかなきゃいけない、ということで運動を始めたんです。
 Aさんの裁判は、日本で初めての医療内容<0218<を問う裁判ではないか、とぼくは思っているんです。医療ミスを問う裁判はいろいろありますし、医療処置が良かったのか悪かづたのかの争いもありますが、私どもがやっているのは、精神外科は治療ではないのだ、医療ではないのだ、ということを何とか国に認めさせることです。」(青木他[1982:218-219]、伊藤彰信ロ全協議長))

◆1975? 「藤井は施術されていたのか否か。その解明とロボトミーの糾弾をめざして、分会役員が呼びかけ人になって、「ロボトミーを糾弾し、Aさんを支援する会」(以下「A会」と記す)が結成された。東京、横浜在中の精神科医、弁護士にも支援を求めた。施術にまつわる疑問を解きほぐすには、横手興生病院に直接当る必要がある。
 手始めに、横手簡裁に証拠保存の申請をした。もし入院当時のカルテでもあれば、疑問はいっきょ氷解し、ロボトミー廃絶に向けて、新たな闘争が展開される。七五年十一月十四日、申請は受理され、早速、差押えにかかった。おびただしい記録の山の中に、藤井のカルテ、看護日誌などが潜んでいた。」(佐藤[1982(3):215])

◆1975/11/14 「五年十一月十四日、申請は受理され、早速、差押えにかかった。おびただしい記録の山の申に、藤井のカルテ、看護日誌などが潜んでいた。」(佐藤[1982(3):215])

◆1976/02/26 自主交渉(佐藤[1982(3):220])

◆1976/03/27 第2回自主交渉(佐藤[1982(3):223])

◆1976/04/12 「A会は、次回交渉日時・場所を設定、四月二十日までに連絡するよう四月十二日、杉田に催告。」(佐藤[1982(3):224])

◆1976/04/14 「二日後、川端、天坂名の「回答書」が長谷川弁護士の元に送られてきた。
「横手興生病院と藤井松吉氏ならびに、同氏を支持する会との間のロボトミー手術に関するいわゆる『自主交渉』については、当院としては今後右交渉に応じる意志はありません。
 つまるところ、本件は損害賠償の請求に関する法律上の問題でありますから、右賠償の請求については、当院としてすべて法廷の場で意思表明をしたいと考えておりますので念の先め申し添えます」(佐藤[1982(3):224])

◆1976/08/17 「八月十七日から十日間、藤井と佐々間は病院前でハンストを実施。自主交渉を要求したが、病院側は応じないばかりか、警察に通報。ハンスト闘争に加った支援グループの一人は逮捕された。」(佐藤[1982(3):224])

◆1977/05/27 「七七年五月二十七日、国、横手興生病院、杉田孝、小林久男に対する提訴状は、東京地裁に提出された。国を直接被告とする、全国初のロボトミー訴訟である。国を被告に加えた理由を、原告代理人の一人である有賀信男に弁護士は、こう話す。
「一口でいえぱ、国の責任を追及せずに、真にロボトミーを糾弾することはできないからです。支援の人たちだけではなく、精神外科医療に反対する人たちは、ほとんど同じ意見でしょう。厚生省は治療指針でロボトミーを認めているのはご存知の通りですが、かかる処置、ならびにロボトミーは、医師法や憲法にも反する疑いがあるのです」」(佐藤[1982(3):224])

◆1979/10/25 『ロボトミー徹底糾弾』第1号

 1979/09/30 ロ全共結成大会 於:南部労政会館
 ロ全共結成大会によせられたアピール

ロボトミー被術者の会(準)発起人A氏
連絡先 東京都葛飾区高砂三−二六−一六
     浅利 肖基方
TEL **−****−****
    (夜十時すぎ)
私の訴えたいこと
 すべてのみなさん!
一九五七(昭和三二年、今から二十数年前、私は、ロボトミーされた被害者です。)
ロボトミーされたことを知ったのは、今から数年前のことでそれまで知らなかった。
何でもない体に、手術を受けてから、10数年苦しんできた。ロボトミーされてから、体が悪くなった。ロボトミーされたとも知らずに生きてきた。その後ロボトミーということがわかった。
 ロボトミー手術される前は、働くことができた。出稼ぎの仕事して、実家にかえり、またあちこち出稼ぎにいった。
 いま、国を相手どって裁判している。厚生省と今、斗っている。しかし、働けないので生活保護を受け、生活は苦しい。働きたくて、働けない体になってしまった。
 厚生省は、この責任をどうとるのか、はっきり答えてもらいたい。
 私の他にもロボトミーされた人は、日本にいっぱいいる。裁判の時効がすぎてしまって、裁判もできない人もいっぱいいる。日本の全国のロボトミー被害者は、「ロボトミー被術者の会」に参加して下さい!
 ロボトミー被術者の会(準備会)
 発起人  A氏」

◆ロボトミー糾弾全国共闘会議(ロ全共) 1980/08/01 『ロボトミー徹底糾弾』第6号

6・29ロボトミー糾弾秋田集会開かれる
―午前にはロ全共幹事会―
 Aさんがロボトミー糾弾に立ち上がって、早七年が過ぎた。秋田におけるロボトミー糾弾斗争は、斗う労働者・学生の支援を受けながら続けられている。Aさんの斗いは、現在東京地裁における裁判斗争にその重点がおかれている。この秋田集会が、弘前の地において今年二月、国・病院を相手取ってロボトミー糾弾裁判に立ち上がったSさん・S支会を初めとする五十余名にのぼる参加によってから取られたことは、今後のロボトミー斗争の広がりを示しているだろう。
 集会は、A支会と秋大医問研の共催により開かれた。東北精神科医師連合の壇原氏の講演では、精神外科の歴史、精神外科が人間性を奪い去るものであり廃止されねばならぬこと、最近では精神外科手術が巧妙になってきていること等、Aさんと共に斗い、さらに斗いの輪を広げていかねばならないと、述べられた。次に、秋大医問研より基調報告がなされ、ロボトミー斗争の現状、ロボトミーの思想性・人体実験的性格をふまえて、ロボトミー糾弾斗争を、差別糾弾・治安管理体制粉砕の斗いと位置づけ、権力そのものと対峠する斗いとして斗いぬかねばならないとの力強い報告であった。その後、AさんSさんからの決意表明、A支会・S支会・秋田青い芝の会、秋大教育問題研究会、秋大医問研・ロ全共など各団体からの連帯アピールがあり、成功に集会がかちとられた。
 同日、午前中には、ロ全共幹事会が開かれた。Aさん・Sさん・A支会・S支会・秋大医問研・秋田の斗う労働者・ロ全共事務局等20数名の参加があった。事務局から、ロ全共第二回大会に向けた活動報告・情勢・運動方針などの草案が提案され、活発な討論がかわされた。S支会からは、Sさんの第一回公判決起集会で、全障連東北Bとの交流がかちとられ、今後も精神障害者解放運動を中心にして、ロボトミー糾弾斗争を斗っていきたいとの発言があった。またA支会からは、裁判斗争が証人尋問に入る段階であり、国批判を文章化していきたいとの報告があった。さらに『精神病者』表現についての問題が出され、治る治らないという観点で考えることは危険であり、「精神病」が社会的に作られたものであることを考えれば、「精神障害者」という表現に訂正・統一すべきであるとなった。
 今年度のロ全共運動は、裁判提訴の限界の時期であることを考えれば、被術者結合をもとに、厚生省斗争・学会斗争へさらに一歩踏み出すことが必要であるとの発言があった。これに対し、議長から、具体的に、Mさんの斗い、桜庭さんの斗いを強化していき、大衆斗争としてロボトミー糾弾斗争を盛りあげていく必要性が述べられた。討論の後、基本的には、事務局原案が認められ、幹事会は終わった。」

◆1982

 「来たる5月で、提訴以来満5年経過する。この間、幾度か準備書面が取り交されてきたが、本格的な審理は進められていない。被告側が、時効を申立てているからにほかならない。損害賠償請求は原因発生後20年、もしくは、原因を知って3年間で、時効は成立するという一般的な主張をしているのである。藤井が施術されたのは、57年12月、したがって「20年」の時効にはかからないから、提訴の3年前には知っていたのではないかといわないばかりだ。責任回避ともみられるいいがかりの一種である。
 40年代から50年代にかけて、ロボトミーは最も盛んにおこなわれていた。彼らは、時効の壁によって、法的な救済をもすでに受けられなくなっている。次回レポートする「弘前病院事件」にしても、時効寸前の提訴であった。この事件でもそうだが、今後裁判がどう展開するにせよ、多くの支援者が被術者の将来を気遣い、ロボトミー糾弾闘争に立ち上らなかったならば、彼らもまた時効の壁の外へ追いやられていたであろう。
(文中敬称略、被術者と家族は仮名)」(佐藤[1982(3):225]、文章の最後)

■言及

 「佐藤 これまで本誌で「ロボトミー事件」(訴訟)をレポートしてきましたが、裁判は、原告の被術者や家族はもとより、支援活動家、弁護士、精神外科に反対する精神科医を中心に多くの人たちによって支えられています。しかし、そのあたりの問題に十分ふれられなかったこともあって、本日お集まりいただきました。
 ロボトミー訴訟は被術者や家族に対する法的救済だけではなく、精神外科の廃絶、現在非常に問題になっている保安処分、その前提としての精神衛生法など、いわゆる行政の問題を含んでいます。それらが根底にあるからこそ、ロボトミー訴訟は非常に盛り上がりを見せていると思うんです。
 有賀先生はいま横手興生病院のAさんの訴訟(『創』八二年五月号参照)を手がけていらっしゃいますが、ロボトミー訴訟はほかの医療<0216<訴訟に比べて大きな違いはあるでしょうか。
 有賀 私は一般的な医療訴訟はまだ余り経験してないものですから比較するのは難しいのですが、共通しているのは、我々が医療について全くの素人だという点だと思います。
どの事件もそうなんですが、特に医療訴訟では誰によらず弁護士は専門知識が全くないものですから、まずその勉強をしていかなきゃならない。どうしても医師の方々の御協力がないとやっていけないんです。
 それにしても、一般的な医療過誤の場合ほ、その医療を行う前提となるケガなり疾病なりがわりあい認識しやすい。それに、治療の緊急性といった問題も比較的わかりやすい。ところが、ロボトミー等の問題になると、そのあたりがどうも了解できない。だから精神医療とは何かという、非常にベーシックなところからスタートしなくてはならないということがあります。
 佐藤 その辺のことが、裁判の中では時効という形で出てきてますね。「患者」の側は、違法の治療を受けたのがわからないで、時が経っていく。
 有賀 そうですね。すぐには結びつかないと思うんですが、後遺症なり因果関係なりがつかみにくいために、提訴が遅れるということはあると思います。今回のA氏(横手興生病院で一九五七年にロボトミーされた被害者)の事件も非常に古いわけで、治療から二十年近くたってから裁判沙汰になるというのは、他の医療訴訟では例がないわけではないでしょうが、少ないでしょうね。
 青木 治療の緊急性、つまり何故施術した.かということでほ、名古屋、北海道でもそうですし、Aさんの場合も同じですが、絶えず収容している側、入院させている側の管理上の理由、つまり、病院内で反抗するとか社会を手こずらせるといった「患者」が精神外科の対象にされ、施術の理由として出てきていると思うんです。元来、精神医療は、社会治安というひとつの役割を政治的に担わされてきたのですが、その治安主義の申し子として重要な性格を持っているのが精神外科です。」(青木他[1982:216-217])

■文献

佐藤 友之 19820501 「横手興生病院事件――侵犯 第2部 ロボトミーはいかに裁かれたか・3」,『創』1982-5:212-225
◆青木 薫久・有賀 信男・伊藤 彰信・佐藤 友之 19820801 「管理・隔離思想との闘い――侵犯 口ボトミーはいかに裁かれたか」,『創』1982-8・9:216-229
◆立岩 真也 2011/11/01 「社会派の行き先・13――連載 72」,『現代思想』39-(2011-11): 資料
◆立岩 真也 2013 『造反有理――身体の現代・1:精神医療改革/批判』(仮),青土社 ※


UP:20110809 REV:20111008, 12
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