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『福祉と正義』
アマルティア・セン/後藤 玲子 20081219 東京大学出版会,ix+299p+viii.
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アマルティア・セン
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後藤 玲子
20081219 『福祉と正義』 東京大学出版会, ix+299p+viii. ISBN-10: 4130101102 ISBN-13: 978-4130101103 ¥2940(税込)
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・後藤玲子,20081219,「アマルティア・セン――近代経済学の革命家」アマルティア・セン/後藤玲子『福祉と正義』東京大学出版会,1-27.
・アマルティア・セン,20081219,後藤玲子訳「民主主義と社会的正義――公共的理性の到達点」アマルティア・セン/後藤玲子『福祉と正義』東京大学出版会,31-57.
・後藤玲子,20081219,「<自由への権利>再考」アマルティア・セン/後藤玲子『福祉と正義』東京大学出版会,59-88.
・アマルティア・セン,20081219,
小林勇人
訳「帰結的評価と実践理性」アマルティア・セン/後藤玲子『福祉と正義』東京大学出版会,91-133.
・後藤玲子,20081219,「正義と公共的相互性――公的扶助の根拠」アマルティア・セン/後藤玲子『福祉と正義』東京大学出版会,135-66.
・アマルティア・セン,20081219,
岡敬之助
訳「開かれた不偏性と閉ざされた不偏性」アマルティア・セン/後藤 玲子『福祉と正義』東京大学出版会,169-210.
・後藤玲子,20081219,「ローカル正義・グローバル正義・世代間正義」アマルティア・セン/後藤 玲子『福祉と正義』東京大学出版会,211-61.
・後藤玲子,20081219,「福祉と正義」アマルティア・セン/後藤 玲子『福祉と正義』東京大学出版会,263-96.
■内容(「BOOK」データベースより)
本書は経済学の落とし子です。ただし、福祉はひとの善き在りよう(well‐being)の実現を希求し、正義はその実現のあり方を問います。福祉と正義は、エコノミック・シンキング(経済学的思考)のさらなる展開と、その細心かつ大胆な転回を要求するでしょう。
■目次
序章 アマルティア・セン――近代経済学の革命家
一 はじめに
二 近代経済学における位置
三 近代経済学の革新と保守
四 経済と経済学に対する基本的認識
五 「合理性」概念再考
六 自由再考
七 潜在能力アプローチ
八 近代経済学からの批判に応えて
I 個人の権利と公共性
第一章 民主主義と社会的正義――公共的理性の到達点
一 民主主義的概念
二 民主主義的優先性と基本的権利
三 認識と権利の実現
四 実現、認知そして制度
五 完全な義務と不完全な義務
六 実行可能性・実現・認知
七 社会的選択と公共的理性
八 政治・公共的理性・歴史
九 多元的伝統と西洋以外の世界
一〇 結論的覚え書き
第二章 <自由への権利>再考
一 アマルティア・センの<整除的な目標=権利システム>の構想
はじめに/社会的目標と権利に関する従来の代表的理論/リベラル・パラドックスの問いかけ/政治的リベラリズムの基本的視座/政治的自由への権利の実行領域/公共的関心の形成に関する理念型とその現実化の試み/結びに代えて
二 実質的自由の内的連関とその制度化について
はじめに/福祉的自由と潜在能力アプローチ/選択と責任と援助/権利としての自由
II 正義の条件――義務と相互性
第三章 帰結的評価と実践理性
一 帰結的評価と帰結から独立した義務論
二 一般的な帰結主義と特殊な帰結主義的体系
三 責任と状況づけられた評価
四 非完備性と最大化
五 状態、行為、動機、過程
六 権利と義務
七 人権と不完全義務
八 帰結的評価と相互依存
九 結論
第四章 正義と公共的相互性――公的扶助の根拠
一 序
二 日本の公的扶助制度――原理と実践的問題
三 市場の内と外での福祉――潜在能力アプローチに基づく考察
四 複層的公的扶助システムの構想
五 公的相互性の概念
六 結びに代えて
III 正義の位相
第五章 開かれた不偏性と閉ざされた不偏性
一 主な課題
二 アダム・スミスと不偏的な観察者
三 ロールズのスミス解釈
四 開かれた不偏性とロールズの推論
五 手続き的偏狭さ
六 包括的矛盾と焦点集団の可塑性
七 排他的無視と全地球的な正義
八 結語に代えて
第六章 ローカル正義・グローバル正義・世代間正義
一 はじめに
二 基本的視座――ロールズ対セン
三 社会の正義原理ろローカル正義
四 グローバル正義
五 ロールズ−センのグローバル正義構想
六 「世代」概念と世代間正義の射程
七 政治的観念としての世代
八 基本モデルとその拡張
九 ロールズ的世代間正義の原理
一〇 世代間調整ルールの制定・改定手続き
一一 ロールズの「相互性」概念
一二 結びに代えて
終章 福祉と正義
一 はじめに
二 ロールズ格差原理の制定と不確実性下での合理的選択問題
三 ロールズ格差原理の経済学的定式化
四 ロールズ格差原理の方法的視座
五 潜在能力理論の方法的視座
六 結びに代えて
あとがき
索引(人名・事項)
■メモ
序章
「内的一貫性を越えて人の推論や合理性を理解するためには、本人が受容する外的な諸目的や諸価値との対応関係を見る必要がでてくる。また、個人のより実質的な自由を考慮するためには、本人の選好や利益の成り立ちや性質を直接精査するアプローチが必要になってくる。いずれにしても、定式化されたモデルの内的完結性を打ち破る外的視点の導入が避けられない。・・・。だが、この外的視点の導入こそは、近代経済学が一貫して回避しようと努めてきたことだった。センの経済学の革命性は、ひとことで言えば、経済学理論の中に、この外的視点を奪回する試みに看取される。」(4)
「近代経済学は、生存ぎりぎりのラインを越えて「本人が価値をおく理由のある生」を保障することは、人々の勤労意欲を低め、福祉依存を強めることにつながらないだろうかと懸念する。それに対して、センは、同じく『自由と経済開発』(一九九九年)のなかで、こう主張する。確かに、潜在能力の保障に関して、政策意図を裏切る帰結の可能性は残るだろう。だが、それはむしろ個人が動かざる受動体(motionless patients)ではなく主体的な行為者であることの証左に他ならない。>>24>>/自由の保障の目標は、個人の主体的な活動性の回復にあるが、個人の選択行動が選択の状況やメニュー、目的や価値、他者との関係などに応じて多様な展開を遂げるものであるとすれば、政策意図とずれがでるのはむしろ自然ではないか。たとえずれがでたとしても、個人が、自己や他者との対話の中で「本人が価値をおく理由のある生」を見出したとすれば、自由の保障は確かな成果をもたらしたといえるのではないか。」(24-5)
第一章
・民主主義の二つの見解
「公共的投票パースペクティブ」:「民主主義を主に多数決ルールとして解釈し、投票する自由と集計方法の公正さにもっぱら関心を向ける見解」
「公共的理性パースペクティブ」:「民主主義を主に相互行為的参加と公共的討議の機会の観点から眺める見解」
「「公共的投票」のパースペクティブの具体的プロセスが、どのような役割をはたし、どこまで到達することができるかは、民主主義の「公共的理性」的側面の進み具合に依存すると考えられる。」(32)
・権利への批判
「批判の中には、主として経済的社会的権利を標的とした「制度化批判」と呼ばれるものがある。制度化批判は、権利と、厳密に定式された対応義務とが正確な対応関係をもつことを要求する議論と関連している。法理論では、権利と義務は通常、相互的な関係で結ばれている。」(36)
「もし人々が餓死しない権利、医療処置に対する権利をもつとしたら、それらを充足することは誰の義務となるのか(国家か公共か隣人か世界共同体か)。当為(義務)がかくも曖昧だとしたら、権利の実現は望めないではないかと懸念される。」(37)
「はたして、制度化される以前にも権利は存在することを主張し、それを必要な制度を設立する動きへとつなげていくためには、どうしたらよいのだろうか。」(38)
・カントの区別:当為や義務は「完全」でも「不完全」でもありうる
「完全な義務」:「誰が何をなすかが正確に特定化された行為」
「不完全な義務」:「権利の充足のために人々が適切な援助を提供するという一般的な――そしておそらく非厳密な――形をとる当為」
(「不完全な義務」は「完全な義務」を補完)
★「「第二世代」権利それ自体を認めることの重要性は、たとえ直ちにそれを実現する制度システムをもたないとしても、いささかも減ずることはない。ある種の社会的要求に権利としての地位を与えることは、これらの要求が効果的な援助を得られるように促すこと、すなわち、承認された権利を実現するための制度改革など、社会的変化がもたらされるように、関心ある人々が不完全義務の遂行を通じて国家や社会に影響を及ぼすことを意味する。」(39)
「相互依存的社会においては、人々は、他者の権利を充足するために、どのような助けをすることが適切かを考える一般的な義務をもつ。彼らは直接的な援助ができるかもしれない、あるいは間接的な援助ができるかもしれない(たとえば、必要な制度的社会的変化の促進を通じて)。いま実行不可能な権利を、可能な限り実行可能にするための働きかけは、責任ある社会的行動に関連した不完全義務概念の一つの大事な構成要素に他ならない。」(42)
・民主主義の二つの見解が民主主義の歴史の読み方に大きな意味をもつ
「紀元前五世紀アテネでの多数決原理以来、民主主義の「歴史」と考えられているもの」VS「西洋の経験だけに特別の関心を向けることとの対照」
「民主主義の性質に関する現代の概念的・イデオロギー的な精査、すなわち投票以外にはあまり関心を払わないこと」VS「公共的理性とそれを支え励ます政治的組織により多くの関心を払うこと」
・二つの検討課題:「第一は、古代ギリシャは「西洋的伝統」の一部であるというように、地理的相関をもって世界を離散的な文明に分断することの問題性である。第二は、投票や選挙以外の民主主義の構成要素、たとえば多元主義や寛容の役割を軽視することの問題性である。」
第二章
「個人の関心が多層的であり、問題に応じて採用すべき基準も変化するとしたら、民主主義のプロセスは個々人がそれぞれの文脈で何を公共的にカウントされるべき自己の判断として用意しているか、それこそを捉えなくてはならないことになる。」(80)
第三章
「どの観点から評価はなされるべきか。状況づけられた評価の要求が要請するのは、ひとは自分が選>>100>>択を行っている特定の立場を無視すべきではないということだ。」(100-1)
「したがって、評価を行い、選択をしているひとの人生に、評価を適切に状況づけることは可能なのである。このことは、評価は評価者から独立したものでなければならないこと、しかもそれは総効用を最大化するという特定の形式をとるべきことを要求する功利主義の定式化と鋭く対照される。評価者独立性の要請は、功利主義特有のものであるというより、帰結主義的評価の一般的規律が功利主義者によって分有されてきたと考えられてきた。」(102)
「したがって功利主義者もリバタリアンも、暴行が起こることはそれ自体悪いことだと論じる――または(権利包含的な帰結主義者が行うように)主張する――ことはないだろう。事態を判断する際、>>114>>功利主義は効用しか参照しないであろう。リバタリアンは(少なくともこの課題では)事態を判断することにまったく関心をもたない。これら両方のアプローチとは対照的に、帰結的評価は、自由、権利、義務――そしてそれらの侵害――に留意して以下のことを論じるだろう。すなわち、まさに誰かの自由が侵害され、そして何らかの権利や責務が侵害されたからこそ、悪いことが起きたのだと論じるだろう。」(114-5)
「たとえば、もしあるひとが大勢の前で激しく暴行され、彼女の助けを求める叫びが完全に無視されるならば、(その出来事について何がそれほど悪かったのかを討>>116>>議する際に)次のような三つの悪いことが起きたのだと議論することは理に適う。すなわち、(1)犠牲者の自由が侵害され、暴行されない権利も侵害された、(2)暴行者は、他のひとがもつべきである侵入からの免除特権を侵害し(この場合、暴力的な侵入)、彼の他のひとを暴行しないという責務を犯した、そして(3)犠牲者を助けるために何もしなかったその他のひともまた、彼らの一般的な――そして不完全な――他のひとを助けるという義務(他のひとに助けを提供することを彼らに期待することができたはずの)を犯した。これらは相互に関連しあった失敗ではあるが、異なったものである。」(116-7)
「帰結的評価の肯定的な利点の一つは、その評価によって課される規律とそのもとで行為者が直面させられる決定問題にある。仮に権利が帰結的評価の体系に組み込まれるとすれば、権利の侵害という>>122>>悪(badness)あるいは権利の充足という善(goodness)に対して直ちに疑問がわく。帰結的評価は良い選択あるいは良い行為に対して一定の含意をもつのである。帰結的評価の含意は、異なった権利がどのようにして互いに評価されるか、そして、首尾一貫した帰結的枠組みのなかで、互いの間の優先順位がどのようにして体系的に評価されるかを示唆する。権利を付随制約として考えるひとは、そのように均衡を保つことに反対する傾向があり、別の――より決定的な――権利のより重大な侵害を避けるために、ある権利の――いかに軽微なものであろうとも――違反事項を書き込むことには断固反対するように思われる。(注34)」(122-3)
(注34)「Nozick(op. cit.)は、権利間のそのようなトレードオフに反対する。なぜなら彼はそれを「権利の功利主義」として理解するからだ。権利の功利主義は実際矛盾しているであろうが、権利の帰結主義は矛盾しないで済むだろう。自由至上主義者の枠組みから、三つの相異なるが相互に関連する逸脱があることに注意せよ。すなわち(1)権利の侵害は結果の中に含まれる、(2)権利間には「トレードオフ」がありえる、そして(3)権利の履行の善さと他の善い結果の間には「トレードオフ」がありえる。」(133)
「なされるべきことについてかならずしもすべてのひとが同意しない可能性はあるが、レイプや殺人に脅かされている個人がもつより重要な権利のより重大な侵害を防ぐために、自動車所有者の些細な>>123>>権利を侵害することが、理に適う場合があると考えることは不合理ではない。・・・。帰結的アプローチによれば、そのような権利の比較は行為の結果に対して責任をとることの本質的な内容となる。このアプローチでは、権利の様々な侵害がもつ相対的な重要性を考慮することを拒むのは、むしろ重大な責任放棄であるとみなされる。」(123-4)
第四章
「補足性原理は、制度の外から支給要件を課すみちを開いた。先述したように、人々は既存の制度で資産や労働能力、私的扶養などの私的能力を活用し尽くすまでは、「困窮している」とはみなされなかった。しかも、日本は、市場以外の制度が十分ではないために、「活用し尽す」には市場で金銭換算し尽すほかはなかった。生活保護に入ることは、市場から完全に脱落することを意味し、生活保護から出ることは、市場に入ることを意味したのである。だが、私的能力を完全に失ったひとがどうして再び市場に入れよう。生活保護制度は、次第に、人々の日常から分断されていった。」(140)
・「健康で文化的な生活水準」の維持、と、「自立」の助長、という目標のバランス
↑
↓
「今回の提案では、「自立」概念が制度からの退出に矮小化されるきらいがあり、「自立支援」が現金給付の削減として、あるいは現金給付との引き換えに受給者が負うべき義務として解釈されるきらいがあった点で、これまでの論争とは性格を異にする。」(141)
「生活保護受給母子世帯には、通常、必需品と考えられている財やサービスに関しては、低所得母子世帯よりも高い消費水準を実現する一方で、社会活動や将来設計に向かう支出は、一般に必需品と考えられていないからであり、必需品と考えられていないものへの支出は、社会的な抵抗感を強く伴うからである」(145)
「彼女たちの中には、ひとたび生活保護を受給したら、人的ネットワークをすべて失い、社会活動や将来設計の機会を大きく制約されるのではないかという恐れがある点を見逃してはならない。その恐れは、生活保護に入る時期を遅らせ、のっぴきならぬ事態を招く危険があるからだ。」(147)
★「一番の問題は、「働くことができる」という事実は、実際に働いて初めて観察される点にある。たとえ医師の診断で心身が健康だとされたとしても、それは「働くことができる」ことを完全には保証>>151>>しない。「働くことができる」と立証することが不可能だとしたら、「働くことができるとしたら働いて提供する」ことを法的義務とするのは無意味だろう。では、「困窮しているなら受給せよ」という言明を、「あきらかに働けないとしたら」という条件で制約することは妥当だろうか。この場合、「あきらかに働けない」ことを本人の立証責任とするので、法的には機能する。しかも、あきらかに働けないことを立証できない限り給付がもらえないとしたら、少しでも働ける個人は、義務ではなく、利益の観点から働いて提供すると考えられるかもしれない。だが、その法は他面で、あきらかに働けないことを立証することができないものの、実際に働くことのできないひとを、困窮したまま放置するおそれをも含んでいる。それは制度にとって取り返しのつかない失敗である。」(151-2)
↓
「働くことができるとしたら働き提供する」ことを、倫理的義務として個人に課す。
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・これを支える論理 「働くことそれ自身の喜び」や「働くことができるとしたら働き提供する」ことの正しさを確信できること
+
「公共的相互性」の観念
「働いて提供することができるなら、そうしなさい、困窮しているなら、受給しなさい。」
「この結びつきは、一人ひとりの個人の中で顕われる必要はない。それは社会のなかでゆるやかに実現されればよい。社会には、生涯、働き提供するだけの個人がいるかもしれない、その一方で>>156>>生涯、困窮し、受給するだけの個人がいるかもしれない。このような場合、目的と実現可能性との対応をひとりの個人の中に見出すことは困難であるとしても、社会の中に見出すことはできるだろう。/ところで、目的と実現可能性との対応が個人の中で顕われないということは、個人にとってこのルールは、本人の目的から切り離された義務として作用することを意味する。」(156-7)
第五章
第六章
終章
*作成:
小林勇人
UP:20090110 REV:20090823 20100831
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アマルティア・セン
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後藤 玲子
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経済(学) economics
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公共/公共哲学(public philosophy)/公共政策(public policy)
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身体×世界:関連書籍
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