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『星子が居る――言葉なく語りかける重複障害者の娘との20年』

最首 悟 19980530 世織書房,444p.


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最首 悟 19980530 『星子が居る――言葉なく語りかける重複障害者の娘との20年』,世織書房,444p. ISBN-10: 4906388655 ISBN-13: 978-490638865 3780 [amazon][kinokuniya] ※

■引用

◆1993

 「私たちは義務というと、他から押しつけられる、上から押しつけられるものと、反射的に反応してしまうので、よい感じはもっていないけれど、行動原理の根底は内発的義務であり、その内容は「かばう」とか「共に」とか、「世話する」とか、「元気づける」であって、それを果たすとき、心は無意識のうちに充たされるのかもしれない。/そのような内発的義務の発露が双方向的であるとき、はじめて人は尊ばれているという実感をお互いにもつことができ、それが「人が尊ばれる」というふうに定式化したとき、権利という考えが社会的に発生するのだろう。」(最首[1993→1998:131])

◆1994

 「権利とは「この人、あの人はこう手当されてあたりまえ」という社会的通念です。それを「この人、あの人」が自分に引き取って、「私はこういう手当をされて当然」とすぐに言うことはできません。内発的な義務の発露を他者に投げかける、自分の選択を見つめる人たちがいっぱいいて、その人たちが社会という場をつくるときに、この場に権利という考えが発生するのです。」(最首[1994→1998:391])

 「私たちにもともとあるのは、天から降ってきたような権利とかじゃなくて、すくなくとも生まれてきたからには生を全うするという、ほとんどそれだけのことです。そしてそれはほとんど義務ではないでしょうか。」(最首[1998:430])

 「……権利の行使というのは、誰かに権利があると思ったこの私が行使するような概念なんですね。そういう意味では権利というのは客体概念であり、現実的である。ところが義務主体というのは、生を全うするという抽象性のゆえに永遠性を帯びてこざるを得ません。この考えが出てくると、常に自分の権利が守られているかどうか、他人がそれを尊重してくれるかどうかを見張っているような心的構造から抜け出すことができる。」(最首[1998:430],川本隆史[1998:168]に引用)

 (1970年代のはじめ)「必然的に書く言葉がなくなった。……そこへ星子がやってきた。そのことをめぐって私はふたたび書くことを始めたのだが、そして以後書くものはすべて星子をめぐってのことであり、そうなってしまうのはある種の喜びからで、呉智英氏はその事態をさして、智恵遅れの子をもって喜んでいる戦後もっとも気色の悪い病的な知識人と評した。……本質というか根本というか、奥深いところで、星子のような存在はマイナスなのだ、マイナスはマイナスとしなければ欺瞞はとどめなく広がる、という、いわゆる硬派の批判なのだと思う。……」(最首「地球二〇公転目の星子」『増刊・人権と教育』26」,199705→最首[1998:369-370](「星子、二〇歳」、『星子が居る』pp.363-385),立岩「他者がいることについての本」『障害学の主張』所収の「ないにこしたことはない、か・1」に引用)

 「社長に対して「水銀飲め」、「お前もこのからだになってみろ」、「私を嫁にもらってみろ」とせまって(p.322)いくけれども、そういうことが全部実現されたからといって、どうなるもんじゃあない。どうなるもんじゃあないというところの、その這いずりまわり方の中で水俣病の人たちがそれぞれの人生をおくり、その中から水俣病になってよかったという言葉も出てきた。深い言葉です。
 障害というのは、私はすべて一大事だといいましたけども、それはそういうもんなんです。どのようなことが、いろんなことが実現したとしても、障害自体どうなるもんじゃあない。そのことによって人生どうなるもんじゃあない。そのところのすれ違いが大きいのです。つまり、障害をもっていない人や行政的な立場の人の方が、あるいは一般的に物事を考える人の方は、どういうことをすれば障害をもつ人の環境が楽になって、そして、障害をもつ人の気持も少しゆるやかになるか、家族も少し気持がほぐれるのか、と考えたりパパッと言ってしまう。生活が楽になるのはいいです。ひとまずいいことです。けれど、その先は、言っちゃあいけない。というか、言うこと自体が間違っている。障害をもって明るく生きようというようなことはないです。宗教的な透明な明るさというようなものはある。筋ジストロフィーの青年たちに見られるような、私の出合った市川正一君もそうでしたが、その明るさというのは、もう、世を越えての明るさです。でも、普通私たちが言える明るさというのはそういうのじゃあない。にもかかわらずそういうことを無神経に言われたら、障害をもつ人とか、障害をもつ家族はがっくりするわけです。」
「私たちは何をめざすのか」『平成六年度障害福祉関係者研修報告書』障害福祉報告書通算第5集、三重県飯南多気福祉事務所、1995年→「星子と場」(『星子が居る』pp.301-343)pp.322-323)

◆1990*
*1990 「東欧社会主義体制崩壊にみる『私』と『平等』」,『季刊子どもと健康21』1990-5(労働教育センター)→1998 「『平等』の概念』(改題),最首[1998:297-399]

 「私たちにいま改めて投げかけられている問題は、「人間の私的所有のどのレベルを人間は廃絶しなければならぬのか、あるいはどのレベルを廃絶できるのか」であると思います。」(『星子が居る』p.398)

◆1992

 「体験的にいうと、論点を次第にしぼってついにこれ以上はしぼれない一点があるはずだという考え方が真綿の壁に遮られるみたいに学生に入っていかない。」(『星子が居る』p.384)

◆1997

 「生きがいというものが静かに居すわる不幸ということを軸にしているのではないか、そして、そして静かな不幸と密接不可分な、畏れの気持ちもまた生きがいを構成していているのてではないかと考える。そのような軌跡として、この本を読んでもらえたらと願っている。」(『星子が居る』p.439)

■紹介・言及

◆立岩 真也 1999/01/15 「一九九八年読書アンケート」,『みすず』41-1(454)(1999-1):34

◆立岩 真也 20000301- 「遠離・遭遇――介助について」,『現代思想』28-4(2000-3):155-179,28-5(2000-4):28-38,28-6(2000-5):231-243,28-7(2000-6):252-277→[2000:221-354]*
*立岩 真也 20001023 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』,青土社,357+25p.,2940 [kinokuniya][amazon][bk1] ※

  「おそらく権利は[…]具体的・個別的でありながら、その具体性のうちに普遍性へと向かう契機を含んでいる。権利についての不信は、それが天から降ってきたもの、与えられたものであるとされることにあるのだろう。その不信にはもっともなところがある。しかしやはり権利がただ人であることにおいて一律に与えられるというその普遍性は重要なことではあるのだろうと思う。人権の普遍性とは、まったく普通にある関係そのものにあるのではないかもしれないが、しかしその関係に内在していてそれを延長させていこうとする意志が関わってくる。たしかにその人の権利は、その人への義務を周りの人たちが負うこととまったく同時に現われてくるものであるしかない。だから私たちのことであるともいえる。しかしそれでなお、「その人に」権利が「ある」と言わければならないとする時、そこには私たちの恣意が関わってならないという決意が表出されているのだと考えることができる。
  恣意はなくならない。個別性もなくならない。しかしそれに近いがそれと同じではないものとしてここに述べた承認はある。普遍は予め与えられていないが、しかしその方向に行こうとする契機はある。例えば「距離」について。ある人との距離の近さは、その人の存在を感じる時の大きな要因ではあるだろう。しかし、近いところにいる人を知っている時に、すでに、遠くにいる人たちもまた一人一人いることを知っており、その一人一人に関係する一人一人がいることをまったく現実的に想起することは可能なのである。」(『弱くある自由へ』三一ニ−三頁)

  「考えることができる」に注があり、その注に「最首[1998]の記述を念頭に置いている。」と記してある。そして「本文に記したこと」は以下。

  「自分が生きたいと思い、それを認めてほしいという主張は、その主張に内在的に、義務として私を認めることを人々に要求する。その要求は、あなた方の都合は様々あろうけれど、私のあなた方にとっての有用性・無用性と別のところに私の存在を置くようにという要求であり、その意味であなた方のあり方を抑え、私を認めることを義務とすることを受け入れるべきだという要求である。
  このようにして、この要求はたんに自発的な贈与をよしとすることではなく、人が義務を負うことの要求である。義務、強制は、現実には反対に会って成立しないことがあるとしても、この主張に内在的に請求される。これは、私の存在の維持という同じ場所から分配を言おうとするもう一つの根拠としての未知のための備え――第2節1で二番目にあげたもの――からは現われてこないものである。こうして、承認、具体的には分配のための負担は義務として請求される。
  そしてこのことは「権利がある」と言うことにも関わる。権利なるものがその人の内部にあらかじめ内在するわけではなく、その周囲の者たちのその人への関係のありようとして存在すること、その者たちがその人を認め、その人に対する義務を負うことがあり、それが権利を成立させるというのはその通りだ。ただ、そうなのではあるが、そこから私(たち)の側に力があることを差し引こうとして、「権利がその人にある」と言うべきだとするのではないか。だから、掟として、強制としてあることは、欲望を屈曲させたものでなく、むしろ欲望に忠実なのである。」

  「「権利がその人にある」と言うべきだとするのではないか」に付した注が、引用した注。

◆立岩 真也 2002/10/31 「ないにこしたことはない、か・1」,石川・倉本編[2002:47-87]
*石川准・倉本智明編『障害学の主張』,明石書店,294p. 2730 ISBN:4-7503-1635-0 [amazon][kinokuniya][kinokuniya][bk1]
 障害はない方がよいに決まっているという論に「対して文句を言った人たちがいた。どうも普通に考えるとその人たちの方が分がわるいように思われる。その人たちの言うことを聞く側は、「障害も個性」といった言い方にひとまずうなずいたりすることもあるが、しかし本気では信じていない。あっさりとない方がよいと言えばよいのに、やせがまんのような気もする。それを嫌悪して、そんな調子のいいことを言うべきではないとわざわざ言いにくる人も出てくる」に付した注。
 「この主題を巡る議論は何層にもなっていて、そして捩れている。
 A:まず、障害者でありたくない、障害者になりたくない。なおるならなおった方がよいと思う。まずはそれだけという人にとっては、障害を肯定するっていったいなんの話をしてるの、ということになる。B:第二に、そんなことはないと言いたい気持ちの人がいる。そしてこのことの言い方もさまざまだ。そして「世間の人」もまた、実はなにかしら障害を積極的に捉えるといった主張に同調したい部分はある。もっとも双方で思っていることはかなりずれていたりもするのだが、とにかく、意外に受け入れられる部分もある。C:すると第三に、そんな調子のいいことを言って、と、それに対してさらになにか言いたい人がでてくる。
 ダウン症の娘さんがいる最首悟の本にこんな一節がある。(1970年代のはじめ)「必然的に書く言葉がなくなった。……そこへ星子がやってきた。そのことをめぐって私はふたたび書くことを始めたのだが、そして以後書くものはすべて星子をめぐってのことであり、そうなってしまうのはある種の喜びからで、呉智英氏はその事態をさして、智恵遅れの子をもって喜んでいる戦後もっとも気色の悪い病的な知識人と評した。……本質というか根本というか、奥深いところで、星子のような存在はマイナスなのだ、マイナスはマイナスとしなければ欺瞞はとどめなく広がる、という、いわゆる硬派の批判なのだと思う。……」(最首[1998:369-370])
 ここで怒っている最首は批判Cに対してさらに怒っている。私は呉智英の当該の文章を読んでいないが、この世代の人たちは――「戦後民主主義」が怪しげに入ってきたことに対する、そして「良心的知識人」に対する敵意があることに関係するのかしないのか――「良識派」あるいは「進歩派」の「欺瞞」「偽善」を指摘してまわるという文章をよく書く。最近のものでは、安積他のBの主張に対するC小浜の批判?がある(小浜[1999])。Cの人たちは、Bの見方が偽善的であるとか脳天気であるとか、そんなふうに思って批判するのだが、実はそのBの人たちも、あるいはその人たちの方がそのあたりはかなり自覚的に書いていたりもする。
 この文章は、まずはとても優柔不断でありながら、こうした状況にさらに割り込もうとする。すると、いったい何をしているのかわからないと思われても無理はない。注1にあげたホームページを見ていただくと、その雰囲気だけでもわかっていただけると思うのでご覧ください。」

◆立岩 真也 2003/07/25 「最首悟の本」(医療と社会ブックガイド・30),『看護教育』44-07(2003-07):(医学書院)

◆立岩 真也 2004/01/14 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』,岩波書店,349+41p.,3100 [amazon][kinokuniya] ※

  『自由の平等』(岩波書店、二〇〇四)第3章「「根拠」について」3節「普遍/権利/強制」1「普遍性・距離」の注9

  「最首が義務の先行性と内発性について述べている。「私たちは義務というと、他から押しつけられる、上から押しつけられるものと、反射的に反応してしまうので、よい感じはもっていないけれど、行動原理の根底は内発的義務であり、その内容は「かばう」とか「共に」とか、「世話する」とか、「元気づける」であって、それを果たすとき、心は無意識のうちに充たされるのかもしれない。/そのような内発的義務の発露が双方向的であるとき、はじめて人は尊ばれているという実感をお互いにもつことができ、それが「人が尊ばれる」というふうに定式化したとき、権利という考えが社会的に発生するのだろう。」(最首[1993→1998:131])「権利とは「この人、あの人はこう手当されてあたりまえ」という社会的通念です。それを「この人、あの人」が自分に引き取って、「私はこういう手当をされて当然」とすぐに言うことはできません。内発的な義務の発露を他者に投げかける、自分の選択を見つめる人たちがいっぱいいて、その人たちが社会という場をつくるときに、この場に権利という考えが発生するのです。」(最首[1994→1998:391])これを受けて、[2000b→2000g:312-313]で本文に記したことを述べた。」

  [1993→1998]は『星子が居る』に収録された「対話と討論・論争のひろば」、『障害児を普通学校へ・会報』(障害児を普通学校へ・全国連絡会)一二六(「障害をもつ子と教育」と改題)。[1994→1998]は同じ本に収録された「権利は天然自然のものか」、『愛育』(恩賜財団母子愛育会)一九九四年ニ月号(「義務と権利」と改題)
  そして[2000b→2000g]は『弱くある自由へ』(青土社、二〇〇〇)に収録された「遠離・遭遇――介助について」。↑

◆立岩 真也 2013 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版


UP:20080830 REV:20130207
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