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他者がいることについての本
立岩 真也
19991025
『デジタル月刊百科』*1999-11(日立デジタル平凡社)
*ネットで百科(日立デジタル平凡社)内
http://ds.hbi.ne.jp/netency/
(『世界大百科事典』を購入し会員登録して利用。案内は上記)
この文章についての著作権は立岩にあるようなので,ここにも掲載します。
「ケア」や「いのち」といった言葉の頻出に出会ったら、少し怪しいと思ってしまう。まして、「素晴らしい死を迎えるために」などどいう言葉に出会ったら、相当危ないと思う。どうしてそう思うか、説明すると長くなるのだが、簡単にすると2つある。1つは、「勝手」な言い草であることが多いこと。たとえば、本人はほっといてほしいと思っているのに、向こうからやってくる。そういう時にケアと言われたりする。「ケアする人」の立派さあるいは大変さ(だけ)が言われたりする。もう1つは、他人のことを言うにせよ自分のこととして語るにせよ、「よさ」を、たとえば「よいいのち」を簡単に言ってしまうことの粗雑さ、危なさが自覚されていないように思われること。
つまりそれらは、現実について、現実の困難に向かって語らず、そのことによってかえって現実を変な具合に丸く収めてしまい、そのことによって危険なのだ。事態を丸く収める言葉としてこれらの言葉を語らないという態度、語ることができないというところから文字が書かれる時に、たしかに大切なことではあるに違いないこれらの主題について、はじめて何かが書かれたことになるのだと思う。
まずは1冊の翻訳書から。マイケル・イグナティエフ『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』(風行社、1999年)。
「たとえば愛情は、人間のあらゆるニーズのなかでも最もやみがたく執拗なニーズである。けれどもわたしたちは、誰かを強制して無理やりに自分を愛させることなどできはしない。要するに、わたしたちは愛情を人権として要求することなどできないのだ。ところが…」(p.29)。
私たちが日常的に思っていることでもあるけれど、しかし他方でこんな問いは問うだけ無駄のような気もする。しかし、人の存在を認める、承認するとはどういうことだろうと考えたら、必ずこのようなところに行き着くはずだ。あるいはこういうところから出発する他ないはずだ。
「承認」という語は、政治哲学の近年の議論、たとえば自由主義・対・共同体主義の対立の中でも、かなり大切な語としてある。ただ、「政治哲学系」の人たちについては機会があれば別に紹介し論ずることにし、ここでは略す。そちら系に進んでみるのもよいが、その前に、もっと私たちがよく知っている書き手がいることを思い出したらよい。「イノセンス」を巡って考察を進める芹沢俊介(『現代<子ども>暴力論 新版』、春秋社、1994年)がいる。また、「名前」について考えていく村瀬学(『「いのち」論のひろげ』、洋泉社、1997年)がいる。
そして最首悟『星子が居る』(1998年、世織書房)。著者の娘さんの星子さんにダウン症という先天性の障害がある。この障害は人によって様々だが、星子さんには目がだいたい見えず、言葉はないといった障害がある。筆者は1996年に20歳になった彼女とのことを書いたり、話したりしてきて、この本には、その約20年分がまとめられている。
(1970年代のはじめ)「必然的に書く言葉がなくなった。……そこへ星子がやってきた。そのことをめぐって私はふたたび書くことを始めたのだが、そして以後書くものはすべて星子をめぐってのことであり、そうなってしまうのはある種の喜びからで、呉智英氏はその事態をさして、智恵遅れの子をもって喜んでいる戦後もっとも気色の悪い病的な知識人と評した。……本質というか根本というか、奥深いところで、星子のような存在はマイナスなのだ、マイナスはマイナスとしなければ欺瞞はとどめなく広がる、という、いわゆる硬派の批判なのだと思う。……」(p.369〜p.370)
この「硬派の批判」に応え、言い返すことは、そんなに簡単なことではないと私は思う。どう言えるのか。気になる人は、硬派の人であっても、あるいは硬派の人に言い返したい人であっても、どちらでもよい。この本を読んでみたらよいと思う。
どうしてもここでは「他者」が主題なのだ。また、先に「名前」という語もあった。エマニュエル・レヴィナス(1905〜1995年)という哲学者を想起する人がいるだろう。熊野純彦『レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波書店、1999年)が、主要な著作は翻訳されているものの、そう簡単に読み進むことのできないレヴィナスの著作を丁寧に読んで行く。レヴィナスは、「臨床哲学試論」――「<聴く>こととしての臨床哲学」(p.268)――という副題をもつ鷲田清一『「聴く」ことの力』(TBSブリタニカ、1999年)でも引かれる(第5章「苦痛の苦痛」)。
(レヴィナスによれば)「他者の苦痛に対する苦痛、他者の悲惨さとその切迫を感じないでいることができないということ……が<傷つきやすさ>の意味である。なるほどわたしは後になって他者のこの傷から眼を背けること、見て見ぬふりをすることもあるかもしれないが、そういう選択以前に、わたしはその傷にふれ、その傷に感応している」(p.153)
なるほど、私がそのような存在である、そのような存在であるしかないのだとすれば、他者の承認は――承認という言葉が適切であるかは別として――なされてしまう、なされる他はないことになる。私は他者に私の承認を要求できないとしても、私は他者を承認してしまう。ならば最初のイグナティエフ――彼は『民族はなぜ殺しあうのか』(河出書房新社、1996年、原題はBlood and Belonging)の著者でもある――の問いは解消されたのか。そういう問いは、レヴィナス――彼は近親者のほとんどをナチスによって殺されたユダヤ人である――という人の著作に添って、ずっと考えながら文章を書き進めていく熊野の著作の中の方に現われる。彼は、『レヴィナス』第1部「所有することのかなたへ」の第4章「裸形の他者」で次のように書いていく。
「他であり、私との絶対的な差異である他者を殺すことは不可能なのだ。……他者を<他者>として抹消することは、なにより<論理的>に不可能なのである。
にもかかわらず、他者の殺害という行為は、この地上で際限もなく反復されている。……」(p110〜p.111)
そのように考えていくこと、しかもつまらない悲観的現状追認主義に陥らずに考えていくこと、書いていくこと。「軋みを見つめようとする思考」(p.vi)
川本隆史責任編集『共に生きる』(岩波 新・哲学講義6、1998年)は、いわゆる「講座もの」では多分今までつけられたことのないタイトルの本であり、その中の文章で、川本はここで紹介した最首の著書もとりあげ、「共生ということ」について7日間の講義を行う(ように文章を書いている)。他にも重要な点に言及する論文がいくつも収められている。ただ、今述べたばかりのことだが、迂回をも含んだ思考の厚み、思考の息の長さがこの主題には必要なのだとすると、それらはみな短すぎる。
私はここで、なにか「難しさ」について言おうとしたのだろうか。そういうところはある。「そんなに簡単にケアとか言うなよ」といった具合に、である。たとえば坂井律子『ルポルタージュ出生前診断――生命誕生の現場に何が起きているのか』(NHK出版、1999年)。
「「出生前診断」とは、生まれる前に胎児の状態を診断することである。こうした出生前診断技術(はじめは胎児診断)と呼ばれていた)は、登場したころ、胎児の段階で病気を発見し、治療することができる技術だと盛んに語られていた。しかし実際には治療不可能な「病気」や「障害」が見つかり、それを理由に胎児を中絶することに結びついていった。」(p.6)
NHKのディクレクターである坂井は、このテーマで7本の番組を作る。けれども終えることができない。
「疑問を抱えながら歩いた三年間、「結論の出ない問題を、なぜしつこく追うのか」と取材先で言われ、自分でもそう思い、落ち込むこともあった。……しかし「番組を一本作って終わり」ということはどうしてもできなかった。」(p.275)
そこで彼女はこの本を書いた。そのように、書かなければならない本は書かれる。
しかし、とりわけこの国では、難しさという言葉が「理想はわかるが現実には難しい」という具合に使われる。難しいことに付き添っていくのではなくて、現実を放棄するために用いられるのである。「でもね。難しい。」ずっとそんなことが言われてきた。それしか言われてこなかったと言ってもよいほどで、それが、この現実をこの現実のままにとどめてきた。
それでは困るのだ。だからこそ、中心に行こうとする思考の営みがある。最首の本に、「論点を次第にしぼってついにこれ以上はしぼれないはずだという一点があるはずだという考え方」(p.384)という言葉があって、それはそのことを言っているのだと思う。
そしてもう一つ、主張自体、行うこと自体はとても簡潔で単純なことなのであっても、「現実には」困難だとされていることを、本当にしてみること。
吉岡充・田中とも江編著『しばらない看護』(医学書院、1999年)という本が出た。患者、特に高齢の人たちを「縛る」こと(「抑制」と呼ばれる)をやめてしまった看護婦たち、そして病院の営みが語られ、その方法が記されている。それを疑う人がいるだろう。高齢者の医療の現場を知らない私も、この本に書かれていることが非常に説得的であると思いながら、わからないところがある。しかし、繰り返しになるが、「それは極端な考えだ」と言われ、排斥されようとするものを、思考の上でも現実においても捨てないことによってだけ、「てきとうさ」によって覆い隠される悲惨が見えるものになり、動かそうとされることになるのだ。
最初に書いて、ここで論じられなかったことがある。「「ケア」とか言う前に、あなたながなんとなく信じている迷惑な思い込みを捨ててくれ」(「よい生」「よい死」についても同じことを言いうる)、という主張についてである。先に、短い文章を集め、何巻か作るという手法に不満を述べた。ただ、そういうものでも時にはおもしろいものもある。私も1つの章を書いているから自薦ということになってしまうが、石川准・長瀬修編『障害学への招待』(明石書店、1999年)。まだ1冊だが、続巻が出るかもしれない。各人が言っていることはそれぞれである。しかし、著者が皆、「変な思いこみ」に怒っている。それぞれ複雑さを含んだ現実を記述しようとしつつ、しかしその複雑さに向かおうとする意志は直截である。そのために、寄せ集めだけれど、一つの勢いをもっていて、それでこれは「本」になっているのである。
●とりあげた本
ニーズ・オブ・ストレンジャーズ
マイケル・イグナティエフ著 添谷育志,金田耕一訳
風行社/開文社出版発売 1999年 定価2,900円
現代〈子ども〉暴力論
芹沢俊介
著
春秋社 1997年(初版 大和書房 1989年/新版 春秋社 1994年) 定価2,200円
「いのち」論のひろげ
村瀬学
著
洋泉社 1995年 定価1,942円
星子が居る 言葉なく語りかける重複障害の娘との20年
最首悟
著
世織書房 1998年 定価3,600円
レヴィナス 移ろいゆくものへの視線
熊野純彦著
岩波書店 1999年 定価3,200円
「聴く」ことの力 臨床哲学試論
鷲田清一
著
TBSブリタニカ 1999年 定価2,000円
民族はなぜ殺し合うのか 新ナショナリズム6つの旅
マイケル・イグナティエフ著 幸田敦子訳
河出書房新社 1996年 定価3,700円
共に生きる(〈岩波 新・哲学講義〉6)
川本隆史
責任編集 岩波書店 1998年 定価2,200円
出生前診断 生命誕生の現場に何が起きているのか?
坂井律子著
日本放送出版協会 1999年 定価1,500円
縛らない看護
吉岡充,田中とも江編著
医学書院 1999年 定価2,000円
障害学への招待 社会,文化,ディスアビリティ
石川准,長瀬修編
明石書店 1999年 定価2,800円
UP:1999 REV:20071107
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