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石川 准・倉本 智明 編 20021031 明石書店,294p. ISBN:4-7503-1635-0 2730円 ◆石川 准・倉本 智明 編 20021031 『障害学の主張』,明石書店,294p. 2730 ISBN:4-7503-1635-0 [amazon]/[boople]/[bk1] →立岩[2004]で紹介・言及 ◇石川 准 2002/11/11 「障害学の時代へ」 『東京新聞』『中日新聞』2002-11-11朝刊 ◇ましこ ひでのり 2002/12 「’02年下半期読書アンケート」 『図書新聞』2611号 ◇要田 洋江 2003/01/18 紹介:『障害学の主張』 『図書新聞』2614号 ◇星加 良司 2003/01/23 「立岩真也2002「ないにこしたことはない、か・1」」 東京大学・障害学演習(福島ゼミ)報告 ◇石川 准 2003/01/25 「ディスアビリティの削減、インペアメントの変換」 障害学研究会関東部会 第30回研究会 ◇森岡 正博 2003/01/12 書評 『信濃毎日新聞』2003/01/12 http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm ◇かめい たかや 2003 「「障害学」を読んでいて」 http://www.phoenix-c.or.jp/~takayan/disablement.html ◇立岩 真也 2003/02/25「障害学?の本・1」(医療と社会ブックガイド・24) 『看護教育』44-02(2003-02):132-133(医学書院) □内容説明[bk1] ジェンダーやセクシュアリティの問題、自閉や知的障害など、可能な限りウィングを広げ、開かれた障害学の可能性を提示する。99年刊「障害学への招待」の続編。 □著者紹介[bk1] 〈石川〉静岡県立大学国際関係学部教授。著書に「アイデンティティ・ゲーム」など。 □著者紹介[bk1] 〈倉本〉関西大学社会学部他非常勤講師。共編著に「障害学を語る」など。 石川 准 20021031 「まえがき」 石川・倉本編[2002:003-009] http://fuji.u-shizuoka-ken.ac.jp/~ishikawa/shuchou.htm* *全文。石川さんのHPに掲載 石川 准 20021031 「ディスアビリティの削減、インペアメントの変換」 石川・倉本編[2002:017-046] 1財と権利と尊厳の分配システム/2「ディスアビリティ」の脱構築 3ディスアビリティの削減、インペアメントの転換/4平等と差異のディレンマ 「社会モデルは、インペアメントからディスアビリティへと問題をシフトさせた。社会モデルは、本人が障害の克服のための責任と負担の一切を負わなければならないとするのではなく、社会が「できない」という問題を解決するための責任と負担を負わない状態を問題にすべきだと主張した。ディスアビリティとは、作為的、不作為的な社会の障壁のことであり、それによって引き起こされる機会の喪失や排除のことであり、だからディスアビリティを削減するための負担を負おうとしない「できなくさせる社会disabling society」の変革が必要だと主張されたのである。」(p.26) 「モリスやクローなどの第二世代のディスアビリティ・スタディーズは、社会的障壁としてのディスアビリティが削減されてなお残る障害者の身体のインペアメントとその体験を医療的な問題、カウンセリングの問題として社会モデルの外部にくくりだすのではなく、インペアメントの社会的構築という視点を入れて社会モデルを改訂していけないか、という問題提起を行っている」(p.28) 立岩 真也 20021031 「ないにこしたことはない、か・1」 石川・倉本編[2002:047-087] 1どんな主題なのか/2死なず痛くなければよい、とはいえ、できるにこしたことはない、か? 3できることは必要だが、私が、である必要はない 4支払いをみると、他人にやってもらった方が楽なことがある 5得たいものは、因習にこだわらなければ、さまざまに得られる、こともある 6そこに肯定されてよい世界が現われ、そしてそれは障害であることと両立する 7選択の幅が広い方がよいから、とも簡単に言い切れない 8他方、周囲の人にとってはないにこしたことはない 9補足1・「社会モデル」の意味/10補足2・差異と平等/社会モデルと文化派 もうすこし詳しい説明(↓) 好井 裕明 20021031 「障害者を嫌がり、嫌い、恐れるということ」 石川・倉本編[2002:089-117] 1嫌がられ、嫌われ、恐れられる――被差別体験から 2障害者差別――人権侵害として整理する限界性 3障害者フォビア――常識的理解をめぐる問題 4虚構の感情としての障害者フォビア――ある個人的体験から 5フォビアの一歩手前にある自分の姿を見抜く 倉本 智明 20021031 「欲望する、<男>になる」 石川・倉本編[2002:119-144] 1はじめに/2語り出されるセクシュアリティ/3欲望する主体としての障害者 4<男>への同一化とその困難/5むすび――性のアブノーマライゼーションにむけて 瀬山 紀子 20021031 「声を生み出すこと――女性障害者運動の軌跡」 石川・倉本編[2002:145-173] 1はじめに/2女性障害者運動のはじまり――結婚・子育て、家族をめぐる女性たちの運動 3子宮摘出をめぐって/4女性障害者によるピア・グループのはじまり――むかい風の実践 5ピア・カウンセリングと女性障害者運動――対等であることを求めて 6おわりに――声を生み出すこと ニキ リンコ 20021031 「所属変更あるいは汚名返上としての中途診断――人が自らラベルを求めるとき」 石川・倉本編[2002:175-222] 1目的/2中途で診断を受けるとは?/3診断遅延本来の問題と付随する問題 4方法・対象・範囲/5用語について/6自閉症者から見た「自閉」とは 7自閉者同士の共感/8筆者の場合――診断まで/9筆者の場合――診断 10障害というラベリングによって安心すること/11未診断で成長するということ 12説明を求める思いを持つこと自体を否定されるとき/13制裁だけを先取りしてきた歴史 寺本 晃久 20021031 「能力と危害」 石川・倉本編[2002:223-249] 1生来性犯罪者説の導入と否定/2刑罰と障害認識の変化 3問題の拡張〜優生へ/4危害の政治学へ 杉野 昭博 20021031 「インペアメントを語る契機――イギリス障害学理論の展開」 石川・倉本編[2002:251-280] 1『母よ!殺すな』2000。/2「障害者殺し」から社会モデル批判へ 3「旧・社会モデル」から「新・社会モデル」へ/4イギリスから日本へ――転倒した「歴史」 倉本 智明 20021031 「あとがき」(↓) 石川・倉本編[2002:281-286] >TOP >TOP ■ニキ リンコ 20021031 「所属変更あるいは汚名返上としての中途診断――人が自らラベルを求めるとき」 石川・倉本編[2002:175-222] *障害というラベリングによって安心すること 香山リカの、「糖尿病」と告知されて「うれしく思う人」はいない、という指摘を受けて、「発病(事実)に対する反応」と「診断(情報)に対する反応」を区別していない。」(p.196)、「筆者なら、「発病は嬉しくないが、診断されたことは嬉しい」と思うだろう」(注よりp.215)、「長年「何かおかしい」と思いながら正体がわからなかった者にとっては、名前がつくことは大きな救いになりうる。「名前があったのか!」という表現は、定番といえるほどよく目にするものである」(p.196) *説明を求める思いを持つこと自体を否定されるとき 「なぜ自分から障害者になりたがるのか」という問いの陰には、「『障害者』というレッテルは誰にとっても常にマイナスのものであるはず」という素朴な前提がある。実際には、社会的に「障害者」としての承認を求めることは、決して「障害者」というレッテルに付随する蔑視を自ら求めることでもなければ、肯定することでもないのに、先の疑問はこの二つを区別せず、あたかも診断を求める者が自ら蔑視を求めているかのような印象を作り出しており、無意識なら不注意、意図的なら卑怯である。事実のレベルでは障害者としての承認を求めつつ、重度障害も含めた「障害」全体に対するスティグマは拒絶するという姿勢もあるはずである。身に合わない「健常者」というレッテルに苦しみ続けるか、差別もコミで障害者として認めてもらうかという二者択一に追い込まれる必要はなかろう」(p.202) *「故意に手を抜く健常者」から「それなりにがんばってきた障害者」へ、「ダサい健常者」から、「自閉者としてはこれが普通」への変更は、転落ではなくヨコ方向への移動でしかないばかりか、質的にいえば「怠惰」「悪意」「横着」という汚名の返上である。新しい所属先、帰属意識の獲得であり、身の丈に合い、実感に添った自己像を新たに形成するきっかけでもある。そして、これまでの違和感が錯覚でもなければ嘘ではなかった、妄想でもなければ幻覚でもなかったという認識であり、自分は自分の感覚を当てにしても良いのだという保証でもある」(p.203) 「「障害者になる」という表現には二通りの意味がある。一つは受傷や発症により何らかのインペアメントを持つようになることであり、もう一つは社会的に「障害者」として認められることである。「なぜ自分から障害者になりたがるのか」という言辞は、この二つをあえて区別せずに用いることで、意味を二重写しにする悪意を含んでいる。つまり、実情の方は、最初からインペアメントを持っていた者が内実に合わせたラベルを得ようとしているのに対し、あたかも自傷か何かによってインペアメント自体を得ようとしているかのような連想が働く表現だといえる。 また、社会的に「障害者」としての承認を求めることは、決して「障害者」というレッテルに付随する蔑視を求めることでもなければ、肯定することでもない。先の疑問はこの二つをも区別せず、あたかも診断を求める者が自ら蔑視を求めているかのような印象を作り出しており、無意識なら不注意、意図的なら卑怯である。〈事実〉のレベルでは「障害のある人」としての承認を求めつつ、重度障害も含めた「障害」全体に対するスティグマは拒絶するという姿勢もあるはずである。身に合わない「健常者」というレッテルに苦しみ続けるか、差別も〈コミ〉で障害者として認めてもらうかという二者択一に追い込まれる必要はない。」(ニキ[2002]) >TOP ■第2章 ないにこしたことはない、か・1 立岩真也 障害がないのはよいことかを考えてみる★01。本人にとっては必ずしもそう言えないこと、他方、周囲にとってはない方がよいものであること、簡単に「ない方がよい」と言うのは、このことを覆い隠してしまうことを述べる。 ■1 どんな主題なのか これはそんなに大切な主題だろうかとも思う。あるものはあるのだから、あとはどうやって生きていくか、生きていくための方法を考えることではないか。つつがなくただ生きていくことは単純なことであるかもしれないが、それを実現するための方法はそんなに単純ではなく、それを考えるのはむしろなかなかの工夫を要する仕事である★02。 しかし、… ■2 死なず痛くなければよい、とはいえ、できるにこしたことはない、か? 「原発と障害者」という問いに対して堤愛子が出した答は、障害者が生まれるから原発に反対というのはおかしい、生命が奪われること、苦痛を与えること(だけ)が問題なのだという答だった。死ぬのはいやだ、痛いのはいやだ、しかし障害者であることはそれ自体として肯定されてよいという主張である。これで正解のように思う★05。 だが… ■3 できることは必要だが、私が、である必要はない 目的そのものはよしとすれば、それを実現するための手段があることはよいことで、そして能力をそのよいことをする力とすれば、能力があることは同語反復的によいことになる。例えば生きていくためになにかをしないとならない。それができることは、生きていくことがよいことなら、そのために必要であるという意味で、よいことである。できないこと=障害があることはよくないことである。 だが… ■4 支払いをみると、他人にやってもらった方が楽なことがある ■5 得たいものは、因習にこだわらなければ、さまざまに得られる、こともある ■6 そこに肯定されてよい世界が現われ、そしてそれは障害であることと両立する できない、そのように言う限り、その状態自体はまずはできる、行うことを差し引いた空白である。だが、そこにあるのはたんなる空白ではない。現われる別のものがある。 ■7 選択の幅が広い方がよいから、とも簡単に言い切れない ■8 他方、周囲の人にとってはないにこしたことはない ■9 補足1・「社会モデル」の意味 このように考えてくると、「医療モデル」「個人モデル」と「社会モデル」とをどのように解することができるか、おおよそのことが言える。 ■10 補足2・差異と平等/社会モデルと文化派 差異派と平等派があると述べた(立岩[1998b])。例えばなおしたりおぎなったりすることは平等をもたらすのか。これは差異が現われる場所に即して考える必要がある。 ■注 ★01 当初、実際にあった議論、具体的な言葉を紹介しながら書いていこうと考えていた。またいくつかの論考(土屋[1994b]、森[1999]等)をふまえる必要もあると考えた。しかし文章の後半を別にし、それでもなおスペースがなくなってしまった。ほとんど引用や紹介を行うことができない。ホームページhttp://www.arsvi.comの「五〇音順索引」→「障害」に400字×80枚分ほどの引用がある。なお立岩[1997:436-439](第9章注15〜22)にいくつかの文献をあげた。本文に引いたシンガーの文章もそこで引用している。 この章は、二〇〇一年一月、障害学研究会関東部会での報告で配布した文章をほぼそのまま掲載したものである。この報告に対しては研究会、そしてその後も障害学のメイリングリストでいくつかの論点について議論があったのだが、それを含めて論じなおすことがここではできない。右記したホームページの「立岩」→「ないにこしたことはない、か?」にこの章の注と文献表などを置く。そこからその時に私がメイリングリストに送信したメイル、三村洋明の論考等を読むことができる。 …… ■文献表(*のあるものは注1に記したホームページで読むことができる) 安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店 ――――― 1995 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補・改訂版』,藤原書店 安積 遊歩 1993 『癒しのセクシー・トリップ――わたしは車イスの私が好き!』,太郎次郎社 ――――― 1999 『車椅子からの宣戦布告――私がしあわせであるために私は政治的になる』,太郎次郎社 出口 泰靖 2000 「「呆けゆく」人のかたわら(床)に臨む――「痴呆性老人」ケアのフィールドワーク」,好井・桜井編[2000:194-211] ――――― 2001 「「呆けゆく」体験の臨床社会学」,野口・大村編[2001:141-170] 福島 智 1997 『盲ろう者とノーマライゼーション――癒しと共生の社会をもとめて』,明石書店 ――――― 1999 『渡辺荘の宇宙人――指点字で交信する日々』,素朴社 Gerland, Gunilla 1997 Real Person=2000 ニキ・リンコ訳,『ずっと「普通」になりたかった』,花風社 後藤 弘子 編 1999 『少年非行と子どもたち』,明石書店,子どもの人権双書D Haraway, Donna J. 1991 Simians, Cyborgs, and Women: The Reinvention of Nature, London: Free Association Books and New York: Routledge=2000 高橋さきの訳,『猿と女とサイボーグ:自然の再発明』,青土社 飯田 亘之 編 1994 『プラクティカルエシックス研究』,千葉大学教養部倫理学教室 石井 政之 1999 『顔面漂流記――アザをもつジャーナリスト』,かもがわ出版 石川 准 1999 「障害、テクノロジー、アイデンティティ」,石川・長瀬編[1999:41-77] 石川 准・長瀬 修 編 1999 『障害学への招待――社会、文化、ディスアビリティ―』,明石書店 樫村 愛子 1998 『ラカン派社会学入門――現代社会の危機における臨床社会学』,世織書房 加藤 秀一 1991 「リプロダクティヴ・フリーダムと選択的中絶」,『年報社会学論集』4:1-12 小浜 逸郎 1999 『「弱者」とはだれか』,PHP新書 倉本 智明 1999 「異形のパラドックス――青い芝・ドッグレッグス・劇団態変」,石川・長瀬編[1999:219-255] ――――― 2000 「障害学と文化の視点」,倉本・長瀬編[2000:90-119] 倉本 智明・長瀬 修 編 2000 『障害学を語る』,エンパワメント研究所,発売:筒井書房 栗原 彬・小森 陽一・佐藤 学・吉見 俊哉 編 2000 『語り:つむぎだす』(越境する知・2),東京大学出版会 ――――― 2001 『文化の市場:交通する』(越境する知・5),東京大学出版会 森 正司 1999 「障害個性論―知的障害者の人間としての尊厳を考える」 * 森岡 正博 編 1994 『「ささえあい」の人間学』,法藏舘,359p. 長瀬 修 1996 「<障害>の視点から見たろう文化」,『現代思想』24-5:46-51(臨時増刊:総特集=ろう文化) ――――― 1997 「ろう児の人工内耳手術の問題点」,『生命倫理』8 * ――――― 1998 「障害の文化、障害のコミュニティ」,『現代思想』26-2(1998-2):204-215 ――――― 1999 「障害学に向けて」,石川・長瀬編[1999:11-39] 日本社会臨床学会 編 2000 『カウンセリング・幻想と現実』,現代書館 野辺 明子 2000 「障害をもついのちのムーブメント」,栗原他編[2000:105-129] 野口 裕二・大村 英昭 編 2001 『臨床社会学の実践』,有斐閣 岡原 正幸・立岩 真也 1990 「自立の技法」,安積他[1990:147-164]→1995 安積他[1995:147-164] 最首 悟 1998 『星子が居る――言葉なく語りかける重複障害の娘との二〇年』,世織書房 斎藤 有紀子 編 2002 『母体保護法とわたしたち』,明石書店 酒井 直樹 1996 『死産される日本語・日本人――「日本」の歴史−地政的位置』,新曜社 篠原 睦治 2000 「ピア・カウンセリングを考える」,日本社会臨床学会編[2000下:308-337] Singer, Peter 1993 Practical Ethics, 2nd Edition, Cambridge Univ. Press=1999 山内友三郎・塚崎智監訳 1993 『実践の倫理[新版]』,昭和堂 立岩 真也 1990 「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」,安積他[1990→1995] ――――― 1995 「私が決め,社会が支える,のを当事者が支える――介助システム論」,安積他[1995:227-265] ――――― 1997 『私的所有論』,勁草書房 ――――― 1998 「一九七〇年」,『現代思想』26-2(1998-2):216-233→立岩[2000c:87-118] ――――― 1999a 「自己決定する自立――なにより,でないが,とても,大切なもの」,石川・長瀬編[1999:79-107] ――――― 1999b 「子どもと自己決定・自律――パターナリズムも自己決定と同郷でありうる,けれども」,後藤編[1999:21-44] ――――― 2000a 「選好・生産・国境――分配の制約について」,『思想』908(2000-2):65-88,909(2000-3):122-149 ――――― 2000b 「遠離・遭遇――介助について」,『現代思想』28-4(2000-3):155-179,28-5(2000-4):28-38,28-6(2000-5):231-243,28-7(2000-6):252-277→立岩[2000c:221-354] ――――― 2000c 『弱くある自由へ』,青土社 ――――― 2001a 「停滞する資本主義のために――の準備」,栗原他編[2001:99-124] ――――― 2001b 「どうしたら楽でいられるか、考えよう」,岩川直樹・汐見稔幸編『「学力」を問う――だれにとってのだれが語る「学力」か』,草土文化 :110-121 ――――― 2001c 「なおすことについて」,野口・大村編[2001:171-196] ――――― 2001d 「できない・と・はたらけない――障害者の労働と雇用の基本問題」,『季刊社会保障研究』37-3:208-217 * ――――― 2001-2002 「自由の平等」,『思想』922(2001-3):54-82,924(2001-5):108-134,927(2001-8):98-125,930(2001-11) ――――― 2002a 「パターナリズムについて――覚え書き」,『法社会学』(日本法社会学会) * ――――― 2002b 「生存の争い――医療の現代史のために・3」,『現代思想』30-2(2002-2):150-170,30-4(2002-4):◆-◆,30-7(2002-6):41-56 ――――― 2002c 「確かに言えること と 確かには言えないこと」,斎藤編[2002] 土屋 貴志 1994a 「”シンガー事件”後のシンガー――『実践的倫理学』第2版における障害者問題の扱い」,飯田編[1994:135-146] ――――― 1994b 「障害が個性であるような社会」,森岡編[1994:244-261] 堤 愛子 1988 「ミュータントの危惧」,『クリティーク』1988-7→1989『女たちの反原発』,労働教育センター http://www.geocities.jp/aichan822/myuutanntonokigu.htm ――――― 1989 「「あたり前」はあたり前か?――「障害者」が生まれるから「原発に反対」は悪質なスリカエ論法だ!!」,『月刊地域闘争』1989-12:32-35 http://www.geocities.jp/aichan822/atarimaehaatarimaeka.htm 横塚 晃一 1975 『母よ! 殺すな』,すずさわ書店 好井 裕明・桜井 厚 編 2000 『フィールドワークの経験』,せりか書房 >TOP 前作『障害学への招待』(明石書店、一九九九年)の第1章で長瀬修は、「障害学、ディスアビリティスタディーズとは、障害を分析の切り口として確立する学問、思想、知の運動である。それは従来の医療、社会福祉の視点から障害、障害者をとらえるものではない。個人のインペアメント(損傷)の治療を至上命題とする医療、「障害者すなわち障害者福祉の対象」という枠組みからの脱却を目指す試みである」と述べた。一部の例外はあるものの、これまで障害・障害者を扱ってきたのは、もっぱら医学や教育学、福祉学といった学問だった。そこで重要な位置が与えられるのは、インペアメント、すなわち感覚器官や大脳の活動などをも含めた医学的・生物学的な意味での身体に関わる問題である。障害者が経験する困難や不利益は、そこに起因するものと考えられ、解決策として治療やリハビリテーションや特殊教育、それらを支える社会政策が提案されてきた。 このように記すと、それは古いパラダイムであり、今日のリハビリテーション医学や障害児教育学、社会福祉学は身体のみならず社会にも目をむけ、より包括的に障害を捉える方向にむかっている、と反論が返ってくるかもしれない。確かに一定の変化は認められるし、実際、一部の研究者や実践家は障害学や運動の場で紡ぎ出された言説に刺激を受け、あるいは、独自に思索を深めるなかで、個人モデルの皮を脱ぎ捨て、新しいパラダイムの確立にむけて歩をすすめつつあるようだ。しかし、どうだろう、それは未だ小さな流れに過ぎないのではないか。既に他所で何度も上げたことのある例で恐縮だが、たとえば以下のような問題をとおして考えていただきたい。 本書を手にされている読者にとって、おそらく、バリアフリーやユニバーサルデザインといったことばは既にお馴染みのものだろう。そのようなことばを耳にしたことのない人たちをも含め、今日、仮に財政的な問題がクリアされるとしたなら――実はこの問題は重要なのだが、話が複雑になるのでここではあえてふれないことにする――「駅にエレベーターを」といった主張に賛意を表す者は少なくないはずである。しかし、多くの場合、そうした結論を導くロジックはつぎのようなものではないか。「人は通常階段の昇降に不自由のない身体をもっている。けれど、なかにはそれができない者もいる。治療やリハビリテーションを通じて、その人が階段を昇り降りできるようにすることが望ましいが、残念ながら現在の医療技術ではすべての人をそのようにすることは難しい。∴エレベーターも必要だ……」。 もしそのように考えるとしたら、それは典型的な個人モデルの発想である。そこでは、なぜ階上や階下への移動方法として、これまで多くの場合、階段だけが用意され、他の昇降手段が用意されてこなかったのかという問いが看過されている。従来の障害研究は、ある機能/能力を備えた身体を「標準」と措定し、そこからの偏差に問題発生の原因を求めるかたちで論を構築してきた。なにが「標準」であるかは語られても、なぜそれが「標準」となるのかは語られない。社会的障壁が注目される場合にも、まず参照されるのはこの「標準」であり、それを「下回る」とされる身体機能や能力である。その改善が望めない場合にのみ社会は浮上してくる。そこでは、いわば、社会は身体の残余として扱われるにすぎない。 障害学は、そのようにこれまでの障害研究が意識の外に放逐してきた背後仮説をも検討の俎上にのせる。その試みの成果のひとつが、本書第1章や第8章でも紹介されている社会モデルというパースペクティブである。社会モデルは、個人モデルを批判し、社会諸関係のうちに問題の所在を発見する。個人モデルが治療不可能・訓練不可能な「例外的な身体」への対応としてエレベーターの設置を提案するのに対し、社会モデルは、そもそも特定の身体のことのみを念頭において駅が設計されていることが問題なのであり、そうした社会のありよう自体が、障害者を文字どおりdisabled people(できなくされた人びと)へと仕立て上げるのだと考える。同じようにバリアフリーやユニバーサルデザインへの支持を表明するにしても、そこへと至るロジックが一八〇度異なるわけだ。 社会モデルにあっても、治療やリハビリテーションそのものが否定されることはないが、それは、個人モデルがいうような問題解決のための必須科目ではなく、障害当事者が必要に応じて選びとるオプションとなる。障害者が、当該社会においてインペアメントとみなされる身体的特徴をもつことで不利益を被るか否かは、身体的特徴それ自体によって決まるものではなく、社会の側がその身体にどのような意味を与え、取り扱うかによって決定されるものだからである。手術や訓練を行おうが行うまいが得られる利益/被る不利益が等価となるような社会、治療やリハビリへと人びとが社会的に誘導されない社会の建設をこそ社会モデルは主張する。 確かに昨今のリハ医学や障害児教育学・社会福祉学は、かつてのように素朴に問題を個人に還元したりはしないだろう。二〇〇一年にα版が採択された国際障害分類第二版(ICF)も、旧ヴァージョンにみられた機能障害を起点とする単純な線形モデルを廃し、環境因子の導入や各要素間の関係を相互的で複線的なものへと改めるなど、この間影響力を拡大してきた国際的な障害者運動――その代表格であるDPIは社会モデルの立場を明確に表明している――に譲歩するかたちでの改善が認められる。しかし、ICFをはじめ、それらの大半は、個人モデルと社会モデルの統合をうたうなどしながらも、実際には、障害者問題を純然たる社会の関数として位置づけなおそうという社会モデルのラディカルな企図を理解せず、「標準」の構築という政治を無視し、ナイーブに身体と社会を並置することで、結果として個人モデルの延命に手を貸している。それは、修正こそ施されてはいるものの、ニューヴァージョンの個人モデルに他ならない。たとえて言うなら、ケインズ主義が公共セクターによる市場への介入という一見社会主義的な相貌をみせつつも、資本主義経済体制それ自体を否定するものではなかったのと同様に、である。 編者のひとりとして記すべき「あとがき」にもかかわらず、やや立ち入った見解を述べすぎたかもしれない。先のパラグラフで記した認識は、あくまで私個人のものであり、本書の著者や障害学に関わる人たちすべてが共有しているものではない。しかし、障害学が、社会、あるいは、社会的存在としての人間をこそ焦点に据えた学問であり、問題を医学的・生物学的な意味での身体に安易に結びつける思考との格闘を経て形成されたものであることは確認しておきたい。それは、フェミニズム/女性学が生物学的な決定論からの切断をひとまず必要としたことと似ている。そして、女性学が単なる女性に関する研究などではないのと同様に、障害学もまた、あれやこれやの障害に関する研究の寄せ集めではなく、きわめて政治的で介入的な学問なのである。 とはいえ、障害学は、なにかひとつの理論でもって代表されるような排他的な学問ではない。さまざまな方向へとむかう複数の言説群が、ときに反発し、ときに共振しつつ、全体を構成するゆるやかなネットワークである。既存の障害研究が所与の前提としてきたものを、いま一度吟味しなおすところから始めるという基本姿勢を共有しつつも、当然のことながら、そこには多様な主題が含まれるし、多様なアプローチが要請される。 そうした多様に開かれた障害学の可能性を提示してみせるのが本書の課題のひとつであるわけだが、この点についてはやや心許ないところだ。『障害学への招待』に盛り込むことのできなかったジェンダーやセクシュアリティの問題、自閉や知的障害など、可能な限りウィングを広げたつもりではある。接近の視角も第2章にみられるような規範的な議論から第7章のような歴史社会学的なアプローチまで、ある程度の幅は示し得たかもしれない。だが、障害学の可能性を読者にお伝えするにはまだまだ不十分であることを自覚している。 編集作業のために全体を読み通して気づいたことだが、本書に収められた論考の多くが、なんらかの意味で身体への再接近を志向しているようだ。イギリスなどとちがい、青い芝の会をはじめとする独自な運動の歴史をもつ日本の障害学はその当初から、障害者問題の政治化を急ぐあまり第一世代の社会モデルが切り捨ててしまった身体への関心を内包していた。それがはっきり前面に現れたのが本書とみることもできよう。ここで言う身体とは、既存の障害研究がナイーブに言及してきたそれではない。社会のなかに位置し、語られ取り扱われてきた身体である。特に、第2章「ないにこしたことはない、か・1」と第6章「所属変更あるいは汚名返上としての中途診断」は、それぞれの仕方で正面からインペアメントに取り組む労作であり、障害学が今後考えるべき重要な課題を指し示しているように思われる。 第8章「インペアメントを語る契機――イギリス障害学理論の展開」は、現時点では邦訳書がきわめて少ない英語圏の障害学についての情報を読者に提供するねらいをもって、執筆を依頼したものであるが、編者の意図を超えた問題提起の稿となっている。併せてアメリカ合州国の障害学についても、別の方に原稿をお願いしていたが、残念ながらこちらは締切に間に合わなかった。そもそも、本書は、二〇〇一年春の刊行を目標に企画されたものである。一年半以上もの遅れを出した責任は、ひとえに編者にある。締切を厳守し早くから原稿を寄せてくださった執筆者の方々にはお詫びのしようがない。また、そのような編者を励まし、ねばり強くおつきあいくださった明石書店編集部の樺山美保さんと高橋淳さんに心よりのお礼を申し述べたい。どうもありがとうございました。 二〇〇二年九月倉本智明 >TOP ディスアビリティの削減、インペアメントの変換 石川 准著 17-46 ないにこしたことはない、か1 立岩 真也著 47-88 障害者を嫌がり、嫌い、恐れるということ 好井 裕明著 89-118 欲望する、〈男〉になる 倉本 智明著 119-144 声を生み出すこと 瀬山 紀子著 145-174 所属変更あるいは汚名返上としての中途診断 ニキ リンコ著 175-222 能力と危害 寺本 晃久著 223-250 インペアメントを語る契機 杉野 昭博著 251-280 [表紙写真] http://images-jp.amazon.com/images/P/4750316350.09.LZZZZZZZ.jpg 20021031:01 20030210:02 1000 20070520:03 0500 UP:20021011 REV:1018,21,22,24,26,1101,05,06,19,20030104,0207,09 20070817 20080108 ◇障害学 ◇『障害学への招待』 ◇『障害学を語る』 ◇身体×世界:関連書籍 ◇BOOK |