HOME
秋風光代氏インタビュー
20210126 聞き手:谷田朋美 於:Zoom
Tweet
■インタビュー情報
◇秋風 光代 i2021 インタビュー 2021/01/26 聞き手:谷田 朋美 於:Zoom
◇文字起こし:ココペリ121
■関連項目
◇
難病
◇
線維筋痛症
◇
CRPS:複合性局所疼痛症候群
◇
慢性疲労症候群
◇
なおすこと
◇
名づけ認め分かり語る…
◇
原因/帰属
c11
■本文
35分+53分
※聴き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
聴き取りが怪しいところは、【 】(hh:mm:ss)としています。
■■
[音声1 開始]
谷田:じゃあまず秋風さんの病気発症の経緯をちょっと教えてもらってもいいですか?
秋風:はい。えっと大学3回生の5月にスケッチ旅行に出かけて、あいにくの雨で、雨に濡れて3日間スケッチ旅行終わって、帰ってきたら、帰りがけの電車で風邪ひいたなっていう感じになり。寒気がして、鼻水が出て、くしゃみが出る。でちょっと軽く熱がある感じの風邪でした。
谷田:それがまあ最初で、
秋風:最初ですね。
谷田:そのときはどんな症状だったんですか? 風邪のような・・
秋風:そのときもういきなり、あの、はじめはただの風邪だったんですね。で次の日に気がついたときに、もう動けなくなってる感じ。もうどーんととても重いものが体の上に乗っかってる感じで動けない、で頭に霧がかかったみたいな、本当に何も。もう何が起こってるのかよくわからないし、人の言ってることもよくわからないし。ええ、とにかくもう体が重くて重くて動けなくなって、そのまま何日間か寝てた感じになってしまって。
谷田:そのときは一人暮らし?
秋風:一人暮らしです。
谷田:じゃあこれまでの風邪とは違う?
秋風:あ、もう風邪は、はじめの風邪はいつもの風邪。だけどその次の日に気がついたときは、その風邪ではなくなってたんですよね。風邪ではなく、もうとにかくひどい、ひどいだるさ、立ち上がれないような。
谷田:それはいつまで続い…、
秋風:それはね、今まで(笑)、
谷田:そうですよね。すごい今、愚問だと思った(笑)。
秋風:(笑) だから何十年続いてんのかな、1987年の5月に発症して、えっと現在、
谷田:えー、私の生まれる前?
秋風:え、そうなんですね。
谷田:もうその歳月を、
秋風:そうなんですよ。もう三十何年か。あの、何年になるかな。
谷田:39年だと思います。
秋風:え、そう…、39年になる?
谷田:39年になると思います。
秋風:え、そんなになる?
谷田:なります、なります。
秋風:え、なる?
谷田:今2020年、21だから。
秋風:私55歳だよ。55で、20…、
谷田:1981年ですよね?
秋風:私、間違ってる?
谷田:あ、発病は1987年だ。
秋風:7年、7年。
谷田:7年ですね。あ、じゃああれですね、まだ39は、いってないですね。
秋風:えっと32年ぐらい?
谷田:32年ぐらいですね。33年ぐらいですね。
秋風:33年、33年ぐらいですね。
石川:1(いち)じゃなくて7(なな)、7(しち)でしょ。
谷田:7(しち)ですね。
秋風:うん。7(なな)ですね。
谷田:なるほど。
秋風:うん。
石川:おかしいなと。
秋風:みんなおかしい(笑)、みんな死にかけでやってる(笑)。うん、1987(いちきゅうはちなな)ですね。これいちおうあのまあ、なんかこう書いといたので。これ5月に、これなんか大学に入るまでで、でこれ大学入ってから一人暮らしが始まって、で3回生になって、まあ車の免許春休みに取って、でそのあとのゴールデンウィーク。だからね、もう日にちがわかるぐらいなんですよ。5月何日っていう。
谷田:はっきりわかるんですね。
秋風:はっきりわかります。風邪ひいて次の日に動けなくなったから、もうすごいはっきりわかってて。
谷田:それからはどういうふうに対処されたんですか?
秋風:それからね、えーとあの、もう動けないし、これ絶対おかしいと思ったので、少し動けるようになってから、えーと大学の近くにあった大学病院に行ったんですね。
谷田:はいはい。あ、京大病院?
秋風:ではなくてね、あの、洛西ニュータウンが近くて、そこにあった関西医大っていうのがね、洛西ニュータウンに、
谷田:関西医大。
秋風:そうですね、あの、病院の名前とかどんどん言ってもいいですか?
谷田:あ、大丈夫です。
秋風:で、
石川:全然言って、あとでもし「あ、この名前まずいな」と思ったら、あとであの、伏せることも可能なので。今は大丈夫です。
秋風:そうですね、今とりあえず言っときます。
谷田:そうですね。
秋風:ただなんか、わからなかったっていうことで、そのね、批判されるっていうようなことがあったらいけないので、あの、いちおうまあ「近くの大学病院」っていうふうに書いてたんですけれども。
谷田:わかりました。
秋風:あの、そのころね、日本で慢性疲労症候群を知ってる病院はどこにもなかったと思うんですよ。あの、88年だったっけな、なんかあの、日本で研究が始まったの。[00:05:05]
谷田:研究がですか?
秋風:うん、もっとあとだったかな。とにかくね、私が発病したときはまだ日本で研究始まってなかったと思うんですよ。でそれで、だからどこ行ってもわからない状態だったと思います、きっと。で、「まあ膠原病かな」って、そのだるさっておかしいし。でなんかね、あの、顔に赤いあの蝶形(ちょうがた)のなんか発疹みたいなのが出てて、「あ、これ絶対、膠原病やわ」っていうふうに言われて、検査したら「違う」っていうことになって。で、「抗核抗体っていうのが、自己抗体が出てるけど、ちょっとだけだからこれは膠原病じゃない」って言って帰されてしまった。
谷田:じゃその、「じゃあ膠原病じゃなかったらどうしたらいいんですか?」っていうところは?
秋風:聞いてみたんですけど、ほかのまあ、だからそれから何回か行って調べたけれども、結局ほかの病気でも何でもなさそうだって。あの、一般的な検査だけなので、ざっと検査して疑わしいものは何もないので、「まあ、なんだろう、休んでたら治るんじゃない」みたいな、なんか(笑)、そんな感じになってしまって。「いや、そんなレベルじゃないです。すごくしんどいんですけど」って言ってもまあそんなので。で、私ももう脳機能低下だし、もうふらふらだし、立ってるのも大変なような状態だったので、まあ言われたら仕方なく帰ったんですけれども。
谷田:そうですよね。
秋風:で帰って、まあ寝たり起きたりしてて。それでも「大学行かなきゃ」と思って、まあ這うようにして。大学の目の前に住んでたんですけども、そのなんかもう見えてる大学に行けないんですよ。歩けない、5分も歩けない。で、あの、車持ってたから車に乗って、その5分とかのところまで車でしか動けないみたいな。で、身支度も大変だった。で講義に、まあ美術大学なので、実技もあるけれど講義もあるんですね。午前中とかの講義に行っても、今までなんか簡単にすこーんって入ってくるものが、どーんなにがんばっても入ってこないんですよ。で、一生懸命聞いてるの、必死で聞いてるんですけど、「なんで、この先生何言ってるのかわからないの?」っていう感じになって。で今度その、それを「小論文にまとめて書いて来てください」って言われても、今度まとめて書くのができないんですよ。もう集中するのに普通の何倍も何倍も何倍も力がいって。で、もう「なんだろう」って、「とにかく何かわかんないけどこれ、病気でもないって言われてるし」。で、もうなんかね、判断できなくなってたんだと思うんです。で、とにかくもう「惰性で生きてる」っていうかもう、いきなりそうなっていってて。
谷田:じゃあなかなか大学にも通えなくなっちゃった感じですか?
秋風:そう、行ったり行かなかったりになって、寝てることもありましたね。で、そう、で、うん、それでもずっと行ってないと課題たまってくるので。でそれでね、5月にそうなって、で課題全然できないまんまになっていってて、先生とかに「どうしたの?」って言われて。でそれで、「なんだかわからないんだけども、病院行ってもわからなくて、とにかくしんどいんです」っては言ってたんですけど。そしたらなんかあの、まあ鬱病とかになる人もけっこういるので、「あ、そんなのかな」みたいな感じで。あの美大なので、よけいにね。
谷田:ああ、そうか。
秋風:まあだけど、「ちゃんと課題出してね」って言われてて。でそれから6月に教育実習があったんですよ、私。あの、教員免許を取ろうと思って。で、まあそこから実家のほう帰って、中学校に教育実習2週間行かなきゃいけなくて行ったんですけど(笑)。
谷田:すごい。
秋風:もう死にそうになりながら行って。で立ってるのも大変なのに行って、で生徒さんとかに話もしなきゃいけないし、課題をまず「課題を考えろ」って言われるのか一番困ってて。あの、人の前に立って、なんかもうへらへらしてるのは何とかなってても、課題が考えられない、頭が全然動かない。で夜中までかかってやるんですけど、できないんですね。で2週間ほんと地獄のようで。そう、だから夜中までずっと残されてやらされてたんです。先生が厳しい人でね、「ちゃんとやれ」って言って。
谷田:ああ。わかんないですもんね、この病気。[00:09:47]
秋風:で先生にね、「なんだかわからないんですけど、頭がね、もう全然動かないんです。体もすごくだるくてぼーっとして、なんだか私おかしいんですけど」って、教育実習先の先生に言ったんですけど、「うーん」って感じで終わって、「まあ緊張してるのかな」みたいな感じで。でもまあね、手伝ってもらいながら適当な感じで終わったんですけれども、もうよれよれで。
でそれで今度、まあ6月その教育実習終わったあとまた大学に帰って。だから7月に、そのたまりにたまった課題がまた大学には残っていて。それをもう毎日毎日やらなきゃいけない。でも行ける日と行けない日があって、這いながら行ってやってて。でそれである日、お腹がこうぶわーって腫れてきてね、それでもやってたんですよ。そしたらあの、まわりで見てる人が、「なんかこの人おかしいから」って病院に車で連れて行かれて。そしたら急性虫垂炎、で、なってて、盲腸ですよね。でもうすぐ手術しなきゃいけないぐらいになって。で手術したんですけれども、なかなか回復しなくって。1週間でまあいちおう帰ってもいいことになったけど、1か月ぐらいもう動けない。熱が出るし、とにかくもうなんだかもう本当にわかんないしんどさで。でそのときもまあ虫垂炎ではあるけども、ものすごい白血球の数が高かったりとか、うん、「なかなか回復しない」って言われましたね。
でそれでまあそんなことがあって、どうしたのかな。でまあ家帰ったりとかもしてたので、自宅近くの病院もあちこち行って、なんか「なんかの病気じゃないかしら」と思って、ずっと微熱続いてるし、あの、内科とかにいろいろ回ったんですけれど、「なんかわからない」って言って。肺にはその白い影が、薄い白い影。
谷田:同じだ(笑)。
秋風:でそれが「お年寄りの肺みたいですね」とか「自律神経失調症でしょ」っていうふうに、なんかそういう感じでもう帰される。全部帰される。どこに行っても帰される。でもう仕方ないから、「病気じゃないんだったら…」って思いながら、まあ、うん。で車にも乗り始めたばっかりで、でしょっちゅうあちこちにぼこんぼこんってぶつけて、ちっちゃい事故しながら乗ってましたね(笑)。
で、それから、何言ったらいいのかな、うん、で、それでね、その秋、秋ぐらいまでなんとかがんばってたら、もうなんか心が限界になってきて、なんか鬱状態みたいになって追い込まれていって。「こんな体で、それで病気でもないんだったら、一生これで生きていかなきゃいけないんだったら、もう私生きてる意味がない」っていうふうにだんだん思いだして。何もできないし。
谷田:発症のときって何歳でしたっけ?
秋風:21歳です。で、
谷田:あー、そうですよね。
秋風:21ですね。で、その、22歳に、夏に22歳で。で、ちょっともう秋にちょっと鬱状態っていうか、もう追い詰められちゃって。で、それでふらふらしてると、アトピーでかかってる皮膚科の先生がいらして、まあ小さいときからかかってる先生でね、で、「どうしたの?」っておっしゃったので、まあ「そういう事情でしんどいんです」って言ったら、「ああ、じゃあ、あの自分の知り合いの精神科の先生を紹介してあげよう」っていう。で小児精神科医みたいな女の先生のところに紹介されて、行って話(はなし)したんですけれども、なんかそのいろんなこと、小さいときからの話とかをいろいろ言われるんだけど、ピンとこない、全然ピンとこない。で、「お母さんのひいたレールの上をずっと走ってきたんでしょ」とか言われるけど、それも違う。母にはいつも「もうやめなさい」って言われても勉強や好きなことは自分でやってきたのに、で好きなように今までやってきたのに、それもおかしいし。でもそれをね、言われてるのにハッキリと理解することができないんですよ、その精神科の先生の言ってることを。だから「なんでこの人がこんなこと言ってるの?」 ぼーっとしながらずっと聞いてて。で言われたら、「そこにじゃあ通ったら治るのかな」みたいな感じで、もう流されて通うみたいな感じ。だけど先生も結局はね、「精神的に何か重大な問題あるわけでもないよね」って言いだして。でもう軽い安定剤を1日に何個かくらいで、で、それでもうずっと。で「こんなにしんどいんですけど」って言ったら頭なでてもらって「つらいのね」とか言われて。「だから違うって」って「体がしんどいの」ってずっと言っても全然分かってもらえない状態で通ってました。
で大学のほうも、だからもうそんなのでほとんど通えなくなったり。で4年生までなんとか行ったんですけど、それでもう3回生のときに、ほとんど行ってないから先生に「私を留年させてください」って言ったら、「あなたを落とすぐらいなら他に落としたい人が沢山いるから」とおっしゃって「上あげるから」と先生も。後で教授から母に電話があったそうで、「 彼女はずっと頑張って来たので留年はさせません、卒業させましょう。卒業していたら大学院を受けて学ぶことができる」と言ってくださったらしいです。それで4回生に上げてもらったんですけど。制作室にソファーを用意して下さり、休み休み描くようにと言って頂きました。大学の理解があって助かりました。周りの学生もそっと見守ったり助けてくれました。恵まれてましたね。しかし身体はとても辛くて、食事も喉を通らなくなり、筆を持つ手に力も入らなくなって思うように描けずに涙を飲んでいました。その頃痩せていたのに更に10キロ痩せてしまいましたね。
石川:秋風さんずっと熱は高いままだったんですか? 下がってる時期もあったんですか? [00:15:04]
秋風:なかった。ずっと微熱続いてた。
谷田:微熱って何度ぐらい?
秋風:7度台の。
谷田:7度台。
秋風:で、大学の先生は、だからたぶん勝手に鬱だとみんな思ってたみたいで。
谷田:そう考えられちゃうんですよね。
秋風:うん。でソファとかを置いて、「ここに寝転んで休みながら、絵を描いたらいいから」っていうふうに。で、休み休み制作させて頂きました
石川:学校が?
秋風:学校がね、先生たちが勝手に鬱だと思ってらしたんだと思います。私は「病院に行っても何の病気かわからないんです」とは言ってたんですけどね。先生たちが「きっとそれは鬱なんだろう」みたいな感じだったんだろうと思います、で、もうなんか自分もまわりもみんなでこれは「鬱」みたいな感じになってきて、「私、鬱なのかな?」って。で精神科で聞くと、「でも、いや、はっきりした精神科の病気じゃない」ってずっと言われるし。で、それでなんとか卒業したんですよ。
谷田:えー。
秋風:あの、で、もう最後の半年はもう、ろくにものも食べられないし。で、あのね、食事の用意とかもできないし、もう着替えもなんか自分一人でできないし。なんか、で、それでね、精神科の女の先生に、「お母さん、とにかく半年間でいいからついてあげてください」って言われて。家族に相談して、母が下宿について来てくれて、で二人で半年がんばったんですけど、もうよれよれ、ほんとに。でいちおう学校は行ってるけど、筆持ってても手がぐーって震えるから絵が描けない。だけどそれでも、震えててもなんとか描いて出して、卒業はしたんですけど。もう一日ほんとに食事をすることもしんどいし、あの、消化も大変で、水飲むのも大変ぐらいになって。脳も激しく疲れるので話もできないような感じで、大学の横にあった脳外科病院でそこの内科の先生が、「これなんかおかしいから」って、朝点滴を打ってくださって毎日、で、それでなんとか卒業したんですよね。何も食べてないけど点滴でなんとか。だからもうね、10キロぐらいは痩せて、その。
谷田:それで、卒業後は?
秋風:卒業後はね、もう家で寝てるだけになってしまいました。
谷田:もともとこう希望っていうか、まあ美大に入られて、やっぱりその美術の先生になるとか、目標があったんですよね。
秋風:目標はね、べつに美術の先生ってわけではなかったんですけど、でもまあとりあえず美術の先生の免許を取って。で、うん、たぶん何にもなかったら先生になってたと思います。
谷田:でもやっぱりその、アーティストとしてやっぱり活躍するっていうことも、もちろん、
秋風:そう、あの、だから「仕事しながらできたらいいな」っていうような感じ。まあその、あんまり深くも考えてなかったっていうかね。作家になるにはまず大学院を目指すのが普通でしたし…。
谷田:なかなかこういう病気になっちゃうと、やっぱそれは難しいかなという風には、思いますよね、やっぱり。
秋風:ええ、ええ。美術の大学って、日本画とか私やってたので、それで作家をしようと思ったら二足のわらじがだいたい普通。うん。だからアルバイトしながら描くとか、あの、先生やりながらまあ余った時間でっていうようなかたが多いです。で、まあそういうこと考えてたんだけれども、その、二足のわらじどころか一足も履けないって。でバイトに行こうと思っても、家から駅まで行けない。まあたまになんとか行けても、駅のホームまで上がったらもう目が回って、その駅のホームのベンチで半日寝てるみたいなそんな感じでしたね。
石川:卒業後は一人暮らしを続けてたんですか? それともご実家に戻られたんですか?
秋風:あ、もうね、実家に戻りました。あの、一人暮らしはとっても続けられない状態で。
石川:ですよね。経済的にも、
秋風:経済的にも、だって仕事してないし。
谷田:かといってそんな、障害年金とか難しかったですよね。
秋風:もうとてもとても、うん。そうです、全然動けない状態になっちゃって。うん、だけど障害年金なんて、病名もついてないのに。
谷田:そうですよね。
秋風:でしょ。鬱病でもないし。
谷田:じゃあもう家に帰ってからは病院には通われず。
秋風:その京都の北区にあったその病院まで、
谷田:ああ、精神科?
秋風:ときどき通ってました。だけど行っても行ってもわけがわかんないっていうか。「先生何言ってんのかさっぱりわからない」みたいな。「お母さんとけんかしなさい」とか、その、
谷田:なんかトラウマ的な問題と。[00:19:55]
秋風:「自分の」、なんかこう「やりたいようにやりなさい」とか。「いや、やりたいようにやりたいけど身体が怠くて苦しくて動けないんです」っていう感じ。でも先生も困ってて。でそうこうしてるうちに、まあその、「ここの病院に通ってても仕方がないのかな」って思いだして。それでね、ほかの病院の精神科に転院するんですね。それがいつだったかな? いつだったっけ。うん、もうちょっとわかんない。いつだったかわかんないですけど、
谷田:大丈夫です。
秋風:転院すると、
谷田:それは大阪の近くの病院?
秋風:大阪のね、松下記念病院っていって、あの、父の働いていた会社の病院で家族に勧められて
谷田:の精神科?
秋風:そこの精神科の先生にかかったら、「いや、あの先生知ってるよ」っていう話で。あの「ちょっとあの先生じたいが今、大変な状態がいろいろあってね」とか言いだして。
谷田:ああ、そうなんですか(笑)、内輪の話。
秋風:そう。で、まあ女の先生だったんでね、その頃ご主人が急死されて、病院の副院長先生とかもしなきゃいけなくてとっても大変だったそうだからちゃんとした診断ができなかったんでしょって言われて。でそれで、「あなたは鬱なのに、鬱の治療をきちんとしてないからこんなふうになってるんですよ」って。
谷田:ここまでひどくなったと?
秋風:うん。って言われたらもう仕方がないっていうか、「そうなのかな」って私も思って。「鬱っていうのはこんなにしんどいもんなんですか?」って言ったら、「しんどいんです」って言われたから、「いや、もうそうなのかな、じゃあ鬱の治療をしたら治るのかな」って思いだして。でその先生の言うように、お薬をたくさん飲み始める。そしたらよけいにしんどくなって。
谷田:それは大変ですね。
秋風:ええ、もう。で「先生しんどい」って言っても、「いや、あなたがそんなこと言ってるから治らないんです」って。で、でもまあ、なんでもいいからとにかく治ればね、精神科でも何でもいいわって。
谷田:こっちは治ればいいと思いますもんね。
秋風:そうね。だからもうほんとに素直に薬を飲み続けて。そしたらだんだんだんだん、もうめちゃくちゃになっていって。で、
谷田:薬って当時どれぐらいのものを飲んでたんですか?
秋風:わからないんですけど、抗鬱剤とか、とにかくあの、きついお薬。急に、急にどーんって量も種類も増えたんですね。今まで軽ーい安定剤だけだったのが、まあきつい抗鬱剤とか、その何だろ、その躁鬱にならないような、なんか炭酸リチウムみたいなのとか、なんかよくわかんないんですけど、とにかくすごい量の薬を、「たくさん飲まないから治らないんだよ」っていうふうに。
谷田:それは悲惨な状況でしたね。
石川:そのころってまだ「鬱病」って浸透してなかったですよね、鬱病じたいも。
谷田:ああ、そっか…、ああ。
秋風:鬱病って言ってなかったかな。でも鬱病って言ってたような気がする、先生。
石川:【社会】(00:22:48)全体が。社会的に、そんなに鬱病っていうものがまだ、
谷田:ああ、認知は確かに広がってはなかったですよね、当時は。だから逆に精神薬の危険みたいなのもあんまり知られてなかったですよね。
秋風:ですよね、精神科のそんなね、薬そんなにたくさん飲まなきゃいけないかっていうこと全然知らなくって、まあ言われるままに飲んだんですね。うん。で、もうぶらぶらになっていって、どんどん。で、だからそこにしばらく通ってたけど、「やっぱりこれではいけない。ちゃんと体を診てもらわなきゃいけない」って思って、それで大学病院に変わろうと。けれども今度、大阪市立大学に変わったんですけど、市立大学変わっても、「今までじゃあどこに通ってたの?」って聞かれて「精神科で」っていう話になると、結局は精神科になって。で精神科もあの、その体の状態を私ずっと訴え続けたんですけど、あんまり相手にしてくれない。ざっとした検査しかしない、みたいな。で、もう同じように薬がまた、また増えていって、どんどんどんどん。まあそういう感じで。で、もう本当に限界になっていっ…。でもね、「なんとか入院させてほしい」と、「入院して調べてもらえば何か出てくるんじゃないかしら」。
谷田:検査して、
秋風:ええ、大学病院だったら何か出てくると思って。で、なんとか入院させてもらったんですね。私ね、入院させてもらったけれども、
谷田:それが何歳ぐらいのときですか? [00:24:42]
秋風:それがね、25歳ぐらいのときです。だからもうそこから何年もたって、25歳のときに、「このままではいやだから、大学病院へ入院して身体を詳しく調べてほしい」って。で、その前にも国立の病院とかにも行って、知り合いからつてで内科の先生に紹介してもらって。だけど、「これね、絶対なんか病気だと思う。だけど何にも出てこないから検査で、だから入院させてあげられないの、ごめんね」って言われて、で、帰されてるので。で、もうその市大の精神科の先生にすごく言って、なんとか入院させてもらって、でそこで「調べて」って言って入院したんですけども、ポリクリの先生はあちこちの科に連れて行ってくれたのですが、精神科の患者だとやっぱりよくみて貰えなくてだめで。精神科では「謎の精神病」って言われて(笑)。でそれでまたもうほんとに、だから「いろんな薬を試したら何かが合うかもしれない」っていうことになっちゃって。
谷田:ああ、精神科、
秋風:精神科のお薬。うん。でもう振戦麻痺っていって、もう震えがくるような。で、もう手も足も動かないくらいにひどくなって、もう大変なことになっていたときに、新聞の記事を、慢性疲労症候群っていう書いた記事が出てたのを、母が見つけてきてくれて
谷田:えー、すごいですね、まだこの時期にですか?
秋風:25歳のときです。26になってたかな。
谷田:あ、そんなすごい早い時期から、新聞に出ていたんだ。(00:26:01)。えー。
秋風:うん、記事、新聞記事があったのを母が見つけてくれてて、でそれを私、入院先で見て、当てはめたら全部症状が当てはまるから、「これだ」って思ったんですね、自分で。で先生に言ったら先生が「そんなばかなことはない」って言ったので(笑)、病院を抜け出すみたいな感じ。で、あの、調べてもらいに行きました。
谷田:それはどこに調べてもらったんですか?
秋風:阪大微研にまず行きました。阪大微研に、微生物研究所、山田池公園のとこにあった。でそこで詳しく問診して血液検査していただいたら、「99.9パーセント慢性疲労症候群です」って言われました。
谷田:へー、血液検査でわかるんだ。
秋風:長い問診は勿論、血液検査です。で、血液検査で言われて、で、だからとにかく、でもね、その、「薬をいっぱい飲みすぎてるので、何かわかんない状態になってるので、この薬を取ってください」って。でも自分で取れるような状態じゃないぐらい飲んでたので。でそれで「どこか精神科に」っていうことで阪大の精神科を紹介してもらって、そこに入院して薬を減薬したんですよ。
谷田:ああ、でもよかったですね、ちょっと、そこで出会えたのは。
秋風:うん。そうなんですよ。もうほんとにそれに出会ってなかったら、そのままわけのわかんない精神病の人になってた。
谷田:そうですよね。
秋風:ええ、本当にそうだと思います。で、そう、新聞の記事があったのと、阪大微研に行けた。阪大微研がすぐね、あの、大阪だったので、近かったっていうのと。
谷田:それ、いや阪大だったからできたことですよね、たぶんそれって、でも。
秋風:で阪大の精神科の先生が、まあその疑いがあるっていうことで入院させてくれて、ずーっと診ながら、「この人本当に精神病の人なのか、それとも慢性疲労症候群なのか」も診ながら減薬をしてくれるっていう感じで。でそのあと、そのあとね、阪大微研に戻ろうかと思ってたら、京大の先生がやってるっていう話がその阪大の先生の耳にも入って、で、「今は京都大学の先生のとこに行ったほうがいいよ」っていうアドバイスがあったの。でそれで、私、電話をしたんですね、京大の研究室に。それも京大の先生がその頃、新聞記事を出してたので。一番最初とにかくね、知ったのはだいたい新聞とかテレビとかそういうので知ってると思うんですよね。で京大のは新聞の記事で、で研究室の電話番号が書いてたのでお電話して、で秘書のかたにお話ししたら「手紙を書いてください」って。だけど「手紙が書けないんです」って言ったら、話をずーっと聞いてくださって。「あ、もうこれは、来てほしい」とおっしゃったので、その日だったかタクシーに乗って京大まで行って、でそこでまた問診でほとんどCFS との検討がつき、その後血液検査を受け。2週間後に確定診断が降りました「やっぱり慢性疲労症候群です」。で、そこからその京大の先生のところに今度通うことになったの。でも行ったらね、「向精神薬ちょっと残ってるやつ全部取ってしまいなさい」っておっしゃられて。もうそれは大変な思いをして、幻覚とかも見ながら、あの、
谷田:だってあれ、離脱症状ありますもんね。
秋風:ひどかったです。でも先生が「こんなの飲んでるからよけい悪くなるんだ。全部やめなさい」って言われて、全部取られました。で、そう、そこから漢方薬。
谷田:ああ、あれですか? 補中益気湯。[00:29:54]
秋風:補中益気湯、六君子湯と、それから私、風邪の症状がすごい強かったので、小青竜湯。「この3つをきっちり1日3回飲んでください」って「時間もずらさないでなるべく」。あの、なぜかっていうと「NK活性を上げたかったから」っておっしゃってました。「NKの活性を上げるには、時間ずらしたりしないで1日3回きっちり飲んでください」って、あの、その先生はそうおっしゃいました。とにかくNKの活性がすごく低い。でEBウイルスの値がものすごく高いから。でサイトカインもすごい暴走してるっていうような感じのことを言われて、で、まあその治療が始まって。でもその薬飲むのも本当大変で。でも「もうそれ飲まなかったら何もない」って言われたので。で、治したい一心で飲み続けました。
谷田:それも全部漢方なんですか?
秋風:漢方だけでした。あのね、その先生は漢方以外にもいろんな薬を使うかたなんですけども、私たちに出されたのはそのNK活性を上げる漢方薬。でそのあとまああの、「自費で買うんだったらこういうのもある」っていうことは教えてくださったり。あの、免疫賦活剤ですね、そんなのもありました。でも2年後に先生亡くなられたので。急逝されて、あの、がんになられて。そう、阪神大震災が1月にあって、で、すごくショックを受けてたら、先生が4月に亡くなって。それで、まだそのころ全然よくなってなかったので、どうしようかなって。でしばらくはそのお弟子さんの先生のところ、その先生と一緒にやってられた、研究してた先生のところに通ってたんですけれども、「うーん」て「これずっと続くかどうかわからないし、じゃあもうあの、阪大に一度戻ろう」っていう。であの、倉恒先生のところに訪ねていって、「お願いします」って「先生亡くなったので助けてください」ってお願いに行ったら、血液検査をしてくださって。「血液の検査が間違ってたら入(い)れない」っておっしゃったんですけれども、やっぱりそこでも慢性疲労症候群って。だから3回、慢性疲労症候群って言われて。で倉恒先生のところに通うことになったんですね。だから30歳のときから倉恒先生のところに通ってます。
谷田:でも、1980年代に発症したことを考えると、まだ早めに会えたって言えるんでしょうね。
秋風:そうですよね。ねえ、ほんとに長かったですよ。だけど、ほかの人にくらべたらね。
石川:大阪に住んでなければ、もしかしたら。
谷田:あ、そうですね。いや、おっしゃるとおり。大阪、関西だったからやっぱり、
秋風:そう、大阪だったから、大阪とか京都だから行こうと思ってもタクシーとかで、あの、お金かかっても行こうとできる。
谷田:やっぱり大阪大学も京大もけっこうね、全国的にも最先端の、
秋風:ですよね。
谷田:研究とかしてるから、わりと理解があるのかもしれない。
秋風:だからそこのそのね、だから一番最初に阪大微研に行ったんだけれども、そのあと京大行って、阪大にまた帰ったっていう、そこらへんをちゃんとしゃべっていいのかどうかちょっとよくわからないので。
谷田:批判するような話ではないので、大丈夫だと思いますが。
石川:京都大学で、そのとき何外来になってました?
秋風:どこ? 阪大?
石川:京大。
秋風:京都大学はね、専門外来ではなくって、あのね、先生が、えーとね、胸部疾患研究所っていうところに出ていらして。
谷田:胸部?
秋風:胸部、胸。胸の、胸部疾患研究所っていうとこに出てらしたんですけれども、だから京大病院ではなかったんですね。京大病院の外の胸部疾患研究所っていうところで診察を開いてて。
谷田:そんなとこあるんだ。
秋風:あの、がんのね治療をしてらっしゃったの。あの、ナチュラルキラー、「NKの活性を上げてがん患者さんを治す免疫療法」っていうことをまあ研究してたので、少しだけ患者さんをとってたっていうような状況。で、そこに慢性疲労症候群の患者さんを少しだけ入れてた感じ。
谷田:ほんとだ、ある。京大胸部疾患、
秋風:研究所ってあるでしょ、そこに行ってたんです。だけどそこはあの、たまにしか通えないっていうとこなので。で先生が、先生の自宅の近くの病院にバイトで出てるから、そっちにおいでっていうことを言っていただいて、で宇治の病院に行くことになって。でそこにずっとかかりました。
石川:大丈夫? 息、苦しくな…、しんどくなってきてたら休憩とか入れて。
谷田:休憩入れていいですよ。
秋風:入れよか。いい? 大丈夫?
谷田:じゃあ、ちょっと止めますね。
秋風:はい。
[音声1 終了 00:35:09]
[音声2 開始]
秋風:いいですか? でね、倉恒先生にかかってからの、えーと、今度ビタミン剤とか漢方薬とかをいただいて、なんとか暮らしてる感じ。
谷田:それ以来はもうずっと倉恒先生のところで?
秋風:そうです。
谷田:で、薬としてはビタミン剤と漢方?
秋風:そうですね、ビタミン剤と漢方、
谷田:ビタミン剤ってCとかですか?
秋風:ビタミンCとメチコバール、ビタミンB12と、それと漢方薬っていう感じ。
谷田:漢方薬はあれですよね、補中益気湯と、
秋風:と六君子湯と小青竜湯を、ずっと続けて飲んでましたね。
谷田:で、どうですか? 症状はちょっとよくなりました?
秋風:あのね、それまですごくひどかった、なんかあの花粉症みたいなアレルギー性鼻炎は、かなりよくなりました。で、まあその向精神薬を飲まなくってもなんとか暮らせるっていうか。うん。安定剤とかもほとんど飲まない。だけど不眠があって、睡眠導入剤とかはなんか使ってたと思います、ずっと。
谷田:今は使って…、
秋風:今も使ってます。あのね、頑固な不眠があって寝れないんですよね。で、寝ててもものすごく浅い眠りで、しょっちゅう目覚めるみたいな感じ。
谷田:ああ、似てる、その症状。
秋風:で昼間も、起きてるんですけど、なんかどこかで寝てるみたいな。
谷田:なるほど。
秋風:(笑) 居眠りみたいな、なんかそういう状態がずっと続いてます、よくなってもそれが。
谷田:どの症状もしんどいと思うんですけど、どの症状が一番しんどいですか?
秋風:うーん、やっぱり疲れやすい。疲れやすいっていうか動くと、動くとだるくなる。体に重りついてるみたい。と、それからその、なんか脳機能ですよね、なんかあの。
谷田:なんか霧がかかって、
秋風:そう霧がかかってる感じとか、あの、覚えられないとか、忘れちゃうとか、人の話を理解するのすごい大変とか、本がなかなか読めないとか。
谷田:なんか日本語の音はわかるんだけど、意味が取れないって感じですよね。
秋風:そう、音楽のように聞こえてるだけで、へらへら笑ってるしかないみたいな。
谷田:で問われると、「え?」みたいな。
秋風:そうそう。まだこうやって寝てるとわかるんですけど、座ってたり立ったりするともうほとんど頭に入ってこないみたいな。
石川:秋風さん、途中で別の病気じゃないかなと思ったり、別の検査、病院行ったりもした?
秋風:え、診断下りるまで?
石川:まあ診断ついてからも。
秋風:診断ついてからは、えーと、あの、脳脊髄液減少症?
谷田:うーん、そうだそうだ、その話だ。
秋風:それだけは行ったけれど、ほかのはなんかあの、倉恒先生のところで時々、ほか病気出てないか検査がずっとあって。「膠原病出てない?」とか「リウマチ出てない?」とか、「がんになってないか」とかずっと調べてくれていたので、だから行かなくてもすんでいたんです。
谷田:脳脊髄液減少症を疑ったのはなぜなんですか?
秋風:それもテレビ。テレビで子どもが7歳のときにやってて。でそれで「これお母さんみたい」とか、おばあちゃんと二人で子どもが言ってて。で私も見たら、「あ。えー、もしかしたらこれもあるかもね」って思って、それであの、熱海の篠永先生のところにお手紙出して。で予約をして診てもらいに行ったら、あの、「首と腰から軽微な漏れがある」っていうことで。はじめは「漏れてないかな」っておっしゃったんだけど、「よく見たらやっぱり漏れてる」とかおっしゃって。でブラッドパッチ。
谷田:じゃああれですか? アイソトープ、刺して検査しました?
秋風:そうそう、刺して、造影剤。
谷田:あれしんどくなかったですか?
秋風:しんどかったです。かえって半年ね、やっぱり寝込んだ。
谷田:私あれで、1年寝込みましたよ。
秋風:でしょ。なんかもう熱出て、で寒気がして寝込みました。造影剤がだめだったんじゃない…、
谷田:造影剤が。たぶんそうなんでしょうね。今考えると、漏れたこともあるけど、あの化学物質にやられたのかなって気はします。
秋風:ね、たぶん造影剤だと思う。すごく頭痛くなったりとか寒気がしたりとか。[00:05:03]
谷田:そうそう。頭の痛みがもう尋常じゃなかった。
秋風:ね、そうそうそう、一緒です。もう寒気で動けなくって。で近所の、家帰ってから近所のかかりつけの先生に言ったら、「たぶん造影剤だと思うから、たくさん水分摂って寝ててください」だけで(笑)。それで半年、なんか水分摂りながら寝てた感じ。
谷田:一緒だ。ひたすらオーエスワン持ってた(笑)。
秋風:そうですね。うん。で、あのまあ、その近所の先生のところに点滴に通って、あのブラッドパッチしたあと。
谷田:ブラッドパッチをして、やっぱ症状悪くなったんでしたっけ?
秋風:腰痛とかね、出てきたり、首痛くなったりとかありましたね。で、うーん、症状じたいはね、なんかわからない。「あんなことしたんだからよくなった」っていう気持ちがあって、「ちょっと楽になったのかな」って一瞬思ったりとかしたこともあったんですけど、結局はあまり変わらないっていうか、しんどさ全然変わらなくって、しんどいままで。まあ一日中かかって這いながら家の夕ごはんを作るみたいな、それで一日終わってるみたいな感じ。
谷田:あ、秋風さんって結婚されてるんですね?
秋風:あ、そうです。結婚の話、飛びましたね、なんか。30歳のときに倉恒先生のとこにかかって、で次の年だったかな、31歳ぐらいのときに、なんかあの、民間療法でね、まあ体全体のこうゆがみを治すっていうようなそういうとこにね、半年ぐらい通ったんですね。で、そしたらちょっと動けるようになってきて。で、「えっ」っていうぐらい元気になり始めたので、それであの、
谷田:整体でですか?
秋風:そう、あの、あのね、自然良能会っていうところに行ったんです。新大阪にあって。今やってるのかな。なんかわかんないんだ…、
谷田:自然良能会。
秋風:自然良能会っていうとこです。でそこにまあ1日おきぐらいに半年ぐらい通って、そしたら動ける感じになって。それまで家でね、もう寝たきりみたいになってたんで。で外に出られるっていうこともすごくうれしくって、外に出て歩けるっていうのがすごいうれしくって。で新大阪でふらふらしてから帰るっていう毎日を暮らしててね。だからそのなんか、それも楽しかったのかもしれないし、なんだかよくわからないんですけど元気になって。
谷田:そうだったんですね。
秋風:そう31歳のときですね、それ。で、まあ家の近所の神社に厄除けかなんかに行ったら、まあ宮司さんが「何してるの?」って言われて、「実はこういう困った病気で家にいるんだ」って。そしたらまああの「神社のお手伝いとかいろいろしてください」とかって(笑)。で、しょっちゅう遊びに行ってたんですね。そしたら実は絵が描けるっていうことをこうお話ししたら、あの、そこ妙見山で、「妙見山を立て直したい」っていう宮司さんの夢があって。ですごいもう、あの、もう古くなってね、ぼろぼろになって誰もあまり来ないような神社になってたので。「でもすごく実は由緒正しい妙見山だから、立て直したいんだ」って宮司さんおっしゃって。でそれでそこの絵馬を描いてっていうことで、で絵馬堂の絵馬を描くことができたりとか。「七夕まつりも復活させたいから、織姫さんと彦星さんの絵も描いて」とか言われたのを、描けるようになってて。それで大きい絵をペンキとかでわーって何枚も描いて、で奉納して。たりしてると、なんか結婚になったんですよね。あの、やってるところにまあその同じようなその、あの、歴史のことをやってる人。あの、古文書を読む人がまあボランティアで来てて、でまあその人と結婚したんですけど。
谷田:あ、そうなんですか?
秋風:そうなんです。で、何歳だ、33になる年かな、だから。
谷田:に結婚をされた。
秋風:32歳のときに結婚してるんだけど…、33歳だ、33で結婚したんですよね。で35になる直前で子どもができて。
谷田:すごい。
秋風:だけどその産後に私ね、ぎっくり腰になってしまったのと、すごい調子悪くなって、出血が止まらなくって。で両方で、慢性疲労症候群またどどっと出てきてしまって。[00:10:00]
谷田:でも逆に言うと31ぐらいでちょっと良くなった。それって何が一番よかったとご自分のなかで思われますか?
秋風:やっぱりその整体に、うん。それまでほんと寝込んでて、全然動けなかったんですよね。だけどそこに行ったら1日目からなんかこう体が動く。でもね、たぶんね、その整体行くまでにも、なんかいろんなことがよくなってた。
谷田:まあ漢方とかもやってますもんね。
秋風:うん。あのNKの活性とかよくなってきているところにその、でずっと寝込んでて動かなくなってる体をほぐしたので、それであの、ちょっと動けるようになったんじゃないかなって。
あの、EBウイルスの活性とかも、そのまだ倉恒先生のところにかかったときはまだあの、高かったと思うんですよ。だから京大にかかってるときはね、EBウイルスの活性がすごい高くて、「これが低くならないと危ない」っていうことを言われるぐらいひどかって。で倉恒先生ところにかかってからもしばらくあったと思うんだけど、いつからか、自分の免疫で抑え込んでるかたちになったんですね。
谷田:すごいですね。
秋風:だからそのあたり全部がこう、
谷田:いい感じで相乗効果があったのかもしれないですね。
秋風:そう。漢方薬とかね、それとかあの積極的に休むとか、自分の、
谷田:ビタミンCとか。
秋風:うん、楽しいことするとか。でそこに整体も一緒に加わって、なんかこう。で自分で治せてるっていうか、自分でやってることが体に合ってるっていうような、なんかそういうのでどんどんよくなっていったんですけど。でもね、それでもね、頭が痛いとか、なんかこう被さってる感じとか、それだけは取れなかったです。整体の先生に「この頭の症状を治してほしいんですけど」って言ったら、「それはできない」って。
谷田:それは一番なんか頑固ですよね、なんか。
秋風:そう。
谷田:じゃあ逆に言うと倦怠感はましになった?
秋風:倦怠感はちょっ…、いやでもね、倦怠感もあったけど。でもだいぶ楽になりましたね。
石川:四国に入院したのはそのあとですか?
秋風:四国はね、四国はブラッドパッチのあと。
谷田:ブラッドパッチっていつだったんですか?
秋風:は、えーとね、子ども産んだ7年後なので、35に7たしたら、42ですね。42のときにブラッドパッチで。で、そのあとね、
谷田:お子さんは一人?
秋風:一人です。一人産んだあとにすごい具合悪くなったので。で子どもも私一人ではとっても育てられない状態で。で、父と母とそれから夫と、みんなでもう必死で育てたって感じ。
谷田:女の子?
秋風:女の子です。
谷田:でもその結婚のときに、やっぱなんかこう体調が悪かったりすると、なかなかその理解って難しかったりするのかなと思うんですけど、どうやって理解を得られたのかなって。
秋風:(笑) 私ね、だから「倉恒先生ところに聞きに行って」って言ったんですね、もう、主人に。で、でもね、あの「ネットで調べて全部知ってるから大丈夫」とか言って、「いや本当?」って。なんかもうわかってなかったのかもしれないですよね。とにかく何も考えてなかったのかもしれないですよね、なんか勢いで結婚しちゃったみたいなね。
谷田:当時からもうネットってあったんですね。
秋風:ありました。なんかわからないけど、いくら言っても聞いてくれなくって。で結婚してからなんかこう、自分が見てる私、外で見てる私とは全然違うっていうことに気がついたみたいで。こんなに動けないっていうことにあとから気がついた、みたいな感じですね。
石川:いいときに、で、動けるときに出会ったんですもんね。
秋風:そう動けるときに出会って、で動けるときに結婚しちゃったんです。でそれで、だからあとからね、なんか…。「でもね、私の病気ね、そんな簡単じゃないから、よくわかって」って何回も言ったんだけど、「わかってるから、大丈夫だから」って言って、それでまあ結婚して。すごく助けてはくれたんですけど、だけどもうこんなに、なんか見た目よりも動けてないっていうか動けない大変な病気っていうことは、あとからわかったみたいです。で倉恒先生のところにもずっとついてきて、ずっとお話は聞いてくれてたんですけど。
谷田:でもすごい、それはよかったですね。
秋風:うん。だからもうあの、朝は洗濯できないので洗濯干してくれたりとか、週に1回掃除機かけてくれたりとか、まあ買い物連れて行ってくれたりとか、もうずっとやってくれてましたね。
谷田:すばらしい。[00:15:08]
秋風:でないと生きていけなかったから。「私、大変だから」っていうことはもうはじめっから言ってて。「こんなので結婚できると思う?」っていうことも言いながら、「でも大丈夫」って言うから結婚したんです。でも結婚してから「うわー、すごい」って思ったみたいで。
谷田:でもそれでもやるってことがやっぱり、やっぱりすごい、
秋風:それとそのころね、まだその、なんていうんだろ、もっと楽観的っていうか、その症状がよくなってきたら、どんどん元気になってくるっていうふうになんか思ってたし、なんか、うん、「治るんじゃないかしら」って思ってたり。京大の先生は「絶対治ると思っていなさい」ってずっと言ってたんです。「治らないって思ったら本当に治らないから、絶対に治る」って。で「もう治ってるじゃないですか」ってよく言われてたりとかね。もうふらふらで行ってるのに「もう治ってる」とか「治るんだ」っていうふうにその、暗示をかけるようなことずっと言う人で。
谷田:それは京大の先生のほうですか?
秋風:うん。京大のほうの先生はそんな感じの人で。だから「治らない」なんて、「先生、治らない」とか言ったらもう「そんなことないから」っていう感じで。あの、「自分で治らないと思う人は絶対治らないから」って、「治ると思っててください」って、「そう思うことでNKとかの活性が高まっていくんだから」と。もう絶対許してくれない感じだったんですね。で、だから障害年金とかの話も全然なくって。ただ先生亡くなったあとに市役所のほうから、私あの、国民年金ずっと父に払ってもらっていて、で「これなんとかならないですか?」って母に言いに行ってもらったら、反対に、「もうこんなに長いこと寝てるんだから、障害年金もらったほうがいいですよ」って役所に言われて。でそれであの、先生のあとにいた人に、いた先生にお願いしたらすぐ書いてくださって、で障害年金通ったんですね。
谷田:その障害年金は何で?
秋風:血液造血器障害で書いてもらって、慢性疲労症候群で書いてもらいました。
谷田:あ、慢性疲労症候群で書いてもらったんですか。へえー。
秋風:はい。あの研究班の先生でしたし、うん。
谷田:それはいつでしたっけ?
秋風:えっとね、先生亡くなってすぐです。だから私が29歳で、30歳になる年の春、4月に先生亡くなって。で5月か6月ぐらいにはもう、たぶん障害年金もらえたと。1995年です。
谷田:ごめんなさい私、ちょっとよくわかってないんですけど、身体障害とかにつく…、
秋風:あの障害者手帳とはまた別で。
谷田:また別なんですね。手帳は?
秋風:手帳はね、もうずっとあとです、それから。だから30歳になったときに障害年金。国民基礎年金だったんですけどね、私、働けてなかった、大学生のときになってるので。
谷田:そうですよね。でも20歳超えてたから。
秋風:うん、ぎりぎりでなんとかね。で、まあ書いたら、役所の人が「もらいなさい」って言ったぐらいだったので、すって通って。
谷田:えー、すごい。
石川:通ったとき、どうでした?
秋風:通ったとき? やっぱりうれしかった。それまでね、なんかあの、「どうして私、こんなにずっと寝込んでるのに誰も助けてくれないんだろう」っていうのがやっぱりあって(笑)。「嘘じゃないのに」って「本当に働けないのに、これでどうやって生きていったらいいんだろう」ってずっと思っていたので、うれしかったですね。
谷田:やっと病気を認められた、社会に認められたっていうような感じがあった?
秋風:そうですね。それ、うん、そうですね。で、あの、国民年金を免除してもらうこともなく父が払ってくれてたので、申し訳なかったので、うん。それもだからもう、これから堂々と免除してもらっていいんだし、反対に障害年金もらえるようになった。本当にその自分のその状況に合ったかたちになったので、うれしかったです。「障害年金っていうのはあるんだろうな、病気になったらこれもらえるはずなのにな」って、「でも私達は言ってはいけないのかな」みたいな感じだったの。
谷田:どうして「私たちは言っちゃいけない」って思われたんですか?
秋風:あの、だから、
石川:病気が…、ほかの人に言ってましたか? 病名とか。[00:20:04]
秋風:言ってないです。誰にも言ってないっていうか、言えないっていうか。
石川:そうでしょうね。旦那さんとか言ってもわかんない【感じでしょ】(00:20:10)、
秋風:そう、言ってもわからない。慢性疲労症候群なんて言っても誰も知らない。お医者さんに言ってもわからないみたいな感じ。
谷田:「だからきっと無理だろう」っていう?
秋風:そうです。こんなもう、で脳機能低下してるもんで、なんかこうちゃんと考えられないですよね。ずーっと脳機能低下したまんまで、ずっと寝込んでいるので、なんかろくなこと考えられないっていうか。「何でかな?」とは思うんだけれども、そっから先、深く考えることができないみたいな(笑)。
石川:すごいですよ。この病気抱えながらね、結婚されて、お子さまも育てて、もう無我夢中だったと思いますけど。で、それで病気のこともまわりにも言えなくて。
秋風:そう。
谷田:だって妊娠中とか、なんかつわりとかって
秋風:あ、しんどかったですけど、いつもしんどかったから、
谷田:ああ、変わらない感じで、
秋風:そのときのほうがまだましだったかなっていう。だからね、うん、つわりはしんどかったけど、10年間ものすごいしんどかったんですよ。あの、あんまりしんどすぎて、
谷田:最初の10年が。
秋風:そう。で、病院行ったら精神科って言われるし、なんかあの、で、どんなに苦しくても、もがいてても、病院行っても、打つ手が何もないんですね。で、あんまり「苦しい」って言ったら睡眠薬を注射されて30分寝て、で「家帰ってください」っていう状態とかね、もうそんなひどい状態で。「リンパ腺腫れて痛いんです」とか「心臓がどきどきして苦しいんです」って言っても全然何も診てもらえない。「体も本当にだるくて這い上がれないんです」って言っても精神科っていう感じで。なんかもう、もう本当に、もうこの、
石川:それはでも、慢性疲労症候群ってわかる前?
秋風:前がずっとそうだったので、それが5年間続いたでしょ。で、だから5年、5年間続いたあとに診断されても、その診てくれる先生は、その京大の先生のとこ行くとか、で倉恒先生のとこ行くとかいう感じで、それ以外の先生は誰も知らない。で慢性疲労症候群っていう名前もみんな知らないっていうような状態だから、なんか、うーん。で、もうその人と話しをするということもあんまりなくなってました、もうそのころ。あの、友だちとかも、ずっと寝込んでたので誰もいなくなってしまって、もう家で寝てるだけだったので。誰かと話をすることもないし、でPC も使えなくてネットもなくって、ただ一人で天井見て寝てるだけだったので。家にはいてたけど。
谷田:なんかそんな状況の中で何を希望にこう、なぜ生き抜くことができたって思いますか?
秋風:まあ死ねなかったから生きてた、みたいな。何度も、だからね、「このままだと希望ないから、死んじゃおうか」って思うこともあったんですよね、苦しいし。だけどね、あの、ビルから飛び降りようと思っても飛び降りれないんですよ、怖くて。最後はやっぱり「生きてたい」って思うんですよね。だからそれが鬱病の人とちょっと違うとこなのかもしれない。「もうこのまま生きてたらみんなに迷惑かかるし、自分もどうやって生きたらいいのかわからないから、死んでしまったほうがいい、死ななきゃいけない」っていうふうに思っても死ねないんです。だから仕方ないから生きてた。
谷田:今、「仕方ないから生きてた」っていう過去形なんですけど、今はどうでしょうか?
秋風:今、今は、今もでも仕方ないから生きてるとこもあるけれども(笑)、うーん、でも、まああの、生きてるってことは何かすることがあるからなんだろうな。まあわからないですけどね、まあ娘もいてて、もうおっきくなったけれども、また何かこう「助けて」っていうこともあるかもしれないし。で、うーん、まあそれが一番かな。それとか母とかも見送ってあげなきゃっていうのとか、まあ身近なことで言うとそういうこととか。うーん。で、まあ一緒にね、同じような病気の人たちがいてて、みんなでその、ちゃんとどこにいてても診療を受けられるようなかたちとかを、まあ普通の病気っていうふうに、で安心して暮らせるように、みんなでなっていきたいなっていうような気持ちとかね。[00:25:05]
石川:この病気の人と初めて会ったのっていつごろですか?
秋風:この病気の人ですか?
石川:病院以外で。
秋風:病院以外。病院以外で会ったのは、
石川:病院はね、待合室で「この人もそうかな」とかそういう、
谷田:(笑) 見てる段階ですね。
秋風:そう、いや、でね、京大行ってるときに一人ね、えーと、話しかけた人がいてて。でその人に、その人は四国の人だったんですけど神戸大学に来てて、、設計の勉強をして、で一級建築士になろうとしてたの。で就職したんだけども、卒業間近でこの病気になってしまってて。なんとか就職したんだけど、ふらふらで、で、仕事続けられなくて四国に帰ろうかなとか言ってるときに会社から京大の先生を紹介されて受診されてて、私に出会って。歳も近いし仲良くなって、それでうちに来てもらって話(はなし)したっていうのが初めてですね。うん。で、時々電話かかってきたりとかして、一人暮らししてたので、で、「ごはん作れないからどうしよう、何日も食べてない」とかいう話をしたりとか、その人と初めてですね。でその人もでも結局仕事辞めて実家に帰って、何年間かゆっくりしてて、その頃私が結婚して、彼女にも話はしていて、その後彼女もかなりよくなったっていうタイミングで結婚されて、今子どもが4人? 3人? 3、4人いてて、まあしんどいながら何とかやってるみたいですよ。
谷田:へえー。
秋風:旦那さんがけっこうね、まめな人で、家事とか万全にできる人で。
谷田:あ、女性なんですね。
秋風:あ、女の人です、女の人です。
谷田:4人、すごい。えー。
秋風:うん、なんか元気にやってる。
石川:お付き合い続いてるんですか?
秋風:あの、年賀状ぐらいなんですけど、最近ちょっとお話ししてなくって。彼女は「もはや、あの何でしんどいとかわからない(笑)」とか言ってますね。なんかあの、子どもの育児で疲れてるのか(笑)、年齢なのかわかんないけど。まあなんか、
石川:だけど***(00:27:16)回復したんでしょうね。
秋風:だいぶ回復はしたみたいです。だけどね、「やっぱり子育てしてるとしんどいから誰か助けてほしい」とかいうようなこと時々言ってて。「行政とかない?」とかいう話、したりとかしてましたね。
谷田:秋風さんは一番しんどかったの、やっぱりその最初の10年?
秋風:最初の10年ですね。もうそのしんどさが酷かったですね、まあでもね、慣れたのかもしれないです。しんどさに慣れてきて。で、その出産後にすごくしんどくなってきた状態があっても、もう前があるので、だから「こんなものか」って思ってるので大丈夫だったのかもしれないけど。でも寝込みかたは激しかったんで(笑)。
谷田:なんかこの病気って常にあるじゃないですか。なんかこうふとした瞬間に、やっぱりちょっとこうパニックになるみたいなことってありませんか?
秋風:あります、あの、混乱してきて。うん。何してんのかわからなくなっちゃったり、頭真っ白になったり。そう、このごろ、だからもうそうなったら焦らないで寝るっていうふうに、開き直るように。
谷田:でも眠れないんですよね、 あんまり。
秋風:うん。だから目つぶってずっと深呼吸してるとかね。うん。どうしようもなかったら安定剤使うときもありますけども。うん。あんまり使うとね、よくないし。まあとにかくパチッて切って寝てしまうっていうことができたら一番楽ですよね。
谷田:じゃあやっぱり、なんかしんどいときとかはけっこう寝るのがもう、
秋風:それが唯一の、唯一の治療法。
谷田:唯一の治療法。
秋風:寝る、休む。
谷田:そうするとちょっとましっていう?
秋風:かな、みたいな。
谷田:ちょっと乗り越え、ちょっと乗り越えられる、
秋風:それ以上ひどくならないですむ、みたいな。そう。何かしててもちょっとやると、そのあと横になって休むの時間のほうが長くって。だからもう本当にちょっとしか進めないですよね、いろんなこと。
谷田:そういう病気の自分を受け入れられたのって、あっ、受け入れられてます? 今。なんか、私なんかいまだに受け入れられないですけど。
秋風:受け入れられる…、
谷田:なんか「本当だったらこんなことができたのに」とか、なんか「今の自分が許せない」みたいなことってあります? そんなふうに感じたことはないですか? [00:30:04]
秋風:あります。ずっと本当に「もっと動けたらいいのに」っていうのはずっとあるけれど、あるけれど、うーん、やっぱ仕方ないから受け入れてるのかな。
谷田:生きている限り受け入れざるをえないですもんね。
秋風:そうですよ。だからなんか小さいことを「幸せ」って思うようにしようっていう。なんかあの、「今日空がきれいだった」とか「誰かと話できた」とか。あの、幸せであること、今持ってる幸せを数える。
谷田:なんか健康な人とくらべたりとかは?
秋風:あの「すごいな」って思うけど、「あ、自分は違うんだな」。うん。でも、それ思うとしんどくなるので、もうあの「あるがままでいいや」っていう。あの、おかしいかもしれないけど、お年寄りがなんかその、ごはんを食べて、なんかちょっと会話をして、でテレビ見て、お散歩して、で「一日楽しかったな」って生きてるみたいな。「私もそれでいいや」みたいな感じになってます。
石川:外にも出れないし、家族以外との社会との接触もなかったときだと、ない状態が今も続いてたら、そうはなれてなかったかもしれないですよね。
秋風:そうですね、ずっとそうだったら本当にもうなんか、うん、もう絶望してたかもしれないですね。うん。そう、私の場合31歳のときに、ちょっと元気になって結婚したっていうのが、
谷田:家族。
秋風:そうですね、家族。だからまあそれ、家族がずっと続くっていうか、なんかあの、ずっとそばにいるかっていうのはまた違う話だけど、いちおう子ども産んで育てたっていう、なんかね。
谷田:そうですよね。
秋風:うん、とりあえずまあ一つだけでも何かできたかなっていうのですよね、やっぱり。
石川:誰かに助けてもらうとか、その障害年金以外の何か助けってありましたか? ほかに。
秋風:結婚してからも、実家の父母に子育てなどかなり助けて貰いました。その頃の行政は、病気の母子への支援は、言ってもほぼ何も無かったですね。
ほかは26年目に、発病26年目に整形外科に行って、「障害手帳を取りましょう」って先生に言われて、それからですね。
谷田:へー、整形外科でですか?
秋風:整形外科にね、なんか腰が痛いか何かで行ったんですね。で、そしたら「どうしてそうなの?」って。そのとき病院にあった車いす、歩けなかったのでタクシーで行って、たぶん母が一緒に来てて、であの、もう高齢の母が、私の車いすを押して先生のところまで連れて行ってくれたのを先生見て、「何年間そんなことやってるんですか?」っておっしゃったので、「26年ぐらいこんなことやってるんです」って言ったら、「もう、すぐ手帳とりましょう」っておっしゃって。
谷田:けっこうでも、いい先生に会われたんですね。
秋風:ですね、そうそう。自分から動いてないのにいい先生に、もうぎりぎりのところで会って助けてもらってますね。
谷田:その障害手帳は身体障害?
秋風:身体障害で。
谷田:の何級ですか?
秋風:1級です。
谷田:ああ、すごい。
秋風:あの、体幹があったので、「長く座ってられない」っていうのを先生診られたので。長く座ってられないし、で足もあんまり動いてないし、で筋力とかもあんまりないし。「じゃあもう下肢と体幹とで両方で1級にしましょう」っていう話になったんですけど、結局最後は先生が書きやすいように下肢だけで1級になったんです。でも体幹があるから取れたんだと思う。
谷田:なんかあれですよね、身体障害って症状で見てくれるんでしたっけ? 疾患名とかじゃなくて。
秋風:疾患名はどうでもいいんですね。
谷田:症状なんですよね。
秋風:で私の場合、疾患名は慢性疲労症候群というのを主治医の先生とかにも書いてもらったんですけれども、それでは書きにくいっていうことで、あの、えーと、廃用症候群。「もう長いこと寝込んでて動かなくなったっていうことで書きます」っていうことで、整形外科の先生がやりやすいようなかたちで、廃用症候群、[00:35:19]
谷田:廃用症候群。
秋風:うん。たとえばほら脳出血とかで倒れて麻痺残ってみたいな、あの、でずっと寝込んでて、だんだん体が動かなくなっちゃったっていうような人。廃用症候群で障害手帳取る人ってけっこう多いんですね。
谷田:かもしんないですね。
秋風:うん。
谷田:これってある種の病気じゃなくて、
秋風:状態ですね。うん。だから「慢性疲労症候群で出すと、いろんなとこからいろんなこと言われるし、自分もよく知らないし責任持てないから」みたいな感じで。「まあ状態みたら、長く寝込んでて動けなくなってることはよくわかるので」っておっしゃって。
谷田:でもそういう、なんかやっぱり現場の先生たちの機転で救われてる人たちがすごくたくさんいるなっていうのを、ほんと聞いてて思いますね。
秋風:そうですね。ただその先生、そのあとその病院からすごく叱られたみたいで、「もう二度と書かない」っていう話になってしまって。私で最後だったみたいです。最初で最後だったみたいで。
谷田:そうなんですね。怒られちゃったんですか?
秋風:ええ、勤めてたその病院で、「そういうややこしいことするな」というふうに言われたみたいですね。
谷田:でも、そうでしか救われない人たちがいるのになあと思うんですけどね。
秋風:ねえ、そう。だからもうその先生、次かかったときに、「もしそういうことを望んでるんであったら、開業している整形外科のちょっと話のわかる太っ腹の先生のとこに行って頼みなさい」っていうことをおっしゃってました。「病院に勤めてたらなかなか自由きかないんだ」っていうこと。
谷田:まあ確かにそうかもしれないけど。
今、障害者、身体障害の障害者手帳持ってて、で障害年金もらってるっていうことなんですけど、なんかそれ以外に「こういう制度があったらよかったな」って思うようなことってあります?
秋風:それ以外に、
谷田:とくに?
秋風:あのね、今、障害年金も私、国民基礎年金も2級なので、本当に額が少なくて、それで生きてくことはまず不可能な額なので、学生のときになって動けなくなってる人たち、もうちょっと救済してほしいなっていうのと。それから特定疾患ではない、国の定めた難病ではないっていうことで、移動支援に介護タクシーとかは全部実費なんですね。だから結局は使えないっていうことがあって。
谷田:そうなんですか?
秋風:ええ。ちょっと移動すると本当にすごくかかるので。
谷田:いつも秋風さんが移動するときは介護タクシー?
秋風:介護タクシー。自分でその、だから自分で少しだけ運転できたりとか、バスに乗れたりとか、そういうときはそれでもいけるけれども、もう本当にしんどくって、のときだと介護タクシーしか使えないです。それか普通のタクシー乗って行って、もうぎりぎりドアのとこまで連れて行ってもらって、そっから先まあ車いす乗せてもらうとか。
谷田:じゃあけっこう外出されるときは車いすが多いんですか?
秋風:あのね、ちょっとは歩けるんですけど、長く歩けないので、車いす持っていくこと多いです。自分の車のうしろに折りたたみで積んでいくとか、介護タクシーに乗せてもらうとか。持ってないと、そこで立ち往生しちゃうことが多いですね。買い物とかもまず無理だし、歩いてはなかなかできない。
谷田:本当にあの、30歳前半のときがほんとにこう歩けてたし、ちょっと奇跡的に、
秋風:奇跡的によくなってました。
谷田:よくなってたってことですよね。
秋風:そのまま、だから元気になってくれるんだろうと思ってたんですけども、やっぱり、うんん、結婚していろんなことしなきゃいけなかったし、色々ありました。
谷田:出産とかもありましたもんね。
秋風:うん、そうですね。
谷田:何かこう悪化のきっかけって?
秋風:一番悪化はやっぱりあの、妊娠・出産。出産後にすごく悪くなりましたね、私は。元夫の実家との折り合いとか元夫の性格の問題とかストレスもありました。
谷田:だから、よくなってたけど、それで落ちゃったっていう感じですか? [00:40:04]
秋風:そう。妊娠中は散歩に行けるぐらい元気になってたんです。だけど出産後はもう全然散歩も行けないような状態になってしまって。うん、寝込む、家…、
石川:何度もよくなろうと思っていろんな治療法も試されたと思うんですけど、県外の治療とかもチャレンジしました?
谷田:県外の治療?
秋風:県外、あの四国の話ね。四国…。その前にブラッドパッチ、熱海にまず行ってブラッドパッチ。で3か月に一度ぐらい熱海に行ってました。その前は北九州までプラセンタ療法っていうのを受けに。
谷田:やりました、私も。
秋風:ね、それもなんか2週間に一度ぐらいずっと通って。まあすごくお金もかかるし、体力も消耗するっていう。
谷田:あれもちょっと怖いって言われて私もやめたんですけど。
秋風:ですよね。でもなんかもう、あの、
谷田:なんでももう、もう仕方がないと思って、リスクはあるけど。
秋風:わらをもつかむ気持ち。
谷田:つかむ思いだから、私もプラセンタちょっと後悔はしてるんですけどね。
秋風:でも動きたいですよね、元気になって動きたいっていうのがあって。だからお金もすごく使いました。で、そのあとはまあその四国の病院に、えーと、子ども10歳のときかな。10歳じゃない、7歳、8歳、9歳か。
谷田:その四国っていうのは、何の?
秋風:あのね、『【首を治せば病気が治る(首を治せば病気が消える)】(00:41:22)』という本を書いている人が、
谷田:あー
秋風:行かれました?
谷田:私、それは行ってないんですけど、首はかなりやりましたよ。
秋風:あの、首に電気あてて、
谷田:うんうん
秋風:鍼打って、みたいな。
谷田:鍼ね。
秋風:それをなんか入院してやるんです。入院してね、だから、
石川:【長期間】(00:41:51)入院しましたよね。
秋風:半年。
谷田:そんなに?
秋風:うん。半年入院して、首ぐらぐらになるぐらいまでほぐして、で「絶対安静で」っていう治療やりました。
谷田:そんなとこあるんですか?
秋風:あるんです、香川県に。
谷田:どうでした?
秋風:でね、治る人もいるっていう話なんだけど、見てたらあんまり治ってる人いない感じで。あの、みんな中途半端で帰るんですけど、でもまたやって来て、また半年くらい入院してとか。で今は半年入院できなくなって、3か月で帰されるようになってるらしいですけども。うーん、多少よくなるんですけど、家帰ったら家が大変なことになってて、よけいストレスを受けてまた悪くなるみたいな感じ。で結局はまあ、「うーん」っていう感じ。
谷田:あんまり?
秋風:うん。
谷田:まああれですよね、そこまで侵襲性がないから、そういう意味では安心なところはあるかもしれないですね。
秋風:ですよね。
谷田:プラセンタとかブラッドパッチにくらべれば。
秋風:ねえ、そうですね。それは確かに。
谷田:ただ半年間入院するとかっていうと、家や子どもは。
石川:あとたしかそこの病院ってなんか、検査だけで最初10万、20万しませんでした?
秋風:あ、あのね、私が行ってるときはそこまでしてなかったんだけど、だんだんだんだんなんかそこ高くなっていったみたいですね。
谷田:だって自費ですよね? ***(00:43:19)、
秋風:保険きかせてやってたのかな。うん。自律神経をはかったりとか、なんかレントゲン撮ったりとか、そのあたり自費じゃなくて保険でやってましたね。あんまり入院にはお金はかからないようにはしてくれてたんだけど。そこに行くと今度ね、だから首だけをその病院は治してくれるんだけども、院長先生は首だけ治してたら機嫌悪くなるんですね。(笑) でね、病院の前になんかあの、治療所があって、そこは自費で行くところがあって、そこで体全体にこう電気あてたり鍼を打ったりとかして、こわばりをほぐしていくっていうような治療を並行して受けないといけないので、結局入院代以外にものすごくお金かかるっていう。
石川:ですよね。なんかちょっとそれは合法なのかどうなのかって感じもあるんですけどね。
秋風:今はその外のね、治療所っていうのがなくなったらしくって、だからややこしいからなくしちゃったんでしょうね、きっとね。いろいろ私が行ってるあいだもいろいろ言われてたみたいで。
谷田:それこそ首だったら、川井鍼灸院って知ってます?
秋風:知らないです。
谷田:超カリスマ鍼灸師として有名で、なんか首を治すっていうところがあって。そこが1回3万とか4万とかするんですけど、行きましたよ。
秋風:えー。ああ。あ、でもそういうとこも行きました。そのあと私、中国人の人の中国鍼灸とか、あの、東洋医学みたいなの、中国から薬を取り寄せて、でそれで鍼灸、中国人のかたが打つっていうの、そういうとこも通いました。[00:45:12]
谷田:けっこう首っていうのは言われますね、なんか、
秋風:「首っていうのは脳の一部である」っていう考えかたみたいで。だからこういう状態っていうのは脳がどっかおかしいっていうか、悪いところがあるからって。で首に、
谷田:首が固定してないと常になんかボクシングで殴られてる状態になってるって言われて(笑)、「本当か」って思ったけど。
石川:甲田先生のとこには行かれてないですか?(00:45:40)
秋風:あ、甲田先生ところも行きました。
谷田:甲田先生?
秋風:あの甲田療法ってご存知ですか?
谷田:知らないです。
秋風:あの断食療法。玄米菜食とか断食とか、運動療法みたいな体操とかね。それとか水の中に、温冷浴とかね。
谷田:どこでやってるんですか?
秋風:八尾でやってたんです。八尾で、八尾に甲田医院っていう病院があって。
谷田:あ、聞いたことある。
秋風:甲田光雄先生っていうね、もう亡くなられたんですけど、おじいちゃんの先生がいらして、西式甲田式療法って、それやってらしてね。で、もう先生亡くなる直前に私すべりこみで行って、で、いろいろ教えてもらって。やってるときはちょっと調子よかったですけれども、やることが大変で。その、青汁毎日2回作って、で玄米を炊いて。食べれるのは玄米とお豆腐、木綿のお豆腐だけで、それにお塩をかけて、ごまの、練ごまみたいなのをつけて食べるだけで、あとは何も食べてはいけないの。青汁はだから朝と晩。
谷田:断食。
秋風:そう、で昼と夜だけそのごはんと、玄米とお豆腐だけ食べる。で、それを自分はやりながら、家族にはちゃんとしたごはん作って、でそれで先生に言われた体操とかをずっとこなしたり、お風呂はあの、普通の浴槽と水の浴槽を両方用意して交互に入るとか、もうとにかくノルマがすごいいっぱいあって、へとへとになってきて、「もうできない」みたいに(笑)。
谷田:玄米って無農薬とか。
秋風:うん、あの、先生のところで売ってるんですね。でそういう、だから材料も全部そろえることができるんですけども。でもそれも、だから1年ぐらいはやったかな、やったけど、もう嫌になってきてやめました。で今はゆるく自分でその、玄米とか、あのまあ普通のごはんに混ぜたりとか、青汁は1日1回作って飲んだりとかはしてるけれども、まあゆるくです。もうきちんとやったら大変なので。
谷田:これまでどんな診断を受けてこられたんでしたっけ? 化学物質過敏症も
秋風:化学物質過敏症はあの、診断っていうか専門医には行ってないですけれども、でもあの、今まで使えてた洗剤とか塩素系のものとか、えーとシャンプーとかリンスとか柔軟剤とか、あの、家で使ってるもう本当に洗剤の匂いとかも全部だめになってきて。目がちかちかして息できなくなるし。
谷田:光が見えませんか。
秋風:光が見えてたかなあ。なんか目がちかちかして見えないし、目開けてられないし。で何よりも口の中がおかしくなってきて、息できなくなって、咳込んで、すごく。で、そのあとめまいして倒れちゃうっていう感じになるので、「あ、これ化学物質過敏症だな」って。で、それで倉恒先生とかにお話しして、「うん、そうだと思う」っていうようなことで。
谷田:それはいつぐらいからですか?
秋風:いつだったかな? それって。ちょっと覚えてないですけど、結婚してからですね。もともとあの、そんなに化学物質とかが得意じゃなかったっていうか。あのね、小さいときからホルマリン、ホルムアルデヒドみたいな、ああいうのには反応してて。あの、ホームセンターとか行くと苦しくなったりとか、学校が新築だったりするとじんましん出たりとか。で、あの、アトピー、
谷田:シックハウスも?
秋風:そうですね、アトピーとかそのじんましん出たりとか、花粉症っていうかあの、鼻炎があったりとかするので、なんか嫌なものあるとすぐに反応するから、なるべく化学物質とか添加物みたいなもの摂らないようにするっていう生活はしてたと思います。ずーっと子どものときからね。で、どーんてひどくなったのは本当に、いつぐらいかな…、
谷田:出産してからぐらいですか?
秋風:出産してからですね。[00:50:01]
谷田:でもその、あ、この質問、嫌な質問だったら答えなくていいんですけど、でもやっぱり出産してよかったって思われますか?
秋風:あ、そうですね。
谷田:それはそうですよね。
秋風:まあそれはあの、そう。それは産まなかったらわからなかったこと、いっぱいあったなっていうのはありますね。そう、で、どうなるかわかんないけどとりあえず、その20歳まで育てられたなっていうの、
谷田:ああ。大人になるまで(00:50:37)、
秋風:そうそれまあ自己満足ですけど(笑)。自己満足ですけど、
谷田:いやいや、すごいです。私は無理だと思ってるんで、本当に。
秋風:だけどそれでいいと、それはそれでお仕事をされてたらそれでいいし、
谷田:いや、だからすごいなあと思って。
秋風:ううん。
谷田:育児も大変ですけど出産にも耐えられない気がして。だからすごい勇気だなぁと。
秋風:出産はね、大したことないことはないんですけど、あの、
谷田:いつも痛みがすごいですもんね(笑)。
秋風:だから、でも待ってたら産まれるから、子どもは。それはなんとか、
谷田:なんか終わりがあるっていうのはいいですよね。
秋風:で「待ってたら産まれるんだったら私は待ってます」って、だから2日3日かかったと思うんですよ。だけど待ってたら本当に産まれたので。先生途中で「お腹切ろうか?」って言ったんですけど、「先生、待ってたら産まれるんですか?」って言ったら、「そうです」って言ったんで「もういいや」って、「もう今までずっといろんなことも待ってきたから(笑)、待ってよう」って。
谷田:秋風さんけっこう強いんですね、やっぱり、痛みに。
秋風:あ、それは言われましたね。あの、産婦人科で「ここまで痛みに強い人見たの初めてだ」って言われました。ずっとなんか深呼吸しながら我慢してるっていう。
谷田:うーん、すごい。
秋風:あの、そうやって生きてきたので、慣れてる。
谷田:コロナになって、コロナの状況ってどういうふうに感じられてます?
秋風:あまり変わらないですよね。私たちははじめっからマスクして外に出るし、はじめからいつも感染症にはすごい気をつかってるし、で家から出られないのはいつものことだし。
谷田:で先が見えないのもいつものことだし、死が近いのもいつものことですよね。
秋風:そうそう。で仕事ができないのもいつものことだし。それよりもなんかあの、お医者さんが電話診療してくれるとか、薬屋さんが電話一本で持ってきてくれるとか、
谷田:むしろ状況よくなったところもある。
秋風:そうなんですよ、Zoom(ズーム)でね、なんかいろんな講座に入れるとかね。もうかえって私は便利になった感じ。
谷田:なるほど。すみませんちょっと、大丈夫ですか? 体…
秋風:あ、もうそろそろ。うん。
谷田:そうですよね。ちょっとしんどいですよね。じゃあ、言い残したことがあれば最後にお願いします。
秋風:肝心なことをお話し忘れていましたが、患者さんとの一番大きな出会いというのは、5年前に出会ったCFS支援ネットワークの石川さんですね。彼女との出会いによって心が解放されたというか、自分らしく生きるきっかけを貰えましたね。大阪府庁へ出かけて府議団への陳情や、大阪城のブルーライトアップなど夢のような活動をさせていただきました。彼女の存在は私たちCFS 患者にとって大きな希望です。出会えたことに心より感謝しています。
[音声2 終了 00:53:01]
*作成:
中井 良平
UP:20210928 REV:20211014, 1025, 1115,
◇
難病
◇
線維筋痛症
◇
CRPS:複合性局所疼痛症候群
◇
慢性疲労症候群
◇
なおすこと
◇
名づけ認め分かり語る…
◇
原因/帰属
c11
TOP
HOME (http://www.arsvi.com)
◇