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名づけ認め分かり語る…


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last update: 20211202

■目次

関連項目
新着(更新情報)
生存学研究所関係者/による文献など
立岩メモ
文献
引用


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■関連?項目


愛 love/帰属 belonging/承認 recognition r05
痛み/苦痛
感情/感情の社会学 sociology of emotions e01
原因/帰属 c11
告白・告解(confession) c18
個別性/普遍性・親密圏/公共性 p04
スティグマ(stigma) stigma
線維筋痛症
トラウマ/PTSD t06
トランスジェンダー/トランスセクシャル/性同一性障害 t05
なおすこと
難病(nambyo) n02
表象/イメージ/映像と生存 riv
複合性局所疼痛症候群:Complex Regional Pain Syndrome (CRPS) crps
慢性疲労症候群
Neglected Tropical Diseases


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■新着


引用更新 2021/11/18
◆メモ 「わかること/なおすこと」 立岩 真也(本頁内↓)


■とりあえず関係者の


大野 真由子(~2014/03/14) English

◆大野 真由子 2012/03 「複合性局所疼痛症候群患者の支援に関する一考察――「認められない」病いの現状と課題」,立命館大学先端総合学術研究科博士論文
◆大野 真由子 2013/03/22 「慢性疼痛と「障害」認定をめぐる課題――障害者総合支援法のこれからに向けて」「『障害学国際セミナー2012――日本と韓国における障害と病をめぐる議論』,生存学研究センター報告20
◆大野 真由子 2011/03/31 「「認められない」病いの社会的承認を目指して――韓国CRPS患友会の軌跡」,『Core Ethics』Vol.7 pp11-22. [PDF]
◆大野 真由子 2011 「難病者の就労をめぐる現状と課題――CRPS 患者の語りからみえる『制度の谷間』とは」『障害学研究』障害学会, Vol. 7, pp. 219-248.
◆大野 真由子 2011 「難病者の「苦しみとの和解」の語りからみるストレングス・モデルの可能性――複合性局所疼痛性症候群患者の一事例を通して」『人間科学研究』立命館大学人間科学研究所, Vol.23, pp.11-24.

山口 真紀 English

◆山口 真紀 20120331 「書評 出来事を思う「位置」と「距離」――宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』みすず書房、2007 年、228p.」『Core Ethics』8, p.525 PDF
植村 要・山口 真紀・櫻井 悟史・鹿島 萌子 20100331 「書籍のテキストデータ化にかかるコストについての実証的研究??視覚障害者の読書環境の改善に向けて」『Core Ethics』6:37-49 [PDF]
◆20090331 「〈自己物語論〉再考――アーサー・フランクの議論を題材に」『Core Ethics』vol.5:351-360
◆200803 「「傷」と共にあること――事後の「傷」をめぐる実践と議論の考察」,立命館大学大学院先端総合学術研究科博士予備論文

新山 智基 English

◆新山 智基 2014/09/10 『顧みられない熱帯病と国際協力――ブルーリ潰瘍支援における小規模NGOのアプローチ』,学文社 [amazon][kinokuniya]

藤原 信行

◆藤原信行,20070331,「近親者の自殺,意味秩序の再構築,動機の語彙」『Core Ethics』3: 301-13. ISSN: 18800467 [PDF]
 ……

中井 良平

●澤岡 優希

立岩 真也

◆立岩 真也 1997/09/05 『私的所有論』 勁草書房,445+66p. ISBN:4000233874 6300 [amazon][kinokuniya]
 第6章「個体への政治――複綜する諸戦略」
  第2節「主体化」:21主体化 22二重予定説 23公教育 24介入・成長・消失

◆立岩 真也 2004/01/14 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』岩波書店,349+41p. ISBN:4000233874 3255 [amazon][kinokuniya]

第6章 世界にあるものの配置
 1 それが留まってしまう場所
  1 そこに起こっていること/2 決めること・選ぶことという案
 2 もっと普通の答
  1 もっと普通の答/2 世界にあるものの配置/3 私との関係、から再び社会の解析

◆立岩 真也 2014/08/26 『自閉症連続体の時代』,みすず書房,352p. ISBN-10: 4622078457 ISBN-13: 978-4622078456 3700+ [amazon][kinokuniya] ※

◆立岩 真也 2016/03/31 「補章」,立命館大学生存学研究センター編『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』,生活書院,pp.180-230

 「[…]
□語らなくてすむこと・埋没すること
 肯定する/しない、受容する/しないことと関係しながら、自ら(たち)をまた他者(たち)を取り出すこと、自分(たち)とそうでない人(たち)の間に境界線を引くという営みがある。前節最後の吉野の議論が既にそのことに関わるものだった。
 一方に「語る」ことをわりあい肯定的に語る人たちがいる。そしてそうして自己を語ることがその自己を固定化してしまうといった指摘を受けると、今度は「語り直し」が言われるなどする。実際そんなことは様々あろうし、あった方がよいこと、それで楽になることもあるだろう。
 ただ、そう簡単でないとも思われる。(普通の意味における)身体にも変えられる部分とそうでもない部分、物理的には可能だが、ためらわれる部分もある。すると例えば記憶はどんなものだろう。不如意なものでもある。すくなくとも自在になるものだとは言えない。
 自分を規定する、差異化する、探す、そうした営みを心理に即して見ていくというやり方もあるだろう。ただ、それを必要とさせたり、促したり、容易にしたり、困難にしたりする要因・条件があったりなかったりする。それは何なのだろう、そこにどんな事情があるのだろうと問うことができる。
 自らを探求し、それが見つからなくとも、探求の営みを続けるということがよいことであるという、なにかしらの信仰が学の伝統にもあるように感じられることがある。それが気になっているのが山口真紀だ。論文に山口[2009][2011]等がある。そして、このことを巡る信仰の違いとでもいったものが現れたのは、アーサー・フランクを招いてのシンポジウムの時のことだった(→生存学研究センター報告5、有馬・天田編[2009])。通訳の問題もあったのかしれしれないのだが、山口の「語らずにすむ世界に」という主張は、なかなか通じにくいようであった。
 山口の主張は、煎じつめれば、よく言われることを単純に裏返しにした主張である。その単純な主張をしたらよいと思う。ただそれ自体は、一言言えばすむことであるかもしれない。その手前で、なぜ語ったり証したりすることが必要とされるのかを問うていくという道がある。
 探し、語ろうとするそのこと自体がよいことであるとされているから、というのが一つの答だ。そしてその「探求」は、帰属であるとか属性であるとかそんなものを離れたところに「私」を置く、そうした自由な私という方向に行くのがよいという立場からも言われる。
 しかし、それもまた窮屈な営みであるかもしれない。もう一方に、集合性、所属・帰属というものに包まれてある人間という捉え方があって、そこからも、私や私たちの存在のあり方が言われる。第3章1の安部彰の文章をそのようなところから読むこともできる。
 普通に「個人」「主体性」を言い、それに「共同性」が対置され、さらに双方を越えた「ポスト」の主張がある。個性そして/あるいは集合性の主張は外圧に抗する場合に強くなる傾向はあるだろう。それは抵抗の拠点となる。そのことはわかった上で、その危うさが言われてきた。石田の文章(第2章2)もそんなことに関わるのだが、線引きし、規定し、意味づけることによって分断を作り出し、支配や従属を作り出し、統治を維持することが指摘された。そんなことがあるのも事実そのとおりで、取り下げる必要はない。アイデンティティなどを平和に語っている領域と異なり、そんなに素朴でない(と自らを思う)学の流れは、おおむね「脱」を志向するものになる。これは、「思想」が自働的に進んで行ってしまう道筋であるかもしれない。そうした議論の布置を追っていくという研究も、あまりここではなされていないが、あることはある。ただ、図式そのものはほぼ固定しているようにも見える(cf.立岩[2004:chap.6]「世界にあるものの配置」)。
 あえてもっと普通に考えてもよいかもしれない。例えば適度な愛国心などは人を幸福にする。私ではないが私たちのなかの誰かがよいことをすると、それは私にとって誇らしいということはある。他方、負けても――真面目に没入してしまいひどく傷まって自分自身も危うくする人もいるのだが――自分自身が負けた時ほどには気にしないですむということもあるかもしれない。横浜ファンのような人たちがいて、勝てばうれしいが、負けてもそれなりに愛し続ける。これはなかなか得な処世術かもしれない。
 加えておくと、このように考えていくことは、帰属といったもののよさ、「神聖さ」を脱色する方向にも作用しうる。どんな時に、どんな事情で、人は何かに入れ込んだり脱したりしようとするのかと問うてみてもよい。

□しかし取り出され・証すことを求められる
 こうして私たちは、私は私であると思ったり言ったり、連〓ルビ:つる〓んだりすることがある。そして、名指すこと、示すことにまつわるもっと「現実的」な事情がある。人々・社会の対処を求めるために、みずからがそうして対処されるべき対象であることを証さねばならず、そして認めてほしいのに認められないということがある。また他人たちが人々のある範囲を囲い込むことがある。そして両者は時に別のことではない。
 大野真由子は、研究者としては自らが「複合性局所疼痛症候群(CRPS)」の人であることを言わずに論文を書いたが、始終とても強い身体の痛みととも生きることになる――前々項の続きで言えば、そのままでいればよい、とはとても言えそうにない――その病そして/あるいは障害を有する本人だった。大野は痛みに関わる種々の困難を記録し、それが社会的支援の対象にならないことの問題を取り出し、博士論文「複合性局所疼痛症候群患者の支援に関する一考察――認められない」病いの現状と課題」(大野[2012])を書き、その後、韓国での「障害学国際セミナー2012」で「慢性疼痛と「障害」認定をめぐる課題」を報告し、それは大野[2013]になった。
 自分が支援の対象であることを示さねばならないこと、しかもただ自分が語ったのでは信用されず、「客観的」な証拠を求められ、そしてそれがないとされる。「難病」に認定されず、制度が使えない。問題はこんな具合になっている。それに対して、たしかに足がないとか手がないとかいうレベルではないが、その痛みと生活上の障害とを示す方法・基準があるのだと返す手もある。それは現実的な対応だろう。その際、実際に障害と認めている事例があると心強いし、役に立つ。大野は、専門家の協力も得てそうした主張を行ない、一定の政策的対応がとられている韓国や米国の事情やそこの患者会について調べて報告した。
 ただ、まずは考えるだけなら、本人の申告だけでかまわないのではないかといった、もっと極端な立場を取ることができるかもしれない。つまり、支給するためには測れないとならないと言われるのに対して、ほんとうにそうかと正面から問うてみるという手もある(cf.立岩・堀田[2012:32ff.])
 ただ、大野は2014年3月にクモ膜下出血で急逝し、議論を続けることはできなかった。その死を皆が悼んだ。だが大野が書いたものは残り、HPでそれを見た人たちから時々連絡をいただくことがある。それは日本でも患者会を作れないかと考えている人によるものであったりする。さきに述べたこと、構造的に不利な立場にいる本人たちにせめて情報ぐらい提供すること、切れている回路を繋ぐことを手伝うという仕事の一端を、大学という、知に関わって恒常的に存在する組織が担う可能性が現にないわけではないことを思う。
 わかること、わからせることは必要か。何も問わない、言わなくてすむという状態をすくなくとも思考する際の一つの極として立てることによって、こんなことを考えることができる。なぜどんな場合に、知ったり測ったり区別したりすることが必要なのかという問いが立つ。
 イム・ドクヨン(林徳栄)は韓国のホームレスを巡る歴史を辿った優れた博士論文「「韓国におけるホームレス歴史研究――政策カテゴリーとしての「浮浪児・人」から「露宿人等」まで」(イム[2015])を書いた(その後イム[2016])。それが大野真由子のCRPSの研究とどんな関係があると思うだろう。ただ、この二つを並べて見い出せるものはある。イムは、戦後の各時期にどんな人たちがホームレスになりやすかったのかというその経緯とともに、為政者の側がその時々にどんな人を取り締まり~保護の対象にしてきたかを追って、それぞれの時になされたことを記していった。そうして取り締まられた人たちは、たしかに他人たちから取り締まりの対象にされたのだが、包摂と排除はときに別々のことではない。日本のことを振り返ってもそうだ。ハンセン病や結核の人たちが取り出され、取り締まられた。そして、取り締まれた後、閉じられた環境の中での生活を営むことになった。むろんその人たちはその処遇に反発し組織的な運動を起こしたが、例えば結核療養者のベッドに空きが多くなり、それを廃止しようという時には、それに対する入所者の反対運動が起こった。なにかであること、あることを示すことは、排除とともに救済を意味することがあり、この二つは時に別々のことではない。そこをどうしたらよいのか、どう考えたらよいのか。
 身体に痛みをもたらす病・障害とホームレスという一定しない範疇。独立した事象のように見える双方に関わることがある。複数のものがあることによって同じ問いがあることに気づく。そのことが次を考えさせることになる。

□わけを知る、ことがもたらすこと
 以上は人のある状態に対して、社会が何かをする、本人が社会に何かをすることを求めるそんな場面に、その人が何であるか、何であるとされるかが関わってくるということだ。わかることが求められるもう一つは、原因を発見したり、特定したりすること、そのことによって本人の責任を問うたり、その原因に介入し手を打つことによって、問題を解決しようといった営みのなかにある。
 その営みの全体を否定することはまったくできないだろう。原因が究明され、それで(実際には原因がわからないままということも多いのだが)対処策がとられる。原因の究明・発見が有効・有益なことはいくらもある。そして原因がわかることは、ときに本人の免責にもつながることがある。また刑事的には免責されるとともに、強制処遇・強制医療の対象とされることにもなる。罪と罰、責任と免責を巡るこの大きな問題については、本書でも第3章3でその文章が引かれた櫻井悟史や、犯罪被害者の救済という流れの形成・変遷を追った大谷通高の博士論文(大谷[2014])があるにもかかわらず、これ以上ふれられない。ただ、その刑罰・行刑や犯罪(の「二次被害」からの救済)の歴史・現在を研究しようという人たちと、精神疾患によるとされる犯罪・再犯の可能性に依拠する司法的・医療的介入について考える人がいる(p.229)。やはり、両者いて、そこから見えてくるものがあるしれない。そんな場がなかなかない。法学が対応すればよいだろうか。しかしその学はもっと縁取りがしっかりした折り目の正しい学問であるために、なかなか難しいかもしれない。
 そして、この原因をあげ、その知見に基づいて介入することは単純な営みのようだが、実際に、そこそこ複雑なことも起こす。社会科学者は社会に問題・原因を見出すのが好みだが、それで問題が社会の問題となり、個人が実質的に免責されるかといえば、そうなるとも限らない。(このことに関わる拙著としては『自閉症連続体の時代』。)
 それを本書でコラムを書いている(p.111)藤原信行が示している。その博士論文は「日常生活世界における自殺動機付与活動の知識社会学――自死遺族らによる動機付与のポリティクスと常識知/専門知」(藤原[2010])――その後の論文に『生存学』3(特集「精神」)所収の藤原[2011]の他[2012a][2012b]。
 自殺の原因がうつ病であるとされ、病気であるとされ、その病気の原因は例えば過労に人を追い込む社会にあるとされる。それが間違いだというのではない。そしてそれは、そのまま受け取れば、本人の責任も家族の責任も解除するものである。しかし、健康を管理する、すくなくとも気遣うのは家族だとなると、その兆候を見逃したのは家族だということにもなる。また、社会に問題があるといっても、社会はすぐには直りようがないないので、自分が医者やカウンセラーにかかって気をつけたり、家族が気をつけさせたりということになる。だから必ずしも免責にはつながらない。自殺した人の遺族にインタビューを何年も続けるという調査ができていること自体すごいことだと思われるのだが、そこで明らかにされたことの一つがこのことだ。
 また本(田中[2014])になった田中慶子の博士論文は家電店で携帯電話のセールスをするコンパニオンの話なのだが、その前年に書いた所謂「電通過労死事件」を追い分析した論文(田中[2013])でもこのことが確認される。この裁判で初めて、過労がうつ病をもたらし、それが自殺の原因だとされた。たしかに企業の責任はここで認められた。しかしその後にできあがった構図は上述のものだった。
 示そうとする人、仕方なく示さねばならないと思う人、それが億劫だと思う人がいる。示すことが意図と異なる効果を生じさせること、それで迷惑を被る人がいること。ここでも、複数性と、一見意外にも見える繋がりがあることによって、自らの研究主題における、わかること、示すことの位置を考えていけることがある。

□孤立が悪いわけではないが、そうもいかない時
 […]」

◆立岩 真也 2017/08/16 『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』Kyoto Books

◆立岩 真也 2018/11/30 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社,481p. ISBN-10: 4791771192 ISBN-13: 978-4791771196 [honto][amazon][kinokuniya] ※

◆立岩 真也 2019/01/15 「言葉を調べる――企てに参するを企てる・4」
 生存学の企て,gacco:無料で学べるオンライン大学講座

◆立岩 真也 2019/01/15 「名付けられること/わかること――企てに参するを企てる・5」
 生存学の企て,gacco:無料で学べるオンライン大学講座
 ☆は註ではなくパワーポイントの指示

 「自分の状態がなんであるかわかること、名前がつけられることは、一方ではよいことであると思われています。病気が隠されてきた時代から、今は正しい情報を知るのが正しいということになっています。自分で決めるためには情報がいるというわけです。たしかにそれはそうでしょう。
 しかしまず、どうにもらならないことがわかることがよいだろうか。これは「生命倫理学」と呼ばれるような領域ではわりあい論じられてきたことです。けれどもそれがそんなにいけているかというと私はそうは思わないのです。だから「生命倫理」を自分なりにやったとも言えるし、別のことをやってきたとも言える。それはすこしややこしい話なのでここでは措きます。ここでは、そういう死の病の告知というのとは別の場面を見てみます。
 さて、さきにはわかるのはよいことだと言いましたが、同時に、やめてくれと思う、腹が立つということもあります。ここもいったいどうなっているのでしょう。これも実はあまり研究されていないし書かれてもいないのです。
 病気が否定的なものとされている時にそうだと言われると、さらにはおおっぴらにそうだと言われると困る、恥ずかしい、嫌だということがあります。これはわりあいわかりやすい。ただそれとすこし別の、いやだという感覚があり、主張もあると思います。自分は病気でもなんでもないのに、勝手に病気だとされてしまう、と思うということがあります。これは、さっき言った、私たちは何を病気だと、障害だと言っているのかに関係するかもしれません。例えば本人は苦しくないのに、という場合がありそうです。
 ☆01ただ、さらに、それだけでもない。診断を求め肯定しながら、しかし、批判する人もいることがあります。さらに、肯定し否定している人はときに同じ人であったりします。「自閉症」などと言われている状態についてそんなことが起こっています。このことに関係して私が書いたのは『自閉症連続体の時代』という本でした☆01。
 ☆02病気・障害だとわかって喜ぶ人はいないという話もありますが、自閉症の場合、そうだとされて、また名前がつけられてよくないことはなんでしょう? 自分のせいではないことがわかるという場合があります。家庭環境のせいでなく、自分の努力の足りなさによるのでもなく、脳の神経の状態の問題だとなると、自分や親の責任でない、それで責められることがなくなる、楽になるということがありました。また、なおらないにしても、どうやって生きていくかそのヒントが得られるということがあります。
 ☆03他方で、診断されると、その診断のあとに続くベルトコンベアーのようなものに乗せられてしまう、マニュアル通りに扱われてしまうという危険が感じられることがあります。そう言われるとそれももっとなことだと思われます。
 さてどうしたものでしょう? 両方もっともなのだから間をとる、ということでよいでしょうか? しかしこの場合には「間」「真ん中」と言われてもなんだかよくわかりません。二つまぜて半分に割るということにはならないはずです。だからこれは考えるに足る主題だと思います。そしてじつは、こんなことについても調べてみるといろいろ出てくるのに、調べられてないことがたくさんあることがわかります。
 私はそんなことを調べて考えたいと思って、自閉症というような題名がついたりしている本をあるだけ買い込んで、はしから見ていくといったことをしました。それ自体、けっこう面白い現象だと思ったのですが、わりあい短い期間の間に、おもに自分たちがその本人たちだと思うことになった人が書いた本が百冊以上あります。アマゾンのマーケットプレースなどを使うと、近年のものはかなり簡単に集められます。☆04そうして集めた本は、みんなこちらのセンターの書庫というところに集まっています。古いものからただ順番に並べていっています。☆05そして一冊一冊についてホームページのページを作り、そのリストを作ったりしているのです。こうして簡単に集められるものから集めているので、またこれからそれは続けていきますから、使ってもらってよいですし、どんなことを知りたいのか言ってくれれば集め方を知らせたり、こっちで集めることをします。こうして、まともに当たると難題な主題について、人が既に書いたり考えたりしたことを使って、だんだんと考えていくことができるのです。

☆01 
 【『自閉症連続体の時代』表紙
 の下に小さく
 立岩真也,2014,みすず書房】
 http://www.arsvi.com/ts/2014b1.htm…表紙写真使用
『自閉症連続体の時代』表紙 ☆02 [PPT]
 【私のせい、親のせい、ではない
  病気で免責される、ことがある】
☆03 [PPT]
 【マニュアルは便利、
  だが危険な気もする】
☆04 書庫写真
☆05 HP、本のリスト:http://www.arsvi.com/b/b2010.htm
 ※この話に関係する、番組収録の後に刊行された本
◇立岩 真也 2018/11/30 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社 文献表

◆立岩 真也 2019/02/01 「「喩としてのマルコ伝」以後」(聖書とわたし),『福音と世界』2019-2:4 http://www.shinkyo-pb.com/magazine/




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■■メモ わかること/なおすこと




◇なぜわかることがよいのか ・ふにおちる 純粋な好奇心ということか。そういうこともないでいではないだろうし、
・わかると対処法があることもある。
 なおすことができる(とわかる)場合→なおす
 できないとわかる場合→補う
 (しかし
・免責 アセクシャル(→長島の研究)にもそういうところがある。不思議がられたり、人(と多くの場合異性の人)を紹介しようとしたり、という煩わしさから逃れられる(→次の■)。
 対処に対する費用の免除であったりもする。
 別の説明を否定する根拠になる 例:自閉症についての家族要因説の否定(cf.『自閉症連続体の時代』)
・政策、費用支給の対象になる。例:介護保険、障害基礎年金… なぜ認定は必要(とされる)か?→虚偽を排除する必要がある。実際私たちは嘘をつくことがある。
・しかし、まず、このことと、「病名」がわかる必要がある ということとは別のことだ。
 実際に、……
 動かないから その理由がなんであってもそれは関係はない
 障害学が言ってきたことはそういうことだった。つまり、……よりも(生活していくにあたっての)状態であるということだ。これはまったくもっともなことだ☆(社会モデル…)。
 嘘をつくかもしれないとか、そんなことは気にしないほうがよい、それでもよいではないかと言いたくなるところはある。実際、「不正受給」の告発は、多く全体の抑制とともになされる。しかし、そのことには注意を払うべきであるとしつつ、それでは公平ではないという不平は間違っているとはいえないだろう。
 とすると、なくしはしない。代わりに、

◇わかりたくない。わかられたくない
・わかりたくない。なぜか。A:自分にとってよくないことが起こることを予め知りたくないという動機。これはまったくもっともな動機だと思う☆。
 B:「残された時間」になにをするか。これももっともではあるが、BのほうがAよりも大きい、とは言えない。
 とすると、自分は自分のことを知るべきだ。なぜか、自分のことを制御するために。これは
 そのよくないことは、死といったどうにもならないもの、だけではない。
 されたくないことをされてしまうという場合もある。例えば自閉症。親の責任説が否定されたのは(とくに親にとっては)よかった。代わりに、脳神経の障害説。すると、脳をなおしましょうということになる(なりうる)。それでは困る場合がある。
・わかられたくない。
 1)マイナスの意味が付与されているから※。それが間違っていると言うことはできる。そのように言うことは正しい。しかし、言えば現実が変わるというものではない。動かない現実を前提とせざるをえないこともある。
 とすると、するべきことは2つ。
  〈1 正論を維持することはやはり大切
  〈2 「晒す」ことをしなくてすむなら、しないようにすること。
 2)できないこと、等、がわかられてしまう~首になるかもしれない
 →澤岡の研究、駒澤の研究

 労働の場は、(すくなくとも一部の人には)わかられることを認めて働くことの利益と、わかられることによる損失(の可能性)を天秤にかけねばらならない場。そこでの葛藤
 →ではどうしたら? 利用率制度~割当雇用という仕組みがよくない、やめようという主張はありうる。しかし「差別禁止」という方法のほうがこれより常に優れているわけではなく、それを採用すべき(するしかない)理由はある→。  とすると、導かれるのは、結局、「建前」を繰り返すことになるのではあるが、知らせる・知られることに伴う不利益をなくす・減らすこと。就労・労働のほうに向かう圧力を減らすこと。つまりは仕事しないと生活できないという度合いを減らすこと。   →以上は、駒澤論文へのコメント(の一部)でもある。

◇範疇~個別
・「一括り」にされてしまうことへの抵抗
・医療社会学。はなぜ否定的だったのか。~支配に結びつくというものだった。
 その社会・文化の言葉 それには言葉はたんなる道具でないという認識が関わっている。
 伝統的な世界観、生活世界の破壊、への侵襲…
 他方、例えば医学は、なぜ肯定的だったのか? なおすことに結びつけられるからというものだった。

◇どうのこうの言われたくないから、名付ける

・例えばアセクシャル(→長島の研究) ほんとはほっといてほしいのだが、なかなかそうもいかない。そういう時に、
・例えば自閉症
 これは(いやなように)言われないために別のことを言うということである。とすると、言われたくないことを言われないのであれば、べつに名付けたりする必要もないということになる。

■どうするか

◇再確認:なぜこじれるのか。ややこしいのか。
 他人(たち)の都合が入ってくるから(『不如意の身体』)。
 &求めているもの、避けたいこと…が複数の種類あり、その有無や度合い、本人と他人たちの間で異なる(『不如意の身体』)。例えば、痛いことには本人にとっては辛いことだが、他人たちにとっては、とくにその人から遠ざかることができるなら、さほどのことではない。

◇ではどうするか
 0)まずわかっておくべきことはわかっておく。つまり↑
 1)他人(たち)の都合が強く作用しないようにする。
 いくつか具体的なことを
 2)「わからないと(わからないことを理由にして)なにもしない」といういうのはだめ。原因がわからなくても、名前がついてなくても、できること、なすべきことはある。→中井の研究
 3)自分が知る・人に知らせなくてもすむようにする 例:遺伝子情報と保険について→「未知による連帯の限界――遺伝子検査と保険」→『弱くある自由へ』
 4)わからなくてもやるべきことはやる。

◇「難病」より引用 cf.痛み・苦痛
痛み
 「どのように認められないものを認めさせるか
 難病体制は、「その他」を取り込むものとして機能してきたことを述べた。では現在、「その他」として何が残っているのか。実際に多くの人たちが困っているのは、痛いとか疲れるといった状態にあることだ。いまある名称としては「慢性疲労症候群」とか「線維筋痛症」といったものだ。私が知る人で「複合性局所疼痛症候群(CRPS)」について論文を書いた大野真由子はその症候群の本人で、韓国や米国ではそれが障害に認定されていることを紹介する論文等を書いて、博士論文にまとめた(大野 2013)。
 これらの症状・状態をもたらす機制は少なくとも今のところはよくわからないようだ。この時代の医学・医療が得意とするのは、身体の特定の部位に病巣を見つけ、それをなんとかするというものだが、痛みや疲れはそうしたものではないように思える。だから、なかなか得意でないということが一つにある。わからないし、自分たちはたいしたことができないし、手術といった派手なことをしてさっぱりとなおせるというものでもない。関心をもちにくく、避けようとしたり、心のもちようだなどど言ってしまったりする。しかし、身体に起こっているその様子を見れば、どこかに理由はあるのだろう。解明はなされた方がよいし、基本的な機序がわからなくても、なぜかある対処法が有効であるといった場合は、他の疾患でも多々ある。そうした部分で医療はもっとできることはある。だから、現実にはさぼってしまいがちなのだが、さぼってはいけない、医学・医療はきちんと仕事をするべきだと前節で述べた。
 では難病指定を求めるという方角はどれほど有効か。疲労や痛みは、すくなくとも何十万という数の人たちのことだから、希少性という条件は満たさない。それはそのような条件を設定している側がわるいのだという主張はもっともだが、難病の定義を広げてその法律のもとでという要求の方向とともに、どの法律にいれてもらうかはどうでもよいからなんとかせよという主張ももっともだ。
 そしてより大きなことは、指定を得られたとしてどのぐらい得をするかということだ。不得意であっても、関心をもちにくくとも、あるいはだからこそ、対処法の開発はなされるべきだ。それは主張するべきだし、実現するべきだ。その状態を難病指定ということで得られるならそれもよいが、他のより多くの人たちがかかっている疾患と同様に研究がなされるべきことを主張してもよい。
 そしてもう一つ、この難病の枠のなかでは生活の部分は基本的には対応されないということだ。痛みや疲労が「その他」であってきた事情は、医療の対象になってこなかったという事情とともに、障害者関係の法で規定される障害の範囲が狭いままであることによる。今一部で起こっていることは、そのすきまの部分を病気~難病という範疇をもってきていくらか埋めようという動きであるようにも見える。その事情自体はわからなくはない。しかし、それは本来は筋が違うだろう。医療以外の社会サービスの多くは障害に関わる法・制度によって対応されるべきである。なんらかの身体的な事情に関わって不都合が生ずるのであれば、それは障害であるとにするのが理屈としては一貫しているし、疲労や痛み自体をなくす技術がない、すくなくとも十分にはない間はそうするべきだし、そうするしかないということだ。
 だから、疼痛・疲労などによって活動・生活が妨げられることを勘案してこなかった障害認定のあり方を変える必要がある。障害は普通に可視的なものとして想定されているとすると、たしかに痛みや疲労は見えやすいものではない。足がないとか手がないとかいったわかりやすい欠損・障害ではない。しかしわかりやすかろうとわかりにくかろうと、不都合・不便はある。場所・機序・名称…がわからないことは多々ある。本来は所謂「インペアメント」の場所が特定されていることを障害を有することの条件にしてはならない、不便(ディスアビリティ)の方を見よ、というのがずっと言われてきたことであり、ようやくいちおうは認められるようになってきたことだ。
 すると一つ、疲労や痛みは誰もが経験することだと言われる。それ自体はその通りだ。しかし、程度の差というものは時にまったく重要・重大なことであり、「普通の人」もいくらかは経験するという事実は、それをたくさん経験している人にはなにもしなくてよいという理由にはまったくならない。
 一つ、その状態とその程度を測定することができない、あるいは困難であることが言われる。尺度自体がないわけではないらしいが、客観的な測定といったことが他のものよりは困難であることは認めよう。そして、その本人が言うことに依拠せざるをえない、というより依拠するべきである。それなのに、制度的な対応を望むと、「客観的な基準」が必要だといったことが言われる。なにかしらを測定する方法はすでにあるのかもしれないし、これからできたり改善されたりすることがあるだろう。しかしすくなくとも現在は、そしてたぶん今後も限界はあるだろう。痛みとか疲労といったもの、それがその人において感じられるものであることは誰もが認める。その人の言葉によってわかるしかない部分がある。ここ数十年「ナラティブ」とかそういうものが大切だとさんざん言われた。この間、人文社会的な言論はそんなことは言ってきたし、そのぐらいのことしか言ってこなかったともいえる。他にも言うことがあるだろう、芸が足りない、と私は思うが、言っていること自体は間違っていない。にもかかわらず、結局その一芸は生かされていない。これは困ったことである。
 まず、疲れるものは疲れるし、痛いものは痛い。そのこと自体について、嘘をつく要因はない。だからそれは、解明され軽減のための技術が開発され改善され適用されるべきだ。
 疑いをかけられる場合があるとすればそれは、サービスやお金の受給の場面、そして労働の軽減が求められるといった場合だ。「詐称」「詐病」の可能性が言われる。つまり、ほしいので、あるいは働きたくないので、嘘をついているのではないかということだ。
 たしかに人は嘘はつける。嘘をつく人はいないと言い切る必要はないと私は思う。しかし、それがどれほど大きな問題かと考えることだ。さほど大きな問題ではないというのが答になると考える。
 まず一つ、社会サービスは、人にやってもらうということであって、人にもよるし、場合にもよるが、たいがいの場合には、自分でできるなら自分でした方がさっさとすんで、気も楽で、それでよかろうということになる。一つ、ものとして支給されるものについて。疲労を補うための「自助具」などあまり考えつかないが、もしあったとしてそれは、不都合を補うためのものだから、不都合がなけれはいらないものである。すると残るのは、生活保護などの所得保障であり、労働の軽減措置等である。
 疲れていないのに疲れていると言って公的扶助を得ようとする、その可能性はないではない。しかし、実際には働いて収入を得ているのにそれを隠してというのではなく、現に働いていないのであれば、あれこれ理由は求めず、公的扶助がなされてよいという主張は可能であり、私は妥当であると考える。そして働けないと働かないとの間はときに曖昧であり、それをとやかく言わないほうがよいという理由も加えることができよう。そしてそれで社会が大きく困ることはない。そして、ことのよしあしはともかく、多くの人は働こうとする。その意を汲もうというのであれば、むしろその人の申告に応じた方がよい。つまり、まったく働けないとしてしまうのではなく、その人の状態に応じて、いくらかを軽減して働いてもらう。それでよいはずだ。
 そして疑われる側の人には次のように言える。病気をしてそれで身体がうまく動かないとか、長い時間仕事ができないとったことはある。そのことをすっと受け入れて、必要なものは必要だと言い、そして必要なものを受け取るという当たり前なことにためらいがあるなら、なによりそれは(不当に)損なことだから、やめた方がよい。とすれば、そのように思えるように、求めると疑われるからといった理由で、求めること阻害しないように制度の側はあった方がよいということである。つまり、本当は痛くないのではないか、疲れてはいないのではないか、気のせいではないか、と、そんなことがないではないとしても、言わない、言わないことを前提に制度を組み立てた方がよいということだ。」

■なおる/なおらない/なおさない なおすこと
 【全部ひっくるめて考えたとき、なおる/なおすことはいいことなのだろうか】

 なおらないのになおす(なおそうとする)。その行為には負荷がある。そしてその負荷(苦痛)は本人のもので、他人には気にならないことがある。それでなおらないのになおそさうとされる。
 さらにもうひとつやっかいなのは、「ほんとうに」なおらないかどうかはあらかじめわからないことのほうが多いということ。
 そんなことで、なおされる。なおらなかった人たちはその時子供だった。なおせなかった人たちはそのことを言いたくない。そのままになる。
 →小井戸の研究(小井戸[2001])☆

◇立岩 真也 2019/01/15 「なおる/なおらない/なおさない――企てに参するを企てる・3」生存学の企て,gacco:無料で学べるオンライン大学講座 全文+
 なおらないなら仕方がない、なおす人はなおす。けれども、そうと決まったものかという問いがあります。
 「障害を肯定する」とか、「なおさなくてよい」とか言う人がいます。そのことをどう考えたらよいのか。「不便だが不幸ではない」という言葉もあります。この言葉は、そうかもしれないと思うとともに、なにか無理をしている、やせがまんをしているようでもあります。そんなことを考えるという主題もあります。
 「全部ひっくるめて考えたときに、治る/治すことはいいことなのだろうか、明日にでも治りたいという人もいれば、ひとまずはこのままでいいやという人もいる――そういうあわいというか境といったものをちゃんと考えましょうというのが「生存学」のスタンスです」。これは『考える人』という雑誌のインタビューに応えて述べたことです。
 私たちのところにいた大学院生で、SJS(スティーブンスジョンソン症候群)という、変わった障害というか病気で目が見えなくなった人がいました。植村要さんと言います。目が見えないから、見えるようになった方がよい、とは彼も思うわけです。実際、そのための手術もあったりして、なかには、拒絶反応が起こらないようにするためでしょうが、自分の歯を取り出して削って眼球にするというなんだかすごいやり方もあるのだそうで、彼はその手術を日本で最初に受けた人のことで1本論文書いています。
 ちょっと脱線して言っておきますが、世界で、とか日本で最初、というのを、まだ人が書かないうちに調べて書くというのはよいです。人が既に知っていることのなかから、知らないことを探し出して書くというのはけっこう高級なことで、めんどうです。それより、普通に人が知らないことを書く。そのほうが面倒でなくて、そして読んで、へーっと思ってよいことがあります。
 さて目が見えるようになるのがよいとして、その手術がうまくいってもそんなにすごく見えるようにはならないということがあります。そして、手術の前に、そしていったん手術なら手術を受けた後も、アフターケアというか、めんどうだったりいたかったりすることがあったりします。ならきれいさっぱりあきらめるかというとそうでもないのですが、どうも全面的によいとは思えず見えない今のままの状態が続いていたり、手術はいちおう成功したけれどもいまいち感をもって生活している人たちがいる。そういうことを書いています。「おち」はないのですが、おちがないのがおちみたいな論文です。しかし、なおそうとする力と、それに伴ううれしくないこともあって、両方あって、その間ぐらいのところに人は生きているということを書いています。
 それは技術を使うか、どう使うかという主題でもあります。人間に限らず、あらゆる生物が技術を使っている、とこれも技術という言葉の定義によりますが、いえます。しかしそれはもちろん、なんでもよいということではない。では何がよくて何がよくないのか。ただこれも、自然か人工か、とか、漠然と考えてもよくわからないと思います。私たちはあるいはある人たちは、何を使ってきたか、どのようによいとされたり、あるいは批判されたりを調べるというのが一つあります。
 例えば、「人工内耳」という装置があります。聴覚に障害のある人の身体に埋め込む機器として、日本では1990年代から使われるようになったようです。自身のお子さんがその初期の使用者であったということもあり、それがどのように日本で使われるようになってきたのかを調べている田中多賀子さんという大学院生がいます。
 他方、自分たちは「日本手話」という言語を母語とする集団であり、機器で聞こえるようになろうというのは違うという主張をする人たちもいます。これは、私たちのところで研究し、その博士論文が本になったクァク・ジョンナンさんの『日本手話とろう教育――日本語能力主義をこえて』です。日本手話を言語として使用するフリースクールが学校になったその経緯とそこでの実践を研究したものです。
 さて、機器を使って聞こえるようになるか、手話を使って聾者のプライドをもつか、どしたものでしょう。本人が決めればよいではないかというのが、普通用意されている答です。しかし、言葉というのは、たいがい本人が選ぶ前に身についてしまうものです。とすると、本人に決めてもらうというだけではすまないということになります。なんだか難しい、こんな主題もあります。」

■つまりどう考えるか~どうするか

◇とくに他人が関わらないことにぞんざいになってしまうことに留意しつつ、なおすこと、減らすことはすればよい。するべきだ。 ◇できないことについては、どちらの方が益があるかと考えること。すると、



■注

☆ しかしわかってしまう。ALSであることをわかってしまった話について『ALS』
☆ 駒澤に送ったメモ:「以下、私のメモです。でしかないです。ただ、私の感じでは、やはり、1:リカバリー(論)を相手にしても仕方がない。へんな話であることは調べなくても考えればわかることなので。そして、2:みんなそれなりに(いろいろ考えたりして、懸命に賢明に)生きているのは、それはそうだろうが、しかしやはりそれを言ってどうなるの、という感じはする。ので、もちょっと考えてみたいなと思ったわけです。
cf.
http://www.arsvi.com/ts/20200424.htm
 今年作ったものもあるはずで、あとで。
 (1)「一般就労」がゴールとされる。しかしそれはすくなくとも現状では無理がある。(それがどのように難しいものであったかが示された。)
 (2)ただその人たちの多くは仕事をしたいとは思っている。1)金を得るために、2)働くことがよいことだと思っているから、3)人とのつながり~いることの気持ちよさ。
 いずれももっとも。1)だけであれば所得保障でも代替できるとは言える。しかし、所得保障+働いた分の上乗せは認められてよい
 (3)(1)を得られない・望まない人たちにとって、(2)が「ほどほど」「そこそこ」に得られるところとなると、障害者用の場ということになる。
 少なからぬ人たちが障害者であると自らに認める(人に認められる)ことに抵抗感がある、が、(2)を得るために多くの場合仕方なく、認める。認めてしまうと、それほどのことではない、と思う人もいる。
 (4)金:1)について、総じて少ない。「A型」は少ない。「B型」はもっと少ない。それに対する不満はある。ただ、3)があってそれでそこにとどまるという人もいる。
 (5)「社会的事業所」の理念は実際に働いている人たちに伝わっているわけではない。他とすごく違うかというとそうでもないところはある。ただ、1)が他に比べればよく、3)についても、とくに健常者である管理者に管理されないところが気にいって仕事をつづけでいる人がいた。
 (6)こうして所与の枠組みのもとで、障害者とされることを気にしながら、いろいろと損得を勘案しながら、自分におってよい加減、を求めて、各自、その場にとどまったり、移ったりしている。
とすると
 (7)一般就労の場自体が変わらないのであれば、そこに向けたコースとして就労(支援)を設定するのはよろしくない。
 (8)一つの手として、1)金も3)働きやすさもまあまあある「社会的事業所」的なもの。
 ただこれがどこまで広がるか~税を投入する正当性が得られるかということはある※。それを「労賃」として得ているということになるわけだが、これは「みかけ」ということにされないか。
 (9)所得保障をきちんとする+労賃 という道は? とくに日本の現在の制度では、生活保護を得ていると、その額に達しない収入は収入認定されて、実質仕事からは(金銭的には)何も得られないことになる。そして生活保護費を越えると、生活保護が打ち切られる。とすると2)と3)しか残らない。これは…
 とすると、A)(障害基礎年金より多い)所得保障に、労働に応じていくらかずつ加える――生活保護と違い基礎年金はそういう仕組――という仕組み。そして/あるいは生活保護の仕組みを変える
 (10)では(8)的な方向と(9)的な方向とどちらがよいか。
 (11)このことと、障害者だと認定される(されねばならない)ことはどう関係するか。
※よりよい仕事のさせ方をしているのでいくらかを政府が出すということはありうるだろう。しかしそれで一人ひとりの生活の足しになる分ほどか?
☆ 長島の評価書の一部。「ないものはない」と思う。しかしそれはじつはこういう病気であるとか、過去のしかじかが影響しているとか、様々なことが言われることになる。そのある部分は明確に否定できようが、その証明はときに困難でもある。そして、それを証明せねばならないと思うことも間違ったことであると思われる。ただ時には仕方なく引き受けることになる。「アセクシュアル」はまずそんな場所にあるのだろう。

 そうした不快さを抱えながら、理論家が現われ、なにごとかを言う。申請者が「コミュニティ」と呼ぶものが立ち上がり、なにかが共有されたり、ときにひどく強い対立が生じ、消耗と思えるやりとりが続き、そしてその「コミュニティ」が消滅してしまうこともあるらしい。
 そうした動きは、セクシュアリティについてなにか考える時、なにかを言う時、さらにセクシュアリティに限らず、この社会に起こる名づけや、自己や他社の規定やそこからの逃避、その全体についてなにかを言おうとするなら、あるいは言うことをやめてそうして生きていことするなら、追跡し分析するに値する。
 申請者の研究は重要であり、申請者はその研究を必ず遂行できる。


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■文献


◆天田城介・樫田美雄編 2021 『社会学――医療・看護・介護・リハビリテーションを学ぶ人たちへ』(仮題),ミネルヴァ書房
◆小井戸 恵子 202103 「なおす対象とされた障害――1960 年代に行われた脳性麻痺の治療とその体験に着目して」『Core Ethics』17, 立命館大学大学院先端総合学術研究科, pp.103-116.[PDF]
駒澤 2021
大野 真由子 2012 「複合性局所疼痛症候群患者の支援に関する一考察――「認められない」病いの現状と課題」立命館大学先端総合学術研究科博士論文
◆立岩 真也 2004/11/15 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院,449p. ISBN:4260333771 2940 [amazon][kinokuniya]
◆立岩 真也 2006/07/10 『希望について』,青土社,320p. ISBN4791762797 2310 [kinokuniya][amazon]
◆立岩 真也 2014/08/26 『自閉症連続体の時代』,みすず書房,352p. ISBN-10: 4622078457 ISBN-13: 978-4622078456 3700+ [amazon][kinokuniya] ※
◆立岩 真也 2018/11/30 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社,481p. ISBN-10: 4791771192 ISBN-13: 978-4791771196 [honto][amazon][kinokuniya] ※
◇立岩 真也 2019/01/15 「なおる/なおらない/なおさない――企てに参するを企てる・3」生存学の企て,gacco:無料で学べるオンライン大学講座
◆立岩 真也 2020/01/10 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 増補新版』,青土社,536p. ISBN-10: 4791772261 ISBN-13: 978-4791772261 [amazon][kinokuniya] ※
◆立岩 真也 2021/**/** 「難病」,天田城介・樫田美雄編『社会学――医療・看護・介護・リハビリテーションを学ぶ人たちへ』(仮題),ミネルヴァ書房
植村 要
◆柳澤 桂子 19930720 『いのちと医療―「認められぬ病」を超えて』,山手書房新社,177p.ISBN:4841301011 ISBN-13:978-4841301014 [amazon] b d/l03 d/p


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■引用

◆Holland, Mary., 2018, The HPV Vaccine On Trial: Seeking Justice For A Generation Betrayed,Skyhorse. ISBN-10: 1510710809 ISBN-13: 978-1510710801 =(2021 , 別府 宏圀 監訳 『子宮頸がんワクチン問題 : 社会・法・科学』, みすず書房. ISBN-10:4622089904 ISBN-13:978-4622089902 5500+ [amazon][kinokuniya]
彼女は、ワクチンが承認された直後にそのワクチン接種を受けたことを語る女性の話を聞いた。女性がワクチン接種を受けるたびに起きる反応のことを語ると、ケーシャの心臓は止まりそうになった。それは自分自身の物語ーー同じ時系列で、同じ症状を聞いているような気がした。その瞬間、ケーシャは足をすくわれるような驚きを感じた。結局、この何年間か、なぜ自分がこんな病気になったのか疑問に思っていたことを、いまここでまったく別の女性が同じ物語として語って いるのだ。
 彼女はそれを信じることができなかった。ワクチンが安全であることが「証明」されていたのなら、なぜこんなことが起きるのだろうか。 彼女が試験担当看護師に自分の症状について話すたびに、看護師はそれらの症状がワクチンとは無関係であると保証した。彼女は怒りと動揺を覚える一方、他方では、自分が体験してきたことを理解してくれる誰かが他にいること、そして助けてもらえるかもしれない可能性に安堵した。その夜、彼女はほとんど一睡もできなかった。翌日、インターネットで答えを探し始めた。彼女はデンマークのワクチン被害者支援グループと連絡をとり、サラと話をすることができ、結局は親しい友人になったのであった。二人は長い間話し合い、そしてサラは理解してくれた。彼女は以前にも同じ話を聞いたことが あった。一方、ケーシャにとっては、自分が正気であるとはじめて感じた時間であった。この一三年間というもの、痛みともに生き、医師たちからはことごとくそれを否定されるのを聞き続けてきたのだから。


◆Petryna, Adriana., 2013, Life Exposed: Biological Citizens After Chernobyl,Princeton Univ Pr. ISBN-10: 0691151660 ISBN-13: 978-0691151663 =(2016, 森本 麻衣子・若松 文貴 訳 『曝された生 : チェルノブイリ後の生物学的市民』, 人文書院, ISBN-10: 440953050X ISBN-13: 978-4409530504 \5500+ [amazon][kinokuniya]
 このチェルノブイリ関連の疾患をめぐる政治経済において、「障害者」に分類された人が単なる「被災者」よりもはるかに手厚い補償を受けることは常識だった。チェルノブイリ被災者のシステムから完全に外れた人々は、自分たちが国家からまともな社会保護を受けるチャンスがほとんどないことをわかっていた。この経済においては、科学的知識が日常生活における決定的に重要な手段となった。ある人の被曝量を放射線関連の症状・経験やゾーンにおける雇用履歴と効果的に結びつけられるかどうかによって、その人が被災者たちのヒエラルキーの中でどのような地位を占めることができるか、また国家によるさらなる保護を約束してもらうための資本をどの程度生み出すことができるかが決定された。広く言えば、ポスト社会主義のウクライナでは、科学、国家建設、市場の発達が非常に生産的な形で互いに結びつきあい、新しい組織や社会的取り決めを生んで、その中で市民権や倫理が変容していくという独特な状況を呈していた (Biehl 2001も参照)。 (53)


◆渡辺 房吉 1936 『詐病と其診査』,日本医事衛生通信社. DOI:10.11501/1047157

二四〜二五

第五 詐病に惡(悪)用せらるゝ(るる)病名及び症狀
 病氣(気)の中には詐病に利用され易いものと、利用され難いものとがある。昔は醫學(医学)的智識が淺く(浅)、醫家と稱(称)せられた者(者)でも其診斷(断)が明確で無く、殊に科學的鑑定などと云ふことが絕(絶)無であつたから、詐病に用ひらるる病名及び症狀なども好い加減のものであつた。故に昔の記載を見ても癪(しゃく=胸や腹が急に痙攣 (けいれん) を起こして痛むこと。さしこみ ※デジタル大辞泉)だとか、 疝氣(せんき=漢方で、下腹部や睾丸 (こうがん) がはれて痛む病気の総称 ※デジタル大辞泉)だとか、風だとか、所勞(労)だとか、不快だとか云つたものが多い。或は單(単)に作病を構へたとか、虛(虚)病を使つたとか、云ふ樣(様)に槪(概)念的に書いて病名の無いものも多い。此間に於て割合に多いのは佯(よう=いつわる)病である。 作り阿呆、似せ氣違ひ、うつけ病、佯盲、僞(偽)唖、僞聾、作りどもり、僞せ馬鹿等々の名が往々にして散見される。
 近來(来)は醫學の進步が著しく、病氣の數(数)も昔よりは多くなった。從つて(したがって)、詐病者に利用される病氣も廣(広)汎多數になつて來たが、其診斷鑑定が又明確になつて來たから之が發(発)見も中々多い。然しながら詐病者も科學的に硏究して詐病する樣になつて來たから、迂闊にして居ると容易に欺かれるものである。近代の作病者が好んで詐病に惡用する病名は、何れ本書の各論に於て簡單に略記するから、玆(ここ)には症狀の詐病に就て一言して置かう。

症狀の詐病
 疾病の症狀としては單に自覺(覚)的のものと、他覺的變(変)化を伴ふものとがある。其の何れもが詐病せらるゝものであるが、殊に他覺的變化を伴はない自覺症狀は好んで詐病者から慣用される。醫家としては之が診斷は困難である。此の困難が詐病者の乘(乗)ずる所の附け目である。それだけ詐病するには好都(都)合であるわけである。

(一) 自覺的症狀の詐病
 損傷治癒後に於ける該部の頭痛、異常感・牽引感・重壓(圧)感等々は往々訴へらるゝ所であり、頭部損傷後に於ける頭痛・眩暈・不眠・壓迫感・記憶力減退等々も詐病者の云い募る症狀である。挫傷又は打撲後の不定痛・關節(関節)痛・瘢痕痛・神經(神経)痛又は僂麻質(リウマチ)性疼痛等も亦屢々(しばしば)訴へられる。最初は誇大的に大袈裟に訴へるが、云い分が通つて相當(当)の補償又は手當金が獲得さるれば直に治癒するを常とする。若し此の不純な目的が貫徹されない間は、何時までも其症狀の苦痛は永續(続)する。此の點(点)はよく慾望性神經痛と稱せられてゐる外傷性神經症に類似してゐる。又實(実)際外傷性神經症に於けるが如く、最初は不純な動機から誇大的に云つたのが、遂には固定觀念となり、實際病症の存續するやうに想像し、或は然う(そう)であると自信するやうなことがある。然うなると意志の力も弱り、判斷の力も鈍り、而も(しかも)甚だしく過敏性となり、輕(軽)易の業務にも從事不可能と思ひ込むやうになる。 (二四〜二五) ※カッコ内補足は中井
cf. 器質性精神障害(外部リンク=脳科学辞典)=◆上田 敬太・村井 俊哉 20130524 「器質性精神障害」,『脳科学辞典』. DOI:10.14931/bsd.3716
現在の分類の問題点は、認知症性疾患などを除いて、器質性精神障害は、内因性精神障害の分類に基づいて分類されていることにあるといえるだろう。つまり、明らかに脳に障害を生じている一群の疾患が、原因不明の精神障害に基づいて分類されているということである。このことは、一つには精神医学という医学の分野から、原因がはっきりするたびにそういった疾患が取り除かれてきた過程を思い出させて、興味深い。

一二二〜一二四

(ほ) 自覺症狀(自覚症状)の確認
 自覺症狀の診斷(断)の際には、患者(者)の訴へが大きければ大きいだけ、虛僞(虚偽)若くは詐病の潛(潜)在することが多いものである。故に醫(医)家としては、『どんな仕事も出來(来)ないか』、『仕事によっては出來るか』を確めるの必要な事がある。尙ほ(なお)患者が自發(発)痛若くは壓(圧)痛を訴へるならば『此の如き微細な外傷で果して斯程(かほど)まで痛いものか』、『他覺的變化(変化)が聊(いささ)かも無くしてどうしてこれ程痛がるのか』等の點(点)を精(精)査しなければならぬ。
 自發痛の診斷、、、、、、 患者が自發痛のみを訴へ、他覺症狀の全く缺(欠)如して居る際には、能く受傷當(当)時の外力の働き具合、其の際に於ける患者の位置等を確かめ、更に脫(脱)衣させたり、着衣させたり、立たせたり、座らせたり、かゞませたり、握らせたり、種々の動作をさせて見て、其の疼痛の模樣(様)を銳敏(鋭敏)に監視(視)し、觀(観)察する。次に二ー三日臥床を命じ、次で步行させたり、或は輕(軽)易の仕事をさせたりする。其間監視の眼を放つてゐると、患者が油斷して詐病を暴露することがある。或は麻醉劑(麻酔剤)を注射したり、蒸留水を注射したり、兩(両)者を交互に注射したりして共反應(応)に注意すると、患者は容易に化けの皮を現はすこともある。
 壓痛の診斷、、、、、 他覺的變化が極徵であるか、或は絕(絶)無であるに關(関)せず、壓痛を訴ふる患者があつたら時を違へ、場所を違へ、又其强(強)さを違へて屢々(しばしば)壓迫を試みる。或は患者の注意力を他方に傾けさせつゝ之を檢(検)査して見る。若し壓痛部に觸(触)れぬうちに之を撥ねのけやうとしたり、單(単)に皮膚に觸れたのみであるのに、痛さうな樣子をするのは詐病である。一體(体)に輕微な外傷後に、診察せんとする醤師の手を撥ねのけやうとするのは、多くの詐病者の慣用手段だと云はれてゐる。醫師の最初の診斷を困難にさせ、其思想を多少混亂(乱)させて、醫師をして『重い外傷だ』と思ひ込ませるためである。 不馴れの醫師は之により欺かれるが、經驗(経験)ある醫師は容易に其の手に乘(乗)らないものである。私が後に記述󠄁(※原文は旧字)するヨセフ・プツチヤーと云ふ保險魔は、此のトリックを用いて曾て(かつて)一度も受傷部に醫師の手を觸れさせずに、脊柱骨折の診斷の下に入院治療を長く續(続)けてゐたのであった。 (一二二〜一二四) ※カッコ内補足は中井
cf. アロディニア(外部リンク=脳科学辞典)=◆津田 誠・井上 和秀 20210623 「アロディニア」,『脳科学辞典』. DOI:10.14931/bsd.3875
通常では痛みを引き起こさないような非侵害刺激(接触や軽度の圧迫、非侵害的な温冷刺激など)で痛みを生じてしまう感覚異常のこと。


◆柳澤 桂子 19930720 『いのちと医療―「認められぬ病」を超えて』,山手書房新社,177p.ISBN:4841301011 ISBN-13:978-4841301014 [amazon] b d/l03 d/p
……私はたくさんの医学論文を読んで勉強していたが、それについて医師と議論をしたことはない。それどころか、私がそれだけの知識をもっていることを決して口には出さなかったし、積極的に隠していた。
 このような私の態度を非難される方がおられると思う。しかし、原因のわからない病気で、すべては私の性格上の欠陥に起因する心身症であるといわれているときに、医学論文のいろいろな例を引きあいにだして、医師と議論することが実際に可能だと思われるであろうか。
(略)
 ……私の性格に問題があり、人格的にも劣った人間であるようにあつかわれているときに、医師から見て思い上がっているとも受けとられかねない態度にでることはほとんど不可能であろう。実際には何度か質問をしてみたが、的確な答えが返ってきたことはなく、医師の不愉快な表情をみるだけに終わってしまった。(8-9)


頁作成:立岩 真也
UP:20210504 REV:20210505, 20, 21, / 1104, 17, 18, 24, 1201, 02,(中井 良平 20211104~)
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