彼女は、ワクチンが承認された直後にそのワクチン接種を受けたことを語る女性の話を聞いた。女性がワクチン接種を受けるたびに起きる反応のことを語ると、ケーシャの心臓は止まりそうになった。それは自分自身の物語ーー同じ時系列で、同じ症状を聞いているような気がした。その瞬間、ケーシャは足をすくわれるような驚きを感じた。結局、この何年間か、なぜ自分がこんな病気になったのか疑問に思っていたことを、いまここでまったく別の女性が同じ物語として語って いるのだ。
彼女はそれを信じることができなかった。ワクチンが安全であることが「証明」されていたのなら、なぜこんなことが起きるのだろうか。 彼女が試験担当看護師に自分の症状について話すたびに、看護師はそれらの症状がワクチンとは無関係であると保証した。彼女は怒りと動揺を覚える一方、他方では、自分が体験してきたことを理解してくれる誰かが他にいること、そして助けてもらえるかもしれない可能性に安堵した。その夜、彼女はほとんど一睡もできなかった。翌日、インターネットで答えを探し始めた。彼女はデンマークのワクチン被害者支援グループと連絡をとり、サラと話をすることができ、結局は親しい友人になったのであった。二人は長い間話し合い、そしてサラは理解してくれた。彼女は以前にも同じ話を聞いたことが あった。一方、ケーシャにとっては、自分が正気であるとはじめて感じた時間であった。この一三年間というもの、痛みともに生き、医師たちからはことごとくそれを否定されるのを聞き続けてきたのだから。
このチェルノブイリ関連の疾患をめぐる政治経済において、「障害者」に分類された人が単なる「被災者」よりもはるかに手厚い補償を受けることは常識だった。チェルノブイリ被災者のシステムから完全に外れた人々は、自分たちが国家からまともな社会保護を受けるチャンスがほとんどないことをわかっていた。この経済においては、科学的知識が日常生活における決定的に重要な手段となった。ある人の被曝量を放射線関連の症状・経験やゾーンにおける雇用履歴と効果的に結びつけられるかどうかによって、その人が被災者たちのヒエラルキーの中でどのような地位を占めることができるか、また国家によるさらなる保護を約束してもらうための資本をどの程度生み出すことができるかが決定された。広く言えば、ポスト社会主義のウクライナでは、科学、国家建設、市場の発達が非常に生産的な形で互いに結びつきあい、新しい組織や社会的取り決めを生んで、その中で市民権や倫理が変容していくという独特な状況を呈していた (Biehl 2001も参照)。 (53)
第五 詐病に惡(悪)用せらるゝ(るる)病名及び症狀★cf. 器質性精神障害(外部リンク=脳科学辞典)=◆上田 敬太・村井 俊哉 20130524 「器質性精神障害」,『脳科学辞典』. DOI:10.14931/bsd.3716
病氣(気)の中には詐病に利用され易いものと、利用され難いものとがある。昔は醫學(医学)的智識が淺く(浅)、醫家と稱(称)せられた者(者)でも其診斷(断)が明確で無く、殊に科學的鑑定などと云ふことが絕(絶)無であつたから、詐病に用ひらるる病名及び症狀なども好い加減のものであつた。故に昔の記載を見ても癪(しゃく=胸や腹が急に痙攣 (けいれん) を起こして痛むこと。さしこみ ※デジタル大辞泉)だとか、 疝氣(せんき=漢方で、下腹部や睾丸 (こうがん) がはれて痛む病気の総称 ※デジタル大辞泉)だとか、風だとか、所勞(労)だとか、不快だとか云つたものが多い。或は單(単)に作病を構へたとか、虛(虚)病を使つたとか、云ふ樣(様)に槪(概)念的に書いて病名の無いものも多い。此間に於て割合に多いのは佯(よう=いつわる)病である。 作り阿呆、似せ氣違ひ、うつけ病、佯盲、僞(偽)唖、僞聾、作りどもり、僞せ馬鹿等々の名が往々にして散見される。
近來(来)は醫學の進步が著しく、病氣の數(数)も昔よりは多くなった。從つて(したがって)、詐病者に利用される病氣も廣(広)汎多數になつて來たが、其診斷鑑定が又明確になつて來たから之が發(発)見も中々多い。然しながら詐病者も科學的に硏究して詐病する樣になつて來たから、迂闊にして居ると容易に欺かれるものである。近代の作病者が好んで詐病に惡用する病名は、何れ本書の各論に於て簡單に略記するから、玆(ここ)には症狀の詐病に就て一言して置かう。
症狀の詐病
疾病の症狀としては單に自覺(覚)的のものと、他覺的變(変)化を伴ふものとがある。其の何れもが詐病せらるゝものであるが、殊に他覺的變化を伴はない自覺症狀は好んで詐病者から慣用される。醫家としては之が診斷は困難である。此の困難が詐病者の乘(乗)ずる所の附け目である。それだけ詐病するには好都(都)合であるわけである。
(一) 自覺的症狀の詐病
損傷治癒後に於ける該部の頭痛、異常感・牽引感・重壓(圧)感等々は往々訴へらるゝ所であり、頭部損傷後に於ける頭痛・眩暈・不眠・壓迫感・記憶力減退等々も詐病者の云い募る症狀である★。挫傷又は打撲後の不定痛・關節(関節)痛・瘢痕痛・神經(神経)痛又は僂麻質(リウマチ)性疼痛等も亦屢々(しばしば)訴へられる。最初は誇大的に大袈裟に訴へるが、云い分が通つて相當(当)の補償又は手當金が獲得さるれば直に治癒するを常とする。若し此の不純な目的が貫徹されない間は、何時までも其症狀の苦痛は永續(続)する。此の點(点)はよく慾望性神經痛と稱せられてゐる外傷性神經症に類似してゐる。又實(実)際外傷性神經症に於けるが如く、最初は不純な動機から誇大的に云つたのが、遂には固定觀念となり、實際病症の存續するやうに想像し、或は然う(そう)であると自信するやうなことがある。然うなると意志の力も弱り、判斷の力も鈍り、而も(しかも)甚だしく過敏性となり、輕(軽)易の業務にも從事不可能と思ひ込むやうになる。 (二四〜二五) ※カッコ内補足は中井
現在の分類の問題点は、認知症性疾患などを除いて、器質性精神障害は、内因性精神障害の分類に基づいて分類されていることにあるといえるだろう。つまり、明らかに脳に障害を生じている一群の疾患が、原因不明の精神障害に基づいて分類されているということである。このことは、一つには精神医学という医学の分野から、原因がはっきりするたびにそういった疾患が取り除かれてきた過程を思い出させて、興味深い。
(ほ) 自覺症狀(自覚症状)の確認★cf. アロディニア(外部リンク=脳科学辞典)=◆津田 誠・井上 和秀 20210623 「アロディニア」,『脳科学辞典』. DOI:10.14931/bsd.3875
自覺症狀の診斷(断)の際には、患者(者)の訴へが大きければ大きいだけ、虛僞(虚偽)若くは詐病の潛(潜)在することが多いものである。故に醫(医)家としては、『どんな仕事も出來(来)ないか』、『仕事によっては出來るか』を確めるの必要な事がある。尙ほ(なお)患者が自發(発)痛若くは壓(圧)痛を訴へるならば『此の如き微細な外傷で果して斯程(かほど)まで痛いものか』、『他覺的變化(変化)が聊(いささ)かも無くしてどうしてこれ程痛がるのか』等の點(点)を精(精)査しなければならぬ。
自發痛の診斷 患者が自發痛のみを訴へ、他覺症狀の全く缺(欠)如して居る際には、能く受傷當(当)時の外力の働き具合、其の際に於ける患者の位置等を確かめ、更に脫(脱)衣させたり、着衣させたり、立たせたり、座らせたり、かゞませたり、握らせたり、種々の動作をさせて見て、其の疼痛の模樣(様)を銳敏(鋭敏)に監視(視)し、觀(観)察する。次に二ー三日臥床を命じ、次で步行させたり、或は輕(軽)易の仕事をさせたりする。其間監視の眼を放つてゐると、患者が油斷して詐病を暴露することがある。或は麻醉劑(麻酔剤)を注射したり、蒸留水を注射したり、兩(両)者を交互に注射したりして共反應(応)に注意すると、患者は容易に化けの皮を現はすこともある。
壓痛の診斷 他覺的變化が極徵であるか、或は絕(絶)無であるに關(関)せず、壓痛を訴ふる患者があつたら時を違へ、場所を違へ、又其强(強)さを違へて屢々(しばしば)壓迫を試みる。或は患者の注意力を他方に傾けさせつゝ之を檢(検)査して見る。若し壓痛部に觸(触)れぬうちに之を撥ねのけやうとしたり、單(単)に皮膚に觸れたのみであるのに、痛さうな樣子をするのは詐病である★。一體(体)に輕微な外傷後に、診察せんとする醤師の手を撥ねのけやうとするのは、多くの詐病者の慣用手段だと云はれてゐる。醫師の最初の診斷を困難にさせ、其思想を多少混亂(乱)させて、醫師をして『重い外傷だ』と思ひ込ませるためである。 不馴れの醫師は之により欺かれるが、經驗(経験)ある醫師は容易に其の手に乘(乗)らないものである。私が後に記述󠄁(※原文は旧字)するヨセフ・プツチヤーと云ふ保險魔は、此のトリックを用いて曾て(かつて)一度も受傷部に醫師の手を觸れさせずに、脊柱骨折の診斷の下に入院治療を長く續(続)けてゐたのであった。 (一二二〜一二四) ※カッコ内補足は中井
通常では痛みを引き起こさないような非侵害刺激(接触や軽度の圧迫、非侵害的な温冷刺激など)で痛みを生じてしまう感覚異常のこと。
……私はたくさんの医学論文を読んで勉強していたが、それについて医師と議論をしたことはない。それどころか、私がそれだけの知識をもっていることを決して口には出さなかったし、積極的に隠していた。
このような私の態度を非難される方がおられると思う。しかし、原因のわからない病気で、すべては私の性格上の欠陥に起因する心身症であるといわれているときに、医学論文のいろいろな例を引きあいにだして、医師と議論することが実際に可能だと思われるであろうか。
(略)
……私の性格に問題があり、人格的にも劣った人間であるようにあつかわれているときに、医師から見て思い上がっているとも受けとられかねない態度にでることはほとんど不可能であろう。実際には何度か質問をしてみたが、的確な答えが返ってきたことはなく、医師の不愉快な表情をみるだけに終わってしまった。(8-9)