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>HOME ◆薬/薬害 ◆医療過誤 ◆医療と社会 ◆リハビリテーション ■早期発見・早期治療・… 「医療やリハビリテーションに関する論文のほとんどは構造的にこうした問いを受け付けないようになっている。直接な効果だけを調べ、代わりに失ったものを評価することがないからである。 日本臨床心理学会編[1987]は「早期発見・治療」の問題性を指摘する、というよりかなり根底的な部分から批判している。ここで主張されていることがどのような根拠によりなされているか、子細に検討してみる必要がある。」 (立岩『私的所有論』第9章注16) 日本臨床心理学会編[1987] この中で,「大津方式」について山下栄一[1987] 母子健康保健に関しては別文書あり ◆日本臨床心理学会 編 1979 『心理テスト・その虚構と現実』 現代書館,445p. <260,319> ※ ◆日本臨床心理学会 編 1980 『戦後特殊教育・その構造と論理の批判――共生・共育の原理を求めて』 社会評論社,358p. <319> ◆日本臨床心理学会 編 1987 『「早期発見・治療」はなぜ問題か』 現代書館,445p. <319,431,437> ※ ◆小沢 牧子 1987 「産む性の問題としての早期発見・早期治療」 日本臨床心理学会編[1987:325-367] <213> ◆――――― 200203 『「心の専門家」はいらない』,洋泉社,新書y057,218p.,ISBN: 4896916158 735 [boople]/[bk1] ※ b, cf.立岩 真也 2002/12/25 「サバイバーの本の続き・2」(医療と社会ブックガイド・22) 『看護教育』43-11(2002-12):(医学書院) ◆小沢 牧子・中島 浩籌 20040621 『心を商品化する社会――「心のケア」の危うさを問う』,洋泉社,新書y112,222p. ISBN:4-89691-826-6 777 [amazon]/[boople]/[bk1] ※, ◆篠原 睦治 1987a 「なぜ「早期発見・治療」問題に取り組むか――本学会の論争過程をふりかえりつつ」 日本臨床心理学会編[1987:16-60] <431> ◆――――― 1987b 「科学的産み分け法の諸問題――特に「伴性遺伝病予防」にかかわって」 日本臨床心理学会編[1987:213-246] <428,431,432> ◆山下 恒男 1977 『反発達論――抑圧の人間学からの解放』 現代書館,278p. <319,442> ※ ◆――――― 1987 「進化・優生思想と「障害」――早期発見・治療の思想的背景と「障害」の必然性」 日本臨床心理学会編[1987:369-412] <442> >TOP ■文献 ◆立岩 真也 2001/07/30 「なおすことについて」 野口裕二・大村英昭編『臨床社会学の実践』,有斐閣 pp.171-196 ◆古井 透 20030829 「リハビリ再考――「がんばり」への呪縛とそのOUTCOME」 障害学研究会関西部会第19回研究会 ◆古井 透 20031101 「リハビリテーションの誤算」 『現代思想』31-13(2003-11):136-148 ◆上農 正剛 20031101 「医療の論理、言語の論理――聴覚障害児にとってのベネフィットとは何か」 『現代思想』31-13(2003-11):166-179 >TOP ■障害者と医療 ◆飯ヶ浜 実・江藤 愛・小原 直美・黒田 雅子・高木 美希 「障害者と医療者――バリアを越えていくために」,(2000年度信州大学医療技術短期大学部看護科3年) 卒業研究レポート 200012提出 ◆安積遊歩(純子) 「〈私〉へ――三〇年について」, 安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』 (初版1990,増補改訂版1995) 「折れたら棒を入れる手術をし、くっいたらとる、まがったらまた手術をする。針金を入れたままにしておけばなんともないのに。その繰り返し。泣けば怒られ、注射さえて痛いって言えばまた怒られるさ。手術する理由なんていわないわけよ。聞けばちょっと教えてくれるけど。六回も七回もやって、私がもういくらやっても同じことの繰り返しだからやめたい、針金を入れたままでいいって十三歳の時、中一の二学期に自分で決めて、ようやくやめることになったのね。今も針金が日本両足に入っている。全然痛くない。ばっかじゃないかって、医者に対して思ったね。やめたいと言ったら、はいやめましょうって感じだったから、今までの手術は何だったんだって思うと。痛いと医者は思うらしいんだけど私は棒が入っても全然痛くないんだよ。聞いてくれればいいのにね。」 「原因も治療法もわかっていないのに男性ホルモンがいいって言うんで、注射を打つために母が私を背負って一日おきに福島県立医大に通っていたんだ。ついに一年目に医者がなんていったかと言うと、「効果がないからやめましょうね」って。それで現代医学に対する不信が芽生えたんだ。あと小学校三年生くらいまで、カルシウム剤飲まされたりもした。それも効果なかった。小学校にはいるまで十数回、二十歳まで二十回以上骨折し続けた。」 「看護婦は、私はありがたいと思わない事でも、ありがとうと言えとしつこく言ってくるわけ。薬を貰っても、血沈をとられてもだよ。なんで血を採られてありがとうなんだろう。みんな、ありがとう、ごめんなさい、すみませんっていつも言わなければならないの。一回、必要もないのに血沈をとるからさ、医者の論文書くためにやってたのね、だから「私はモルモットじゃないんだからいやです」って言ったらさ、「わかってるなら黙って従え」って、敵もさるものだと思ったね。こっちの苦しみなんか完全に無視できるんだから。」 「おまえたちは迷惑をかけているんだってばかり言われるから。ベットでうんちしたら部屋が臭くなるのはあたりまえでしょ。ところが○○さんのは臭すぎるとか、そんな事ばかり言うんだ。おしっこすれば誰ちゃんのは音が大きすぎるとかね。看護婦の機嫌が悪いと、あんた持っていきなさいと、歩ける子にやらせるわけ。とりいっている子は最初は進んでやるの。でも、うまくとりいって2、3回したらうまく他の子におしつけるわけ。 ◆樋口恵子 『エンジョイ自立生活――障害を最高の恵みとして』 「寝たきりの生活が始まりました。上半身を硬いギブスベッドの中に入れ、起き上がることもだめだといわれ、じっと天井の模様を数えるような生活でした。その生活が始まって何日目かに、総婦長さんが部屋になってきました。私の部屋は八人部屋で、みんなは施設に隣接する養護学校に言っており、私一人でした。「足が冷たいので、足に巻くようなタオルケットか何かを家から持ってきてもらっていいですか?」と私は何気なく聞いたのです。「一人だけそんなわがままは許しません」というような言葉にあい、驚きました。 その後、婦長さんからは何かあるたびに、私に対して「頭が良いだけじゃだめなのよ」と言いました。私は頭がいいという言葉は誉め言葉だと思っていました。なのに、総婦長さんから聞かされるそれは、なぜか、とても拒否的な響きのある言葉に聞こえてしまうのです。私は、どうしたらここで好かれるのかと悩みました。 私は幼いときから自分の言葉で自己主張をすることがあたりまえだったのですが、ここではどうもそれは歓迎されないらしいと感じ始めました。自分のことが自分でできない人は「ありがとう」「すみません」「ごめんなさい」といった言葉が似合うらしい、それを繰り返しいれば何の注意も受けないということがわかってきたのです。そうした対応をとる看護婦さんや保母さんが悪いのではないかもしれない、障害をもって生きていくには何か暗黙のルールでもあるではないかと思うようになったのかもしれません。」 「総婦長さんが私一人だけのときに現れました。「あなたはイエス様に誓って、このことを誰にも言わないと約束できますか?」と、私に聞くというより、絶対に誰にも漏らしてはいけないと言わんばかりに迫ってきて、それはプレッシャー以外の何者でもありませんでした。私はなぜこんなことを言われなければならないのかわからず、考えていました。誓いますという返事はしませんでしたが、そもそも私が返答することは総婦長さんには関係のないことだったというふうで、続けて「今度の面会日にお母さんや誰かが来ても言わないように」と言って、いなくなりました。 私はその威圧的な言われ方がどうしても納得できず、悔しくてつらくて、三日間涙が流れつづけました。その束縛は私を縛り、私がこのことを人に明かしたのは三十五歳を過ぎてからでした。」 「薬を続けなくては根本の病気はなおらない、でも、それをするともっとひどい症状に襲われる、私はこんなことを繰り返しながら死んでいくのだろうかと、絶望的になりました。そんなとき、園長先生や総婦長さんも私の力にはなってくれませんでした。」 「自分の価値をおとしめてしまうことは、数限りなくありました。「誰もいないから大丈夫だよ」と廊下で身体を拭かれたり、みんなが帰省する時期には手術後の人など数人しか施設には残らず、職員の目が届くよう、男女混合の部屋にされることもありました。お盆か正月か忘れましたが、同級生のH君と同室になったことがあります。同級生と言ってもクラスで机を並べてと言う関係ではなく、親しみも何もない人でした。そんな人と同じ部屋にされ、トイレや正式、肩や太股への注射のときの彼のなんとも言えない視線、今ならいやといえるけど、プライバシーもなにもない無権利状態でした。」 「毎月の定例として、血液をとって(血沈)を計るのと延長先生の診察がありました。ある日、いつのものように私は裸になって診察台の上でそのときを待っていました。どやどやと園長先生以外の若い男の人も入ってきました。私は何でこんな人に自分の体を見られなければならないのかと納得がいかず、早くこの屈辱的な時間が過ぎないか、それとも私が消えてなくなればいいと思いました。彼らは医大のインターンで、私ではなく、カリエスという物体を見ていたのでしょう。自分のベッドに移されてからも私のショックは消えず、やりきれない思い出食事も喉を通りませんでした。当時、インフォームド・コンセントという言葉もなかったし、ましてや障害児の患者に敬意など払われず、「私が障害者だからこんな目に会うんだ」とあきらめるしかなかったのです。 「この人たちはお医者さんになるために勉強中なので、あなたのことを一緒に診てもらっていいですか?」と聞いてくれたら、あんなにつらくはなかっただろうなと思います。「いやです」といいたくても言えなかったかもしれませんが、それくらいの声かけは、最低の礼儀ではないでしょうか。」 REV:...20071109 ◇医療と社会 ◇障害学 |