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「八代英太氏・久保田 哲氏への障害基礎年金に関するインタビュー」

話し手:八代 英太さん・久保田 哲さん/聞き手:髙阪 悌雄さん
20181117 16:00~17:10 東京都健康長寿医療センターにて.

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last update: 20220325


■八代氏について

八代英太氏へのインタビューを,2018(平成30)年11月17日16時~17時10分に東京都健康長寿医療センターにて実施した.八代氏は1977(昭和52)年,参議院全国区に立候補し初当選,1983(昭和58)年参議院二期目の選挙に福祉党を結成し当選する.1999(平成11)年10月の第2次小渕改造内閣と2000(平成12)年4月の第1次森内閣で郵政大臣を務める.国会では障害者基礎年金を含む福祉社会の実現を訴える多くの質疑を行った.なお八代氏の本名は前島英三郎であるが,本書では八代英太の姓名を用いる.


■久保田氏について

久保田哲氏へのインタビューを2018(平成30)年11月17日16時~17時10分に東京都健康長寿医療センターにて実施した.久保田氏は1977(昭和52)年9月に「私設」秘書として八代氏の事務所に入った.翌1978(昭和53)年7月に公設第一秘書となる.久保田氏は八代氏の秘書として2回の選挙を経験し,合計3期18年勤めたところで1995(平成7)年の選挙で八代氏が落選,八代氏はその後衆議院にまわる決意を固め,久保田氏は八代氏の仲介で参議院議員に初当選した亀谷博昭議員の秘書となる.


■インタビュー本文

「八代1.MP3」
00:00:00~01:06:23(66分)
聞き取れない箇所は、***(hh:mm:ss)
聞き取れるけれど自信のない箇所は、【きこえたおと(hh:mm:ss)】
と表記しています。


(00:00:32)


インタビュアー:(以下、――)ご本のほう読ませていただきまして、大変面白く読ませていただきました。それと、こちらのほうもざーっと読ませていただきまして、非常にご家族の視点とちょっとまた違うなというふうに思いまして。ありがとうございます。こっちなんて新幹線の中で涙を流してらっしゃったと言わせていただいていたんですけれども。

久保田哲さん(以下、久保田):僕はまだ読んでないですけれど。聞いたことはあるけれど。

八代英太さん(以下、八代):娘ですね。

久保田:いいお嬢さんだから。

――そうですね。文書がすごい上手で。

八代:娘はNGOで今ラオスの障害者のプロジェクトの責任者で、大変な活動をしていますね。静岡というと、懐かしい。オノダさんって知ってる?

久保田:どこにいたの?

八代:社協か何かのいたな。オノダさん。障害者問題に取り組んでいた、ボランティア活動の。

久保田:ボランティアセンターをやっていた人?

八代:そうそう。やっていた。俺の選挙のときによく動いてくれた人。

――静岡のほうにも、ご本のほうを読んでおられたら、来られたという話をされていましたよね。

八代:静岡放送のチャリティマラソンで24時間放送しましたよね

――本を読んでいたら、いろんな全国を回られているというのがわかって。

八代:今、うちは伊豆にあるんですよ。伊豆市。伊豆市の修善寺っていうところにね。

――そちらのほうに?

八代:そっちは年に3、4回。春、秋、冬、お正月。それだけは行きますけれど。三島神社に。

――三島神社のほうに?

八代:そうそう。

――すごいいいところですよね。修善寺で。

八代:彼も伊豆市だから。

久保田:うちの実家というか、出は静岡県伊豆市か。

八代:伊豆【島(00:02:56)】ね。

――久保田先生も、そうなんですか。静岡のほうがご実家?

久保田:根っこがちょびっとあるくらいで、みんなこっちですけれど。

――じゃあ、いろいろと準備できておりまして。

八代:なんでも。

――前島先生、1958年の10月から11月にかけて基礎年金の成立に際して、僕これ一番大きな功績だと思うのですけれども、竹下先生と林さん、林厚相ですね。東京青い芝の会のメンバーと。

八代:磯部くんだよね。

――磯部さんですね。

久保田:寺田くんか。

――寺田さん、寺田寅彦さんの子どもさん。仲介をなさって。そのときに、イソベさんというのは山口の出身の方で、竹下さんにこうした自分たちの思いをストレートに伝えられて。竹下さんも林さんもすごい感動したというようなことを国会の答弁なんかでも、その後、先生引き出そうとしておられますけれどね。

八代:僕が1977年に初当選をして6年間、ちょうど83年が国際障害者年がスタートする年ですけれどね。83年に2回目の選挙をやって、その間に友人が大勢死ぬんですよ。脊髄損傷とか障害を持っているとか、いろんな難病の人とか。なんだかんだ八代英太に言ったけど何も俺の言ったことをやってくれねぇとか、いろいろ怨嗟じゃないけれど。政治家になれば何でもやってくれるだろうと人は思うから、なるほどな、10年20年後のことを考えるじゃなくて、今日から明日の問題がこういう人たちは大事なんだなということを思うわけですよ。そうすると、俺が何年やれるかどうかわからないけれど、言ってみればこれは時の権力の中に入らんことには、政府が悪い、自民党が悪いと言うのは楽だし暇だし。俺は一生懸命やっているんだけれど、政府が悪いんだ、自民党が悪いんだと言っていれば済む話なんですけれどね。どうも自分自身の仲間のお別れの会みたいなのがあったりして、彼が生きているときに、八代さん一緒に応援して、床ずれつくって、しかし所得保障のことやら何やら頼んだことはまだできていなくて、いつかできるんでしょうね、なんていう話を聞くと、だんだん自分自身も精神的に追いつめられたでもないんだけれど、なるほどなと。今日から明日の問題が彼らにとっては重要なんだし、我々にとっては重要なんだという思いで。これは自民党に飛び込もうかと。しかし、飛び込むにはただ飛び込んじゃいけないという頃に、ちょうど私が参議院では重要な1票のポストを持っていたんですよ。本会議でも委員会でも。持っていて、僕の1票で与党案が成立したり、成立しなかったりという局面がいくつかあるわけ。その都度、自民党の穀田委員長や政府関係者が来て。板山さんなんかも来て。彼は山梨の者だから、私と同郷だから、彼がしょっちゅう来るわけ。***(00:07:21)こんなもの完成して、その代わり、先生、車椅子の舗装化を全部やっちゃいましょうって。電動車椅子の舗装化もいいですよ、一緒にやりましょうと。とにかく賛成してやる代わりには議員章をとればいいんだから、中身はどうでもいいですよ、というようなことを彼らがアドバイスもしてくれるわけ。そうだなと。政治というのはそういうものだ、駆け引きが大事だなと。じゃあそんなことも含めてやろうということになって、わりあい与党の人たちは、八代、お前、えさをぶらぶらさせるような与党には賛成するのかもしれない、なんていう。もちろんいろいろ話をしながら最終的には決めていったんだけれど。というときに、当時自民党の国対の中村太郎さん、これもまた山梨でいたりして。板山さんもいたりして。いろんないくつか障害者政策の、例えば高速の半額とか、駐車除外ステッカーを地方自治体だけじゃなく全国共通にするとか、車椅子の舗装化とか電動車椅子の舗装化とか、投票全部を全部1階にするとか、郵便投票を復活させるとか、いろんな細かい政策も次から次にあげながら賛成してあげようということをやっていたわけよ。

――与党案のほうに?

八代:与党案に対して。そのとき本会議で賛成なんかすると、いくらもらったと社会党あたりがさけぶけれど、そんなことはいちいち待たないとか。とにかく仲間にとっていい結果であればいいな、と。ちょうどこれが、言ってみれば参議院が非常に白票のときだったね。久保田くんね。だから、新聞記者も俺専属の、共同のなんていったっけ、彼は。

久保田:サイトウ記者。

八代:サイトウか。懐かしいな。共同の彼の敵陣にも、いろいろ一緒に戦略練ったもんね。マスコミの連中にもいろいろ相談をしながら、とにかく今度この問題で次の法案には賛成しようとか、別に反対してもどうってわけじゃないだろうということで、いくつかやっていたら、やっぱりこれはだんだん与党に入る。しかし一番与党に入るには、なんたってこれは生きていくための所得保障だろうと思うわけですよ。

――翌年の59年の11月に政策協定を自民党との間で結んで、障害基礎年金の項目も入れられました。今のお話を聞いていると。

八代:それもみんな入っているわけ。入っているけれども、その中でこれはもうちょっと先に延ばしてもらいたいとか、いくつかあるんですよ。いくつかあるんだけれども、最終サインはやっぱり、自民党の元厚生事務次官だった田中正巳議員という人がいて、この人が自民党の中の年金問題調査会長か。田中正巳議員知ってる?

久保田:ええ。衆議院だったのが参議院に回ってきて。

――厚生族の。

八代:ボス、ボス。

――ボス?

八代:ドン。田中正巳議員というドンがいたのね。このドンも含めて障害者の所得保障の問題、年金制度の大改正もだんだん迫ってきているという状況の中で、ここで一発勝負をやろうというので、中曽根内閣だったかな、中曽根内閣のときに最終的な、自民党に入る。

――中曽根さんのお孫さんの話を聞いたと。

八代:それで、その約束が口頭とかも文章とかもなかったから、それは必ず国会で【ゲンジ(00:12:07)】はとっておかなきゃならないから、必ず委員会で質問の中に入れて、議事録には残して、ちらちらっと残しながらやっていくわけですよ。

――59年11月に政策協定を結ばれて自民党に入党されますけれども、もう既に58年の11月に。

八代:もう全部根回しが終わっていた。

――与党案の福祉政策に、いろんな小出しの、東京都以外の駐車場禁止除外規定というのをほかの都道府県に広げることも含めて、与党案に八代先生もまず現実的な。

八代:それまで、障害を持った人たちの家族とか、この子より先に死ねないなんていう声が多いことと、いつまでもたっても親掛かり福祉で、障害児おろしみたいなのもあったり。そうすると嘆願運動みたいなのが起きたり、いろいろ障害を持ったということに置ける社会の偏見もまだまだ強い時代だったものだから。そこに障害者手当というものがあって、老人福祉手当というのが2万円、障害手当が2級が2万円、1級が3万円だったかな。3万円か2万円だった気がしました。要するに福祉手当というのは何だと。これが所得保障だという話なんだよ。だから、あとはしょうがない、そういう道に生まれてきたんだから親が面倒見るのは当たり前、それじゃなかったら施設に入れ、みたいなね。言ってみれば施設重点主義みたいな時代でしたから。それが今は、真っ向から青い芝とかそういうのは反対しているんだけれど、ああいう運動みたいなのが起きてくるんだけれども。当時は、福祉というのは、そういう人たち、困った人、恵まれない人は施設に入ってもらう。家は、それぞれの所得の中において親が面倒を見るのが日本型福祉なんていうようなことを言っていましたけれど。そうじゃなくて、当事者が人間として生きていくための最低限度の、憲法25条に則った最低の生活が営める権利というのをみんなが果たしていくには、制度として所得保障をつくっていかなきゃいけない。***(00:14:45)とか丸山一郎とか、いろんなそういうことで勉強会に連中がいましたよ。いましたし、僕は大平さんのときに初めて代表質問するんですね。これが、1980……、あれは3年か。1983年に代表質問……。もっとあとか。

久保田:野党時代の。

八代:80年だ。

久保田:昭和で言うと54年?

八代:そうそう。昭和52年が当選で、54年にあるんだ。それには、5人の会をつくらなきゃ代表質問ができないということで、俺が無所属の連中に頭を下げて。代表質問をやりたいものだから。それで、国際障害者にも近付いてきたからというので、江田五月議員、田英夫議員、アリタさん、参議院の。それからもう1人誰だっけな。5人でつくるのよね。参議院クラブというのを。

久保田:宇都宮徳馬議員。

八代:宇都宮徳馬議員ね。5人でつくるのよ。俺が最初の代表質問をして、例のノーマライゼーションの理念を発表するわけ。これは大平内閣。大平内閣のときに、このノーマライゼーションの理念というのをものを、丸山一郎さんや板山さんやあなたや、一緒に原稿をつくったじゃない。みんなで。あそこでデンマークのノーマライゼーションに1つの【単語を発した(00:16:31)】この言葉というのは、デンマークではやっていると。これは日本でもノーマライゼーションというのをはやらせようという思いと、大平さんなら、これは丸山一郎さんと板山さんが言うわけじゃないけれども、子どもさんがベーチェット病で、障害を持った親という心は必ず通じる人だということを言われて、じゃあこの大平内閣へノーマライゼーションだと。このときも所得保障を俺が出すわけ。所得保障とバリアフリーと。

――このときにもう既に。

八代:今の制度の中の根幹をこのときに発表するわけ。

――障害福祉年金を上げていくというような、生まれたながらにしての障害者の所得保障というのものを拡充していくということも、このノーマライゼーションの。
八代:理念の中に。このときにみんなで考えたことは、とにかく障害を持った人たちは自分の人生は自分で選べと。自分の人生を自分で選ぶという自己決定権がなければ駄目だと。自己決定権を保障するには、それだけの所得がなきゃ駄目だと。所得を、働ける人、働けない人、いろいろいるけれども、働けない人だって、誰だって自分で好んで障害を持ったわけじゃないんだから、これは国としてお互いの支えていくのが人間社会のあるべき姿なんだと。そういう人がいてこそノーマルな社会なんだと。健康な人ばかりの社会なんてあり得るわけないと。それはヒトラーの世界だから。そういうことがあってはいけない。障害者がいる社会こそ平和なんだと。お年寄りもいる、寝たきりの人もいる、目の不自由な人もいる、歩けない。しかし、私はこの国会で、ここで今代表質問するのに、前からこの壇上に登ることはできないじゃないか。これが今の日本の姿だ、ということを。あのときも正面から行きたいと言ってね。上がってやりたいんだと言って。それも大もめにもめて。あのときの大阪の。

久保田:中山太郎さん。

八代:中山太郎さん。わがまま言っちゃ許さんと言ったんだよな。

――そんなことを言ったんですか。すごい。

八代:それで頭にきて、俺は堂々と前に、這ってでも俺は行くということで。謝ったんだよね。謝りに来たんだよ。悪かったって言って。そういうふうなことをして、国会議事堂を大改装するというのはなかなか難しいけれど、それでも自分が、なぜ私は遠回りをしたかと、この現実が、なぜ私が正面から上がれなかったかというのは、これは昭和12年にできたこの建物時代には、今の時代に車椅子で代表質問するようになるなんてことは誰も思わなかったですよ。それはそれでいいと。しかし、現実に私が今ここにいるんだと。その次、なぜそういうことをお互いにこの中の皆さんはわかってくれない、みたいな。これが今の日本の福祉の現実なんですよ。遠回りなんです。みんなと一緒の道筋は通れない。障害を持つと家の中にいる、障害を持つと電車にも乗れない、飛行機も乗れない、これは本当に人間社会といえる、ノーマルな社会といえるかっていうのを大平さんに訴えるわけですよ。訴えたら、大平さんが、ただいまは誠に感動的なと。議事堂は与野党問わず拍手だったよね。あのときね。一番それが感動的だった。当時の新聞にあまり書かなかったからね。それでも、ね。

――大平さんは、その後お亡くなりになられて、その後の選挙で自民党はまた大敗をしますよね。

八代:今度は大勝して。

――大勝か。

久保田:10月に大敗して、翌年【イノシシ(00:20:45)】と引き換えに大勝した。

――大勝と大敗の期間が短かったという記憶が残っているんですけれども。

八代:大平さんのあとが鈴木さんだっけ。大平さんのあとが鈴木さんだ。暫定的に。

――そうですね。臨調がそれでできるんですね。確か第二臨調が鈴木さんのときに発足をするわけですね。

八代:そうです。それで、中曽根議員に代わって。

――中曽根議員に代わっていきます。

八代:そのときに大平さんが、これからノーマライゼーションの理念に基づいてやるということを宣言するんですよ。このことを僕、備忘録というので、今週の、『リハビリテーション』という雑誌があるんだけれど、そこに1万字で書いてくれと言われて書いたんだよ。今、もうできていると思うんだけれど。

――1985年の国民年金法の改正というのは、政治家がかなり、前島さん以外の政治家も絶対に不利になるような改正で、一歩引いたところで見ていたところがあったと思うんですけれども。

八代:協力者はいませんでしたよ。

――ですよね。

八代:そんなにいたわけではない。

――そうですよね。今のお話を聞くと、1980年にこうしたノーマライゼーションの国会の演説をやられて、言ってみれば所得保障もその中に含められて、国会でずっと演説をなさって、1つの流れみたいなものをつくられたという。政治の世界の中に。そう捉えてよろしいですよね。今のお話を聞いていると。

八代:いずれにせよ、とにかく所得保障というのを成就することが大事だという思いと、自民党に入って諸政策を形にしていこうと。生き急ぎをしている連中が多いと。それじゃやっぱり自民党に、国民がどういう批判をして、それは怒った人もいますよ。たくさん。与野党問わずいろいろ言われましたけれど、それはそれで時が解決する話だから、それはいいだろうというようなことで。

――ご本の中にも書かれていたんですけれども、多く亡くなっていかれた方がいらっしゃったと。それに対して焦りを感じていたということを今おっしゃったんですけれども、具体的に自ら命を絶ったりとか、そうしたようなケースなんかもあったんでしょうかね。病気で亡くなった?

八代:要するに脊損とか、床ずれとか内部疾患で、そうは言ったって医療だってそんなに進んでいたわけじゃありませんので。障害を持ったというのは、社会の障壁を乗り越えると同時に自らの障害も超えなきゃいけない。二重の苦しみがありましたからね。

――そういう意味で早く亡くなられる方というのもいらっしゃって。実現していないというところですごく焦りというものがあって。83年11月に***(00:24:06)障害者団体をつないだ。翌年、政策協定を結んで。1985年の4月に国民年金法が成立します。そのときに、自民、民社、賛成で、あと公明、共産とか社会党というのは全部反対をするんですけれども、前島先生のそうした賛成票というのは大きかったという。

八代:俺は何年に入党したっけ。自民党に入ったのは。福祉党でやったのは2回目の選挙だよね。

久保田:選挙のあとですから。

八代:2回目の選挙が終わって、終わった翌年が83年だ。83年の7月に選挙。83年の国際障害者年。

久保田:81年です。

八代:81年ね。

――国際障害者年の十年が始まりますね。

八代:十年が83年。年が明けて自民党に入る。

――59年11月。

八代:その前から約束をしていたものを、僕も立候補しなければいけない。それにはすぐに入ると。世論も含めて、大変だから時間をくれということでいろいろ話し合いをして。84年の確か通常国会あたりで入ったような気がするな。自民党に所属して。年金法も含めて、そういうような形で必ず出ることが前提でしたから。

――政策協定結ばれましたね。その翌年の4月に年金法が成立していますよね。

八代:そうです。

――社会党なんかも完全に反対はあのときかなりしていて、共産党もやはり反対していて、年金法を通すというのは被用者年金組合の被用者はかなり損失を被るので、相当危ないというようなことを官僚の人たちも言っていました。それで政府与党も相当危機感を持っていたと思うんです。

八代:昔、拠出型なんだけれども、拠出の人たちがあまりにも多くなって、そういう人たちに年金財政が圧迫されるという危機感があるわけですよ。

――そういうことですね。

八代:それは、当時も僕が怒ったのは、例えば養護学校義務化なんていうのがあったんですよ。障害を持った人たちのね。あれは1976年くらいだったと思いますけれど。そのときに、養護学校義務化というのが、これは憲法26条の全ての人が教育を受ける権利があるという憲法の解釈で、障害を持った子どもも教育を受けさせてくれという親の会。それから、障害を持った学業免除をしてほしいと。学校の現場の先生はそういう人が入ってくると困る。これは、共産党と自民党が合作したのが養護学校義務化なんですよ。だから共産党にとっては、先生方が負担が少ないようにやるには養護学校というものをつくって、そこに障害児を入れる。親のほうは、こんな不憫な子でも教育を受けられるんだというものを国が保障してくれたという親のエゴ。共産党は働く人たちの負担が少なくなるような形で、障害を持った人たちをひとまとめにして教育の中に入れちゃうという、政党としてのエゴ。自民党は親の会というもののエゴ。そういうことで始まったと同じように、共産党とかいろんな各政党の裏には組合があって、計算をして、この年金法でも何でも、それを自分たちのバックアップにとって、国民というバックアップのほうにメリット、デメリットがあるかなしかで賛否を決めていくから。我々は純粋でもないけれども、ある程度、社会通念上、障害を持った当事者の思い、気持ちというものを考えながらことを動かそうとしていたけれども、そうではない人たちも与野党の中にはあったはね。だから、それから僕が障害者基本法というのをつくるんだけれども。

――93年。

八代:そのときも、共産党を説得するのが大変だったね。共産党は、やっぱり学校の。僕はとにかく全ての障害を持った子どもが養護学校に行くも良し、普通学校に行くも良しと。それを拒んではならないという一札をどうしても条文に入れたかったんだけれども、それをかたくなに反対したのは共産党と自民党。

――93年も当然与党のほうに所属していますけれども、与党の中で自民党は反対したんだけれども、八代先生は。

八代:がんがん言うから。与党の中だから、それはもう平気で。仲間だから。そこへその頃、安倍晋三議員とかそのへんが1年生議員で入ってくるわけですよ。それで、みんな最初に社会部会というところに入るわけだ。これは厚生省とか障害者問題とか。僕は障害者問題特別委員長というのを特別委員会で持って行って。

――そうでしたね。

八代:僕がそれを持って行った。障害者問題は必ず僕の委員会で審議するわけですよ。これを僕は絶対妥協せずに、俺はこれの委員長を変えたかったんだけれども、あいつ何年やったかな。最初は入ったときからやっていたね。ずっとその委員長を落とさない。

――八代案が、障害者基本法も一番反映されたというお話でしたよね。

八代:そうそう。それも共産党を説得したり大変でしたよ。さっき話したんだけれど、障害者基本法というのは心身障害者対策基本法といって、昔橋本龍太郎が議員立法で出した。僕がそれを、橋本さんと話をして、障害に心も体もないと、分離するのはおかしい。だから心身というのはとって、障害者は心も体も一緒に考える時代でなきゃいけないと。それで、障害者基本法ということで任せると。徹底的にやれと言って。いろいろアドバイスも受けたけれども、僕がそれを議員立法として各党に、社会党、共産党も含めて、公明党も含めて、みんな相談をしていったんだけれど。あれは議員立法なんですね。ところが、俺が辞めたから、この間基本法が変わったのよ。

――2013年の改正、2007年、いくつか改正しましたね。

八代:なんであれが政府提案になっちゃったんだ。

――政府提案という形で今改正されたんですか? 1997年はプランをつくられたというところの改正と、それと2002年という改正というのも、1997年もう1つ知的障害という言葉に変えたという改正も行われましたね。その後の改正が2002と2007と、ちょっと僕その後が。

八代:僕は、2005年で終わるんですよ。政治。

――いったん引退されましたよね。郵政のほうで。

八代:2005年のときに、村木さんと一緒にやった障害者の。

久保田:塩田さん?

八代:塩田さんと一緒にやった障害者の権利じゃなくて、何だっけ。俺も攻撃を受けたけれど。

――自立支援法?

八代:自立支援法ね。

――支援費制度が終わって。

八代:そう。支援費制度ね。支援費制度の中身がおかしいというので、支援費制度のときに、所得保障を既往にもっと据えていないから支援費が関西はやたら高止まりになって、東京は少なくて、各都道府県でも全然。滋賀県はやたら多くて。あまりにもばらつきがあったものだから、これは所得保障をしなきゃいけないということで、村木さんと塩田さんというのが一生懸命改正案をつくって、国会議員に提出をするんだけれど、藤井とか、それに所得保障が入っていないものだから、ものすごい俺、***(00:33:50)わけ。そこでも所得保障をもっと膨らますような形で、この改正案を出す。仕事に入ったわけよ。それは総務会でも通ったのよ。通ったんだけれど解散になっちゃった。廃案になっちゃった。

久保田:解散で。

――宮澤さんの不信任案が。

八代:いやいや、小泉さん。

――郵政の、いったん廃案になりましたね。2005年。それで、そのあと大勝して半年遅れか何かでできましたね。

八代:これは全く障害者、どういう妥結をしたかわからないけれども、俺らのとは違うのよ。

――所得保障案、最初入っていたんですか?

八代:入っていた。修正案を僕が、衆議院が終わって、いよいよ参議院で最後の修正を説明というときに、解散になっちゃった。いったん廃案になって、郵政選挙で大勝して。そのあと通ったものは八代先生の当初案とは全然違っていたものだったんですね。それはすごいあれですね。

八代:面白いドラマです。それと同じように、障害者基本法が議員立法でつくったはずなのに、いつの間にか政府案に変わったというのは何でか。そんなに議員立法なんていうのは感じられていたのか。立法府は。これは本当立法府が怒らなければいけないな。あれが今政府提案になっているの?

――ごめんなさい。ちょっとそこがね、政府提案……。

八代:それ、高阪先生違うと思う。

――もちろん調べてみます。またメールで調べて。

八代:面白い。

――面白い。そうですね。政府提案で。

八代:議員立法だからね。だから、その議員立法で変えていくという議員のエネルギーがないのよ。障害者問題は。自己PRをするわけじゃないけれど、俺はもうそのことが全てだったから、なんでもかんでもその問題が障害者の所得をつけば、かみついたり政府を正したりしたものだけど、今そういう議員はいないから。いないし、障害者も今や丸め込まれちゃって、いい子いい子になっちゃっているわけよ。藤井くん、あそこ……。共同作業所。

――藤井克徳さん?

八代:藤井克徳さん。あれはもうすっかり丸く与党ボケしちゃっている。藤井くんとかさ。それから、日身連は安倍さんに乗っかっているけれど。それから、もう1人、弁護士の。

――自立支援法案で訴訟の原告団の中には加わりましたね。あの弁護士の方。

八代:権利条約をやっていた。車椅子の弁護士。

――東。

八代:東俊裕さん。ああいう連中もみんな政府の中に囲われちゃったから、みんな大人しくなっちゃった。今、だからまん丸だよ。これからいろいろ出てきたときに本当に戦えるのかなという思いがするな。時の流れで変わっていくんだろうけれど。

――障害者自立支援法についても訴訟が起こって、国家提案というのを再度自民党のほう、厚生省のほうが出したときに、全然障害者のほうの案というのが全く反映されていなくて、結局丸め込まれた訴訟が起こったんだけれども、丸め込まれたみたいな、そんな感じになりましたよね。

八代:そのとき、藤井くんと僕が照らし合わせて、藤井くんがこうしようと。よし、わかった、じゃあどういうことをあなたがたは、それをやったら納得するのかと。村木さんも塩田さんもひーひー言いながらやっていたから。こうこうこうだから、俺が党で総務会で演説して、俺が修正案出すから、でも総務会でいったん決まったものの修正案をまた総務会ではかるなんていうのは聞いたことはないと言われてさ。総務会長に。障害者問題というのは***(00:38:45)。

久保田:それにしても官公庁の障害者雇用の問題だと、マグマは相当たまってきているはずですよね。

――現在の官公庁の。

久保田:あれなんか、だって全くうそっぱちだったわけだからね。

八代:あんなこと、俺がいた頃あんなものがあったら、それは机ひっくり返してえらいことになっていたよ。

久保田:それで団体がいろいろ声明なんか出していますけれどね。声明なんか出したって、何の影響もないわけでしょ。

――すごいですね。とにかく水増しして、障害者手帳を持っていない人をどんどん水増しして雇っていたわけですからね。あれは本当にすごい大きな問題に。

八代:あの頃、そんな話をよくしたよね。俺。地方の自治体も困って、ちょっと風邪引くと、じゃああんた障害者手帳を取れとかって言って、やたら地方自治対で障害者手帳を今発行している風潮があるけれど、という話をしたことがあったろ。どっかに載っていないんだ、それ。

久保田:だからその頃地方に行って、現場の人たちからはそういう実例を地域地域で見ていて、本当はどこかおかしいところがあるんじゃないかと思っていたのが、ずっとぐずぐず来て、今ぼんって爆発して。

――ぼーんと爆発していますね。すごいね。

久保田:ちょっと大爆発が起こった。

八代:久保田くんが調査魔だったからね。

久保田:いやいや(笑)。

八代:助かりましたよ。

――立命館の長瀬先生と。

八代:長瀬くんは、最初、語学ボランティアにいて、高校の先生になるんだという話で。あんた障害者問題好きなのか?と聞いたら、好きなんですと。じゃあ俺のところへ来いと言って。それで来たんじゃないかな。

――そうなんですね。今、立岩真也先生と一緒に研究を長瀬さんしていましてね。4月にも確か前島先生のところに長瀬さんのグループがインタビューに来たって。今年の4月ですかね。長瀬さん、インタビューを前島先生にされたという話を聞いたんですが。事務所のほうで。

八代:長瀬くんは、またラオスにも行ってもらって。

――ラオスにも。そうだったんですか。

八代:だから、国連では高嶺豊というのと。今、岡さんは今名前何て言ったっけ。

久保田:中西さん?

八代:中西さん。

――正司?

八代:中西正司さんの奥さん。彼女も昔、僕の秘書をしていて。そういう連中が今国際的な中で日本を動かしているけれども、全然迫力がなくなっちゃったな、みたいな。なんでこんなに迫力がないのか。

――今お話を聞いていたら、80年のノーマライゼーションの国会での声明というのは、政治家に及ぼした影響というのがかなりあるというふうに私は思いますね。

八代:ある。あれは【ヤクショウ(00:42:05)】にね。

――思いますね。それで官僚が動きやすくなったというところはないですか?

八代:官僚動きやすくなった。

――そこの、僕、影響じゃないかなと思ったんですけれどね。

八代:あれは、丸山一郎さんとあなたも絡んでいたっけな。原稿をつくるの、これでいいかって。ノーマライゼーション。大平さん。

――官僚が障害基礎年金、国民年金法の改正とかなり手がけたと思うんですけれども、やっぱり政治家が動かなかったら官僚って動かないところってあるので。その流れというのが、80年の演説で大平さんの答弁も含めて1つつくられたところって僕はあると思うんですね。そこから官僚が動きやすくなったというところがあるんじゃないかなというふうに。

八代:僕は、厚労省の人たちとは友達が大勢いましたよ。役人も人だから、一緒に考えて、一緒に勉強会をして、一緒につくっていく。そうすると、こんなふうなやり方がいいかもしれないとか。そうした場合は、どこがネックになるのかね。財務省どこだ***(00:43:22)我々も厚労省の予算取るために財務省の資金局に行ってがんがん演説したりね。あの頃は、財務省というのは大変だったよ。威張っていて。そういう時代でしたけれどもね。

――もう一度、僕、国会議事録のデータベースで80年の大平首相への質問答弁、もう一度ノーマライゼーション調べてみます。やりとりかなりこれだったと思いますので。

八代:ここで全部バリアフリーから何から、僕が今後見据えた、それこそ10年後20年後じゃないけれども、これから日本の障害者福祉でまずやるべきことということと。それから、福祉外交ということ。今は僕の国連で発表されたら、日本は共同提案国になっているのに、日本では何の方法もしなかったんですよね。外務省にそのものがあることさえもわからんかった。つまり本当のおざなりだったのよ。障害者問題なんて。いうようなことで、外務大臣にも厳しく言ったり。それから、参議院クラブ、前島英三郎の質問、10分だったかな。

――5人のグループの代表のとして質問された。

八代:そう。すぐそのグループは解散になっちゃったんだけれど。

――その後、板山さんなんかがCP研究会を1980年に立ち上げて、検討委員会につながって、専門家会議という障害基礎年金ができた会議なんかにつながっているんです。具体的に専門家会議のメンバーはどんな人がいるんですかというようなことなんかも、前島先生が質問されているんですよね。あれは国民年金とか厚生年金の審議委員の人なんかが入っていて、すごいするどい質問をされている。答弁をした人はマサキさんという官僚なんですけれども。

八代:局長か。

――ええ。1つのポイントを押さえた質問をなさっているので、私論文を書くときに助かったんですけれども。今日新しい発見というのは、80年の5人組の代表として質問された、その後その官僚が動きやすくなったという、そういう流れというのはあったんじゃないかなと。大平さんの答弁。

八代:僕が1981年に障害者の世界組織をつくるんですよ。DPIというのを。

――DPI、そうですよね。

八代:DPIというのをつくって、彼が***(00:46:27)というカナダに行って、***(00:46:29)の大会に出てきて、障害者の世界組織をつくるという機運が世界の障害者のリーダーたちの間に出てきて。僕はアジア太平洋の議長になるんですよ。1981年にシンガポールでその産声を上げて、RIと並んで障害者組織のDPIというものが、国連で認める形で動いていくんですよ。これが国内における、そんなに力はないけれども、国際的な流れというものが、日本はしっかりそういうふうに追いついていかなきゃ駄目なんだよと、外務省にも厚生省にも、いろんなところにその話をしていきながら、いわば役人育てというか、役人の育成というか、役人のマインドを変えていくということを随分と腐心したことがありましたよ。

――国際基準、標準があって、国際障害者年というのがあって、前島先生がDPIをつくられて、日本のDPIも結成された。こうしたアジアの中でも障害者の連帯が始まった。そうしたアジアの中での基準を世界の中での基準というものに合わせていかないかんというふうなことを説得されたというのは、やっぱり国際障害者年というものにとにかく彼らは基準を合わせていかないかんというところを意識があってやったと思うんですよね。

八代:だから、まず国際障害者年というものが、日本というのは、我々、国連でとか大きな世界の潮流の中には従順な国なんですよ。

――そうですね。黒船社会で。

八代:何かあれば世界の流れに沿っていかなければならないという責任みたいなのが、非常に真面目なんですよね。だから、国連障害者年という1つの10年を、やっぱり日本の新しい福祉の黎明期にしたいという思いも私もあったわけ。それには与党の中でやっていくと。それで、今までの懸案のものを計画条項の撤廃やら、障害者はできないものなんていうのは、てんこもりだったわけだよ。そういうのを全部取っ払って、基本法というものをつくっていって、障害者の完全参加と平等という基本理念の中にどう社会を構成していくか。それには地域地域でも障害者が育っていかなければならない。だから、障害者議員連盟のようなものを地方につくったりして、いろんな人が地方議会に立候補するような時代にだんだん変わっていって。障害者が自ら自己発言、自己決定の意欲を。それが自立運動であり。しかも、その先駆的なものは青い芝なんですよ。彼らは行動で示したわけ。

――行動で示しましたよね。

八代:彼らが行動で示して頑張ったけれども、それにともなって、単に取り囲んで座り込んでじゃなくて理論武装していかなきゃいけないんだから、障害者も勉強していかなきゃならない。組織というものをやるためには、世界の障害者のDPIというものの後ろ盾になったり、いろんなことを通して、日本とアメリカで日米障害者会議、サミット会議みたいなことをやったりして、アメリカのそういう自立運動を日本にどう生かしていくかみたいなこともやったりとか。それをみんな僕が議長をしながら、金集めもして、アメリカと日本は今親しくなって、自立運動みたいなのも日本にもいろんなところで。

――エド・ロバーツさんを含めて入ってきましたね。

八代:エド・ロバーツも来たり、ジュディ・ヒューマンも来たり、いろんな人たちが日本に来て、市民会議をして、日本の障害者もやっていく。それは、今のように縦割りじゃなくて、車椅子は車椅子、知的は知的、精神は精神じゃなくて、障害を持った人たちが一体にならなきゃ駄目だよということで、必ず脳性麻痺、四肢、視覚、聴覚、全部各カテゴリーが入って、お互いが学び合うということをやったわけよ。

――青い芝の会、所得保障運動にもかなり強い声を上げていきます。1980年代で、竹下蔵相と会われたときも、林【コウショウ(00:51:12)】議員と会われたときもダイレクトに言葉をぶつけていくんですけれども、やはり彼らはエド・ロバーツと会ったりとか、国際的なそういった障害者運動の有志、そういう人たちを会ったことが彼らを後押しした部分というのがあったと。

八代:そうそう。誇りでもあるしね。マイケル一家とかね。非常に海外には猛者が多くて、なかなかの雄弁家も多くて。あと、英語というのは日本人にとっちゃアレルギー的に心にぶつかってくるものがあるものだから、役人もたじたじとなって。そういうものを後ろ盾にしながら、どんどん政府に懇願をしたり、陳情したりしながら、自分たちの意見を述べて。だから随分1981年から変わりました。日本の障害者運動も。もちろん青い芝の会の。その前に、総評が弱者救済なんていう。僕がちょうど当選した翌年のメディアか。弱者救済なんていって、なんか妙に障害を持った連中を弱者呼ばわりして、俺は反発したことがあったけれど。

――総評も、拠出制によって障害基礎年金をつくろうとするのではなくて、もう全部税方式で彼らはやろうと、そうした案を立てて、かなり非現実的なことを社会党というのは言っていた時代だったと思うんですけれども。前島先生は80年のこうした国会演説で、障害者問題の国際化とノーマライゼーション、所得保障も含めたノーマライゼーションということが国会で答弁。大平さんから、ノーマライゼーションの重要性という言葉を引き出させて、そのあと官僚というものが大きく動き始めて、障害者と官僚の関係ができあがってというような。83年に実際に障害者団体と竹下さん、林さんを結びつけて。このあたり、何かほかにエピソードないですか? 58年11月の竹下さんと林さんの裏話のようなものというのは、何か。結びつけたときの。

八代:大蔵省に行くと言ったんだよね。

久保田:障害者自身が意見を言いに。

――行きましたね。

久保田:大蔵省に行こうという話だったんです。ところが、大蔵大臣自身が、皆さんに足を運んでいただくわけにはいかないと。私が前島先生のお部屋に参りますからということで、場所を大蔵省じゃなくて参議院会館に変えたんです。だから、竹下さんが、自分が足を運んでいくべきだというふうに。

――おっしゃったんですね。竹下さんが。

久保田:その背景というのは、大蔵省の中の話は聞けませんからわかりませんけれども。

八代:つまりそれはもう覚悟の思いですよ。自分は***(00:55:02)行くと。そして皆さんの話を真摯に聞いて、前島先生から痛いほど聞いて、国対のほうからも聞いて、しかるべき先に八代さんは我が党に迎え入れなきゃならんという総裁からの指示もあると。これはしっかりと聞いておかなきゃいけないと。それじゃあ大蔵省へ呼びつけるんじゃなくて、私が前島先生の部屋へ行って皆さんとお会いしましょうと。こんなふうに。

――すごいですね。そうだったんですね。

久保田:もう1つ。出入りするお役人の言葉が、竹下さんが見えるまでは大蔵が堅いんですよという話ばかりだったんですよね。大蔵が動かない。

――共済関係で大蔵省の共済課というのがありましたよね。それで、共済年金が統合に参加することをかたくなに拒んでいた背景がありまして。その共済課長という人がすごいかたくなに拒んでいたところがあって。国民年金法改正自体に大蔵省というのが一部の共済課の課長を中心にしてかなり反対意見が強かったという話は聞いていますね。竹下さん自身、大蔵は堅いというふうなことを?

久保田:竹下さんじゃなくて、厚生省の役人が堅いんだと。

――おっしゃると思います。それは。

久保田:それで、竹下さんの見える与党とかそういう話をすると、それはちょっとこうなればいいなという。

――厚生省の方がおっしゃっていたんですか。

八代:あの頃そうやって障害者問題はこういうものだと一緒に勉強して、大蔵省がしっかりこういうところに大学を買ったり、戦闘機を買うのもいいけれども、一人ひとりの命の安全保障ができていないなんていう国は駄目なんだよと言って、いろいろ話したのが武藤とか、今オリパラの事務総長。あの頃そうやって話をした連中が、みんな今偉いところでやっているよ。

――武藤さんって日銀総裁に立候補した人?

八代:も、あった人ね。

――あった人ですよね。

八代:あの人はいい人だよ。よく付き合って、いろいろな話しますね。

――そうですか。その裏話聞けてよかったです。厚生省の役人が、竹下さんが会ってくれることによって大蔵省の堅い頭が変わってくれたらいいなというようなことを。それで、だいぶ動いた部分というのはありますよね。林厚相とも面会をつなぎましたね。

八代:林さんという人は、今の文科大臣みたいなのをやっていた。けど、わりあい***(00:58:09)でハートのある人だったんですよ。

久保田:林義郎さんね。

八代:僕が自民党に入るときに、幹事長が金丸さんという人だった。

――金丸信。

八代:この人が山梨なんですよ。私も山梨なんですよ。板山さんが山梨なんでしょ。総理府の特別対策室がセタチって僕の高校の後輩なんですよ。山梨。なんかあの頃、やたら山梨***(00:58:34)したね。厚労省が。僕の1票で随分いろいろものが変わったもんだから。そんなことは別としても、とにかく金丸さんも僕が***(00:58:49)については、どんなんでも行ってこいということをよく言ってくれました。だから政治というのは、いいと思えば流れていくんです。いい方向へね。

――そうですね。

八代:ちょっとつまずき出すと駄目ですけれどね。政治家もやっぱり人の子だから、その政治家の心の中に、政策以前の中のその人の人格というものが政策にいろんな形で影響を及ぼしてくるし。あの頃、中曽根議員も、私はまるで軍拡派のどうしようもない右翼のように思われているけれども、実は私の甥孫は知的障害だ、なんて言って。***(00:59:36)人の親の、総理という立場でやっていかなければならない思いと、心の中の葛藤というのは【開示(00:59:46)】しないところはあるわね。だからドラマがありますよ。

――大平さんもページェット病のお子さんが。与党だから福祉じゃないという、その見方は当時ものすごくバッシングを受けたということも本に書かれていましたけれどね。

八代:自民党は福祉なんかいらないと思っていましたよ。だけど自民党には、自分の子どもがそういう障害を持っていて私は政治家になったという人がけっこういる。今もいるんですよ。表には出さないけれどね。村上という有名な、最後はKSD問題で議員を辞めちゃったけれど、村上正邦議員という参議院議員のドンがいたんだよ。これが友人でいたんだけれどね。彼が、やっぱり子どもさんが知的障害なんだよね。だけど、俺は表で障害***(01:00:43)やっておられる、俺の思いはあんたやってくれって。中曽根議員も、自民党の中はもっと福祉をやらないといけないんだけれど、私が号令をかけるわけにはいかないから八代さんがやってくれ、と。こうなったから、そういうことはかなり激しくやりました。

――すごく貴重な証言をたくさんいただきました。

八代:それで、バリアフリーの最後のところは、二階議員が運輸大臣になって。二階俊博議員というのが。

――二階さんいましたね。

八代:二階議員が、何か障害者のことでやることないかって言うから、よしと。今、自民党でもバリアフリーという問題が。バリアフリー議員案も僕がつくったんですよ。だけど、ここはもう閑散として人が来ないんです。お金がかかることだから。鉄道を変えるんだから。世の中を変えるんだから。バリアを取り除こうと。だからこれは、彼は自民党じゃないから、保守党だから、それが大臣になって、しかも運輸大臣になった。よし、こいつにやらせようといってバリアフリーというのを彼にけしかけたわけ。それで、バリアフリー法。

――法案ができたという。

八代:そういうけしかけ方もあるし。政治というのは本当に駆け引きだと思うよ。

――内側内側から現実的に対応なさっていったという八代先生の姿勢、ものすごい感銘を受けます。

八代:意外に運輸省になったけれど、局長はね。

久保田:羽生次郎さんという。

八代:これがまた障害者問題を心の中でやりたくてしょうがなかったという役人がいたわけよ。そうすると、俺も一緒にやっているということになって、大臣が彼をすぐに抜擢して、とにかく郵政大臣と一緒に勉強会やろうよって言ってやって、法案を彼がつくって。

――二階さんと一緒に?

八代:二階さんと一緒に。そういうバリアフリー法をつくりましたけれどね。だから政治家も、個々にはいいやつもいるし個々には悪いのもいるかもしれないけれど、いろんな人がいるんだよね。

――ある意味与党と革新の対立の構図みたいな、前島さんものすごい乗り越えられた部分というのが。福祉は革新で、与党というのは福祉を切り捨てるみたいな、そういった単純な図式みたいなのに、みんな固定観念にすごく思い込まされていた部分というのがあるんですけれど。前島さんのそうした勇気ある1984年の入党によって、1つやっぱり。

八代:自民党も変わったと思いますよ。

――ですよね。

八代:僕はけっこう演説しましたからね。総務会のところでも。八代英太しゃべりだすとしつこすぎるなんていうふうに言われましたけれどね。やっぱり弁が立たないと駄目だし。弁が立つということが、当事者の思いというものが私自身に乗り移っていたからね。

――そこじゃないかなと僕思うんです。

八代:さっきの声なき声じゃないけれど、声を私が代弁するというのは、【タイカイ(01:04:21)】に一石を投じた苔むした石を拾い上げて、それを磨きをかけて提案するという、そういう立場でしたよ。

――声が乗り移っていたという、そこの部分がすごく重要な部分で。それが伝わったというところですね。

八代:今年になって安倍さんがなぜか国会質問で野党が、そういう障害者問題を私もかつて八代先生と一緒に部会で活動しながらと答えるんだよ。私の名前を使って。この間電話したんだよ。総理もよく私の名前を衆議院、参議院で。あ、聞いていたの?なんて言われたけれどね。わりあいあの人も僕の福祉のときの演説というのは頭の中にあると思うんだよな。それがあるうちはいいと思うけれど、それはまた消えるものだから、これは怖い。

――そうですね。ちょっと今の安倍さんの政治とか見ていたら、ちょっと私は怖いなと思うんですけれど。

八代:福祉は危ない。冬の時代にこれから入っていくと思うから、そういう意味で、退路を断つような思いでがんがん提言していくような、本物の障害者問題の議員が見なきゃいけないね。

――なるほど。そうですね。すごく貴重な。ありがとうございます。

八代:そんなことで、1つ先生頑張って。

――ありがとうございます。

八代:ぜひ僕の代表質問というのを読んでください。

――80年が一番重要な代表質問と私感じました。

八代:そこから始まった。

――官僚も動きやすくなったという部分、そこをつくられたような印象を私は持ちます。そこ一生懸命勉強してみます。

(01:06:24)

「八代2.MP3」
00:00:00~00:00:34(1分)

(00:00:00)
――という方が、障害基礎年金をつくられた。

八代:年金局長だった。

――年金局長だったんですけれども、その方と何かエピソード、思い出とかないですか?

八代:あれは真面目で。あなた、なんか同級生じゃなかった?

――山口新一郎さん。

久保田:の元で働いていた山口という課長がいたんです。

――剛彦という、テロ事件で殺された人はいたんですけれど。

久保田:それは高校の同窓で、***(00:00:25)。

――剛彦さんのほうが?

久保田:ええ。

――新一郎さんのほうとは何か特に接点は?

八代:いや、特に接点は。

(00:00:34)
「八代3.MP3」
00:00:00~00:02:20(2分)

(00:00:00)

八代:自慢できることだと。官僚とは、予算の時期になると厚生省に入り浸っていましたから。厚生省の一員のような思いで。予算を取るために、みんな苦労しているのはわかっていたから。

――その流れをつくったという部分で、官僚が働きやすくしたというのは、絶対何か政治家のバックアップというのがあったはずだと僕は思っていたんですけれど、それが。

八代:またなきゃいけないんです。

――なきゃいけないですよね。

八代:それは何人も切られているのがいっぱいいますよ。そのとき僕も、何とかの先生がどうしてもこの問題には抵抗を持っているんですというときには、僕は直接。キムラさんみたいなのがいたじゃん。エトウさんとか。ああいう連中がいたけれど、それはもう一喝していましたね。

――官僚が動きにくくなるような、そうした抵抗勢力がいたら、それを一喝して。

八代:一喝して。要するに官僚と一緒につくるときには、ギザギザのものをつくるわけよ。部会で少しずつ見分けて丸くしていくわけよ。それで、官僚にどのへんまで丸くしていいんだということのあらかじめ話を聞きながら、何々先生、先生の力でここは思い切って丸くしちゃいましょうよと。俺が責任を持って役所の態度を変えさせるからと。やってくれるかい***(00:01:25)みたいにうれしくなるから。単純なのよ、人間。政治家も単純なの。そういう意味では、政治家を動かすということも一方では大事。しかし一方では、官僚が働きやすいようにどうするかということも大事。1つのギザギザの法案をみんなで磨いて丸くして、国会へ提出する。

――すごいつながり。板山さんとの関係。それで、政治の世界は前島さんが後方の援護射撃をするぞという、そういう位置付けですよね。

八代:そうそう。彼は本音を言ってくれるわけ。

――板山さんは山口新一郎さんと会っているんですよね。

八代:会っている。

――なので、彼らは動きやすいということを、板山さんから前島さん経由で知っているという、そういう政治とか官僚の、板山さんを通じた、前島さんを通じたつながりですよね。そこですね。


(00:02:20)


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*作成:岩﨑 弘泰
UP: 20220324 REV:
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