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「女子と作文×主婦と労働」文献案内

村上 潔 2014/01/26
《第76回西荻ブックマーク》「女子と作文×主婦と労働」
出演:近代ナリコ・村上潔
会場:今野スタジオマーレ
http://nishiogi-bookmark.org/2014/nbm76/

last update: 20140417

*なるべく近代さんと被らないように意識したチョイスとなっています。

■1. 国立市公民館市民大学セミナー 1973 『主婦とおんな――国立市公民館市民大学セミナーの記録』未来社

《「主婦」の「思考」はこの成果抜きには語れない。のちのいかなる「研究」・「分析」をも凌駕する、普及の名著。》
【引用】
◆これは、一九七一年一二月から一九七二年三月にかけて、国立市公民館(東京都国立市)で行なわれた市民大学セミナー「私にとっての婦人問題」の記録です。もっと正確にいうと、四ヵ月間計十五回のセミナーの間、互いの心おぼえのために毎回録音し、その要約を書き出してコピーした「メモ」No.1〜No.15をもとに、セミナー終了後の一九七二年四月から九月までかかって復習をかねて私たちが再編したものです。(p.5 *「セミナーのいきさつ」〔伊藤雅子〕)
◆メンバーとなった二五人は、いずれも既婚女性で、二二歳から三九歳まで、ほとんどが三〇歳前後の家庭の主婦であり、乳幼児を抱えた母親です。[…]
 このセミナーは、セミナーとはいっても大学の演習のようなものではなく、また国立市公民館が続けてきたそれまでの市民大学セミナーとも異質のもので、予め用意されたプログラムもなく、講義中心でもなく、テキストも定めず、メンバーが、自分のことを話し、その中から問題をみつけ、自ら問題提起をし、互いに受けとめ合おうというものでしたが、あらまし次のような方法で行なわれました。(pp.6-7 *同上)
◆私たちは、このセミナーをとおして自分のことを自分で言うこと、言うことで自分を見ることをくり返してきました。なんとよく言えないことか、なんとよく聴けないことかを思い知らされどおしだったともいえます。また終始、自分であること、「私にとって」ということにこだわり続け、そのことによっていっそう人と人との関わりの中に自分が在ることを実感することができましたが、もう一方では、自分が主婦であること、【傍点:主婦的】になっている自分の重たさを否応なく見させられてしまいました。
 いま、私たちは、自分が言ったこと、言えなかったこと、また、見たこと、見えなかったこと、を含めて、このセミナーの経過をありのまま記録として公刊しようとしています。 この記録は、いわゆる主婦の手記帳のようなものでもなければ、セミナーの修了記念文集といった類のものでもありません。ここにはおどろくような告白もないし、はれがましい進歩のあともありません。
 私たちが出版するのは、私たちのことをわかってほしいとか、主張したいというよりも、まず、自分自身のために、いまの自分を見すえておくために、ともかくも自分に向ってもっとしっかり言っておきたいというのが、そのきっかけでした。(pp.7-8 *同上)
◆私は、主婦の問題は、女の問題を考える一つの基点であると考えている。現在主婦である女だけでなく、まだ主婦ではない女も、主婦にはならない女も、主婦になれない女も、主婦であった女も、主婦であることが女のあるべき姿・幸せの像であるとされている間は、良くも悪くも主婦であることから自由ではない。少くとも多くの女は、主婦であることとの距離で自分を測っていはしないだろうか。幸せだ、恵まれていると言われている都市の中間層の主婦自身が抱えている問題に目を向けようとするのは「底辺」の女や働く女問題とは別個に主婦の問題を考えているからではない。主婦であることが女の生き方の正統であるとされている限り、主婦が負わされている歪みや痛みは、他の多くの女のそれと同心円を形づくっているのではないか、すべての女に投影しているものではないか、と思うからだ。(pp.215-216 *「おとなの女が学ぶということ」〔伊藤雅子〕)
◆このセミナーでは[…]問題を女の外(たとえば封建遺制や貧困など)に求めるよりも、日常生活や女自身の意識の【傍点:ひだ】にまぎれこんで女を縛っているものを洗い出し、内在する矛盾と外的な状況との関わりをたどりながら差別の相貌を見ようとした。だから、主婦の問題とはいっても、家事労働に費やす時間を計量したり、妻の法的位置づけを調べたりすることよりは、「自分で自分のことをどう考えているか」を追っていくことに的を絞った。
 そして、そのための方法としては、協同しながら自己表現をくり返すことに重きをおいた。狭い生活圏の中で孤立し、自分の表現力、自己主張の手段を奪われているということが現代の主婦がおかれている状況の重要な側面であると思うのだが、そうだとすれば、協同や自己表現の力をとりもどそうとするそのプロセスがそのまま主婦の問題を浮かびあがらせはしないだろうか。(pp.216-217 *同上)
◆この記録に記された一人一人の、一つ一つの発言の内容そのものよりは、なぜここでそんなことを言うのか、なぜそんな言い方をするのか、なぜそんな言い方しかできないのか、なぜ黙っているのかをたぐりよせてみるとき、そこにむしろ、主婦である女たちの、あるいは女の内なる【傍点:主婦的であるもの】の実像がくっきり浮かび出てくるように私には思えてならない。(pp.223-224 *同上)

■2. 天野正子 2005 『「つきあい」の戦後史――サークル・ネットワークの拓く地平』吉川弘文館

《専門書だが一般向け。本書自体は必ずしも「女性」に限定した内容ではないが、「思想」・「運動」という大きな枠組みでは捉えることが困難な、草の根の「生活者」たちの地域での「歩み」に寄り添う視角が、必然的に「女性“的”ネットワーク論」とでもいいうる緩やかな理論領域の形成に高められていく。》
【引用】
◆たしかにそこで発揮された〔上野晴子の〕「妻の力」は、彼女らが強く内面化しているジェンダー規範の発現にすぎないようにみえる。しかし、現象的には「内助」という名の屈従にみえるなかで、二人の女性は心情的に、そして結果的に「妻」をこえて、ローカル新聞『たいまつ』やサークル「筑豊文庫」という、社会的に開かれた場で仕事をしたのである。実際の女性の生の軌跡は、単純なジェンダー規範の解放路線にはとうてい収まりきらぬ複雑さと多様性、そして陰影をもっている。「妻の力」「女の力」は、現実の生活との格闘における、社会規範の拘束性と内発性という異なるベクトルのダイナミズムのもとに解釈されるべきである。
 そこでは家族もまた、一つの「夢」を追う共同体として新たに選び直され、ひとつのサークルとして存在していたのだという面を見落とすことはできない。(p.65 *「もう一つの家族サークル――「筑豊文庫」」)
◆生活を「書く」という営みは、「考える」という作業を伴う。その「考える」という行為は主婦を、「わたしは、こう思う」と「わたし」を省略しないでいえる「もう一人」の自分に育てあげる。そこから周囲と区別された「自己」が意識されてくる。主婦にとって、その意識された「自己」こそが「近代」という名にふさわしいものであったろう。(p.77 *「存在の表現――「生活をつづる会」」)

■3. 伊藤雅子 1983 『主婦的話法』未来社

《1の実践・出版において主導的な役割を果たした、1970年代以降の「主婦論」のキーパーソンによる短文集。エッセー調で読みやすく、著者の思考のエッセンスがよくわかる。》
【引用】
◆「口下手で」「頭ではわかっているのにうまく表現できない」「書くのは苦手で」と自分のことを言っている主婦は多い。自分の表現力の乏しさを言わない人はいないと言ってよいくらいだ。
 しかし、そういう自認の仕方には、私はおおいに疑問を感じている。主婦たちの〈言葉の力〉の弱さは、はたしてたんに表現力の問題なのだろうか。そうしたおさえ方でこの事態はひらかれるのか。(p.185 *「主婦と言葉」〔初出:1981〕)
◆文は人なり、言葉は人をあらわすと言うが、主婦たちの〈言葉の力〉の弱さは、他に依って受け身で生きやすい女の生き方・人とのかかわりの中で自分を鍛えることの乏しい主婦の暮らしのあり方に深く根ざしたもので、彼女たちひとりひとりの表現力の問題などではない――としか、私には思えない。いまのような核家族の主婦の暮らしは、脈絡のないことを言っても「おかしい」と気づかせてくれる人はいないし、自分の発言によって社会的責任を問われることもない。[…]〈言葉の力〉が弱らなかったらその方が不思議というものだ。
 かえりみれば、女がはっきりものを言ったり、厳密な言葉使いをしたり、明快な論理展開をすると、やさしくない、つつましくない、かわいげがないと見られやすく、通念が女に期待している徳目にことごとく反することになるような世の中に私たちは生きている。それは、あいまいで、主体性がなく、非論理的であることをつねに要求されて生きているのが女だ、とも言い換えられるだろう。「女らしく」の鋳型におさまることを強いられ、主婦としてのあけくれの中で多くの女たちは〈言葉の力〉を奪われ、認識や思考の力を知らず知らずのうちにゆがめられてきたと言うほかはない。(pp.186-187 *同上)

■4. 鈴木小満子編 1988 『女達の手紙文集「花」総集編』(私家版)

*『花』:1979〜1985|全46号
《無名の女性たちによる、マイペース・手作りの手紙文集を1冊にまとめたもの。パート労働運動の当事者の寄稿もあるが、そこでも「運動」(の主体)的な印象はなく、あくまで「ひとりの女」の生が穏やかな文体で語られている。》
【引用】
◆私の身の回りを見回してみると、Sさん・Mさんのお母さんだとか、お向かいの奥さんだとか、意外にたくさん働いている人を見かけて、やっぱりそんなにいたのかなと思ったりするのです。しかしそれにしては「働く中年女性」の声や姿はマスコミ等でも、あまり見かけません。一部の専門職の人を別としては、働く女性のことといえば、若いOLのことばかりが問題として採り上げられています。どうしてなのかと複雑な気持です。[…]
 みんなバラバラに働いているのですね。職場にあっても、プライベートに戻っても、そのかかえている問題があまりに複雑なので、そっと眠らせているのでしょうか。みんなの不平不満まで、一身に引き受けて営々と働く女性も多いことと思います。(p.310 *「「花」の足跡」〔鈴木古満子〕)
◆黙っていないで発言しよう、わかり合える友達がいるはずだ、という精神でこの新聞を作っていこうと思っています。中年以上の働く女性の声を集めたいのが、願いです。
 グチを大いに出し合いましょう。それが、「同病相憐む」でなく「同病相扶く」になると確信しています。
 何故といえば、何十年、この世の「荒波」を乗り切ってきた智恵と力が集まるのですから。(p.311 *同上)

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5. 六興出版社編 1952 『主婦の作文』六興出版社 *『婦人朝日』誌《私の作文》欄掲載作品の抜粋
6. 埼玉生活随筆の会 1979 『いま私たち主婦は』八重岳書房
7. 三池炭鉱主婦会編 1984 『三池の主婦の手記』労働大学
8. 杉本星子・西川祐子編 2009 『共同研究 戦後の生活記録にまなぶ――鶴見和子文庫との対話・未来への通信』日本図書センター 【専門書】
9. 小原麗子・大門正克編 2012 『自分の生を編む――小原麗子 詩と生活記録アンソロジー』日本経済評論社
10. 水溜真由美 2013 『「サークル村」と森崎和江――交流と連帯のヴィジョン』ナカニシヤ出版 【専門書】

【補足】対談において、近代・村上が共通して推薦した文献:
◇塩沢美代子・島田とみ子 1975 『ひとり暮しの戦後史――戦中世代の婦人たち』岩波書店(岩波新書青版924)

*** 当日会場で配布した参考資料に掲載した内容に、若干加筆したものです。 ***

★あわせてご参照ください
→◇「対談にあたって」

*作成:村上 潔
UP: 20140220, 0417
全文掲載  ◇女性の労働・家事労働・性別分業 
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