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「対談にあたって」

村上 潔 2014/01/26
第76回西荻ブックマーク「女子と作文・主婦と労働」
出演:近代ナリコ・村上潔
会場:今野スタジオマーレ[西荻窪]

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last update: 20180211


「女流作家」ではない、ただの女がものを書くということと、主婦の労働は似ているな、と思う。
つまりそれは、社会からはなにも期待されていない、社会的には生産物とはカウントされない、価値を認められない行為なのだ。
だけれども当の女にとっては、それをする(し続ける)必然性がある。
語ったところでわかってはもらえない、理屈を言っても聞いてはもらえない必然性が。

名前のない女が、名前の残らないものを書く。痕跡の残らない働きをする。
その意味、その価値、その体系。
まっ暗なようで驚くほど透明な世界。だから外から見えない。境界がわからない。

ただの女が書いたものは、そのもの自体が残されない。残っても認知されない。
しかしなかには認知され、残される場合がある。認知するのは誰か、残すのは誰か。
それは往々にして、同じような、名前のない女だ。
ただの女の書いたものは、ただの女に(のみ)読まれる。そして残される。
おそらく両者に共通するのは、痕跡の残らない労働のただなかにいる(いた)こと。

ただの女の書いたものが世の中から認知されないのと同じように、ただの女が残した「書かれたもの」も、認知されることはない。
その最たる例が、「母子手帳」だ。
夫や他人にとっては――そしてたいていの場合は、一方の「当事者」である「子」にとっても――、何の価値もない紙の束。だが母だけは、それを分身のごとく護持する。

これは当然のことであると同時に、奇妙なことだ。
ただの母子手帳。そこに書き込まれた情報の多くは、無機質な数字や、記号、チェック。
感情も主張もない。
しかし、当の母にとっては、どんなに完成度の高い文学よりも、自分の思いを注ぎ込むことができる「文字=書かれたもの」がそこにある。

母子手帳に書かれた文字は、「女の生」を規定し、同時に体現する力を持っている。
どんな才女が書いた「女の文章」よりも。
皮肉に思えるかもしれないが、それは憂うべきことではない。
なぜならそれは、ただの女の「読む力」の可能性を示しているからだ。

母子手帳の文字が「女の生」を浮かび上がらせることができるのは、それを読む主体である母=ただの女が無数にいるからである。
ただの女以外には、母子手帳に「女の生」を見いだすという芸当はできない。そんなことを口に出したらばかにされるだけだろう。
この点は、ただの女たちの状況をよく示している。

では母子手帳を持たない、母ではない女には、この「読む力」はないのか。
そうではない。
社会的な価値を認められない労働のただなかに、あるいは疎外のただなかに身を置いているただの女であれば、同じことがわかるはずだ。
母子手帳を「読め」なくとも、同じ価値を他の「文字」に見いだせるはずだ。
その一点において、同じものを「読む」能力を携えているはずだ。表面上はつながって見えることはなくとも。

一面では、ただの女のリテラシーは、社会的なものとは分けて考える必要がある。
そうしないとその価値に(外から)気づくことはできない。
価値を認められないものを読むリテラシー。
それは、価値を認められない世界に生きている者が共有するもの。
そのリテラシーをもとに、ただの女たちは、ただの女たちよって書かれたものを認知し、残し、ときには自らが書く。

そうやって密やかに残されてきたものを、ただの女として、またその外の人間として、どう読み、どう価値づけ、どう残すのか。
私と近代さんは、それぞれ違った位置から、ずっと、このことに向き合って、進んできたのだと思う。
もちろん、その「結論」は、どちらも出せていない。確立したメソッドもない。
しかし、それは覚悟のうえでもある。
ただの女の生が世の中からなくなるまでは、この営みは続くし、少なくとも、私たちは続けなければならない。


*** 当日会場で配布した参考資料集(作成:村上潔)に掲載 ***

●関連資料
 ◇「女子と作文・主婦と労働」文献案内(第76回西荻ブックマーク「女子と作文・主婦と労働」)


*作成:村上 潔
UP: 20140220 REV: 20180211
全文掲載  ◇女性の労働・家事労働・性別分業
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