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『主婦とおんな――国立市公民館市民大学セミナーの記録』

国立市公民館市民大学セミナー 19730330 未来社,231p.

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last update: 20180225

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■国立市公民館市民大学セミナー 19730330 『主婦とおんな――国立市公民館市民大学セミナーの記録』,未来社,231p. ISBN-10: 462450013X ISBN-13: 9784624500139 \1200 [amazon][kinokuniya] ※ w02, w06

■内容

主婦と老後/主婦と職業/夫との関係/子どもを生むことの4テーマを軸に、25人の主婦が各々問題を提起し合い、多角的視点からの共同討議。

■目次

はしがき (徳永 功)
セミナーのいきさつ (伊藤 雅子)
T はじめに
U 主婦と老後
V 主婦と職業
W 夫との関係
X 子どもを生むこと
Y セミナーをおえて
Z 私たちは、いま
[ おとなの女が学ぶということ (伊藤 雅子)
あとがきにかえて (もろさわ ようこ)

■引用

▼セミナーのいきさつ(伊藤 雅子)
「 これは、一九七一年一二月から一九七二年三月にかけて、国立市公民館(東京都国立市)で行なわれた市民大学セミナー「私にとっての婦人問題」の記録です。もっと正確にいうと、四ヵ月間計十五回のセミナーの間、互いの心おぼえのために毎回録音し、その要約を書き出してコピーした「メモ」No.1〜No.15をもとに、セミナー終了後の一九七二年四月から九月までかかって復習をかねて私たちが再編したものです。
 このセミナーは、他のすべての国立市公民館の活動と同様、「くにたち公民館だより」(毎月五日発行、市内全家庭に配られている)を通してその企画が紹介され、メンバーが募られました。このセミナーのきっかけを知っていただくために募集文の全文を引いておきますと、一九七一年十一月号の「くにたち公民館だより」は、このセミナーの企画を次のように伝え、よびかけています。
  市民大学セミナー「私にとっての婦人問題」
真剣に生きようとする多くの女たちをとらえている問題の一つは、女であることがそのまま人間であることに直結しないもどかしさです。これは一体、何でしょうか。何に起因しているのでしょうか。
結婚の現実、子どもを生むこと育てること、主婦としての日々、女の自己実現と母としての役割、女が働くことの意味等々、日常的な体験や実感の中に含まれている大事な問題を探りながら社会的なひろがり、歴史的な流れの中での自分自身をたしかめ、考え合いましょう。<005<
一般論やたんなる知識としてではなく、実生活の中の、あなた自身にとっての女の問題――そこからはじめたいと思います。もろさわようこさんの助言を得ながら、共同討議を中心にすすめます。」(pp.5-6)

「 メンバーとなった二五人は、いずれも既婚女性で、二二歳から三九歳まで、ほとんどが三〇歳前後の家庭の主婦であり、乳幼児を抱えた母親です。」(p.6)
「 このセミナーは、セミナーとはいっても大学の演習のようなものではなく、また国立市公民館が続けてきたそれまでの市民大学セミナーとも異質のもので、予め用意されたプログラムもなく、講義中心でもなく、テキストも定め<006<ず、メンバーが、自分のことを話し、その中から問題をみつけ、自ら問題提起をし、互いに受けとめ合おうというものでしたが、あらまし次のような方法で行なわれました。」(pp.6-7)

「 ところで、私たちは、このセミナーをとおして自分のことを自分で言うこと、言うことで自分を見ることをくり返してきました。なんとよく言えないことか、なんとよく聴けないことかを思い知らされどおしだったともいえます。また終始、自分であること、「私にとって」ということにこだわり続け、そのことによっていっそう人と人との関わりの中に自分が在ることを実感することができましたが、もう一方では、自分が主婦であること、主婦的【[主婦的]に傍点】になっている自分の重たさを否応なく見させられてしまいました。」(p.7)

「 この記録は、いわゆる主婦の手記帳のようなものでもなければ、セミナーの修了記念文集といった類のものでもありません。ここにはおどろくような告白もないし、はれがましい進歩のあともありません。
 私たちが出版するのは、私たちのことをわかってほしいとか、主張したいというよりも、まず、自分自身のために、いまの自分を見すえておくために、ともかくも自分に向ってもっとしっかり言っておきたいというのが、そのきっかけでした。」(p.8)

▼T はじめに

伊藤 私は、主婦の問題が女の問題の一つの集約であると思っています。家庭の主婦は、一見円満そうに暮し<017<ていたりすると、女のあるべき姿というかモンクはないはずということになっていて、疑問や不満をもつのは当人の心がけのせいにされがちです。また、主婦自身も自分が我がままだからと考えたり、そのつど、気をまぎらせたりして、問題のありかをたしかめられず堂々めぐりに終ることが多いのではないでしょうか。居直ってしまうこともあるでしょう(笑)。それに、働いている人も未婚の人も主婦であることの役割や規制から全く解放されている人は少ないと思うのです。私自身の中でも主婦であることの比重が重いし、公民館の仕事の上でもなおざりにできない問題だと思っています。これが私の〈私にとっての婦人問題〉であり、このセミナーを考える時の視点でもあります。」(pp.17-18)

武田てるよ [……]自分は結婚から新しい人生がはじまるんだと思って結婚したのに、子どもが生まれてしまったら、自分の老後のこと以外にないというほど、先が見えてしまったような気がする。そんな自分が一体これから何ができるか、何をしたらよいかがいまの私には最大の関心事です。ただ一つ言えることは、いろんな女の人の状態や考え方、きもちをわかるようになることで私自身せめて他の人の足をひっぱってしまうことがないようになりたい。私がこういう場にきて、いちばん求めるのは、知識とかなんとかではなく、女同士が互いにやさしい気持でわかり合う、というか……、そういうことです。」(p.23)

友きみよ [……]今の私は、子どもがまだ小さくて、母親である私を必要としているので、絶望的な虚しさ、孤独感<023<を味わうことはないが、子どもが大きくなったときのことを考えると、こうしてはいられないと思う。これまでの女に対する固定的なイメージではなくて、本来の女とは、ということを考えたい。そのことによって、自分自身を客観的に知ることになるのではないかと思う。」(pp.23-24)

武田 主婦が働く、という問題もぜひ。主婦が【[主婦が]に傍点】に力点を置いて……。
 川島 私は主婦も職業の一つだと思っているのですが。」(p.30)

〔もろさわようこ〕「[……]現代の資本主義社会では、文化と教育の働きを通して、人間のものの見方、考え方を体制的に呪縛していますから、夫や子どもとの関係も主体的にえらんだつもりでも、えらばされているのであり、結果的にはそれらの関係は、利潤追求のためのものに変形させられている。そして女はまた社会制度の中に構造化されている結婚制度の中でしか生きられないように強制されている。多くの人はそれをあたりまえと自足しきっているのに、そのことをすでに知ってしまったものは、自分の生活が見えすぎてしまうので、何をしてもむなしさにつきまとわれるということになるのではないか。
 何もみえないと最初の集まりのとき皆さんの中から言われた言葉は、先がみえすぎている言葉の逆説的表現として出てきたのだと思います。」(p.32)

〔もろさわ〕「夫の賃金をそっくり管理し自分の行動の自由を確保していても、おおかたの主婦たちの現実には「性生活を伴った家内奴隷」的側面がなお大きく残っている。そして、女たちの生活に奴隷的側面があるとき、「主人」とよばれる男たちの生活もまた奴隷的側面が伴う。すなわち、彼らは妻子をかかえた「賃金奴隷」としての苦役に喘いでいるのが今日的状況ではないだろうか。」(p.35)

〔もろさわ〕「 結婚によって妻が夫に扶養されるのがあたりまえとする風俗は夫のためのものであるより、資本の利潤追求には、なくてはならぬ風俗なのです。なぜなら、女たちの母性機能が大きく発現しない結婚前の若年労働力を低賃金の使い捨て労働力とし、結婚によって女たちの母性機能が大きく発現し、労働力としてはフル回転させられない状態のときは、職場から追放して、その性的配偶者である夫に扶養させる。このことは、資本の利潤追求のためには大変都合がよい。女たちが子生み子育ての時期は、その夫たちは働きざかりです。愛する妻子を養うためには、と男たちが職場においてそれこそ耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、エンヤコラと賃金奴隷的労働をつづける。そのことによって企業は利益をさらに大きくしてゆくのです。夫が妻を扶養する風俗が当然とされている限り、妻の立場の女が働くときは、家計補助賃金として女たちの賃金は安く買いたたかれもする。女が「家内」であることが正統化されるのは、資本の利潤追求にとって、すこぶる都合のよいことだからなのです。こんにちの「主人」「家内」的夫妻関係は、資本主義社会の利潤追求機構に巧みにはめこまれ、その愛情関係まで、体制維持のために構造化されている。そのため、主婦が夫や子どものことをこころこまやかに配慮することは、愛情のためであるのか、自分の生活保障を安全にするためなのか、大変見えにくくされてしまっている。」(p.36)

伊藤 [……]私が大事だと思うのは、家事や育児というものがもっている性質と女の意識との関わりに目を向けること。これを一つ、考えに入れる必要があるのではないでしょうか。
 もろさわ それは家事を現状のままのものとして考えるのですか。社会化や合理化することは考えないのですか。
 伊藤 いえ、部分的な社会化や合理化だけではかたづかないような、つまり、労働量の問題としてではなく、家<037<事というもののタチの悪さというか、そっちの方なんですけど……。たとえば、家事は、一日中いつも散在していて時間的にも空間的にもコンパクトにかたづけられるようなものじゃないでしょう。いくら合理化したって朝七時から正午までに家事・育児を全部集中するなんてことはできない。だらだら続き、しかも中断ばかりされる。いつも、からだをあけて待ってなくちゃいけない。そんな中で、女は集中してものを考えられなくなったり、論理的でなくなったりしてはいないでしょうか。これは、たとえば、家事労働には経済的な価値があるかないかとか、分業か否かといった議論だけでは浮かびあがって来ないものではないでしょうか。」(pp.37-38)

武田 いくら心がけをよくしたり、一人で勉強していたって、そういう生活の中ではネガティヴでない生き方なんてできないようなところがあるでしょう。そういう自分を正視することぬきに「生き方は」とか「理想は」とかいったって私たちに関係のない話になっちゃう。」(p.38)

近藤 状況の中で女が変えられたというのも事実だけど、それが一方的に行われただけでなく、自分の方からも応えていった【[応えていった]に傍点】という面があると思うんです。必ずしもいつも受け身じゃない。無意識のうちにラクさの中に逃れるみたいな……。」(p.38)

▼U 主婦と老後

〔赤塚頌子〕「○めだつのはいやだと思う一方、「自分だけは違う」と思っている。普通の奥さんとは「違う」と思い、同じような状況の中にいる主婦の共通性を認めない。つまり自分を客観視しにくいのではないか。それは自分たち主婦のおかれている状況を自覚しようとしないからではないだろうか。」(p.49)

武田 (松本さんに)外に出ていればもう少し解決方法があったと思いますか。私が勤めながら感じていることは、勤めるという事は通り道が一つ増えたようなもので主婦であるという束縛は残っているのです。そういう束縛を全部しょって、主婦のまま勤めていたのでは、空気の穴があるというだけの違いで、その点では大した変わりはない。同じような老化現象は私にもあるんです。女が自分を生かし、少しなりとも人間らしく生きていると一〇年、二〇年後にでも実感できるためには、私みたいにただ、社会に出たからといってそれだけでは解決されないことが多いのではないかしら。
 松本 ……」(p.51)

▼V 主婦と職業

中川 私は、主婦業も職業の一つだと考えて何でも夫と子ども中心に過ごしてきました。たんなる家事、育児ではなく、いわゆる家庭管理につとめてきたつもりです。家庭の健康とか教育とか、家政婦には代われないことが主婦の仕事にはたくさんあると思います。
 水野 私も主婦業のプロになってやろうと思っていました。
 中川 だから、主婦も職業の一つで、夫との分業だと考えていたのです。でも分科会でみんなの発言を聞いているうちに、自分の立場を正当化しようとしているのではないかと思えて、ゆれ動いているんです(笑)。でも、家事だけやっていることを扶養されている【[扶養されている]に傍点】などと卑下しているような方もいらっしゃるのは何故だろうかと思います。男が安心して働くことができるのは、女が家事や育児をしているからではないかしら。また、家事だけならともかく、家族の一人一人に気を配らなければならない家庭管理を誰が肩代りできるのかと考えてみると、やはり私にしかできないと思ったんです。女が仕事をもっていると、どこかにしわよせがくるのではないかと思っ<072<て、私は働きに出る自身がなかったんです。でも、一方では、今考えると仕事をやめて残念だという気持もあるのです。家庭の中で勉強してやろうという気持はあったし、これではいけないという気持もありました。しかし、実際には家事に追われているうちにそういう気持がうすらいできてしまったんです。
 降矢 男は外で働き、女は家事、育児をひきうけるという分業論は、男が常に稼いでくるという前提があって初めて成りたつものではないですか。私の場合共働きで、夫が、あるとき働くのを止めた時期がありました。夫は家にいましたが、家事をしませんでしたよ(笑)。こうなると分業論は成りたたないのです(笑)。それから、このあいだ何人かの主婦に、女の仕事をどう思うか、聞いてみたんです。そしたら、生活の大部分を家事で占められているのに、自分のことを何もしていないという言い方をするんです。つまり、家事を仕事だとは思っていない。自分の仕事は他にあるはずだというわけなんですね。」(pp.72-73)

もろさわ[p.73] [……]今日の核家族は、資本主義の利潤追求を支える細胞基盤であるといっていい。今日の体制を維持していくためには、女が主婦【[主婦]に傍点】であることが必要なのですね。ここでも一つ見ておきたいことは、妻が働かないで生活できるのはある特権層であり、社会的階層では日なた【[日なた]に傍点】にいる人たちにのみそうした生活の保障があります。しかし農村では農業しながら、父親は出稼ぎ、母親はパートタイムの賃労働をしている。[……]夫と妻の分業論はこうした人たちの実情を無視した体制側の家庭論としてでてきており、女は家庭に在るべきものだからというたてまえがふりかざされて、女の賃労働は家計補助とみなして低賃金にされている。夫妻分業論がどんな役割を果たしているか、はっきりおさえておきたい。
夫妻関係のあるべき姿を考えるとき、そこに経済関係があってはならない。親子関係においてもそうだと思う。ところが現在の体制は、家族関係において互いに生活保障をし合わなければならないことになっています。私達が家族に頼らないで社会によって基本的な生活保障がおこなわれ、それぞれの個人がその能力において社会的な生産活動に参加ができるようになれば、女たちの今日の悩みはなくなってくるのではないでしょうか。しかしいまの体制の中で職業人として働く【[働く]に傍点】ということは、自分の労働力を商品化することであり、労働力が商品化されている限り、そこに解放された人間像は出てこない。それでも自分を商品化しながら、それをのりこえる方向をその中で見いだす以外、解放への道はさぐれないのではないでしょうか。男も女も己のパンは己の労働で得る<074<のがあたりまえであることを、まずおさえて問題を考えてみたらどうでしょう。
 水野 己のパンを己が得るという考えに私は抵抗があるのです。いまはパートなど主婦の労働力が安く買われていますが、私は少々のお金を得るための職業にはやっぱりつきたくないわ。本当に貧しければ、職業を選ぶゆとりなどなく、パートでも何でも働きにでると思いますけど。
 田村 給料はたとえ少なくとも、生きがいを求めて職につこうなどという場合、自分の生活の基盤を夫に支えてもらって働いていることになるので、「自分のパンは自分で」といえるものではないでしょう。
 降矢 でもねえ、女の人は仕事を考えるとき、生きがい、生きがいっていうけど、たいていの男は、仕事をまず義務としてとらえていますよ。職業が生きがいになることがあっても、それはまったくの、もうけものという感じですね。
 もろさわ 女がパンを得る場から、自分から出ているのか、はじき出されているのか、自分の問題と女全体の問題をからみ合わせて考えなければ問題のまことの姿が見えてこないのではないですか。賃労働しなくてはならない人と比べて、賃労働しないでもよい自分をどうとらえているのか。他者との関係において、自分はどう生きているのかも考えてほしい。」(pp.74-75)


伊藤 [……]きょう出された職業についての考え方の多くがいかにも主婦らしいアプローチの仕方、発想だったと思うのです。そして、その意味で、きょう出された問題は、職業の問題を考える場合だけにとどまらず、主婦が抱えている問題を考える上で大きな意味を含みもっているように思います。ではどのように特徴的であったか、といいますと、たとえば、
○主婦専業であることへの不安、不満、疑問がそのまま職業志向という形であらわれている。
○しかし、働くための条件がととのわないので実行にふみきれない。
○時がくれば解決すると思っているのだが、現状に満足しきれない。<075<
○そして、自分と夫との関係の中だけで考え、さらに自分だけのこと、自分と他のヒトとはべつ、私がわがままだからというふうに個別的に考え、なかなか普遍的な問題としてとらえられない。
 ところで、いま働きに出ることを妨げている理由は、外的な理由としては、
○保育施設の貧しさ、子どものことが心配。
○いい職場がない、労働条件が希望とあわない。
○夫の協力が得られない等々。
 また女自身の内的な理由としては、
○従来の家庭のあり方、つまり夫が稼ぎ、家事育児は妻の責任という考え方を変えないで働くことを考えている。そして、働くことを妨げているものについて、自然に、あるいは誰かの手によって条件が変わるまで仕方がないと決めこんでいる傾向がある。
○自分でも、なぜ、どれほど働きたいと思っているのかあいまいで、マイナスの条件を克服する原動力が出てこない。
○現状を変えたくない気持。変化への不安や、おっくうさ、安定を求める気持。
などがあげられます。そして、きょうの話し合いの中では、
○母と子の関係はこうあるもの。
○自分を主張することと家庭(夫や子ども)の幸福は矛盾するもの。
○家庭の経済は男が支えるもの。
○家事は、本来女がするもの。
というような断定がとりわけ注目されていました。
 このように整理してみますと、くり返し言うように、問題はすでに田村さんだけのものではなく、多少のちがいはあっても多くの主婦に共通した傾向であり、私たち自身思いあたることの多い問題だといえないでしょうか。
 さて、主婦が働くことを考えるとき、多くの場合、次のような希望を強調します。きょうの発言にもよくあらわれていましたが、
○従来の家庭のあり方に支障のない形態。
○自分を生かし、向上させ得る職種。
○誰にでもできるようなものではない、つまりいいお仕事【[いいお仕事]に傍点】。<076<
 そして、このような考え方は、しばしば「自分はひととはとにかくべつだ」という考え方を伴っています。例えば、
○生活のために働かねばならなくて、つまらない【[つまらない]に傍点】仕事でもしなければならない不幸な人はべつ。
○家庭と職業を両立させられる器用な人はべつ。
○とくべつの才能がある人はべつ。
○家事がなおざりになっても平気な人はべつ。
○夫に理解のある人はべつ。
○お金のためならつまらない【[つまらない]に傍点】仕事でもわりきって我慢できる人はべつ。
○条件がととのって恵まれている人はべつ。
 しかし、ほんとうにべつ【[べつ]に傍点】なのでしょうか。」(pp.75-77)★

〔降矢洋子〕「 現実の問題として、仕事そのもののもつ価値と仕事をすることによって得られる金高――つまり、仕事の商品価値とがお互いにしっくりいってないことがとても多く、この辺がすっきりしていれば、仕事について、自分について、社会について、もう少し考えやすいのだがと思うことが度々あります。ですから、もろさわさんの「人間は男女の区別なく、自分のパンは自分で稼ぐ」という意見は全く、その通りで異論の余地はないけれども、私はこの言葉を受けとる時、ひとの生きる基本線として、極めてシンボリックに受けとりたいのです。だから、家庭の主婦が、この言葉をストレートにうけて、パンを得る……即ち商品価値のある仕事へ、現在、商品価値のない家事という仕事から移ればいいのでしょう、外へ出て働けばいいのでしょう、お金を稼げばいいのでしょう、とイージーゴーイングに行くのは、あぶないと思っています。今は、パン代を稼ぐために働こうとすれば、女を安い労働力として、たやすく受け入れるような下地があるから、なおさらです。安価な労働力として利用されるみじめさを避けて、では女が本気に働こうとすると、今度は大変な抵抗やおとし穴があっちにもこっちにもあって、人間らしく生きる為に外へ出たことが却って人間性を失うことに拍車をかける結果にもなりかねません。」(p.79)

〔中川雅子〕「 現在の社会状況では大半の主婦が家事をうけもっているわけですし、現実に多くの価値と必要性をもっている仕事なのですから、社会的にもっと評価され保障されてもよいのではないでしょうか。そうすることが、主婦の自覚を促し意識向上をも進めることになると思います。」(p.80)

★〔渡辺行子〕「 このように、私は仕事をしているといっても主婦であること【[主婦であること]に傍点】には変わりはなく、家事をひっさげた上での私の仕事であるわけです。私が家でする仕事だから、内職だから家のこと一切引き受けてやるのが当り前だと家族にも周りの者にもみられていながら、それでもなおべつ【[べつ]に傍点】だとみられることに矛盾を感じます。主婦である【[主婦である]に傍点】という点においては、家庭にいる人とべつ【[べつ]に傍点】とは私には思えないのです。
 [……]多くの場合、働く女の人はさまざまなことをのりこえて働き続けているのだと思います。ということは、働いている女の現状は「条件がすべて整った上で働く権利を行使している」というような状態ではなく、それらのしわよせは、やっぱり全部女自身がかぶり、背負いこんでいるということです。
 内職の人もパートの人もフルタイムの人も、働く権利【[働く権利]に傍点】<084<とはほど遠いところで働き、そこからくるさまざまな問題も、それぞれが個別的に解消しているのだと思います。だから、働いているからといって特別だとはいえないし、主婦的状況【[主婦的状況]に傍点】とは、働いている、いないを問わず既婚の女の人のほとんどに言えることだと思います。」(pp.84-85)★

〔友きみよ〕「 家事は、やる能力のない赤ん坊や病人を除いて、家族全員でやるべきであり、主婦にとって生涯の仕事であってはならないと思います。
 私は結婚したときから、自分だけの世界(職業)をもつべきだと思っていました。やりたいと思うこともありました。ところが、毎日家事育児に追われていると、くたびれ、やりたい気持がすみにどんどんと押しやられ、やりたい気持のまぼろしを追いかけているようになってしまいました。そして一体自分は何をやりたいのかわからなくなりかけています。それで何とかしたいと公民館に来たり、外出することにより自分の場を拡げようとしています。けれどもこれが自分にとって本当の場ではありません。経済的裏付けがあって、初めて本当の場が得られるのではないかと思います。いまの私は、家事の中で、肉体的には忙しいのに、精神的には虚しさがいつもつきまとっています。夫に扶養されているという負い目があり、社会において、いつも与えられるのみの寄生虫的存在だとも思います。」(p.96)

近藤 男だけでなく、女自身、男の身のまわりの世話から家事全部をひきうけるのが当然と思っているのではないかしら。自分でやさしいからとか、思いやりがあるからとか思いこんで、男から家事をとりあげていることが多いのよ(笑)。それは裏返してみれば、女が、そのことによって自分の存在価値を示そうとしているのではないかと思うんだけど。
 武田 「お前達のために働いているのだから」というのは、男にとって気持のいいものなのでしょう(笑)。「妻子のために働いている」なんて幻想を男も女も持っているのじゃないかしら。だって妻や子のいない男の人だって働いているじゃない(笑)。「私や子どものために働いてくれているんだわ」と思っていられるうちはいいけれど、そう思えなくなると、家事をやってあげても、うれしくなくなる(笑)。夫に対しても、また家事のうけとり方にしてもですが、位置関係が変われば、夫が洗濯ものを干していても、かわいそうだとも思わなくなる。女はかわいそうだからとか、愛しているからとか思いこんで、自分自身を正しくみないようにしている場合がとても多い。そのことがどれくらい自分をしばってみじめにしているかしれないのに、そのこと自体にも気がつかないことが多いと思うんです。」(p.100)

伊藤 家事について、いろいろなとらえ方が出されましたが、共通項としては、なんとかかんとかいってもみんなせっせと家事をしているということ(笑)。もう一つは、積極的に分業だという人も、仕方なくやっているという人も、職業つまり賃労働と対応させて考えていること。それも、夫の労働と対応させている。もろさわさんからいま指摘がありましたが、社会の構造の中で、自分が家事をしていることは、というふうに考えるよりは、どうしても夫との関係の中だけで家事を考えがちだった……。」(p.101)

▼W 夫との関係

〔吉原恵子〕「 私は資本制社会に生まれて、生かされて、死んでゆくであろう者だけれど、よりよく生きたい。
 私が私の生を「自分【[自分]に傍点】のもの」にしたいと思う時、自分が女であることを総体として【[総体として]に傍点】とらえることをしなければ、本当によりよく【[よりよく]に傍点】生きることなどとは関係ないことになるだろう。
 他の女性たちのどのような意識とどのように連帯してゆくかということと、日常直接対応する男と男たちとの関係をどうきり結んでゆくかということ、これらはその具体的な展開として、生活の中でまともに取り組むことを迫られる。
 社会契約としての結婚ではなく私は結婚している。私は「主婦」である人たちの集まりに出て「主婦として」参加してきた。資本制社会における「女」として生き、生かされ、またその経済構造の中で生計し、一人の男と日常の暮しを共にし、持続する性関係を持ち(共同に生みだした形而上世界を持ち)、それら暮しの中の関係を生きるものとして……。」(p.105)
〔吉原恵子〕「 私たちは、この社会において働くことによってしか食べてゆけないものでありながら、そこにおける労働は人間としての自然的欲求からはなされたかたちでしか存在しておらず、しかもそれは自分らの貧乏を後押ししていることになってしまう。働くことは苦痛である。働かずにすむならば働きたくない。しかし働かねばならない。食べるために。そして私たちがそのことからの痛みを共有してゆくことを二人の関係の絆としてゆく限り。
 そして主婦が職業の選択を考える時、「自分のパンは自分で」という主義としての職業ではなく、経済的自立というようなことが本当の自立につながるのはそうした個の生にかかってくる切実性に裏付けされることが前提のように思います。そうでなければ職業はいつでも生きがいとしての幻想を持つことが出来ます。
 そして家事についても、家事は分担できるだけした方がよいと思いますが、家事は分担することを目的にするのではないことを、たしかにふまえておく必要を感じます。家事の意識と思考過程に及ぼす影響は、分担する方向では問題を解消することは出来るけれども解決することは出来ないのですから。これら状況と密着した問題は、私たちのくらしの中でぬきさしならないこととしてあるという。そのことを意識の外からつかみ続けることを家事の分担の根底に張らせておきましょう。」(p.106)

近藤 でもガンコな夫も一見ものわかりのいい夫も、現われ方に差があるだけ。妻につけたヒモの長さの違いでしょ(笑)。また、妻自身そのことを自覚しているかどうかの違いではないかしら。
 武田 私は「夫が理解があるから」とか「ないから」とか考えない。たとえ女にとって都合のいいことを男がいったとしても、男のいっていることと女のうけとめている内容とは違うと思うんです。お互い自分の都合のいいように解釈しているだけなのでは……。」(p.114)

「<「幸せなはず」とされて>
○結婚して子どもが出来て、というと幸せそのものということにされて、妊娠・出産・育児の中での女自身の違和感や疑問、さびしさ、恐怖感など全く問題にされない。
○まわりですっかり幸せ【[幸せ]に傍点】で、おめでたいこと【[おめでたいこと]に傍点】にしたてあげられる。
○子どもに自分を奪われる焦燥感などちょっともらしても、母性愛が足りないとか、女らしくないとか、非難さ<0125<れることはあっても本気でとりあってもらえない。
○たとえば、非婚の母の苦しみはある意味で注目されるが、公認された結婚の枠の中にいて、絶対幸せであるはずとされている女の悩みは、贅沢とか甘えているとか言って、まず聞いてもらえない。
○自分でもなんだか人にいえない。」(pp.125-126)

▼X 子どもを生むこと

〔武田てるよ〕「 私たちは、まず子どもとの関係を肉的関係から精神的関係へ高めるための努力、生んだ事実の上にあぐらをかいた関係から、精神的に再び生み落す努力をしなければならないのではないでしょうか。常に子どもを自分の中にとりこんでおきたい、子どもだけは私を許してくれるという身勝手な甘えから切れること、そして我が子をまず他人(誰もが侵すことのできない存在)として尊重すること、また母親が子どもの存在を侵さないと同時に、自分自身も侵されない姿勢を確立すること、そういう努力を、日常生活の中で自覚し、引き受けていくことによって、母親は子どもから自立し、おとなの女、おとなの人間になっていくのではないでしょうか。そうなってはじめて、子どもを生み育てることが、女にとって豊かに自己を発展拡大させるバネになりうるといえるし、生む性を負わされた女が社会で一人前の人間として生きていく姿勢が生まれてくるのではないかと思います。」(p.151)

〔渡辺行子〕「武田さんのレポートを聞いていて思ったのですが、私の場合の<生むことの意味>も加えてほしいと思いました。つまり生みたい女の心、障害などのため生むことをしないでいようと思っていた女にとっての新しい生命の重さ。生むことにより開けるものを期待して成長しようとする姿勢もあると思うのです。私が生んだことは、まわりに勇気を与え、私自身生むことの意味を積極的にみつけてからは、とてもおおらかな、どっしりしたものがありました。そして<生む性>をもつことを否定するのではなくて、女の甘えや居直りの道具にするのではない方向で、<生む性>を大事にしたいと思います。」(p.158)

▼Y セミナーをおえて

〔もろさわようこ〕「 主婦をどのようにとらえているか
 おおまかにみて、主婦としての自分を否定的にとらえている人と、肯定的にとらえている人とにわかれていたが、肯定的にとらえている人の中にも、いま主婦の場にいることは世をしのぶ仮の姿であると否定的に肯定している人と、自足的に肯定している人とがあり、これは十数年前に論争のあった「主婦論争」の三つの流れをいまなおあざやかに示している。
 その流れを大別すると (ママ)@経済的自立のないところに人格的自立がない。経済権の確立のために職業を持つことに加えて、現状打開のためにも、主婦的状況をまず、うちやぶることを志向する。A家庭は愛情関係による人間本来の生活の場。社会に対しても重要な機能を果している。主婦労働の価値をとらえなおすべきだ。B労働力を商品化しないでよいという主婦の特権的立場を利用し、人間物化の現状を打ちこわす道をさがし、そのための努力をする。」(p.174)

〔もろさわようこ〕「[……]人間的に疎外されないかたちでパンを得ることは、今日的状況においては至難のわざである。パンを得ることがそのまま人間解放へつながらない社会構造との対決が基本的な課題になってくる。
 働くのも悪、働かないのも悪、自分はどの悪をどのような状況において選んで生きているかと自分の足もとを自分ではっきり照らしていないと利己的な次元でしか反省ができないのではないか。」(p.176)

〔もろさわようこ〕「 このゼミであきらかにされた主婦の内なる状況は、見かけの優雅さと異なって、荒寥たるものではなかったか。私は社会的な人間関係は労働を通じてしか成立し得ず、労働を軸にして人間関係は成り立つものと考える。ところが人間と人間をつなぐこの労働が利潤追求の道具にされ、疎外されている。労働が悪にされてしまう現実の土台をはっきりと見すえることをしないで、悪となった結果だけを云々して対症療法的な処置をおこなっても、まことの人間解放からほど遠いのではないかと考える。あるべき人間像を他者関係の中でおさえないと、誰かを踏みつけた上での解放論になってしまう。人間的痛覚を喪失した優雅な生活というのは退廃的となるのではなかろうか。」(p.177)

もろさわ [……]いまは、本当の人間としての全面解放なんかないと私は思う。昔にくらべたら今はいいとか、「下見て暮せ」式の考え方ではなくて、あるべき全体像から照らし返したとき、ここが足りない、あそこが足りないという形でしか解放の全体像は考えられない。私たちのこれからは解放の全体像をどうとらえるかに関わっている……。
 村瀬 私が夫にいろんなモンクをいうもんで、「一体おまえはどうなりたいのだ。具体的に紙に書いて出せ」(笑)。そういわれると何を書いていいかわからない、夫は、私がよその奥さんにくらべてやることをやっていないという。確かにそのとおりだから、ますますどうしたらいいのかわからない。こういう体制の中で自分がどうなりたいのかわからない。だから夫にも、やりたいことを勝手にやりたがっている、ワガママくらいにしか思われない。」(p.180)

長原 [……]私は、「夫がいい仕事【[いい仕事]に傍点】ならよいと言ったから」と言いましたが、私の中にもそういう意識が少なからずあったと思います。「働いていない人はべつ【[べつ]に傍点】」とか「働かなければならない人はべつ【[べつ]に傍点】」という考えが、私自身の中にも潜在していた。いろいろな事柄に無意識に差別感をもっていたのではと深く反省しています。」(p.182)

★「 孤独にたえきれなくなって結婚した私は、虚しさを感じながらも幸せだと思っていました。やっと安住の地を得た私にとって、それをこわすことはとてもこわかったけれど、見たくない、聞きたくないと思っていたものをこのゼミで無理に目を向けさせられた思いです。このゼミで今私がこうして働かないでいることは、社会においては悪であるということを教えられました。私は大人であるにもかかわらず税金を納めておらず、しかも夫の納める税金の控除の対象になっています。私よりもずっとずっと免除して欲しい人の納めた税金で、私の生活がささえられて来た矛盾。社会の底辺に置かれた人よりも、身障者の人よりも私が楽な生活をしてよいのでしょうか。働かなくてよい状態だから働かない等といっていたことを恥ずかしく思います。それから、家事についてのレポートを書いたとき私は風邪で寝込んでいました。そのため夫はめずらしく家事や子どもの相手などもひきうけてくれた。そのことは、日頃家事をすることで、自分がいかに侵されていくか――と考えていたにもかかわらず、夫のちょっとした態度で幸せな気分になり、本当の姿が見えなくなってしまっていました。つまり、私はいつもいつもそういう危険にさらされてしまいます。私こそ、主婦的性格【[主婦的性格]に傍点】そのままだということがわかりました。」(p.183)★
 [……]夫の機嫌が気になった私、夫との距<183<離すら考えなかった私。けれどれも今は、距離は距離として見すえられるようになったのではないかと思います。
 それから、「子どもが離れていく」ということばが出ましたが、それは親の発想で、もともと親と子は離れたものではないでしょうか。なぜ親は生んだだけで親になれるのか、また、生まなければなぜ親になれないのか、親子とは……これからも考えつづけたいと思います。」(pp.183-184)

武田 今私が一番問題だと思っていることは、形の上で少々のお金を得ていても、現実としてはそれでは食べていけないということで、とてもごまかされやすい場所にいるということ。ちょっと働いて、働いた気になってしまっているし、今の自分が適当に楽だからと、その先のことをしないでいる。その楽さは主婦である(扶養されている)からそうなのに、気持の上だけは、常に私はまるまる主婦でないからと身をかわしている。本当はそんな姿勢自体とても主婦的なのに。このゼミを通して、そんな自分が今のままでは、さきゆきなにも開かれ得ないとつくづく感じました。」(p.187)

山中 [……]自分をどういうふうにあるべき姿にもって行くか、とてもきびしくて私には自信がありません。どうして自信がないのか考えてみると、自分は限られた環境に生きていて、それをみんな否定する形でなければはいっていけないということがあります。世の中を変えていくことは、大変です。自分が一人小さな抵抗をしても壁が大きくて社会を変えるところまではいかない。どうあるべきか考えても一人ではできない大きな壁に立ち向い、自信がなくなって、近頃ますますわからなくなりました。」(p.193)

▼Z 私たちは、いま

〔武田・降矢〕「また、いろいろと家事を話題にしながら、「なぜ家事をするか」の理由づけとなると、「扶養されているから」といまの自分の在り方をなんとなく正当化するだけで終ってしまい、なぜ扶養されると家事をすることになるのか確かめ合いもせず、聞きすごしていました。扶養されなくなった時家事をどう考えるのか、自分の方が夫より収入が多くなったら夫が家事をするようになるのか、等考えもしなかったことや、「扶養されている」ということを夫と自分との関係の中だけでとらえ、社会に対してどう考えるかという視点が全くぬけていたこと、また「扶養されていると考えたくないから分業と考える」というような、気の持ちようで意味づけてしまう傾向など、ここで私たちが見落とした問題点は大きなことばかりでした。」(p.210)

〔降矢・宮武〕「私たちは、いま、セミナーや記録つくりの過程でのすべての作業、体験を通して、主婦でも、妻でも、母でもない、一人の人間として個人の顔をまずしっかり持つことの必要を感じています。そうしない限り、私たち自身の中に含み持っている多くの問題に目を向け続けることも、また社会の中に立ちまじって、自分が生き生きと生きる実感も得られないのではないかと気づきはじめました。
 女が自分の「生」を大切に生きること、それは一つの小さな家庭の幸福を願うだけでなく、女全体がもっと人間らしく生きる方向の中で求めない限り得られないのではないでしょうか。それは個人の顔を持つことで、はじめて、社会の中の一市民として女全体がつながり、求め合うことが出来るのだと思います。そして、そのことが、子どもにとっても本当の幸せは何か、何を整えてやることが必要なのか、将来にわたる展望の中で一つ一つ自分たちの手でつかみとることのできる状況を拓くことにも通じるのだと思います。」(p.214)

▼[ おとなの女が学ぶということ(伊藤 雅子)

★「 このセミナーのテーマは「私にとっての婦人問題」つまり参加者一人一人にとっての婦人問題であるが、企画者としてはメンバーには既婚女性を中心に想定し、そのフィールドを「主婦である」ところにおきたいと意図していたことは、「公民館だより」の募集文などからも容易にうかがいとっていただけると思う。しかし、それは、公民館に集まるのは主婦が多いから、結果的に主婦が来るから、ではない。端的に言うなら、主婦をこそ問題にすべきだと考えるからだ。
 私は、主婦の問題は、女の問題を考える一つの基点であると考えている。現在主婦である女だけでなく、まだ<215<主婦ではない女も、主婦にはならない女も、主婦になれない女も、主婦であった女も、主婦であることが女のあるべき姿・幸せの像であるとされている間は、良くも悪くも主婦であることから自由ではない。少くとも多くの女は、主婦であることとの距離で自分を測っていはしないだろうか。幸せだ、恵まれていると言われている都市の中間層の主婦自身が抱えている問題に目を向けようとするのは「底辺」の女や働く女問題とは別個に主婦の問題を考えているからではない。主婦であることが女の生き方の正統であるとされている限り、主婦が負わされている歪みや痛みは、他の多くの女のそれと同心円を形づくっているのではないか、すべての女に投影しているものではないか、と思うからだ。」(pp.215-216)★

「まず、問題を女の外[……]に求めるよりも、日常生活や女自身の意識のひだにまぎれこんで女を縛っているものを洗い出し、内在する矛盾と外的な状況との関わりをたどりながら差別の相貌を見ようとした。」(p.216)

「 そして、そのための方法としては、協同しながら自己表現をくり返すことに重きをおいた。狭い生活圏の中で孤立し、自分の表現力、自己主張の手段を奪われている<216<ということが現代の主婦のおかれている状況の重要な側面であると思うのだが、そうだとすれば、協同や自己表現の力をとりもどそうとするそのプロセスがそのまま主婦の問題を浮かびあがらせはしないだろうか」(pp.216-217)

「[……]一人一人がそれまでの主婦の【[主婦の]に傍点】生活時間や生活感覚の中にこれらの作業を具体的に組みこんでいくプロセスが、主婦である自分を問うていく認識の変化のプロセスと無縁であるはずがないと思った。そこで、日常の問題をテーマ・内容にしながら、非日常的な姿勢や方法でとらえ、それをまた逆に日常化していく。対語のようにいうなら、日常の非日常化、あるいは非日常の日常化を意図し、そのプロセスを重んじようとした。」(p.218)

「 一つは、「もっと本音を」というような迫まり方はしないこと。それは、このセミナーでは、「どこまで言えたか」が問題なのではなく、なかなか言えないし、聴きとれない、またなぜ言えないのか、なぜ言おうとするのか、言ったつらさ、言わなかった苦しさ等々を含めての<218<「言い方」「聴き方」をそれぞれが意識することに意味があるのだと思ったから。」(pp.218-219)

「 この記録に記された一人一人の、一つ一つの発言の内容そのものよりは、なぜここでそんなことを言うのか、なぜそんな言い方をするのか、なぜそんな言い方しかできないのか、<224<なぜ黙っているのかをたぐりよせてみるとき、そこにこそむしろ、主婦である女たちの、あるいは女の内なる主婦的であるもの【[主婦的であるもの]に傍点】の実像がくっきり浮かび出てくるように私には思えてならない。」(pp.223-224)

■書評・紹介


■言及


*作成:村上 潔(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
UP:20090228 REV:
女性の労働・家事労働・性別分業  ◇女の生きかた論――戦後・日本  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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