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「インターディシプリンな歴史叙述」

石原 俊 2012/03/12
角崎 洋平松田 有紀子 編 20120312 『歴史から現在への学際的アプローチ』,生存学研究センター報告17,431p. ISSN 1882-6539 pp.5-14

last update: 20131015


歴史社会学研究会 2010年度公開研究会 2010年12月27日 於:立命館大学


インターディシプリンな歴史叙述
石原 俊(明治学院大学)


企画説明

司会:それでは歴史社会学研究会の公開研究会、「インターディシプリンな歴史叙述──石原俊氏に学ぶ」という研究会をはじめさせていただきたいと思います。
私は司会をさせていただきます歴史社会学研究会の櫻井悟史と申します。歴史社会学研究会については、立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点のホームページにある、紹介ページ(http://www.arsvi.com/o/shs.htm)をご覧いただければ幸いです。この研究会では去年もこういった公開研究会は行ないまして、そのときには福間良明先生に来ていただいて、先生の経歴や歴史社会学の方法論について、いろいろご教示いただきました。昨年の企画については、企画記事をホームページに作成しておりますので、よろしければご覧ください(http://www.arsvi.com/o/shs.htm#l3)。今年は石原俊先生に歴史社会学の方法論についていろいろとお尋ねしたいと思い、このような研究会を企画いたしました。
 石原先生は小笠原諸島を主題とした歴史社会学の本を執筆しておられまして、この本を研究会でみんなで読みました。そこでいろいろと疑問や質問したいことなどが出てきましたので、それを後ほど、指定質問の中でさせていただければと思っております。あと、石原先生は、最近『殺すこと/殺されることへの感度』という本を出版されており、そこからもわかるとおり、非常に幅広い分野で活躍しておられる方です。
 今回の研究会の段取りなんですが、まず石原先生のほうから1時間ほど講演をしていただき、その後、われわれの指定質問にお答えいただき、それから会場を含めたディスカッションという形にさせていただきたいと思っております。
 それでは石原先生、ご講演よろしくお願いいたします。


1. これまでの研究を振り返って

 現在までの経歴

石原:石原です。お招きいただきましてありがとうございます。ここには初対面の方が多いのですが、私は関東のほうで専任職に就くまで2、3年ほど、プロジェクト予備演習の担当者として、先端研でお世話になっていたことがあります。
 先端研に歴史学研究会が存在していることは、ホームページで存じ上げていまして、ヘイドン・ホワイトの招聘企画などが行われたことも一応知ってはおりました。私がすばらしいと思うのは、「歴史社会学」ちゃんと名乗っておられる点です。日本では皆さんご存じのように、歴史社会学と名のつく学会やそれに準じる組織はないわけですよね。アメリカ合衆国だと、Historical Sociologyと名のつく学会がありますし、ヨーロッパでは社会史の研究者集団や学会はたくさんあるわけですけれども、日本では「歴史社会学」と名乗っている人は随分多いのに、学会はない。別に学会組織があればいいという問題では全然ないわけですが、ホームページの研究会記録などを拝見すると、歴史社会学研究会は、社会学と歴史研究のある種のつなぎの部分というか、「と」というべき接続領域を、積極的に引き受けておられるように感じられました。社会学「と」歴史研究、この「と」というのは、よく言えば横断性なんですけれども、同時にある種の一筋縄でいかない葛藤や緊張関係を孕んでいるわけで、そこをあえて引き受けるようなスタンスでやってこられたということがわかりました。だからこの会に呼んでいただいたことは、非常にありがたく思っております。
 もう一つ、お礼を申し上げないといけないのですが、やたらに長く(総500ページ超)けっして安価とはいえない(定価5000円)拙著『近代日本と小笠原諸島──移動民の島々と帝国』(平凡社、2007年)を研究会で輪読していただき、本当にありがとうございます。拙著に対してコメントいただいた研究会のレジュメも、インターネットで全部拝見いたしました。
 実は私、経歴的には一貫して「社会学」と名のつくところに属してきました。学部は京都大学文学部の社会学専攻というところで、卒業後はそのまま京大の文学研究科の社会学専修に進んで、そこでどうにかこうにか修士号と博士号を取得しました。そして2005年に千葉大の助手──途中から助教と職名が変わりましたが──でポストを得ました。このときは職位が助手・助教だったので、担当科目はだいたい学部1コマと大学院1コマだったのですが、今になって思い返すと、そこで私のゼミや講義に出ていた学生・院生も、大多数が社会学専攻か文化人類学専攻でした。その後、いま勤めている明治学院大学の社会学部に移りましたが、ここは文字通り社会学者がいっぱいいる組織です。このように振り返ってみると、私の所属先は一貫して「社会学」です、すくなくとも形の上では。また私の所属学会も、日本社会学会・関東社会学会・関西社会学会の3つだけで、やっぱり全部「社会学」です。歴史研究者がいっぱいいる研究会とか、思想研究者がいっぱいいる研究会とか、研究会についてはインターディシプリンにいろいろ出入りしているんですけれども、所属学会は「社会学」と名のつく大手学会3つだけです。
 他方で私は、経歴上は「社会学」で一貫しているにもかかわらず、恥ずかしいことですが、似たような経歴を持っている他の社会学者に比べれば、社会学の学問体系を勤勉に学習してきたほうではありません。だから、バリバリの社会学者の方たちの前では、自分が「社会学者」を名乗るのに引け目を感じることもあります。
 現在の日本における「社会学」とそのなかでの「歴史社会学」のポジションについて、私の印象では、今この国で行われている歴史社会学は、いくつかのスタイルに分かれると思っています。ざっくり言って、そのひとつは、いわゆる「○○問題」の歴史社会学、いわばテーマ追究型の歴史社会学です。「○○問題」に関心があって、それを歴史的に究めようという歴史社会学で、今の日本では、歴史社会学の多数派は、このスタイルをとっている印象があります。いっぽう、私はあまりそういうやり方で歴史社会学をやってこなかった。もちろん、「本業」でやっているコロニアリズムの歴史社会学だとか、あるいは島嶼社会や海洋社会の歴史社会学とか、あるいは「副業」でやっているような現代日本社会の歴史社会学的診断とか、そういう名乗り方ができなくもないけれども、基本的には「無専門」といいますか、いわゆるテーマ追究型の方がたが、そのテーマについてはがっちりと固めているというようなスタイルでは、やってこなかったわけです。あえて言えば、対象地域・領域を少しゆるやかに設定して、そこから定点観測をするというような歴史社会学、ということになるでしょうか。地域社会学と名乗ると、また独特の学問的・政治的磁場があるので、私はあまり地域社会「学」とは名乗らないようにしてるんですけれども、あえて言うなら、地域社会「論」的な関心を持つ歴史社会学をやってきたというような気がしております。
 私の研究手法は、拙著を輪読していただいた方にはよくおわかりのように、文献資料の分析が多いですが、ヒアリングやインタヴューという手法を使う場合もあります。狭い意味での「歴史社会学者」の中では、比較的オーラルなデータを多用しているほうなんじゃないかなと、自分では思っています。
 私の「本業」の研究テーマについては、すでに研究会で拙著を輪読いただいたとのことですので、あまり繰り返しお話しする必要もないと思うんですが、近代日本に併合された「南島」と呼ばれる島嶼地域、あるいはそこに暮らす人たちが、いわゆるアジア太平洋世界のグローバリゼーションや植民地主義の展開の中で、「島」と「海」を拠点として、どのように生きぬいてきたのかという関心が、研究のメインテーマです。
 これまでの主要な研究領域のひとつが小笠原諸島です。その中心ともいえる父島は、東京から南に1,000kmもある場所ですが、いまは日本国東京都の所属です。また、父島からさらに260kmくらい南に行ったところにある硫黄島、近年クリント・イーストウッドの映画で有名になった硫黄島を中心とした硫黄諸島(火山列島)について研究しています。それから、沖縄の社会史についても、いくつかの文章を書いてきています。
 みなさまに輪読いただいた『近代日本と小笠原諸島』以外に、自分でもまあまあ気に入っているモノグラフとして、レジメの「論文」欄の2番目にあげてある「そこに社会があった──硫黄島の地上戦と〈島民〉たち」(『未来心理』15号、NTTドコモ・モバイル社会研究所、2009年)という文章があります。
 そのほか、先ほど櫻井さんにも紹介いただきましたけれども、現代日本社会論のような仕事も「副業」的にやっております。お回ししている『殺すこと/殺されることへの感度──2009年からみる日本社会のゆくえ』(東信堂、2010年)、これはちょっとどぎついタイトル、どぎつい表紙のブックレットですが、現代日本社会を(ポスト)コロニアル、(ポスト)冷戦、あるいはネオリベラリズムといった観点から、歴史社会学的に捉えるという作業もやっています。このブックレットは、すでにできあがった研究者・大学教員に向けて書いたのではなく、むしろそれ以外の人たちを読者として想定しているものです。まず、社会運動の現場を持っている人たちに、私みたいなノンポリでナヨナヨした人間がどう貢献できるのかということを考えて、そういう人たちが少しでも使えるものを出したいと考えました。次に、これから労働者になっていく自分の学生たちに向けて。そして、私よりも若い世代で人文・社会科学系の研究者になろうとしている人たち、あるいはそれを目指している人たちにも、読んでいただけるようなものにしようと思って書きました。自分で言うのもなんですが、寿命がせいぜい2年といわれるブックレットとしては、5年程度は使えるものにしたいと思って作りましたし、980円と比較的安価ですから、手にとっていただければありがたいです。


 「歴史社会学」という学問領域

 さて、歴史社会学という学問領域への私の基本的な考え方について、まとめて少しだけお話しておきたいと思います。
 今お回ししている『社会学入門』(弘文堂、塩原良和/竹ノ下弘久 編、2010年)という共著が、最近刊行されました。これは学部3・4年生向けの社会学の教科書という位置づけですが、ここに収められた「歴史で社会学する──あるいは近代を縁から折り返す方法」という文章に、私の歴史社会学についてのおおまかな考え方が書いてあります。締切を大幅超過して編者にせかされながら4日ぐらいで書いた文章なので、いろいろ不十分なところだらけですが、逆にあまりグチグチ考えずに書いた分、自分の言いたいことがストレートに言えているかなという気もしております。そこで書いたことをふまえながら、簡単にお話しします。
 歴史社会学というのは、20世紀前半までは一般に、ナショナルなものを補完する学問領域でした。佐藤健二さんも『歴史社会学の作法──戦後社会科学批判』(岩波書店、2001年)で指摘されていることですが、国民や民族の歴史という枠組みで、国民文化・民族文化の発展形式を追究する、そういうものとしてイメージされていました。とりわけ、ドイツ系の歴史社会学などがそうなんでしょうけれど。
 それに対して、20世紀末になってくると、アメリカ合衆国において構造─機能主義に批判的な歴史社会学の潮流が現れ、イギリスではエドワード・トムスンに代表されるような「下からの社会史」というべき方法論が打ち出され、また日本の歴史学における民衆史などの提起があり、他方でルイ・アルチュセールだとかミシェル・フーコーだとか、いわゆる構造主義やポスト構造主義と呼ばれる思潮の影響もあって、ある意味で従来と真逆の歴史社会学が主流になっていきます。
 そうした傾向を暴力的にまとめてしまうなら、要するに近代世界において、正当性とか合理性を持っているとみなされているシステム──ご承知のように、資本主義・国民国家・家族・学校だとか──そういう制度がさまざまな歴史的偶然の中で採用されて結果的に合理化・正当化され、幅をきかせるようになっていくプロセスやメカニズムを明らかにするという、そういう傾向に変わってきたわけです。20世紀の特に最後の四半世紀に、歴史社会学に大転換があった──私はそういうイメージを持っています。ある意味ではマルクスやヴェーバーへの良い意味での「原点回帰」でもあるわけですが、ある種の「原論系」または「暴露系」とでもいうか、そういう歴史社会学が主流になってきたように思います。
 それから、このような「原論系」「暴露系」の作業と表裏一体なんでしょうけれども、近代システムが幅をきかせて合理化・正当化されていくプロセスにおいて、どういう人たちのどのような経験や記憶が忘却されたり、排除されてきたのかということを浮かび上がらせるという、フーコーのいう系譜学的な作業、あるいはベンヤミンのいう「歴史の天使」的な観点も、重要視されるようになってきた。これは佐藤健二さんによると、柳田國男以来存在した──柳田國男はもちろん歴史社会学とは言わないわけですが──ある種の社会科学の一つの伝統として位置づけられるわけですが。日本の歴史社会学は、いっぽうで柳田國男的なものをリバイバルしつつ、他方で社会史的・民衆史的発想や、(ポスト)構造主義の思潮における系譜学的な思考を移入しながら、自分たちのなかで歴史社会学という領域をどういうふうに構築していくのかと、真剣に考えてきたんだと考えています。
 ただしそうした作業は、現在の地点から単に排除されたものとか忘却されたものをすくい出すというスタンスでは不十分なわけです──これは過日、先端研の「リサーチ・マネージメント」のゲスト講義で招いていただいたときにも、社会調査論の一環としてお話しした論点ですけれども──。忘却されたものや排除されたものを叙述するとして、それがどのように忘却され排除されてきたのかということ、つまり忘却や排除をめぐる歴史的な磁場というべき関係性を、具体的に追跡し書き出していく作業が必要だと思います。歴史学などの手法にも学びながら。現代性を意識しつつも、歴史的磁場のただなかにいったん分け入った作業を経なければ、逆説的ですけれども、忘却されたものや排除されたものの現代的意味はやっぱりわからない──そういう気がしています。


 歴史社会学との出会い──90年代の知的背景から

 私の歴史社会学に対する考え方は、おおざっぱに言ってしまえば、この程度です。今日はどのような段取りでお話をしようかと思ったんですけれども、歴史社会学の方法論的な話題を詰めていくのは、後の指定質問にお答えするプロセスでさせていただきたいと思います。残りの講演時間では、私がどのような知的背景のなかで歴史社会学者みたいなものになってきたのかということを、ベタな事実関係も含めてお話ししてみたいと思います。
 なぜそういうお話をするかといいますと、私なぞは一介の若手の社会学徒にすぎないわけですけれども、私みたいな者の知的経験をお話しするだけでも、1990年代から「ゼロ年代」にかけての日本で歴史社会学的な世界に入っていった若手研究者をめぐる知的状況の、ある側面を示せるんじゃないか、それはみなさまにとってもちょっとは有益なのではないかと考えたからです。
 私は今から振り返れば、研究者になるための知的背景において、同世代のなかでもかなり恵まれていたと思います。ちょうど1990年代から「ゼロ年代」初頭の日本における、かなり幸福な知的背景のもとで育ったなと考えています。
 先ほど申し上げたように、90年代前半にわたしは京大の文学部に入学したんですけれども、80年代に京大人文研の助手でスターになられた浅田彰さんが、90年代に入って京大の経済研究所の助教授に昇進されて間もないころでした。それで、浅田さんが正規の授業とは別に、いわゆるフランス現代思想──レヴィ=ストロースとかラカンとかアルチュセールとかフーコーとかドゥルーズ&ガタリとか──そういう思想家の翻訳書を輪読するような読書会を主催されていたんですね。私は学部生のころ、その界隈にも出入りしていました。そのころの人文研には、西川長夫先生と一緒に1970年代からアルチュセールなどを盛んに日本に紹介されていた、阪上孝先生がおられました。また、私は直接面識がなかったのですが、出身研究室の大先輩でもある上野千鶴子さんも京都精華大の教員としてまだ京都にいらっしゃいましたし、90年代の後半には大澤真幸さんも千葉大から京大に移ってこられました。今から振り返ると若干恥ずかしい言葉でもありますが(笑)、いわゆるよい意味での80年代以降の「ニューアカデミズム」の社会科学的残滓というか名残が、すくなくとも京大には90年代まであったんですね。浅田さんたちがおられたということもあって。
 正規の学士課程では、3年生になると、何をやっていても許されそうだという安直な理由で、社会学研究室に入ることにしました。主任指導教員がラッキーなことに、ちょうど大阪市大から京大に呼び戻されてきたばかりの松田素二さんでした。松田さんは、ちょうど私がゼミ生になったころに、1冊目の単著『都市を飼い慣らす──アフリカの都市人類学』(河出書房新社、1996年)を出されました。松田先生はいまやアフリカ研究の大家になられましたけれども、当時は人類学・社会学の若手の旗手とみられていて、狭い意味でのアフリカ研究だけでなく、人類学や社会学のいわゆるレジスタンス論、あるいは都市インフォーマルセクター論で、それまでの枠組みを刷新するような論点を提出されていて、また民族・ネーション論やエスニシティ論の分野でも、西洋型のネーション・モデルに当てはまらないような民族性・集団性のモデルを呈示されたり、あるいは社会調査論の文脈でも、いわゆる「ライティング・カルチャー・ショック」以降の社会調査をどのように再構築するのかという問題に取り組まれたり、さまざまな分野で大活躍されていた時期でした。私はそんなことは全然知らずに松田さんのゼミに出入りするようになったんですけれども、そういう時期の松田さんに指導教員になっていただき、結局大学院を出て博士号取得まで10年もご指導いただきました。副指導教員としては、今は立命館の産業社会学部の特任教授でいらっしゃる宝月誠先生に、3年生のときから博士論文提出まで、ずっとお世話になっていました。また、たまたま阪大から京大に戻ってこられた井上俊先生にも、定年になるまで6年くらい京大にいらっしゃった期間、ご指導いただきました。これは非常にぜいたくな環境なのですが、当時の私は今よりもっとバカですから、その価値が全然わかってなかったんですけれども(笑)、今から思い返せば、もっと耳学問を含めいろいろ学んでおくべきだったと、忸怩たるところがあります。


 「戦後50年」をめぐる知的状況

 1990年代の半ばの歴史社会学をめぐる環境として避けて通れないのは、いわゆる「戦後50年」をめぐる知的状況があったことです。ご存じのように、90年代の初頭に冷戦体制が一応崩壊して、いわゆる日本帝国軍「従軍慰安婦」にさせられた方たちが名乗り出たりといった状況があったわけですよね。1995年の「8.15」には、当時社会党が政権に入っていたこともあって、日本の「戦争責任」に関する「村山談話」が──その内容はきわめて不十分なものながら──発表されたりして、「戦後50年」を契機に日本帝国の戦争責任の問題が──〈植民地支配責任〉や〈戦後責任〉の問題化はまだまだでしたが──メディアでもそれなりに報道されるようになっていました。その後、2000年をはさんで猛烈なバックラッシュと否認が押し寄せるわけですけれども、まだ95年あたりは、「新しい歴史教科書をつくる会」ができたかできないかの時期ですから、ある意味でいわゆる左派が「攻めていた」時期です、主観的には。実はその当時、裏側では新自由主義的「構造改革」への途がどんどん拓かれていたわけですけれども。こうした状況に呼応して、日本の人文社会科学の知的空間においても、「帝国」や「ポストコロニアル」という言葉が使われるようになってきていました。
 このような知的状況のなかで、いくつかの研究グループがたいへん重要な議論を打ち出していました。
 ここでいったん関西から離れますが、ひとつの特筆すべき議論は、東京外語大を拠点とする研究者グループから打ち出されていた総力戦体制論でした。その中心メンバーは、90年代初頭、冷戦体制の崩壊を横目にみながら岩波の『思想』に「システム社会の現代的位相」を連載されていた(その後『システム社会の現代的位相』として1996年に単行本化される)山之内靖さんや、コーネルの酒井直樹さん、その後一橋に移られた伊豫谷登士翁さん、それから今は日本女子大にいらっしゃる成田龍一さん、今も外語大にいらっしゃる岩崎稔さん、そういった当時の若手と中堅の研究者集団が、国民国家論・植民地帝国論・総動員論・総力戦体制論にかかわって、柏書房から『総力戦と現代化』(山之内 靖/ヴィクター・コシュマン/成田龍一 編、1995年)、『ナショナリティの脱構築』(酒井直樹/ブレット・ド・バリー/伊豫谷登士翁 編、1996年)といった話題性のある論集を世に問うていました。『ナショナリティの脱構築』は東京外語大のグループが中心ですが、このころ国民国家・人種主義・動員にかかわる諸問題を積極的に論じておられた冨山一郎さんなども、関西から参加されています。
 この研究グループと関連して、廣松渉さんの最後のお弟子さんであった米谷匡史さんも、若干26、7歳のときに「丸山眞男の日本批判」という、今では伝説となっている論文を『現代思想』(1994年1月号)に書いて、デビューされていました。米谷さんは、戦間期から戦時期の日本帝国の社会思想史の根本的な書き換えを試みておられ、その一環として、東亜協同体論をめぐる論客たちの限界と可能性を厳密に評価する作業に着手されていました。
 同じ1996年に歴史学のほうからは、東大の大学院を出てお茶の水女子大に就職されていた駒込武さんが──駒込さんはその後まもなく京大に移られますけれども──処女作『植民地帝国日本の文化統合』(岩波書店、1996年)を世に問われ、植民地帝国論を実証研究として本格的に打ち出しました。
 このような総力戦体制論や動員論、人種主義論や植民地帝国論の背景には、それこそ多様な思想史や運動史の水脈が横たわっているわけですが、いくつか特徴的な背景を指摘するならば、ひとつはみなさんご承知のように、西川長夫先生やベネディクト・アンダーソンに代表されるような、ネーション論・国民国家(批判)論があります。人種主義と国民国家の関係性については当時、“Race Nation Class”(『人種・国民・階級──揺らぐアイデンティティ』若森章孝ほか訳、大村書店、1995年)におけるバリバールの議論が、よく参照されていました。そして日本の歴史学の分野でも、西川理論などとの緊張関係のなかで発展してきた国民国家論や動員論や植民地帝国論が、理論的・実証的両面ですでに蓄積されていたわけです。また植民地帝国論という意味では、すでに1990年代前半に岩波書店から、『近代日本と植民地』というシリーズが全8巻構成で刊行されていました。
 私は成田さんや岩崎さんたちには関東に就職してからお世話になるようになり、駒込さんや米谷さんとも何年か後になって出会うことになるんですが、この当時京都で一介の学部生だった私は、むろん直接面識はありませんでした。しかし、このような「戦後50年」をめぐる知的状況があって、いくつか世に出ている本を読んで、いろいろ衝撃を受けることが多かったように記憶しています。
 とりわけ総力戦体制論というのは、今では当たり前のように思われていますけれども、当時としてはやっぱり新鮮でした。冷戦体制下で封印されていた3つのことがらを体系的に指摘したという意味で。一つめはまず、ファシズムやナチズム、天皇制ファシズムというものが近代の「例外」や近代からの「逸脱」ではなくて、近代システムの「帰結」であるということをはっきりと言った。二つめとして、日本ファシズムにおける国民国家・植民地帝国の動員形態そのものが「戦後」にも連続していたことをはっきり指摘した。敗戦後日本の開発主義国家とも福祉国家ともよくわからない体制に連続していたと。それから三点めとして、やや乱暴ながらも、ドイツのナチズムも、イタリアのファシズムも、日本の天皇制ファシズムも、アメリカのニューディール体制も、ソ連のスターリン体制も、これ全部、理論的には総力戦体制として捉えるべきだと言ったわけです。これらは理論的には同型であり、それぞれ各国の近代システムのひとつの歴史的帰結であり、かつ各国の戦後体制の基盤になったと。これは今では当たり前の歴史認識のひとつなのかもしれないですけれども、私より上の世代には、これは当たり前ではなかった。私は1974年生まれですが、おそらく日本のなかでは冷戦にかかわる歴史意識をリアルタイムで持っている、最後の世代の研究者になるんじゃないかと思います。
 では、「戦後50年」をめぐる関西の知的状況はどうだったかといいますと、当時の関西には、複数文化研究会(複文研)というたいへんユニークな知的集団があったんです。私は2005年に就職してから関東の研究者の人たちと交流していて、この関西の知的集団は、90年代の日本語空間の思想史としてほとんど認知されていないことに、かなりショックを受けました。しかし、当時の複文研は、いまから振り返れば、日本語空間におけるポストコロニアル研究の「台風の目」だったと言っていいと思います。この集団は、関西で豊富な蓄積があるマルクス主義思想史研究の最良の部分を受け継ぎつつ、「文化研究」を掲げつつも文化主義には陥らずに、それこそインターディシプリンな知的状況を、一定程度実現していたと言えるでしょう。
 人文書院から『〈複数文化〉のために──ポストコロニアリズムとクレオール性の現在』(複数文化研究会 編、1998年)という論集が出ていますが、これがまさに複文研のひとつの成果です。この論集の編集者は当時人文書院におられた松井純さんで、この研究会の実質的な事務局をしておられました。最初の拙著『近代日本と小笠原諸島』は、松井さんが人文書院から平凡社に移られて、私が追うように関東に就職して、その縁で平凡社から出してもらったという経緯があります。
 研究会の中心人物は、ひとりがガブリエル・アンチオープさん。残念ながら先ごろ亡くなってしまいましたが、この方は松井さんが編集を担当された『ニグロ、ダンス、抵抗──17~19世紀カリブ海地域奴隷制史』(石塚道子 訳、人文書院、2001年)という、ものすごく刺激的な社会史の本の著者です。それから龍谷大学の杉村昌昭さん。フェリックス・ガタリの日本における紹介者、スーザン・ジョージの『オルター・グローバリーゼーション宣言』(真田満との共訳、作品社、2004年)の翻訳者として有名ですが。そしてフランス文学者でヴィクトル・セガレンの著作集の翻訳(水声社)や『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』シリーズの翻訳(インパクト出版会)で知られている兵庫県立大の木下誠さん。このお三方と松井さんが会の中心におられました。
 主要メンバーとしては、ヴァレリー研究者で『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』シリーズの翻訳のほか、アルチュセールの翻訳などもされている石田靖夫さん。石田さんは当時すでに千葉大の教員になっておられ、私が千葉大に就職してから偶然にも再会することになるんですが、当時の石田さんは複文研のために毎月千葉から京都に通っていらっしゃいました。ちょうど論客として有名になり始めていたころの鵜飼哲さんも、東京から何度も来られていました。フランス語系アフリカ文学の研究者である元木淳子さんも、ちょうど法政大学に行かれる直前だったと思いますが、メンバーでした。後に先端研の教員になられる西成彦さんも、ちょうど熊本大学から立命館の文学部に移ってこられたばかりで、研究会のコアメンバーでした。それから、水嶋一憲さん。後にネグリ&ハートの『〈帝国〉』(以文社、2003年)の監訳者として有名になりますけれども、当時はスチュアート・ホールなどのカルチュアル・スタディーズの議論を随分と日本に紹介されていた。水嶋さんはもともと、スピノザ研究者なんですけれども。あるいは、当時京大の人文研におられたフランクフルト学派思想研究の上野成利さん。後に『思考のフロンティア 暴力』(岩波書店、2006年)というすぐれた国家論・暴力論を書いて有名になられます──ちなみに、私はゼミで毎年、学生にこの本を輪読させています──。また、詩人でアドルノ研究者の細見和之さん。細見さんは当時大阪府立大の助手をされていました。今では教授になられていますけれども。当時京都に住まわれ立命館を含む各大学で非常勤講師をされていた、思想家の田崎英明さん──のちに立教大学に就職されますが──もおられました。のちに『エコ・ロゴス──存在と食について』(人文書院、2008年)や『空腹について』(青土社、2008年)を出版されることになる、雑賀恵子さんも常連でした。あるいは、まだ専任職に就かれる前の岡真理さん。そして、当時は神戸市外語大におられた冨山一郎さん。冨山さんも当時、非常に象徴的なお仕事をされていて、いわゆる「戦後50年」の1995年8月15日という日付で『戦場の記憶』(日本経済評論社)を刊行していました。これで有名になられたんですね。冨山さんはその前に博士論文を『近代日本社会と「沖縄人」──「日本人」になるということ』(日本経済評論社、1990年)として刊行されていましたが、一般に有名になられたのは、この『戦場の記憶』によってでした。冨山さんが神戸市外語大から阪大に移られたときに阪大の博士課程に編入してこられた、沖縄/奄美/台湾近現代史研究の森宣雄さん──のちに『台湾-日本──連鎖するコロニアリズム』(インパクト出版会、2001年)を刊行されます──も、メンバーに加わりました。さらに、今は立命館の文学部にいらっしゃる崎山政毅さんも研究会の主要メンバーでした。当時は京大の農林経済学専攻の助手をされていたころでした。
 このように複文研には、主に京大や阪大出身、あるいは京大や阪大や立命館所属の、文学や思想史、歴史研究の当時30代から40代前半の研究者が集っていたんですが、そうそうたるメンバーだったんです、今から振り返ると。
 そして私は、学部生のころから厚かましくもこの研究会参加させてもらっていて、院生時代にかけて、この大先輩たちから随分といろんなことを教えてもらって、鍛えられました。西川長夫先生は研究会のメンバーではなかったんですけれども、複文研のメンバーは、国民国家論をはじめとする西川さんのお仕事を、間違いなく認識の基盤のひとつとして共有していたと、これも今から振り返れば思われます。そして、複文研にゲストでいらっしゃった西川先生に、わたしはここで初めてお目にかかったように記憶しています。


 研究の開始

 以上のような非常に恵まれた状況の中で、では私はどういうふうに研究を始めたかといいますと、まず1990年代の半ばに、卒業論文で沖縄の全軍労(全沖縄軍労働組合。当初は全沖縄軍労働組合連合会=全軍労連)の運動を取り上げました。米軍占領下の労働組合の中でも最も戦闘的だと言われた、米軍基地労働者の運動体です。
 占領下沖縄の基地労働者は、いわゆる労働三権が1950年代まで適用外の状況下に置かれていて、米軍の軍政が最も厳しかった時期に、沖縄住民は基地の中では組合結成の権利さえありませんでした。基地労働者の労働運動は、占領下沖縄の社会運動としては後発の運動なわけです。初めは非合法という状況下でかれらは組合を結成し、なし崩し的にそれを拡張していきます。1960年代末にいわゆる日本復帰運動が沖縄闘争と呼ばれる段階になってきて、この基地労働者の運動体は、ベトナム戦争への協力を拒否し基地機能をマヒさせるような直接行動を展開し始めます。青年部のなかには「基地撤去」を掲げるグループも現れる。かれらは、自分たちの経済的基盤を掘り崩すようなジレンマを引き受けつつ、さまざまな行動を打ち出していく。そのこともあって全軍労は、「新たな琉球処分」と呼ばれた1972年の「基地付き核付き日本復帰」前後の沖縄において、沖縄解放運動というべき動きを主導する役割を果たすようになりました。占領下沖縄の日本復帰運動は、支配的なナラティヴとしては戦後日本の民族左派ナショナリズムの言説に乗っかっていったため、「基地付き核付き日本復帰」が現実味を帯びてくると、復帰運動のなかに含まれていた民主化運動・解放運動のモメントは、必然的にナショナルなものを超克せざるをえなかったわけですけれども、私は全軍労という運動体が展開していくプロセスに、ナショナルなものを内破していくような論理をみようとしたんだと思います、今から思い起こせば。この当時、全軍労の組合関係資料は今のように冊子化されてはいなかったので、全駐労沖縄地区本部にうかがって段ボールの中にあった一次資料を見せていただいたり、いい経験になりました。
 卒論は結局、論理的には破綻しているハチャメチャな論文になりましたが、書いていてそれなりにしんどくも、いくらかは楽しい経験でした。その関係で冨山一郎さんのところにも、お宅が京大のすぐ近所ということもあって、出入りするようになって、個人的にもいろいろお世話になり始めました。まもなく冨山さんは阪大に移られますが、大学院を出た後に学振のPD研究員として受け入れていただくなど、松田さんが私にとって第一の師匠とするなら、冨山さんは第二の師匠といえるかと思います。
 ご存じのように、沖縄では1995年に小学生が海兵隊員にレイプされるという事件があり、これに端を発した抗議行動が広がりました。当時、学者出身の大田昌秀さんが知事で、2015年までに沖縄から米軍基地を撤去するためのアクションプランというものを策定していた──2015年はもうすぐで、結局その後主要軍事施設はまったく撤去されていないわけですけれども──、そういう時期でもあったわけです。
 しかし、その後私は大学院の修士課程に進んで、──櫻井さんから指定質問でいただいた内容ともかかわるんですが──歴史社会学的な研究において戦後性の問題、指定質問の櫻井さんの言葉を使うならば「1945年以降の問題」を既存の社会科学的な分析の道具を使って捉えていくことは、なかなか難しいと感じたわけです。ちゃんと勉強せずにいきなり戦後性の問題を考えようとして、その難しさに後で気づいたわけです。
 たしかに1990年代半ばには、先ほど申し上げたような総力戦体制論だとか植民地帝国論だとか、1945年までの日本帝国を歴史社会学的に把握するための分析の材料は、かなり出てきていました。ところが、1945年以降の〈帝国後〉をとらえる視座というのは、あまり有効な議論が多くない状態だったんです。今でこそ、たとえば道場親信さんという論客がいて、戦後日本社会の編制や社会運動を東アジアのポストコロニアルな状況のなかで把握するための認識枠組みを、いろいろな形で提示されているわけですけれども、1996年当時の道場さんはまだ本格的にデビューされる前でした。
 また、私にとってそれよりももっと根本的な問題は、端的に勉強不足でした。広い意味での古典的な歴史社会学をちゃんと勉強しないで、無謀にもいきなり卒論で戦後社会運動研究に踏み込もうとしたわけです。明らかに基礎体力不足でした。
 それから、私はどうも社会運動の研究に向いてないと感じ始めたこともあります。運動体やそのメンバーとの関係において、つねにある種の自分の立場性の表明を求められるような状況のなかで歴史研究に従事するのは、私みたいなナヨナヨした人間には向いてないと感じられるようになってきたのです(笑)。修士論文は、協力いただいた方がたには本当に申しわけなかったんですが、博士後期課程に進学するために80点をとればいいということで無理やり仕上げました。修士論文で何をやったのか、言わないとちょっと不公平なので明かしてしまいますと、当初の計画では、沖縄と小笠原における米軍占領体制の成立を、日本帝国のもとでのレイシズム(人種主義)やエスニックな関係の軍事利用という観点から、比較検討しようとしたんです。日本帝国は沖縄本島やその周辺の島々で、学校教育における「方言札」に象徴的に表れているように、住民に「遅れた沖縄」という人種主義的なまなざしを浴びせたうえで、かれらを「日本人」として動員するための装置をさんざん張り巡らしたわけです。そして、アジア太平洋戦争の敗色が濃くなり米軍が迫ってくると、日本帝国軍は、住民を地上戦に動員して巻き込んでおいたうえで、かれらを集団自殺に追い込んだり、人種主義的なまなざしによってかれらを虐殺したりしたわけです。小笠原諸島、とりわけ父島の場合であれば、19世紀末に日本がこの島々を併合する前から住んでいた先住者、世界各地から帆船に乗って集まってきていた先住者が帰化させられ、その子孫たちが島で暮らしていたわけですが、日本帝国当局は、一方でかれらを潜在的「スパイ」扱いして厳しい管理と監視の対象としながら、他方で日本帝国臣民として戦争に動員したり、内地に強制疎開させて苦労を強いたりしたわけです。そのような、日本帝国のもとで「南島」と呼ばれた島々における植民地主義的・人種主義的な社会関係を、アメリカは人文・社会科学の研究者を動員して調べあげ、戦後の軍事占領体制の構築に利用・逆用しようとしました。このような、現在にいたるまでアメリカが世界各地の戦争で用いている、「知による軍事戦略」というべき世界戦略のプロトタイプ、その最初の実践例のひとつである沖縄占領や小笠原占領の事例を、比較研究しようとしたわけです。でも情けないことに、この比較研究は時間切れでまったくできませんでした。なぜなら、小笠原諸島という領域に関しては、1945年以前の日本帝国のもとでの歴史的経験がほとんどまともに研究されていないことがわかり、アジア太平洋戦争にいたる小笠原の社会史を独力で調べたうえでなければ、小笠原における戦後性の問題はとてもわからないということに気づいたからです。そういうわけで、修士論文は当初計画の3分の1にも満たないところで時間切れとなりました。それでも、何とか通していただいたわけです。


 小笠原諸島の近代社会史へ

 そういう形で沖縄の占領と小笠原の占領の比較研究を歴史社会学的にやろうとして、まったく果たせなかったわけですが、そのプロセスで、小笠原諸島の近代社会史については、だれもまだ本格的に研究していないということがわかった。これを幸いにして、博士課程に進んでからは、小笠原の在来島民とその祖先の人びとの近代経験を研究対象のひとつにすることにしました。櫻井さんが指定質問で書いてくださったような、アジア太平洋戦争までを対象とする古典的な歴史社会学の実証研究を、地道にやろうとしたわけです。
 在来島民というのは、さきほど少しふれた小笠原諸島の先住者の子孫を指す行政用語でして、日本が1870年代に小笠原を併合するわけですが、それ以前に小笠原がどの国家にも属していない時期に世界各地から移り住んでいて、日本に帰化させられていった人たちの子孫のことを指しています。
 この在来島民の人たちに対するインタヴュー調査を始めたのが、博士課程に進んだ1999年の頃でした。ご存じない方もおられると思うので説明しますと、小笠原諸島でいま人が住んでいる島は父島と母島だけで、どちらも飛行場はありません。そのため、父島に行くには、東京の竹芝桟橋から船に25時間半乗って行くしかありません。とにかく時間がかかります。定期船は夏休み以外のオフシーズンで、だいたい週に1往復。朝10時に竹芝を出ますから、京都からだと、前夜に東京に入っていなくてはらならない。今では新幹線も早くなりましたが、10年前は新幹線もいくらか遅く、品川駅もなかったですから。夜行バスで行くと、寝不足の状態で船に乗るので船酔いをしてしまいますから、東京には新幹線で行かざるを得ない。
 要するに、「日本国内」であるにもかかわらず、時間とお金の両方がかかるわけです。船賃が高くて、センベイ蒲団に雑魚寝するような2等船室でも、夏休みシーズンで2万5,000円、オフシーズンで2万円、学割を使っても1万8,000円から2万2000円ぐらい。往復ではその倍ということになります。当時は京都にいましたから、これに往復の新幹線代もかかる。しかし、院生の身で時間はありますから、少なくとも年に1回、多いときは年に3回ぐらい島に渡って、2~3週間は滞在し、人に会って話を聴かせてもらっていました。
 とにかく最初は、在来島民の現状について勉強しようと思って、とりあえず行ってみたんですね。かれらは俗に「欧米系島民」と呼ばれたりしていますが──実際にルーツを辿って行くとほとんどの人は「欧米」だけではない多様な祖先をもっているわけですが──、世界自然遺産登録などもとりざたされていなかった20世紀末の時点では、小笠原諸島は日本社会において「忘れられた島々」で、「欧米系島民」もマスメディアではほとんど報道されない「忘れられた人びと」だった。
 現地調査での人との出会いという意味でも、私はかなりラッキーでした。父島に渡ってまもなく、いくつかの偶然が重なって、拙著で最もたくさん登場するジェフレー・ゲレーさんという方に会います。ジェフレーさんは在来島民で、戸籍名は野沢幸男さんというんですが、もともとの戸籍名はジェフレー・ゲレーで、1941年に日本軍父島要塞司令部の命令で「創氏改名」させられて、戸籍名が野沢幸男となった方です。日本に帰化させられた外国出身者の子孫は、今は在来島民と呼ばれますが、日本の敗戦までは、かれらは「帰化人」として掌握されていました──「帰化人」はしばしば差別用語として使われたので慎重にならねばならないですが、歴史的状況を表すために今はあえてこのカテゴリーを使います──。日本当局に「帰化人」として掌握されていた人たちのなかで、1944年に小笠原諸島と硫黄諸島が全島強制疎開の対象となったときに、強制疎開のメンバーから外されて現地で日本軍に軍務動員された人が5人いました。ジェフレーさんは、20世紀末の時点で、そのなかで唯一の生き残りだったんです。残念なことにジェフレーさんは2009年12月に亡くなりましたが、1999年当時はお元気でした。それで、拙著にも書いたことですが、ジェフレーさんはほとんど初対面の私に、日本軍に動員されて、自分は顔が変わっているとみられて、空襲のときには上官の命令で自分だけ防空壕の外で体を柱に縛りつけられて、人間の盾のような扱いをされたんだと、そういうことを話されたんですね。アジア太平洋戦争前に日本当局によって「帰化人」として掌握されていた人たちが、当局から監視の標的となっていただけでなく、社会的にも差別の対象になっていたことは、事前の文献調査で一応知ってはいました。けれども、このときのジェフレーさんの語りは、差別という言葉でわかったような気になることさえ許さないような、ある種の迫力を持っていました。すくなくとも私には、そう感じられました。
 それで私も、小笠原のことを博士論文のテーマにするかどうかは、まだ迷っていたわけですけれども、ちゃんと研究としてやらないといけないなと考えまして、日本帝国のもとで「帰化人」として扱われてきた人たちが近代世界の中でどのように生きぬいてきたのかということをまじめに調べようと思って、インタヴュー調査だけでなく、一次資料に基づく歴史研究を本格的にやることにしました。
 東京都公文書館をはじめ、国立公文書館、外務省外交資料館、防衛庁防衛研究所戦史資料室(現・防衛省防衛研究所図書館史料閲覧室)、東京都立図書館、東京大学の綜合図書館や各部局の図書館、そういうところにこもって、手当たりしだいに関連資料の収集を始めました。資料収集もそれなりに金と手間がかかりました。先ほどから申し上げているように、当時私は京都にいたわけですが、ほとんど資料は東京にあるわけです。たまたま京大に所属していて、京大は戦前から文系学部があった帝大ですから、図書館にはベーシックな文献は所蔵されていましたけど、基本的に一次資料は東京にしかない。だから、小笠原現地に2、3週間滞在するんですが、その前後に東京で半月か1ヶ月ぐらい泊って、いろいろなところに通って、マイクロフィルムやフィッシュで一つ一つ資料を確認し必要なものをコピーするという作業を、毎日朝から夕方まで、合計数ヶ月間、やっていました。そうして2年ぐらい京都と東京──そして父島──を行ったり来たりしているうちに、小笠原諸島の近代社会史に関する資料的な全体像が、なんとなくつかめるようになりました。
 ところが、ちょうど私が博士論文を書き終える頃に(!)、国会図書館、国立公文書館、外交史料館、防衛省が持っている主な資料が全部オンラインで見られるようになりました。もちろん、マイナーなものは今でも原資料にあたらねばならないのですが、私がせっせと足を運んで閲覧請求したり、かなりの手間と金をかけてコピーを集めたりしたもののうち、日本側の公文書・行政文書の3割か4割はオンラインで見られるようになりましたから、かなりショックを受けました。


 〈帝国と思想〉研究会との出会い

 ところで、博士課程に進学したころまでは、先ほど申し上げたような複文研も含め、私は上の世代の研究者にかなり恵まれていました。それをいいことに、主体的に勉強しなかったという面も多分にあったと思います。耳学問である程度、学問的勘所がわかった気になっているところがあった。自分から本や論文をガツガツ読むという作業をあまり体系的にやっていなかった。いまだに後悔しているんですけれども、はっきり言って甘えだったんですね。
 しかし、しばらくして、自分の勉強不足というか基礎体力のなさに、すごく打ちひしがれるということがありました。ちょうど2000年になったころ、博士課程の半ばぐらいのときですが、〈帝国と思想〉研究会という若手研究者集団に出会いました。この研究会は、1960年代後半から70年代前半生まれの人たち、私と同世代かちょっと上ぐらいの世代の人たちが中心になっていました。関西側の中心メンバーが宇野田尚哉さんで、近年では在日朝鮮人の1950年代のサークル誌『ヂンダレ・カリオン』(不二出版、2008年)の復刻・編集作業などに携わっておられることで有名ですが、もともとは荻生徂徠など近世思想の研究者で、そのころは総力戦体制論に思想史的に介入するような作業に手をつけられていました。そして、先ほど言及した米谷匡史さんが関東側の中心メンバーで、毎年夏休みと春休みに1回ずつ、東京と関西で合宿形式でみっちり2日間、日本帝国にかかわる社会史や思想史についての研究発表や書評会・合評会をやるという研究会でした。しかも、近年流行っているような外部ファンドは一切とらずに、手弁当で。いまだにそうです。
 米谷さんや宇野田さんたちは、さきほど申し上げたような東京外大グループが提示した総力戦体制論の意義を受けとめつつ、そこに「帝国」の視点をきちんと入れていきながら、総力戦体制論が拓いた地平を内在的に批判・発展させるような方向を目指していました。要するに、山之内靖さん流の総力戦体制論のシステム論的な理解にとどまっていては、帝国本国だけの歴史観になってしまい、植民地の経験がやっぱり捨象されてしまうと。関西では当時、崎山政毅さんもそういう議論をされていました。総力戦体制にいたる社会史・思想史とその後の社会史・思想史を、いわゆる帝国総体の問題として把握しながら、動員と抵抗あるいは包摂と排除の絡まり合いを、理論的にも実証的にも考えていくことによってはじめて、〈帝国後〉の問題あるいはポストコロニアル状況をきちんと捉えることができるんだと。これは、宇野田さんや米谷さんにとどまらず、〈帝国と思想〉研究会メンバーの当初の共通了解だったように思います。
 この研究会の主要メンバーには、たとえば道場親信さんがいました。まだ『占領と平和──戦後という経験』(青土社、2005年)を書いて話題になる前の、道場さんがおられた。それから、沖縄近現代史研究の戸邉秀明さん。いまや歴研(歴史学研究会)の近現代史部門にとって欠かせない、日本の歴史学会の論客になられましたが、当時はまだ有名になる前でした。最近ソウル大学の先生になった趙寛子さんもおられましたが、むろんまだ最初の単著『植民地朝鮮/帝国日本の文化連環──ナショナリズムと反復する植民地主義』(有志舎、2007年)を出版される前でした。また、のちになって『中国社会主義国家と労働組合──中国型協商体制の形成過程』(御茶の水書房、2007年)や『K.A.ウィットフォーゲルの東洋的社会論』(社会評論社、2008年)などを出版される、明治大学の石井知章さんもおられました。それから、立命館に移られる前の崎山政毅さん、立命館のPD研究員の堀田義太郎さん、立命館の大学院出身の金友子さんといった人たちも、一時期は研究会メンバーでした。学振PDで先端研に籍を置いている有薗真代さんも、ここ数年は参加しています。いろいろな人が出入りしていました。
 この〈帝国と思想〉研究会の当初の成果は、今年刊行された『1930年代のアジア社会論──「東亜協同体」論を中心とする言説空間の諸相』(石井知章/米谷匡史/小林英夫 編、社会評論社、2010年)で、そのエッセンスを知ることができます。私はここには寄稿していないんですが、『図書新聞』2010年7月17日号に──内輪の批評で申しわけないんですが──書評を寄せていますので、読んでみてください。
 〈帝国と思想〉研究会は、始まってもう10年を超えるんですが、まだ続いています。私は、この研究会にずいぶん救われました。同世代やちょっと上の世代で絶対に実力的に太刀打ちできない人たちがメンバーにいて、こっちも少しはちゃんと勉強しないといけないという気にさせてもらったからです。私は本来怠け症の人間なので、〈帝国と思想〉研究会に参加させてもらったという他律的要因によって、とりあえず救われた気がしています。
 その後、大学院の籍を抜いて1年ほど大学や専門学校の非常勤講師をしていたら、運よく学振のPDに採用されたので、先ほどふれたように阪大の冨山一郎先生のところで受け入れていただき、当時同じ研究室の教員であられた川村邦光先生、杉原達先生、荻野美穂先生にも、いろいろとお世話になりました。そして、ちょっと体調を壊したりしたこともあって、単位取得退学後3年という年限ギリギリで課程博士論文を提出して、この博論の完成度がほんとうに惨憺たるものだったのですけど、主査の松田先生、そして副査の落合恵美子先生と杉本淑彦先生に、ほとんどお情けで通していただきました。
 博士号をいただくとほぼ同時に、千葉大学の助手の公募があって、これもほんとうにラッキーだったのですが、数十倍以上の倍率があって、しかも関東方面の若手を中心に私よりずっと優秀な方がいっぱい応募していたのに、私の全くひどい博論をたまたま選考委員の先生方が気に入ってくださって、なぜか採用されてしまいました。千葉大には結局3年半在職し、仕事はそれなりに忙しくはありましたが、その間に博士論文を加筆修正して『近代日本と小笠原諸島』を出版しました。博論のひどい完成度を反省して気を遣って書き直したのがよかったのか、幸いにも日本社会学会の奨励賞をいただくことができました。
 ちなみに、レジメに挙げている拙稿「戦争機械/女の交換/資本主義国家──ノマドとレヴィ=ストロース」(『KAWADE 道の手帖 レヴィ=ストロース──入門のために 神話の彼方へ』河出書房新社、2010年)は『近代日本と小笠原諸島』の理論的発展版というべき文章で、「市場・群島・国家──太平洋世界/ 小笠原諸島/帝国日本」(西川長夫/高橋秀寿 編『グローバリゼーションと植民地主義』人文書院、2009年)のほうは『近代日本と小笠原諸島』で書き切れなかった認識枠組みについてふれています。


 現在の問題意識

 最近では、硫黄諸島(火山列島)の歴史社会学的研究も、細々と始めています。硫黄諸島は、北硫黄島・硫黄島・南硫黄島からなる群島ですが、硫黄諸島の社会史についての私の基本的な考え方は、最初のほうでふれた「そこに社会があった──硫黄島の地上戦と〈島民〉たち」に書いてあります。まだ読んでくださっていない方も多いと思うので、少し説明させていただきます。
 1968年に小笠原諸島と硫黄諸島が日本に「施政権返還」になります。小笠原の在来島民は、すでに米軍占領下で父島に帰ることを許されていました。そして「返還」の後で、現在の行政用語で旧島民と呼ばれる人びと──アジア太平洋戦争で全島強制疎開になる1944年までに日本の内地から移住してきた人びととその子孫──が、それまで内地で難民化していたわけですが、ようやく故郷に戻ることを許されたわけです。
 ところが、狭い意味での小笠原諸島つまり父島・母島の旧島民が、島に帰ることを許されたいっぽうで、硫黄諸島の旧島民は、硫黄島に米軍に代わって自衛隊が駐留するなかで、島に帰ることを許されませんでした。驚くべきことに、敗戦後65年以上経った今でも、故郷に帰ることができないのです、硫黄諸島の住民とその子孫は!
 硫黄諸島は、小笠原よりはだいぶん後、19世紀末の世紀転換期になってから人が住み始めて、内地からの入植地として発達していました。けれども、アジア太平洋戦争の末期に、日本軍が父島や母島と同じく、ここを地上戦に使おうとするわけですね。それで、住民を強制疎開させたわけです。クリント・イーストウッドの『硫黄島からの手紙』には、一瞬だけ硫黄島の集落のシーンが出てきます。ところがイーストウッドは栗林中将に、「島民は内地に戻しましょう」と言わせてしまっている。イーストウッドは硫黄島に住民がいることを示す集落のシークエンスを出したところまではよかったけど、「戻しましょう」という台詞がマズかった。もう50年以上社会がある島なのですから、はっきり言って強制追放ですよね。それで、大部分の硫黄諸島民──北硫黄島を含みます──は、疎開という名において故郷を追放されるわけです。携行してよい荷物は風呂敷2つまで、畑や家屋は全部捨てさせられて。
 ただし、父島や母島と同じく、青年層・壮年層の男子は原則として現地徴用の対象となっています。そのうち何割かの人びとは地上戦に巻き込まれ、大多数は亡くなっています。だから、沖縄戦は「住民を巻き込んだ唯一の地上戦」だと言われていますが、かりにナショナルな枠組みをいったん受け入れるとしても──むろん日本軍のかかわった地上戦は中国大陸や太平洋各地の島々でありました──、「唯一の地上戦」は正しくない。
 そして硫黄諸島の住民は、小笠原諸島の旧島民と同様、敗戦後も米軍が占領した島に帰ることを許されず、難民化してしまうわけです。その状態が現在でも続いている。1968年の「施政権返還」から40年以上経過したわけですが、島民にとっては故郷が自国の軍に「占領」されている状態が続いています。
 では、私はディアスポラ状態にある硫黄諸島の旧島民の人たちにどのようにアクセスしたのかといいますと、硫黄島旧島民の中で「施政権返還」後に父島や母島に住み着いた人たちがいるんです。この人たちにインタヴューして、雪だるま式に人を紹介してもらっていって、内地に住んでいる旧島民の人たちにもアクセスして、お話を聴いてまわっているわけです。ただ、強制疎開前の硫黄諸島の記憶のある人は、いちばん若い世代でもう80代ですから、そろそろ亡くなっていっています。急いでいろいろな人に会って話を聴いておかないといけないなと思いつつ、他の原稿や仕事が忙しくてなかなか進められていないのが、最近の状況です。
 それから、ここ2、3年副業的にやっている仕事が、現代日本社会を歴史社会学的観点から考えるという作業です。こちらの仕事は「研究」というほどの水準はとてもなく、いくつかの他律的な事情のなかで始めました。
 先ほどふれたように、2007年に1冊目の単著を出版して、その年の末に、岩崎稔さんと本橋哲也さんから、『週刊読書人』でその1年の思想界を振り返ることを目的とした「年末回顧座談会」に出るよう、声をかけていただきました。私より前の数年は、道場さん、戸邉さん、そして先端研でも非常勤で教えられている大阪府立大の酒井隆史さんといった方がたが、順番にゲストで呼ばれていました。この座談会を仕切っておられたのが、当時『週刊読書人』の名物編集者だった武秀樹さんという方で、今は「読書人」を定年退職されてせりか書房に移られていますけれども、この武さんは、長年「読書人」にいて、1970年代以降の日本の左派論壇の変遷をずっと見てきて、支えてきた編集者です。レジメに書いている『21世紀を生き抜くためのブックガイド──新自由主義とナショナリズムに抗して』(岩崎 稔/本橋哲也 編、河出書房新社、2009年)という本は、武さんが企画を担当し岩崎さん・本橋さんとゲストが鼎談する「年末回顧座談会」の11年分を収録した単行本ですが、それぞれの年にどのような重要書が出版されたのかがわかる本になっています。
 その後、成田龍一さんからの推薦もあって、武さんが2009年の『読書人』の論壇時評の担当に私を指名してくださいました。しかし、私はそれまで現代社会論を公共の出版物に書いたことはほとんどなかったので、主観的にはかなり無理をして引き受けました。連載というのも初めてで、相当きつかったです。この論壇時評の連載を元にして出版したのが、冒頭で櫻井さんに紹介いただいた『殺すこと/殺されることへの感度』というブックレットです。
 ですので、櫻井さんの指定質問の後半の部分に先に答えてしまうことになりますが、1冊目の単著『近代日本と小笠原諸島』の段階で、2冊目の著書の構想はまったくありませんでした。そもそも、現代日本の歴史社会学的診断をテーマに何かまとまったものを書きたいと思っていたわけではまったくありません。成り行きです、全部(笑)。櫻井さんは指定質問のなかで、2冊目の拙著に1冊目の拙著との内容上の関係性が明示されていないと苦言を呈しておられますけれども(笑)、もしも1冊目の単著の内容を意識して連載の原稿を書いていたら、たぶんしんどすぎて現代日本社会論などはやりきれなかったと思います。
 ただ、先ほどお話ししたように、私は学部の卒業論文で、自分の無知をいいことに、戦後性の歴史社会学みたいなテーマを無謀にもやろうとしました。すぐに締めてしまいますけれども、この失敗の経験があって、その後1冊目の単著にいたるような、いわゆる古典的な歴史社会学の作業をいったん経由していなかったら、戦後性の問題が重要なテーマのひとつとなっている2冊目の現代社会論のようなものも、結局のところ書けなかったかもしれない。だから、無意識の構想みたいなものはあったのかもしれません(笑)。
 インターディシプリンな歴史叙述とは
 さて、どうしてこのような話をしてきたのかというと、私の1冊目の単著までの仕事は、今から振り返ってみると、1990年代のいわゆる「戦後50年」をめぐる日本の知的状況の延長線上にあるからです。私の20代から30代前半までの10年間の仕事は、「戦後50年」の知的状況が産み出した議論や、その議論を担った先輩研究者たちのおかげなんですね。そのなかで私、最大限努力したつもりではあります、知識や実力がないながらも。また、1990年代に浮上したポストコロニアル状況をめぐる議論が、広い意味でのマルクス主義を含む社会構造認識からしばしば遊離しがちだったなかで──こうした状況を反映して当時の「論壇」では「軽スタ」「ポスコロ」といった無意味な侮蔑語が飛び交っていました──、マルクス主義的思潮の比較的良質な部分の蓄積があった関西で学生時代を過ごしたことも、私にとってはラッキーでした。自分がどれだけ恵まれた知的空間に身を置いていたのかに対して無自覚だった私でも、どのあたりの議論を伸ばしていくことが有意味かについては少し考えていたところがあって、10~20歳ほど上の世代の先輩たちが蓄積した議論を利用して、行けるところまで行ってみようとはしていました。ですから、かれらが蓄積した議論の枠内ではできるだけのことをやったという自負はあるんですが、同時に、やはりかれらの手の平からあまり外に出ることはできていなかったという感触があります。
 ただ、いわゆる「ゼロ年代」に入り、日本社会でも新自由主義的な「構造改革」が進み、これに連動して新保守主義的イデオロギーが台頭してくるなかで、1990年代の知的蓄積の延長にある議論が、たいへんな消耗戦を強いられるわけです。みなさんご承知のように、「つくる会」にはじまり、ネット右翼的イデオロギーの大衆化、「嫌中」「嫌韓」言説の台頭、極右政治家の政権ジャック、そして「在特会」などネオレイシストの登場にいたるまで、すさまじいバックラッシュがあったわけですよね。とくに、ジェンダー・バックラッシュと、帝国認識やポストコロニアル状況に対するバックラッシュが激しかった。運動体の中でこのバックラッシュに対峙していた方がたは、ほんとうにものすごく大変だったと思いますけれども、私のような単なる物書きの人間も、ある程度きつかったことはきつかったですね。ほんらい有意義な議論を交わして歴史認識や社会認識の発展を担うべき多くの人たちが、バックラッシュへの対応に追われていて、あまり議論が前に進まず、端的に言ってアカデミックな意味で「使える」議論が減っていくわけです。
 ただ私は、その頃ちょうど博士論文を書いていて、さらに就職が決まって働きながら本にまとめる作業をしていましたから、「ゼロ年代」の消耗戦の厳しい前線には、ほとんど出ていません。運動的状況についてはむろんのこと、知的状況についても、その前線を引き受けてこなかったという一種の後ろめたさは、今でもあります。
 また、「ゼロ年代」後半になると、猛烈なバックラッシュは依然として続くいっぽうで、かなり一国主義的でナショナルな「格差社会」論や「貧困」論、そして東京中心主義・大都市中心主義的な「再分配」論や「ベーシックインカム」論が、アカデミック・ジャーナリズムを席捲していきます。私がそうした議論の意義を軽視しているわけではないことは、『殺すこと/殺されることへの感度』を読んでいただいた方にはおわかりかと思いますし、そうした議論を引っ張った論客たちには、個人的な友人知人も少なからずいます。しかし、「ゼロ年代」の左右の「論壇」状況が、90年代までに蓄積された議論の良質の部分を「なかったこと」にしていくような感じを受け続けておりました。
 ですから、今日の講演の後半部分は、私のきわめて貧しい知的経験に基づいてお話させていただいたわけですが、みなさんと同じ京都で10年ちょっと前に学生・院生時代をすごした私的状況を開陳するだけでも、90年代の「インターディシプリン」な知的雰囲気の一端にふれていただくことはできるのではないかと考えてのことです。そうした知的雰囲気の良質の部分は、やはり有効に活用され発展させられていくべきではないかと思っているからです。やはり学術などといういとなみは、大学や研究科という枠やディシプリンという枠を越えた、「つきあい」や無節操さ、異なった系列の議論からの「密輸」が産み出す、「インターディシプリン」な知的状況や知的雰囲気に、そのダイナミズムの源泉があるわけで、とりわけ歴史社会学というような曖昧でハレンチな境界領域の分野は、そこにしか賭けるところはないと思っています。ただしこれは、けっしてディシプリンを軽視するということではありません。
 私の話はここでいったん終わらせていただきます。
司会:ありがとうございます。それでは、一旦休憩を挟んで、指定質問へのコメントです。
(休憩)


2. 質疑と応答

 〈えたいのしれない移動民〉の現在をどうとらえるか?

松田:先端研3回生の松田と申します。学部時代は立命館の文学部で崎山政毅先生のゼミに所属していました。今は先端研の渡辺公三先生のところに所属しております。私の研究について簡単にお話ししますと、京都の花街(芸妓さんたちの街です)、特に祇園甲部というところを中心に、文字資料を用いた京都市の中での歴史的な花街の位置づけの調査と、フィールドワークやインタヴューによる現在の花街の調査という、2つの軸から分析しようとしています。こういう自分の研究の関心を踏まえて、石原先生の『近代日本と小笠原諸島──移動民の島々と帝国』について、質問をさせていただきます。具体的には、かつて「帰化人」と呼ばれた在来島民の人々の、現在の状況についてお聞きしたいと思います。質問のタイトルは、「〈えたいのしれない移動民〉の現在をどうとらえるか」です。〈えたいのしれない移動民〉というのは、『近代日本と小笠原諸島』で用いられている言葉で、本文中ではかつて「帰化人」と呼ばれた「在来島民」の人々が、小笠原諸島と、その周りの海をめぐりながら築いていた生のあり方を指す言葉だとされています。今回の指定質問では、〈えたいのしれない移動民〉についてお聞きしたかったことが2点あります。
 レジュメの1部は、先生の昨年度出された共著論文(石原俊・小坂亘・森本賀代・石垣篤、2009年「小笠原諸島のエコツーリズムをめぐる地域社会の試行錯誤──「南島ルール」問題を中心に」『小笠原研究年報』33: 7-25)のレビューを簡単にしております。現在の小笠原諸島はエコツーリズムの最前線であり、小笠原諸島を紹介するホームページを見る限り、たくさんのエコツーリズムのプランが組まれていますが、一方で、かなりアクセスのしづらい状況が継続しています。
 1つ目の質問は、現在の小笠原諸島におけるエコツーリズムの文脈の中で、かつての「帰化人」であるところの「在来島民」あるいは「旧島民」というようなカテゴリーがどのように機能しているのか、という点です。
 2つ目の質問は、石原先生ご自身は、エコツーリズムに登場する「在来島民」たちの自己表象をどうとらえておられるのかという点をお聞きしたいというものです。現在、小笠原村観光協会のホームページ(http://www.ogasawaramura.com/〔2010年12月3日最終更新〕)では、「東京の亜熱帯」という小笠原諸島の自己表象が積極的に打ち出されています。例えば、観光協会が企画するツアーは、「ハロー、Bonin Tour」と英語で銘打たれ、アメリカ統治時代の記憶が引き出されています。また、小笠原の郷土料理というコンテンツでは、亀料理というのが出てくるんですね。この亀というのはウミガメでして、かつて「帰化人」たちの生計手段であったウミガメ漁に由来するものだと考えられます。このように、現在の小笠原諸島は、内地とは異なる慣習や自然を、魅力的な観光資源として、日本人に対して商品として提供しているように見えます。在来島民の多くが、他の生計手段を奪われてエコツーリズムのみに生きる術を見出しているのならば、彼らが生き延びるための戦いにおいて、「在来島民の自己表象」はどのように機能しているのでしょうか。そして、石原先生から見て、観光業以外に別の生き延び方の可能性が確認できるのならば、それはどのような方向に見出せるのでしょうか。以上です。
石原:ありがとうございます。
 まず、この文章を見つけられてしまったこと自体が私はショックで、これは学生を引率して出かけた社会調査実習の報告書が元になっているエッセイなんです。去年、勤務先の社会調査実習の授業で、小笠原諸島における観光開発と環境問題をテーマとして、父島に学生を引率したときのもので、あとの3人の著者は全員、当時学部3年生です。
 ご質問にお答えしていきますと、在来島民の生計にとって観光業が占める重みですが、大きいと言わざるを得ないと思います。ただし、いわゆる新島民と呼ばれる1968年の「施政権返還」後に小笠原に移住した人びとや、いわゆる旧島民ほどには、ウエイトが高くないと思います。
 小笠原の就労構造というのは、ある意味で沖縄以上に偏っていて、主な労働市場が公務員か公共事業関連、観光業の3つぐらいしかありません。そして、公共事業はだんだん減ってきていて、結果的に観光業のウエイトが高まってきているというのが現状です。
松田:漁業はないんですか。
石原:漁業は、あるにはありますけれども、いま挙げた3業種に比べれば少ない。たぶん4番目ぐらいになると思いますが。それでも、拙著にも書いたことですが、強制疎開前は漁業も農業も非常に盛んでした。首都圏向けの蔬菜の促成栽培をやって、南洋航路の船で運んで、大儲けした農民も少なくなかった。しかし、全島強制疎開と空襲による破壊、そして敗戦後の米軍による占領と秘密基地化で、産業の基盤が壊されてしまったことが、「施政権返還」後も尾を引いていて、とりわけ父島では、農漁業の盛んだった頃の面影はまったくないですね。
 それで、エコツーリズムにおける在来島民というカテゴリーの問題ですが、これは松田さんに取り上げていただいたエッセイにも書いたことですが、従来の小笠原のエコツーの中で歴史・文化・社会に関する部分は非常に手薄です。とりわけ、これまで某知事のトップダウンでエコツーを推進してきた都の側は、自然環境保護と観光開発の両立という側面は重視するのですが、そのほかの面についてはあまり想像力が及んでいない。象徴的なのは、都のエコツーのガイド講習プログラムには、小笠原の歴史・文化・社会のカリキュラムがないことです。私がこのエッセイを書いたのは、そうした状況に対する苦言でもあります。
 ただ、小笠原村のほうは、そうした都のエコツーと連動しながらも、近年かなり独自の動きをとり始めています。村のほうでも、ちょうど今年から、都が実施しているガイド講習を補完するような講習プログラムを始めています。そこには、ちゃんと「小笠原の歴史・文化」のカリキュラムも含まれることになっています。実は私、その「歴史・文化」分野の講師に指名されています。小笠原村はエコツアーガイドのために「歴史・文化」についてのハンドブックも編んでいるのですが、これがよくできたパンフレットで、小笠原の在来島民や旧島民の祖先たちのコミュニティについてもかなり公平にページが割かれ、国家主義的でない形で精度の高い解説が行われています。
 エコツーというのは世界的にみれば、単に観光開発と環境保全を両立させるだけではなく、地域の歴史的・社会的・文化的な状況に根ざして観光開発と環境保全の有機的な結びつきを構築するという基本理念をもっているわけですよね。エコツーの思想のなかには、観光客に地域の歴史・社会・文化について学習と尊重を促すという、一種の教育的・学習的な効果の追求が含まれている。小笠原の場合、扱われるべき歴史・社会・文化に関する教育・学習の焦点のひとつに、在来島民や旧島民の歴史的経験があるわけです。
 小笠原に行く観光客はみんな、とにかく「自然」が目当てです。動物でも植物でも、いろいろ珍しい固有種がありますから、みんなそれを見に行くわけです。あるいはマリンスポーツ、つまりホエールウォッチングやドルフィンスイミングが目的です。しかしかれら「日本人」観光客は、この島々の歴史、ほかならぬ戦前日?本国家が地上戦を計画して島民の大多数を故郷から追放し、島民の一部は戦争に動員し、戦後日本国家が独立・復興と引?き換えに米軍に貸し出し、島民の多くが難民化させられた、この島々の歴史的経験について、知る機会はほとんどない。観光客には10分でいいから、そういうことを学習してほしい。在来島民が「珍しい」といった消費の仕方をするのは最悪で、今あなたがたの眼の前にいる在来島民や旧島民とその祖先たちが、日本国家との関係のなかで翻弄され続けてきた人たちなんだということを、観光客がきちんと受けとめるべきで、私はもうそのためだけにガイド講習の講師を引き受けているようなもんです。たしかに、一部のガイドさんやツアー業者は、そういうことに対してすごく熱心です。しかしながら、在来島民や旧島民の近代経験が小笠原におけるエコツーの思想や実践に組み込まれていくような状況は、まだまだこれからだと言わざるをえません。
 次に、エコツーにおける在来島民の自己表象についてのご質問にお答えしますと、先ほど言ったことともかかわりますが、例えばラテンアメリカや太平洋の島嶼地域など、世界資本主義のもとで激烈な開発と収奪の対象になってきた地域では、それこそエコツーの思想というのは、単なる「エコ」を越えて、地域そのものが自立していくことに向けた有力な選択肢のひとつであるわけですよね。そうした地域の自立にとってエコツーの理念が重要なのはまず、よく言われることですが、観光客への歴史・文化教育を通じた観光オリエンタリズムからの脱却にあります。植民地体制以降、近代以降に「発明された」先住民の「伝統」イメージや、ロマン化された「原初」や「自然」イメージからの脱却が目指される。そういった地域の文化的自立を追求する側面のほかに、いやそれ以上に、周辺化された地域にとってエコツーの理念が重要なのは、エコツーが物質的な意味での地域の自立やリソースの自主管理につながっていく面です。かれらは資本主義システムや主権国家システムといった近代的なシステムによって、さんざんやられてきたわけですよね。だから、かつて勝手に国有地化されたり私有地化されたりした土地や、収奪的開発を加えられてきた天然資源や自然環境は、せめて今からでもいいから、われわれ先住民に自主管理させろということで、文化的自立を超えて、土地や天然資源や自然環境の自主管理とそれらを保障する政治的自決権を求めていく──世界各地の先住民運動にとって、エコツーはそういう運動の一環とみなされているわけです。
 エコツーの思想の最も革新的な部分はそのあたりにあるわけです。私は現在のアイヌをめぐる状況を詳しくは知りませんが、アイヌ先住民運動のある部分は、奪われてきた生産手段を自主管理させよ、奪われた土地や資源に対するアクセスをきっちり回復せよ、そのための政治的自決権を保障せよと、はっきり言ってきたわけですよね。例えば知床アイヌの一部のツアーガイドの人たちは、そういう運動の一環としてのエコツーを実践していると聞いています。
 そういった地域と比べるなら、松田さんが言及してくださった小笠原観光協会のホームページなんかは、在来島民や旧島民の歴史・文化を観光オリエンタリズムの対象として売り出している側面があることは否めない。小笠原諸島におけるエコツーの実践の中で、観光オリエンタリズムや「南洋」オリエンタリズムに対抗するような積極的アクションは、残念ながら組織的にはほとんど行われていないのが現状です。
 ただ、松田さんに取り上げていただいた拙文で、在来島民の南スタンリーさんという、マリンツアーで生計を立てている人の語りが登場します。この方の語りを、私はあえて引用しました。最近の小笠原では、世界自然遺産登録なども睨んで、エコツーを観光資源化のためだけの自然環境保護や「固有種」保護に切り縮めて解釈する傾向が出てきています。そういう「自然」「原初」のロマン化や観光オリエンタリズムのようなものに対する抵抗や違和感を、南スタンリーさんははっきりと表明しておられます。そういう声を書きとめておきたかったので、調査実習の授業の報告書にすぎないものをリライトして、学術誌に載せたのです。しかし、そのような在来島民や旧島民の自己表象は、小笠原のエコツーの流れの中では、今は断片として散乱しているような状況です。こうした生活史や歴史的経験に根ざした在来島民や旧島民の発話をかなり意識的に拾いあげていかないと、小笠原のエコツーの将来はきびしいのではないか、かなりペシミスティックなお答えになってしまいますが、そう思います。
松田:ありがとうございます。


 〈抵抗〉の歴史社会学の可能性

櫻井:次に、私の質問へのレスポンスについては一部もうお答えいただいた部分もあり、また角崎さんの質問と少しかぶるところもあるかと思いますので、簡単に紹介したいと思います。まず、私自身の研究のことから言いますと、死刑執行人の歴史社会学研究というのをしておりまして、今度、『死刑執行人の日本史』という本を出すことになりました。
石原:おめでとうございます。
櫻井:ありがとうございます。そういったことを書いているんですが、もともと、立岩先生には、あまり知られていないことをどんどん書いていけみたいなことを言われて書いたというところもあって、ちょっと、いま行き詰まっているというか、やはり基礎力の足りなさみたいなところに、すごくいろいろと思うところがあります。歴史社会学研究会を通して、歴史社会学の勉強をしてきたつもりではあるのですが。
 そこで、石原先生の本を拝読しての私の質問というのは、基本的に「歴史で社会学する」(『社会学入門』弘文堂)で最後のほうに石原先生が書かれていた、歴史社会学とはどういうものかというところからの質問になります。先ほど拝見したところ、歴史社会学についての石原先生のお考えについては、初稿とそれほど変わっていなかったように思うのですが、それでよろしいでしょうか。
石原:変わってないです。
櫻井:石原先生は、「歴史社会学の方法とは、『現在』の高みに立って──超越的な構えで──、社会(科)学的な一般理論構築にとっての有用性などの観点から、『過去』を取捨選択して利用することではない」と述べておられます。ここには、たとえば最初に理論的な検討をしたのち、その理論を用いて「過去」の史料を切り分けていくような歴史社会学や、あらかじめある仮説を立て、それを検証するために「過去」を使用する歴史社会学への批判があると思われます。つまり、スコッチポルが一般理論あてはめ型と分類する歴史社会学の論文があるんですけれども、そういったものへの批判として私は読みました。
 それで、その次に「あたかもパラレル・ワールドを空想するかのように、〈ありえたかもしれない別の歴史〉を描くことでもない」と述べておられます。これは、もしもあのときこうしていたら未来はよりよいものとなっていただろう、と現在の高みから過去を断罪するのみに終わるような歴史社会学への批判であると私は読みました。それは妥当であるというふうに私も思うんですが、たとえば、〈こうであってもおかしくないのに現在はそうなっていない、これはなぜなのか〉といったように、現在を相対化するためにあり得たかもしれない別の歴史を用いる方法についてはいかがお考えでしょうか。私の死刑執行人の話もそうなんですけれど、イギリスなんかでは専門的な死刑執行人が出てきて歴史が進んでいったんですけれども、日本ではそうなりませんでした。それでイギリスの事例を持ってきてこんなふうにもなったかもしれないのに、なぜか日本では刑務官の職務の一部に死刑執行が組み込まれてしまっているといったようなことを書いたこともありまして、こういったことについて石原先生がどうお考えなのかなということを、まずお聞きしたいなというふうに思います。
 1つずつお答えしていただくということでよろしいでしょうか。
石原:私が『社会学入門』で批判している、パラレル・ワールドを構想することとか、あり得たかもしれない別の歴史を想像することと、櫻井さんが言われているような、現在を相対化するために〈こうあってもおかしくないのに現在こうなっていないのはなぜか〉と問うことは、重なる部分とずれている部分があるような気がするんですね。
 私が批判したかったことは、実体化された希望やユートピア、あるいはディストピアでもいいのですが、そうした別の歴史的実体を、研究者が「現在」という超越的な位置に立って「過去」として一方的に再構成するというようなやり方です。
 そういうスタンスは、必然的に二元論になりますよね。まず実証的に構成された抑圧の物語があって、それに対して解放や救済の物語が二元論的に対置されるというように。書いている本人はそう思わないかもしれないけれども、実態は2つの物語が同時に想像され構築されているわけです。また、こうした二元論は必然的に、社会理論と歴史叙述の間にはらまれる緊張関係をオミットしていく態度にもつながります。
 これに対して、櫻井さんがおっしゃることは、研究者が自分の歴史的なポジショナリティというか、現在と過去の関係性に、かなり意識的な場合の営みのことなんじゃないかと思います。つまり、「現在」の高みに立って「過去」の物語を復元して、ディストピアとかユートピアを想像するのではなくて、先ほど私が申し上げたような、歴史的な磁場に分け入って、ある社会的な力がなぜ排除され忘却されてきたのかという、力関係そのものに向かっていく方法に、むしろ重なるのではないでしょうか。
櫻井:研究の手がかりとして、こういったあり得たかもしれない別の歴史について考えるのもありだと。
石原:いや、あり得るんじゃないですか。というか、なかったらたぶん、研究できないですよね。
櫻井:わかりました。
石原:お答えになっているかどうかわからないですけれども。
櫻井:では次に、次のところはおそらく角崎さんとかぶるかもしれないのですが。
石原:では、まとめてお答えします。
櫻井:まとめてお願いします。
 私が読んだ限りでは、〈抵抗〉という言葉を石原先生がよく使っておられた印象がありまして、『社会学入門』の中でもやはり〈抵抗〉を使っておられたので、それが、やはり石原先生の中でキーワードになるんじゃないかなというふうに思いました。そこから、小笠原の話と『殺すこと/殺されることへの感度』の話は、この〈抵抗〉を軸につながっているんではないかというふうに読みました。
 先ほど、実際はそれはつながっていないと、その時々に応じたものだったということだったんですけれども、やはり根底に〈抵抗〉があったのではないか、とまだ思っているところが私にはあります。石原先生は今回の研究会を開催するに当たっての事前打ち合わせのメールで、我流の歴史社会学を歩んできたとおっしゃっておられて、なぜ、我流でなければならなかったのかというのが最初の僕の疑問としてありました。やはり、そこには何か今までの歴史社会学とはちょっと違った新しいものをつくろうとする欲望といいますか、そういったものがあって、それであえて我流の道を選ばれたのかなというふうに思ったのです。それで、石原先生の歴史社会学の核にあるのが〈抵抗〉かなと思い、この点についてお尋ねしたいというのが私の質問の主旨になります。では、角崎さんの質問につなげていきたいと思います。


 歴史(学)から社会理論を抽出することについて

角崎:角崎といいます。「お金を貸す」という〈貸付〉と、「お金をあげる」という生活保護などの〈給付〉を比較するという観点から分配的正義について考えています。そうした観点から、お金を貸すということの福祉政策というか、マイクロファイナンスとか、日本でいえば生活福祉資金貸付とかの政策史、政策思想史を、私自身の歴史の対象としています。
 私の関心は、先ほど先生もちょっとおっしゃっておられたところですけれども、歴史記述と社会理論の緊張関係というか、歴史記述を、社会理論、社会科学の観点から、どういうふうに考えていって、利用していくのかというところにあります。先ほど先生おっしゃっておられた歴史社会学というのは、忘却されていったものの磁場を追跡し、それがいかに忘却されていったのかを暴露していく、明らかにしていく、というものだったと理解しています。そこで私は、忘却されてきた磁場を追跡する、暴露したというところと、そこから社会についての考え方、社会理論、ひいては社会政策といったものに、どう接続をさせていくのか、ということを質問したいと思います。
 先生が著書の中で提示されている社会理論というのは、〈中心-周縁〉ではとらえきれない、〈脱周縁〉という〈生〉の動きがあるぞ、という問題提起であったかなと思うのですが、歴史記述を踏まえて〈脱周縁〉ということを提起されたことで、具体的に社会の何が見えてきたのかというところをもう少しご説明いただきたいです。先生の著書における記述によって、〈脱周縁〉という、ある人が一定程度「何とかやってきた」という動きがわかって、それについてはよく理解できました。しかし、そのことが社会に対する見方、社会理論に対して、たとえば〈中心─周縁〉という社会理論に対して、どういうインパクトを与えるのか、がよくわからなかったのです。
石原:ありがとうございます。
 まず角崎さんにお答えしますと、おっしゃるように、もの書きがいくら歴史叙述に精を出しても、今の〈中心─周縁〉関係が劇的に変わるということはほとんどないわけです。ただ、既存の〈中心─周縁〉観というか意識の次元での変革ならば、いくらかは可能だと思っています。
 近代世界のなかで人びとが〈脱周縁化〉していく力というのは、角崎さんが指摘されているような〈中心─周縁〉関係のなかで「なんとかやっていく」ようないとなみと、けっして無関係ではありませんが、他方で〈中心─周縁〉関係の枠内で「なんとかやっていく」いとなみさえをも越えた、ひとつの抵抗の形式になっていると思います。拙著でも書いたことですが、近代資本主義国家はざっくり言えば、商品市場・資本市場・労働市場や過剰人口の移出先を求めて勢力圏を拡大しながら、新たに勢力圏に組み込んだ領域をシステムの「中心」から階層化された秩序のもとに繋ぎとめようとする、いわば「周縁化」と「中心化」がセットになった運動体であるわけですね。〈脱周縁化〉とは、近代資本主義国家の「周縁化」と「中心化」のセットから退出したり、それとわたりあったりするような、社会的・経済的実践のあり方です。拙著の第7章「主権的な法と越境する生──「帰化人」をめぐる自律的な交通」で描いたような、日本国家に帰化させられた小笠原諸島の先住者たちが〈群島と海〉を拠点になおも展開し続けた自律的かつ越境的な実践は、そうした〈脱周縁化〉の一例だといえます。
角崎:先生ご自身は、著書の最後のほうで、自己表象という観点からもう一回、法の脱周縁化というのをとらえ直すというか、使い直そうとされているようにお見受けします。そこから今後、どういうふうに理論展開をたくらんでおられるのかな、というのをお聞きしたかったのです。先生は脱周縁化という概念から、近代社会のいかなる面を描きだそうとされたのか、そして今後どのように提示・展開されようとしているのか。
石原:角崎さんが注目してくださった〈脱周縁化〉という論点は、櫻井さんが指摘いただいている〈抵抗〉という論点と重なるように思います。
 しかしながら、〈抵抗〉の歴史社会学というのはたいへん難しいわけです。歴史社会学はさしあたり、広い意味での制度の系譜学という形をとるしかないと、私は思っています。ここでいう制度は、一般的なイメージとはちょっとずれると思いますが、社会的な力関係のなかで形作られ変容していくような、動的なものと考えていただきたい。そうした力関係のなかで、統治・鎮圧・排除・服従・動員・抵抗・運動といった、さまざまなベクトルが絡み合っているわけですね。けれども、そういう意味での制度の形成プロセスにおいては、たとえば統治や鎮圧や排除と抵抗や運動とを比べれば、たいていの場合、圧倒的に前者が強いわけですよね。このような圧倒的に非対称な関係の結果として、制度は形作られ、更新されていくわけです。歴史社会学は、そういう制度の系譜学にほかならない。そして、この制度を事後的な観点から俯瞰したときには、どうしても鎮圧や排除の物語が前面に出てしまう。
 ただ、同時に歴史社会学は、パフォーマティヴ(遂行的)な意味では、先にお話ししたような、過去の人びとの経験をめぐる力関係の磁場に分け入って、希望の断片を拾い集めるような、そういう叙述の可能性にも開かれていると思います。その希望の断片を拾い集める作業のために、〈抵抗〉の形式を考えることは、たしかに重要な作業だと思います。
 櫻井さんに指摘いただいた〈抵抗〉については、『社会学入門』の拙稿では、とりあえず入稿のデッドラインまで時間がなかったので(笑)、苦しまぎれに〈抵抗〉という言葉を使っちゃったようなところがありますけど、『近代日本と小笠原諸島』の段階では、ほとんど〈抵抗〉という言葉は使っていないんです。〈脱周縁化〉は近代システムに対する抵抗の有力な形式のひとつだと言いましたけど、20世紀に入って世界中が主権国家の網目に絡めとられグローバル市場に巻き込まれていくなかで、そういう〈脱周縁化〉の実践領域もどんどん切り縮められていきます。もちろん〈脱周縁化〉のような実践は、現代でもいろいろな場面で〈抵抗〉の有力な一形式として存在しているわけですが、すくなくとも私が叙述したような北東アジアの〈群島と海〉の文脈では切り縮められていくわけです。だから『近代日本と小笠原諸島』の段階では、19世紀的な〈脱周縁化〉の実践を現在の高みから〈抵抗〉と呼んでしまうことには、やや躊躇があったように思います。
 そこで、次に問題となってくる〈抵抗〉の形式が、角崎さんが言及されている、征服されたり鎮圧されたりしてきた人びとの自己表象のあり方──わたしは表象(representation)という言葉はあまり使いたくないのですが──と、それをめぐる経験の磁場ということになると思います。
 拙著では第1章(「移動民の占領経験──「カナカ系の人、ケテさん」のライフヒストリーから」)で、小笠原諸島の先住者の子孫である「ケテさん」「実さん」「ジェフレーさん」といった人びとが登場します。かれらは、自分たちが「帰化人」として日本国家や他の日本国民から厳しい管理・監視・差別を受けたことを語るとき、いっけん正反対にみえる2つのベクトルで想起/予期をしている。ひとつは、これからやってくるかもしれない総力戦のなかで──実際それはやってくるわけですが──、外国軍の仲間とみなされた自分が家族を殺す側に加担し、逆に「帰化人」=「スパイ」とみなされた自分が家族に見殺しにされるような状況、そういう暴力を予期するわけです。他方でかれらは、自分たちや祖先たちが日本国家によって征服の対象となる手前の状況、自分たちの実践や暴力が国家によってコントロールされない状況を想起し、「おれたちの祖先は海賊だ」などと自称している。ひとりの人間がクリティカルな状況において想起/予期するいとなみそのものに、征服され鎮圧されてきた人びとの生をめぐる力の磁場が凝縮している。その力の磁場を起点にして、〈抵抗〉のひとつの形式を捉えられないかと考えたわけです。
 『社会学入門』の拙稿で〈抵抗〉という言葉を使ったのは、そういう文脈においてです。ただ、こういった作業を法の〈脱周縁化〉論あるいは〈抵抗〉論として練り上げることは、できていないという自覚があります。
角崎:そういった、何とかやってきたみたいな話について、磁場を明らかにしていって、問題を指摘するということについてはすごく重要なことだと思っていて、それについて批判しようという意図はないです。むしろ先生のやっておられることがすごく理想の高い構成に思えるので、できないという意味じゃなくて、どういうふうに今後、展開されていかれるのかなという構想がおありかなと思って聞きたかたところでした。
 歴史社会学って先ほど先生もおっしゃっておられたけれども、「何々問題の歴史社会学」っていうのが意外と多いような気がしていて。それは、どういうふうな「問題」がこういう経緯であって、というのを順番に問うていくことで、社会学的にも、政治学的にも消化されてきたものをもう一回問い直すという作業をしている。これは非常にやりやすくて、非常にわかりやすい作業だなというふうに思っていて、先生は明らかにそれと違う作業でさらに難しいことをされておられると思ったので。
石原:でも、あまりうまくいかなかったわけですけれども。
角崎:そういった方向で理論化をしていくというのは魅力的に感じるけれども、ではどういう方法で分析したらよいか、というのは、やっぱりなかなかいろんな文献読んでも、よくわからない。歴史をそのまま、生のものを使用して、社会理論的なものを抽出するのは非常に難しい作業だなというふうにすごく思う。それで、私自身としては、最近は社会事象をそのまま研究対象として扱うのではなくて、その制度や政策がどういうふうに考えられていたのかというところから、制度史を思想・思想史のレベルに少し落とし込んで分析できないかと考えたりしています。「何々問題の歴史社会学」に近い方法です。先生のやっておられるのは、そうじゃなくて、もっと地域に根差したところからの理論化というところなので、そうした困難な作業をどのように組み立てようとしているのか。そういった関心で質問しました。
石原:ありがとうございます。生の社会事象と社会理論との緊張関係を常に意識しながら書くという作業ができれば、理想的かもしれません。ただし、こうした作業が成功しているかどうかは、決まりきった方法があるわけではないので、パフォーマティヴにしか評価できない。やっぱり「素人」なんですよね、私は基本的に。だから、私がもし何かできるとしたら、「素人」であることを活かすことなのかもしれないですね。
司会:それでは、最後の指定質問に。


 インターディシプリンな記述において「事実」を論じることについて

近藤:先端研の近藤といいます。僕はパナマの先住民の調査、物語の聞き取りなどから、彼らが動物や植物についてどのように考えているのか、というのをテーマに研究を進めています。その前段階として、僕はレヴィ=ストロースの人類学の再検討を修士にあたる段階までやっていました。なので、ポストモダン人類学の議論とは違うものに多く触れてきてきた、といった背景のようなものがあります。
 石原さんは、『近代日本と小笠原諸島──移動民の島々と帝国』を歴史社会学の書物でもあり、民族誌でもある、という位置づけをしています。特に、インタヴューなどを通じて小笠原の人々の語りといった、細部の事実を取り上げ、議論をするという点に民族誌や人類学に対する親近性があるような印象を受けました。僕は人類学に基づいて研究を進めているので、民族誌でもあるという位置づけを手がかりに質問します。結局、あまり質問にはなっていないかと思いますが。「はじめに」で石原さんは、レナート・ロサルドの『文化と真実』(椎名美智訳、1998年、日本エディタースクール出版部)における民族誌の議論を参照されています。その議論を通じて、観察されるものに対する観察するものの立場が持つ問題、そのあいだの非対称性、「政治的」・形式的な力関係に目を向けています。『文化と真実』の序章では、政治的あるいは非対称性という形式的な力関係とはやや異なる視点から観察されるものと観察するものの関係も記されています。首狩りに関するイロンゴットの語りを、レナート・ロサルドがどのように理解するにいたったのかが、非常に印象深く書かれています。よく知られているようにロサルドは妻の死を通じた感情の経験を通してイロンゴット語りを理解した、と記述していました。そして、イロンゴットを首狩りへと突き動かすものを説明するためには、「死者の霊」や「自分の声明を挙げる」といった社会学・人類学の理論枠組みを持ち出すことよりも、近親者の死がもたらす感情の経験と関連付ける記述のほうが、「説得力がある」としていました。
 異なるひとびとの語りやさまざまな観察可能な事実を、どのように理解し、記述するのか、という問題はロサルドに限らず、民族誌にとって根本的な問いでありつづけている、という実感があります。ただ、ロサルドの議論にあるような経験主義的な他者理解だけが唯一の方法ではなかったとは思います。それとは趣の異なる技法については、例えば「フランス人類学の父」とも呼ばれるマルセル・モースが語っていたこともまたよく知られています(渡辺公三、2009年「マルセル・モースの人類学──再び見出された父」、『西欧の眼』、言叢社)。モースの場合では、観察者の思考のカテゴリーと、観察されるもの思考のカテゴリーの関係から異なるひとびとを 理解し記述する方法について講義で語っていたとされます。感情の経験と思考のカテゴリーという違いはありますが、いずれにしても観察可能であり、アカデミックな議論にあらかじめ位置を占めているわけではないさまざまな事実をどのように理解し、記述するのかということは書く─書かれるという二者のあいだに政治的な関係とは別のやり方で、常についてまわる問題だと思います。 
 観察者と被観察者の関係について、「事実を理解する」という観点からは、石原さんはどのようなお考えをお持ちですか。また、狭義の意味での民族誌にはとどまらない研究を構成するにあたって、細部の事実を議論することにどのような可能性を見ていたのか、お聞かせいただけますでしょうか。
石原:うまく質問できるかわからないとおっしゃったけれども、近藤さんの質問はいちばん私の懐に入ってきておられて、私はもう降参してしまいたいんですが。
 まずお断りしておきたいのは、『近代日本と小笠原諸島──移動民の島々と帝国』は、社会学の社会調査論、人類学の民族誌論、歴史学の史料論、どれも正面から論述の対象にしていません。たとえば社会学では、いわゆる質的調査屋さんたちがいて、拙著を読むと、かれらがしてきた議論の土俵に私が乗っからないことが不満であるはずだし、じっさいある人から面と向かってそのことを論難された経験もあります。そのため、『社会学評論』は私が「社会学者」ということもあって拙著を書評などでかなり取り上げてくれたものの、歴史学や文化人類学の「主流」の学会誌から拙著は見事に無視されました。かたや歴史学や人類学の「傍流」の学術誌(『日本歴史』『コンタクトゾーン』など)が取り上げてくれましたが。何らかの学問的系列の土俵に乗らなかったこと自体は、いまだに後悔していませんが、それでも拙著の第2章に置いた理論編(「移動民の島々と帝国──本書の理論的視座」)では、これまでの社会調査論や民族誌論や史料論の蓄積と、私が扱ったようなマクロな社会科学の理論を、いくらか関係づける必要があったようにも思います。そこは反省点です。
 ご質問にお答えすると、近藤さんが言及されたレナート・ロサルドも、いわゆる「ライティング・カルチャー」グループのメンバーの片隅にいて、民族誌叙述における観察者(西欧的主体)と被観察者(ネイティヴ)の政治的非対称性の問題を扱っているわけですよね。もちろん、ロサルドの民族誌論はそれだけにとどまらない可能性を持っていて面白いから、拙著でも少し言及して参考にしたのですが、彼には「ライティング・カルチャー」的な問題設定に拘泥する部分もあるわけです。それに対して、今回の近藤さんの指定質問は、むしろ観察される者のカテゴリーと観察する者のカテゴリーの関係性というモースの観点を引いてきて、政治的非対称性の民族誌論とは別系列の民族誌論から議論を立てていただいている。そのことは、たいへん好意的な挨拶だと私は受け取りました。
 ただ、私が近藤さんのいわれる民族誌論の観点から「事実を理解する」ことに関して、ほんの少しでも成功したのは、拙著のなかで第1章だけだと思います。
 例えば拙著の中では、ケテさんの〈他称に抗する自称〉だとか、彼女の語りの中で示される〈近代をくぐりぬけるなかで培われてきた移動民としての生のリズム〉だとか、かなり危うい表現を使っています。近藤さんの言い方を借りれば、「観察される者の思考のカテゴリー」が「観察する者の思考のカテゴリー」において「わかった」という実感があったから、あえて使った表現です。
 例えば「帰化人」や「異人」といった人種主義的な他称を受けることが、ケテさんにとっては〈殺すこと/殺されること〉を予期させてしまうとはどういうことかという問題も、瀬川清子が書きとめたケテさんのライフヒストリーを読み込んだ上で、さらにケテさんのことを直接知っている島のおじいさんおばあさんたちから話を聴いてまわるプロセスで──ケテさんの関係者は今でも何人か生きていますから──、ある時点で「わかった」わけです。何が「わかった」かというと、ケテさんの発話にまとわる力の領域、それも支配的な歴史の物語を攪乱するような力が、私にも「わかった」。
 いくぶん敵意を喚起するような言い方になりますが、ライフヒストリーなどを手法として使う人たちのエスノグラフィーのなかでお世辞にもあまり面白いといえないような研究では、語りの内容と形式が、語り手の主観的意味世界という名においてかなり特権化されてしまっています。当事者の「現在」における語りの構築が特権化されてしまい、せっかく対面状況で話を聴いているのに、その語られた内容を書き起こして、レトリカルな次元やナラティヴ戦術の次元で分析を加えて、はいこれが当事者○○さんのライフヒストリーだ、で終わっちゃうわけですよ。
 むろん、ライフヒストリー研究者でも、良質なエスノグラファーは全くそうではありません。たとえば、私も前任校(千葉大学)でお世話になった桜井厚先生(現・立教大学)が、わざわざローカル・コミュニティという概念を、物象化の危険を承知で持ち出してくるのは、桜井さんは当然、語られた内容だけを特権化してはいけないことが痛いほどわかっておられるから、私の言葉でいえば制度形成をめぐる力の磁場のなかで人間は発話するということを重視していらっしゃるから、制度論的概念ともいえるコミュニティに言及しているのだと思います。
 私は先ほど、かなり長い時間を使って1990年代の知的状況の話をしましたが、あの時代には記憶に関する議論が随分盛んでした。ただし記憶論といっても、よく教科書的な説明でいわれるような、歴史研究の「言語論的転回」があって記憶論が浮上したとか、そういう無意味な理解ではなくて、冷戦崩壊や「戦後50年」といった、それこそ歴史認識をめぐる布置が大きく揺らぐような物質的状況のなかで、表象論としての記憶論ではなく、語りや想起をめぐる力の磁場や暴力の領域が、記憶論にとって中心的な問題として扱われ、かなり理論的に緊張感のある議論が交わされていました。なかには、暴力のサバイバーや植民地化された人たちの経験は、政治的に非対称な帝国主義本国のヘテロ男性には表象できないといった類の、不毛なことをいう人もいましたけれども、90年代の議論の核心部分には、他者の語りや想起をどのように「理解」するか、近藤さんの言い方に引きつけるならば、「観察される者の思考のカテゴリー」をどのように「理解」するか、「出来事」をどのように「理解」するか、といった重要な問いがあった。私はいま、そうした問いがうまく継承されていないような感触をもっています。
 おそらく、現在の主流が○○問題の歴史社会学に回帰していることの背景には、社会学や歴史研究における「理論の放棄」「社会科学的思考の放棄」というべき事態が底流しているように感じます。社会科学的な関心があまりなくても、○○問題の歴史社会学として開き直れば「研究」できてしまいますから。また、別に先ほどの櫻井さんの言葉に便乗して立岩さん個人を批判しているわけじゃけっしてないんですが、若手研究者のなかで、歴史社会学やるなら、珍しいところ、まだ誰も書いていないところを書いていけばそれでいいじゃない、というような話が出てきたりもするわけですよ。やっぱり私、そうした流れには意識的に抵抗してきたように思います。
司会:指定質問は終わりましたので、会場の皆さん、あるいは指定質問者の中、また、別の質問あれば、質問していただければと思うんですが。どなたかありませんでしょうか。


 「抵抗の語り」と「被害の語り」

大谷:先端総合研究科の大谷と申します。私は犯罪被害者の救済について研究しております。先生の、歴史社会学の手法をとりつつ、語りの可能性というか、抵抗の語りを近代の国民国家の統治から脱周縁化する「希望」としてとらえ返すという点について、興味深くお話を聞かせていただきました。
 この小笠原の「在来島民」というか、ずっと小笠原に暮らしてきた人たちが、国家の関与によって自分たちの生活手段が奪われ、そのことがその人たちが昔から有してきたその人たちの固有の歴史を何の前触れもなくつぶしていくというか、闇に葬りさってしまうということ、そしてその経験から出てくる抵抗の語りというものがあると。僕は、この抵抗の語りというものは、不自由であることを前提とした語りだと思っていまして、抵抗という形で自己表象するのは、「抵抗のなかでしか語ることができない」という不自由な語りの形式でしか自己表象ができないからではないかと思いました。
 「在来島民」は、それこそ「抵抗」という形でしか自らを語ることができなかったのではないかなと解釈していまして、これを私の研究に引き付けて話しますと、犯罪の被害を受けた人たちも加害者から被害を受けたからこそ「被害者の語り」になってしまう。そこには害を与える/受けるという加害‐被害関係の非対称性があって、その非対称性による不自由さが前提となっているからこそ、「被害者」としての抵抗の語りになってしまう。言い換えれば、被害者は何かに抗う者として、つまり「抑圧された者」として、ほかでもない加害者の存在によって自らをそのように語らざるを得ない。なぜ自分が「抑圧された者」の位置に置かれねばならないのか、そのような経験を内在した抵抗の語りを「希望の語り」、または「希望の断片」として位置づけることについて、それはどうすれば可能なのか、いやそもそも、希望として位置づけてよいのかどうかというところに私自身、逡巡があります。例えば被害者の人たちが自分に起きた陰惨な経験を語ることを、希望の断片であると論じることは、ちょっと難しいところがある。
 このことに対して、ある種の「抵抗の語り」に対する処し方について、石原先生がどうお考えになっているかをお聞かせいただければと思います。
石原:大谷さんに対するお答えは、私よりも適役の方がおられるように思います。例えば学振PDで先端研に籍を置いている有薗真代さんなどが、すでに論文で書いていることですが、「抵抗の語り」と「被害の語り」は、さしあたり違った水準にあると思うんです。有薗さんが研究している元ハンセン病者で強制隔離されてきた人たちにしても、あるいは犯罪被害者の方たちにしても──むろん私は詳しくはないんですが──、「被害の語り」を編制することによって、運動体を組織し、また運動体のなかで主体化してきたわけですよね。その「被害の語り」が「抵抗の語り」を積極的に活用するという構図になっていると思います。
 もちろん、「抵抗の語り」が「被害の語り」によって前面に打ち出されることには、運動的には大きな意味がある。しかし他方で、「被害の語り」は当事者の「生活者」としての語りや経験、「生活者」としての希望の断片を抑圧していく副作用も孕んでいる。しかし、「抵抗の語り」としての自己表象は、「被害の語り」だけに回収されえないベクトルをもっています。拙著で言及した在来島民の人のなかには、「抵抗の語り」として「おれたちの祖先は海賊だ」とか言ったりするおじいさんがいるわけです。私は、「被害の語り」にリンクする「抵抗の語り」と、希望の断片でもありうるような「抵抗の語り」を、いわば併置するような歴史叙述をするべきなのではないかと考えています。あえていえば、併置するだけでなくて、ある力の磁場のなかで「被害の語り」「抵抗の語り」「希望の断片」の結びつき方を考えることが大事だと思います。私の作業はうまくいきませんでしたが、それでも何とかして、ベンヤミンからマイケル・タウシグの議論まで引っ張ってきて、それをやろうとしたわけです。
大谷:それを踏まえた上で、歴史社会学のある種の記述というものが、被害の語りと抵抗の語りをある種、切り分けずに互いが互いに内包する形で記述していくというものであるというか。
石原:希望の語りもそうですね。
大谷:記述していくということが。
石原:そうですね。そうした関係性を記述していくのが歴史社会学なんじゃないでしょうかね。
 ただ、再度強調したいのは、本当に「被害の語り」がメディアではウケるし、支配的になりがちです。現在の犯罪被害者をめぐる語りもそうなのかもしれないですが、そうした場面では例えば、「被害の語り」に回収されやすい「抵抗の語り」よりも「生活者としての語り」や「希望の断片」を戦略的に強調するような歴史叙述もあり得ます。
大谷:ありがとうございました。
司会:指定質問は終わりましたので、会場のみなさん、あるいは指定質問者の方でもけっこうですが、何か質問があれば、質問していただければと思います。
 どなたかありませんでしょうか。


 古典をどうとらえるか

高田:興味深くお話をうかがいました。私はビジネス・エシックスという分野を専門としています。インターディシプリン(学際的)な研究として、石原先生が社会学と歴史学のあいだに学問のおもしろさを見出していらっしゃると同時に、苦悩されてきたことをとてもよくお聞かせくださいました。私もいま、倫理学の学問領域のなかで煮え切らないものを感じているところです。
 少し話は変わりますが、昨晩、情熱大陸というテレビ番組に、葉加瀬太郎が出ていました。番組をご覧になったかたもいらっしゃるかもしれません。若かりしころ、彼はバイオリニストと呼ばれることがとても嫌だったと語っていました。アーティストと呼んでほしかったそうです。けれども25年くらいバイオリンを弾き続けていて、それまでずっとバイオリンを前衛的に弾くことを目指してきたのだけれど、彼が古典に目覚めて回帰したとき、自分がバイオリニストと呼ばれることを受け容れて、自称するようにもなったそうです。大まかにいうとそういう話だったんですが、石原先生にとって古典の意味についてどのようにお考えなのか、質問してみたいと思います。
 学部時代に、ご自身の関心から沖縄の戦後運動史についてお書きになったそうですね。でも石原先生の自己評価は、歴史社会学の基礎的な勉強が抜け落ちていたというものでした。本当に謙遜だと思いますが、手弁当でやってきたというか、括弧付きの素人というお話がありました。
石原:本当に素人なんです。
高田:ある程度、歴史社会学の古典から一定の距離を置いてきたともおっしゃっていました。でもよくお話を伺うと、古典をずっと意識なさっていた印象も受けます。
 ご自身、あるいは若手の研究者を念頭においているのかもしれませんが、手探りで掘り進めていくうちに古典の大きさが、あとになって分かってくる。そういうことかもしれません。ただ石原先生にとっての学部時代、あるいは院生やポスドクのころ、古典の存在にどういうお考えを持っていらっしゃったのか。そして今、教鞭を執る研究者になってから、古典の見えかたや態度にどのような変化があったのか。そのあたりについてお伺いしたいと思います。
石原:私、意外と古典が好きなんです。最初のほうで少しふれましたが、私の研究には歴史社会学者としての「メソレヴェル」の部分があまりありません。最初にお話ししたように、多くの歴史社会学者がやるように、○○問題の歴史社会学という形で研究を進めていく場合は、その○○問題の先行研究がいっぱいあるわけですよね。その場合、○○問題の「メソレヴェル」の蓄積に乗っかって、自分をそのなかに位置づけつつ、研究を進めることになると思いますが、私は自分の研究対象を最も適切にみていくためには、島嶼研究だとか海事史研究だとか国民国家論だとかエスニシティ研究だとかポストコロニアル研究だとか、既存の○○問題の先行研究の系列に乗っかる形ではうまくいきそうになかったので、むしろ古典が手がかりでした、高田さんおっしゃるように。それこそ、大学院の博士課程あたりになって、もう一度マルクスをちょっと読み直そうとか、ウェーバーちょっと読み直そうとか、そういう時期がありました。だから、いわゆる○○問題のプロだという自意識の強い研究者の方がた、社会学者だけでなく歴史学者や人類学者や政治学者を含めて、いわゆる「専門家」からすれば、私はやっぱり素人に見えると思います。われわれがこれまでいろいろ、これだけ詳細に議論してきたじゃないか、でも石原は何でそうした蓄積に言及しないのだ、とんでもないド素人だ、などと言われると思います(笑)。
 『近代日本と小笠原諸島』には第2章にいわゆる理論の章がありますが、あの章の書き方も、社会学とか歴史学とか人類学の特定領域の理論的系譜の中で自分の研究をポジショニングするという、研究者に求められる一種の規範的なコードに乗っていません。その必然的結果として、まとまった理論的結論の章も、あの本にはないわけです。そのこともいろいろ批判されましたけど。
 ただ今から考えると、史料に基づいて時空間を再現するという歴史学のやり方と、史料の再構成によってその社会利用を目指す社会学のやり方の、単なる「間」ではないようなスタイルを、結果的にはやっていたのかもしれない。そういう意味においては、私の作業もいくらかはポジティヴな意味があったかもしれません。でも、そういうスタイルの支えは、やっぱり古典だったんです。ほかには何も材料がなかったので。
高田:ありがとうございます。
司会:時間がもうきましたけれども、特にないということであれば、いったん研究会のほうは終了いたしまして、懇親会に移りたいと思います。石原先生、ありがとうございました。
石原:どうもありがとうございました。
(拍手)




UP: 20120412 REV: 20131015
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