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労使関係年表(出来事と研究) 1926〜1950年

 
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■1926年(大正15年/昭和元年)

◆治安警察法第17条廃止
◆労働組合法案廃案
◆労働争議調停法制定(4月9日)
◇「1926年3月25日に国会を通過し,7月1日から施行された.同盟罷業は,その誘惑・煽動を禁じた治警法17条の制約からようやく解放され,基本的には取締りでなく,調停の対象とされた.調停法は労働組合の争議当事者としての地位を認め,そのうえで三者構成の調停制度を定めたが,この法には争議の強権的解決の色彩もあり,また国会で労組法が流産し,暴力行為等処罰法が制定されるなど,労働運動の犯罪視はなお払拭されていなかった.そのため,調停法は敗戦後の廃止に至るまでわずか6回の適用にとどまった.」(大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編。〔参〕上井喜彦〈第1次大戦後の労働政策〉(社会政策学会年報23集,1979).)

◇「もともと、労働争議調停法は、治安警察法第一七条の廃止を伴うことによって争議権の放任の体制を一段前進せしめながら、同時に、「公益」あるいは「国防」の保持の観点から調停制度を導入することによって、この体制のもとで発生してくる労資紛争を防止し「産業界の平和」を確保しようとするものであったが、その第一九条が第三者による調停機関中の罷業の「誘惑」・「煽動」を禁止していることにも現れているごとく、その目的たる「産業界の平和」の確保は、同時に治安の確保に連なるものであった。」(兵藤サ19770910「昭和恐慌下の争議――一九三二年東京市電気局争議に即して」『日本労使関係史論』p.185)

◆メーデーによって臨時工問題が顕在化 ◇「臨時工問題が、世間の注目を集めるようになった、言い換えれば臨時工問題が顕在化したのは、一九二六(大正一五)年に、各地で開かれたメーデーのスローガンに、臨時雇傭制度の撤廃が掲げられてからである。このように臨時工問題は、まず労働者側から提起された問題であった。しかし、この問題が本格的に取り上げられるようになったのは、三一(昭和六)年九月、満州事変が勃発し、軍事工場を中心とした重化学工業が発展したことによる。同時に、この頃から重化学工業製品の輸出も行われるようになった。このため、重化学工業では、大量の労働力が求められるようになった。しかし、景気の先行きが不透明であったため、経営者は深刻化した労働力不足を、当初は常傭工の労働時間の延長と労働強化によって対処しようとした。しかし、それが限界に達したため、その不足を臨時工によって補おうとした。こうした需要側の要因の実現を可能にしたのは、供給側の要因として、国勢調査が行われるようになった二〇(大正九)年以降、毎年一〇〇万人づつ人口が増加したこと、農業の不況と折からの凶作も手伝って、農村に大量の潜在的失業者(産業予備軍)が存在したことによる。」(間宏19931203「解説」『臨時工問題(日本労務管理史資料集第8巻)』,pp.5-6)

◆ILOの最低年齢(工業)条約(1919年・第5号)を批准(8月7日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c005.htm

■1927年

◆コミンテルン「日本問題に関するテーゼ」(「27年テーゼ」)

◆昭和金融恐慌(3月)

◆北原安衛『労働争議調停法論』自彊館書店(4月)

◆文部省訓令第二〇号「児童生徒ノ個性尊重及職業指導二関スル件」
◇「これら二つの流れの合流した地点に、一九二七年一一月の文部省訓令第二〇号「児童生徒ノ個性尊重及職業指導二関スル件」が位置している。同訓令では、「学校ニ於テ児童生徒ノ心身ノ傾向等ニ稽ヘテ適切ナル教育ヲ行ヒ更ニ学校卒業後ノ進路ニ関シ青少年ヲシテ其ノ性能ノ適スル所ニ向ハシムル」ことを求めており、具体的には、「児童生徒ノ性行、知能、趣味、特長、学習情況、身体ノ情況、家庭其ノ他ノ環境等ヲ精密ニ調査シ教養指導上ノ重要ナル資料トナスコト」「個性ニ基キテ其長所ヲ進メ卒業後ニ於ケル職業ノ選択又ハ上級学校ノ選択等ニ関シテハ適当ナル指導ヲナスコト」などが指示されていた。つまり、教育システムの選抜・配分に関する言説中の「個性」概念の意味づけの原型は、昭和初年に「個性」と「職業指導」が出会う中で形作られていったのである。」(広田照幸2001200『教育言説の歴史社会学』p.98)

◆『労農』創刊(12月6日)
◇「『労農』発刊に就て」
 http://www5f.biglobe.ne.jp/~rounou/myweb1_022.htm

■1928年

◆北原安衛(内務省社会局労働課長)「海外に於ける労働運動の近状」
 http://133.30.51.93/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00803857&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

◆ILOの労働者補償(職業病)条約(1925年・第18号)を批准(10月8日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c018.htm

◆ILOの均等待遇(災害補償)条約(1925年・第19号)を批准(10月8日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c019.htm

◆ILOの移民監督条約(1926年・第21号)を批准(10月8日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c021.htm

■1929年

◆北原安衛、病死(34歳)

■1930年

◆北原安衛著・北岡寿逸編『労働問題研究』

◆プロフィンテルン第5回大会(8月)、「日本における革命的労働組合の任務」

◆第二回国勢調査(10月1日)
◇「かれらはまさに生活保護的生活水準であった。だが、他面、かれらが工業従事者であり、商業従事者であることも事実である。したがって、失業統計はかれらを失業者として把握すべくもなかったのである。だから、一九三〇年十月一日に行なわれた第二回国勢調査は、「全国失業者の概数は三二二、五二七」と発表したが、『日本経済年報』第三輯は、これをもって「実に人を愚弄した失業統計である」として、「此の三十二万の上に更に百の字を加へて百三十二万と云った方がよほど実際に近いと思ふ」(二二七−二二八頁)と論難した。
 この『日本経済年報』の憤激は、当時の社会情勢に対する実態から出た叫びであったが、三二万という失業者数も、ある意味では誤りではなかった。失業者は不完全就業のなかに吸収され、統計調査としては三十数万という失業者しか現われてこないのである。しかもそれは、たんに統計上の問題に止まらなかった。これら不完全就業者は、事故の就業の不完全さを自覚し、失業者として自らを意識することはなく、むしろ就業者として自己を確立しようとする。したがって、調査に際しては就業者として現われるだけでなく、完全就業者となるべく猛烈な競争を行なうことになる。低賃金を物ともせず、長時間労働と家族の多就業でそれをカバーしようとする。それが結果的にはかれらの競争をいっそう激化させ、その時間当り所得を引き下げ、それだけ肉体消耗的な労働を加重することになるのであるが、そこからは失業者運動は発生すべくもなかった。深刻・広汎な解雇と失業の進行にもかかわらず、昭和恐慌のなかから社会的意味をもった失業者運動がおこらず、したがて日本資本主義がその胎内から生み出した失業のゆえに、資本主義社会が批判され、危機に直面するという事態には、ついに逢着することはなかったのである。
 だが、失業者が自らを組織できなかったのには、もう一つの原因が存在する。それは労働組合の組織そのものである。欧米においては、失業者運動はしばしば労働組合運動との関連で組織されたが、日本ではそのようなことはなかった。それはなぜであるか。」(隅谷三喜男『日本社会思想の座標軸』pp.134-135)

◆ILOの最低年齢(石炭夫及び火夫)条約(1921年・第15号)を批准(12月4日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c015.htm

■1931年

◆ILOの重量標示(船舶運送の包装貨物条約(1929年・第27号)を批准(3月16日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c027.htm

◆満州事変(9月)
◇「満洲事変の勃発はまずこの点で労働組合運動に大きな影響を与えた。社会民主主義の伝統が十分に育たなかった日本では、共産主義者の指導する左派労働組合に対抗することに大きな力を注いできた右派労働総同盟および中間派全国労働組合同盟は、この軍事行動に対する態度の決定を迫られた時、その運動の基本方針について大きな動揺が生じた。その動揺は、まず労働組合と表裏一体の関係にあった「無産(プロレタリア)」諸政党に現れた。右派の社会民主党は、反共産主義、反資本主義、反ファシズムの「三反綱領」をかかげていたが、国家権力との関係をどう考えるかをめぐって指導者の間の意見が対立し、三二年春、国家社会主義を主張するグループは分裂し、労働組合の一部もこれに従った。同じような分裂はより急進的イデオロギーをもった中間派「無産」政党=労働大衆党にも現れた。(…)」(隅谷三喜男『日本社会思想の座標軸』p.117)

■1932年

◆コミンテルン『日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ』(「32年テーゼ」、5月)

◆『日本資本主義発達史講座』発刊開始(5月〜1933年8月)

◆ILOの強制労働条約(1930年・第29号)を批准(11月21日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c029.htm

■1933年

◆臨時工の解雇をめぐる三菱航空機名古屋製作所での争議
◇「このように差別された労働者としての臨時工は、やがて労働争議の先頭に立つようになった。その最初は、二六(大正一五)年全国各地で開かれたメーデーのスローガンに、「悪法反対」「八時間労働」「失業救済」と並んで「臨時雇傭制度撤廃」が掲げられたことである。それが、運動形態を伴って現れたのは、三三(昭和八)年九月、三菱航空機名古屋製作所で発生した争議であった。この争議は、労務者供給業者から派遣された労働者を、実際は人夫ではなく職工であるにも拘わらず、人夫として会社側が届け出ていたため、その解雇に当って、解雇手当を支給せずに、そえを言い渡したことに端を発したものである。結局、解雇者が、内務省社会局に対して、抗議行動を起こし、同局が解雇手当一四日分の支給を会社側に申し渡したため、労働者側の勝利で集結した。これが契機となって、全国各地で同様な争議が頻発し、また臨時工を常傭工に組み入れる所も出始めた。」(間宏19931203「解説」『臨時工問題(日本労務管理史資料集第8巻)』,p.9)

「しかし、労働組合の臨時工問題への取り組みには、二つの異なった姿勢が見られた。一つは、臨時工の廃止もしくは臨時工を常傭工にその身分を変更する立場であり、日本労働組合会議や日本労働組合全国評議会によって代表された。いま一つは、常傭工と臨時工との利害が対立する――仮に臨時工を常傭工に登用すれば、常傭工の数が増え、失業の恐れや、労働条件の引き下げにつながりかねない――ことから、契機の安全弁としての臨時工制度を存続させ、ただその労働条件の改善のみ要求する立場で、海軍労働組合連盟や官業労働総同盟によって代表された。」(間宏19931203「解説」『臨時工問題(日本労務管理史資料集第8巻)』,p.10)

■1934年

◆山田 盛太郎  19340220 『日本資本主義分析――日本資本主義における再生産過程把握』,岩波書店,240p. ASIN:B000JB9HV8 [amazon] ※

◆平野義太郎『日本資本主義社会の機構』

■1935年

◆内務省社会局労働部「臨時職工及人夫ニ関スル調査」(三月)
(間宏編19931203『臨時工問題(日本労務管理史資料集第8巻)』所収)

◆労働事情調査所編『臨時工問題の研究』(6月)
「目次
(一)社会問題としての臨時工制度
 一、臨時工発生の社会的原因
 ニ、臨時工の地位
 三、臨時工の性質及び種類
(ニ)臨時工及人夫の雇傭現況
 一、臨時工はどの位居るか
 ニ、業態別、性別、地方別に見たる臨時工及び人夫名儀職工の分布状況
(三)臨時工の雇傭形態
 一、直接雇傭と間接雇傭
 ニ、雇傭期間
 三、契約更新による長期据置臨時工
 四、雇傭形式に於ける常傭工と臨時工の相異
(四)労力供給請負制と中間搾取問題
 一、請負制下に於ける供給人夫
 ニ、労力供給請負制度発達の原因
 三、賃銀頭ハネの方法
 四、賃銀頭ハネ現場調査概況
 五、請負制度の利幣と其の取締
(五)臨時工の労働条件
 一、賃銀制度と賃銀支払方法
 ニ、賃銀状況
 三、解雇の方法及解雇手当
 四、健康保険、昇給、賞与金
 五、其他の福利施設
(六)臨時工問題を原因とする労働争議と労資の態度
 一、労働争議
 ニ、臨時工制度と雇傭主側の態度
 三、労働組合の態度及び方針
(七)、臨時工問題に対する政府の方針
 一、臨時工制度をどう見ているか
 ニ、内務省社会局の取締方針
 三、戸畑鋳物争議に於ける大阪府の鑑定書
 四、社会局の企図する退職金積立制度
(八)結語
 一、臨時工は永続性を持つ
 二、常傭工制の止揚性について
 三、臨時工問題の対策
 四、労働統制の強化あるのみ
 五、労働政策大綱

附録の一
 臨時工問題に関する法規違反の判決例
(…)
附録の二
 臨時工並人夫に関する通牒例規並学説
(…)
附録の三
 臨時職工に関する諸契約書及工場規則
(…)」(間宏編19931203『臨時工問題(日本労務管理史資料集第8巻)』所収)

「労働者解雇についての困難は、雇傭についての困難以上である。労働者が解雇を苦痛とすることは、何処の国に於いても同じであらうが、我国に於いては特に之を苦痛とする事情があり、労働者だけでなくて官憲若くは一般市民も亦これを出来るだけ阻止しようとするし、如何なる場合を見ても解雇が淡白に行はれ得たことは甚だ稀である。我国では労働者の雇傭若くは解雇が単なる市場取引として行はれるのではなくて、一度工場に雇傭されたら過失なき限り工場主はその労働者の身柄を保証しなければならないもののやうな観念が行はれてゐる。甚だしきは労働者の家族、その子弟も亦その工場で面倒を見なければならぬものと考へられさへしてゐる。大都市に於いてはかかる身分観念的な雇傭関係は既に滅んでゐるが、しかし全然無力となつてゐるわけではない。その為めに労働者を解雇することが、何か道徳的犯罪ででもあるかの如き印象が与へられるものである。」(労働事情調査所編『臨時工問題の研究』,p.4,間宏編19931203『臨時工問題(日本労務管理史資料集第8巻)』所収)

◆全国産業団体連合会事務局「臨時工問題に関する参考資料」(6月)
(間宏編19931203『臨時工問題(日本労務管理史資料集第8巻)』所収)

◆全国産業団体連合会事務局「臨時工問題に関する調査」(10月)
(間宏編19931203『臨時工問題(日本労務管理史資料集第8巻)』所収)

◆「臨時職工ニ関スル件」(10月)
「政府は、この頃どのような対策をとったのか。対策の立案の中心は、内務省社会局であった。その弊害を認める点では、局内の合意が成り立っていたが、具体策となると労働者側に好意的な者と、使用者側に好意的な人に分かれ、意見の一致が見られなかった。前者の立場に立っていた北岡壽逸の説を紹介しておく。基本的な時局の認識は、末弘とほぼ同じであった。(…)その他に彼には特徴的な主張が二つあった。一つは、臨時工の待遇は常傭工より高くなければらないとの主張である。何故なら、雇傭が不安定な臨時の身分であるからこそ、より高い労働条件を与えるのが当然だからである。もう一つは、日本の事業主が誇りとしてきた福利施設が、臨時工から崩れてしまうとの主張である。事業主は、欧米と比較して労働条件が低いことを認めていたが、それを補うものとして温情主義に基づく福利施設が充実していることを強調し、労使の対立を和らげようとしてきた。ところが、かつてのように臨時工が少ない時と違い、その数が著しく多くなった段階で、彼らに福利施設の恩恵を与えないことは、事業主が自ら温情主義を放棄したことに他ならないからである。この説は、労働争議調停打合会議が、三五(昭和一〇)年一〇月に発表した「臨時職工ニ関スル件」とほぼ同じ内容になっている。」(間宏19931203「解説」『臨時工問題(日本労務管理史資料集第8巻)』,p.13)

◇「末弘厳太郎の三五(昭和一〇)年の論文は、非常時が叫ばれている状況下での臨時工問題を、次にように記している。第一に、会社の利益金は著しく増加し、株価は顕著な値上りを示している。第二に、にも拘わらず、賃金率は寧ろ一般に低下の傾向を示している。第三に、個々の労働者の実収賃金額は多少増加しているが、これは専ら労働時間の延長や労働強化の結果であり、一般に定額賃金の率は低下しつつある。第四に、この好況の裏面で工場法規違反事件が激増しつつあり、法規違反とまでは言えなくても、多くの不当な脱法的行為が工場主等によって行われている。第五に、工場災害が激増しつつある。」(間宏19931203「解説」『臨時工問題(日本労務管理史資料集第8巻)』,p.11)

■1936年

◆2・26事件

◆ILOの労働者補償(職業病)改正条約(1934年・第42号)を批准(6月6日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c042.htm

■1937年

◆高橋 亀吉 1937 『日本産業労働論』千倉書房

◆盧溝橋事件(7月7日)
◇「ところが、三七年七月に勃発した日中戦争によって、戦時体制が本格化すると、労働運動をはじめとする社会運動は、いよいよ窮地においこまれた。三六年下半期一、〇〇八件に対し、前述したように三七年上半期一、五二三件と増加してきた争議は、七月以降激減し、同年下半期にはわずかに六〇三件となった。(…)
 実際、全総は三七年秋の大会で「今次事変中の労資紛争を挙げて平和と道義の手段に訴へて解決し、進んで全産業にわたり同盟罷業の絶滅を期す」という宣言を決議したのである。
 このような動きは左派組合およびその支持政党にも大きな影響を与えた。三六年二月の総選挙で社会大衆党の勢力が拡大し、反ファシズムの流れが広く存在することが明らかになる一方、二・二六事件以後ファシズムの体制が強化される中で、全評をはじめとする左派組合は反ファシズム運動を展開する可能性と必要とを痛感し、三六年八月、これまでの方針を改め社会大衆党支持の方針をうち出すとともに、フランス人民戦線の影響をうけて、反ファシズム統一戦線の結成を提起した。ところで、人民戦線論は日本では一般にコミンテルンの指令によるものと理解されたため、左派の一部が強調した人民戦線論が問題を複雑にし、社会大衆党および全総との数回の交渉も実を結ばず、この運動は結局失敗に終わった。その後全評の運動は、政府の圧力でしだいに困難となり、三七年秋には、「産業人としての社会的責務を自覚し、労資紛争の極小化を期す」という戦争への協力方針さえたてたのであるが、政府はこれを人民戦線推進のためのカモフラージュとみ、同年十二月、全評の指導者を検挙し、その結社を禁止してしまった。それはファシズムの弾圧政策の露骨な現われであり、労働組合運動全体に深刻な影響を与えることとなった。と同時に、それは後で述べる産業報国(産報)運動のための地ならしの役割りを演じたのである。」(隅谷三喜男『日本社会思想の座標軸』pp.180-181)

■1938年

◆職業紹介法改正、職業紹介所の国営化(4月)
◇「職業紹介所の位置づけは一変し,失業救済機関としてではなく,労務資源開拓機関として国営化されるにいたったのである。
 (…)
 これらの施行のため,同年,無料職業紹介事業規則,営利職業紹介事業規則,労務供給事業規則及び労務者募集規則がそれぞれ厚生省令として制定された。ここで初めて労務供給事業が規制対象として取り上げられた。(…)1938年の省令では常時30人以上供給する事業が対象であったが,1940年改正で常時10人以上供給する事業となり,1941年改正ですべての労務供給業者に適用されるにいたった。
 一方,国営化された職業紹介所であるが,1938年4月の国家総動員法制定により,職業紹介よりも労務統制,労務動員が主たる業務となっていった。」(濱口桂一郎『労働法政策』p.60)

◆「産業報告聯盟」結成

◆「厚生省」設立(内務省から分離独立)

◆ILOの土民労働者募集条約(1936年・第50号)を批准(9月8日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c050.htm

■1939年

◆従業者雇入制限令

◆第一次賃金統制令

◆国民職業能力申告令

■1940年

◆海軍工廠の組合解散、労働組合が日本社会から姿を消す
◇「イデオロギーにおいてより急進的であった全労系が組合解散を主張し、より穏健であった総同盟が組合の存続を固守したのは、一見理解しにくいように思われる。が、それにはそれなりの理由があった。総同盟の場合には、組合のリーダーがすべて労働者とりわけ熟練労働者出身であった。したがって、かれらはイデオロギーにおいてはマイルドであったが、階級的利害を守るために組合運動に固執したのである。これに対し全労では、インテリのリーダーシップがかなり強く、そのためにイデオロギーとしてはより急進的であったが、それがかえって政治権力と結びついて改革を行なおうとする可能性を生み出したのである。労働運動の歴史の浅い――農民運動の場合はいっそうそうであるが――日本では、インテリが急進的運動のリーダーとなるケースが少なくなかったのであり、このような傾向は無産政党運動の場合にとくに顕著であった。
 残存した総同盟系の労働組合についていえば、警察は組合の解散を強要し、経営者は組合を交渉相手にしなくなっただけでなく、産報のなかからも組合代表は排除されていった。労働組合は手も足も出なくなり、四〇年春になると自発的に解散するものが続出するに至った。総同盟の指導部は何とか組合を存続させたいと考えたが、産報運動を主管する厚生省は自発的解散をすすめ、これに従わなければ内務省が解散の命令を出すことが確認されたので、同年七月、ついに自発的に組合を解散することにした。(…)
 同じ月、長い歴史をもった日本海員組合も解散し、九月には海軍工廠の組合も解散し、事実上、労働組合は日本の社会から姿を消したのである。」(隅谷三喜男『日本社会思想の座標軸』pp.182-183)

◆従業者移動防止令

◆第二次賃金統制令

■1941年

◆会社経理統制令
◆国民労務手帳法、14〜60歳の労働者に国民労務手帳の所持を義務づけ
◆労務調整令、労働者の解雇、退職、雇入れ、就職の制限を強化

■1942年

◆職業紹介の所管が、厚生省から内務省(警察行政)に移管される
◇「この間,職業紹介所の名称も,1941年には国民職業指導所に,1944年には国民勤労動員署に改められ,1942年にはその所管が厚生省から内務省(警察行政)に移管された。国民勤労動員署は,軍隊からの召集令状に次いで恐れられた徴収令書を発行するところとして大変恐れられたといわれる。」(濱口桂一郎『労働法政策』p.61)

■1943年

◆賃金対策要綱

■1944年


■1945年

◆『民政ガイド・日本における労働組合と団体交渉』(6月)

◆「労働組合組織懇談会」開催(松岡駒吉の呼びかけで戦前の総同盟・全評・海員組合・東交などの代表者が集まる)
 「労働組合組織中央準備委員会」設立(10月)
◆共産党、「労働組合組織促進委員会」設置(10月)
「松岡グループ、共産党グループのいずれも、ひとまず大同団結をかかげていたこともあって、四五年一〇月以降、両者の間で何度か統一をめぐる接触がなされたが、この企ては結実するにはいたらなかった。そこには、戦前来の両者の反目が尾を引いていた。(…)」(兵藤サ19970520『労働の戦後史(上)』東京大学出版会,p.39)

◆財閥解体指令(10月)

◆読売争議(10月-46年10月)
◇『日本労働年鑑 戦後特集(第22集)』第一篇 労働争議、第二章 主要な争議、第一節 読売新聞社の争議
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/22/rn1949-057.html

◇山本 潔 1978 『読売争議(1945・46年)』御茶の水書房
◇下山 房雄 19790720 「<書評>山本潔著『読売争議(1945・46年)』」『社會科學研究』31(1),pp.156-164

◆「労働組合法」制定(12月、46年3月施行)
「ここで注目すべき事実は、周知のように、新たに生まれた組合のほとんどが、特定の企業ないし事業所の正規従業員のみを組合員とする企業別組合であったということである。複数の事業所の存在する企業では、事業所単位に設立されたものが多かったから、正確に言えば企業別組合というよりも事業所別組合であった。しかも、企業別組合の多くは、炭鉱を別とすれば、現場の労働者のみから成る戦前の組合とは異なって、職員・工員ともに組織したいわゆる混合組合であった。」(兵藤サ19970520『労働の戦後史(上)』東京大学出版会,p.42)

■1946年

◆四相声明、政府の生産管理違法論が強まる(2月1日)
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1946/1946_018.html

◆「経済同友会」結成(4月30日)

◆日本電気産業労働組合協議会(電産協)発足(4月)
「上述のような人事権規制と関連して注目すべきは、賃金についても、人事権を封じ込める方向での協定化が進展したことである。「産業別統一的団体協約の確立」を目標の一つにかかげた産別一〇月闘争のなかで生まれた電産型賃金体系は、その象徴であった。(…)
 電力産業の賃金体系は、従来、本給と家族手当など五つの手当から構成されていたが、新たに設定された電産型賃金体系は、生活保障給(本人給・家族給)・能力給・勤続給の三項目をもって基本賃金を構成する方式をとった。ここでまず注目すべきは、最低生活の必要をみたす生活保障給に、平均で七三%という大きなウェイトを付与し、実態生計費を算定基礎にすえ、年齢・家族数を指標として決める方式をとったことである。(…)」(兵藤サ19970520『労働の戦後史(上)』東京大学出版会,p.55)

◇河西 宏祐 199212 『聞書・電産の群像――電産十月闘争・レッドパ−ジ・電産五二年争議』平原社
◇河西 宏祐 199903→200105 『電産型賃金の世界――その形成と歴史的意義(新装版)』早稲田大学出版部
◇足立 長太郎 20003 「証言:日本の社会運動――電産10月闘争と電産型賃金――足立長太郎氏に聞く」『大原社会問題研究所雑誌』(496),pp.35-67
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/496/496-3.pdf
◇河西 宏祐 200703 『電産の興亡(一九四六年〜一九五六年)――電産型賃金と産業別組合』早稲田大学出版部
◇坂 幸夫 20080630 「<書評> 河西宏祐著『電産の興亡(1946〜1956) : 電産型賃金と産業別組合』」『社会学評論』59(1),pp.257-259

◆吉田内閣「社会秩序保持に関する声明」、生産管理闘争を否認
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1946/1946_077.html

◆中央労働委員会「経営協議会指針」発表(7月)
「もっとも、この指針が経営体制の変革を指向していたからといって、そこには、ある限定がおかれていた。じっさい指針は、「現に設立されてゐる経営協議会の実情及び協議会設立をめぐつて各方面に行なはれている交渉紛争」に憂慮を表明しつつ、「協議会設置の故を以て事業幹部の経営全体を統括指揮する権限と職責とには何等の変化がある訳ではなく、唯従来は幹部が専権的に決定実施し得た事項を特に協議会に付議した上その決定に従つて実施せねばならぬ義務を負ふ」だけのことだと述べている。
 かくして、企業別組合という特異な形態をもって生まれてきた労働組合を相手として、経営協議会という団体交渉と経営参加の一体化した仕組みを通じて、労使関係の安定化がめざされたのであるが、その企図はただちに現実化したわけではなかった。というのは、生産管理闘争の昂揚のうちに培われた変革エネルギーが、この企図の実現を妨げ、経営協議会の機能麻痺を引き起こしたからである。」(兵藤サ19970520『労働の戦後史(上)』東京大学出版会,p.53)

◆「経済団体連合会」結成(8月16日)

◆産別会議(全日本産業別労働組合会議)発足(8月19日)
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/sanb/index.html

◇法政大学大原社会問題研究所編 19960330 『証言 産別会議の誕生』, 総合労働研究所,318p. ISBN-10: 4794104057 ISBN-13: 978-4794104052 [amazon]

◆「労働関係調整法」成立(9月)

◆経済安定本部「賃金支払方法に関する基本方針案」

◆「昭和二十一年度第四、四半期基礎物資需給計画策定並に実施要領」閣議決定、傾斜生産方式が採用される(12月)
 http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/s21_1946_08.html

■1947年

◆二・一ゼネスト中止
◇『日本労働年鑑 戦後特集(第22集)』第一篇 労働争議、第二章 主要な争議、第六節 二月一日ゼネストをめぐる全官公庁争議
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/22/rn1949-078.html

◆「労働基準法」公布(4月)
 http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/s22_1947_02.html

◆職階職務給制の導入進む
◇「民間企業においては、6月、東京急行の賃上げ争議の際、会社側から職務給の提案がなされ、翌月導入されている。また、8月30日、中央労働委員会は、井華鉱業所と別子鉱業所の賃上げ争議の調停案の中で「職階制採用」を勧告している。ちなみに、昭和22年に職階制を導入した民間企業には、東京急行、王子製紙、新理研工業、井華鉱業などがある。
 同年9月1日、労働省が発足した。労働基準局初代給与課長の金子美雄氏を中心に同年11月、三共、大日本、第一、日絆、武田、田辺、そして万有の7社により「製薬業職務給研究会」が設立された。
 昭和22年10月21日、国家公務員法が施行され職階制実施がうたわれた10)。同年11月、臨時給与委員会が発足したが、国鉄労組を除く全官公は職階制実施をボイコットした。しかし、委員会は23年2月中旬、29歳2.5世帯2,920円べースを政府に対して答申し、さみだれ式に全官公労働者に職階制が導入されていった。というのは、組合内部の意見不統一とGHQ指令、マッカーサー書簡による3月闘争から全官公を中心とする夏期闘争に対する中止や干渉があったからである。そして4月19日には、国鉄において公務員初の職階職務給制が適用されることになった。」(幸田浩文200203「戦後わが国にみる賃金体系合理化の史的展開(1)――職務給のいわゆる日本的修正過程を中心として」『経営論集』第56号,p.82)

◆「職業安定法」
 http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S22/S22HO141.html
◇「同法は,国営職業紹介体制の確立という観点からは,1938年改正職業紹介法の延長線上にある。ただし,その目的はもはや労務統制,労務動員ではなく,新憲法の精神に則り国民に奉仕することに置かれた。ある意味では,1938年改正の前に第一線の職業紹介所から挙がっていた国営化の声に対応するような体制がようやく成立したともいえる。ただ,行政体制としては,労働大臣→労働省職業安定局長→国の機関としての都道府県知事→公共職業安定所長という形をとり,しかも都道府県の職業安定課職員は国家公務員たる地方事務官というかなり変則的な形となった。  (…)1938年改正職業紹介法が民間職業紹介事業の原則禁止を規定したときには,附則で法施行の際限に許可を受けて事業を行っている者は当分の間行えるとしたため実態はあまり変わらなかったが,今回は当初指定された11職種以外は現実に禁止されたのである。」(濱口桂一郎『労働法政策』p.61)

◇「第2次大戦後の「労働の民主化」のもとで,労働者を指揮命令するためにはその前提条件として労働契約が締結されなければならないという直接雇用の原則が明確にされた。労働力のレンタル化は労働者供給事業にほかならず,職業安定法(1947年)によって禁止された。業務請負を装って労働者供給を行うことを規制するために,職業安定法施行規則で「請負」の定義を厳格に定めた。業務を発注した注文主が請負業者の労働者を指揮命令した場合は労働者供給と判断され,職安法によって供給元だけではなく,注文主も処罰の対象となった。今日のような派遣労働や偽装請負の横行はおこりえなかったのである。
 こうした原則は職安法制定から5年後に部分的に変更される。鉄鋼業や造船業などの資本蓄積を推進する観点にたって,政府は労働者供給事業に対する規制を緩和した(1952年,職業安定法施行規則改正)。この措置によって,労働者供給事業と位置づけられ禁止されていた間接雇用の一部が「社外工制度」として復活したのである。」(伍賀一道「派遣労働は働き方・働かせ方をどのように変えたか」p.13)
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/604/604-02.pdf

◆「失業保険法」(12月1日公布、11月1日にさかのぼって施行)

■1948年

◆職業安定法施行規則改正(2月)
◇「上述のように1948年2月,GHQ(当時の担当者はコレット)の指示通りに職業紹介法施行規則を改正した。たとえ契約が請負契約であっても,@作業の完成について事業主としての財政上ならびに法律上のすべての責任を負うものであること,A作業に従事する労働者を指揮監督するものであること,B作業に従事する労働者に対し,使用者として法律に規定されたすべての義務を負うものであること,C自ら提供する機械,設備,器材(業務上必要な簡単な工具を除く)若しくはその作業に必要な材料,資材を使用し又は専門的な企画,技術を必要とする作業を行うものであって,単に肉体的な労働力を提供するものでないこと,という4要件をすべて満たさない限り,労働者供給事業と見なして禁止するという大変厳格なものである。」(濱口桂一郎『労働法政策』p.63)

◆「日本経営者団体連盟」結成(4月12日)

◆「マッカーサー書簡」を受け「政令201号」(7月31日)
 この結果、改正国家公務員法が1948年12月3日に公布・即日施行され、国家公務員の労働基本権が剥奪される

◆「政令201号の効力について」(法務総裁説明)
 http://www.ndl.go.jp/horei_jp/kakugi/txt/txt00914.htm

◆「賃金3原則」(11月)
◆「経済安定9原則」(12月)
◇『日本労働年鑑 1951年版(第23集)』第三部 労働政策、第二編 政府の労働政策、第八章 賃金政策、第五節 経済安定九原則実施後の賃金政策の展開過程
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/23/rn1951-814.html

◇「経済安定9原則の実施に伴う物価政策の方針」(1949年4月)
 http://www.ndl.go.jp/horei_jp/kakugi/txt/txt00951.htm

■1949年

◆緊急失業対策法(5月)
◇『日本労働年鑑 1951年版(第23集)』第三部 労働政策、第二編 政府の労働政策、第七章 失業対策職業安定立法、第四節 緊急失業対策法の公布施行
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/23/rn1951-799.html

◇大竹 文雄 200307 「日本の構造的失業対策」『日本労働研究雑誌』516号
 http://db.jil.go.jp/cgi-bin/jsk012?smode=dtldsp&detail=F2003080119&displayflg=1

◆下山事件(7月5日)、三鷹事件(7月15日)、松山事件(8月17日)

◆十条製紙、職階給導入(8月)
◇幸田 浩文 200203 「戦後わが国にみる賃金体系合理化の史的展開(1)――職務給のいわゆる日本的修正過程を中心として」『経営論集』第56号,pp.79-93
 http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0000407433

◆日経連「企業合理化に伴う賃金制度の方向」

◆田中 慎一郎 194911 「職務給の日本的修正」『経営者』1949年11月号
◇田中 博秀 1987-1988 「日本的雇用慣行を築いた人達――その一〜その三(小松廣(新日鐵),山本恵明(トヨタ自動車工業),田中慎一郎(十條製紙)収録)」『日本労働研究雑誌』第275,276,277,280,281,282,289,290号(梅崎修200712「労働研究とオーラルヒストリー」『大原社会問題研究所雑誌』589号,p.21)
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/589/589-02.pdf

◇「たとえば、四九年八月いち早く職階給を導入した十条製紙のケースについてみると、それは、生活給からの脱却をはかるために、知識・習熟、指導性・責任などの要素に高い評価点を与えるかたちで、職務の格付けを行ったところに特徴があった。だが、従来の生活給的給与から職階給への全面移行は困難であるので、職階給と生活補完給の二つの柱で賃金体系を構成するとともに、職階給に勤続に応じた精勤加算を加えて職能給と呼んでいたことに注意しておかねばならない〔田中慎一郎「職務給の日本的修正」『経営者』一九四九年一一月号〕。関東経営者協会が前掲した「企業合理化に伴う賃金制度の方向」と題する文書のなかで、生活給は「労働に対する正当な評価を欠く悪平等賃金」であり、いまや仕事と労働者の能力の評価にもとづく職階給与制度に向かって進むべきだと強調したのも、こういう経営者の試みを激励するものにほかならなかった。」(兵藤サ19970520『労働の戦後史(上)』東京大学出版会,p.93)

■1950年

◆日経連「新労務管理に関する見解」
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/24/rn1952-858.html

◆マッカーサー、書簡で共産党幹部の公職追放を指令(レッドパージ。6月6日)
 http://www.ndl.go.jp/modern/cha5/description12.html

◇レッドパージ等関係資料
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/arc/redpurge.html

◆朝鮮戦争勃発(6月25日)

◆総評(日本労働組合総評議会)結成(7月)
「総評結成が日程にのぼってきた五〇年はじめは、ときあたかも、コミンフォルム批判を契機として、共産党が「占領下の平和革命」論を放擲し、武装闘争による民族解放民主革命へ転進する時期にあたっていた。このような状況のなかで、GHQは、共産党フラクション活動に対する防波堤を構築するという観点から、総評結成を急がせる方針をとり、組合リーダーに対する工作を精力的に行った。それは、日本の共産化を防止しつつ、日本を「極東の工場」たらしめるという冷戦下のアメリカ対日政策の労働版であった。」(兵藤サ19970520『労働の戦後史(上)』東京大学出版会,p.89)

◆大河内 一男 1950 「賃労働における封建的なるもの」産業構造研究会編『社会政策の経済理論』

◆東京大学社会科学研究所編 1950 『戦後労働組合の実態』日本評論社

◆末弘 厳太郎 1950 『日本労働組合運動史』中央公論社

◆森 五郎 1950 「わが国職階給制の実証的研究」『労働問題研究』第46号,pp.38-54


*作成:橋口 昌治
UP:20081201 REV:20090902 0905, 20100514 2011706
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