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労使関係年表(出来事と研究) 1901〜1925年

 
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■1901年

◆日本で最初の社会主義政党「社会民主党」創立(5月)
◇「日本にはじめて社会主義政党が生れたのは、一九〇一年のことであった。それは社会民主党と称し、その綱領はドイツ社会民主党の影響を強く受けていたが、その創立者六名のうち五名はキリスト教徒であった。創立者の一人で、党の幹事となることに予定されていた片山潜は、その四年前、一八九七年に『労働者之良友・喇撒伝』を書いて、ドイツ社会民主党の創立者の一人であったフェルディナンド・ラサールを"理想"の人物としていたが、熱心なキリスト教社会主義者であった。幹事となることを予定されていた、と記したのは、社会民主党は創設された当日、警察によって「安寧秩序に妨害あり」という理由で結社を禁止されたため、実際の活動は何もできなかったからである。」(隅谷三喜男『日本社会思想の座標軸』p.54)
◇「高野房太郎と労働組合の誕生 10社会民主党の結成」
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/takano/takano10.html

◆片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』,労働新聞社
 http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000008/I000057418

◆無料で職業紹介を行おうとする動きが始まる ◇「日本で手数料を取らずに,無料で職業紹介を行おうとする動きが始まったのは20世紀に入ってからで,1901年,東京本所若宮町の私立第一無料宿泊所がここに泊まっている貧困者を対象に無料の職業斡旋を行ったのが始まりである。1906年には東京芝愛宕町の救世軍本部に常設の無料職業紹介所が設置された。その背景は東北地方の飢饉で,困窮した家庭では人買いに子女を売ることも見られたため,彼女らに女中の求人を斡旋しようとしたのが設立の由来だといわれる。その後,1907年に大阪婦人ホーム,1909年に東京基督教青年会,1910年に大阪基督教青年会と相次いで宗教団体や慈善団体により無料職業紹介事業が進められた。」(濱口桂一郎『労働法政策』p.59)

■1902年

◆政府、「工場法案ノ要領」作成・発表

◆『労働世界』が旬刊に
◇「労働運動の衰退の過程で、片山の社会主義思想が明確化したことは前述したが、社会民主党の結社禁止を契機に再編された社会主義協会は、が中心になって活発な組織活動を展開するようになった。この過程で、日本の社会運動に重要な変化が生じたのである。
 それは運動自体についていえば、労働組合運動から社会主義運動へ重点が移っていったことである。その点で社会民主党は大きな役割りを演じた。というのは、それまで社会主義は東京を中心とするごく限られた人々の間の、知的な運動であったのが、党の宣言と結社禁止が全国の新聞に報道された結果、一つの大衆運動に発展することとなったのである。それ以後社会主義の演説会が各地で開かれ、運動が全国的になっていった。タブロイド版の『労働世界』は、一九〇一年十二月に終刊となったが、片山は翌一九〇二年四月から旬刊雑誌『労働世界』を刊行するに至った。前者はその英文欄に、「日本における唯一の労働機関誌。労働組合運動と徹底的社会改革を唱導」と記していたが、後者は端的に「労働と社会主義の唯一の機関誌」と記していた。
 この変化はもう一つの変化を伴っていた。それは運動の担い手が労働者から、学生や知識層さらには富農などに変っていったことである。(…)」(隅谷三喜男『日本社会思想の座標軸』p.72-73)

■1903年

◆農商務省商工局『職工事情』
◇「日清戦争後の日本における産業革命時の工場労働者の労働実態を調査した克明な報告書。
 劣悪な労働実態が社会問題化してきた19世紀末、労働者保護のための「工場法」の立法化が求められてきた。そのための基礎資料が必要として、農商務省は 1900年から全国の工場で調査を実施。同省工務課に工場調査掛を設け、書記官・窪田新太郎が主任になり、専門学者の桑田熊蔵、久保無二雄、広部周助と『日本の下層社会』を刊行した横山源之助(元毎日新聞記者)嘱託にしている。
 (…)
 「生糸職工事情」のなかには、「一日の労働時間は十八時間に達することしばしばこれあり」と記述したあとで、「某地方の工場において始業終業の時刻は予め工場の規則を以てこれを定めたるが故に、この規定以上に労働時間を延長せんとするときは時計の針を後戻りせしむることしばしばこれあり」とあるように、全編にわたって、労働実態の調査と記述は厳密であろうと努力していて、内容の信憑性は高い。
 「燐寸職工事情」の項では、燐寸工場が多かった大阪、神戸地方の「貧民部落」の実情を、住民22人の出生地から流入までの事情、仕事、家族構成などにわたって記録することで伝えている。これまでの探訪記事とちがって、流民層が構成する貧民社会のリアルな姿が描き出されている。
 (…)
 この、官僚や嘱託の学者たちが苦心した労作『職工事情』は、「工場法」の実現にどれほど役立ったのであろうか。
 初めの「工場法」案(1898年)では、10歳未満の児童の就業禁止、14歳未満の労働時間を10時間にする、という内容であったが、業者や政党の反対にあい、労働時間が14時間に修正されるなどの曲折を経ていた。それでも、国会を通過することができず、「工場法」制定促進のための実態調査を実施。この『職工事情』の迫力と説得力で、1910年に議会に提出された「工場法」では、なんとか「一六歳未満および女子の夜間作業禁止(実施は施行後10年)」の内容になったが、それでも業界の猛反対にあい、結局、「夜間禁止を一五年猶予」と修正されて、日本初の労働法案は11年3月に成立した。しかし、財政上の理由で、施行はさらに16年まで延ばされ、女子深夜業禁止が実現したのは30年のことだった(岩波文庫版の犬丸義一の解説による)。」(日本寄せ場学会編『寄せ場文献精読306選』『職工事情』p.13-15)

■1904年

◆日露戦争勃発

◆幸徳秋水、堺枯川ら『平民新聞』発刊

■1905年

◆日露戦争終結、日比谷焼き討ち事件

◆三菱合資会社「神戸三菱造船所」設立(8月)
◇「まず一九〇五年一一月「工場規則」を制定して工場内秩序の諸原則を客観化し、所長→工場主任「技士」→小頭〔同心得〕〔のち一九一七年以降、工長と改称〕→組長→伍長→並職のヒエラルキー=作業命令系統を確立したのをはじめとして、これらの「定傭職工」と区別されるものとして、「見習職工」と「臨時職工」〔のち一九一二年、直傭の「臨時職工人夫」と請負人供給の「日傭職工人夫」とに明確に区別される〕という雇用形態の重層構造が打ち立てられる。この体制の下で、主として「定傭職工」を対象とした以下の諸施策が展開されたのであった。

 一九〇五年一〇月「職工出世積金」制度開設。同年一二月「六ヶ月皆勤賞与」制度。一九〇六年七月「職工救済規則」制定。一九〇七年一二月病院開業。一九〇八年七月職工賃格「昇給」基準設定〔各主任に内示〕。同年八月新規傭入職工の「試給」制定。同年九月「職工勤倹貯金」制度開設。一九一〇年六月一六歳未満の「幼年者」の残業規則〔二時間以内〕および「女工及女人夫」の残業禁止。一九一一年「修身講話」開始〔毎月一〜二回、昼食後三〇分間、勤務時間内〕。同年一二月「社倉」開設〔米麦廉売〕。」(中西洋19770910「第一次大戦前後の労使関係――三菱神戸造船所の争議史を中心として」『日本労使関係史論』p.57)

◆小栗風葉『青春』
◇「欽哉は、常に、あるべき自分(理念としての自分)を真の自分として生きているのである。それは、教育家の提示する理念と内容的には違う面もあるが、あるがままの自分からも他者からも自分を隔てる機能がある、という点では共通である。彼の言葉は分析には長けているが、自分を他者へと開き、変容させていく力をもたない。『八犬伝』が、言葉の科で始まり、共感によって変容していく物語であるのとそれは、際立った対照をみせる。それでも、『青春』は、欽哉と同じ世界の住人であるという自覚を持つ北小路や、繁の目を通じて、欽哉、すなわち「青年」という存在への違和感を表明してみせる。風葉が硯友社から自然主義へと移っていった作家であるからであろう。しかし、明治四〇年代の田山花袋や島崎藤村の作品になると、そのような複眼葉感じられない。外部にあったはずの理念は、性の問題とともに、青年内部に元々あったはずの原型として表象されるようになり、青年の内的葛藤が、それとの関係で価値付けられることになるのである。それは、心理学的な青年像が社会的力を得たということである。」(北村三子『青年と近代』p.39-40)

◆サンフランシスコ市長と各種労働組合が、日韓人排斥同盟結成

■1906年

◆三菱神戸造船所、「職工救済規則」制定
◇「以上が、創業から明治末年までに一段落したこの経営の労務政策の大綱であるが、このうち特に注目を要するのは、一九〇六年制定の「職工救済規則」の先進性である。先に指摘したように、三菱長崎造船所が一八九七年〔明治三〇〕年に制定した「職工救護法」は、いわゆる"日本的"労務政策の源流をなすものではあったが、その性格はわが国初の近代的労働組合の出現を予想したものとしてむしろ極めて近代合理主義的な理念と形式〔=労使折半醵出〕をもっていたのであるが、神戸造船所は、これを継承するに際して――他の諸政策ではほとんどすべての長崎のそれを踏襲するか同一歩調をとるかしているのとは異なって――「当初ニ措テハ造船所ノミニテ基金ヲ醵出スルコトトシ」て、この時点においてすでに「恩恵」的理念に立つ従業員福利政策を指向することになっている。(…)」(中西洋19770910「第一次大戦前後の労使関係――三菱神戸造船所の争議史を中心として」『日本労使関係史論』pp.57-58)

◆「日本社会党」結成

■1907年

◆小学校令改正、義務教育6年制。就学率93%を越える
◆株式大暴落、戦後恐慌はじまる
◆山梨県駒橋水力発電所から東京市内への初の本格的遠距離送電

◆足尾暴動(2月)
◇「明治四十年の一連の鉱山暴動が、労働法制定へ与えた影響をここに読みとることができるが、この場合にも、日本の産業の中核をなす繊維産業についていえば、それは将来への警告として受けとられている。主として婦人・少年労働者保護を規定した工場法の成立への直接のインパクトとは必ずしも考えられていなかった。労働運動との関連での第一の論点は、同盟罷工をして自らの利益を主張しうるのは青年男工のみであるから、女子や年少労働者こそ工場法によって保護されねばならない、という点にあった。(…)」(隅谷三喜男19770910「工場法体制と労使関係」『日本労使関係史論』pp.24-25)

◆安田保善社(のち富士銀行を経て、現在、みずほフィナンシャルグループ)、練習生制度はじまる
◇「今日わが国で最大の市中銀行である富士銀行も、明治末期には、大学卒の新人を採用すべき内的欲求を持ちはじめてはいたが、まだこれを実現するすべを持たなかった。そこで、大学卒サラリーマンを採用するかわりに、中学卒の青年を練習生として採用し、これらに、大学の機能にかわる社内教育をほどこして、将来の幹部社員を養成しようとした。
(…)
 また、さらに、一般的・普遍的なもの(教養・知識)と、特殊なもの(社風・カラー)とを総合する手段として、大学卒を無条件に幹部候補生として約束してしまう方法がとられてくる。これは藩閥政府が帝大卒を幹部候補生として確保したのと軌を一にするものであった。ここからわが国の学閥的ムード、あるいは「大学を出なければ」というムードが生まれ、これが、のちに加速度的に拡大再生産されていくことになる。
 なお、明治四十年の第一期生に始まる安田保善社の練習生制度は、大正九年の第十三期をもって終っている。つまり、この頃になってはじめて、大学卒新人の定期採用が定着してくるからである。」(尾崎盛光『日本就職史』pp.17-19)

◇「しかし、実際には、一般公募が日本の企業の採用パターンとして普及することはなかった。東京海上は、少なくとも戦間期になると、高等教育機関を通して人材の推薦・紹介を受けるようになっていた。また、安田保善社は、一九〇七年以来、幹部候補生として、中等学校卒業以上の応募者を新聞広告で全国から募集し、学科試験と面接によって採用の当否を決定していたが、そうした採用方法は、一九二〇年を最後に中止している。」(川口浩『大学の経済社会史』 p.195)

◆第1回社会政策学会(12月、開催校・東京帝国大学、テーマ・工場法)
 http://wwwsoc.nii.ac.jp/sssp/taikai.htm

■1908年

◆赤旗事件(6月)
◆三菱長崎造船所、能率給を採用し、原価管理体制を強化

◆第一回ブラジル移民として選ばれた781名(793人?)が笠戸丸に乗り神戸港を出港
◇「排日措置と移民制限によって日本人の北米やオーストラリアへの移住は低迷期に入り、日本人移民の主流はブラジル、ペルーを中心とする中南米へと転換する。このころのブラジル移民は、主にコロノと呼ばれるコーヒー農園で、粗末な掘っ立て小屋に住み、劣悪な労働条件のもとに農場労働に従事した。日本人の移民が、とくにサン・パウロ州内のコーヒー農園に二十万人近くも流入した背景として、イタリアのブラジル移住者が低賃金の奴隷的待遇を受けていたため、イタリア政府がブラジルへの移住を禁止したという事情もあった。」(猪木武徳『学校と工場』p.235)

◆第2次桂内閣「戊申詔書」(10月)、地方改良運動が本格化

◆第2回社会政策学会(12月、開催校・東京高等商業学校、テーマ・社会政策より見たる関税問題)

■1909年

◆三菱長崎造船所で争議
◇「日露戦争直後、金属鉱山と並んで、軍工廠、財閥傘下の造船所などに争議が広がった。この一連の争議は、戦後の物価騰貴によって戦時の賃金上昇が食いつぶされ、労働者の生活が圧迫されたことによるところが大であったが、早くから個人出来高払制度を導入していた陸軍工廠や、日露戦争期に従来の入札方式による請負制度の廃止に踏み切った海軍工廠など、職場管理者としての技術者による管理が強化されはじめていた企業では、班長・伍長などの下級職長や平職工が争議の主体となったことに注意しておかねばならない〔兵藤・一九七一〕。日露戦争後、造船部門の組長請負工事制を廃止した三菱長崎造船所に発生した一九〇九年争議でも、同様の傾向がみられた〔中西洋・一九七七〕。これらの争議は、労務管理上の実権を掌握しはじめた技術者の作業指揮のあり方や処遇の不公平に対するランク・アンド・ファイルの憤懣の爆発でもあった。」(兵藤サ19970520『労働の戦後史〈上〉』,p.7)

◆第3回社会政策学会(12月、開催校・慶應義塾、テーマ・移民問題)

■1910年

◆大逆事件
◇「大争議の発生に憂慮を覚えた政府は、一方では、懸案の工場法の制定に向かうとともに、他方では、大逆事件に象徴されるごとく社会主義運動の抑止に努めたが、重工業分野の大企業では、共済組合方式あるいは経営直轄方式の職工の生活扶助施設を設けるものが相次いだ。これらの施設による給付は、死亡・疾病・傷害、罹災・慶弔、退職などに及んでいたが、共済組合方式をとるものであっても、経営からの補助金を加えて運営される企業内福利施設であった。このような生活扶助施設の設置は、請負制度の解体にともない、親方労働者としての職長が配下の職工の生活の面倒を見きれなくなったという状況に対応する措置であったが、そこには、生活上の事故に対する企業の配慮を示すことによって職工の忠誠を確保しようとする意図が込められていた。」(兵藤サ19970520『労働の戦後史〈上〉』,p.7)

◆日本、韓国を併合
◇「資本主義はその発展が進むにつれて、国と国との境界を排除するようになる。かくて日本資本主義はその発展とともに、まるで同心円を描くように外へ外へと膨張をつづけた。その膨張運動の中での最初の同心円は「国内植民地」internal colony、つまり日本内地における農民層であったが、農民層の分化が進み彼らの利用可能性が涸渇してしまうと、今度は「国内植民地」の地位に朝鮮を据えることになるが、1930年代になると朝鮮の役割は満州が担うことになるというわけで、絶えず新しい周辺部が築かれることによって、朝鮮はある一面において半周辺的性格を帯びるようになった。日本内地の発展に不可欠な国家機構は、植民地的形態に変形されて朝鮮に移植され、この移植はさらに満州に及ぶ。この場合、朝鮮においても満州においても、植民地の支配機構はひたすら中心部即ち日本内地の利益に奉仕する目的のために資源を動員したのであり、近代的市場関係の発展に必要な条件を整え支援を与えたのもそのためであった。このやり方は、どっちみちヨーロッパ人を真似たいわばそのコピーであって、やり方それ自体が特にユニークであったのではない。ユニークであったのは、タイミングと歴史的状況であったのだ。」(ブルース・カミングス『朝鮮戦争の起源』第1巻 p.40-41)

◆石川啄木『硝子窓』
◇「「何か面白い事は無いかねえ。」といふ言葉は不吉な言葉だ。この二三年来、文学の事にたづさはつてゐる若い人達から、私は何回この不吉な言葉を聞かされたか知れない。無論自分でも言つた。――或時は、人の顔さへ見れば、さう言はずにゐられない様な気がする事もあつた。
「何か面白い事は無いかねえ。」
「無いねえ。」
「無いねえ。」
 (…)
 時として散歩にでも出かける事がある。然し、心は何処かへ行きたくつても、何処といふ行くべき的が無い。世界の何処かには何か非常な事がありさうで、そしてそれと自分とは何時まで経つても関係が無ささうに思はれる。しまひには、的もなくほつつき廻つて疲れた足が、遣場の無い心を運んで、再び家へ帰つて来る事になる。――まるで、自分で自分の生命を持余してゐるやうなものだ。
 何か面白い事は無いか!
 それは凡ての人間の心に流れてゐる深い浪漫主義の嘆声だ。――さう言へば、さうに違ひない。然しさう思つたからとて、我々が自分の生命の中に見出した空虚の感が、少しでも減ずる訳ではない。私はもう、益の無い自己の解剖と批評にはつくづくと飽きて了つた。――若しも言ふならば、何時しか私は、自分自身の問題を何処までも机の上で取扱つて行かうとする時代の傾向――知識ある人達の歩いてゐる道から、一人離れて了つた。
 「何か面白い事は無いか。」さう言つて街々を的もなく探し廻る代りに、私はこれから、「何うしたら面白くなるだらう。」といふ事を、真面目に考へて見たいと思ふ。」(『石川啄木全集』pp.250-251)

◆石川啄木『時代閉塞の現状』
◇「斯くて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今猶理想を失い、出口を失った状態に於て、長い間鬱積して来た其自身の力を独りで持餘しているのである。既に断絶している純粋自然主義との結合を今猶意識しかねている事や、其他すべて今日の我々青年が有っている内訌的、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむべき状態を極めて明瞭に語っている。――そうしてこれは実に「時代閉塞」の結果なのである。
 見よ、我々は今何処に我々の進むべき路を見出し得るか。此処に一人の青年が有って教育家たらんとしているとする。彼は教育とは、時代が其一切の所有を提供して次の時代の為にする犠牲だという事を知っている。然も今日に於ては教育はただ其「今日」に必要なる人物を養成する所以に過ぎない。そうして彼が教育家として為し得る仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、或は其他の学科の何れも極く初歩のところを毎日々々死ぬまで講義する丈の事である。若しそれ以外の事をなさんとすれば、彼はもう教育界にいる事が出来ないのである。又一人の青年があって何等か重要なる発明を為さんとしているとする。しかも今日に於ては、一切の発明は実に一切の労力と共に全く無価値である――資本という不思議な勢力の援助を得ない限りは。
 時代閉塞の現状は啻にそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、大体に於て一般学生の気風が着実になったと言って喜んでいる。しかも其着実とは単に今日の学生のすべてが其在学時代から奉職口の心配をしなければならなくなったという事ではないか。そうしてそう着実になっているに拘らず、毎年何百という官私大学卒業生が、其半分は職を得かねて下宿屋でごろごろしているではないか。しかも彼等はまだまだ幸福な方である。前にも言った如く、彼らの何十倍、何百倍する多数の青年は、其教育を享ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の教育は其人の一生を中途半端にする。彼等は実に其生涯の勤勉努力を以ってしても猶且三十圓以上の月給を取る事が許されないのである。無論彼等はそれに満足する筈がない。かくて日本には今「遊民」という不思議な階級が漸次其数を増しつつある。今やどんな僻村へ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼等の事業は、実に、父兄の財産を食い減らす事と無駄話をする事だけである。
(…)
斯くて今や我々青年は、此自滅の状態から脱出する為に、遂に其「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望や乃至其他の理由によるのではない、実に必至である。我々は一斉に起って先づ此時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷めて全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである。」(『明治文学全集 52 石川啄木集』pp.262-263)

◆『工場衛生調査資料』、生産調査会に提出される

◆岡実工務局長の下で「工場法案ノ説明」作成される
◇「明治四十二年および四十三年法案の特色は、第一に、この国際競争力の視点を承認し、三十五年の「要領」において強調された工場制をめぐる《弊害》の指摘を緩和し、これと併せて工場法の制定が生産力の上昇に役立つことに注意を喚起する点にあった。(…)
 (…)
 (一)は熟練の形成であり、(二)は一般的な労働生産性の改善であり、いずれも工場法の生産力的側面を指摘したものであったし、(三)は労使関係の改善による国民経済の安定の視点であった。《弊害》の救治は資本に対して単なる負担として現われるものではなく、生産力の上昇と労使関係の安定をもたらすことによって、「積極的」意義をもつことを力説しているのである。
 それならばこのような経済の論理が貫徹しないのは何故であるか。それは「営業上ノ競争」だというのが、「工場法案ノ説明」の論理であり、法案の第二の特色となっている。
 (…)
 したがって、工場法の制定により「秩序アル工業ノ発達ヲ希図スル」ことこそ、その目的とするところだというのである。」(隅谷三喜男19770910「工場法体制と労使関係」『日本労使関係史論』pp.8-9)

◆第4回社会政策学会(12月、開催校・早稲田大学、テーマ・市営事業)

■1911年

◆東京市が芝と浅草に職業紹介所を設置。日本における公共職業紹介所の始まり

◆「工場法」制定(3月)
◇「もっとも工場制度の発展のもとで、《家族制度》存続の可能性をどの程度期待するかについては、微妙な見解の違いが推進論者の中にもみられた。前述のように、桑田は工業進歩の大勢は、「主従関係の存続を許さない」と考え、それゆえに工場法の積極的推進論者となったわけであるが、岡の場合には、工場法自体が《家族主義》によって補強されなければならないと考えていた。」(隅谷三喜男19770910「工場法体制と労使関係」『日本労使関係史論』p.27)

◇「したがって、個別資本の利潤への「吸血鬼的渇望」もさることながら、資本制生産様式自体が自らの中に保持する自由競争の体制が、企業存続のためのしわを労働者とその労働条件によせていったことに対し、労働力保全のために、かつまた労使関係の安定のために、競争上の一定のルールを設定しようとしたのが、工場法だったのである。」(隅谷三喜男19770910「工場法体制と労使関係」『日本労使関係史論』pp.28-29)

◆渋沢栄一「当来の労働問題」

◆第5回社会政策学会(12月、開催校・中央大学、テーマ・労働保険)

■1912年(明治45年/大正元年)

◆東京市電のストライキ(1月)

◆丸山侃堂・今村南史編『丁稚制度の研究』政教社(5月)
 http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000008/I000058471
◆明治天皇死去(7月30日)、乃木希典が後追い自殺(9月13日)

◆鈴木文治、「友愛会」結成(8月1日)
◇「統一基督教弘道会の幹事である鈴木文治によって,15人の会員で創立された.労働者講話会での結びつきを基礎に,親睦・共済・修養などの活動によって,労働者の〈地位の改善〉をはかろうとする〈労働者自身の団体〉として組織された.当時,職工・女工などとよばれた労働者の社会的地位は著しく低く,当人たちの間にも〈脱落者〉意識が支配する傾向があった.これに対し友愛会は,東京帝大出身の法学士である鈴木を中心に,弘道会・社会政策学会・浮浪人研究会などの名士の支援をうけるという条件のもとで,〈自覚と修養〉によりその地位の向上をめざそうとする労働者を結集した.創立4年後には,会員が1万8千人にまで増え,友愛会は,急速な発展をとげていく.1912年11月3日からは機関紙《友愛新報》を刊行し(第38号,'14年10月15日付まで),これは後継誌《労働及産業》に発展した.」(大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編。〔参〕松尾尊~《大正デモクラシーの研究》1966.松沢弘陽《日本社会主義の思想》1973.)

◆慶応大学が山名次郎を就職の紹介・斡旋のために嘱託として招請する。

◆横山源之助「貧街十五年の移動」(『太陽』1912年2月号)
◇「本論文は、岩波文庫版の中川清の解説の言葉を借りれば、「今世紀に入ってから『貧民窟』の顕著な変化をいくつかの視点から的確に記述している」。「貧民窟」は、木賃宿を中心に質屋や残飯屋、そして各種の長屋が混在し、独自の共同性を有する集住生活地区であった。ところが、その共同性が解体してきた。横山はその変化を10項目にまとめているが、それらは「職業」「住宅」「生活費」の変化と「貧民窟の拡散」と捉え直せるだろう。
 「職業」の変化は、産業社会の変化に起因する。基幹産業の末端を下層が支えているため、産業構造が変化すれば下層が携わる職業は変化する。だが、それは基幹産業に直結する変化だけではない。理髪、料理、蕎麦職などの職人社会においても「技」と「師弟関係」で結ばれていた人間関係が壊れてしまったことが述べられている。そして労働力の流動化が工場労働と地方鉱山の往復、関西から東京へ労働者が流入した様子で描かれている。
 「住宅」は、地価及び家賃の高騰と景観の変化として描かれている。貧民窟には一般人が往来するのを妨げる雰囲気があった。それを横山は住民の性質とその職業に起因するものと考えていた。ところが貧民窟に共同長屋、木賃宿、無料宿泊所、孤児院、養老院、慈善病院、特殊学校などが建てられると地価及び家賃が上昇し、一般市街地と変わらない景観に変化したという。現在の言葉に直せば緩やかなジェントリフィケーションが起こったようである。」(日本寄せ場学会編『寄せ場文献精読306選』「貧街十五年の移動」p.18)

◆第6回社会政策学会(10月、開催校・専修学校、テーマ・生計費問題)

■1913年

◆都市への人口流出が急増
◆猪苗代湖の発電所と東京までの送電線が完成。高電圧による大量電力輸送が実現し、中小企業も含めて電力による動力化が進む
◆東北帝国大学(現=東北大学)が女性受験生3人の合格を発表し、初の女子帝大生が誕生

◆星野行則訳による『学理的事業管理法』出版
=Taylor, F. W., The principles of scientific management, New York ; London : Harper & Brothers
(星野行則訳、1913、『学理的事業管理法』、崇文館→上野陽一訳編、1969、『科学的管理法』、産業能率短期大学出版部)
「科学的管理法なるものはけっして単一の要素ではなく、この全体の結合をいうのである。これを要約していえば、
一、科学をめざし、目分量をやめる
二、協調を主とし、不和をやめる
三、協力を主とし、個人主義をやめる
四、最大の生産を目的とし、生産の制限をやめる
五、各人を発達せしめて最大の高率と繁栄を来たす」(「科学的管理法の原理」(1911)上野陽一訳『科学的管理法』p.333)

◇「まず、日本は戦前戦後をつうじて、アメリカ的な経営管理方式を世界でもっとも熱心に輸入してきた国のひとつだといっても間違いありません。ところが、テーラーシステムの母国アメリカと比べての相違点として、以下のような三点をあげることができます。
 第一は、アメリカの場合、テーラーシステムの開発者であるF・W・テーラーがなんのために誰と闘って開発に取り組んだのかというと、労働生産性を向上させるため、当時生産の管理権を独占していた熟練労働者あるいはクラフト・ユニオンから生産の実権を経営側に取り戻すためでした。そこで決定的な意味を持ったのは熟練労働者の熟練を解体することでした。そのためには、生産の計画と実行の分離を徹底してすすめなければならなかった。具体的には、作業の細分化と労働職務区分の厳密化、動作・時間研究による標準作業量の設定、差別出来高賃金、生産計画の専門部の創設や職調整の導入など、これらがタスク・マネジメントあるいは「科学的管理法」として体系化されたわけです。他方、日本でも一九一〇年代から官営大工場や民間大工場へのテーラーシステムの導入が能率増進というかたちで始まりますが、日本にはそれに抵抗し妨げるクラフト・ユニオンが存在しませんでした。だから、現場の労働者の熟練やクラフト・ユニオンを解体するという必要性はなかった。むしろ日本では科学的管理法を工場内に適用しようとした場合、労働者の熟練や主体的な生産管理能力を積極的に引き出し活用するというかたちがとられたのです。
 第二は、アメリカでは労働者の職務区分を狭め固定化させることが熟練やクラフト・ユニオンを解体させる手段でしたが、同時に職務区分は労働組合によっても闘う武器になりました。経営側に職務区分を徹底して守らせることによって、労働者の諸権利や人間性まで守るといった意味合いがあった。日本の場合にもタスク・マネジメントをやるために、形式的には職務区分が導入されましたが、実質的にはそれは固定化されませんでした。要するに、日本では欧米のような職務区分の厳密な固定化といった状態が労使関係上の慣行になってこなかったということです。
 第三の特徴は、日本ではテーラーシステムの導入過程で、労働生産性の上昇と賃金の上昇との間に密接な関係性を見出すことができない点です。このことの持っている意味はたいへん大きい。結局日本においてはテーラーシステムが導入されたけれども、それは一口でどんなかたちだったかというと、労働者は一生懸命「頭を使って」働けということです。しかし、頭を使っても賃金はとくに上がらないということです。一九世紀からヨーロッパではこういうふうな言葉があるわけです。'A worker is paid to work, not to think.'「労働者は、働くことに対して賃金が支払われるのであって、考えることに対して支払われるのではない」ということです。このような考え方の行きつくところがテーラーシステムだと思います。ところが、日本では、私流の言い方をしますと、'Must think, but not paid to think.'(「考えなさい、けれども考えることには賃金は払いません」)ということになってしまう気がします。労働者の労働態度として、頭を使って働けということがたえず要求されるにもかかわらず、それに対する賃金は支払われないのが日本の現実です。」(基礎経済研究所編『日本型企業社会の構造』 pp.238-240)

◆第7回社会政策学会(11月、開催校・明治大学、テーマ・労働争議)

■1914年

◆第一次世界大戦勃発

◆フォード、最初の自動ベルト・コンベアを設置、日給5ドル制度実施
◇「アメリカの工業家フォードがとった措置は、心理学の観点からも興味深いものがあります。フォードは従業員の私生活を管理し、彼らに一定の生活態度を課す一団の監督者をかかえています。食事・ベッド・部屋の大きさ、休憩時間まで管理し、さらに細かいことまで口出しし、それに従わない者を解雇します。フォードは雇用者に最低賃金六ドルを支払いますが、そのかわり、会社が指示する労働と生活態度を一致させることのできる人々を求めるのです。(…)たしかに、機械化は私たちを押しつぶします。私のいう機械化とは、知的労働の科学的組織といったものをふくんだ一般的な意味です。(…)」(一九三〇年一〇月二〇日――タチャーナへの手紙)(片桐薫編『グラムシ・セレクション』p.118)

◇「大量の未熟練工を、当初、フォードは職長の権限強化によって管理しようとした。だが、彼らの情実や暴力に対する不満は強く、これが当時のデトロイトの労働力不足や劣悪な労働環境とも相まって、無断欠勤率や離職率の上昇をまねいた。このためのちには、賃上げや人事・労務を集権的に管理する雇用部の創設など一連の労働改革を余儀なくされた。なかでも、最も効果があったのは一九一四年に実施された日給五ドル制度だった。
 この制度は一日の労働時間を八時間へと短縮すると同時に、日給を二倍の五ドルへと引き上げるものだった。だが、日給五ドルを得るには、出勤状態、工場での作業態度はもとより、貯蓄、節酒、住居の整理整頓、英語学校への出席など会社が定めた「適切な」個人生活の基準に達せねばならなかった。それは移民労働者をアメリカ社会へと同化させ、工場労働者として陶冶することをねらったものだった。工場の規律に従う労働者は高賃金を獲得し、自動車の購入者となりえた。大量生産に必要な市場も確保されるのである。かくて、日給五ドル政策はこの二重の意味においてシステムを完成させる要の位置にあった。」(鈴木直次『アメリカ産業社会の盛衰』pp.48-49)

◆第8回社会政策学会(11月、開催校・東京帝国大学法科大学、テーマ・小農保護問題)

■1915年

◆日本、中国に対し「21か条の要求」

◆入沢宗寿『現今の教育』
◇「一方、今世紀初頭に欧米各国で登場してきた職業指導は、入沢宗寿の『現今の教育』(一九一五年)で初めてわが国に紹介された。それから時を経ずして、一九二〇年代には、職業指導に関するおびただしい文献が登場してくる。一方、組織・制度面でも、一九一五(大正四)年の日本児童学会による児童教養相談所を嚆矢として、一九年に大阪市立児童相談所の開設、翌二〇年の大阪市立児童職業相談所の開設、さらに大都市部に相談機関が設置されていくとともに、二〇年代前半期には大都市部の高等ないし尋常小学校で先導的な職業指導の試行が始められていった。」(広田照幸『教育言説の歴史社会学』p.97-98)

◆和文タイプライターが実用化、タイピストを志望する女性が増える

◆「割烹着」 を「婦人之友」が家庭用仕事着として考案、動きやすさから家庭に広まる

◆第9回社会政策学会(10月、開催校・東京高等商業学校、テーマ・社会政策より観たる税制問題)

■1916年

◆鈴木文治「労働者自覚論」『労働及産業』1916年4月号、「日本の国民性と労働運動」『労働及産業』1916年8月号

◆「工場法」施行(9月)
◇「本論文において《工場法体制》という時、それは工場法によってその時期の労使関係ないし労働問題が、集中的に表現される関係を意味する。したがってそれは、厳密には大正五年秋以降を指すものである。だが、前述したように、日露戦争の、とりわけ四十年の一連の鉱山暴動・大工場争議の前後では、工場法に対する産業界の態度は一変している。その意味で明治四十年以降は、《工場法体制》の形成期と考えてよいであろう。そしてこの形成期はさらに、明治四十四年の工場法成立を境として、前期と後期に分けることができよう。」(隅谷三喜男19770910「工場法体制と労使関係」『日本労使関係史論』p.3)

◆国語審議会が標準語を「主トシテ今日東京ニ於テ専ラ教育アル人々ノ間ニ行ハルル口語」と規定した

◆寺内内閣、臨時教育会議を設ける。以後、学制改革は原内閣にも受け継がれ、大学、高校、高専が急増

◆『主婦の友』創刊
◇「「家庭」ということばが大衆化したのは、むしろ次にくる商業的な婦人雑誌の時代であった。一九一六年に創刊された『主婦の友』はその年のうちに二万部、一九二三年には三〇万部、一九三二年には八〇万部と発行部数を伸ばしていった。『主婦の友』を代表とする商業的な婦人雑誌は「家庭」を消費と再生産の場と位置づけており、「家庭」の主婦に家事育児のための実用的な記事を提供し、とくに家計簿をつけることを奨励した。(…)
 ところがこのような商業的婦人雑誌によって頻繁に「家庭」という語が使われるにつれて「家庭」は「家」との対立をしだいに曖昧にしていった。夫婦関係中心の「家庭」であったはずであるのに、雑誌の身の上相談に載る家庭婦人の最大の悩みは姑との葛藤であった。(…)
 (…)当時、長男は故郷の家に両親と同居し、次男、三男は都市あるいは植民地において小家族を構成することが多かった。だが都市で結婚して「家庭」を築いた次男、三男も分家をしないかぎりは戸籍のうえでは「家」に属し、長兄が住む故郷の家にたいする帰属意識を抱きつづけていた。長男が弟たちや姉妹あるいはその家族までを扶養する、あるいは給料生活者となった次男、三男が自分の妻子を養うだけでなく故郷の「家」のために仕送りを続けることがまれではなかった。(…)」(西川祐子「日本近代家族と住いの変遷」、西川長夫・松宮秀治編著『幕末・明治期の国民国家形成と文化変容』pp.197-198)

◆第10回社会政策学会(10月、開催校・慶應義塾大学、テーマ・官業および保護会社問題)

■1917年

◆内務省地方局に救護課設置(賑恤救済及び社会事業施設に関する事項を所掌)

◆ロシア革命

◇「一九一七〔大正六〕年は、一月池貝鉄工、二月東京砲兵工廠、三月室蘭日本製鋼と続いた賃上げ要求争議を皮切りにして、文字通りストライキの年となった。ごく表面的な争議統計によっても、年間争議件数三九八件、参加人員約五七千人を数え、すでに上向期に入りはじめていた前年に比べてもそれぞれ三・七倍、六・八倍になったのであった。諸争議は、特にこの年の六月以降秋にかけて大きなピークを形成したが、翌一九一八〔大正七〕年、翌々一九一九〔大正八〕年にかけても夏場を中心にほぼ同型の高まりを反復しつつ、一九二〇〔大正九〕年三月の本格的戦後恐慌勃発の衝撃を受けるまで持続したのである。」(中西洋19770910「第一次大戦前後の労使関係――三菱神戸造船所の争議史を中心として」『日本労使関係史論』p.87)

◇「もちろんそれと共に、労働運動の担当者の主体的条件もようやく整いつつあった。一九一七〔大正六〕年四月の友愛会五周年大会は新会則を採用し、治安警察法改正を決議して、労働組合への脱皮を指向しはじめたが、それに続いて同年五月、やがてこの組織のリーダーシップを握ることになる友愛会神戸連合会が発足することになったのである。一九一七年四月末時点での全会員数二二、一八七人、神戸連合会会員数一、四九九名であり、(時点がややさかのぼるが)一九一六〔大正五〕年一〇月現在での神戸支部〔川崎造船所職工〕会員数一、一九三名、兵庫支部〔三菱神戸造船所職工〕会員数五一五名であった。(…)」(中西洋19770910「第一次大戦前後の労使関係――三菱神戸造船所の争議史を中心として」『日本労使関係史論』pp.87-88)

◆友愛会創立5周年大会(4月6日)
◇「友愛会がその転機に際して開いた同会初の本格的な大会.会員関与のストの続発,使用者による抑圧強化という深刻な事態に直面した鈴木文治会長は,会員に自重を呼びかける一方,労働組合にむけての漸進的な組織改革を決意した.大会で改正された会則は,同会を各種同職団体の総連合とうたい,年次大会開催を規定するなど,組織の構成・運営などを改めた.本大会から支部提出の議案も活発に論議されるようになった.鈴木会長の主導に変化はないが,民主的な組織運営への第一歩となった.しかし,最終日の渋沢栄一が招待した園遊会に,会員とその家族9千人が参加.初期友愛会の特徴はなお存続していた.」(大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編〔参〕松尾尊~《大正デモクラシーの研究》1966.)
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1916-20/1917_08.html

◇「労働者側における中核部分の旧型熟練職種から新型熟練職種への交代。そして全職種に一般的な教育水準の急激な向上。文盲の存在しないそして近代工作技術と公教育によって高い均質性を保証された知的な賃労働者の一般化。これを具現したのが機械工〔旋盤工・仕上工・電気機械工〕層であり、彼等の自立性であった。こうした労働者の資質の変化は、二つの面で重要な意義をもった。一つは労働者間の結合原理〔生産・作業組織から生活扶助組織に至るまでのそれの〕の変質であり、その集中的表現が役付工層からの一般職工層の自立であった。二つは、彼等の行動の規範が、"慣行"から、"利害"へと移行するよりは、一挙に"論理"の次元へと飛躍する性向の内在化であり、のシンボルが、"人格対等"、"労資対等"の観念であった。
(…)
(b)だが労資各々に起ったこうした変化は、決してこの時はじまったわけではないのであって、いわばいくつかの要素の混合がある点で急激な爆発力をもつに至ったというにすぎない。この量の質への転化を媒介する真の質的契機、それこそは〈労働組合の登場〉であった。友愛会の労働組合化、より正確に云えば友愛会神戸連合会兵庫〔=三菱〕支部の労働組合化、更に厳密に云えばその支部の中での若干の機械工メンバーの労働組合組織化をめざした活動開始、これこそが、一九一七〔大正六〕年という年を、この経営における労資関係の画期たらしめたのである。」(中西洋19770910「第一次大戦前後の労使関係――三菱神戸造船所の争議史を中心として」『日本労使関係史論』pp.120-121)

◆民間の入社試験で面接が重視されるようになる
◇「二代目の秀才官僚に対する疑惑は、一方では高文試験のやり方を反省させたが、他方では、民間会社の入社試験に口述(面接)重視の原則を打ちたてることとなった。知識の正確さを、かぎられた断面や部分で調べる高文的筆記試験よりも、全人格的把握のできる面接試験を重視し、いわゆる「人物本位」で採用する習慣をつくったのである。」(尾崎盛光『日本就職史』p.38)

◇「組織が巨大化する一方で、大企業は労働者の採用に突然慎重になり、新規採用を従来のように親方職工任せにはせず、健康検査はいうに及ばず身元や性格、素行なども調べあげるようになった。選抜と採用の費用が嵩めば、移動を少なく抑えるため勤続奨励的な報酬制度が考案されるのも自然の勢いである。移動が少なくなれば企業特殊的技能を促進するための人的投資を増加する誘引が働くから、その結果労働は一層「固定化」してくる。興味深いのは、1910〜20年代のこのような制度的変化が、どの大企業でも一様に、あたかも申し合わせたように時期もほぼ同じくして起きたことである。」(岡崎哲二・奥野正寛編著『現代日本経済システムの源流』p.154)

◆都市の新しい中程度の家として「中廊下型住宅」現れる
◇「中廊下型住宅は家族を社会から析出し、しかも外から区切られた狭い空間に夫にとっての私生活と家族団欒を保証し、外で働いて収入を得る夫と家事育児に専心する妻の役割を分けることに成功したのであった。なお台所は土間から板張りになって床が高くなった。割烹着をつけて台所に立つ専業主婦の地位向上を表すかのように晴れがましく、地方では板張りの台所を「東京式炊事場」と呼んでいた。」(西川祐子「日本近代家族と住いの変遷」、西川長夫・松宮秀治編『幕末・明治期の国民国家形成と文化変容』p.205)

◆第11回社会政策学会(12月、開催校・専修大学、テーマ・小工業問題)

■1918年

◆救済事業調査会、内務大臣の諮問機関として設けられる。

◆第一次世界大戦終戦

◆米騒動(8月3日富山より)
◇「全国で一斉に広がった米騒動は、都市の街頭に都市住民が踊り出た最も大規模な、実力を伴った都市社会運動であった。このような都市社会運動は、それまでも、東京や神戸で、日露講和反対や桂内閣打倒などの要求を掲げ、焼き討ちや関係社宅、関係施設の襲撃というような散発的な形で存在した。これと対照的な米騒動の都市地理学的な特徴は、オフィス街、労働者街、郊外という同心円的な土地利用調整を生み出しつつあった資本主義の都市空間編成を、見事に世の中に知らせたところにある。」(水岡不二雄編『経済・社会の地理学』p.341)

◆大学令公布、公私立大学・単科大学の設立を認めた(1919年施行)
「第四条 大学ハ帝国大学其ノ他官立ノモノノ外本令ノ規定ニ依リ公立又ハ私立ト為スコトヲ得」

◆「高等諸学校創設及拡張計画」発表
◇「第一次大戦がもたらした未曾有の経済的好況は、高等教育拡大の絶好のチャンスであった。しかも、学制改革問題の一応の解決も、拡大の実現にとって大きな障害が消えたことを意味した。しかし、そうした環境の変化が――一時に計画され、かつ実現したものとしては、少なくとも戦前期においては空前絶後の規模をもつ――『高等諸学校創設及拡張計画』という具体的な政策へと結実するには、「積極政策」を党是とする政友会の存在が欠かせなかった。計画は、そういう意味でまさしく政治的な産物だったのである。しかし同時に、それがたんに地方利益誘導政策にとどまらぬ意味をもつことに留意せねばならない。「入学難」の解消をその中心目標として掲げ、地域間の高等教育機会の均等な配分を全国規模で志向し、しかもその結果としてそれまでになく多数の若者たちを高等教育進学競争へと巻き込んでいったこの計画は、その後に続く高等教育の大衆化過程の、幕開けを示すものでもあったからである。」(伊藤彰浩『戦間期日本の高等教育』 p.50)

◆貴族院、「科学及工業教育に関する建議」
◇「当時もまた技術革新の時代であった。産業革命より今日の技術革新にいたるまで、技術は老人・年功者には酷なもので、老兵は消えていく運命にある。「学校出」とくに「大学出」が時代の寵児になってくると、「大学出」の若い世代は攻撃的で、古い技術者は守勢すら維持できなくなる。こうして、「大学」を出なければダメだというムードが世を風靡し、大正六〜九年の学制改革・大学昇格運動と高校・高専の増設をもたらすわけであるが、これと平行して、まず理科教育、理工系ブームがおこるのである。」(尾崎盛光『日本就職史』p.26)

◆武者小路実篤が仲間19人と自分らが掲げる理想の実現の場「新しき村」を宮崎県木城村に建設し、青年たちの間に大きな反響を呼んだ

◆三菱・神戸造船所、「職工課」を新設
◇「神戸造船所内におけるフォーマルな経営組織上の変化としてこれを象徴するのは、一九一八〔大正七〕年一〇月の職工課の新設である。従来の労務管理掌握スタッフ部門は、「勤怠課」というその名の示すように、基本的には作業管理の観点に立って、職工の出欠・工事別人工・賃金額の計算を行ない、それに附帯して職工に関する一切の庶務を扱っていたのであって、労働者はいわば"労働力"として把握されていたのであったが、新設の「職工課」は、さしあたりこれから分立して、労使関係管理を軸とする固有の意味での労務管理の積極的企画・実施機関として設置されたのである〔のち一九一一〔大正一〇〕年九月には、かつての母胎、勤怠課を自らのうちに併合する〕。"労働力"ないし「人工」として存在した労働者は――なお従業員一般としてではないが――ともかくも「職工」としてその人格が認められたのであった。」(中西洋19770910「第一次大戦前後の労使関係――三菱神戸造船所の争議史を中心として」『日本労使関係史論』p.76)

◇「だが、この間の変化としてここで何よりも注目を要するのは、これらの量的指標に表示されない彼等の知的水準の向上である。いま職工総体でみても、一九一七〔大正六〕年時点では、すでに「無教育ノモノ」ないし「僅少ノ教育アルモノ」はほとんど存在しなくなっており〔八%、――一九〇七〔明治四〇〕年には、二五%〕、尋常小学校卒業者〔五九%〕を底辺として、高等小学校卒業者〔三一%〕、更に「中学及各専門学校卒業ノモノ」〔二%〕までが出現してきている。大正期の労働運動を担った"日本プロレタリアート"のこうした知的水準の急上昇こそ、この期を支配した"人格平等"イデオロギーの実体的基盤をなすのであった。」(中西洋19770910「第一次大戦前後の労使関係――三菱神戸造船所の争議史を中心として」『日本労使関係史論』p.84)

◇「それ故、われわれは、一九一八〔大正七〕年の〈争議X=暴動〉の本質を第一次大戦後の日本にあらわれた一つの――なお極めて未熟な――"工場反乱"であったと規定してさしつかえない。職工らは、"暴利をひとりじめにしながら、「温情」主義によって労働者を懐柔する"労働者蔑視の経営政策を実力をもって告発しようとしたのである。一二日の暴動の対象が、上の意味での工場支配の象徴物たる〔各工場内および一般〕役員事務所と勤怠事務所の打ちこわしに集中されたという事実は、留意されてよい。」(中西洋19770910「第一次大戦前後の労使関係――三菱神戸造船所の争議史を中心として」『日本労使関係史論』p.104)

◆第12回社会政策学会(12月、開催校・早稲田大学、テーマ・婦人労働問題)

■1919年

◆救済事業調査会、「失業保護に関する施設要綱」答申(3月)
◆救護課、社会課と改称

◆内務省救済調査会、「資本と労働との関係を円滑ならしめる施設」についての答申を満場一致で可決
◇「大正八年、内務省救済調査会は「資本と労働との関係を円滑ならしめる施設」についての答申を満場一致で可決したが、その中には「労働組合は其自然の発達に委すること」の一項があり、それとの関連で、委員高野岩三郎から治安警察法第十七条第二号の誘惑煽動に関する規定を削除する提案がなされ、これも可決された(『東京経済雑誌』大正八年三月八日)。それは大正八年時点においては、治警法十七条が労使の体制において重要な意味をもつに至っていたことを意味する。ということは、第一次大戦末期以降、労働運動の昂揚の下では、すでに《工場法体制》は維持不可能となり、《工場法と治警法の体制》に移行していたことを示している。その意味で、《工場法体制》はそれが確立した時、すでに解体への一歩を歩み出していたのである。」(隅谷三喜男19770910「工場法体制と労使関係」『日本労使関係史論』pp.3-4)

◇「実は同様の議論は明治四十四年の議会においても、桑田ら《主従関係》論に批判的な論者によって展開されていたのであるが、四十五年以降争議の活発化の下でしだいに優勢となり、工場法が施行された前後から決定的となった。そればかりではない。施行の翌六年には年初から同盟罷工が続発するに至ったが、それは直接的には物価騰貴に触発されたものであるとはいえ、「見脱し難い根本原因は、労働者が次第に明に分配の不公平を自覚せるに至れることである」(『東京経済新報』大正六年八月二五日)といわねばならない。ここでは労働運動には立ち入らないが、労働者の自覚が高まり、《主従関係》を基底とする《工場法体制》を乗りこえ運動を展開するに至ったのである。その意味で《工場法体制》が成立した時、それは二重に維持困難となったのであり、実をいえば《主従関係》を基底とした《工場法体制》自体のなかに、その解体の要因が内在していたのである。
 一つは労働運動が正面に立現われた事態に対応して、治安警察法を以て工場法体制を補完する必要が生じ、そこに第一次大戦後の《治警法と工場法》体制が出現するわけである。もう一つは《工場法体制》自体も再編されざるをえなくなり、それは《主従関係》から《家族主義》への推移である。それによって工場法はより安定的な基底を見出すこととなったのである。こうして《工場法体制》は成立と同時に変質と解体が進みその基底としての《主従関係》が、上下関係の側面は治警法に純化し、共同体的関係は家族主義と結びついた工場法に分化し、両者が補完しあう関係が成立したのである。」(隅谷三喜男19770910「工場法体制と労使関係」『日本労使関係史論』pp.39-40)

◆東京俸給生活者同盟会(サラリーメンズユニオン)発会。
◇「俸給生活者とは、今でいうサラリーマンのことであり、都市化が急速に進んだこの時代には、会社員・銀行員を中心とした俸給生活者が新中間層として登場した。彼らはしゃれた造りの一戸建ての貸家を郊外に借り、平日は電車で通勤していた。俸給生活者の数は1920年前後には、東京市の人口の約 20%、全国民の7%から8%を占めていたという。」(現代用語の基礎知識編『20世紀に生まれたことば』p.101)

◇「第一次大戦後、会社の事務部門・流通機構・公共団体が大規模となり、官公吏・会社職員をはじめとする俸給生活者、いわゆる新中間階層が増大したといわれている。そしてその量的増大は、上下の地位の分化をともなっていた。そして、増大したのは下層の俸給生活者であった。(…)
 下層俸給生活者は、工場労働者より所得は概してやや上であるとはいえ、以前の、また当時の上層の管理や会社員とは、ほど遠かった。しかし、彼らは中間階層なりの生活をする必要があった。ところが、大戦後の物価騰貴およびその後の不況で彼らの生活は圧迫された。(…)
 中間階層において、こうした生活難、失業の危機に直面して、従来みられた、「教養ある」「良家」の妻・娘の、職場進出に対する根強い抵抗は、少しずつ弱められていった。そして、「小学校を卒業したが高等女学校へやるだけのふんぱつもつかぬし、さればとて女工にするのも本意でなし……」という表現にみられるように、女工にするには抵抗があるが、「職業婦人」ならばというのが、中間階層に属する者の心理であったろう。」(岩下清子「第一次大戦後における『職業婦人』の形成」pp.47-48)

◇「以上から、第一次大戦後ともなると大企業には学卒者の定期採用・長期勤続雇用が浸透し、そのため学歴による階層差が固定化することとなったと推測できる。それゆえ、両対戦間期になっても大企業における高学歴者の優遇はたしかに変わらなかったと言いうるのであるが、理科系統の多い日立製作所とは異なり、文科系統が多く進出した三井物産では、学卒者といえども役員にまで上り詰めるのは少数に過ぎなかった。 しかし、昇進問題以上に深刻であったのが高学歴者の失業問題であった。明治末に「高等遊民」の発生として顕在化し始めていた高学歴者の失業問題が、第一次大戦後の不況のなかでさらに悪化したのである。(…)
(…)
要するに、給与面では高学歴者が優遇されてはいたものの、しかし文化系統では高等教育機関卒業者が急増し続け、高学歴者といえども大企業への就職は次第に困難となっていった。かりに就職できたとしても、役職者となりうる可能性はかなり低かった。進学者の増大が、社会移動の手段としての高等教育システムを機能不全に陥らせたのである。」(川口浩編『大学の社会経済史』pp.52-53)

◇「以上の指摘から,「サラリーマン」は単に量的増加によって集団として認知されただけではなく,同時に固有の問題を抱えた集団としても可視化されるようになったのである。更に,この生活難の渦中で,身分差があったはずの工員と職員との収入面における格差の縮小や,時には逆転現象も言及されるようになった。このことは,「サラリーマンの没落」が労働者との対照の中で意識されざるを得ない側面を強めた。客観的な逆転だけでなく,体面を保つために職員層の方が生活が苦しいといった指摘や,「洋服細民」という表現からもうかがえるように,俸給生活者層内の階層分化や「没落」として印象を深めた(実際には,職員下層が拡大したわけなので「没落」とは正確には言えないはずだが)。一方でこの「没落」は,「サラリーマンの階級的自覚」のリアリティを増し,その団結・組合運動への動機と期待をも高めることになったのである。サラリーマン固有の問題として,「組合運動」が必然的にとりあげられるようになったのである。『日本労働年鑑』が1920年(大正9年)の発刊時から「俸給生活者問題」という独立の一編を用意し,翌年度版には既に「俸給生活者組合運動」という項目を設けていたことは,この動機と期待とが反映されている。SMUとは単なる一エピソードでもなければ,単純に客観的な事実でもないのである。」(高橋正樹200106「社会的表象としてのサラリーマン」の登場」『大原社会問題研究所雑誌』No.511,p.21)

◆友愛会7周年大会、大日本労働総同盟友愛会に改組(8月30日)
◇「友愛会が労働組合として新生した大会.麻生久ら水曜会グループ,関西同盟会・東京鉄工組合など改革派の運動により会名を大日本労働総同盟友愛会と変更,本部機関も鈴木文治の独裁を排して合議制とし,理事組織とした.また〈労働組合の自由〉〈8時間労働制〉〈治警法の改正〉〈普選〉を含む20項目を会の主張として決定した.さらに,機関紙を《労働》と改題,本部納入費を10銭から15銭とし,労働組合としての体制をととのえた.」(大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編。〔参〕《総同盟50年史》1巻,)
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1916-20/1919_17.html

◇「B第三の契機、戦後国際労働規約の制定が、そのままわが国の労働組合運動の権原とされたことは、その直後の一九一九〔大正八〕年八月、友愛会の「大日本労働総同盟友愛会」への改組に当って発表された「宣言」と「主張」のうちに端的に物語られている如くであり、またこの年における労働者諸組織の簇生によっても裏付けられている。それは、上に指摘した"理念主導型"労働組合の他の半面がいわば"立法主導型"労働組合に他ならないことを示唆するものだったといいえよう。」(中西洋19770910「第一次大戦前後の労使関係――三菱神戸造船所の争議史を中心として」『日本労使関係史論』p.89)

◇「ここに造船所は、「日給……一円十銭ヲ出」ない程の「推シテ知ルヘキ輩」に職場の主導権をゆだねてよいのかと役付職工の自負心を刺戟し、彼等の役付への選任を「諸子の人格」に信頼をよせたものであると表現し、更に所長自ら「予モ諸子ト同シク会社ノ被傭人ナリ」と言明して、管理・監督者の同質的一体性を強調するに至っていることが注目されてよい。"人格の対等"を標榜する労働運動の高波は、いまや「役員」と「職工」との隔絶した"主従的"身分意識をも解体させはじめていたのである。」(中西洋19770910「第一次大戦前後の労使関係――三菱神戸造船所の争議史を中心として」『日本労使関係史論』p.114)

「だがここで、続く〈再編期〉の労資紛争への展望にかかわって、なおそうした事態の深刻な認識が直ちに適確な新労務政策を打ち出すことを可能にしたわけではなかった点も確認されておいてよい。ことが、単に労働者の経済的福祉如何にかかわるのではなく、彼等の「人格」の承認、彼等の主体的〔団結〕行動の承認如何にあることは、すでに諸争議の根が"友愛会"にあることをよく覚っていた神戸の経営陣にとって頭痛の種であった。後者の側面への積極的対応を目ざして、神戸の首脳と労務担当部局は、一九一九〔大正八〕年一〇月――即ち、上記〈争議Y〉の発生直後、そして内務省「労働委員会法案」発表と殆ど同時に――公選による職工代表委員をもって「労働条件ノ改善」を含む諸事項につき「会社ト職工トノ間ニ意見ヲ疎通」する仮称「工場懇談会」の試案を所内幹部に提示するに至っている。しかも同年一二月三日、それは「工場協議会規則(案)」の形にまで仕上げられて、神戸造船所長から(本店)常務取締役へ送られている。だが、それは三菱資本が長年にわたって維持してきた労務政策の根本原則に抵触するものとして、三菱造船〈本店〉→三菱合資〈本社〉の最終的意思決定を待つほかはない重大事件であった。当面の状況に即応すべく神戸造船所が採用しえた唯一の政策は、「在郷軍人会三菱神戸造船所分会」をいっそう積極的に支援して、「有力なる善良団体」として「当初事業発展上必須ノ機関」となるよう育成し、労働組合の浸透を防ぐ中核勢力とするという保守的・反動的方策のみであった。(…)」(中西洋19770910「第一次大戦前後の労使関係――三菱神戸造船所の争議史を中心として」『日本労使関係史論』pp.116-117)

◆大蔵省印刷局がパートタイマー制度設ける
◇「大蔵省印刷局では9月から雇員の採用に時間給制度を設けることになった。苦学生が就業しやすいように便宜をはかったもので、都合のよい時間に出勤し5時間以上働いたら任意に退局してよいという。」(現代用語の基礎知識編『20世紀に生まれたことば』p.104)

◆国際労働機関(ILO)第一回総会(10月、アメリカ・ワシントン)
◇工業的企業に於ける労働時間を1日8時間かつ1週48時間に制限する条約
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c001.htm
◇失業に関する条約
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c002.htm
◇産前産後に於ける婦人使用に関する条約
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c003.htm
などを採択

◆河合栄治郎、『朝日新聞』紙上に「官を辞するにあたって」を連載

◆第13回社会政策学会(12月、開催校・中央大学、テーマ・労働組合)

■1920年

◆「サボ」「サボる」が流行語。神戸川崎造船所の争議で初めてサボタージュ作戦が採用され賃上げに成功。一般的に使われるようになった。
◇村島帰之19200200『サボタージュ』,梅津書店

◆婦人協会、婦人参政権を要求
◆日本最初のメーデー
◆第1回国勢調査実施。総人口7700万5500人、内地人5596万1140人
◆内務省内に「社会局」設置

◆東京市電気局1920『電気局従業者要求運動ノ顛末概況』
◇「この一連の争議の経緯を詳述する余裕はないが、次の点に注目を促しておきたい。その第一は、この一連の争議は、「平穏且ツ公明ノ手段」をもって五ヶ条の待遇改善を実現せんとする日本交通労働組合の運動に端を発するものであったが、そこには、八時間勤務制(現行は乗務九時間、休憩二時間の一一時間制)、歩合制を廃し日給制とすること、半期末手当を二ヶ月分とすること、退職手当の増額と相並んで、その第一項に「従業員ノ人格ヲ尊重スヘシ」という要求が掲げられていたことである。これらの要求には、第一次大戦とその戦後処理の過程を通じて醸成された時代思潮の明らかな反映をみることができるが、当時、「車掌・運転手が人間ならば、ちょうちょ、とんぼも鳥のうち」と歌われたことからうかがえるごとく、市電労働者が工場労働者に比してすら人格的蔑視に苦しんできたことからすれば、人格尊重が要求の第一項に掲げられたことのうちには、電気局労働者の強い希求がこめられていたといわなければならない。
 第二は、電気局労働者が日本交通労働組合を通じて「平穏且ツ公明ノ手段」をもって待遇の改善をはかろうとしたのに対し、電気局は、一方で強圧手段に訴えながら、同時に他方で労働者の人格尊重の要求を労働組合否認の上に立つ意思疎通機関のうちに吸収することによって、新たな管理体制を創りあげようとしたことである。」(兵藤サ19770910「昭和恐慌下の争議――一九三二年東京市電気局争議に即して」『日本労使関係史論』pp.130-131)

◆農商務省が能率課を設ける。能率運動が全国的に高まる
◇「大戦が始まると日本の海運業はすさまじい好況に見舞われ、船舶需要が急速に高まった。それにもかかわらず、従来依存してきたヨーロッパからの中古船購入が不可能になったため、日本の不定期船業者達は一斉に日本の造船業に船舶建造を発注しだした。その結果、日本の造船業は旧来行われていた受注生産方式ではそれに対応できないだけでなく、そのままではみすみす膨大な利益機会を逸するという状況に直面したのである。そこで造船企業は個々の企業レベルで船型を標準化し、それを反復生産することで、大量の需要に対応しようとした。しかも彼らにとっては、いかに早く船をつくれるかが、利益の増大に直接的に結びついたので、できる限りすばやく反復生産を行なうため工程の改善に本腰をいれた。(…)
(…)
 第一次世界大戦期に生産規模を拡大させたのは、造船業だけではなかった。他の多くの産業も市場の拡大に支えられて、生産規模を拡大させた。しかし大戦が終わるとこれらの産業も市場の急縮に直面せざるを得なかった。そこで、製造業の多くは、一方で企業規模を縮小させつつ、他方で経営の合理化を図らねばならなかったのである。この合理化の必要性は、企業の目を生産現場へと向けさせることになった。生産現場で無駄を排除し、いかに能率をあげていくかが、企業の業績の悪化を防ぐことに直結すると考えられたからである。」(山崎広明ほか『「日本的」経営の連続と断絶』pp.130-131)

◆東大文学部、就職用の掲示板をつくる
◇「東京帝大もご多聞に洩れず、経済学部はまあどうにかしまつがついたが、五〇〇名の卒業生を出す法学部は青息吐息、首を切るのに精一杯の会社が、当面ソロバンもはじけず、セールスもできない、ただ幹部候補生というだけの法学士をとるはずがない。そこで学生は、もっぱら高文試験(上級公務員試験)の受験勉強にフウフウいっていた。そのなかで、まったく金に縁のない文学部と理学部の卒業生だけが高値で、飛ぶように売れたのだから、ウソみたいな話である。
 なぜそうなったかといえば、第一次大戦末期から、高等学校・高等専門学校がボカスカでき、それにつれて中学校も大増設した。また、大学令の改正で、高等専門学校や私立大学が大学に昇格した。大学の先生は足りない。そこで、ただでさえ足りない高校や高専の先生が大学に引きぬかれ、ひいてはこれもまた増設、増募で手いっぱいの中学の先生が高校、高専に引きぬかれる。先生の不足は、不足が不足を生み、また不足を生む、という情況だったのである。これは、学校の増設、学生の増募と、景気変動の波がちょっとずれただけの話である。
(…)
不景気には勝てないというわけで、帝国大学の品位をけがすような就職用掲示板をつくったのなら、就職難をめぐってのいじらしいエピソードとなったろうが、実はまったく逆で「不景気の文学士高」を誇ったデモンストレーションだったのである。」(尾崎盛光『日本就職史』pp.108-110)

◇「以上のように、就職難に最も苦しんだのは、私立の文科系の卒業者であり、逆に官公立の理科系学生はそれとは比較的無縁であった。しかし、私立文科系学生の大半は大都市部の学校に在籍し、しかも高等教育全体のなかで大きな割合を占めていたから、そのことが深刻な就職難のイメージを広く流布させる結果をもたらしたといえよう。とはいえ、相対的に恵まれた境遇であったものにとっても、その就職状況は大戦ブーム期の先輩たちと比べれば明らかに悪化していたのである。」(伊藤彰浩『戦間期日本の高等教育』p.120)

◆第14回社会政策学会(12月、開催校・商科大学、テーマ・中間階級問題)

■1921年

◆戦前最大のストライキと呼ばれる川崎・三菱神戸造船所争議が起こる。その後企業側は、工場委員制度で労働組合を代替しようとするようになる。
◆企業別組合が結成され始める

◆職業紹介法成立、公益職業紹介施設の全国的設立が決定
◇「日本における公共職業紹介制度の発展の基礎を築いたのは,無料職業紹介を行う公営職業紹介所の設置を定めた1921年の職業紹介法である.よく知られているように,職業紹介事業が1936年に道府県に移管され,ついで38年に国営化されるまでは,日本の職業紹介所は市町村営が中心だった.職業紹介法は,これらの公営紹介所間の事務の連絡統一をはかる機関として,中央および地方職業紹介事務局を置き,内務大臣がこれを監督することを定めていた.」(苅谷ほか『学校・職安と労働市場』p.67)

◆安田保善社、大学卒の恒常的採用に踏み切る
◇「「一等社員から一等重役へ」の諸氏を生んだ一九二〇年前後(大正後半期)は、今日のサラリーマン制度ができあがった時代である。制度の第一は身分制度、すなわち微分的な階級制度である。わが国の社会は、身分制度なくしては夜も日も明けなかったのである。
(…)
 身分制度はまず学歴と直結する。王子製紙の身分制度を例にとれば、大学卒はまず準社員として採用され、準社員を半年か一年すると社員に昇格する。ところが、中学校や商業学校卒はその下の雇員か準雇員として採用され、まずくすると大半の年月をその身分で終ってしまう。準社員から社員に進む道は閉ざされているわけではないが、それには気の遠くなるほどの年月を要するのである。こうして、まず出発点において、大学卒とその他では、はっきりと一線が画されている。(…)
 こうした趨勢にかなり長いあいだ抵抗を示していたのは安田系であった。
「ともかくも、安田一家の方針は、給仕いな小僧あがり、万やむを得ずんば中学程度に限りこれを採用して、安田一流の養成教育を実施したのであった」
 しかしこれも「とうてい時代の趨勢に勝つあたわざることが自覚され、競って学校出の秀才を採用せんとするに至った。(天外散史「面目一新したる安田家の社員待遇法」)
 それというのも、「安田系銀行の統一の必要と、対世間的に多少の人材を募集する必要もあったから」(「安田王国の解剖」=「太陽」大正十三年三月号)である。
 つまり、第一次大戦後の反動恐慌にさいして、企業の集中・合併という独占ムードに応じて、家憲に反しても大学卒を取り入れるようになったのである。」(尾崎盛光『日本就職史』pp.82-84)

◇「大正後半期、つまり一九二〇年代の前半に大学・高専を卒業した人々のなかには、第二次世界大戦から今日にいたるまでの時期に、長期にわたってわが国の実業界を背負ってきた人が多い。
(…)
まず第一に、これらの人々の大半が、大学卒業後最初に足をふみいれた会社を(少くとも同一系統の会社を)終始一貫して勤め上げていることである。そして、そこに根をはり、一歩一歩、堅実に階段をあがって、位人臣をきわめた、ということである。これを終身雇用制と年功序列制の確立ということもでき、またサラリーマン重役(社長)制の定着ということもできる。」(尾崎盛光『日本就職史』pp.71-77)

◇「ここでおもしろいのは、明治時代の安田保全社の練習生制度と、この時代の新入社員教育とのちがいである。本質的には、愛社精神をたたきこむというあたりで一致しているだろうが、方法論としてはまったく対照的である。練習生制度の場合は、すぐ実務につかせる商業・中学卒に対し、大学教育にかわるものをほどこして、将来の幹部を養成しようとしたのである。ところが、この時代からはじまった新入社員教育は、形式上の幹部候補生に、下っ端サラリーマンの実務を習わせる、というのが主たる眼目であった。」(尾崎盛光『日本就職史』p.114)

◇「第一次大戦期以降、企業が成長し、それに伴いホワイトカラー層の拡大も加速した。企業は、大卒者への需要を増大させていくことになる。他方で、不況のために大卒者の就職難がこの時期には進んだ。そうした中で一九二〇年代になると、企業は特定の大学を介して、人材の紹介・斡旋を受けるという採用パターンを確立した。(…)
 安田系の企業における大学卒業生の採用については、安田保善社が一括して行っていた。保善社は系列企業に所要の人員を問い合わせたうえで、採用人数を決定し、特定の大学に対して志望者の推薦を依頼した。その際、それぞれの大学別に採用人数をほぼ決めていたが、実際の選考にあたってその数の変更が可能なように、各校には「若干名」として申し込んだ。(…)」(川口浩『大学の社会経済史』pp.198-199)

◆第15回社会政策学会(12月、開催校・東京帝国大学、テーマ・賃銀制度並に純益分配制度)

■1922年

◆「日本共産党」結成
◆コミンテルン『日本共産党綱領草案』(「22年テーゼ」)

◆未成年飲酒禁止法公布 お産休暇
◇「文部省は9月、女教員・保母の産前産後の休養を有給とすることを認めるように訓令を出した。出産休暇の始まりである。」(現代用語の基礎知識編『20世紀に生まれたことば』p.118)

◆朝日新聞社説「実業界からの教育改善運動」

◆朝鮮戸籍令公布
◇「併合当時の朝鮮人は、保護国だった韓国時代に制定された民籍法にもとづく民籍に編入されており、さらに一九二二年には総督府の制令として朝鮮戸籍令が公布されたが、いずれも朝鮮のみの法律で内地の戸籍法とは法体系が別であった。すなわち、朝鮮と内地では戸籍の裏付けとなっている法が異なっていたのであり、両者を連絡する規定を設けないでおけば、わざわざ朝鮮人の本籍移動禁止を法文上に記さなくとも、内地―朝鮮間での移籍手続きが存在しないことになる。国籍の場合とおなじく、ここでも大日本帝国は、法文上に差別を明記することを巧妙にさけたのである。
 このように、国籍のうえでは強制的に「日本人」に包摂しつつ、戸籍によって「日本人」から排除する体制が出来あがった。この体制は台湾にも反映し、やはり内地の戸籍法を施行しないという手法をとって、台湾人の本籍移動が実質的に禁じられることになる。地域レベルのみならず、個人レベルにおいても、朝鮮や台湾は「日本」であって「日本」でない位置をあたえられたのである。」(小熊英二『〈日本人〉の境界』p.161)

◆ILOの失業条約(1919年・第2号)を批准(11月23日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c002.htm

◆ILOの海員紹介条約(1920年・第9号)を批准(11月23日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c009.htm

◆内務省社会局が外局となり、戦後の労働省の骨格が形成される(11月)

◆第16回社会政策学会(12月、開催校・慶應義塾大学、テーマ・我国に於ける小作問題)

■1923年

◆関東大震災、デマで朝鮮人を虐殺

◆丸ビル竣工
◇「ビジネスセンターの象徴としての丸の内ビルディングが完成した大正末期、事務職女性に対する社会的な注目はひとつのピークに達していた。メディアは、アメリカ的建築様式を取り入れた近代的なオフィスビルで働く女性オフィスワーカーたちを大きくとりあげた。(…)そして「一度……這入つた人なら、誰でも見逃す事の出来ないのは、各階の廊下を右往左往してゐる若き女の群れである」。「立派な化粧室を備えた」女性用トイレから、「白粉頬紅」「口紅」「襟足の化粧」「胸の化粧」など「何処を見ても大理石の如く艶やかに輝い」た女性たちが日々生み出されていく。各種の「職業婦人」調査にも、服装や化粧品への支出をたずねる項目が設けられた。メディアのなかのこのようなイメージには、戦間期の女性事務職という存在がもっていた意味の、もうひとつの側面が表れている。それは、職場の秩序とは異質なもの、それを乱し、それに対立するものの象徴としての女性事務職という見方である。(…)」(金野美奈子『OLの創造』 p.86-87)

◆住友銀行の新入社員教育が系統化される
◇「新入社員教育が系統的かつ制度的におこなわれるようになったのは、ほぼ大正十年代に入ってからで、それ以前には、ほんの一、二ヵ月、勤務時間の前後に、いわば業務の補助程度におこなわれただけのようだ。記録によれば、住友銀行は、大正十一年までは、入社後約五十日間、営業時間の前後に一般実務の練習をさせていたのを、大正十二年から改めて、約五ヵ月間、新入社員を集めて就業時間内に系統的な教育をほどこすことになったとある。他社も、おおむねこのころから制度化したと思われる。」(尾崎盛光『日本就職史』p.112)

◇「大学卒の無差別待遇とならんで、震災前後を特徴づけるものは、人物試験、人格主義というようなことばである。「箱根八里は馬でも越すが」をもじった「大井川なら俺でも越すが、越すに越されぬ人物試験」という文句が、大学生のあいだに流布された。
 山名氏の指摘のとおり、試験、試験でためされた頭にたいする評価が下がってきたような時代だから、各社とも「社員採用の基準は?」と聞かれた場合、「人格第一」という判でおしたような答がでてくるのであった。そして、社長・重役などが列席して口頭試問によって品定めをする「人物試験」が、もっとも重視された。」(尾崎盛光『日本就職史』p.135)

◆スポーツ選手に対する企業の評価が上がり始める(尾崎盛光『日本就職史』p.140)

◇「住友系各企業の場合は、関西地方の大学の卒業生については住友合資大阪本社、また関東地方の卒業生については東京本社でそれぞれ別々に採用試験が行われていた。いずれの場合も指定した各学校に人材の推薦を依頼し、そこで選抜された学生についてのみ選考試験を行った。試験は人物を重視した面接で行われ、採用人数はその時の成績により多少の変動はあるものの、あらかじめ各学校別に決められた予定数が採られていたようである。」(川口浩『大学の社会経済史』pp.199-200)

◆早稲田大学、1921年に設置した臨時人事係を常設にして人事係と改称(25年に人事課に昇格)
◇「早稲田で就職指導を担当していた坪谷の著書から、就職活動の制度化の具体的内容を見ることにしよう。
 それによると、各学校は、企業から採用の申し込みがなされる一二月頃の前に、活発な就職活動を開始する。すなわち各校の人事課(係)は、まず各企業に対して、「明年卒業すべき各学科の卒業人員や、其の氏名、出生地などを詳記したる宣伝書を配つて、採用の申込を求め」る。その後、「更に人を派遣し、直接に面談して採用を請」うが、「人物採用の依頼には、先方の重役級の人に面会の必要がある為めに、何れの学校でも相当の位置の人が出張」していた。また、こうした「採用依頼の運動は年々猛烈」になっていった。
 さて、各企業からの採用申込書は、「大抵各会社銀行の人事係の名で到来する」。(…)申し込みには、各企業からいろいろな条件が付けられたが、その中でほぼ一致している条件は、「(一)健康なること(二)学績優秀なること(三)人物の堅実なること」だった。
 企業から申し込みを受けると、大学は「申込条件に適当する様な学生の意見を聞」いて、推薦を決定し、「学校当局者」から企業に対して、推薦状、自筆の履歴書、成績証、健康証明書、本人の写真、そして戸籍謄本が送られる。(…)」(川口浩『大学の社会経済史』pp.202-203)

◆第17回社会政策学会(関東大震災の直後で開催されず)

◆ILOの最低年齢(農業)条約(1921年・第10号)を批准(12月19日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c010.htm

■1924年

◆ILOの最低年齢(海上)条約(1920年・第7号)を批准(6月7日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c007.htm

◆ILOの年少者体格検査(海上)条約(1921年・第16号)を批准(6月7日)
 http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/standards/st_c016.htm

◆アメリカ、連邦移民法改正。日系移民が完全にシャットアウト

◆明治大学、人事課を設置し、理事と教授で構成する就職委員会を組織

◆大阪市社会部調査課『朝鮮人労働者問題』
◇「朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成』の稿で説明しているように、1924年は朝鮮総督府、中央職業紹介所、内務省社会局などが大阪や東京をはじめ全国の在留朝鮮人の動向や在り方をほとんど同時に調査し始めた年であった。それだけ在日朝鮮人が日本社会とその労働市場に大きな位置を占め無視し得ない状況になってきたということであろう。(…)
 なぜ日本にやって来ざるを得なかったのか、「来往の原因」「来往の結果」に一番多くのページを費やしているなど当時の問題意識をまざまざと映し出している。にもかかわらず、雇用関係や生活状況・収入の項目で、「組頭」とか「部室頭」という名で、土方や人夫が主であった在日朝鮮人労働者の20年代における在り方を如実に示している点、がいかにもナイーブでじつに光っている。在日朝鮮人を下宿させ、仕事を請け、労働者を自己の指揮の下に働かせ監督し、きか労働者に代わって労賃を受け取り多額の口銭をピンハネする、典型的な親方制度がそこに明記されている。ようやく日本の底辺下層に定着しようとしていた在日朝鮮人労働者の労働実態、雇用関係、生活・教育を直視した調査として、きわめて価値が高い。20年代在日朝鮮人についての基本的データ、と言っても良いだろう。
 もちろん、こういった広く内務省管轄化において調査を担当をした人たちは、在日朝鮮人労働者が、勃興せんとする水平運動や、あるいは朝鮮独立運動と結ぶことの無いように、彼らの悲惨な実情をキチンと踏まえ対策を講ずるべきだという考えもとに、こういった調査を実施している(5ページなど)。当時ようやく燃え上がらんとしていた朝鮮人による共産主義的な、あるいはアナキズム的な運動・思想の種を予め封じこめてしまいたい、というのも、狙いの一環であったことは否定できないであろう。」(日本寄せ場学会編『寄せ場文献精読306選』『朝鮮人労働問題』pp.35-36)

◆第18回社会政策学会(12月、開催校・大阪市実業会館、テーマ・労働組合法問題)

◆内務省、労働者募集取締令(12月)

■1925年

◆普通選挙法成立
◆治安維持法成立

◆細井和喜蔵『女工哀史』
◇「細井は、十三歳で尋常五年で小学校を中退し、機屋の小僧となって自活生活に入ったのを振り出しに、一九二三年(大正12)まで約十五年間、鐘紡紡績、東京モスリン亀戸工場などで職工をした。そしてその時の経験と観察に基づいてこの本を書いた。対象は紡績と織布の女工であるが(製糸女工は含まれていない)、一九二〇年代の女子労働者の生活記録の書として古典的な地位を占めている。
 『女工哀史』では、日清戦争後の女工の募集難、女工の争奪と強制送金制度の開始など、女工募集の「自由競争時代」を経て、大紡績工場における福利施設の充実などをめぐる競争へと至る過程も描かれている。」(猪木武徳『学校と工場』p.61)

◆「少年職業紹介ニ関スル件」、小学校卒業後ただちに求職するものに対して小学校と職業紹介所とが提携協力して指導にあたることが指示された。労働行政と文部行政の連携の始まり
◆「少年職業紹介ニ関スル件依命通牒」
◇「その具体的内容は,職業紹介所が特定の小学校と提携・協力して,まず在学中の児童の「適職」を「科学的」な観点に立って判定し,それをもとに卒業後の就職の斡旋を行う,というものであった.大まかにいえば,適職の判定までは生徒や父兄に理解をもつ小学校が中心となり,その後の具体的な求人とのマッチングは原則として労働市場の状況に通じた職業紹介所が担当する.1925年の通牒が内務省と文部省の連名で出されたのは,そのためである.職業紹介所と提携関係を結んで,こうした新規学卒者の職業紹介事業に携わる学校は連絡小学校と呼ばれた.26年には全国で1925校だった連絡小学校の数は,34 年には5685校にまで拡大した.」(苅谷ほか『学校・職安と労働市場』p.68)

◇「ところで,少年職業紹介の実績をみると,1926年の就職数は6300人だったのが,30年にはその10倍近い6万400人(うち新規学卒者1 万6700人)に増え、不況が深刻化するなかにあっても取り扱い数がきわめて順調に拡大したことがうかがわれる.」(苅谷ほか『学校・職安と労働市場』pp.69-70)

◇「このような議論の大枠を規定していた問題意識,それは,年少者が学校を出たあとに生じうる,〈すきま〉をできるだけ排除することにあったと考えられる.戦前の青少年問題を扱った文献からは,すでに,こうした間隙に若者が吹きだまり,失業と転職をくりかえしていることこそが「少年不良化」の温床になっているとする指摘を,しばしば見いだすことができる.少年不良化は,ひいては思想の悪化をもたらし,日本の「国体」を危うくする一因ともなりかねない.こうした危険な空白を生ぜしめない方法,それが1つは若者を学校に囲い込むことであり,いま1つは,彼らを職業に定着させることであった.要するに,日本の少年職業紹介は,単なる労働市場政策ではなく,青少年問題・都市問題に対する対策としての性格を濃厚にもっていたのである.」(苅谷ほか『学校・職安と労働市場』pp.216- 217)

◇「内務省社会局は,少年職業紹介事業の開始にあたって,関係者を集めて5日間にもおよぶ講習会を開催した.その際,中央職業紹介事務局の技官である三沢房太郎が行った講演は,この事業のそうした性格をよくあらわしている.

 「只今の少年はその職業に関しては彼等は全く無智であります.又自己の有する才能は何に適するかも知って居りません,或るものは就職するも青年に達す頃には解雇されて転職を余儀なくされています.加之彼等は何等の保護監督も受けて居らぬ為め道徳的標準は低下し為めに不良少年激増の因となって居ります.彼等は全く不熟練労働者であり,常に失業の運命に彷徨して居るのであります」.

 三沢によれば,少年職業紹介の意義は,まさしくこうした現状にかえて,少年を「心身共健全なる人格者」に育成するために,彼らに「永続的職業」を用意することにある.ところが,少年は職業について無知であり,自分の適性についても心得ていないから,「之を個人に任せると種々な弊害を生じる恐があ」る.そこで,「国家が彼等に適当な職業を準備してやったり,就業を制限し,監督を為したり或いは直接職業に指導してやる必要があ」るのである.」(苅谷ほか『学校・職安と労働市場』pp.217- 218)

◆内務省、営利職業紹介事業取締令(12月)


*作成:橋口 昌治
UP:20081201 REV:20100514 1215 20110706 0713
労働
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