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労使関係年表(出来事と研究) 〜1900年

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■1867年

◆大政奉還(11月10日)
◆明治天皇即位
◆マルクス『資本論』第一巻

◆エリス(義里士)著,神田孝平訳『経済小学』
 http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000025/I000152861
 http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000025/I000152862

■1868年

◆王政復古の大号令(1月3日)

■1869年

◇「ところで、広義の臨時工は、先に記した通り、その中に狭義の臨時工と人夫とを含んでいた。しかし、実際の文献では、臨時職工または臨時工と人夫とが同列に扱われていることが少なくない。言葉としては存在しないが、臨時職工に相当する者は明治初年からすでに存在していた。横須賀造船所、一八六九(明治二)年の記録によれば、職員以外の労務者は、水夫・火夫、抱職工、常雇職工、職工手伝、寄場人足に分かれていた。(…)この内、抱職工は江戸時代の「お抱」職人に、また後の常傭工につながる者と考えられ、その数は極めて少ない。常雇職工は、常雇と言う名称にも拘わらず、流動性の高い「渡り職人」または「渡り職工」を指す一般職工に相当し、その数は非常に多かった。職工手伝は徒弟ないし見習工に当り、彼らの従事した作業は補助的なものであったと推測される。さらに、寄場人足は人夫を指し、その名称から江戸時代の名残が感じられる。」(間宏19931203「解説」『臨時工問題(日本労務管理史資料集第8巻)』,p.4)

■1870年

◆「高島炭坑騒擾」、近代的炭鉱での最初の騒擾として知られる
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1858-70/1870_3.html

■1871年

◆戸籍法制定(4月)
 http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m04_1871_01.html

◆イギリス、労働組合法。世界で初めて労働組合の法的承認が実現

◆解放令(太政官布告)、「職業選択の自由」の布告(8月)

◆田畑勝手作禁止令の廃止(9月)

■1872年

◆「地所四民共永代売買所持ヲ許ス」(太政官布告第50号,2月)
 http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m05_1872_01.html

◆学制発行ノ儀伺(8月)
 http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m05_1872_02.html

◆「人身売買ヲ禁シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ解放シ之ニ付テノ貸借訴訟ハ取上ケス」(太政官第295号,「芸娼妓解放令」,10月)

◆東京府、雇人請宿規則を制定
◇「これは,請宿業者は保証人を付して願い出,免許鑑札を受けるものでなければ営業を禁じ,手数料を給金の5%に制限し,被紹介者に対する一般的責任を負わしめ,被紹介者が雇傭期間中に解雇された場合は請宿業者にその前借金等を弁償させるというものであった。翌1873年,業者に組合を組織させ,取締及び年行事を置き,自治的取締りを行わせた。1877年に同規則が改正され,請宿世話料は給金の10%とし,雇主及び雇人から5%ずつ徴収することを認めた。また,請宿主に雇人の身元を調査する職務を負わせた。」(濱口桂一郎『労働法政策』p.55)

◆「東京養育院」設立

■1873年

◆地租改正方法伺
 http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m06_1873_03.html

◆「大不況」始まる(〜1896年)

◆明治六年政変(10月)

◆「内務省」設立(11月)

■1874年

◆「民撰議院設立建白書」(1月)

◆ゼームス・イー・ゾロルド・ローゼルス著,高橋達郎訳『泰西經濟新論』文部省(〜1878年)
 http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000025/I000057498

◆恤救規則(太政官達第162号,12月)

■1875年

◆立憲政体の詔書

■1876年

◆三井銀行創業、雇用関係の近代化
◇「三井は、江戸期には呉服業と両替業を経営活動の中心に据えて事業展開をしてきたが、明治維新期の社会的・経済的変動期の危機をのりきるために、在来的業種である祖業の呉服業を分離し、近代的業種である銀行業を中心にした経営組織の再編成をすすめ、1876年に三井銀行を創業した。これを契機に、三野村は主人と奉公人の主従という関係を、三井家同苗と使用人は「共に社友」という対等な関係にした。また、住み込みを原則として、主人が衣食住の面倒を見るという奉公人制度を廃止し、すべての使用人を通勤制にして、給料を支給するという使用人制度にかえた。
 奉公人制度から使用人制度への転換は、使用人制度の教育訓練に大きな影響をおよぼすことになる。奉公人制度のもとでは、教育やしつけは、奉公入りした 12-3才のころから、昼間は業務の見習い、夜は読み書き、算盤の稽古といったように日常的におこなわれたが、通勤制になると、基本的な算筆をすでに修得しているものが求められるようになる。また以前のように大量採用・大量淘汰を人事管理の基本として、優秀なものを選抜し育成するという方式では、新入りのものにも給料を支給するので、コスト負担が大きくなる。そのため、採用段階でかなり厳しい採用基準を設けて選考をおこない、採用人数を少なくせざるをえない。そこで基準となったのは、一定水準の「学力」を有しているかどうか、またどの程度の学校教育を受けているかといったことであった。また銀行員は現金を扱い、信用がとりわけ重要なので、身元の確かなものであることが求められたし、技能や適性も重視された。」(千本暁子「ホワイトカラーの人材育成と学校教育への依存」p.18)

◆佐久間貞一が秀英舎(活版印刷所)を開業(10月)

■1877年

◆専門学校改称ノ儀伺
 http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m10_1877_02.html

■1878年

◆「商法会議所」が東京、大阪、神戸に設立される
◇「(5)東京商法会議所設立の理由は、@条約改正促進のための商工業者の世論機関の急設が必要であった」こと、A「殖産興業、特に外国貿易振興のために協力する商工業者の機関を必要とした」ことであった(東京商工会議所『東京商工会議所百年史』一九七九年、二七頁)。」(五十嵐仁『労働政策』p.234)

■1879年

◆「同愛社」設立。東京府下で民間初の貧民救療施設

■1880年

◆乗竹孝太郎「労資の関係」『東京経済雑誌』第21号(2月28日)、「労者の連合」『同』第25号(4月21日)

◆刑法治罪法第270条  http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/793813

■1881年

◆礫川散史「救貧一策」『東京経済雑誌』第56号(3月15日)

◆「農商務省」設立

◆松方正義、大蔵卿就任。松方財政
◇「石川島人足寄場に収容されていた無罪の無宿人を初め、幕藩体制の瓦解にともない、はじかれ放り出された多くの農民や町人は、明治国家体制下においても引きつづき隔離収容施設に閉じ込められたり、あるいは肉体重労働に従事するなど、その大部分が下層に組み込まれていった。後には没落士族層も、ほぼ同じ運命をたどった。1870代半ば以降本格的に実施されていった地租改正と、81年以降展開されたデフレ政策を軸とした松方財政とによって、離農者と貧窮者が急増、明治新体制下における近代的な賃金労働者群のもとを形づくった。
 こうして、封建体制下の沈殿層と近代資本主義体制における窮乏層とが一体となって、80年代には全国的に底辺下層社会(貧民層、細民層などと呼ばれた)が生成されていった。近代寄せ場の成立である。90年には初めての資本制恐慌が起こり、寄せ場は拡大し確立する。
 この時期の労働に特徴的なこととして、囚人労働の大量使用が挙げられる。三池炭鉱は20世紀初頭に至るまでもっぱら囚人労働によって莫大な収益を上げていたし、80年代末から90年代半ばにいたる北海道開発もまた、その多くを囚人労働に依っていた。そしてまた、産業革命を担った製糸紡績業もまた、寄宿舎に女工を閉じ込めつつ過酷な労働を強いたことで知られている。少し後になるが、製鉄、機械業における組夫など臨時労働者の存在もまた、重要不可欠であった。彼らの労働は、何らか自由を制限されながら労働を強制されるという意味での拘置労働に他ならなかった。
 近代日本国家なるものは、そうした下層の、時には差別、隔離、収容を含む不自由さと、厳しい重労働との上にそびえ立つ構造として出来上がっていたのであった。」(日本寄せ場学会編『寄せ場文献精読306選』p.2)

◆小崎弘道「懲矯院を設けざる可らざる議」『六合雑誌』

■1882年

◆工場法制定の検討が始まる。

◆大久保常吉編『日本政党事情』兎屋誠(9月)
 http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000001/I000872632
◆ウ?ルセイ著,宍戸義知訳『古今社会党沿革説』弘令社出版局
 http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000008/I000123908
 http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000008/I000123909

■1883年

◆「三池集治監」開庁(4月)
 http://www.omuta-arao.net/history/shujikan/shujikan.html

◆森下岩楠『経済原論』中近堂
 http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000008/I000056834

◆「三池炭坑囚人暴動」(9月)
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1881-90/1883_4.html

◆「高島炭坑暴動」(9月)
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1881-90/1883_5.html

■1884年(明治17年)

◆農商務省『興業意見』

◆長崎「三菱造船所」開業

◆東京印刷会社の活版工らが活版工組合設立を計画するも失敗(10月)

◆斯担利日奔(スタンリ?・ゼヴヲンス)著,渡辺修次郎訳『経済初学』松井忠兵衛
 http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000008/I000055208

■1885年

◆高瀬真卿「私立予備感化院」設立

■1886年

◆天野為之『経済原論』富山房(3月)
 http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000008/I000057427

◆最初の「帝国大学令」(3月)
「第一条 帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攷究スルヲ以テ目的トス」

◆第一次「小学校令」(4月)

◆雨宮製糸争議(6月)、日本初のストライキ。女工側の要求がほぼ全面的に通る

◆「アメリカ労働総同盟(AFL)」創立、サミュエル・ゴンパーズが会長に就任

◆高野房太郎、「商業研究のため」サンフランシスコに渡る(12月2日)
 「高野房太郎と労働組合の誕生 2生い立ち」
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/takano/takano02.html

◆三井銀行、試験による行員採用法を定める
◇「本人の健康状態や品行、本人と身元保証人の資産状況などの調査をしたうえで、受験が許可される。受験者の年令によって、試験科目が異なり、丁年以上のものを対象とした試験は、和漢書、算術、楷行書、営業上往復文書、簿記、経済学、法律、洋学、会話談判の8科目で、未丁年を対象とした試験は、小学校高等科・中等科の範囲内である。合格者は、30日間、試補として簿記課、債務課、金庫課の3課以外の課に配置されて才能が試された。」(千本暁子「ホワイトカラーの人材育成と学校教育への依存」p.18)

■1887年

◆横浜野毛山の指物職人が賃上げを要求して親方の家へ押しかける(1月)

◆フランスのパリで労働取引所が設置される(2月)

◆石川島造船所の鉄工らが組合結成を相談するが失敗(2月)

◆石井十次「岡山孤児院」設立(9月)

■1888年

◆雑誌『日本人』、高島炭鉱の鉱夫虐待事件を暴露。「社会問題」に
◆後藤新平「職業衛生法」『大日本私立衛生会雑誌』63?66号,68号,1888?1889年

■1889年

◆「同盟進工組」結成
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1881-90/1889_4.html

◆三菱長崎造船所、親方職長層に代わる熟練工を自ら養成し始める

◆後藤新平『国家衛生原理』
 http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/836881/1

「後藤新平はドイツ留学前の一八八九、九〇年、『国家衛生原理』と『衛生制度論』の二著書を著し、衛生技官から国家衛生行政分野への進出の道を拓いた。この時から彼がとりわけ関心を示したのは「広義衛生」の解釈に含まれている、救貧中心の社会政策の面であった。留学の二年間を通じて彼は、ドイツの社会政策をはじめ、イギリスの救貧、公衆衛生政策など各国の先進制度から養分を吸収し、帰国後の一八九二年末、内務省衛生局長に昇任するや、社会政策の実現を目指して精力的に動き出したのである。第一次(一八九二年一一月〜九三年九月)、第二次(一八九五年九月〜九八年一月)と、衛生局長として在任した通算三年余において、彼が推進した労働者疾病保険法案をはじめとする数々の社会的施策への建言は、その試みの一歩であった。」(姜克實『近代日本の社会事業思想』p.191)

◆秀英舎の印刷工が労働組合の組織化を図るが失敗

◆『試験及第法』

■1890年

◆長崎「三菱造船所」において「工場規則」(「負傷休業手当」規定を含む)、「職工見習規則」制定

◆窮民救助法案、第一回帝国議会に提出されるも廃案

◆活版印刷工同志会が結成され第1回総会を開催(9月)

■1891年

◆高野房太郎、城常太郎、沢田半之助らサンフランシスコで「職工義友会」を結成(夏頃)

◆高野房太郎「日本ニ於ケル労働問題」『読売新聞』1891年8月7〜10日

■1892年

◆佐久間貞一「職工組合の必要」『東京経済雑誌』第25巻617号(4月2日)、『国民新聞』1892年4月5〜8日

◆三井銀行、1986年制定の試験規則を改正。高等教育を受けた人材を多く採用するために、必要なものにだけ試験を課すようにした。

■1893年

◆三井銀行、履歴書の書式を改める
◇「(…)履歴書に記載すべき事項として、教育を受けた学科、年月、学校や塾名、先生の名前、官庁・銀行・会社などに勤務した年月、勤務中の賞罰、退職辞職の年月、職業・技芸をあげている。こうした改革から、採用基準が「試験の結果」や「学力」から、「出身校」や「経歴」にかわったことがわかる。」(千本暁子「ホワイトカラーの人材育成と学校教育への依存」p.19)

■1894年

◆長崎「三菱造船所」において「臨時職工制」の採用

◆「日清戦争」開戦(7月)

■1895年

◆長崎「三菱造船所」において「組長」制の確立

◆「日清戦争」終戦(4月)

◆日本で最初期の女性事務職採用。茨城県河内郡竜ヶ崎町役場と三井銀行大阪支店
◇「明治後期、良妻賢母思想という新しいジェンダーのもと事務の職場で女性が「発見」されたことは、「職場は男性のもの(であり女性のものではありえない)」というジェンダーが、そのままのかたちでは、職場世界の解釈する枠組みとはなりえないことを示していた。一方、同時に見出された男性たちの状況はこのように多様なものであり、「男性」と「女性」の間に境界を設けることを困難にしていた。組織の拡大に伴い学卒者を含めた事務職にそれまでとは異なった資質が求められるようになっていたこと、それらを基準とした場合、「男性」に対するかならずしも好意的とは言えない評価、さらに、「女性」に対する積極的な評価の存在によって、明治三〇年代の事務職の職場は、ジェンダーによっては解釈の困難な要素を数多く抱えるものだった。そこでは実際、「男性」と「女性」というカテゴリーは、人々の視点のなかで、相互に交換可能だととらえられるものだったのである。」(金野美奈子『OLの創造』p.36)

■1896年

◆第2次伊藤内閣、治安警察法案を提出するも貴族院で否決

◆農商工高等会議で「職工条例」の設定に関する諮問が出される

■1897年(明治30)

◆高野房太郎、城常太郎、沢田半之助ら、東京で「職工義友会」再建(4月)
◆パンフレット「職工諸君に寄す」発行

◆「労働組合期成会」結成(7月5日)
◇「高野房太郎と労働組合の誕生 1はじめに」
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/takano/takano01.html

◆「工場法」案、成案

◆日本最初の労働組合である「鉄工組合」創立(12月1日)
◇「高野房太郎と労働組合の誕生 6労働組合期成会の創立」
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/takano/takano06.html
 *東京砲兵工廠の労働者が最大勢力

◆労働組合期成会の機関紙『労働世界』創刊。編集長は片山潜(12月1日)

◆三菱長崎造船所職工救護法(12月23日)
◇「同造船所は,1890年制定の工場規則で業務上の負傷への扶助料支給を定めていたが,新たに制定されたこの職工救護法では,(1)業務上の負傷への社費施療,(2)業務上および業務外の負傷・疾病で欠勤する際の手当ならびに退職手当を,新設する労使双方醵出の〈救護基金〉から支出することが定められた.最大のねらいは,職工を定着させ,その勤続を長期化させようとするところにあった.」(大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編。〔参〕三菱長崎造船所職工課《長崎造船所労務史》1930.)

■1898年

◆日本鉄道「矯正会」結成 戦前の企業別組合
 戦前の企業別組合では他に、東京砲兵工廠の小石川労働会、大阪砲兵工廠の向上会、八幡製鉄所の同志会、芝浦製作所の技友会、住友伸銅所の新進会などがある(いずれも第一次世界大戦直後に結成)。

◆「工場法」案、農商工高等会議に諮問される

◆基幹熟練工養成のため「三菱工業予備学校」設立

◆「社会主義研究会」設立
◇「日本の社会主義史の初期において、キリスト教社会主義の演じた役割が大きかったことは、前述したが、その助産婦の役割を演じたのは、キリスト教界――一八九八年以降はユニテリアン――の機関誌であった『六合雑誌』である。『六合雑誌』は一八九六年十一月に早くも「社会主義の必要」を論じ、「宗教は由来社会主義と親しかるべき筈のもの」と主張した。そして翌月には「本誌は今後社会主義に就いて続々論ずる所あるべし」と、雑誌の方針を宣言した。社会民主党創立者の一人で、その宣言を執筆した安部磯雄は、そのころから『六合雑誌』を舞台に社会主義を論じたが、かれはビスマルクの国家社会主義を社会主義とは異質なものと見るなどの点で、片山より正確な社会主義の知識をもっていた。
 一八九八年、『六合雑誌』が媒介となって、社会主義に関心をもつ人々が集まって、社会主義研究会を組織した。片山もこれに参加したが、このころからかれの社会主義への態度は積極的になっていった。一八九九年一月から『労働世界』は「社会主義」欄を設けたが、その理由をこう述べている。
 「吾人が今社会主義欄を設くるは知識的運動の為めに非ず。吾人は比の欄内に於て毎号欧米に於ける社会主義の大勢を記して、以て実際に社会主義は二十世紀の人類社会を救うの新福音なるを示さん。」」(隅谷三喜男『日本社会思想の座標軸』pp.67-68)

◆東京砲兵工廠の労働者が日本最初の労働者生活協同組合を組織

■1899年

◆実業学校令
◇「「工業農業商業等ノ実業ニ従事スル者ニ須要ナル教育ヲ為ス」ことを目的とする実業学校は、産業界に中級の技術者を送り込むために設立された。」(猪木武徳『学校と工場』p.46)

■1900年(明治33年)

◆「治安警察法」公布(3月)

◆政府、「工場調査掛」設置

◆「社会主義研究会」、「社会主義協会」に名を改める

◆三菱、会計組織改正(「工業会計」形式の原価計算制度導入)と従来の9時間制を廃止し「10時間労働制」採用


*作成:橋口 昌治
UP:20080902 REV:20080920, 20100514 1215 2011706 0713 0717
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