『日本の「ゲイ」とエイズ――コミュニティ・国家・アイデンティティ』
新ヶ江 章友 20130713 青弓社,257p.
last update:20160310
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新ヶ江 章友 20130713 『日本の「ゲイ」とエイズ――コミュニティ・国家・アイデンティティ』,青弓社,257p.
ISBN-10: 4787233572 ISBN-13: 978-4787233578 4000+税
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■内容
「エイズはゲイの病気だ」と男性同性愛者は差別や偏見にさらされ、行政からも除外されていた。彼らは当初、対抗して独自のコミュニティを築き上げていたが、
エイズ政策を通して国家行政に取り込まれ、ときに自ら距離を縮めて「ゲイ」の社会的な地位を確立していった。その歴史的な過程を詳細な聞き書きなどから検証して、
「ゲイ」の生と性の今後をさぐる。
■著者
1975年、佐賀県生まれ。筑波大学大学院人文社会科学研究科現代文化・公共政策専攻修了。博士(学術)。カリフォルニア大学バークレー校人類学部客員研究員、
お茶の水女子大学PD研究員、財団法人エイズ予防財団リサーチ・レジデント、名古屋市立大学看護学部特任講師を経て、
現在、名古屋市立大学男女共同参画室プロジェクト推進員。専攻は、ジェンダー/セクシュアリティ研究、医療人類学、カルチュラル・スタディーズ。
■目次
序章 「ゲイ」と国家の関係を問う
第1章 HIV/AIDS研究と人文・社会科学
1 文化人類学のなかのHIV/AIDS
2 クィア人類学とHIV/AIDS
3 新たな研究の展開に向けて
第2章 日本におけるHIV/AIDSの言説と男性同性愛者
1 奇病としての「AIDS」
2 AIDSの実態把握に関する研究班
3 日本のエイズ第一号患者
4 エイズ・パニックと女性の表象
第3章 エイズ政策と日本人男性同性愛者の主体化
1 HIV感染不安の身体
2 新たな主体としての男性同性愛者
3 日本と外国の男性同性愛者
4 「ゲイ」という「ゲイ」のための研究
第4章 HIV感染予防をおこなう責任ある主体の生成
1 歴史に刻まれた疫学調査
2 オーストラリアと「ゲイ・コミュニティ」
3 MSMを統治する
4 「ゲイ」という主体と国家の承認
5 日本における「ゲイ・コミュニティ」
第5章 HIV感染リスクをめぐる認知と主体の形成
1 研究者によるリスク認知
2 MSMからゲイ男性へ
3 男性同性愛者によるリスク認知
4 HIV/AIDSとともに生きる
終章 自己変容の人類学に向けて
■引用
序章 「ゲイ」と国家の関係を問う
本書『日本の「ゲイ」とエイズ――コミュニティ・国家・アイデンティティ』は、同性愛者を単なる他者とし>010>て記述することを目的とするのではない。
現代日本社会に生きる男性同性愛者が、生きていくいえで何らかの指針になるような視点を提供することこそが、本書のまず第一の目的である。
自分を男性同性愛者だと認識している人が本書を読んだとき、自分が現在この社会のどのような位置にいるのか、
自分が抱えるさまざまな性/生の葛藤がどこに由来するのかを理解でき、また、自らが今後生きていくうえで何らかの役に立ててもらうことを切に願っている。(pp.9-10)
しかしながら本書は、日本で男性同性愛者が生きる文化全般を取り上げるものではなく、日本在住の男性同性愛者がどのように自らの経験を形作っているのかを、
とりわけ一九八〇年代以降に問題化したHIV/AIDSとの関係に特化して明らかにしようとする。つまり、日本の男性同性愛者の経験を、HIV/AIDS、
「ゲイ・コミュニティ」、国家、アイデンティティとの関係から見る。
これらの言説実践を通して、日本の男性同性愛者がどのように自らを理解し、行動しているのかを明らかにしていく。(p.10)
本書は、日本で男性同性間で性行為をおこなう人々が、自らを「ゲイ」として自己肯定し、
「ゲイ・コミュニティ」について語り始めたのはいつ頃からなのかについて分析している。そして、その引き金となったのがHIV/AIDSの社会問題化であったと主張する。
[……]読み違いをしてほしくないが、筆者は決して、「ゲイ」という自己肯定のあり方や「ゲイ・コミュニティ」の存在そのものを否定しているのではない。
しかしながら、自分たちの自由な意志で築き上げてきたと考えられているアイデンティティやコミュニティが、実は国家によって先導されてきたのだとすれば、
男性同性愛者の性/生のあり方はどのようにとらえ直すことができるだろうか。
「ゲイ」というアイデンティティや>012>「ゲイ・コミュニティ」という言説が国家とどのように接合されているのかを分析することこそが、
日本に生きる男性同性愛者の抱える生きづらさや葛藤を理解するうえでのカギになると筆者は考えている。
そしてそこにこそ、アイデンティティに縛られない新たな生の様式を創造するヒントが隠されているのだと考えている。(pp.11-12)
本書で使用する用語
文化人類学や社会学で調査をおこなう場合、フィールドで出会った人々がどのような言葉を使用しているのか>018>は、
その人たちがどのような意味世界のなかで生きているのかを理解するうえで非常に重要である。
とりわけ、同性と性行為をおこなう男性がどのような主体を形成するのかを分析しようとする本書にとって、彼らが自らをどのように名付けているのかは、
彼らの意味世界を理解する際の突破口となりうる。同性と性行為をおこなうこれらの男性は、自らのことを「ゲイ」「おかま」「ホモ」などと呼ぶことが多い。
本書でも、資料に書かれた表現やインタビューの語り手が使用する呼び方をそのまま用い、その場合は「ゲイ」「おかま」「ホモ」などと括弧でくくっている。
とりわけ第2章の新聞や週刊誌などの分析では、「ホモ」や「ホモ愛好者」という表現が多用されていることがわかるだろう。
また、語り手の語り以外で筆者が分析対象を説明するときには、主に男性同性愛者という表現を用い、括弧ではくくっていない。
「ゲイ」「おかま」「ホモ」などの表現を総称する際にも、男性同性愛者という表現を用いた。
また、本書で一つのキーワードとなるのが「ゲイ・コミュニティ」である。
「ゲイ・コミュニティ」に関する議論が一筋縄でいかないことは、これまでの研究でもしばしば指摘されているとおりである。
そこでは常に、「ゲイ・コミュニティ」とは何か、それはどこにあるのか、といった議論へと集約されていく。
しかし本書ではあえて、実体として「ゲイ・コミュニティ」が存在するかどうかという議論にはとらわれず、人々が語る「ゲイ・コミュニティ」の語り方そのものに着目する。
つまりこの用語を、誰が/いつ/どのような状況で使用しているのかということである。
「ゲイ・コミュニティ」という表現は、筆者がインタビューをおこなった研究者、アクティビスト、HIV/AIDSの活動に携わる人々以外の語りでは、ほとんど登場していない。
この「ゲイ・コミュニティ」という表現を主に使用しているのは、研究者であり、アクティビストであり、HIV/AIDSの活動に携わる人々であり、ゲイ・メディア関係者なのである。
したがって本書で「ゲイ・コミュニティ」という表現を使用する場合には、人々による語りのなかで登場するという意味を込めて、常に括弧つきの「ゲイ・コミュニティ」と表現し、
本書では、語りではない実体としてのゲイ・コミュニティの議論はおこなわない。
だが、この分析方法を採用することによって得られるものは大きいと筆者は考えている(第4章を参照)。>019>
同様の議論は、第5章で扱うリスクについても言える。
「ゲイ・コミュニティ」に比べると、リスクという表現は男性同性愛者の間でも比較的使われているが、HIV/AIDSの文脈でリスクという場合には、
ほとんどが研究者特有の使われ方である。HIV感染リスクのある行為に対して、男性同性愛者は「危ない」という表現を使う場合が多いと言えるだろう。
この分析については、第5章を参照していただきたい。
HIV/AIDSという表現についても、一言付け加えておく。[……]本書でHIVとAIDSを別々に表記する場合には、ウイルスとしてのHIVを強調したいか、
病名としてのAIDSを強調したいかによる。それ以外はすべてHIV/AIDSという表現を用いた。
日本ではしばしばAIDSをカタカナのエイズと書き慣わし、HIV/エイズという表現を用いることがある。
このような表現は、エイズを外国のものとしてではなく、私たちの身近なものとして理解しようとする意図によるものだ。
しかし本書では、とりわけ海外の学術論文や文献を多く使用したこともあり、HIV/AIDSという表現に統一することにした。
ただし、第2章での言説分析では、新聞や週刊誌の記事に書かれている表記にしたがうこととし、
それらの記事から直接引用する場合には「AIDS」もしくは「エイズ」と括弧書きにしている。(pp.17-19)
本書の構成
次に簡単に本書の構成を紹介したい。
第1章「HIV/AIDS研究と人文・社会科学」では、
文化人類学(医療人類学)によっておこなわれてき>020>たHIV/AIDS研究とジェンダー/セクシュアリティ研究の先行研究を概観し、
HIV/AIDS研究のあり方や研究者としてのHIV/AIDS問題への関わりを検討するなかで、本書が採用するHIV/AIDS研究の視点や問題へのスタンスを提示する。
本書では、男性同性愛者の主体化や文化が、公衆衛生や疫学的観点に基づく予防施策と連動しながらどのように形成されてきたのかを、民族誌的な視点から明らかにすることを試みる。
また、本書の副題にもある「ゲイ・コミュニティ」、国家、そして「ゲイ」というアイデンティティがどのように連関しているのか、
そうした連関のなかで日本在住の男性同性愛者の経験がどのように形成されてきたのかを分析することの重要性を指摘する。
第1章は、取り上げられた先行研究の多くを批判的に検討し、コミュニティ、国家、アイデンティティの関係がどのように形成されているのかを明らかにする。
第2章「日本におけるHIV/AIDSの言説と男性同性愛者」では、アメリカでの最初のエイズ患者の報告以降、日本のHIV/AIDSの言説がどのように形成され、
またそうした言説編成と権力関係のなかで、男性同性愛者の表象がどのように規定されていったのかを明らかにする。
アメリカでのHIV/AIDSの言説が男性同性愛者の表象と結び付いていたのに対し、日本でのHIV/AIDSの言説の特徴は、日本の「ホモ」の存在が非常に曖昧な、
影のような存在としてしか表象されてこなかったという点にある。
本章では、「ホモ」をめぐる日本の言説表象を通時的に分析し、男性同性愛者をめぐる権力関係の布置を明らかにすることを試みる。
第3章「エイズ政策と日本人男性同性愛者の主体化」では、前章で見てきた日本における男性同性愛者の言説表象上の不在/希薄/曖昧な状態から、HIV/AIDSを契機として、
男性同性愛者たちが自らをどのようにHIVに感染する可能性のある人間として主体化/身体化し、
可視的な存在となっていったのかを男性同性愛者の支援に関わる関連団体への聞き取りや、男性同性愛者向けの雑誌の分析から明らかにしていく。
第4章「HIV感染予防をおこなう責任ある主体の生成」では、前章で述べた男性同性愛者の可視化をきっかけとして、
一九八〇年代から九〇年代にピークに達する公的な疫学調査と男性同性愛者のアクティビストたちと>021>の協働体制の形成過程を分析する。
本章で強調するのは、日本での「ゲイ・コミュニティ」の形成が、国家によるHIV/AIDS政策との結び付きのなかではじめて可能になったという点である。
二〇〇〇年代に入ると、「ゲイ・コミュニティ」をめぐる言説が、とりわけHIV/AIDSの予防活動を通して地方でも流通していくようになったことを示す。
第5章「HIV感染リスクをめぐる認知と主体の形成」では、日本の研究者と男性同性愛者の間でHIV感染をめぐるリスクの認知がどのように異なるかを、
男性同性愛者に対するインタビューから彼らの性的実践の多様性を示すことで明らかにしていく。
本章は、こうした研究者と男性同性愛者の間の「ずれ」を検出することが、よりよい予防介入につながるのではないかという立場から分析をおこない、
最後にHIV/AIDSとともに生きる人々の語りが、私たちの生きる社会の再生とどのように関係しているのかを分析していく。(pp.19-21)
本書の主題は、日本の男性同性愛者がどのように自らの経験を形作っているのかを、HIV/AIDSの社会問題化との関係のなかで明らかにすることにある。
結婚制度などの、法による何らの保証もない男性同性愛者の性愛の様式は、自由のただなかに置かれている。私たちは普段、自由はいいものだと考えている。
だが逆に言うと、自由であるがゆえに人々は葛藤するのだ。そして自由のなかでこそ、人々を管理しようとする権力が作動する。
HIV/AIDSの社会問題化を分析する際に重要なことは、私たちは一見自由に行動しているように見えても、実はその行動は権力に方向づけられ、突き動かされているということである。
そして気づいたときには、権力にがんじがらめにされている。日本の男性同性愛者の生きづらさの根源には、この自由と権力の抜き差しならぬ関係があると言える。
最後に本書に関しては当初、応用人類学的な立場から、日本の男性同性愛者に対するHIV予防施策に生かせるような提言を盛り込むことを想定していた。
しかしながら今回は、本書で提示した問題をどのように応用するのか、
あえて読者に問いかけるにとどめたい(ただし第5章に関しては、公衆衛生における予防施策に生かせる部分>022>もあるだろう)。
筆者は二〇〇八年から一一年まで、財団法人エイズ予防財団(現在は、公益財団法人エイズ予防財と名称が変更されている)のリサーチ・レジデントとして、
疫学研究者らとともに、日本在住の男性同性愛者に対するHIV/AIDS予防活動に携わってきた経験を有する。[……]
だがHIV/AIDSの予防活動とは、コンドームを配りHIV/AIDSの情報を提供するといった、小手先ですまされるようなものではない。
[……]HIV/AIDSの予防の言説はどうしても、HIVに感染することはよくないことで、できれば避けるべきだというメッセージを発してしまう。
だが、自らの生の意味づけの責任は、最終的には自分が負うものである。
HIV/AIDSの予防をネガティブな言葉だけで語ってしまうとすれば、HIV陽性となった人々>023>の生き方を方向づけてしまうことになる。
そのように方向づける権力にこそ、抵抗する必要があるのではないか。(pp.21-23)
第1章 HIV/AIDS研究と人文・社会科学
HIV/AIDS研究は、医科学研究(基礎医学、臨床医学、社会医学)が中心となっておこなわれていることは言うまでもない。
だが海外のHIV/AIDS研究に目を向けると、人文・社会科学を専門とする研究者の活躍も決して小さくはない。
本章では、文化人類学(医療人類学)でHIV/AIDSがどのように研究されてきたのかを概観し、そのうえで文化人類学におけるHIV/AIDS研究の課題を指摘したい。
本章の前半では、心理学や社会学などの社会科学にはない文化人類学特有の視点が、HIV/AIDS研究にどのように反映されてきたかを概観していく。
まずは、リスク・グループを特定し、リスク・グループの文化を理解したうえで、
啓蒙によってリスク・グループの人々の行動変容を促そうとする応用人類学的視点による研究を整理する。
そのうえで、この応用人類学的視点を批判的にとらえたHIV/AIDSの文化の政治学について一部紹介し、前半の最後に、文化人類学者メアリ・ダグラスの文化理論に着目する。
ダグラスは、人間社会の秩序の生成をリスクの排除との関係でとらえ、人がリスクを侵犯することにどのような意味があるのかを理解するうえで重要な視座を提示している。
しかしながら、彼女の文化理論でも十分には議論されていない点があり、その点も指摘したい。
本章の後半では、ダグラスの研究を批判的に継承しながら、クィア人類学という新しい学問領域の研究に接続させていく。
本書が採用する方針は、他者としての同性愛者の文化を理解すること――レズビアン/ゲイ人類学――ではなく、同性愛者をリスク・グループとして他者化し、排除し、
そして国家によって管理しようとする文化の政治そのものを研究すること――クィア人類学>026>――である。
とりわけここで注目するのは、ゲイ・アイデンティティ、国家、グローバリゼーション、HIV/AIDSの関係についてである。
はじめに、同性愛者を他者としてカテゴリー化する政治が、国民国家の生成とどのように関係しているかについて分析した民族誌的研究を紹介する。
その後、トランスジェンダーというアイデンティティに基づいた研究の限界について、批判的に分析した民族誌的研究を紹介する。
そして最後に、前二節のレビューを批判的にふまえたうえで、今後新たにどのような研究領域が開けるのかを、
日本におけるHIV/AIDSの社会問題化と男性同性愛者の主体化という視点から明らかにしていく。本節で、本書のスタンスを明確にしたい。
また、「予防」をめぐる政治をゲイ当事者の生き方の問題として、HIV/AIDSを考えていく必要性について言及する。(pp.25-26)
では本章に入る前に、まず、男性同性間の性愛関係とHIV/AIDSを扱った民族誌的研究としてどのようなものが存在するのかを概観してみる。[……]
男性同性間の性愛関係とHIV/AIDSをめぐるこれらの民族誌のなかには、とりわけ男性同性愛者の主体化をめぐって議論したものがいくつかある。
[……]>027>男性同性愛者の主体化や「ゲイ・コミュニティ」をめぐる言説実践が、公衆衛生と連動しながらどのように形成されてきたかを民族誌的に明らかにするという試みは、
本書のユニークな視点の一つだと言えるだろう。(pp.26-27)
2 クィア人類学とHIV/AIDS
前節では、文化人類学(医療人類学)でHIV/AIDSがどのように研究されてきたかを概観した。
まず、応用人類学によるHIV/AIDSの予防を視野に入れた啓蒙の問題を批判的に検討し、そのうえで、リスク・グループを一つの文化として他者化し、
その文化を理解することで文化に適合したHIV/AIDSの予防に貢献しようとする研究を紹介した。>038>
本書では、リスク・グループの文化をすでにそこにあるものとして研究するのではなく、リスク・グループがカテゴリー化されていく過程そのものを追うことによって、
日本社会がどのような社会秩序やナショナリズムを発動させていくのか、そしてリスク・グループとされた男性同性愛者がどのような経験をするのかに着目して研究する道を選択した。
その際、メアリ・ダグラスの文化理論に依拠しながらそれを批判的に乗り越え、最後にHIV感染リスクを積極的に引き受けていこうとする男性同性愛者の存在に着目したい。
本著では、この系譜をHIV/AIDSをめぐる文化の政治学と呼んだ。
本節では、このHIV/AIDSをめぐる文化の政治学をさらに進めるために、近年新たな研究領域として表れてきたクィア人類学の視点を交えながら、
先行研究を整理する。(pp.37-38)
国民国家とゲイ・アイデンティティ
前節で、社会秩序を生成していくにあたり、穢れやリスクを排除することが重要な役割を果たすというダグラスの研究を紹介した。
一方、近年のクィア人類学は、社会秩序を体系化していく国民国家の生成がセクシュアリティの規制とどのような関係にあるのかに注目している。
グローバリゼーション、国民国家、セクシュアリティは、クィア人類学の取り組むべき重要な課題の一つとなっている。
グローバリゼーションに伴い、国民国家の枠組みは薄れてきているわけではなく、むしろ強化されているという指摘がある。
その際にポイントになるのが、国民国家は人々を統治するにあたって異性愛規範を強力に支持し、その一方で非異性愛者を排除するということである。
国民国家は、セクシュアリティの規制を通して人々を統治しようとする。
グローバリゼーションは、世界のいたるところで国民国家の境界と異性愛規範を強化しながら、非異性愛者を排除していくのである。
ここでは、国民国家とセクシュアリティを考えるうえで重要な民族誌的研究を紹介したい。
文化人類学者トム・ベルストーフは、インドネシアのナショナリズムと「インドネシア人ゲイ」という主体形成をめぐる研究を>039>おこなっている。(pp.38-39)
3 新たな研究の展開に向けて
ここまで、人文・社会科学の分野の研究者がおこなってきたHIV/AIDS研究を概観してきた。
[……]ここで考察したいのは、本書の副題ともなっている、コミュニティ、国家、アイデンティティの関係についてである。
[……]つまり文化人類学者がある文化を民族誌として描くとき、そこにどのような権力関係が存在しているのかが徹底的に問われたのである。
このことは、文化人類学者がHIV/AIDSの文化をめぐってどのように書くかを考える際にも、避けて通れない問題だった。
例えば、日本での男性同性愛者とHIV/AIDSについての民族誌を書こうとする場合、描き方によっては、
その民族誌が男性同性愛者に対するネガティブなステレオタイプ化を再生産する危険性が十分にありえたのだ。
[……]>045>医科学研究が構築してきたリスク・グループというカテゴリーを文化人類学者自身がなぞりながら、
ステレオタイプを再生産しているにすぎないというフランケンベルクによる批判にも、そのことは如実に表れている。
文化人類学界でポストコロニアル批判の議論が持ち上がっていた最中に、
HIV/AIDS研究に携わる文化人類学者たちは「HIV/AIDSについてどのように書くか」という問題と直面したのである。
そのようななかで、文化人類学者がHIV/AIDSの文化をどのように描くのかについての方法論的議論が登場したのは、当然の成り行きだった。
そこでは、さまざまな方法論が議論された。男性同性愛者の生きる意味世界を彼らの語りから明らかにしようとする解釈的人類学の方法を用いた研究や、
グローバルな政治・経済による権力関係のなかで、疾病がどのように不平等な形で世界に分散していくのかを分析する批判的医療人類学の方法を用いた研究などがそれにあたる。
しかし、解釈的方法と批判的医療人類学の方法を融合させる研究の必要性は、近年、多くの文化人類学者(医療人類学者)の間で共有されている論点であり、
その融合された議論の一つが実践理論として結実したと言えるだろう。
その実践理論を用いた代表的な民族誌として挙げられるのが、日本の文化人類学者田辺繁治の『ケアのコミュニティ』である。
この本で田辺は、グローバルに展開する政治・経済的権力関係のなかで、社会的苦悩を共有するタイのHIV陽性者やエイズ患者がどのように群れ、
互いにケアするコミュニティをどのように構築してきたのかを分析している。田辺の研究で重要なのは、
どのようなグローバルな政治・経済的権力関係――とりわけ、
生権力における統治性の視点からの――がタイでHIV陽性者やエイズ患者というエージェンシーを生み出していったのか、
批判的医療人類学の視点を取り入れながら分析していることである。この、東南アジアのタイでHIV/AIDSとともに生きる人々の民族誌は、
新自由主義が席巻するなか、生権力による統治性とローカルな人々の実践のはざまで生がどのように変容してきたかを分析している。>046>
一方、本書でこれから取り上げるのは、日本で「ゲイ」という主体もしくはエージェンシーがどのように立ち上がってくるのかという問題である。
つまり、日本でHIV/AIDSをめぐる言説が構築されていくなかで、同性愛がどのように表象されるのか、
そのうえで、日本の男性同性愛者が自らをどのように「ゲイ」として主体化していくのかという点に着目する。
田辺が記述した事例によると、一九九〇年代のタイでは、近代医療による治療が十分ではなかったため、HIV陽性者やエイズ患者の間で伝統医療による治療実践が流行していた。
そこでHIV/AIDSとともに生きる人々は、公衆衛生による統治に抵抗するようなエージェンシーを形成することが可能になった。
だが、近代的医療システムが浸透している日本では、公衆衛生による生権力の統治は、社会の隅々にまで行き渡っているように見える。
日本における男性同性愛者は、権力関係にがんじがらめにされた主体なのだろうか。
それとも権力関係をずらし、抵抗し、社会のあり方に変容をもたらすようなエージェンシーなのだろうか。
本書では、この点を問いたいと考えている。
したがって、現代日本における男性同性愛者の主体の可能性を問う本書は、
田辺の伝統医療やケアの実践に焦点を当てた民族誌と比較すると、近代医療や公衆衛生での権力関係により焦点を絞った記述になるだろう。
また戦後、高度経済成長に支えられた資本主義が社会の隅々にまで浸透した日本で、
国家が男性同性愛者という主体形成にどのように関与しているかについても記述することになるだろう。(pp.44-46)
第2章 日本におけるHIV/AIDSの言説と男性同性愛者
2 AIDSの実態把握に関する研究班
日本人の男性同性愛者が日本でのエイズの言説のなかで不在化していく過程で、
一九八三年六月十三日に発足した厚生省の「AIDSの実態把握に関する研究班」(班長・安部英。以下、「エイズ研究班」と略記)が果たした役割は大きい。
この研究班は血液学、皮膚科学、ウイルス学、疫学、輸血学などの研究者によって組織されていたが、エイズの定義をめぐる混乱と対策の不備によって、
後にいわゆる「薬害エイズ」問題を引き起こすことになった。しかし、本章で注目するのは、この研究班の医科学研究者たちが、
エイズという疾患をめぐってどのような文化的イメージや先入観をもとに対策をおこなっていったのかである。>066>
この研究班の活動のなかでも注目すべき点は、世界的に未だエイズという疾患が科学的に特定されていない状況のもとで、
この疾患の登場によって日本の血液行政はどのようにおこなわれるべきかを議論したことである。
本来、感染症対策は厚生省の公衆衛生局保健情報課がおこなうが、エイズでは、日本でアメリカから輸入された血液製剤による感染の広がりが疑われていたため、
血液事業を担当する薬務局生物製剤課が一九八三年五月に研究班の予算を確保し、血液事業の一環として「エイズ研究班」を作り、
その後、エイズ対策の実質的な主導権を握った。つまり日本の「エイズ研究班」は、血液行政としての対策の側面が強かったと言うことができる。
テープに残されている第一回会議の様子からは、日本の血液行政だけでなく、エイズという疾患全体をめぐる議論がおこなわれていたことがうかがえる。(pp.65-66)
第3章 エイズ政策と日本人男性同性愛者の主体化
2 新たな主体としての男性同性愛者
HIV/AIDSの時代の新たな男性同性愛者という主体は、次第にエイズ政策にとって主要な介入の焦点となっていく。
HIV/AIDSに対して脆弱と思いこませ、HIV/AIDSの時代で男性同性愛者という役割を担うように仕向けること――これがエイズ政策における権力の戦略である。
HIV/AIDSに対する>113>予防施策に主体としての男性同性愛者を積極的に関与させようとすることは、啓蒙による合理化の利害と一致するものである。
つまり、国家の疫学研究に男性同性愛者を自発的・積極的に参加させることによって、エイズ政策の適材適所に可視化した男性同性愛者を配備し、
自らHIV感染を予防する責任ある主体となるように仕向けるのだ。一九八〇年代には、日本の男性同性愛者たちは未だリスク・グループの一員であり、無視される存在だった。
しかしその無視される主体としての男性同性愛者は、九〇年代半ば以降、HIV/AIDSの予防実践を積極的におこなう責任の主体へと変貌させられる。
「ゲイ・コミュニティ」を作ることがHIV/AIDSの予防にとって必要だと考えられるようになり、次第に「ゲイ・コミュニティ」に対する肯定的な意味づけがなされるようになった。
「ゲイ・コミュニティ」を形作るために、国家はエイズ関連予算を積極的に投入していく。
エイズ政策にとって、「ゲイ・コミュニティ」の取り組みが一つのモデルとなり、「セックスワーカー」「静脈注射常用者」、
そして「若者」たちも、「ゲイ・コミュニティ」にならってHIV/AIDS予防を積極的におこなう主体となることが望まれるようになる。
日本の男性同性愛者がHIV/AIDSの社会問題化を通して非難の対象とならないようにすること、
つまり一般社会に対して従順であり続けることは、彼ら男性同性愛者という主体にとっての一種の戦略であり、譲歩でもある。
初期のフェミニズム運動では、女性の政治参加を認めさせることが一つの政治目標だった時代もあったが、女性が参政権を得ても男女平等という根本的な解決には結び付かなかった。
これは現在の状況を見れば明らかである。日本の男性同性愛者の政治化も、権力関係に対する一つの重要な戦略ではあるが、政治的参加を求めるだけでは十分ではない。
HIV/AIDSの時代に、男性同性愛者の主体化を巧みに利用する新たな権力関係を考察し、分析し、それに戦略的に抵抗する地点を模索しなければならない。(pp.112-113)
第4章 HIV感染予防をおこなう責任ある主体の生成
2 オーストラリアと「ゲイ・コミュニティ」
HIV/AIDS研究における「ゲイ・コミュニティ」概念
オーストラリアで実施されていたHIV/AIDS研究で、当時注目されていた研究がある。HIV/AIDS予防に果たす「ゲイ・コミュニティ」の役割についての研究である。
同性と性行為をおこなう男性にとって、
「ゲイ・コミュニティ」への帰属/愛着(Gay Community Attachment)こそがセーファー・セックスへの行動変容にとって最も重要な変数であることが、
スーザン・キパックスらが実施したSAPA(the Social Aspects of the Prevention of AIDS)研究を通してはじめて明らかとなった。
つまり、「ゲイ・コミュニティ」との関わりが強い者のほうがそうでない者よりも、HIV/AIDS感染予防のための行動をとるということである。(p.144)
SAPA研究では、人々の「ゲイ・コミュニティ」への帰属/愛着を測定するために、三つの尺度を設定している。
第一は性的なこと(sexual engagement)の尺度(どのような性行動を、いつ、どこで、どのような相手と、どのようにおこなったのかなど)、
第二は社会的なこと(social engagement)の尺度(どのような「ゲイ」のサークル活動やボランティア活動に参加したかなど)、
第三は「ゲイ・コミュニティ」との関わり合い(gay community engagement)の尺度(宗教活動でも、一般人ではなくゲイで構成された宗教活動に参加したかどうか、
一時的な参加ではなく長期に関わっているかなど)である。この三つの尺度をみてもわかるとおり、キパックスらは「ゲイ・コミュニティ」を重層的なものとしてとらえようとする。
ある者は、男性との性関係を目的に「ゲイ」の繁華街であるオックスフォード・ストリートを訪れ、一方、「ゲイ」の政治活動には全く関心をもたないかもしれないのだ。
つまりSAPA研究で理解されている「ゲイ・コミュニティ」とは、一枚岩的なゲイ・アイデンティティに基づく人々のつながりではなく、
重層的でときに矛盾を含むようなつながりのなかで形成されたものであるといえる。
ここでドウセットが指摘する「ゲイ・コミュニティ」とは、必ずしもアイデンティティ・ポリティクス、つまり「ゲイ」の人権運動や政治活動とイコールではない。
むしろ彼の分析のなかで強調されているのは、ゲイ男性の政治的・社会的活動ではなく、男性同性間の性的つながり、性的実践そのものである。
ドウセットは、セックス・クラブ、ゲイサウナ、駅や公園のトイレなどのさまざまな場を通した性的実践の共有こそが、
同時に政治的・社会的活動を促していくような「ゲイ・コミュニティ」を形成したのだと考えている。
特定の民族集団によ>146>って形成されたコミュニティと「ゲイ・コミュニティ」との違いは、「ゲイ・コミュニティ」は性的実践を通して意識的に作り上げられなければ、
もろく崩れ去っていくものだということである。「ゲイ・コミュニティ」がもろいのは、それが性的実践を基盤にしているからであり、その性的関係の一時性のためである。
「ゲイ・コミュニティ」は、さまざまな男性同性間の性的実践を通して作り上げられる。
まさに「生成」過程なのであり、性的実践を通して意識的に練り上げられ、洗練されなければならないものである。(pp.145-146)
だがここで注意しなければならないのは、ドウセットが言う「ゲイ・コミュニティ」とは、研究者の視点によるものだということである。
そして研究者間でも、「ゲイ・コミュニティ」概念の定義や理解の仕方には大きな相違がある。次に、別の研究者による(ゲイ・)コミュニティ概念について見てみよう。
(p.146)
グローバル化する「ゲイ・コミュニティ」概念
「ゲイ・コミュニティ」という概念が着目されるようになったのは、アメリカやオーストラリアに限られたことではない。
とりわけ一九九〇年代半ばから、グローバルなHIV/AIDS研究で、この「ゲイ・コミュニティ」という概念が注目されるようになっていった。
アメリカの文化人類学者リチャード・パーカーも、九六年にカナダのバンクーバーで開催された第十一回国際エイズ会議の講演で、
今後は個人への予防介入からコミュニティ動員(community mobilization)による予防介入へと移行する必要があると述べている。
パーカーは、HIV/AIDSの予防にとって、個人の性行動を短期的に変容させていくだけでは不十分であり、HIV感染リスク行動を促す社会構造への介入が必要なのだという。
そのためには、個人だけではなくコミュニティがエンパワーメン>147>トし、HIV/AIDSに立ち向っていかなければならない。
パーカーが言うコミュニティ・エンパワーメントは社会正義や人権の問題と関連しており、
コミュニティが力を得ることではじめて、HIV/AIDSの感染を促進している社会構造を変容させることが可能になる。
ここに、HIV/AIDSの予防にとって(ゲイ・)コミュニティのエンパワーメントが必要であるという言説が登場してくることになる。
パーカーが言うコミュニティ・エンパワーメントは、ドウセットのそれとは明らかに異なっている。
パーカーによれば、コミュニティ・エンパワーメントに必要なのは対話を通した自覚、社会的不正の改善である。HIV/AIDSが流行しているのは、
「同性愛者」「セックス・ワーカー」「貧しい有色人種」をはじめとする社会的弱者の間においてであり、
彼らの間でHIV/AIDSが流行しているにもかかわらず一向に状況が改善されないのは、それらの人々の人権が守られていないからだというのである。
このパーカーの主張は、ドウセットが言う、性的実践を通して形成される「ゲイ・コミュニティ」とはニュアンスを異にしている。
ここでは論点を明確にするために、オーストラリアの研究者ドウセットとアメリカの研究者パーカーを取り上げたが、
研究者の間でも「ゲイ・コミュニティ」の理解の仕方はさまざまである。[……]「ゲイ・コミュニティ」言説は、語るものの数だけ無数に増殖していくのである。
(pp.146-147)
終章 自己変容の人類学に向けて
本書を通して明らかとなったのは、日本の男性同性愛者という主体が公衆衛生によるエイズ政策と密接に結び付きながら形成されてきたということである。
HIV/AIDSはたしかに病気であり、公衆衛生施策として取り組むべき喫緊の課題であった。しかしながら本書で強調したいのは、HIV/AIDSは単なる医学的疾患にとどまらず、
HIV/AIDSをめぐる多様な言説と実践そのものが人間を統治する一つの技術だったのであり、その技術を通して日本の男性同性愛者という主体が形成されてきたことである。
したがって、日本で男性同性愛者の存在が次第に認知される背景には、エイズ政策を通した男性同性愛者の主体化があったのであり、
逆に言えば、HIV/AIDSが疾患として登場せず、社会問題とならなかったとすれば、現在のような男性同性愛者の主体化はありえなかったのかもしれない。
本書が最も強調したかった点は、日本での男性同性愛者という主体の形成と国家の関係である。
筆者は長年にわたり本調査に関わることによって、日本の男性同性愛者が疫学研究といかに密接に関わりながら主体を形成していったのかを目の当たりにしてきた。
そのなかで、ゲイ・アクティビズムに関わってきた人々も大きく変わっていった。
日本のゲイ・アクティビズムと疫学研究の関係が対立から協働へと変化していくその最中に、筆者はフィールドワークを実施してきたことになる。(p.225)
日本における男性同性愛者の主体化と国家の関係が現在のような形式に落ち着いてきたことに対し、私たちはどのように考えればいいのだろうか。
とりわけ日本の男性同性愛者たちは、彼らが生きやすい社会が現在作られていると感じているのだろうか。
一九八〇年代以降のゲイ・アクティビズムは、「エイズ予防法」への抗議運動など、国家に対抗的だった。Sがおこなった疫学研究にしても、「ゲイ」からの多くの批判があった。
そして疫学研究とゲイ・アクティビズムの対立のピークは、先に述べた九九年の日本エイズ学会の頃だった。
しかしながらその後、MSMに対する性行動調査が日本全国で広範囲にわたり実施され、彼らの性行動とHIV/AIDSの関係に関する詳細なデータが集積されていく。
そしてその調査に、「ゲイ」自身が協力するようになっていったのである。
エイズ政策は、科学的なデータベースに基づいてはじめて実施可能となる。仮に疫学データが何もなければ、男性同性愛者に対するエイズ政策も進められない。
フーコーが「知=権力」という概念について『性の歴史』で分析しているように、
まさに疫学的「知」は、男性同性愛者に対する予防介入を正当化する「権力」なのである。この「知=権力」を通して男性同性愛者の身体が改変され、
主体が形成されていく。
しかし、日本の男性同性愛者という主体は、その「知=権力」にどこまで従順でありうるのか。
とりわけゲイ・アクティビストらは、国家による「知=権力」と男性同性愛者の主体化を戦略的に利用してきたのではないだろうか。(p.228)
問題は、では日本のゲイ・アクティビズムは疫学研究との関係を今後どのように築いていけるのかということだろう。
日本の男性同性愛者が今後、HIV/AIDSと全く無関係なところでゲイ・アクティビズムを推進していくことは、もはや困難であるようにも思える。
しかし、男性同性愛者は全く従順なわけではない。彼らは研究者をどのようにしたたかに利用していくのか、いくら研究者に主体化させられたとしても、
ずっと変わらない一本の芯は同性愛者のなかで揺るがないのではないか――そのような点について今後明らかにできれば、さらに興味深い研究を展開できる可能性があるだろう。
(p.229)
本書が明らかにできなかった問題点も多い。
まず、日本におけるHIV/AIDSの言説と男性同性愛者の主体化について分析しようとする場合、HIV/AIDS以前に男性同性愛者という主体はなかったのかが問題になるだろう。
本書を読むと、HIV/AIDSの社会問題化以前、あるいは一九七〇年代のゲイ・メディアの興隆以前には、
あたかも男性同性愛者という主体はなかったかのような記述をしているように思えるかもしれないが、決してそうではない。
この点に関しては、七〇年代以前のさまざまな資料をさらに分析することによって、男性同性愛者という主体の歴史をさらに明らかにする必要があるが、
以上のような研究は、すでに社会学や文学のなどの研究でも試みられている。
だが、本書で分析したとおり、日本の男性同性愛者が国家のエイズ政策と密接に関わりながら主体を形成していくというプロセスは、
これまでにない新しい視点だったように思われる。近年のクィア人類学でも、ナショナリズムとセクシュアリティをめぐる議論がなされるようになってきた。
歴史に「もしも」ということはないが、一九八〇年代のHIV/AIDSの世界的パンデミックがなかったならば、
日本の男性同性愛者は現在とは全く異なる性/生の様式を生み出していたのかもしれない。>230>
もう一つは、男性同性愛者という主体と性的欲望の関係である。本書を書き上げた現在、実は、こちらの分析のほうが筆者の大きな関心だったのかもしれないと思っている。
[……]しかしながら、「ホモ」「おかま」「ゲイ」と自認することが、どのように性的欲望を駆り立てるのかは、非常に興味深い課題であるように思われる。
「ホモ」「おかま」「ゲイ」などと自認することは性的欲望や性的快楽とどう関係しているのだろうか。
仮に、公衆衛生によるエイズ政策が男性同性愛者という主体を形成したという本論の分析を認めるとすれば、
エイズ政策は男性同性愛者の性的欲望をあおり続けていることにならないだろうか。この点については、さらに分析を進めていくべき今後の課題となった。
本書の分析は、どちらかというと男性同性愛者自身の語りよりも、国家や研究者が男性同性愛者という主体をどのように作り上げていったかに比重を置いているかもしれない。
したがって、エイズ政策のなかで立ち上がってきた男性同性愛者という主体が、どのように性的欲望を駆り立てられ、
自らの経験を形作っているのかを分析することは、エイズ政策が効果的なHIV感染予防施策を作っていくうえでも重要になるだろう。
男性同性愛者がHIV/AIDSに対してどのような意味づけをおこない、どのようにHIV感染を回避しようとしているのかを、応用人類学的視点から分析していくことも今後の課題である。
(pp.229-230)
■書評・紹介
■言及
◆北村 健太郎 20140930 『日本の血友病者の歴史――他者歓待・社会参加・抗議運動』,生活書院,304p.
ISBN-10: 4865000305 ISBN-13: 978-4-86500-030-6 3000+税 [amazon]
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*作成:北村 健太郎