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『死にたい老人』

木谷 恭介 20110930 幻冬舎(幻冬舎新書231),262p.

last update:20120407

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■木谷 恭介 20110930 『死にたい老人』,幻冬舎(幻冬舎新書231),262p. ISBN-10: 4344982320 ISBN-13: 978-4344982321 \840+税  [amazon][kinokuniya]

■内容

もう充分に生きた。あとは静かに死にたい―。83歳の小説家は、老いて身体の自由がきかなくなり、男の機能も衰え、あらゆる欲望が失せ、余生に絶望した。 そして、ゆるやかに自死する「断食安楽死」を決意。すぐに開始するや着々と行動意欲が減退、異常な頭痛や口中の渇きにも襲われ、Xデーの到来を予感する。 一方で、テレビのグルメ番組を見て食欲に悩まされ、東日本大震災のニュースにおののきつつも興味は高まり、胃痛に耐えられず病院に行く。終いには、 強烈な死への恐怖が!死に執着した小説家が、52日間の断食を実行するも自死に失敗した、異常な記録。

■著者略歴

1927年大阪府生まれ。劇団「新風俗」「三木トリロー文芸部」などを経て、ルポライターとして活躍。1977年、「俺が拾った吉野太夫」で第1回小説CLUB新人賞受賞。 以後作家生活に入り、風俗営業の女性を題材とした小説、風俗のガイドブックなどを執筆していたが、1983年の『赤い霧の殺人行』から、旅情ミステリーに専念。 五十五歳での再出発だった。宮之原警部シリーズで多くの読者を獲得(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

はじめに

第1章 断食死をめざして、38日間
断食カウントダウン――2011年2月10日〜14日/断食直前の記録
いよいよ断食突入――2月15日〜3月24日/38日間の断食記録
その後のからだについて

第2章 断食安楽死をするための準備
保護責任者遺棄の罪にあたるらしい
83歳、独身ではアパートも借りられない
いい本が手にはいった
安楽死を認めている国は意外と少ない
ひとりで断食安楽死をする準備
病院はすっかり変わっていた
機械化された病院
人間否定の看病
10月29日、入院4日目の落胆
病院の現状・知識と体験の差
思い込みによる病状の悪化
このところ、週刊誌を中心に『死』についての特集記事が多い
断食安楽死の条件は整った
断食をして仏になるという思想
あらたな断食安楽死

第3章 ぼくはなぜ断食安楽死を決意したのか――その理由と背景
ぼくには孤独死した友人が4人いる
生への執着をなくしたら、突然世界が変わって見えた……
男のひとり暮らしは無意味
安楽死は誰でもできるわけではない
ぼくはC級のひと、C級の人生
実体験した軍隊
軍隊は非人間的な組織
A級のひととは?
フクシマの原発問題も似たようなもの
戦争が終わってもC級のひと
米兵の残飯が御馳走だった
命がけの退職、新天地を求めて
1900年生まれのラッキー
人間は寿命に従順であるべきか?
日本の僧侶はどうして、漢文のお経を和訳しなかったのか
日本は「武士」階級をなくして大きくなった。そして次は……
官僚不信
民主党の覚悟不足
ぼくの宗教観
死後の世界はあるか
人間には9歳の壁がある
「本業」に誠実に向き合うべし
田舎を知らずに田舎を語るな
姥捨てを考え直した楢山節考

第4章 今度こそ、3度目の挑戦!
3度目の挑戦に入る前に――2011年4月12日〜23日/断食再決断の記録
3度目の断食突入――4月26日〜5月4日/9日間の断食記録
人間は理性では自殺できないと説く知人――5月15日〜23日/断食安楽死断念まで

あとがき
参考記録『紺屋海道 蔵の街殺人事件』あとがき(トクマ・ノベルズ)

■引用

   年老いてからのひとり暮らしは辛い。
 しかも、夫婦の信頼というのは、ながい期間をかけてつくりあげて行くもので、ぼくの年齢になってから、つくろうとしても無理なのだ。>79>
 ひとはひとりでは生きていけない。
 ところが、ぼくは集団生活が苦手だ。
 妻とふたりで生きるしか道はないとわかっていたが、それでも、別れるしかないと決意するに至った。
 ぼくと妻は17年3ヶ月、年齢が離れている。
 だが、性生活を嫌がるようになったのは、妻のほうであった。潤滑液の分泌がすくなくなり、苦痛になったのだ。
 70代後半になっていたぼくは、性生活がなくなっても、それほど不満ではなかったが、ぼくたち夫婦のように価値観がちがい、趣味嗜好がちがう男女の場合、 セックスがなくなると、ふたりをつなぐものがなくなってしまうのだ。

 で、ぼくのほうだが、横浜の家庭裁判所で調停をするようになって、愛人のような関係の女性ができ、3年ほどがすぎた。
 50代のころの元気さはなくなっていたが、お互いに楽しむことができた。
 セックスには相性というのがあり、相性がいいと、言葉などいらない。すべてが通じ合っているように感じる。>80>
 もちろん、それは錯覚か勝手な思いこみだから、日常生活を営む夫婦だと、そんなことですますわけにはいかないが、たまに会う"愛人"の場合は、それで充分なのだ。
 からだとからだが話してくれる。ボディトークしている錯覚に酔うことができるのが、愛人や不倫の気楽なところだろう。
 それができなくなったのは去年のはじめ(82歳2ヶ月)であった。
 生身の女性と肌を寄り添わせているのに、勃起しなくなった。
 生まれてはじめての出来事であった。
 いつかくると予期していたことだからショックはなかったが、ぼくの人生は終わったという淋しさを持った。老人になっても、このときだけは"男と女"の関係でいられる。 ぼくが勝手にそう思い込んでいるだけのことかもしれないが、ボディトークができなくなった。女性に酔うことができなくなった。
 老人のぼくは相手に何の期待も持つ必要はない。これから信頼関係をつくっていく若いひととはちがい、そのときだけひとつになったと思えば、それでいい。
 だが、そのときだけの錯覚に酔うこともできなくなった。
 最後の支えがなくなってしまった。
 これは、悲しいことであった。(pp.78-80)

■書評・紹介・言及

◆立岩 真也 2012 『……』 文献表


*作成:北村 健太郎
UP: 20120407 REV: 20120801
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