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武漢市現地での2019障害学国際セミナー参加の体験談(和訳)
作者:
周倩如
(台灣障礙女性平權連線理事長、台湾障害学会理事)
和訳:
高 雅郁
校正:
伊東 香純
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last update: 20210819
■【その一】
原文(中文):「實地體驗武漢:2019東亞障礙研究論壇心得」
外部リンク
※2021年6月16日に台湾障害学会のブログ「障礙研究五四三」に掲載された。
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2019年10月に私は
「障害学国際セミナー(East Asia Disability Studies Forum)」
に参加するために中国武漢市へ渡航した。私は高度な支援ニーズがある障害者だ。海外でのセミナーに参加するために、障害者である私自身でも、そして主催者でも、事前にたくさんの精力を使って準備や打ち合わせをする必要があった。電動車いすに乗っている私の武漢市での生活体験はどのようなものだったのか。環境の障壁は如何に障害者の心身状態や選択に影響を及ぼしたのか。障害者と介助者の間の互いの協働と依存はどうなっていたのか。これらのことについて私の経験から語りたい。
一、事前準備と打ち合わせ
私は筋ジス患者で、全身に力がなく、補助クッションとベルトに頼って固定することで、安全に電動車いすに乗れる。現在の私の身体状態は、手を机の上に置いたとき、自ら水平移動できるのはわずか10センチの範囲である。このため、身辺なことはすべて私が指示を出して、他人に介助してもらう。全身の筋肉に力が入らないことで、夜間寝ている際に呼吸が止まってしまうときもあった。このため、寝るときは呼吸器を使う。また、寝るとき、長期間同じ姿勢でいると、痛みが出る。その際には、他人による姿勢変換の介助が必要になる。私は、ほぼ24時間介助が必要である。
幸い、二つの要素のお陰で、障害学国際セミナーに参加ができた。一つは、主催者が武漢現地で提供してくれる補助具により、介助者の負担を軽減できること。もう一つは、介助者が同行することである。
1.主催者との事前の打ち合わせ
セミナーで発表すると決めた後、私はメールで主催者と連絡を取った。電動車いすユーザーであることを知らせながら、会場のバリアフリー環境について尋ねた。特に会場のトイレと部屋のトイレの様子を確認したかった。主催者が扉の幅を提供してくれて、電動車いすが出入りしやすいかどうかの判断を私に委ねた。もし電動車いすが出入りしにくい場合は、代わりに現地で手動の車いすを提供すると主催者が提案した。また、主催者がホテルのシャワールームの写真を送ってくれた。その扉の幅は64センチある。そこで、私はホイール付き、手すりの上げ降ろしのできるシャワー用の補助椅子が必要だと説明した。ホイール付きの椅子はシャワールームと部屋の間の移動をしやすくするためで、手すりは、私の身体が揺れずに安定するよう補助するためである。
私は自宅でトイレやシャワーをする時、リフトを使って移動する。しかし、リフトは一般のホテルでは備えていない。そして、入手しにくい。このため、上下の高さが調整でき、ホイール付き、手すりが調整できる事務室用の椅子があれば、移動する際に介助者の負担が軽減できると主催者に伝えた。物理的なバリアフリー環境を確認した後、次には、誰が介助してくれるかという問題がある。
写真:ホテルの部屋のシャワールーム。(筆者提供)
2.介助者はどこにいるか
本来は普段介助してくれている外国人介護労働者が同行する予定だった。しかし、フィリピン籍の彼女は、中国ビザを申請するために、一度にフィリピンに戻らなければならない。そうすると、彼女の「台北―武漢」間の往復の飛行機代と、武漢市に滞在する期間の宿泊料金以外に、彼女が中国ビザを申請するための「台湾―フィリピン」間の往復の飛行機代、また、彼女が不在の期間に代わりに臨時で介助してくれる人を探すことや介助費用などを含め、全体のコストが私にとって重荷になる。そして、彼女が中国ビザを順調に取れる保障はない。そこで、普段介助してくれている人が中国武漢市へ同行することは無理だと判断した。
「障害者には家族が同行すれば良いだろう、便利だし」と思う人は少なくないだろう。実は、私の母親も同行しようかと提案した。しかし、成人である私はどうしても母親が介護者役として同行するのは避けたい。母親と私には、上下の権力関係があるし、母親の立場でぶつくさ言うときも多少あるだろう。また、母親は普段は私の介助者ではないため、多くの介助の技術を彼女は知らないので、改めて互いに練習しなければならなかった。
私が専門の介護者(訳者注:ホームヘルパー、台湾では「居家服務員」と言う)を選ばずに、介助者(訳者注:パーソナルアシスタント、台湾では「個人助理」と呼ぶ)を選んでいる理由は、障害者の自立生活運動の理念に従うためである。自立生活運動の理念に基づく介助者の研修では、介助者は即時の命の危険や安全に影響しない範囲で、障害者の決定を支えるという理念を教わる。専門の介護者は、「利用者のために」という理念に基づく。これが介助者と専門介護者の違いである。
私は以前、専門介護者に介護してもらった経験がある。その時、私は朝食にサンドイッチとミルクティを買うように頼んだけど、その介護者は、朝に冷たいものを飲んだら体によくないよ!などと言った。彼女は自分の主観で何が私にとって良いかを勝手に決めた。そのとき、なんで私は介護者にコントロールされなければならないのかと思った。もちろんすべての専門介護者がそうではないと知っているけれど、ホームヘルパーの研修では障害者の主体性に言及することは間違いなく少ない。
私の介助者の年齢は私と近い。そして、研修の段階で習慣は人それぞれ異なることを知っている。障害者の行動や習慣を評価する必要はないと知っている。このため、介助者が隣にいてくれると、私が自分のよいようにやる。
台湾では、自宅で住み込みの外国人介護労働者を利用する人は、公的措置制度でのホームヘルパーを併用することはできない。外国人介護労働者の月に一度の休暇には、私は自費で介助者を雇う。障害学国際セミナーに参加するために、休日にたまに私が自費で雇う介助者になり、そして、職場介助もしてくれることがあった家寧さんに武漢への同行が可能か聞いてみた。彼女もセミナーのテーマに興味があり、時間的にも可能であり、家寧さんの武漢への同行が決まった。
3.介助者との事前の打ち合わせ
家寧さんは私を介助した経験があると言っても、1ケ月もしくは2ヶ月に1回の頻度なので、私を介助する技術や私の習慣を覚えているはずがない。
介助の際、彼女と私は「手足論」のように関わる。言い換えると、介助者は私の手足のようになり、どうやって介助するかは私の口から指示を出す。ものすごく細かい指示をする。例えば、車いすからトイレへ移動する際には、私の体を固定している三つのベルトを外して、彼女の手を私の太もものしたのあたりに置いて、私の体を車いすの座席から三分の一引っ張って…など次々に一つひとつ指示する。
海外へ行くと泊まりがあり、普段と異なることが起こりうる。私たちが出発してから帰国するまでの10月10-14日の間の各段階で、介助を必要とする時間帯と介助内容について考えながら話し合った。例えば、飛行機に乗る際の車いすのチェックイン、電動車いすを手動式に切り替える際に電源を切ることや、移動補助シートを使って機内席に移動することなど。また、毎日の起床、歯みがき、洗面、着替え、トイレ、補助シートを使ってベッドから移動することや、夜間の姿勢の調整、呼吸器を付けることなども含む。なお、シャワールームに補助の椅子を置いても、現場の状況に応じて調整する必要がある。そして、外出するとき、携帯用スロープを使いうる等々。
また、武漢市滞在期間の11日と14日の二日間、セミナーのスケジュールにより、個人で会場やホテルから出かけて武漢市を見物する時間の余裕がある。現地にどのような状況があるかわからないので、二人ともこころしておいたほうが良いと思う三つのシナリオを話し合った。一つ目は、他の参加者と同行して外出する。二つ目は、家寧さんと私二人で武漢市を探検する。三つ目は、バリアフリーの交通手段の情報が入手できずに、外出のプランを立てられず、外出をやめて、恐らくホテルにしか滞在できないというシナリオだ。
可能性があるシナリオを考えた上で、武漢市へ渡航する前に、二人で出発までに家寧さんが経験したことがない介助を練習した。電動車いすを手動式に切り替えることや、車いすの電源を切ること、補助シートを使ってベッドに移動すること、夜間に呼吸器を付けること、外出の際の携帯用スロープの設置・片付などを練習した。また、武漢市現地ではリフトがないため、ベッドから電動車いすへ移動する際に、力がかなり要るので、注意しないと、家寧さんがケガをすることにもなりうる。そこで、理学療法士にお願いして、家寧さんに私を介助する技術を教えてもらった。実際に練習して問題がないかどうかを確かめた。二人の安全確保のため、出発前に2回くらい練習した。
その次には家寧さんの給料についての課題である。台湾における介助者の時給や最低賃金額を計算すると、私には絶対に負担できない。二人で協議して、日単位で一日台湾ドル2,000元(訳者注:約日本円7,200円)で、出発から帰国するまでの五日間で計算した。けれども、家寧さんは、初日の夕方に台北から出発するので、その日の給料は半日で良いと言ってくれた。家寧さんは介助者として同行するので、雇用主の私が彼女の保険料、1泊の宿泊料金(主催者が3泊の宿泊料金を負担する)、交通費(飛行機代と武漢市現地での交通費)などの費用を支払う。その他は各自で負担すると協議の上で決めた。
■【その二】
原文(中文):「實地體驗武漢:2019東亞障礙研究論壇心得(之二)」
外部リンク
※2021年6月27日に台湾障害学会のブログ「障礙研究五四三」に掲載された。
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二、武漢市で体験したこと
台北から武漢までの直行便は夜行便しかない。台湾からの参加者は10月10日の夜に武漢市に到着した。全体のスケジュールは、翌日の夕方にウェルカムパーティに出席し、12日と13日はセミナーに参加し、14日の夜に帰路の便に乗って台湾に戻るというものだった。武漢市での滞在期間の2日分(11日と14日)の昼間と3日分(11日、12日、13日)の夜の時間に自由に見物する時間がある。
そのようなスケジュールを知り、武漢市へ出発する前に、私がGoogleで武漢市のバリアフリー情報について調べた。けれども、何も見つけられなかった。ただ、武漢市の地下鉄の駅にエレベーターが設置されていることがわかった。一部の駅にエレベーターがないとの情報も目に入った。武漢市のバリアフリー環境についての情報が入手しにくいので、最低の場合、すべての自由時間をホテルに滞在するしかないという覚悟を持っていた。
しかし、好奇心旺盛な若者として、いろんな工夫をしてようやく武漢市に着いたので、私はやはり武漢市を探検したかった。武漢の空港に到着した後、主催者がアレンジしてくれたバリアフリー車両に乗ってホテルへ移動した。途中で、高層ビルや現代化的な施設などが見えて、武漢市には私が慣れている台北市と同じように現代化な大都会という雰囲気があり、私は自由時間に何ができるのか、少し期待が高まってきた。
1.電動車いすに乗って町を移動することは、なぜそんなに難しい?!
写真:武漢市の道の状況。(筆者提供)
ホテルに到着してから、ホテルの係員に武漢市のバリアフリー環境について尋ねた。しかし、係員たちは何も知らなかった。ネット地図を利用したいなら、「高徳」というサイトを使う。また、情報を調べたい場合は、「百度」というサイトを使うなどの常識だけしか教えてくれなかった。「百度」で調べても、バリアフリー環境についての情報は少なかった。
翌日、私と家寧さんは二人でホテルを出てすぐ、路面と歩道との間には約3センチから5センチの段差があることに気づいた。もっと高い段差があるところもあった。その段差によって私の電動車いすは、ものすごく大きく揺れた。私は、体の位置を自らコントロールできないため、電動車いすが揺れると、私は風に吹かれたかかしのように頭と体が揺れ続いた。もっと高い段差に遭った時は、携帯用スロープを使わなければならなかった。武漢市でそのスロープの使用頻度がそんなに高いとは全然予想していなかった。滞在二日目の11日の一日だけで20回以上使っただろう。武漢市では、車いすは道路を走れない。道路は車のみの道であり、車いすは道路側を走ると非常に危険である。現地の法律がどう規定しているのかわからないけど、現地ではモーターバイクでも歩道で走るのを私たちは見た。
武漢市では、台北市のように、道沿いに多くの店舗が並んでいる。店舗の入口には、階段がついている。車いすユーザーはそれらの階段によって疎外される。また、コンビニや他の店が歩道の内側にあるのも見えた。しかし、モーターバイクが歩道に入らないように通りの入口には障壁物が設置されていた。それらの障壁物も私を店舗から疎外した。私は近づけず、障壁物を挟んで遠くから「ウィンドウショッピング」しかできなかった。
写真:筆者はコンビニへ近づけず、遠くから見るしかなかった。(介助者が撮影、筆者提供)
武漢市の路面での移動はとても不便である。道を渡るとき、横断歩道が少ないため、主には歩道橋や地下道を利用する。私と家寧さんは、約1キロ歩いてようやく横断歩道を見つけるような事態によく遭遇した。歩道橋と地下道に頼りすぎると、車いすユーザーや、荷物を運ぶ人、ベビーカーを使う人たちを完全に排除する。また、地下鉄を利用したくて、駅へ移動するにもとても不便である。駅には出入り口は多いけれども、エレベーターがある出入り口は1ヶ所しかない。台北市のMRTと同じだ。
2.「ここはあなたは通れないから、タクシーに乗りなさい!」
武漢市の地下鉄の駅は、ある程度のバリアフリーの整備がされている。乗車券販売機の中には車いすユーザーが見えやすい高さの販売機が設置されている。エレベーターにも車いすユーザーが使いやすい高さの押しボタンがあり、台北市のMRT駅のエレベーターの押しボタンと同じくらいの高さである。駅にもバリアフリートイレが設置されていて、スペースは広い。しかし、補助手すりは便座との距離をあけすぎていて、使いにくい。更に、手すりは上げ降ろしできないので、車いすを便座に近づけられない。駅のホームと地下鉄の車両の間に隙間はないけど、約3センチの段差がある。私の電動車いすには大きな車輪と小さな車輪がついている。移動するとき、大きな車輪は車内に入りやすいけれども、小さな車輪はその段差で立ち往生にしてしまうこともあった。
写真:筆者が観察した武漢市の地下鉄駅内のバリアフリートイレ。(介助者が撮影、筆者提供)
物理的な環境以外で、最も面倒なことは、地下鉄に乗るとき毎回安全検査を行うことである。家寧さんは一人で私の電動車いすの後ろにかけている私のリュックサックと携帯用スロープを全部取って、安全検査を通った後、また電動車いすに掛け直した。家寧さん自身のリュックサックを含め、一人で三つの荷物を何回もそのようにしたので、彼女は疲れやすくなり、うんざりしていた。さらに、毎回の安全検査の対応は出入り口と駅員により異なる。ある駅員は向こうの出入り口へ行きなさいと言ったけど、向こうの出入り口へ行くと、私は入れなかった。ある駅員は私に、サービスカウンターへ行って、そこの駅員に頼んで扉を開けてもらって入りなさいと言った。言われたとおりに、サービスカウンターへ行ったら、そこの駅員は「安全検査を通ったの?」と聞いた。しかし、電動車いすは安全検査の扉を通れないのだった。更に、ある保安員は私にこう言った。「ここはあなたは通れないから、タクシーに乗りなさい!」その話を聴いた瞬間、私は怒った。地元の人ではないのに、タクシーをどう呼ぶのか、どう乗るのか、わからない。そして、武漢市にはバリアフリー車両は僅か2台しかないと聞いていた。つまり、電動車いすユーザーは地下鉄以外の交通手段が使えない。それらの前提があったのに、その保安員は私に「タクシーに乗りなさい!」と指示した。その時、私はうんざりした気持ちを押さえて、その保安員と駅員たちに「2時間前に、私は他の駅から地下鉄に乗ってここまで来ました。ですから、私は、地下鉄に乗れますよ」と説明した。結局、彼らが上司に報告し尋ねてから、ようやく私と家寧さんは地下鉄に乗る許可をもらった。幸い、最終的に無事にホテルに戻れた。
写真:武漢市の地図。(筆者提供)
3.止むことない好奇の視線を浴びられること
台湾では、私が電動車いすに乗って外出しても、もう他人から注目されない。しかし、武漢市に滞在した期間、いつも他人から視線を浴びせられていた。彼らが何を見ていたのか、どんなことを思っていたのか、知らないが。もしかすると、そこでは電動車いすを利用する人があまりいないから、電動車いすに乗っている私をじっと見るのだろうと思った。知らない人が近づいて来て電動車いすについて聞いてきたこともあった。聞かれた際には、「見物料や相談料を私に支払ってくれないの?」と一瞬思ってしまった。武漢市に滞在した期間、路上で車いすに乗っている高齢者は僅か2、3人しか目に入らなかった。「武漢市の障害者はどこにいるのか?」という疑問が浮かんできた。
ある晩、私と家寧さんは夜食を買いに外出した。突然濃厚な湖北アクセントのおばさんが私の隣にいる家寧さんに、「あなたは彼女の車いすを押さなくても大丈夫なの?」と聞いた。「大丈夫ですよ。これは電動のものです。彼女が自分で操作しますよ」と家寧さんが答えた。次に、情熱的なおばさんは私が電動車いすを操作している手を掴りながら、「あら、あなたはどうしてこうなったの?いつからこうなったの?」と聞いた。その時、私はとても怖く感じた。私の手はおばさんの力に抵抗できず、万が一おばさんが私の手を動かして電動車いすを急発進させたらどうしようと非常に怖かった。恐怖感を抱きながら、「幼いときからこんなふうです」と答えた。おばさんは次々に質問をしてきた。「どこから来たの?」と聞かれて、「台湾から来ました」と答えた。「あなたはスゴイなぁ!」とおばさんは大げさに賞讃した。「なにがスゴイの?車いすに乗っている障害者の私がここに現れることが?」と私は心の内で突っ込んだ。
おばさんの情熱と真摯な関心を感じたけれど、どうやって返答すればよいかわからなかった。と言うより、返答したくなかった。その時、私の隣に付き添っていた家寧さんを見ると、彼女はこっそり笑っていて、私を助けようとしないように見えた。私が「助けて!」と指示を出さない限り、介助者はこのような状態に介入する必要はないとわかっていた。しかし、旅に同行する仲間としての家寧さんが私を助けてくれないことが、当時の私には多少不愉快だった。その後、「あなたなら自分で対応できると信じていたから。そして、そのおばさんの言葉と行為にあなたがきっとうんざりすると思った。そのおばさんの誇大な賞讃と大げさなジェスチャーであなたに関心があることがわかって、無言で笑うことしかできなかった。」と、家寧さんが言い訳した。この経験に基づいて、二人で検討した。今後、私が電動車いすをコントロールしている手を他人が触ったり掴んだりする場合は、非常に危険であるから、介助者はこういう状況を避けるように介入する必要があると合意した。
■【その三】
原文(中文):「我要『飆車』一下:2019東亞障礙研究論壇心得,第三回」
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※2021年7月03日に台湾障害学会のブログ「障礙研究五四三」に掲載された。
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三、私は「暴走」します!――環境の障壁がいかに障害者の心身状態と選択肢に影響するのか
武漢市滞在のうちの五日間の二日目の11日に私と家寧さんは二人で武漢市を探検した。環境の障壁だらけで、バリアフリー情報も入手できず、一日を過ごした後、二人とも心身共にくたびれていた。しかし、その日の経験に基づいて、この都会の移動手段が少しわかってきたので、13日の夜に再び探検しようと決めた。自由時間の最後の日の14日昼間には、夜8時の飛行機に間に合うように、搭乗準備でオムツを着用する時間などを配慮し、また、地下鉄に乗った経験から不確定の要素が多かったので、その日は出かけずにホテルで休もうと思っていた。幸い、張恒豪先生と蘇峰山先生が主催者と相談してくれて、1台のバリアフリー車両を調達できて、車に乗って武漢市を回って見物してから空港へ向かうことになった。バリアフリー車両が調達できたおかけで、交通手段をアレンジする心配と精力を省略できて、その時間も武漢市をもっと探索できるようになった。
1.武漢市を探検する挫折感と無力感
二日目の11日の体験を更に詳しく語っていきたいと思う。その日は、元々他の参加者に同行して探検に行こうと思っていた。しかし、ホテルで主催者に聞いたら、「武漢市全域でバリアフリー車両が2台しかない」という情報がわかった。私の探検のための送迎はできないとも告知された。そういう情報を知り、仕方なく、私と家寧さんは二人きりで出かけるしかなかった。最初はワクワクしていたけれども、ホテルから出てまもなく、精力をものすごく使うことがわかった。歩道を通る際に段差があるため、私の首は車いすの揺れに耐えられず、家寧さんに両側から私の首を支えるよう依頼しなければならなかった。そして、段差が高すぎると、携帯用スロープを使わなければならなかった。現代的な大都会の武漢市の歩道で移動するのが、こんなに疲れるとは予想していなかった。
午前の時間をかけて、泊まったホテル及び会場である「中南花園飯店」から、約2キロを歩いて移動し、「洪山広場駅」に向った。中国でよく知られているキャッシュレスの支払い方法の「支付宝」を申し込もうと思っていたが、中国の銀行で口座を作る必要があった。口座を作るためには、名前付きの電話カードが必要である。中国籍でない人が電話カードを作るには、直営店舗で申請するしかない。私たちは道に沿って、五つの通信店舗を訪ねたが、すべて直営店舗ではないとの返事だった。このため、「支付宝」の申し込みをやめざるをえなかった。
歩道を移動する間に、ようやく地下鉄の駅につながるエレベーターを発見した。ゲームで関所を抜けて次のレベルに上がるゲートを開けたときのように、遠く行ける希望を持った。電車に乗って、「湖北省博物館」へ行こうと決めた。しかし、最寄りの駅の「東亭駅」で降りてから博物館までは徒歩で約40分の時間がかかった。博物館までの歩道も、とても歩きにくかった。博物館に到着する前に、私はもうくたびれて、一度は「帰ろうか!」とも思った。ようやく博物館が目の前に見えたが、道を渡る横断歩道がなくて、地下道でしか行けないとわかったとき、再び不安を感じた。幸い、地下道につながるエレベーターを見つけて、渡れた。エレベーターがなかったら、私は本当に崩れただろう。地下道を渡っていた際に、突然、あるお姉さんが近づいて来て、私たちに関心を寄せてきた。お姉さんは博物館の係員で、地下道につながるエレベーターには時間制限があり、夕方6時までしか使えないという情報を知らせた。この情報を聞いた瞬間、「ナニ?!行動の時間も制限されるのか!」と心の中で叫んでしまった。
博物館を見学した後、体力が少し回復し、別のところへも行ってみたかったが、私と家寧さん両方の体力に配慮しながら、移動の様々な不確定の要素も考えざるをえないので、ホテルに戻ろうと決めた。帰路、私はずっと「ムナシイか、ムカつくか、くよくよか」という気持ちだった。原因はなにか、その時にはわからなかった。不愉快な気持ちを他人に波及させないように、家寧さんには、「私はいまから『暴走』しますから、あなたはゆっくり歩いてきてください。次の交差点で合流しましょう!」と言ってから、電動車いすを最速のスピードにして走り去った。ホテルの最寄りの駅から出たとき、雨が降っていた。家寧さんは傘をささえながら、私が順調に通れるように、携帯用スロープを設置したり片付けたりすることを何回もして、本当にくたびれただろうと私は感じていた。
2.「暴走」したい気持ちはいったい、なんなのか?
そのような不愉快な気持ちが起こった理由は、なぜこの現代的に見える大都会で、私には移動するだけのことがそんなに難しいのかと関わるだろう。武漢市に着いて二日目だったのに、首がもう折れそうなくらいくたびれてしまった。それなのに、予定した「支付宝」を申し込むような小さなことも出来なかった。その過程で、私に付き添うために家寧さんは何キロも徒歩で移動せざるを得なかったので、私は随時家寧さんの体調に注意を払わなければならなかった。途中で公共のシェア自転車を見て、家寧さんを自転車に乗せて少し楽になってもらおうと思ったが、「支付宝」がないと借れられなかった。更に、慣れていない武漢市では、私は介助者の家寧さんにしか頼れなかったので、彼女に万が一何かがあったら、私はどうしようかと心配せざるを得なかった。また、帰路の地下鉄の駅で、駅の保安員に「タクシーに乗りなさい!」と言われたことも含めて、一日だけで様々な障壁に遭って挫折感がたまり、武漢市での探検がそんなに難しいのかと思って、自由を奪われたような感じもした。
それなのに、ホテルに戻った後、他の参加者のその日の豊かな武漢見学の体験談を聞いたら、ムカいてしまい、「相対的剥奪」という言葉が浮かんできた。みんなで同じセミナーに参加しに来て、会議以外の自由時間に他の参加者は気楽にタクシーやバスに乗って出かけるのに、私と家寧さんは様々な障壁に遭わざるを得なかった。部屋に戻った後も、モヤモヤした気持ちが晴れなかった。幸い、もう一人の参加者の高雅郁さんに連絡し、私の部屋に呼んで、今回武漢市へ渡航すると決まってから、その日までの出来事について話し合って、私の気持ちとそれらの原因について整理ができた。更に、その後の滞在期間に似ていることが再び起こったときの対策も検討してみた。
3.気持ちの整理ができてから、探検し続けよう!
武漢市へ渡航することは、なかなかない機会である。町の歩道には歩きにくくて、私の体をくたびれさせたけど、せっかく遠くから来たのにホテルにしか滞在できないのは悔しく思う。残りの滞在期間の具合を配慮して、セミナーの二日目の13日の午後に、体力を消耗しすぎないように、いつもは夜寝るときだけ使う呼吸器を会場でも付けようと決めた。そして、まくらも使って、首を支えてもらい、少し楽になった。
せっかく他の参加者に同行して海外へ行けるようになったので、皆と一緒に出かけたいという希望も持っていた。セミナーが終了した晩、先生方と約束し、地元でも有名な観光地「楚河漢街」で合流し、一緒に見物に行った。そこは、中華民国成立当初の町の様子を再現して、1.5キロの道沿いに約200軒の商店やレストラン、文化・余暇施設などが並んでいる。しかし、その街は地面の道より低いところにあった。私と家寧さんは最寄りの地下鉄の駅から出て、なかなか「楚河漢街」に降りるエレベーターやスロープを見つけられなかった。だから、二人で下にある「楚河漢街」を見ながら、道に沿ってずっと歩き、通れる出入り口を探した。家寧さんとこの何日間で遭遇したバリアフリー問題について話し合いながら、途中で会った警備員に降り方を聞いてみた。警備員たちもすぐには思いつかず、少し時間をかけて、地下の駐車場にあるエレベーター経由で「楚河漢街」に通れると思いついて教えてくれた。ようやく先生方と合流できて、少しの時間だけ一緒に見物した。帰路は、またギャンブルのようだった。帰ろうとした時にはもう夜10時になっていて、地下鉄の終電は夜11時だった。来た道を戻ろうとすると、その時いたところから大回りしなければならなかった。大回りをしたら、駅までの時間は来たときより20分間以上かかると予想され、さらにかかる可能性もあった。そのまま、前に進み、他の出口を探そうかなと思った時、改築中の工場から出てきた大工さんがセメントを載せた台車を押してきた様子を見つけて、前に進むと決まった。以前の経験に基づくと、台車が来たほうにはきっと出口がある。幸い、大当たり!前に進みまもなく、地面とつながるスロープが見えてきた。しかし、スロープを上がって地面の道路に着くと、道には「工事中」と表示する看板が並んでいて、私にとっては障壁になってしまった。こっそり電動車いすの動力でそれらの看板にぶつかりながら、前に進んだ。そうしないと、終電に間に合わないのではないかと非常に心配だった。一般の人は、終電に間に合わなかったら、タクシーに乗って帰れる。しかし、電動車いすユーザーの私は、地下鉄に間に合わなかったら、乗れるバリアフリータクシーもない状況でどうなるのかといろいろ考え、配慮しなければならなかった。
■【その四】
原文(中文):「2019東亞障礙研究論壇心得(四之四)」
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※2021年7月12日に台湾障害学会のブログ「障礙研究五四三」に掲載された。
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四、障害者と介助者との間の協働と依存
写真:移動の途中で段差があるとき、筆者はこの3kgの携帯用スロープを使用して移動する。(筆者提供)
私は高度な人的支援が必要な人だと思う。武漢市に滞在した五日間は、環境の障壁で、介助のニーズが増えた。そして、現地では私の身のまわりの介助・支援を家寧さん一人に頼るので、彼女にさらに負担がかからないように、家寧さんと私自身の状態に常に注意を払っていた。
1.環境の障壁によって介助者の仕事が増え、互いのコミュニケーションと信頼関係の重要性が高まった
セミナーの会場はバリアフリーだが、会場から出ると、環境の障壁が次々に現れた。例えば、街の商店に入ろうとしても、中華文化圏の建築の特徴である、建物の一階を通る廊下(アーケード)に荷物や自転車、バイクなどが重なるように並べてあって、狭いスペースしか残っておらず、健常者なら工夫をしてスッと通れるが、私の電動車いすでは通れない。目の前にある商店でも、遠くを回って通れるルートを探さないと入れない。家寧さんと二人で買い物に行ったとき、私は店に入りにくいので、外で待っていた。介助者が商店と私の間を往復して時間と体力をとられないように、介助者が店に入る前に、いくつかのプランと原則を話し合わざるを得なかった。もし話し合った状況が全部外れたら、介助者の彼女は何回も店から出て私に説明をし、私の望みを確認しなければならなかった。また、滞在の最後の日の14日に、空港へ向かう前に、他の参加者と見物に行ったところはお寺が多かった。車いすユーザーの私はお寺の建物に入りにくいので、お寺の中に何があったか、家寧さんが先に入り、写真を撮って、お寺から出て、私に写真を見せた。写真を見ながら私が自らの目で見るために入るかどうかを判断した。介助者は本来、私の手足として介助をしてくれれば十分だけど、環境の障壁によって二人の「協働(介助のプロセス)」モデルは変わり、介助者は多機能を担わなければならなくなる。
また、11日の二人だけの探検の話に戻る。移動する途中には、3センチから5センチくらいの段差が多くて、それらの段差を通る際に車いすが揺れるので、家寧さんは常に私の頭と首に注意を払わなければならなかった。段差が高すぎると、私が通れるように彼女は携帯用スロープを出して設置する必要があった。段差だらけのところは、随時スロープを設置・片付できるよう、彼女はその3kg のスロープをずっと手で持って歩いた。また、利用できる交通手段に制限があり、地下鉄しか乗れなかった。駅では、安全検査の機械に通すために、彼女は一人で、私の車いすに掛けているリュックサックと携帯用スロープを全部おろさなければならなかった。私のリュックサックには電動車いすの充電器と補助シート、また個人用品などが入っているので、重たかった。そして、スロープも3㎏の重さであり、彼女自身のリュックサックを含め、一人ですべての荷物をおろしたり戻したりをするのを何回も振り返した。なお、武漢市には、横断歩道が少なく、エレベーターが向こうに見えても、地面に横断歩道がないため、利用できないことが多かった。そして、最寄りの地下鉄の駅で降りても、観光スポットまでかなりの距離があり、その日だけで、家寧さんは8キロか10キロくらい歩いたと推定する。私の介助はすべて彼女に頼っているので、互いの体調をしっかり管理することが大事で、私は彼女の体力をすごく心配していた。このため、途中で私は彼女に、「疲れたと感じたら、休みが必要な際に、必ず私に言ってください。車いすユーザーは歩いている健常者の疲れを理解できない。歩く健常者もずっと車いすに座っている障害者のお尻の痛みはわからない」と言った。しかし、家寧さんはいつも「大丈夫だ!」と返事をした。そう言われると、私も彼女を信じるしかなかった。前述したように、途中で私は「ムナシイか、ムカつくか、くよくよか」という気持ちになってしまい、その時、その気持ちの原因がまだ分からなかった。その気持ちが家寧さんに波及しないように、彼女にゆっくり歩いてきてと言って、私は「暴走」して、次の交差点で合流したことがあった。その後、互いに話し合った。彼女は私がそう言った時、「自分の介助が、どこかうまくいっていなかったか?それとも、段差を通る際に、首を支えていなかった?或いは、携帯用スロープの設置と片付に時間がかかりすぎ?」等々と心配し憶測していた。実は二人とも、私が「次の交差点で合流しましょう」と言った時、「私のモヤモヤした気持ちは彼女の介助の良し悪しに関係ない」ということをはっきり話したか覚えていなかった。モヤモヤした気持ちの原因は環境の障壁だったから、もしその時「個人の問題ではない」とはっきり話していたら、二人とも内心の疑いとその疑いによって使った精力は減っただろう。
また、13日の夜の探検で家寧さんは、私の介助をする以外に、もう一人身体不自由の先生の介助もしてあげた。正直、彼女の熱心さが体力的に負担になるかなと私は心配していた。でも、その時はもう武漢市滞在の最後の夜で、それからのスケジュールでは、私には高度な介助の必要性が低いため、彼女が他人を手伝ってあげても、私の介助への影響は少ないだろうと思って、「体調に注意しなさい」と口にしなかった。もし彼女が他人の介助を最初の何日間かにしたら、私は「体調に注意しなさい」と言うだろう。
介助者との協働では、当事者が思っていることを言わないと、互いにストレスと無駄な心配がたまってしまい、それからの介助の過程で二人とも影響を受けてしまう。何かあったら、二人で忖度なく話し合って、その場で解決方法が見つからなくても、せめて二人の考えと思いを話して、互いの理解を求めることが非常に重要だとわかった。
2.長期間の介助では、二人とも「Me Time」が必要
以前、家寧さんではなく、他の介助者の同行で海外へ行ったことがあった。介助者らに海外へ同行する可能性について聞いてみると、連続で何日間も24時間ずっと私と一緒にいることに対して、ある介助者は、同行しても、しばらく介助の仕事と私から離れて個人の「一人しかいないMe time」が必要だと言ったことがあった。その経験に基づいて、湖北省博物館の館内では、いつでも二人で隣にいることのないよう、私はわざと一人で見物するようにした。武漢市滞在の四日目であるセミナー二日目、私は家寧さんに、「あなたは午後休んでもいいし、出かけてもいいですよ」と言った。午後、私は会場にいるので、介助のニーズはあまりないと予測し、万が一あっても、会場で他の人に頼んで手伝ってもらえると彼女に言った。家寧さんは、「夜にシャワーを浴びた後は、私の個人時間になるよ。スマホを見て、メッセージを送るくらいはしているよ。セミナーのときも私の個人時間だよ。あなたはセミナーで忙しいと知っているので、私の精神はずっとあなたに集中していないから、その時も私の個人時間だと思う。そして、セミナーの時間は今回の旅の時間の半分くらいだったけれど、セミナーの内容も私は興味を持っていたから、今回の渡航と武漢市の滞在期間で、実際に介助した時間は、予想より少なかったと思う」と帰ってから語った。台湾で介助していたときから、「いつでも私に集中している必要はない」という原則は、私と家寧さんが何回か介助経験を積み重ねる中で、二人とも知っていた。彼女はセミナーのとき、私の近くに座っていて、その距離は、私が何か必要があるとき、彼女を呼んで聞こえる距離であった。しかし外出すると、環境の変化により、異なる介助のニーズが出てくる。
介助者の「Me Time」は、介助者により変わる。とはいえ、障害の当事者が自ら介助者の状況を注意し、介助者と話し合うことはとても重要だと私は思う。
写真:筆者の電動車いすの後ろにかけている3㎏の携帯用スロープ。このスロープは、車いすの後ろにかける時間以外は、介助者の家寧さんが持つことになった。(筆者提供)
五、旅で最も記憶に残っているのは予想外のエピソード
今回の武漢市への渡航での私と家寧さんとの会話を改めて振り返った。幸い、遭遇した困難に二人で耐えることができた。だからこそ、このエッセイを書け、みなさんに読んでもらうことができた。
1.彼女がいなかったら…
もし今回、普段私を介助する外国人介護労働者が同行したら、みなさんはたぶんこのエッセイを読むことができないだろう。なぜなら、このエッセイの多くは私と家寧さんとの対話の振り返りだからだ。普段、私と外国人介護労働者とは、言語的なコミュニケーションが取りにくくて、家寧さんとのような繊細な対話ができない。そして、中国の主な言語は中国語であり、私の介助者は環境の障壁だらけの武漢市で、私と地元の人との間で、コミュニケーションの架け橋の役割をしなければならなかった。これは、環境の障壁に私が普段暮らしている環境より不確定な要素が多くて、私と(地元の人を含む)環境の間に介助者が介入する必要が多くなったことを意味する。例えば、介助者が階段に登り、地元の人にエレベーターの位置を聞く必要があった。その状況で、中国語がわからない外国人介護労働者が同行しても、道・エレベーターなどを聞く役割は担えないだろう。そうすると、二人とも更に挫折感がたまると予想できる。なぜそう断言できるのか。それは、台湾にいる時の私と外国人介護労働者との対話でも、細かいところまでコミュニケーションが取りにくいからである。
セミナーに参加すると決めた当時、家寧さんは唯一、たまに私の介助者を担う人だった。二人は、一定期間の「協働」の経験があり、ある程度の信頼関係を築いていた。そして、家寧さんは他の障害の当事者を介助した経験があり、私に同行する介助者の人選として、私は家寧さんが最もピッタリな人だと思った。また、情報の欠如から、中国のバリアフリー環境はたぶんまだ完備していないだろうと予測された。過去の介助経験から見ると、家寧さんが同行すれば、二人とも様々な奇妙なエピソードに耐えられると思った。結局、本当に多くの予想外のエピソードが起きてしまった。それらのエピソードが積み重なって、二人ともそれぞれ異なる心身の状態で奇妙な気持ちになってしまった。幸い、二人は、互いにはっきり話せて、互いにマイナスな情緒をためずに済んだ。もし家寧さんが同行できなかったら、私は今回の武漢市へ渡航の機会を諦めただろう。もちろん台北市の自立生活協会、或いはネットや、学校のネットワークなどを経由して他の介助が可能な人を探すこともできる。しかし、出発までは4ヶ月間しかなかったので、知らない人と最初から互いの状態を知りあって、様々な介助の技術を教えてあげて、一緒に練習し、短い時間でうまくかみあう関係になることは難しいと思う。普段の生活はもう既に忙しいし、くたびれやすいし、さらに人的コストと時間的コストをかけて、渡航のために新しい介助者を探すことは本当に無理な投資だと思った。さらに、新しい介助者の状態とストレスに対する対処法がわからないうちに、その介助者が中国へ同行するための航空券を買おうとは、なかなか決められなかった。そして、中国のバリアフリー環境がわからないことに、新しい介助者が同行することが加わったら、私は本当に心配だらけになるだろう。
2.介助者との事前準備と話し合い
高度な介助が必要な障害者が旅するためには、事前に非常に多くのことを詳細に話し合わなければならない。私は、渡航期間の毎日のスケジュールに応じて、介助者の家寧さんと個々の細かい点や、起こりうると予想されるエピソードの対処方法を話し合った。現在振り返って、もし武漢市へ渡航する前に、介助者と二人で台湾で一泊二日の旅行をアレンジして予習ができれば、介助者も介助の実際の中身がもっとわかって、自分の体力や心身状態の自己評価・理解ができただろう。
介助の過程においては、コミュニケーションが非常に重要である。もし自分がマイナスな気持ちになってしまったら、とりあえずしばらく相手と離れて、落ち着いてから相手に何があったかを説明する。互いにプレッシャーをかけず、相手に対する忖度と自分に対する懐疑心をため込まないようすると、その後介助が続けられると思う。同時に、障害の当事者も、介助者が個人のMe Timeが必要なことをこころにおいておくことが大事だと思う。障害のある私は、24時間に誰かが隣にいることにもう慣れてきた。しかし、人によって違う。Me Timeが必要な人もいるので、できれば、介助者個人の時間と空間を作れるとよいのではないかと思う。
なぜ私がこういうようにはっきりと事前の準備や介助者とのコミュニケーションを取れるのかというと、それは以前の海外渡航と旅行で、異なる介助者との協働の経験を積み重ねて、それらの体験から学んだからだ。
3.多様性の想像が欠如した都会
中国では、ネットで情報を調べるとき、「百度」を使う。ネットマップは、「高徳」を使う。支払いの際には、実名制の「支付宝」が必要。これらのことは中国籍以外の人にとって、慣れない文化であり、生活の支障にもなってしまう。武漢市の街づくりは多様なユーザーに配慮していないと思う。恐らく多様なユーザーが存在することを認識していないだろう。道を渡る際は、主に地下道と歩道橋を利用する。地面にある横断歩道は極めて少ない。歩道には斜面があり、歩道を通る際の路面との段差はとても多い。
渡航する前に、Googleで武漢市のバリアフリー情報についていくら調べても、なかなか見つからなかった。帰国してから振り返って、もし渡航の前に、主催者に利用可能な交通手段や町の見学について尋ねていたら、或いは、武漢市の地元の障害者団体と知り合っていれば、地元の障害者の現地での移動や生活の状況について知れれば、もしかすると私と家寧さんの挫折感は今回よりは少し減らせただろうと思った。
生活に対して熱情と好奇心を持っている私だから、「ワガママ」で多様性の想像を欠いている武漢市で探検ができた。さらに、介助者の家寧さんも私も「社会モデル」の概念を知っていて、挫折した時には、それらの問題は環境の障壁によるもので、私の個人的な問題ではないと認識していた。私は、幼いときのように、同行の介護者・介助者に対して申し訳ない気持ちを抱えてしまわなかった。しかし、環境の障壁は、個人の心身の状態と他人とのインタラクションにおいて、影響を強く受けた。例えば、私の首も身体も非常にくたびれた。モヤモヤした気持ちにもなってしまった。介助者の家寧さんも疲れて、自己懐疑的な気持ちにもなってしまった。これらのエピソードは、緊張感を与え、モヤモヤした気持ちになってしまった。けれども、私と家寧さんはその過程で互いにちゃんと話し合い、状況を明らかにして、対策方法を一緒に見つけられた。このことは、今回の渡航で特に大切な経験になったと思う。
*作成:
高 雅郁
UP: 20210805 REV:20210810, 0819
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