岡本直樹氏インタビュー2019/11/26
2019/06/25 聞き手:立岩真也
於:仙台市中小企業活性化センター(第28回全国自立生活センター協議会協議員総会・全国セミナー2日めの会場)
◇文字起こし:ココペリ121 20190625 岡本直樹氏インタビュー 47分 2019/06/25 聞き手:立岩真也
◇岡本直樹氏:1982北海道生 八雲病院を退院 自立生活センターさっぽろ→CILふちゅう
CILふちゅう http://www.tt.rim.or.jp/~cilfuchu/
◇こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす
◇病者障害者運動史研究
※聞き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
聞き取りが怪しいところは、【 2019/11/26 】(hh:mm:ss) としています。
立岩 どうも。こんにちは。
岡本 こんにちは(笑)。
立岩 今日なんか5人ぐらいお話を伺って。頭、こんがらがってはいないですけど。立岩と申します。
岡本 もともと札幌で活動してて。「自立生活センターさっぽろ」なので、佐藤喜美代さん*、兄とか。
*http://www.arsvi.com/w/sk05.htm
立岩 じゃあ今の佐藤祐さんも知ってる?
岡本 知ってます。もともと…。ちょっとかぶったぐらいですね。
立岩 岡本さんはお生まれは何年?
岡本 1982年。昭和57年。
立岩 57…、82年。それで札幌?
岡本 札幌です。
立岩 札幌生まれ、札幌育ち。
岡本 多分生まれはもしかしたら釧路で、全然記憶にないんですけど。
立岩 物心ついた時には、(00:44:12)、札幌人。
岡本 そうです。
立岩 で、小中は、
岡本 小中は地元で、中学校は真駒内養護学校っていう。
立岩 小学校は普通っていうか、
岡本 そうでした。
立岩 で、真駒内の、
岡本 小学校の時は、藻岩っていう所の、藻岩小学校っていうとこで勉強してました。
立岩 障害名は筋ジスでいいんですか。
岡本 筋ジスです、はい。
立岩 何型ですか?
岡本 もともとディシェンヌ型で、石川悠加先生に、高校…、まぁ入所している時に、「ベッカーかもね」って言われて、ベッカーって、僕、勝手に言ってるって感じです。
立岩 変えたわけですか。
岡本 変えたというか、はい(笑)。状態的にはそうだと思ってます。
立岩 うんうん。小学校それで、中学校が
岡本 真駒内養護学校っていう、真駒内っていう、南区のエリアなんですけど。
立岩 真駒内の。それで、高校入る時に…、っていう話ですよね、さっきの。
岡本 ☆北海道、まぁ札幌とかで生まれてると、たいてい、「八雲に絶対に行かなきゃならない」ていうなんか…あるらしくて、ルールなのかちょっと分からないんですけど。六つ離れた兄貴がいて、兄が中学校に行く時に入れられてるんです、八雲に。
立岩 中学校に入る時ね。
岡本 そうです、そうです。なので、六つ離れてるので、必然的に僕も行くんですけど、親も、なんかこう、嫌だったらしくて、「中学校までは札幌で見て、高校だけに行かせよう」みたいな話だったみたいで。えーと、中学校の時に、普通だと真駒内養護学校の生徒は岩見沢高等養護に行く通例みたいなものがあるらしいんですけど、僕はそのやっぱ筋ジスっていうところで、その八雲病院っていうとこに行かなきゃならないと、いうようなのがあって。[00:46:16]
立岩 それは、自分でっていうよりは、
岡本 そうですね、親というか、
立岩 親が「そういうもんだ」的な感じで。
岡本 そうですね。
立岩 それでその養護学校行く。で、同時にというか、八雲に入所というか入院というか。
岡本 そうです。はい。
立岩 で、3年間だけ?
岡本 そうですね。で、兄貴が、だいたいそれと同じ時期、僕が高校で入る時に、札幌に戻ってきて、自立生活センターさっぽろと出会って自立するみたいな計画あったんで、
立岩 お兄さんが。
岡本 はい。だからある意味、「僕もそうなりたいな」というか、「そういう道があるんだ」っていうのを知って。
立岩 じゃあ高校の時点で、既に知ってたみたいな。
岡本 そうです。だからもう出る前提で、希望としてはあったので、「まぁ3年間だけ我慢すればいっか」みたいな、そんな気持ちでした。
立岩 どうでした? その3年間ってものは。
岡本 ☆いやぁー、過酷というかなんか、なんもないですからね。あのもう、朝起きてご飯食べて、学校行って。学校行ったらリハビリがあって、リハビリ終わったらご飯食べてベッド上がるみたいな、その暮らし繰り返しで。比較的、自分で車いすからベッドに乗り移りは出来たので、僕は、比較的こう、ずっとテレビ見ながら、車いすで過ごしながら3年間っていうふうな感じだったんですけど、みんな他の人たちは電動車いすだったりすると、時間になったら上げられて、若干その病院の都合に合わせる(00:47:57)みたいなところもあったりとか。自分がいた所は6人部屋で、小学校1年生から高校3年生まで、っていうような部屋。
立岩 それだけ多様な年齢の人が6人。
岡本 6人いて。まぁ成人の人も一人いたので、なんかもう、「何なんだろう」っていうか、お守りみたいなのしながら。
立岩 あぁ、みんなかつては6人だったみたいですね。
岡本 そうですね。
立岩 6人が今なんか建て替える時に4人になるみたいな、そういうことみたいですね。じゃあ6人だったと。
岡本 そうです。
立岩 学校はわりと普通な感じなんですか? 普通な感じっていうのも変ですけど。
岡本 まぁ、そうですね、けっこう…。まぁ要は、ある意味、勉強が出来るグループと、知的がちょっと入っているようなグループみたいな。で、あとはほんとに重心の、みたいな形になって。まぁでも、3、4人とか。で、僕らの時代はまぁ比較的多かったんですけど、次の年はいなくて、その次の年が一人いらっしゃって、なんかこう複合的な1、3年組みたいな、1、3、A組みたいな感じ。[00:49:18]
立岩 もう学年に生徒が1人もいないみたいな年もある。
岡本 ある感じですね。
立岩 そういう感じで。だから、めっちゃ、サイズ的には小っちゃい、そういう学校。
岡本 そうですね。
立岩 そのリハビリっていうのは、その、病院と学校は一応分かれ…隣接してるけど分かれてる。
岡本 くっついてるんです、全部。つながってて、
立岩 廊下で行けるような感じ?
岡本 そうです、そうです。
立岩 廊下、屋根付いてる。
岡本 そうですね。
立岩 そういうことですよね。
岡本 で、途中でリハビリの施設があるので、まぁ学校帰りにそっち寄って。
立岩 そっか(笑)、あいだにあるみたいな感じ。
岡本 そうです。
立岩 それは僕、別に聞きたいなと思ってるぐらいな話なんですけど、☆リハビリ、どういう…、自分にとっては何だったのかっていう。
岡本 何でしょうね。まぁ日課なんですけど、今思うと、何だったんだろうって無駄な感じはあります。なんかこう、何時間もこう、起立っていってこう、なんかベッドみたいなやつがあるんですけど、こう、くるくる回すと立つような感じになっていて、なんか、足になんか三角形の板みたいなの当てて、かかとを伸ばすような装置があるんですけど、それを30分まず乗る、みたいな。
立岩 同じ格好で、30分、ですか。
岡本 そうです、そうです。で、膝とか紐で縛ってグッと止めて、胸を縛って、で、こうやってこう、板に張り付けた状態で、無理やり立たせて、みたいな。
立岩 で、30分。
岡本 そうです、そうです。
立岩 それしんどいですね。
岡本 はい。その後なんか、僕はある程度状態が良くって、少し立ち上がれたんですよ。ただ、完全に足を覆うような装具みたいなのを使って、まぁ歩く練習みたいなことを1時間ぐらいやって。まぁ、ちょっとこう拘縮予防のストレッチみたいなのをして、食事に行くみたいな。
立岩 それで何、1日全部で、そのリハビリの時間っていうの、どのぐらいあったっていう記憶ですか。
岡本 多分、ちょっともううろ覚えなんですけど、3時半ぐらいに学校が終わって、そっから確か5時半とかだったんですけど。
立岩 じゃあけっこうな時間ですよね、2時間とか。
岡本 そうですね。1時間半か2時間ぐらいやって。
立岩 それが終わると夕ご飯みたいな。
岡本 そうです、そうです。
立岩 今、八雲、何て言うのかな、一方じゃ、人工呼吸のBiPAPっていうか、そういうところの一番いいとこみたいな話、それは多分それはそれでその通りなんだけど、もうーん、でも今、何かちょっと厳しいぞっていう話も他方で聞こえてきたりとかして、どうしようかなっていう話にもなってるんだけれども、まぁそれはそれでこれからおいおい、おいおいというか…ですが、ご自身にとって、八雲っていうのは、日課っていうか生活のだいたいのことは聞きましたけど、例えばその、石川…、あれは夫妻でいいんですよね?[00:52:33]
岡本 そうです、夫妻でいらっしゃいます。
立岩 あの、そういう、医療というか医師たちというか、っていうのがどんな感じだったのかっていう記憶はあります?
岡本 いや、けっこう嫌な記憶しかないですね。あの、なんか、中西さんとかは「素晴らしい」って言いますけど、僕らは全然思ってなくて。いやもう…。それと、兄貴が一人暮らしで出るっていうタイミングの時もそうですし、その前の時もそうですけど、ほんとに、もう出さない…所。もう閉塞…閉鎖的な印象が強くて。
立岩 「出さない」にはなんか理屈がつくんですかね。ていうか、その、何て言うのかな(笑)、「こうこうだから」っていう場合もあるだろうし、「もうとにかく出さない」っていうのも、まぁいろいろあると思うんですけど、どういう感じだったんですか。
岡本 やっぱり、「この障害は、生きられない」みたいな感じは、印象としては…。
立岩 「生きられない」っていうのは、「外に出ると生きられない」っていう話なんですか。
岡本 はい。やっぱりその専門な医療が受けられない。
立岩 医療が受けられないから、死んじゃうから、ここにずっといなきゃいけないっていう、そういう話なんですか。
岡本 はい、ありますし、多分呼吸器とかその辺も、やっぱり在宅でそれが上手くいくっていうことはないのかなぁ、っていうような神話みたいなのがあるような気がしてます。
立岩 それは、例えば「出たい」ってお兄さんであるとか、そういう人に直に言うんですか? 「出ても、あなた、こういうことで医療受けられないから大変よ」とか「死んじゃうわよ」みたいな。
岡本 何でしょうね…、比較的僕はそこまで言われることはなかったんで。やっぱりこう、「ここ離れると大変だよ」っていうようなことは多分言われてるんじゃないかと。
立岩 そうかそうか。自身は、出る時はそんなにこう身体的に厳しい状況ではなかったから?
岡本 かもしれないですよね。
立岩 その、嫌な感じ? 嫌な感じっていうのを、こう、なかなか筆舌に…っていうのはあるかもしれないけど、うーん、どうなんですかね。
岡本 やっぱこう、実験台という感じはあります。やっぱりこう、サンプルじゃないですけど、呼吸の量とか、けっこうそういうのは何回も測らされたりとかして、データが収集されている感じはあったんで。やっぱりこう、筋ジスといっても、なかなかこう、種類とか、やっぱりベッカーが、八雲はけっこうディシェンヌ型が多かったんで、そういうデータは多いんでしょうけど、ベッカーとか他の型とかは逆に言うと少ないのかな、っていうようなところがあって。逆にベッカーなんじゃないかと、いうふうなところはやっぱり研究所の中では、もしかしたら重宝されてたかもっていう印象はあるんで、なんかこう…、[00:56:09]
立岩 「最初からもう3年間で、あと出るよ」って、お兄さんっていう先例もあったので、っていう、まぁそういうことですけれども、それは「なるほど、なるほど」なんですが。その、他、その6人部屋にもそういう年齢もいろいろな人がおり、他の病室もあり、何十人も。何十人ぐらい、そこに…、
岡本 えっと40人ぐらい。
立岩 そうですか。そのぐらいの、何だろう、「全体としては」というか、少なくともその当時…って、どんな感じだったっていう記憶あります? 「ずっとここなのかな」的なムードっていうか。
岡本 やっぱり8割、9割はみんな、「ここで死んでいくのか」っていう。
立岩 それは何? 日頃は言わないけど、まぁ概ねそういうふうに思ってるかな、みたいな。
岡本 やっぱりこう、何十年もこの施設にいるんだっていう人たちがやっぱり多くいらっしゃって。学生がほんとに10人いるかいないかぐらいの感じで、あとはもう成人している。
立岩 学齢期の人が10、まぁ40だったらそのうち4分の1ぐらいで、あとはもっと上の人たちが。
岡本 そうですね。
立岩 そうすると、何事もなければ自分もああなっていくんだ、っていうようなことですか。
岡本 はい。
立岩 それで、そのあと何? 高等部出て札幌…?
岡本 そうですね、あの、就職したいなって。僕はまぁ「20歳とか18歳とかになれば自分でいろいろやっていきたいな、家から、親から離れていきたいな」っていうふうに思ってたので。えーっと、兄のもっと前に竹田保さんっていう方がずっと前に出てるんですけど、まぁそこ、彼が活動してる団体があって。ちょっと一般就職目指したんですけど難しくて、作業所に…ホップっていう作業所に(00:58:20)行ったっていう感じです。
立岩 ホップ? エイチ・オー・ピー?
岡本 はい。
立岩 聞いたことある、違うかな? それも、さっ…、
岡本 札幌です。
立岩 札幌にあった。作業所の職員?
岡本 そうです。ていうか、メンバー。
立岩 メンバーか。メンバーとして、そこで。
岡本 はい。
立岩 それ、しばらく?
岡本 そうですね、2年ぐらいやって。
立岩 2年ぐらい。それは「もう辞めよう」と思って辞めたんですか。
□自立生活センターさっぽろ
岡本 えーっと、たまたまタイミングで、自立生活センターさっぽろに兄貴がいて、「一人暮らししない?」っていう。
立岩 お兄さんは、そこでスタッフであった?
岡本 そうですね、事務局長。
立岩 あぁ、お兄さんが事務局長なさっていて、既に、で、ご自身が、
岡本 一人暮らし。
立岩 2年いて、その自立生活センターさっぽろに勤めた?
岡本 そうです、勤めました。
立岩 スタッフの一人として。
岡本 そうです、はい。1年後か2年後ぐらいに一人暮らしをしたくて。一人暮らしするのが条件だったんです。スタッフになるための。
立岩 それは何年? どっちがでもいいんですけど。
岡本 だいたい支援費始まったの、
立岩 2003?
岡本 2年ぐらい働いて、そっから一人暮らしを始めた。
立岩 2002年ぐらいに? 2002年に一人暮らし。
岡本 はい。
立岩 それから、それからといっても、もう17年経つんですよね。
岡本 そうですよ。
□
立岩 ざっくり言うとその17年っていうのが、その後どうなって、どうなって、どうなって、今なぜこんな所に。こんな所っていうか(笑)、北海道じゃない所に。
岡本 (笑)そうですね。20歳で一人暮らしを始めて、その時に自立生活センターで活動して。それが2年ぐらいだったと思うんですけど、自立生活センターさっぽろのスタッフとして働いて。その後、花田〔貴博〕さんっていう方がいて、彼がまぁ独立というか、いろいろ喧嘩別れしたので、で、そこに僕も、じゃあ一緒になって。
立岩 「ベンチレーター使用者ネットワーク」か。
*http://www.arsvi.com/o/jvun.htm
岡本 そうです、そうです。
立岩 そっか、花田さんて話したことあるわ。なんか佐藤さんと喧嘩したっていう話は聞いたことある。で、はい。そっちのほうに付いた、花田さんのほうに付いた。
岡本 そうです。付いて一緒にやってたんです。
立岩 それはなんか理由があったんですか?
岡本 うーん、なんかこう、なんか嫌な印象があったりとか、あの、なんかこう、やっぱりこう、結局、喜美代さんが「こうしよう」って言ったらこうなる、そこに流れていくみたいな流れがちょっと「何だろこれ? 民主的じゃないな」っていう…、あって。
立岩 あぁ、そういう。
岡本 「なんか違うなぁ」と僕の中では思って、「もうちょっとちゃんとした自立生活センター目指そうよ」っていう。
立岩 花田さんが立ち上げたの、なんて名前でしたっけ。
岡本 「IL-ism」っていう。
立岩 IL-ism。それは今はやってるんですか。
岡本 今はもうなくなってます。
立岩 もうなくなっちゃった。お兄さんはちなみにどうなさってるんですか。
岡本 兄はずっとまだ自立生活センターさっぽろで、まだ、なお事務局長として。
立岩 今でもやってるんですか。
岡本 はい。
立岩 おぉ。長続きしてるんですね。
岡本 はい。
立岩 花田さんって、ちなみにどういうことに…、[01:01:58]
□府中
岡本 今は、そこでもちょっと揉めて、確か、僕がそこを辞めたきっかけでもあるんですけど、その時は4年後ぐらいだったと思うんですけど、まぁちょっとまた揉めたりしだして、ちょっと事業所をいろいろ変えたりしなきゃならなくなって。まぁ僕は相談支援の道、あの、えっと、推進協会(01:02:25)がやってた相談支援の事業をやるってことで、まぁそこで独立したりするなかで、まぁそこは自立生活センターがあって、やる相談支援事業所だったんで、その自立生活センター自体が存在しなくなってしまったんで、1年間は相談支援でやって、まぁ推進(01:02:50)で支援してた団体は自立生活センターふちゅうと、下関の近藤さんたちがサポートしてくれてたんですけど、そこで相談し(01:03:03)ながら、まぁちょっと事業所もなくなって、個人的には「今後札幌に戻って自立生活センターまた新たに立ち上げたいな」っていうことで相談していくなかで、鈴木さんとか近藤さんとかが「君にはまだ早いよ」いうふうなアドバイスもあって、「じゃあどうしようかな」と思って、「じゃあ府中、鈴木さんのところでちょっと修行させてもらおうかな」っていうことで行って、そしたら倒れちゃったみたいな。
*鈴木一成:https://blog.goo.ne.jp/kazu--suzuki/e/fd1b99ef4091cb460cb25ff8c520e8ba
立岩 府中に…。したら、鈴木さん倒れちゃって、亡くなっちゃって。
岡本 で、僕が代表になっちゃったっていう、謎の(笑)。
立岩 あぁ、そういう流れなんですね。
岡本 はい、そうなんです(笑)。
立岩 それは…、「勉強しようと思って来たのに」みたいな。帰るに帰れないですよね。
岡本 そうなんです(笑)。
立岩 でも、ゆくゆくは北海道帰りたい?
岡本 帰ろうと思ってるんですけどね。
立岩 帰ろうってほんとに思ってるの?
岡本 思ってはいます。
□八雲病院のこと
立岩 それはそれで、お聞きしたいんですけど、まぁ今日も時間もあれなんでね。今さっき40分ぐらい話聞いたのは、旭川のところで、今、相談…、その旭川、旧道北病院っていうのかな、旧道北病院にいる筋ジスの人のことで相談受けてて、どういうふうに接触しようかっていう話をさっきしてたんですけど、まぁそれはそれで僕は可能性あると思ったんですけど、話聞いてて。まぁ八雲っていうのがどうなるのかなっていうかね、今時点でのお考えというか、感触というか、何でもいいんですけど、もと3年間はいた自分として、なんか…どうですか?
岡本 はい。そうですね。まぁ今、札幌に移転していくっていう方向性になってるんで、
立岩 そうらしいですね。
岡本 まぁけっこう、やっぱり「なんで道北のあのエリアにいなきゃなんない?」とかっていうのはずっと僕らとしては謎だったんで、やっぱりそこが都市部にできるっていうのは、地域移行の拠点になっていくっていうふうなことでは、すごく喜ばしいことだなっていうところはもちろんあるんですけど。ただ、札幌でこれ以上自立生活者が増えるのかなっていう不安もちょっと実はあって。財政的にはけっこうアップアップしているような、僕が行った時にはけっこう、
立岩 そういう話あったんですか。[01:05:34]
岡本 そういう話もあったんで、こっから先どういうふうになっていくのかなっていうのはちょっと危惧はしてるとこですけど。でも、ただ、八雲でやってるよりは、まだ可能性はあるかなぁ、とは。
立岩 今日は僕、飛び込みみたいなもので、でも、沖縄、それから鹿児島辺りの話、けっこう共通性もあるけど多様でもあるなと思っていて。その、変え方? というのも、けっこうこう一つ一つ作戦を考えるというか、変えてやったほうが多分うまくいくだろうなっていうようなこと、話を、いろんな人にお伺いしながら思ってたんですけど。でも、八雲の変わり方っていうか変え方っていうかね、それはもちろん移転がきっかけになり、街に近くなりっていうのは一つ大きなファクターではあると思うんですけど、その、何がこう難しくするのか、まぁ地域移行なら地域移行ということをね、やっぱそれもけっこう共通性もあるけど違いもあるなと思ったんですよ。八雲の場合はそれは何なんだろう、難しさっていうのかなぁ。その出したくない、そのオーラって、オーラっていうか、今でもかなり強いものがあるんですかね。
岡本 今はどうなんでしょう、けっこう何名かは在宅に戻ってるような話は聞いてるので、3、40年ずっと、30年ぐらいか、僕の3つか4つぐらい下の人が、最近一人暮らしするいうか、まぁ、夫婦で暮らしてるような話もフェイスブック上では見てます。ていうようなところもあるので、流れは少し前に比べると変わってるような気はしてます。けっこう寝たきりで重度な人だったんです。
立岩 その出た人がね。
岡本 そうです、そうです。
立岩 そういうケースもまぁ、あることもある。
岡本 ですので、そういう意味では、彼が出たってことはすごく大きいなと個人的には思ってて。明らかにやっぱり医療がすごく必要な方だったので、それがなんかこう地域で受けられているのを見ると、あの、期待は持てるっていうのは思います。で、竹田さんが比較的そういうような活動を精力的にやっている印象があるので、彼とつながって地域に持っていけるような、なんか可能性あると思ってて。石川チームが、やっぱこう、そっちに向けて本気出せば違うのではという気がしてます。[01:08:51]
立岩 竹田さんっていうのはどういう?
岡本 竹田保さん、今、筋ジストロフィーの北海道の支部長です。
立岩 日筋協の北海道支部の支部長っていうのが竹田保さんっていう人。わりとそういうこと、
岡本 そうですね。議員さんともつながってる方なので。
立岩 その、有名な(笑)、石川…、特に奥さん、まぁセットでもいいんですけど、間接的にはいろいろ聞くのですが、どうなんだろう、っていう聞き方も乱暴ですけれども、えっと、うん、どうなんですか?
岡本 僕は好きじゃないんですけど(笑)。ですね、まぁ…、気管切開をしないで、鼻マスク式を推奨する。(01:10:03)。
立岩 先駆的な人ですよねぇ。
岡本 ねぇ、だから…、何でしょうね。なんか「みんなそうしよう。それがいいんだよ」っていう感じはあって。なんかその、僕が出た後に、何年か後に、冊子が出来てたんですけど、人工呼吸器のマニュアルみたいなのが。石川悠加先生たちが作った本があって。そのイラストが当事者の人が描いてるらしくて、今、なんか世界的にけっこう活動してる方、まぁ、もともと病院に入所してた人ですけど、彼となんか本書いてるんですけど、そのイラストが全部もう鼻マスクなんですよ。ゾウさんみたいな絵ばっかりで、っていうような感じで。なんか、大好きなんだなっていうか、鼻マスクが、みたいなところはちょっとあって。
cf.石川 悠加 編 20040331 『非侵襲的人工呼吸器療法ケアマニュアル――神経筋疾患のための』,日本プランニングセンター,286p.
立岩 そうそう。さっきも、佐藤さんって別の旭川の人と話して、前の日もその話ししたかな、鼻マスクがいついかなる場合もいいっていうそういう話ってほんとはないんだろうねっていう、それは前から思ってまして。
岡本 僕はそこはすごく思ってて。だから花田さんが計画的に気管切開をして、全否定してたんですね、石川先生、やっぱり。
立岩 花田さんは?
岡本 「花田さんを」かな。
立岩 花田さんを。石川さんが花田さんを否定してたってことですか。[01:11:43]
岡本 否定じゃないですけど、まぁ、あの、なんかで講演会があって「まぁ行ってやろう」って僕も行ったことがある、筋ジス家族会かなんかの会合だったんですけど。その当時は僕はもう札幌で活動してたので、まぁけっこうわりとそういうことも比較的詳しいほうだったので、「鼻が詰まったりしたら気管切開のほうが安全じゃん」っていう感じは、ちょっと個人的に受けてるんで、そういう意味では、「鼻マスクが絶対」論っていうのはちょっとないのかなとは思ったりはしてます。ただなんかそういう意味でちょっと気持ち悪いというか(笑)、「鼻マスクが絶対です」みたいな。
立岩 その、例えば石川さんは、ある種非常に強い信念、いろんな意味で持って、今まで回してきたんだろうと思いますけれども、そういうことに対する疑念というか批判というか、そうしたものは、表立って中では口にされることはない、っていう雰囲気なんですか。例えばそういう…、
岡本 言えないですよね。医療に管理されてる場所ですから、なんかそれを言うのはもうタブーじゃないでしょうけど、
立岩 中じゃ言えない感じって分かるんですよ。それは、例えばさっきおっしゃったみたいな札幌市のなんかそういうところの会合で、彼女がこう言う、するっていうような、そういうシチュエーション考えた時に「ほんとですか?」みたいな。そういうのっていうのは、今まで、あったりした場合ってのはあったんですか。さっきの話で言うと、花田さんが石川さんを否定してたって話なん…、そうではない?
岡本 逆かな。
立岩 逆ですか。
岡本 石川先生としては「花田さんが」とは言いませんけど、やっぱりこう、「気管切開は時代遅れです」みたいな。やっぱそういうような思いなのか何なのか、っていうのはやっぱり強くて。僕の印象はやっぱり医療の管理下なので、やっぱり病棟内で言うことはタブーですし、だいたい石川先生に頼めば何とかなるみたいな、神話じゃないですけど、なんかそれに取りつかれているような感じはあるような気はしますし、本人たちがどう思ってるかは別としても、やっぱり家族とかがどう思ってるのか。なんか前、自立生活センターさっぽろ時代の時に自立地域移行の、その後かな、IL-ismの時代かな、地域移行、IL-ismの支援で一人自立された方がいて。彼を出す時に、こう、「彼に続くものを探そう」っていうふうなことで、定期的に、ほんとに2、3ヵ月に1回程度で訪問して話をして「自立しない?」っていうふうなことを積極的にやってた時期があるんですけど。その頃、なんかこう、IL-ismに謎の手紙が届いて。八雲のあれではないと思うんですけど(笑)。八雲の入所者だと思うんですけど、恐らく宗教的な…、宗教がかったお手紙をいただいて。「何をするんだ」みたいな。「邪魔をするな」みたいな、「私たちは信じています」みたいな、なんかそういうお手紙をいただいたことがあって。なんかこう、もちろん本人たちの意識もそうですし、それを支える側の人たち、もしかしたら家族が、やっぱりこう、なんかそこにやっぱり思いというか、「そこじゃなきゃ生活ができないんだ」みたいのはあるようなことは、なんかお手紙の中で見て、ちょっと怖いなと思った。[01:15:45]
立岩 あぁ、家族なら家族っていうのがもうあそこに頼って鼻マスクしてもらって、それで生きてる、そういう…、
岡本 そう、「それでも幸せなんだ」みたいな。
立岩 それでいいんだから、それを乱すというか、違うものはやっぱりいてもらっちゃ困る的な、そういう主旨ってこと?
岡本 はい。そういうのはちょっとあったので。それが絶対かというか、どこの病院でもあるかというとそこは分からないですけど。まぁ一部そういうふうな方もいらっしゃるのかなぁ。
立岩 その、出入り(ではいり)する、まぁ今は**さんかなり気を使ってくれていてというか、その、中にいる人に迷惑っていうか及ぶかもしれないから、アクセス自体ちょっと難しい、っていうことおっしゃっていて、そうかなとも思うんですけど、少なくともその当時はわりと出入り(ではいり)してたっていうことですかね。
岡本 うーんと、無許可で出入り(ではいり)してます。別に病棟に言ったわけではなくて、まぁほんとに、
立岩 パーッと入ってって、
岡本 パーッと入って。
立岩 玄関から入ってって。それは特に何か言われたりすることはなかった?
岡本 言われることはないですけど、ちょっと危機感は持ってました。言われるんじゃないかって。
立岩 言われるんじゃないかっていう、何となく緊張感。
岡本 緊張感はありました。
立岩 支援しようと思った人の所に直接行って、いろいろ話して、戻って来るっていう。
岡本 はい。
立岩 それで、特にその、「これ許可ないと、ほんと入れないんだ」とかなんか、そういうことを表立って言われたことはない。
岡本 ないです。
立岩 今、どうなんでしょう? 今も基本はそうなんですか?
岡本 やっぱり相模原の事件とか起きて、多分そこら辺はちょっとシビアになってるような感じはありますけど。この前、下志津で調査したんですけど、比較的、全然、なんもなかった。
立岩 下志津はそうだった。
岡本 はい。なんもなかったですけど。
立岩 そうか。逆にああいう事件があると、それが一つのきっかけというか理由にされてっていう、
岡本 そう思いますけどね。
立岩 入所の制限…入所というか訪問の制限というのはあり得るか。そうか、でも、たまたま、じゃないか(笑)、代表になっちゃったけど、そのうち北海道帰るぞっていう。
岡本 はい、気持ちはあります。
立岩 今、おいくつですか?
岡本 今36で、今年7になる年です。
立岩 そっか。でも、今、府中
岡本 はい。
立岩 「立つ鳥、跡を…」でもないけどさ、北海道に行ったらやっぱり別の人が後を継がなきゃいけないわけじゃないですか。それの見込みっていうか、何とかなりそうですか。
岡本 何とかしようかなっていう感じです(笑)。鈴木が倒れちゃったので、ああいうの見てると、やっぱり頑張り続けるのは良くないなと。次を作って。
立岩 次を、次を生産しないとダメだなって。
岡本 しないとダメだなっていう、感じはあります。
立岩 じゃあ鋭意、生産中。
岡本 そうですね。[01:18:47]
立岩 何とかなるっていうつもりでやってるってことですね。
岡本 はい。
立岩 あぁ、そういうことだったんですか。倒れられて、どのぐらいでした? 亡くなるまでどのぐらい経ったんでしたっけ。
岡本 1年11カ月ぐらいで亡くなったっていう感じですね。4年…5年目だって、府中は。
立岩 府中の組織自体は。
岡本 はい。
立岩 そうなんだ。あの、中央線沿いにはババババッていっぺんに出来た所があるんだけど、東京ってこう、南北がちょっとこう、連絡が悪かったりして。府中ってそうだけど、いろいろあって来た場所ではあるみたいね。今はその、例えば、しばらく札幌から遠ざかってるわけだけれども、札幌あるいは八雲の人たちに接点というのは、今現在としてはどうなんですか。
岡本 たまにまぁ病院、僕の知人、同級生の人たちが二人亡くなってて、あともう一人いるんですけど、あまり彼とは接点はなくて、はい、ていう感じですね。ただまぁ出た人は何人か連携してて、まぁたまに相談があったりっていうのは。
立岩 最後に札幌…、それで喜美代さんとこはそんな感じで、まぁでも何だかんだ言って続いてはいる。
岡本 はい。
立岩 花田さんとこは、なくなっちゃった?
岡本 なくなっちゃった。
立岩 もう組織自体が存在していない?
岡本 そうです。花田はまた花田で別な事業を立ち上げているような状況。
立岩 花田さんは花田さんでなんか別の仕事をしてらっしゃる?
岡本 してて、それも辞めたみたいで。ちょっと今、なんか状態が良くないのか、厳しいかもしれないという話はチラホラ聞いてます。
立岩 あぁ、そうですか。花田さんは障害的には、
岡本 、ディシェンヌ。ディシェンヌ型ですね。
立岩 ディシェンヌの、あぁ。いつお会いしたんだっけな、まぁなんか、佐藤さんに関わる愚痴というか、僕聞きましたけど。あれは、小山内さんとこっていうのはどうなったんですか?
岡本 今、いちご会はJIL加盟はなくなってるから、JILからは出てるんですけれど。
立岩 JILから出てる。
岡本 はい。今は、いちご会はまだ小山内さんやってて、アンビシャスっていう社会福祉法人を立てて。そこは今、小山内さんは理事かなんかに置いてて、確か西村さんっていう方が、今、代表してる。
立岩 西村?[01:21:56]
岡本 西村正樹さん。DPIの常任委員の人で。
立岩 あぁ。昔、西村ひでおって人はいた。関係ないかな。じゃあ活動はしているけれども、ここからは…。
岡本 そうですね。
立岩 なんか考えの違いなんですか、何なんですかね。
岡本 ちょっと分からないですけどね。
立岩 ちょっとこの間ね、渡辺一史さんと西宮で、その後、その次の日も京都で、ちょっと話、酒飲んだりして。札幌の状況というか、憂慮というかな、されてたように私は記憶してるんですけど、「どうなんですかね」と言われても困るでしょう…。そういう意味で、CIL系の、系っていうかなあ、動き自体がどうなんですか、ちょっと弱まってるんですか?
岡本 うーん。勢いは減ってるのかもしれないですね。今ほんとに1ヵ所しかないっていう、札幌の中で1ヵ所しかないので。パーソナルアシスタンス制度を札幌で始めたりとかっていうのはやってるみたいですけど、自立生活センターとしての活動っていうのは、なんかちょっと、もしかしたら弱まってる危惧は、可能性はあります。
立岩 そういうことを含めて、後継者を育てて(笑)、
岡本 ほんと今、北見と、それこそ祐(たすく)さんたちが、っていうような感じもあるんで。
立岩 うんうんうん。
岡本 もうちょっと頑張って欲しいなっていうのはあります。
立岩 北海道帰って、もうひと働きと。
岡本 はい(笑)。どうしても札幌とか都市部は目立つんですけど、その近郊とかがどうしても弱かったりするので、そこら辺をちょっと応援したいなぁと思ってます。
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立岩 今日は、広島、沖縄、旭川、鹿児島、ずーっと今日10時ぐらいから話聞きっぱ…、話し続けてて。やっぱり共通性と差異って、けっこう感じましたし、でもまぁ、その場所その場所で打つ手がないわけでもないとも思ったんですよね。だから、まぁこれから札幌周辺どうなっていくかっていうのは、皆さん関心はあると思うんで。まぁでも、来年ね、場所変わるっていうことと…。最後の最後ですけど、その、旦那さんっていうか、悠加さんの夫って人が院長、でいいんですか?[01:25:04]
岡本 今、どうなってる…、けっこうなんかかもう、年齢的には、けっこうお二人とももう60代後半ぐらいになってるんで、もしかしたら定年っていう話もあるようなことは聞いてるので。旦那さんは、もしかしたらもうそろそろ引退するのか。悠加先生はまだ頑張るのかなぁと思ったりはしてるんですけど、あんまり…。嫌いなので(笑)、あんまり考えたことないですけど。
立岩 けっこう表には出てくる人なんですか?
岡本 奥さんのほうはやっぱり出てきますね。旦那さんはあんまり出てこない、なんか寡黙な印象は…。
立岩 診察なんかはする?
岡本 僕の主治医が悠加先生だったのであれですけど、僕が卒業間際の時は、2病棟が新しくきれいにするっていうのがあって、そこが旦那さんの所だったので、すごいこう、何でしょう、議員さんとか来られたら2病棟を紹介するみたいな、なんか、そういう感じでしたね。
立岩 新しいほうを、きれいなほうを見る、見てもらう。
岡本 「近代的な八雲病院へようこそ」みたいな。けっこうこう、「受け入れます」みたいな、「これから売り出していきます」みたいな感じはちょっと、あったので。
立岩 今日、けっこう、その、何ヵ所かの人に聞いたとこだと、例えば神経内科っていうかな、筋ジスなら筋ジス担当するお医者さんが3人ぐらいいて、けっこう主治医の当たりによって人生変わるみたいな、て言うんですけど、例えば八雲って何人ぐらいが担当みたいな、分かんない?
岡本 多分、筋ジス病棟が3つあって、1、2、3だったので、もしかしたら1、2、3で、それぞれ違う医者が担当してたんじゃないかな、と思います。
立岩 あぁ。定員っていうか、筋ジスの人は何人、っていうの覚えてますか?
岡本 トータルで何人とかは分からないですね。僕がいた3病棟はほぼ40人ぐらいいたなぁ、っていう。
立岩 じゃあもしかしたら40×3ぐらいだったかもしれない。
岡本 そうですね。
立岩 そこに、あぁ。なんか一人、あそこにいて辞めたっていう医者知ってるな、一人。
岡本 土畠(どばた)先生ですか?
立岩 うーん、多分違う。今、千葉かなんかでやってるって聞いたけどね。1回東京で会ったことが。ちょっとクセのある感じの人なんだけど。まぁなんか、方針合わなくて出て行ったと聞いた、かな。[01:28:03]
岡本 僕の知ってる人で土畠先生っていう、それこそ今、手稲渓仁会(ていねけいじんかい)とかでやってたお医者さんで、今なんか新しく事業を立ち上げて、稲生会(とうせいかい)っていう病院を立ち上げて、確か会長さんかなんかなったっていう。彼も、もともとそういう研修医かなんかの時代にいて、揉めて辞めたみたいな感じがあって。なんかこう、石川悠加先生と揉め、揉めたというかその、患者さんの中で揉めて、土畠先生なら協力してくれたみたいな。けっこう在宅医療に精通した先生だったので、
立岩 あぁ、その土畠さんっていうほうがね。
岡本 土畠先生、はい。そこはなんか、それこそ、映画のサポートした団体、病院なので。
立岩 あぁ。そうなんですか。そういう流れっていうかつながりがあるんですね。
岡本 はい。
立岩 分かりました。なんかもう、そんな予定も何もなかったんだと思いますけど、お引き留めして、
岡本 いえいえ。
立岩 貴重なお話ししていただきまして、ありがとう…。無事に札幌に戻れますように(笑)、
岡本 そうですね(笑)。
立岩 お祈り、お祈りはしませんが(笑)、あの、思っております。どうもありがとうございました。
[01:29:23]音声終了