無着さんがいて、今の僕がある(インタビュー)
櫻原 雅人 2018/12/26 聞き手:田中恵美子 於:NPO法人はちくりうす事務所
◇櫻原雅人 i2018 「無着さんがいて、今の僕がある」(インタビュー) 2018/12/26 聞き手:田中恵美子 於:NPO法人はちくりうす事務所
◇(NPO)はちくりうす http://8curious.or.jp/
◇田中 恵美子
◇自立生活/自立生活運動
◇病者障害者運動史研究
◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築
語り:櫻原雅人(さくらはら まさひと)特定非営利活動法人 はちくりうす 理事・管理責任者・介護福祉士
聞き手:田中恵美子(たなか えみこ)東京家政大学 人文学部 教育福祉学科 准教授
【無着さんとの出会い】
櫻原:無着さんは1963年生まれ、僕は1964年ですけど早生まれなので、学年は一緒です。ただ、無着さんは1年就学猶予になったので、学年としては1つ下の学年ですね。
僕は山梨出身で大学進学とともに東京に出てきて、でもすぐに大学は辞めてしまいました。もともと家を出たいという思いで大学に入ったので、新聞奨学生として朝晩働いていて、学校に行くのはきつかった。たいしてモチベーションがあったわけでもなかったし。サークルにもほとんど出られていなかったけど、大学を辞めてから障害のある人とかかわろうということで、新聞販売店の先輩の紹介で目黒区にご縁を持つようになりました。当時住んでいたのは国立だったけれど、活動に参加して1年してから目黒に引っ越してきました。どうして障害者とかかわろうと思ったのか、今でもよくわからないのですが…。
最初に子ども会の活動に参加した時に、担当したのが無着さんでした。今はだいぶ年も取りましたから落ち着いていますが、当時はもっと激しい感じの人でした。背も高いし、通っていた高校が定時制高校で、当時中学で番を張っていたような人たちが来る学校だったから、格好も本当にヤンキーそのままみたいな感じでした。
そのころ重度の自閉症の人として最初にその定時制高校に通ったのが無着さんで、その後、ずっと続いていくことになります。無着さんは年齢的にいろいろなことのトップバッターなんです。小学校も猶予はありましたが、その後普通学級に入りましたし。就学闘争としては有名な金井康治さんの就学闘争★01がありますが、それよりも前の出来事です。
僕が初めて会ったとき、無着さんは定時制高校4年生でした。定時制高校は4年生で卒業するのですが、その後の行き場がなかったので、彼はそのまま通学を続けていました。6年目になるころ、かなりイライラするようなことがあって、「学校に代わる場を作ろう」ということで、「マジカルハウス 柿のたね」を作りました。1986年、無着さんが23歳の時です。
【無着さんを取り囲む環境と当時の無着さんの生活】
僕は大学を辞めても新聞の仕事をしていたんですが、無着さんと出会って、目黒区に引っ越してきてからしばらくして新聞輸送という夜働く仕事を始めました。週に1回の子ども会のほかにすでに始まっていた夜のお泊り会にも参加するようになってだんだん無着さんとの関係ができてきたと思います。
無着さんのお母さんは、無着さんを地域の普通学校・普通学級に通わせるということにとてもこだわっていて、当時目黒区に革新無所属で有名な宮本なおみさんという区議がいて、その方の積極的な応援もあって無着さんの就学を進めていました。宮本さんは共同保育を行っていて、親同士のつながりができていたと思います。お泊り会は共同保育所を夜間借りて行っていました。障害のある人もない人も一緒にという機運が地域の中にあったんです。そういう中に学生の時にボランティアで無着さんと知り合った人などが、社会人になってからもずっとボランティアでかかわってくれてたりして。無着さんを中心にいろんな人が繋がっている感じでした。「K企画(無着)(邦彦企画)」という活動があって、無着さんといろいろなことを行っていました。その後、「柿のたね」ができてからはオープンスペースとしていろんな人が集える場として位置づけていました。建物は2階建てで、1階は千書房という本屋さん(身体障害のある運動家経営)、2階は奥の1間が僕のプライベートゾーンで、手前が若葉塾という塾をやったり、「柿のたね」のフリースペースとして活用したり、無着さんの週1回のお泊りを行ったりしていました。
定時制高校を卒業後、無着さんは、日中は今でいう生活介護事業所に通って、夕方帰ってくるのですが、週2回、水曜日と金曜日は生活介護事業所をお休みして、朝から「柿のたね」に来て牛乳パックから手漉きはがきを作ったり、シルクスクリーンでTシャツ印刷をやったりしていました。金曜日は金曜クラブという食事会を開催して、いろんな人が集まってきて、そのまま夜は泊まるという活動を続けていました。週末だけのシェアハウスのようなものです。
【自立生活への胎動】
2年ぐらい活動してきて、無着さんが25歳のころに自宅で大暴れして家中のものをぶっ壊したことがありました。お母さんが彼の人生で2回家を壊したことがある、といううちの一回です。きっかけはよくわからないんです。はっきりとした言葉で説明するような人ではありませんし、今でこそ当事者が自分の言葉で気持ちを表現するようなことがあったり、様々な科学的な知識が明らかになってきていますが、当時は「自閉症は親の愛が足りない」って言われて、「とにかく抱きしめてあげてください」なんて言われてた時代ですから。親も含めて試行錯誤だったんです。あまりに暴れたんで、さすがのお母さんも参ってしまって、施設入所みたいなことを口にするようなことになって。
でもよく考えたら、20代半ばの若者が親と一緒にずっと暮らしているみたいな環境自体が不自然なんじゃないかという意見もあって、まずは親から離れてみようということになったんです。それで「柿のたね」で1ヶ月の合宿をしました。それまで、旅行とかで2泊3日とか親と離れることはあっても、そこまで長い期間親から離れることはなかった。で、1ヶ月離してみたら、割とピタッと治まっちゃったんです。その大暴れが。理由もよくわからないんですけど。距離を開けたことで冷静になったというか、切り替わりができたのかもしれないし。ま、それで改めて生活リズムを考えたときに、毎日生活介護事業所を終わって帰ってくるのが4時ぐらいで、それから次の日の朝8時までずっと家にいるというのが長すぎるということになって。水曜日と金曜日は「柿のたね」から送っていくのは6時ぐらいだったけれど。それ以前は夜間高校に通っていたわけですし。それで毎日午後3時半ぐらいに生活介護からの帰りのバスを「柿のたね」の近くに止めてもらって、そこでお迎えして夕方6時、7時ぐらいまで作業してから家に帰るようにしたんです。そうしたら落ち着きを取り戻しました。多少暴れることはあっても家を一軒壊すような大暴れというのはなくなりました。
【「柿のたね」から「柿の木ハウス」】
「柿のたね」という名前は、無着さんがお菓子の柿のたねが好きなので、そこからつけたという安易な理由なんです。でもそれじゃさすがに、ってことで猿蟹合戦にひっかけて、それをモチーフにしてトレードマークを作ったりしました。そこから、桃栗三年柿八年ということから、8年目に割と大きなイベントをやって「知的障害者の自立生活ってなんだ」ということをやったんです。そのことを機会に、無着さんも30になったし、そろそろ親元を離れて自立生活しようという機運が高まったんです。しかし一方で、「自己決定」ということで引っかかってしまって。無着さんはお父さんもお母さんも大好きで、自立生活なんか考えていないんじゃないか、という意見もあって、本人の「自己決定」に基づいた自立生活ではないのではないかという疑問も上がって頓挫しまして、1年ぐらい話し合いをしました。結論として、やってみないとわからない、やってみて初めて選択できるのだからやってみよう、だめだったらまた実家に戻ればいいという話になりました。ちょうど無着さんを取り巻く数人が、それぞれに自分の住む場所を探していたという時期でもあり、いっそのこと無着さんと一緒に一棟借り切ってみんなで住もうかって言い始めて。そういう物件を探したんですが、なかなかみつからなくて、ようやく見つかったのは立ち退き寸前で動かない人がいて、その人が動くまでという期限付きのところでした。比較的安く借りられて、無着さんと支援者の女性、男性、そして僕ら夫婦の5人でシェアハウスにして生活をスタートさせました。1996年のことです。
しかし、スタートしてすぐに息詰まりを感じるようになりました。まあわかっていたことでもあるのですが、僕は当時新聞輸送を辞めて「柿のたね」で専従介助者として働き始めていました。無着さんは、月曜日から金曜日まで生活介護事業所からの帰りに「柿のたね」に寄ります。金曜日は泊まっていくし、土曜日も子ども会があってそこにも無着さんは参加する。そのうえ、家に帰ってきてまた無着さんと一緒、しかも泊りの介助者が少ないから2日に1回は支援者としてシェアハウスに泊まる…この距離感は二人にとって良くないということになりました。加えてうちだけは夫婦で入居していてあとの3人が独身でしたから、その辺もバランスが悪くて、1年ほどで私たち夫婦はシェアハウスを出ることになりました。
そのあと同居の支援者の男性が髄膜炎で急死してしまって、ちょうど立ち退かないといけない時期にもなって困っていたところに、知り合いが本当に古い日本家屋だけどよかったらといって貸してくれることになり、引っ越しました。でも雨漏りがあまりにひどいので、大家さんに言ったら、それも自分たちで何とかして生活してほしいといわれてしまって。1年ぐらい何とか暮らしていましたが、一緒に生活していた女性の支援者が職場の同僚と共同で終の棲家を新築することにしてくれて、それが3軒目で現在まで続いている「柿の木ハウス」です。
【もう2度と行かない!(笑)海外旅行】
1998年5月に無着さんと僕、アラスカにいっているんです。ピープルファースト★ の国際大会があって、それに参加してきました。ピープルファーストの活動について、1998年になってから知って、国際大会があると聞いて、参加したい、いきたいという話になって、1週間ぐらい行ってきました。結構なお金がかかったんですけど、無着さんはお母さんが年金とか手当とか工賃とかためておいてくれたものがあって、僕はカンパなどももらって日本人のツアーでいったんです。1週間、他に日本人がいるとはいえ、顔見知りがいるわけでもなくて無着さんにつきっきりだし、おまけに白夜で日が沈まないから息が詰まるんですよね。一番だけ「もう無理」って一人で1時間ぐらい飲みに出かけてしまって、帰ってきたら「二人で飲もう」といっていたビール6缶を無着さん一人で全部あけてベッドの上でぴょんぴょん飛び跳ねてました。申し訳ないねって思いました。
大変だったのは飛行機、そして空港。行きはトランジットもあって何とか飛行時間も比較的短くてどうにかこなしたんですけど、帰りは大変だった。空港での待ち時間が長くて、それまでの旅の疲れもあったと思うんですけど、大きなロリキャップキャンディーをもらって我慢してたんですけど、もうダメだってそれをバーンって投げて空港の中を走りだしたところで、黒人の警察官二人に組み伏せられて頭に銃を突き付けられちゃった!!!通訳が説明してくれたんですけど、とにかく薬を飲ませろっていうことになって、でも当時彼は服薬していなかったんです。それを説明しても、留置所には入れないけど、薬を飲まないなら強制入院だっていうので、ツアーで一緒だった横浜のグループの人に胃薬をもらってそれを飲んで何とか納得してもらって。でも今日は飛行機には乗せられないといわれて、添乗員さんと3人で一泊余分に泊まることになりました。次の日はとにかく空港にいる時間を短くして、手続きは全部やってもらって、飛行機にさえ乗ればなんとかなると必死でした。飛行機も苦手なんですよ。おまけに帰りは10時間ノンストップのフライトでした。もう2度と飛行機には乗らない、海外旅行なんてもってのほか。お母さんもものすごく怒ってましたし。そんなことがありましたね。今思えば笑い話だけど、あの時は生きた心地がしなかった。
【無着さんの毎日の生活のやりくりと家族との関係】
障害者年金は最初から1級でした。自宅にいるころはお母さんが管理していましたが、1996年に自宅を出ることになったところで、「もう出ていくんだから」といって僕たちの方で管理することになりました。
自立生活の後、無着さんは月に1回月末に1泊2日、実家に帰っていました。自立生活を始めたころ、お父さんはすでにリタイアして家にいることが多くて、お母さんにあれこれ言われながら玄関から出てきたりというような印象でした。でも何かあるとご夫婦で一緒に出掛けてましたから、仲良かったんじゃないかな。お父さん、そして2014年にはお母さんが亡くなられて、徐々に実家に帰る回数が減っていきました。
お母さんは2004年、脳梗塞で倒れて、それから半身不随で車椅子生活になりました。鹿児島出身で心の強い人でした。最後は自宅で亡くなりました。無着さんの妹さんが二世帯住宅の2階に住んでいらっしゃって、今も自宅を管理してくれています。お母さんから、「この家はお兄ちゃん(長男)の家だから」といわれていたみたいで、今も2階をベースに生活しているじゃないかな。無着さんが実家に帰っても大丈夫なように部屋はそのままにしてありますよ。今は泊りは年末年始ぐらい、正月は一緒に過ごしてくれています。誕生日に何か買ってきてくれたり、盆暮れに顔を出してくれたりという関係は続いているし、無着さんは妹さんとドライブいって、コンビニで買い物して帰ってくるのが楽しみになっています。妹さんも頻繁に帰ってこられるとしんどいところもあるみたいだけど、ちょうど今の感じぐらいがいいのではないかな。同じ町内で暮らしているし、いい距離感だと思います。
【無着さんの現在の生活】
無着さんは現在は月曜日から金曜日まで生活介護事業所に通っていて、金曜日の「柿のたね」でのお泊りは続けています。最初は自立生活をするためのステップとして始めたのですが、今は「柿の木ハウス」の人たちのレスパイト的な要素になっています。週に1回ぐらい静かな夜を過ごしたいということなのかな。ただここのところ無着さんが夜騒ぐようなことはなくなってきているんですけどね。20年、30年と続けてきているスタイルでもあるので、本人の中でも一づいているので続けていくということですかね。土日、祝日などはヘルパーが24時間ケアをしています。
時間数としては、居宅介護が218時間、移動支援が50時間。深夜の時間分とかは支給されていません。ですから、夕方18時から23時まで請求して、23時から5時までは請求しないようにしています。5時から8時まで3時間は送り出しとしています。居宅介護は2時間ルールというのがあって、例えば8時から10時まで請求したら2時間抜いて12時から2時というふうに入れていかないといけないので、土日はそんなふうにして請求します。ただし、もちろんですが、請求していない時間もヘルパーはいます。本来だったら、空いている時間は自己負担なんですが、そんなことしたら無着さんへの請求が月20万ぐらいになってしまうので、そこは事業所の売り上げの多くを無着さんが占めていて、彼が「この事業所を使わない」といったらやっていけなくなるので、持ちつ持たれつで可能な範囲ということで、月5万円だけ自己負担してもらっています。
【「はちくりうす」の支援】
無着さんが1996年に自立生活を始めて、男性支援者と僕と二人で専従介助を始めて、そのあと彼が亡くなって徐々に介助者を増やしていきました。当時、無着さんは介護人派遣事業を使うことができたんです。月40時間からはじまって、支援費制度が始まる年にホームヘルパー登録に変更していきました。その年に、みなし証明といって、正式なホームヘルパー資格を持っていない人でも介護人として仕事をしたことがわかれば、ヘルパーと「みなす」証明を各都道府県が発行しました。たいした時間入っていなかった人にもみなし証明を取ってもらって登録してもらって、2004年にNPO法人を取得し2005年から事業を始めました。居宅介護と重度訪問介護、ガイドヘルプを派遣しています。
無着さんの後、自立生活を開始したのは2011年に知的障害の中度の人と重度の人が二人でシェアハウスをした例があります。ただこの例は重度の人が2016年にグループホームに入ったので解消になりましたが、中度の人がそのまま一人暮らしを始めています。最初は一人で大丈夫かと心配したんですよ。居宅介護の時間数が月20時間、少ししか出ないからヘルパーはほとんど入れないし。彼は地震が来るとすごく怖くて、わーって飛び出しちゃう人なんです。だから見守りが必要だし。でもやってみないとわからないよねっていう英断をしてですね、一人暮らしをはじめてみたんです。最初の1ヶ月、1週間ヘルパーが一緒に泊まるところから徐々に減らして週に1日にして、最後は泊りのへルパーをなしにして、今に至ります。今は朝と晩だけ。それもほとんどやることがなくて見守りなんだけど、でもやっぱり身だしなみとか髭剃りとか、ちょっとしたところを見ていないとだめで。でもそれだけで済んでいます。週末は一人で過ごしています。資産管理はお兄さんが行って、細かい日常の金銭管理は「はちくりうす」の担当支援員とヘルパーで行っています。
このほかに2013年から一人暮らしをしている人がいます。母子家庭で、お母さんがいつか本人を一人暮らしさせようとマンションの隣の部屋を購入していたんです。それからやはり母子家庭で本人の祖父母が要介護になってお母さんが面倒見切れなくなって自立生活を開始した人がいます。さらに2017年に自立生活をスタートした人は、こちらも母子家庭で、彼が中学生のころからかかわって10年経って一人暮らしに移行しました。大田区在住の人なので、これから会う中村さんの事業所「風来社中」と共同で重度訪問介護を使っています。他にも支援していた人もいたのですが、今継続しているのはこの4人です。
無着さん以外の人たちで、自費の場合は基本的に時給1200円いただいています。夜間は22時から5時まではヘルパーに支払う金額として4,800円をもらってそのままヘルパーに渡しています。自費は収益目的にはなっていません。でも利用者側からすると、大変ですよね。人によっては泊りがあったりして月10万ぐらい自費払いが発生している人もいます。将来的には何とかしたいと思っています。
【目黒区の障害福祉の状況】
目黒区は知的障害の人で重度訪問介護を使っている人はいません。身体障害の人に対しても出し渋りしていると思います。国が決めた区分ごとの上限時間をオーバーするようなことはしません。バブルがはじけた後に財政が厳しくなったうえに、経理上の問題があって2009年度あたりから緊縮財政になってようやく正常化してきたけれど、かなり厳しかった。上限時間をオーバーするような場合、本来は自立支援協議会の相談支援部会などで困難ケースとして議論していくべきなのですが、今は行政主導で審査会を行っているのであまり進んでいません。最近相談支援事業所も頑張ってくれているので、少しずつ上限区分を超える人も出始めてきているようです。無着さんも一度削るという話があったのですが、既得権というか、一度決まっている人は削れなくなっていますから、どうにか保障されています。本当は重度訪問介護が知的障害・行動障害の人にも適応となった2014年の障害者総合支援法の法改正の時に、無着さんも重度訪問介護に切り替えるということもできたのですが、重度訪問介護は単価が低いですし、時間数を取れなかった場合のリスクも考えて、切り替えずにそのまま来ました。切り替えてその代わり24時間保障してもらうという形での交渉に変えた方がよかったのか、今でもよくわかりません。ただ、目黒区は支給されているサービスは居宅介護ではありますが、支給量が決まったらないように関しては割と自由にしてくれています。それはこれまでの交渉ややり取りの結果だと思います。大田区の場合は重度訪問介護が支給されていますが、そうなると移動は出さないといわれていました。しかし、内規を見たら送迎は認めるとなっていたので、今はその分だけは朝夕30分ずつつけてもらっています。
【今後の展開】
「はちくりうす」ができたとき、「K企画」はやめたんじゃないかな。自然消滅した感じです。やる人が重複しているから、いないんですよね。当初は僕は「柿のたね」に残る話もあったんですけど、結局「はちくりうす」の立ち上げに関わることになって今に至ります。「柿のたね」の方は日替わりに誰かがいるような感じになっていて、無着さんの送りのバスは相変わらず「柿のたね」のそばに毎日止まるんですけど、無着さんも顔を出して帰るっていうぐらいであまり長居もしないし。いまだに他の自立生活している知的の人が来たり、ガイドヘルパーが軽く食べていったり、金曜日のご飯の会はやっているのでそこに人が来たりというのはありますが、運動としてはかなり脆弱化しているかな。ヘルパーがつくようになって、これまでの雑多な人間関係がヘルパーとの一対一の、それだけの関係になりつつある感じを危惧しているところもあって、これまでずっと行ってなかった高校のOB会に顔を出すようにしたりして、もう一度彼のヘルパー以外の人間関係を再生していこうという動きは少しずつ出ています。
これまで自立生活を開始した人は男性です。女性で自立生活を開始したらいいと思う人もいるんですが、障害の有無に関係なく、女性一人の暮らしのリスクがあるし、支援者も一人暮らしを支えるだけの泊りも含めて支援に入れる女性がなかなかいない。そういうヘルパーを育てきれていないので、難しいかな。支給量が十分に取れないこともあって、どちらかというと女性はグループホームに行くというルートができていると思います。ただ、グループホームも今は二人で一部屋からグループホームとして認められるようになってきたから、二人で一緒にという形はあるかなと思っています。そう考えると、柔軟に制度を使ってグループホームでも新しい生活スタイルを考えられるし、もちろんシェアハウスって形で見守りが確保できれば生活が始められるかなとも思っています。
新しく自立生活をする人を増やしていこうと思っています。法人で自立支援部会を作って、月に1回自立生活をしている人に関わっているコーディネーターが集まって会議をしています。そしてヘルパーと課題を共有するようにしています。さらにこれから自立生活に向かった方がいい人、個々の事情で迫られているとか、はじめた方がいいと思う人なども洗い出して、優先順位をつけて準備をしようと思っています。そうしていかないと、今やっていることで手いっぱいになってしまって、絶対に増やせなくなる。だから、次を見定めてそのための人員確保を行っていくように考えています。そして自立生活の最初からかかわる職員が運命共同体じゃないけど、一緒に関わって自立生活の開始にこぎつける、そういう力を付けていかないとと思っています。
そのために就労形態も変えていこうと思っています。今まではサービス管理責任者としてヘルパーの派遣・コーディネート、請求事務と担当した人のすべての作業を一人でやるというかかわり方でした。これからは現場に関わる人と事務処理をもう少し切り離す形にして、現場中心に仕事をする人を置いてもいいかなと思っています。障害当事者や関わるヘルパーの思いを聞くことを中心にする人を置きたいんです。もちろんこれまでもサービス管理責任者がやってきたんですけど、どうしても事務処理に追われてしまって、一番大事な当事者の思いを聞くようなところがおろそかになってしまっているように思います。
さらに自立生活をする人を増やすにあたって、大事にしていきたいのは、自分たちの事業所だけで抱えないということです。新しい人を増やす、雇用形態を変えていくってことも大事ですが、他の事業所と協力して仕事をシェアして支えていく。その方が結果的にその人の生活が安定すると思います。そのためには目黒区の中で事業所間のネットワークを作れたらいいなと思っています。
■注
★01 足立区に居住していた脳性まひの障害があった金井康治さんは、養護学校から弟と同じ近隣の普通学校に転校することを求めて、1977年から1982年にかけて足立区行政・学校・教職員組合と対立した。区役所前の鉄柵の建設や支援者の逮捕など激しい運動の結果、最終的には普通学校への入学を許可されたが、一方で1979年養護学校義務化が実施され、障害のある子どもたちは養護学校に行くというルートの固定化が進んだ。
★02 ピープルファーストとは、1973年から起こった知的障害当事者の活動のことであり、参加者の一人がマイクを持って、自分たちを「知恵遅れ (retarded)」や「障害者(handicapped)」として扱うのではなく、まず「人間として扱ってほしい(people first)」と発言したことから名づけられた。
ピープルファーストジャパンHP(https://www.pf-j.jp/)より(2019.2.3)。寺本晃久・立岩真也1998「知的障害者の当事者活動の成立と展開」『信州大学医学技術短期大学部紀要』http://www.arsvi.com/ts/1998a01.htm (2019.2.3)