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「「健常」であることを見つめる―1970年代障害当事者/健全者運動から」

障害学研究会関西部会第30研究会 於:関西学院大学梅田キャンパス1401号室
2009/06/13


障害学研究会関西部会第30回研究会例会
2009年6月13日(土)13:30−17:00
関西学院大学梅田キャンパス1401号室
報告:山下幸子さん(淑徳大学)
「健常」であることを見つめる―1970年代障害当事者/健全者運動から
司会:前田拓也さん(神戸学院大学)

●自己紹介(13:30-40)

●山下さんの報告(13:40-)
千葉県の淑徳大学で障害者福祉論担当。着任して6年あまり。大阪府立大学大学院社会福祉学研究科修了。
著書『「健常」であることを見つめる──1970年代障害当事者/健全者運動から』生活書院、2008年、を出版

【以下、山下さんのレジュメ。★は当日の補足】
「健常」であることを見つめる―1970年代障害当事者/健全者運動から

1.私の問題意識
介助の経験を通して、障害をもたない私が障害者と向き合うとはどういうことなのかということを考えてきた。
→1970年代の関西において、青い芝の会に健常者として関わってきた運動「健全者運動」への関心へ。青い芝の会が健常者に、健常者としての、つまり脳性マヒ者にとっては抑圧者としての立場を自覚することを訴えてきたが、それに対する健常者の応答はどうだったのか?

2.健全者運動の成立背景と活動内容
(1)障害者からの提起
■健常者中心社会を構成する人々へ、抑圧者としての自覚を。
「障害者―特に重度障害者は、世間一般が当然のこととして享受している教育、労働など全ての場からはじき出されております。つまり障害者は現代社会において、被差別者で被抑圧者なのです。その社会をつくっているのは他ならぬ『健全者』つまりあなた方ひとりひとりなのです。(中略)このように考えれば、ひとりひとりが、いや他の人はとにかくとしてあなた自身が差別者、抑圧者といえましょう。」(横塚 1975:122-3)

■主従関係ではない、障害者と健常者との新しい関係へ。
「健全者組織と青い芝との関係を『やってやる』『理解していただく』というような今までの障害者と健常者との関係ではなく、むしろ敵対する関係のなかでしのぎをけずりあい、しかもその中に障害者対健全者の新しい関係を求めて葛藤を続けていくものと位置づけてきました。」(介護ノート編集委員会 1978:224)

(2)関西の健全者運動組織の誕生
1972年12月 自立障害者集団姫路グループリボン結成
1973年2月 自立障害者集団大阪グループリボン結成
1973年2月 自立障害者集団友人組織グループゴリラ結成
1973年4月 大阪青い芝の会結成
1974年11月 自立障害者集団友人組織関西グループゴリラ結成

(3)活動内容として
在宅障害者訪問、行動保障、自立障害者介助など
*当たり前のことだが、健常者にとっては「障害者」と出会わないことには、自らの健常者としての立場などわからない。障害者が日々実感している障壁は、障害者と関わらない限り、健常者にとっては自明なことであり続ける。だからこそ、青い芝の会は健常者との関係にこだわってきたし、それに応じようとした健常者(ゴリラ)も活動を行ってきた。
 ★健常者にとって、障害者に四六時中関わるのは「日常性の破壊」だと考えられた。当たり前だったことが変わっていく

3.健全者運動を通して得た発見 ★8名の当時のゴリラメンバーにインタビュー
(1)自己の問い直し
・障害者と健常者との関係の非対称性を知る
 ★例えば、あるグループゴリラのメンバーは、入院していた筋ジス者が病院を抜け出すのを手伝うが、心中穏やかではなかったという。素直に本人の意に添えない。それを察した障害者が「もういい」と言った、というエピソードがあり、そのことからこの方は、介助者は介助するしないを決めることができても、障害者の側はそうではない、という関係の非対称性に気付いていく
・固定観念が壊れる
 ★店で見つけたパフェとそっくりなパフェを、障害のあるきょうだいのために、自宅で作ってあげようとした。外出してその店で食べさせることを想像もしなかった。しかしグループゴリラの活動に関わり、積極的に街に出る障害者に関わることで、なぜこれまできょうだいに対してやろうとしなかったのかを考えるようになった、というエピソードがあった
・健常者中心社会の中の自己に気づく

「重度障害者がアパートを借りて住むという事さえ、健全者社会においては根底からゆさぶりをかけるものであり、ましてや私達が障害者の自立生活にかかわりを持つことは様々なとまどいのみ生じるのは当然である。なぜなら、これまでの経験や価値観が彼らからのかかわりからぐらつき、くずされていき、私達健全者が何ら持ち得ていないことに気付かされてしまうから。」(自立障害者集団友人組織全国健全者連絡協議会 1977:83)

在宅障害者訪問、そして日々の障害者介助を通して、健常者はその身体で障害者の生活ペースを実感し、また障害者の生活実態を理解していく。そして健常者として生活し、築き上げてきたこれまでの価値観が崩されていくことも実感していく。

(2)介助関係の再考
・「世間様」を越える―傍観者でもないし、障害当事者でもない、「微妙」な立場へ―
 ★自分は「世間一般」ではないが、だからといって障害当事者でもないという立場にたつ
・障害者役割を否定する
 ★「障害者は護らなければならない」などといった障害者役割への抵抗
・関係性の逆転を図る
 ★「手足」をめぐっての議論と関係する

〈インタビューデータから〉
「たとえば、介護者とCPの人との関係ってあるじゃない。緊張関係やからね。ぺちゃっといっちゃうと依存関係になっちゃうから、もう、それは依存された方はしんどくなったりとか、管理しようとしたりとか、説得しようとしたり、片一方を埋めるようになっていくんやな。」
「社会全体の傾斜がこうだから、その二者間で逆転がないと、その位置が維持できない。全体が傾いてるから。ここで逆転しとかないとバランスがとれない。それがない場合はガラガラと崩れちゃうよね。対等な関係っていうのが、僕は一番危ういと思うね。そんなん、絶対世の中、水平じゃないんだから。傾斜あるんだから。対等じゃない。だから、僕はひれ伏すような関係しかありえないんじゃないかな。」

健常者がパターナリズムに陥らないようにするには、意識的にその関係性を逆転させることが必要であると考えた。その逆転の方法が「ひれ伏す」、つまり障害者の手足となって介助するということである。
グループゴリラの「頭は貸さずに手足を貸す」という考え方=障害者の主体性を尊重し、インペアメントを健常者の手足によって補うこと。
しかし、こうした考え方だけでは解決しない問題が表出。→後半の議論へ

4.「緊急あぴいる」発表
 1977年10月発表。2枚もののビラによって、関西の障害者解放運動内部に決定的な亀裂が生じていることが明らかにされた。「緊急あぴいる」の概要は以下のとおり。

@専従者の態度が横柄であり、介護活動にもあまり参加していないため、地域の状況に疎くなっており、専従者としての任務をおろそかにしている。
A各地区のグループゴリラのメンバーが専従者の態度の真似をする。
B青い芝の会を無視して、健常者主導で決定や行動がなされる。
C自立障害者にランク付けを行う介護者が多くみられる。 ★「あの障害者のところへ行くと勉強になるが、こちらの障害者はつまらない」など
D健常者が障害者をまるで「手なずけている」ような関係性になっている。

この「緊急あぴいる」発表後、関西グループゴリラ等の各地の健全者運動組織は、専従者中心の役員会運営体制を排するなどの組織変革を行うが、実を結ばず、解散に至る。

1978年3月10日 兵庫グループゴリラ解散
1978年3月13日 関西グループゴリラ解散
1978年5月 全国健全者連絡協議会解散

5.健常者は何に迷ってきたか
(1)介助体制の逼迫
 青い芝の会の主張に賛同し、身体的にも経済的にもついていくことができる健常者しか介助に関われない状況があった。この状況を変えない限り、多くの障害者を親元や入所施設から地域での自立生活に移行させることができないという思いを、グループゴリラは抱えることになる。
 ★3年間で15人の自立障害者が生まれる。ゴリラに何人いたか不明だが、逼迫していたのは資料でわかる。そうした状況は、金満里さんの著書『生きることのはじまり』にもある。何日も介助に入らざるをえないが、お金は出ない。どんどんやめていく。この状況を打開するために、大阪は公的介護保障運動へと進む。

(2)障害者の「手足」になることをめぐって ★「手足になりきる」ことの難しさ
 「緊急あぴいる」が指摘した問題の一つに、「健常者主導の行動」、「障害者を手なずけている関係」ということがあった。しかし、健常者主導にならざるをえない状況に、グループゴリラは直面する。

■健常者は自身の考えを脇において、運動ができるのか?
青い芝の会運動の困難は、介助する健常者を必ず必要とする運動であったということではないか。健常者中心社会を再考するための運動であったはずなのに、健常者は手足になりきらなければならないのなら、どうやって障害者の運動に健常者として関わればよいのか、という疑問がグループゴリラのメンバーに生じる。
 ★運動と生活が混然一体としていて、両方に健常者が関わる。健常者として手足になることと、介助者として手足になることは異なるのではないか。だが両者が混然としたまま「手足になりき」ろうとすると混乱するのではないか

■障害者の主体性の有無に、介助者は左右される。
 障害者が主体性をもち、健常者を「手足」として使えるようになるには、これまでの生活の中で社会経験蓄積の機会があまりにも奪われていた。もちろん、そのように障害者の経験の積み重ねを奪っていくような社会のあり方を問うことは必要であり、それが青い芝の会運動の本質であると言えるだろう。だが、それには時間がかかる。「今、この時、この場所」での介助を行うゴリラが主導権を握らざるをえないことがあった。健常者が障害者の手足を離れてしまったことが、1970年代障害者解放運動の混迷を引き起こしたわけだが、そこには「手足」になりきるだけでは障害者の生活問題が解決しないという認識があった。

〈インタビューデータから〉
「俺の発想としては、ただひたすら介護するだけでは意味がない。意味がないっていうか、それだけでは障害者の生活をつくられへんからね。あの、結局一緒に、あの、なんていうかな、うーん、障害者の生活の問題というのはどうしたらいいんだとかを含めて、介護者も一緒に考えなあかんという発想に、こう、変わっていったというかね。ま、それまではゴリラっていうのは『身体を貸す』っていう、介護はするけど私生活には口を出さないっていうことだったけど。例えばdさんとかの障害者を目の前にしたら、そんなこと言うてててもdさんが指示するわけちゃうから。で、ひたすら介護することに意味がないねん、逆に。で、それは結構、発想の転換として大きかったんちゃうかな。」

6.まとめとして
 青い芝の会は「私達が成し得る事、それは次から次へと問題提起を起す事以外にない」とし、告発型運動を展開してきた(横田 1979:122)。問題に対してすぐに解決策を考えるのではなく、どうしてそのような問題が起きるのか、その問題を生起せしめるこの社会の構造とは、ということを考える運動は、当時の他の障害者団体による運動方針とは一線を画していた。そして、親元や施設とは異なる生活の場をつくるという運動を通して自立障害者を生み出した。青い芝の会の運動が現在の自立生活運動につながることを思うとき、その運動の意義が十分すぎるほどに見出せる。また健常者に対する障害者からの糾弾は、容易にパターナリズムに陥りやすい介助関係への警鐘でもあったし、なによりこの社会における健常者としての位置を自覚するということは、障害者問題を個の問題として捉えるのではなく、社会構造による問題として捉えようとすることへのあらわれでもあった。だからこそ、今日においても考え抜くべき問題であると私は考えている。
 ただ、当時の運動は、「今、このときに直面している障害者の生活問題」を解決するには足らなかった。「目の前にいる、今、ここでの障害者の生活問題」と「社会変革」という目標の間での迷いをみせた健全者運動は、1980年代以降、公的介護保障の運動へと突き進む。
 障害者と健常者の関係性をめぐる問題は、今でも考えなければならないものだろう。公的介護保障制度の獲得という現実に即した運動とともに、1970年代の障害者解放運動が積み残した関係性を問うという、この両方を障害者も健常者も考えなければならなかった。
特に、障害者の手足となる、そのことの意義や困難、限界について、この後、参加者の皆さんと議論したいと思う。

 ★手足論については、介助者それぞれの考え方にもよるかもしれない。私は、自分が障害者に対して何を出来るか考えてしまうほう。5月に京都の「かりん燈」のメンバー等によるトークセッションがあり参加したが、そこでも障害者と介助者の関係や「手足になる」というのが議論になった。「手足になる」というのがロボットのように振る舞うように捉えられることもあるが、無機質な関わりばかりではないはず。「頭を貸さずに手足を貸す」というのは、行為主体が障害者であることを示す1つの方法だったが、実際には難しい。しかし「手足になる」ことで気づけることもある。
 例えば、私の経験を話せば、障害者と夜中にカラオケに行った帰り道、自分は疲れていて電車に乗りたかったのに、本人は電車に乗らず「歩こう」と言われて、私は結局歩いた。そんな私をどう思っているのかと思った。違和感もない介助は逆に不自然だと思う。「手足になる」をめぐってお互いにいろいろな感情が湧いてきて、障害者と介助者との関係を考えるきっかけが生まれるのでは。

***
引用文献
自立障害者集団友人組織全国健全者連絡協議会(1977)『学習分科会基調・レポート』
介護ノート編集委員会編(1978)『はやくゆっくり―横塚晃一最後の闘い』
横田弘(1979)『障害者殺しの思想』JCA出版
横塚晃一(1975)『母よ!殺すな』すずさわ書店(=2007、生活書院)
【レジュメ終わり】

●休憩(14:30-45))

●質疑応答(14:45-17:00)
A:「健常者」と「健全者」の使い分けと意味は?
山下:私は同じ意味で使っている。当時の資料を基にして語るときは「健常者組織」とは言えず「健全者組織」「健全者運動」と言わざるを得ないが、私は「健常者」をベースにしている。
B:「健全者」の方ばかりインタビューして、障害者にインタビューしなかったのはなぜ?ちなみに青い芝では、介護に関わる健常者を「健全者」、一般は「健常者」と使い分けてきた。
山下:そのような使い分けは初めて知ったのでありがたい。障害者へのインタビューもして、健全者のインタビュー内容とすりあわせればよかったが、健全者にばかり聞いたのは、自分の力量不足と、健全者にこだわりたかったというのがある。自分が当時にいたら、やはり健全者の側だから。
B:僕が当時青い芝の14番目か15番目の自立障害者だった。1977年に自立した。僕はゴリラ解散のきっかけとなった障害者。健全者に焦点を絞りたかったのはわかるが、それでは解散の経緯についてはぼやけてしまう。当時ゴリラは、たとえば森さんのような、カリスマ的な魅力のある障害者を自立させることに、無償で介助することの意義を見出していた。でも、自立したい障害者がどんどん増えてきて、ゴリラの人数は少ない状況で、僕のように自立させる意義を見いだせない障害者について、ゴリラから「なぜBさんを自立させたか」という質問状が出された。それを僕が金満里さんに持って行って見せて、金さんが怒り、関西青い芝の役員に持って行った。それが解散のきっかけになった。専従はわずかで、学生や社会人のボランティア(ゴリラ)が多く、1か月に1回か2回の泊まり介護していた。それで足りなかったら専従者が24時間介護の穴埋めに入った。
山下:当時の資料の中に郵便局員や教師のゴリラメンバーが出てきたが。
B:それは大阪北部(豊中)のゴリラ。僕は枚方。1977年に現場にいた。ゴリラは「映画に行きたい」とか言う障害者に「そんなことのために介護するのではない」と言った。でも、意識だけで支えられないほど、ゴリラの運動自体が崩壊していた。最初は魅力的な障害者を支えて「手足」だったが、障害者は社会経験がないのに、ゴリラは京大や阪大の学生など頭がいい人が多かった。だから若い障害者が自立していく際にはゴリラに負けてしまう。中部・南部も、健全者が中心。
E:「専従者」とは?
B:電話番、介護者の穴埋め、ビラをまいて介護者の講座を開く、などをしていた。りぼん社。頭の部分。一般のゴリラとはけんかばっかり。一般のゴリラがほんとの手足で、専従者は頭だった。専従者が一部の力のある障害者とつながりを持ち、そういう頭のいい障害者が専従者と運動していた。自分の意見を青い芝の意見としてゴリラに下ろしていた。
山下:りぼん社が要になっていたのは聞いていた。さよならCPの上映運動の実行メンバーが、その後のりぼん社のメンバーだった。当時の運動は、グループ・リボン、グループ・ゴリラ、青い芝の3者で成り立っていたが、りぼん社が専従を組んでリードした。ゴリラと上下関係にあったと言われている。
D:専従者はりぼん社から生活費をもらっていたか?
B:はい。りぼん社から一部、バイトを一部、カンパ活動から一部、もらっていた。
D:河野秀忠さんは、さようならCPの上映運動の時からりぼん社のトップだった?
B:安保運動から障害者運動へ移った人で、りぼん社を作った。専従者の顔だった。
D:ゴリラからの文書は河野さんも知っていた?
B:僕の名前は出なかった。全部消えてしまった。
E:当時の手足論のことを聞きたいのだが、僕の考える「手足」は、例えば、介助者と料理を作るなら、「何を作るか」「作り方や味付け」は自分で考え、「介助動作」は協働作業で、「その結果」は成功も失敗も自分自身のもの、というのが僕の考え。中には、全く言われたとおりにすることを意味している人もいる。当時の手足論はどうだったか?
B:1977年当時は、運動における手足論が言われていた。当時の食事はラーメン、コーラ、酒、タバコばっかり。生活については言わなかった。当時は障害者運動をすることが自立障害者。僕みたいに言葉も解らへん、何考えてるか解らへん障害者は自立の壁は高かった。生活については20年後、ヘルパー制度を使うようになってからの話。
山下:りぼん社の小林さんが、70年代から介助者手足論が語られたという見解について否定していた。当時は「健全者手足論」であって、「介助者手足論」とは異なるという主張をしている。
B:運動の手足論というなら同じ。小林さんは、りぼん社に入る前はゴリラだった。当時、力のない障害者が急に増えて、障害者と健全者のバランスがおかしくなり、健全者のみが走って行ってしまうという動きが目立った。
D:小林さんの話も障害学メイリングリストに出ていたが、政治的な手足論と介助の手足論がごっちゃになっていると説明したらわかってくれた。80年代にバークレーから介助における手足論が入ってきた。それがあやふやなところに山下さんは突っ込んでしまった。研究を出版する時期が早かったかもしれない。Fさんが山下さんのこの研究を出版したかったのはなぜ?
F:手足論という思想は、その2つにあまり簡単に弁別できない。先鞭的研究として出す意味がある。介助の思想としても、今でも引きずっていることがある。
C:どうしていま70年代を取り上げるのか?健全者による障害者のランク付けでゴリラが崩壊したのが、今の介助制度での障害者のランク付けにつながると思ったのか?
山下:私はその答えを見つけきれなかった。今の問題ときちんと結びつけるのが難しかった。70年代の議論が今にどう活きるのか考えるべきだったが、とりあえず今出せるところまで出したいと思った。70年代にこだわったのは、当時の青い芝の問いかけが、「障害者も健常者も一緒に」と考える社会福祉学領域にいた自分にはインパクトがあり、自分の立場を考えることが大切だと思ったから。まだ今のこととつなげるには準備が不十分。介助が賃労働になっていたりという制度の変化ともつなぎきれていない。
C:「今こそ青い芝はもう一度立ち上がらなければならない」とBさんに話される方がいる。今は死なない程度に生かされている。何とか生きてはいけてるが、自分らしく生きられない。その事にも気付かない。だから当時を振り返ることが必要。
B:70年代は24時間運動していた。だからゴリラが24時間手足になる。介助者を集めるために毎日宴会して、介助者とけんかして話していくなかで、介助者の頭の中身を変えていく。それが青い芝の「24時間運動」「ゴリラは頭は要らん」の意味。
E:お金がなければ毎日宴会出来ないですよね。
B:お金なかった。しんどかった(生保を全部使う事も運動やった)
E:当時は元気な学生が多い。いまは学生が乗ってこない。
G:学生はいます。京都で24時間ボランティアだけで自立生活をしていた(今年4月にお亡くなりになりました)方で高橋啓司さんと言います。私もボランティアで伺っていました。学生は集りは確かにしんどいです。学生の手薄な時期は重なり、介護者会議では、制度の利用も議題に上がりますが、高橋啓司さんは、やはり最後までボランティアがいいとおしゃっる。「こんちくしょう」の上映会をして学生を募ります。
E:僕自身は、今は制度にどっぷり。
B:今は身体の介護でヘルパーを受けているが、これからは24時間の重度訪問介護を受けようと思う。
G:どこまで病院へ行かないかという話もある。
B:学生を今から集める。重度訪問介護ならバイトにもなる。
A:健全者の心理が、自分は障害者なので、わかりきれない。そこが覗えるかと思って興味があった。自分のところでも「私には偏見はないよ」という人たちが集まってやっていたが、健常者だけで決めていくうちに、ゴリラの末期状態のようなことになり始めた。「マイノリティのことをやっているのに、マイノリティ本人を無視するな」と言ったら、健常者は蜘蛛の子を散らすようにいなくなってしまった。類似性がある。
B:大阪はまだまし。中部、南部、茨木、豊中はまだもっている(ゴリラの考え方を根底に持っている)。
山下:蜘蛛の子を散らすように、とは?
A:説明しづらいが、健常者と一緒にやっていこうという姿勢で始めたのに、いつのまにか健常者だけで固まって話を決めてくるようになってしまった。健全者が大多数で障害者は自分1人だったので、異議を唱えたら、連絡がこないとか、文句言われるとか、非建設的な意見ばかり返ってきたりしたので、一旦クローズした。
H:レジュメのまとめの最後にある「障害者解放運動が積み残した関係性」とは何か?健全者が障害者に関わることの意味を僕も考えてきたが、70年代の時代背景もあるし、「障害者」「健全者」と一般化できない感覚が強い。でも、一般化できなければ、いつまでたっても、日の当たらない障害者や、障害者に関わらない健全者がいつづける。「友達やねん」といういうような個別性の集積だったのが、一般化してごちゃごちゃしてしまったところもあるのでは。手足論も、各地域や個人によっては乗り越えている。
山下:これは宿題にしてもらっていいですか。明確に積み残されているというわけではないが、当時語られてきた「障害者の主体性によって手足になれるかどうか変わる」とかいうのは今にも通用する。関係性の逆転についての思い、自分の障害者観への気づき、などは、今でも考えられてしかるべきことだと思うので、答えが出ていないと書いた。当時悩んできたことを、今もみんな考えている。
H:続いている同じ課題はある。「強い障害者像」を求めるなかで崩壊したとか。でも、介護という関係性に限定せず、隣近所など、違う関係性で捉える必要もある。そうでないと地域で孤立したりする。介護でない関係のあり方も考えなければ、普遍化されていかない。一地域住民として、障害者やその家族とどう関係を付けるか、なども考えないと、閉じてしまう。
B:若い人に聞きたいが、70年代は変な時代だと思う?
I:自分は86年生まれ。養護学校には通わず、小・中・高と、ずっと地域の学校に通ってきた。手足というのには正直抵抗を覚える。というのは、僕の友達の中にも「何でも手伝う」とか「私があなたの手足になるから」という人もいるけど、僕は「あれっ、ちょっと待ってよ」と逆に思う。「手足になる」という時点で、その人と自分との間に何らかの隔たりがある。本当の仲間として受け入れてくれているのなら、そういう言葉はまず出てこない。手足になろうとすることで、健常者が障害者をわかったつもりになってしまう。それは、障害者を異質な他者にしてしまうのを、かえってもっと強めてしまうのでは。
B:自分が感じるようにやったらいい。相手が何かやってくれるなら、うまいこと使えるときは使えばいい。違う感性と感じたら断ったらいい。それで困っても自己責任。これが青い芝の考え方。安易な問題解決の道を選ばない。自分が中心にならなかったら障害者運動にならない。Iさんはヘルパーは使っている?
I:毎日使ってました。ヘルパーさんとの関係性でも、人間同士としては変わらない。ヘルパーさんとも、その人と人間として理解する。障害者と健常者という関係性はあるが、それを超えていくのが、健常と障害というカテゴリーを超えた世界だ、という思いで付き合ってきたのだけれども。
J:運動の主体は誰であったのか。健常者が主導権を握ったり、カリスマ的な障害者を選ぶなど、70年代は健常者が自己実現をしていたのでは。現在の共生共学モデルへの山下さんの違和感は、混沌の中で自分は何者なのかと問いながら運動に入っていった70年代と、時代背景の相違がある。介助関係の中での手足論は生活主体としての障害者。運動の主体者としては、70年代はビラ配りとか座り込みとか、行動が多かったので、「主体」の意味が異なる。
山下:運動の主体は、はっきり「障害を持つ人」のはず。しかし現実に起こったことは報告したとおり。関係性は個別性に基づいているし、障害者と健常者というくくりだけでも語れないだろう。ただ、関係性は個別的だが、どこか障害を持たない立場として言っているという認識は必要だと思う。
K:介助者は手足だと言うと隔たりがあるということだが、自分の介助者経験から言うと、手足と言われたほうが気楽なところもある。運動と生活は切り離せない。
J:70年代は運動が公に目に見える形になったが、今は障害者が外に出るだけで運動になると思っているところがある。
A:それは、昔は、ということ?
J:今でも、個別の運動はやっているが、全国的な運動としては活性化していない。抑圧されている側、差別されている側、という意識は、若い世代の障害者と、60年代・70年代を通ってきた障害者とで違う。今は運動と生活が切り離せない。
山下:運動と生活、政治的な要求と個別的な必要が切り離せないのはたしかにそうで、当時の難しさもそこにあった。構えて「これは運動だ!」というのではなくて、電車に乗ったり買い物に行ったりするのも運動だった。「そよ風のように街に出る」というのが中心だったからこそ、政治的な運動にも行けたのでは?
B:僕も昔バスに乗ろうとして、乗車拒否されて、毎日30分や1時間はけんかしていた。今はニコニコ乗っている。こんな街になったら、若い人は運動しようとしないだろう。親から小遣いもらえる、自分の部屋もある、自分のテレビもある、というなら自立しようと思わない。親が面倒見てくれる若いうちはね。昔の僕は1か月自分が自由に使えるお金なしで、13人同居、テレビ1台。兄弟げんかばっかり。25歳くらいになって親が死んだら、施設か兄弟の家かに入れられるのが昔だったから、なんとか自立しようと思った。ゴリラがつぶれたらヘルパー制度を作った。ちゃんと生活していかなければという根性があった。何も不自由ないなら、誰も運動やろうと思わない。嫌なことをやろうと思わない。自立しようと思わない、それは健全者の若者も同じ。
L:1974年生まれで、2才から障害を持ったが、小中高大、会社も健常者と同じ。手足論に違和があったが、運動における手足論ということなら、すっと理解できた。介助における手足論なら、介助者との関係性が壊れてしまうように思う。
C:障害者1人1人違うし、昔のBさんと今のBさんも違う。「本人主体、自己決定だから、本人の言うことだけすればいい」という事業所の姿勢であっても、一から十まで指示する事がしんどくなってこられた障害者の方に対し、ヘルパーが先走ってやってしまうのではなくて、何をやってほしいのか、何を求めているのか、「感じてくれ」と言われる、その声をしっかり感じる感性を大事にしたい。この仕事は完成しない。これで自分はもう何のまちがいもない、「完成した」と思ったら辞めなければならないと思う。
B:僕が四六時中頭を使わなければならないのが、ゴリラと僕の昔の関係。ゴリラが僕の考えを解ったと思ったら、あきてやめる。障害者は毎日問題を提起して関係を作っていく。僕は学校にも行けてないし、字も書きづらい、パソコンも打てない、言葉も出にくい、介助者を持って初めて言葉を持てる。障害者との関係性。介助者が「Bはもうええ」と思ったら関係性が終わる。人一倍頭を使って、関係性をつないでいこうとする感性がなければ関係が持たない。でも70年代は、お互いがぎりぎりまで来てしまって、消耗しすぎてパンクしてしまった。
H:当時の方からそういう話は聞くが、そうした中で健全者が関わるのはどうしてなのか気になる。なぜそれが当たり前と思って介護に入っているのか、お仕事なのか、考え方なのか。健常者が障害者の介助に入るのはなぜか、考えたい。健全者の側がもっと語ったり考えたりする機会が必要。障害者に語ってもらうだけではしんどい。僕は森さんに誘われて90年代から市民運動的に運動に入っているが、運動をしているという感覚はあまりない。彼が運動をしていて、僕も運動していて、共通項があるから一緒にやっている。
B:障害者が頭を使っているから、うまくコントロールできている。
H:森さんとはそう。他の障害者には勧めない。ボランティアだけ集めるのは相当しんどいだろう。なぜ関わるのか、個人的な問題として語らないことも出来るが、その必然性を健全者の側から語っていくことが必要。
B:森さんのところはまだゴリラの考え方と感覚が生きている。昔と同じ。今のも、昔よくケンカした。
山下:なぜ関わるかは、人によってさまざま。当時もさまざまだった。関わり始めることに必然性があるのか?
H:介護でいえば、障害者は介護がなければ生きていけないから必然性がある。介助者の場合は入らなくてもやれるのに、そこに何を求めて入っていくのか、入って何を掴むのか、普遍化できるものがあるのかもしれない。
山下:私は介助の関係は極めて個別性の高いものであるので、そのあたりを抽象度を高めて話すことはできても、普遍化することは難しいと思う。ただ、そうした個別の語りを共有したいとは思う。
F:介助という枠だけが障害者と健常者が関わる枠ではない。それ以外の枠もあるだろう。東京での研究会でも、川井さんのように、障害者本人から手足論に違和感が表明されることがあった。
M:21世紀の介助者の貧困と結びつける運動と、70年代、80年代との連続性は?
山下:わかったら教えて下さい。その前に、無償介助から賃労働に変わって、介助の関係性がどう変わったのか、を考えたい。わかっていることだけをまず本として出したのだが、いかにまだ未整理か実感した。運動と生活の手足論の区別にしても、現実として生活と運動が分けられないし、自立生活以降のことなのかもわからない。切り離せないいろいろな問題がある。宿題をたくさんもらいました。意見が聞けて有益でした。ありがとうございました。

(参加者26名)

*作成:
UP: 20090716
全文掲載  ◇障害学研究会関西部会  ◇障害学研究会関西部会・2009
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