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花田 実

はなだ・みのる
〜20020531
http://homepage2.nifty.com/M-hanada/



 http://homepage2.nifty.com/M-hanada/
×http://www.ky.xaxon.ne.jp/~matuki/hanada/hanadase.htm
×http://www.ky.xaxon.ne.jp/~matuki/hanada/hanada.htm
×http://www.kyoto.xaxon-net.or.jp/~matuki/hanada/hanadase.htm

◆20011027 「セクシュアル・マイノリティ――特に障害を持つゲイから見た社会」
 障害学研究会関東部会 第18回研究会
 http://homepage2.nifty.com/M-hanada/kouen/20011027r.htm

◆200107  「ボクにとっての両親・親にとっての障害をもつ我が子」(ボクは障害をもつゲイ・3)
 『アジャパーWEST』03:126-132

 2000年から『アジャパーwest』で連載開始
 「私は障害を持つゲイ――狭間から社会をみつめる」

◆「あたりまえに生きることのむずかしさ」
 『ノーマライゼーション研究』1994年度版年報(ノーマライゼーション研究会編集 関西障害者定期刊行物協会発行)
 http://homepage2.nifty.com/M-hanada/chosaku/normali.htm
◆「ぼくはマージナル・マン」(インタビュー)
 『ヒューマン・セクシュアリティ』No19,東山書房
 http://homepage2.nifty.com/M-hanada/chosaku/human.htm
◆「障害者のゲイ」(インタビュー)
 伏見憲明対談集『クィア・パラダイス』,翔泳社
 http://homepage2.nifty.com/M-hanada/chosaku/queerpa.htm
◆「障害者とゲイの狭間で――マージナル・マンからの提言」
 『クィア・スタディーズ’96』,七つ森書館
 http://homepage2.nifty.com/M-hanada/chosaku/queerst.htm
◆「ボクがボクであるために」
 『知的障害者の恋愛と性に光を』,かもがわ出版
 http://homepage2.nifty.com/M-hanada/chosaku/kamogawa.htm

◆21 Jul 2001 13:42
 [jsds:5822] ひどい対応

 昨日開かれました第18回神戸大学障害学セミナーに初めて参加させて頂きました。初参加にもかかわらず、発表者以上に問題提起をしてしまったようで恐縮です。
 さて、昨日問題提起させて頂いた内容をこのMLの方々にも知って頂きたいと思い送らせて頂きます。また、この問題は、僕個人的なメールのやり取りとから発生したものですが、決して障害学に無関係とは言い切れないと思います。
 本題に入る前にこれまでの大まかな流れを説明させて頂きますと、2年前にこのMLのメンバーでもある横須賀さんから鳥取で開かれた全国障害者市民フォーラムの分科会(障害者の恋愛結婚だったかな?)にパネリストとして呼ばれて行きました。
 もともとこの集会は2年に一度開催地を変えて開催されるもので、開催内容についてはその開催地の障害者団体に一任されているようです(この辺は良く知りません)。で、今年は秋田で開催され、秋田CIL内の「全国障害者市民フォーラムin秋田」実行委員会、車いす市民全国集会運営委員会、全国自立生活センター協議会が主催となっています。
 それで、今年はどんな分科会になっているのか気になって資料を取り寄せました。今年も「障害者と性」に関する分科会がありました。しかし、そのタイトルを見て愕然としました。

「障害者の恋愛結婚」
・障害者だって”合コン”がしたい

 と、ガチガチのへテロセクシュアルなタイトルでした。
これはちょっと、ひどい。前回横須賀さんに呼ばれて行ったことが少しも反映されていない。と、感じた僕は次のようなメールを7月14日に主催者に送りました。以下、その全文です。

===
「全国障害者市民フォーラムin秋田」
実行委員長 畠山 真紀子様
第9分科会御中

 前略、私は障害を持つ様々なセクシュアリティの活動をしています花田実と言います。
 今回全国障害者市民フォーラムin秋田の分科会の中に「障害者の恋愛結婚」とあります。
 現在「障害者と性」と言っても、そのありようは多様であるのは疑いの余地はありません。事実、私のところには様々な障害を持つセクシュアル・マイノリティ(性的少数者)の方からコンタクトがあります。例えば、同性愛や両性愛などの方々が少なからず存在することをご存じでしょうか?
 そういった障害を持つセクシュアル・マイノリティ(性的少数者)の存在を無視するかのような今回の分科会は、現実的ではなく、もはや時代錯誤と言わざるを得ません。結局これまで多数の健常者が障害者に対して行ってきた「障害者には恋愛や性はあり得ない」としてきたことを、今度は逆に多数の異性愛の障害者が、「障害者には同性愛や両性愛などはあり得ない」と、これまで健常者が障害者にしてきたことと同じことを、障害を持つセクシュアルマイノリティ(性的少数者)の人達に対していることになります。
 障害を持つセクシュアルマイノリティ(性的少数者)を含めた上で性を語らないことには、一部の(異性愛の)障害者だけの分科会になってしまいます。障害を持つセクシュアルマイノリティの方々が日ごろどんな思いでおられるか少しでもご存じですか? あるいは知ろうとしておられますか?
 事実、前回の鳥取では、私自身がパネリストとして出席し、障害を持つ様々なセクシュアルマイノリティ(性的少数者)の現状について報告させて頂きました。
 「自分たちの範疇にない」とか、「考えてもいなかった」などの理由はもはや成立しえません。それ以前に、「障害者と性」から異性愛以外の様々なセクシュアルマイノリティ(性的少数者)の方々の存在をなおざりにし、締め出し、排除し、異性愛のみが特権を手にしているとしか思えません。そこには、様々なセクシュアルマイノリティ(性的少数者)の存在を無視し多数者がものを言う論理が曲通っているほかなりません。
 今回何故、障害を持つ異性愛の企画を打ち立て、障害を持つ様々なセクシュアルマイノリティ(性的少数者)が参加できる企画にされなかったのか明確にお応え下さい。さらに今後、障害を持つ様々なセクシュアルマイノリティ(性的少数者)に対してどのような姿勢で取り組んでいかれるのかについても明示して下さい。

花田実
http://homepage2.nifty.com/M-hanada/
hanada@mba.nifty.ne.jp
===

 これに対して、同月19日に主催者側から返事を頂きました。こちらは著作権などの問題がありますので要約させて頂きます。<>内が回答文になっています。

===
「現在『障害者と性』と言っても、そのありようは多様であるのは疑いの余地はありません。事実、私のところには様々な障害を持つセクシュアル・マイノリティ(性的少数者)の方からコンタクトがあります。例えば、同性愛や両性愛などの方々が少なからず存在することをご存じでしょうか?」
 これに対して、<そのような事実は存じ上げませんでしたし思いつくことすらありませんでした。>

「障害を持つセクシュアル・マイノリティ(性的少数者)の存在を無視するかのような今回の分科会は、現実的ではなく、もはや時代錯誤と言わざるを得ません。結局これまで多数の健常者が障害者に対して行ってきた「障害者には恋愛や性はあり得ない」としてきたことを、今度は逆に多数の異性愛の障害者が、「障害者には同性愛や両性愛などはあり得 ない」と、これまで健常者が障害者にしてきたことと同じことを、障害を持つセクシュアルマイノリティ(性的少数者)の人達に対していることになります。」
 これに対して、<なぜ、そのような考えに結びつくのかが全く分かりません。>

「事実、前回の鳥取では、私自身がパネリストとして出席し、障害を持つ様々なセクシュアルマイノリティ(性的少数者)の現状について報告させて頂きました。『自分たちの範疇にない』とか、『考えてもいなかった』などの理由はもはや成立しえません。」
 これに対して、<「自分達の範疇にない」「考えてもいなかった」等の理由は成立し得ないと言うのは花田さんの意見であり、実際の問題として私は障害者のセクシュアルマイノリティに対して考えは及びませんでしたし自分の範疇でない。と考えているのも事実です。>

「『障害者と性』から異性愛以外の様々なセクシュアルマイノリティ(性的少数者)の方々の存在をなおざりにし、締め出し、排除し、異性愛のみが特権を手にしているとしか思えません。」
 これに対して、<それはセクシャルマイノリティの方々の被害妄想であり、存在をおざなりにもしていませんし、締め出しも排除もする気は毛頭ございません。>

「今回何故、障害を持つ異性愛の企画を打ち立て、障害を持つ様々なセクシュアルマイノリティ(性的少数者)が参加できる企画にされなかったのか明確にお応え下さい。さらに今後、障害を持つ様々なセクシュアルマイノリティ(性的少数者)に対してどのような姿勢で取り組んでいかれるのかについても明示して下さい。」
 これに対して、<セクシャルマイノリティの現状というものを考えていけば、このようなメールを突然送りつけてくる行為がどのような事なのか?と言うことが見えてくると思います。私自身がホモセクシュアル及びレズビアン及びバイセクシュアルに偏見を持っているわけではありません。実状としてのセクシュアルマイノリティを考えてください。加 えて、セクシャルマイノリティが参加できる企画にされなかったのか明確にお応えください。とありましたが、それに関して明確に答えるのは不可能です。なぜなら、障害者の恋愛(異性愛)と言う実態ですら私の手には負いきれておりませんし、私の考えとして異性愛ですら成立させる(出会いなども含めて)のは難しいと感じているのにセクシャルマイ ノリティの問題などもはや話にならない以外のなにものでもありません。>

「さらに今後、障害を持つ様々なセクシュアルマイノリティ(性的少数者)に対してどのような姿勢で取り組んでいかれるのかについても明示して下さい。」
 これに対して、<今後、セクシャルマイノリティの問題に取り組んでいく気は全くございません。今回の花田さんの意見を批判する気は全くありませんが、花田サンの意見を私共に強制、強要されることに対し非常に不快感を覚えますし今後、セクシャルマイノリティということに関して花田さんとディスカッションする気は全くない事をご理解頂ければ 幸いです。>
===

 この返事はひどい。これを発表した神戸大学障害学セミナーでは一時騒然となりました。集会の主催者としてこのような対応を取るなんて・・・。僕としては相手がコミュニケーションを取ることを拒否している以上、これ以上話の進展は望めません。かといって、このまま黙っていられる問題でもありません。僕は今から分科会の内容や趣旨を変更させようなどとは思ってはいません。ただ、この返事に対してはきっちりとした何らかの決着をつける必要があると思います。まぁ、高望みをするなら、分科会冒頭に、「障害者にもさまざまなセクシュアリティの方がおられますが、今回はへテロセクシュアルを取り上げます」ぐらいの配慮はあってもいいかなと思っていますが、あまり期待していません。
 皆さんはどんな感想をおもちでしょうか?
 ぜひ、ご意見をお聞かせ下さい。

花田 実

 

◆Date: Thu, 4 Oct 2001 11:00:46 +0900
 Subject: [jsds:6042] 障害学研究会関東部会  10/27 セクシャルマイノリティ(レジュメ付き長文)

レジュメ

1 自己紹介仏教大学通信教育部社会福祉学科卒。
在籍中、障害者運動、ゲイ・リベレーションと出会う。そのうち、大学の勉強がおもしろくなくなってきて、卒業単位をそっちのけにして、障害者と性やゲイに関する文献や論文を読む日々を3年間ぐらい費やす。

2 活動を通して「しんどさ」を共有する
 障害者と性に関するそのほとんどは異性愛について書かれていた。唯一、知的障害者向けに書かれたものでエーヴィ・コルベリイ「性について話しましょう」大揚社があった。一方、ゲイに関するものについては、異常、倒錯と言った否定的なものが多く、肯定的にとらえているものは少なかった。
 僕が当時求めていた障害とゲイに関する情報がほとんどなかった。ないなら自分で創るしかない。しかしどこにもモデルがない。逆に、モデルがないからやりやすかった。モデルがないからやりやすいというのは、下手をすると自分だけの世界、独り善がりの世界に陥ってしまう危険性も同時に孕んでいるので、自分一人だけではないことをどうしても証明しなければならなかった。
 ゲイの自助団体のなかに障害を持つゲイのセクションを創り、代表を務めた。それ以前に当時ニフティ・サーブに入り障害者フォーラムのセクシュアリティに関する会議室で旭さんとお会いする。これを皮切りに、新しくセクシュアリティフォーラムを創るから、障害者も視野に入れたいのでボードリーダーになってくれと依頼され、今は、性と社会を語るフォーラムスタッフをしている。
 これらの活動を通して、自分一人だけじゃないんだという実感が湧いてきた。このことを実感することが実はとても大切で、とても困難で、とてもエネルギーがいる。
これだけ性に関する情報が氾濫している現在ですら、障害とゲイになると、その情報は今でも皆無に近い状態である。 
具体例
  1:一人で外出できない男性障害者が、男性のエロビデオを見たい・買いたい、どうすればいいか。
  2:軽度の障害を持つ男性が、ある日女装専門の店に入って女性ものの下着を買ったら女装したくなった。中年にもなった男性が女装するなんておかしいと思われるのではな いか。重度の方だとどうなるのか。「女装したい」と言われて、はいそうですかと言って介護者が女装させてくれるのか。
  3:24時間介護が必要な男性障害者が男性介護者に好意を持った。ある日、彼はそれを介護者に告白した。するとほかの男性介護者にも広まってしまって、男性介護者は一 切彼に寄りつかなくなってしまった。
 いろんなセクシュアリティを持つ障害者とコミュニケーションをとるうちに、障害者にもいろんなセクシュアリティを持っている人がいるんだってことがわかってくる。そうすると、「しんどいのは僕だけじゃないんだ」と思えるようになる。そこで何となく、「しんどさ」を共有することができる。

3 障害とゲイのマージナル・マンとしてのアイデンティティの形成 具体例
  1:道を歩いていると、向かいから学生服を着た数人の女性が歩いてくる。彼女らが僕の方を見てソワソワと、何かを確認するかのように互いの目を合わせクスクスと笑っている。そして僕とすれ違う瞬間、大声を出して逃げ去る。それはあたかも汚いものや気持ち悪いもの、恐いものを目の当りにして逃げ去っていくような場面。
  2:一年間障害者の職業訓練校で寮生活をしたことがあるが、そこで女性障害者から、あからさまに気持ち悪がられる言動をとられた。通路ですれ違う時に大声を出して慌てて 避けて通っていった。
しかもそれは、一人がそのような言動を取ると、まわりにも波及していった。
 僕は、障害を持った体を好きにはなれなかった。そして、誰も僕を愛してはくれないのではないかと思っていた。障害を持った体から抜け出したい気持ちが強かった。この体から抜け出して健常者の体を手に入れることができれば、僕はきっと自分を好きになれるだろうし、誰からも愛されるはずだと思い、自分のありのままの姿を直視することを避けていた。しかし一方では、この体から抜け出せないこともわかっていた。この体からなんとかして抜け出し健常者の体を手に入れたい気持ちと、抜け出すことができない現実との狭間での葛藤。
 健常者の体に近づけたいと思ったもう一つの理由は、社会が障害者に対して付与した気持ち悪いなどといったイメージを僕自身が内面化していたことが挙げられる。つまり僕が、男らしいとされる男性になるためには、障害を持つ体を否定しなければならなかった。
 ゲイをどのように受け入れてきたか。高校生の頃、漠然と男性に惹かれる気持ちに気がついていた。特定の男性を見ると、なぜか胸がドキドキしたことを鮮明に覚えている。まわりの男友達からは、男性を見てドキドキしたといった話は聞いたことがなかった。もっぱら彼女をつくる話や結婚の話をしていた。しかし僕は、そのような話には興味がなく、反対に違和感を持っていた。
 高校を卒業してからは、男性に性的魅力を感じる気持ちが強くなっていった。しかし、僕はそれを受け入れたくなかった。何故なら、当時入手できたゲイに関するほとんどの情報が、変態・オカマなどと揶揄・嘲笑した情報でしかなく、僕はあんな気持ち悪い変態になりたくないと、男性に性的魅力を感じる気持ちを否定していたからだ。男性に性的魅力を感じる自分と、それを受け入れたくない自分との間で葛藤を繰り返していた。
 これまでの障害者ではない・ゲイではないといった内なる二重否定は、今だからまったく別のものであると言えるが、当時の僕のなかでは、ほとんど並行し混沌とした状態で存在していた。男らしいとされる男性として認められるためには、障害のある体を否定しなければならなかった自分と、現実的には不可能であることの葛藤、そして男性に対する性的魅力を感じる自分と、それを受け入れたくない拒否感との葛藤、この二つの葛藤の交錯であった。
 この内なる二重否定を支えていたのは、既存の男らしさだった。そしてその男らしさの根底には、ゲイに対するホモフォビア(Homophobia)が含まれていた。つまり男らしくあろうとすればするほど、その裏には「僕は女性を好きになることができる男性で、あんな気持ち悪い人たちと同じではない」といった、ゲイに対するホモフォビアが存在していた。図を参照のこと。

   『内なる2重否定の構造』
「障害者ではない」「ゲイではない」
    |         |   
    「 男 ら し さ  」
  「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」

図の出典 「『ゲイで、障害者で』あることないこと」 『アジャパーWEST』2号 107Pより



【ホモフォビア】 同性愛に対する嫌悪感や攻撃、恐怖感。 内なる二重否定の状態から抜け出すためには、次の二つの手続きをしなければならなかった。一つは、僕のなかでつくられた男らしさのイメージを打ち砕き自分のボディ・イメージを肯定すること、そしてもう一つは、ゲイに対するホモフォビアを克服すること。さらにこの両者を同時に肯定もしくは克服しなければならなかった。そうすることによって初めて僕は障害者であることと、ゲイであることを肯定することが可能になり、それはやがて自己肯定へとつながり、ありのままの自分を受け入れることができるようになった。

4 現在語られている障害者と性の課題
 現在語られている障害者と性の課題について。これまで障害者と性というと決まって異性愛の内容に終始してきた。これは、現在の日本の社会が異性愛主義だから。異性愛主義、すなわちヘテロセクシズム(Heterosexism)。アドリエンヌ・リッチ(Rich, Adrienne)は、 「強制的異性愛とレズビアン存在」(Compulsory Heterosexuality and Lesbian Existence, 1980)のなかで、強制的異性愛(Compulsory Heterosexuality)という言葉を使っている。そこから異性愛主義、ヘテロセクシズムが使われ始めた。
【ヘテロセクシズム】 異性愛を前提とし、結婚し子どもをつくり、家族を一つの単位と見なし様々な法的制度(健康保険・年金・家族手当・遺産相続・所得税控除など)によって経済的に優遇される社会であると同時に、健常者の男性に有利に働く社会システム。
 これまでの障害者と性の課題は、社会の前提としているヘテロセクシズムの上にのっかった形で展開している。障害者と性の課題に取り組んでいる多くの人は、ヘテロセクシズムの上にのっかっているとは思っていないし、気づいてもいない。知らず知らずのうちに、それは当然だ、当たり前だと思い込んでしまっている。実はこのヘテロセクシズムは、セクシュアル・マイノリティのみならず、障害者をも抑圧してきた。
 具体例
  1:女性障害者の子宮摘出。健常者が女性障害者の子宮を摘出するように追いこんでいく背景には、女性は健全な子どもを産んでこそ価値があるのだとされていることが考えられる。女性障害者は、健全な子どもを産むことができないから、女性としての価値がないものとして扱われる。
  2:ある障害を持つ既婚女性は、家事などの女性としての役割を充分に果たせない、障害者のくせに結婚してと、まわりから抑圧があると話していた。またある障害を持つ既婚男性は、働くことができず育児をしており、生計は妻の収入で立てている。男のくせに働きもせず育児をし、その上 妻の収入で生計を立てていると言われ、さらに障害者のくせに結婚してと、まわりから抑圧があると話ていた。
 多分、多くの障害者は、障害があるから男性として/女性として充分に役割を果たすことができないのだと言うと思う。しかしこれはまったく反対。障害があるから男性として/女性として充分に役割を果たすことができないのではなくて、ヘテロセクシズムによって社会が構成されているから障害者がそれに苦しみ、囚われ、自由に生きられない。そこのところ、多くの障害者は勘違いをしている。
 このことが、障害者のなかでホモフォビアを強化する結果になっている。何故なら、従来のヘテロセクシズムが当然と思い込み、縛られると同時に、ホモフォビアが強化されてしまうから。先ほども言ったように、男らしくあろうとすればするほど、その裏にはホモフォビアが強化される。このことから、ホモフォビアとヘテロセクシズムは密接な関係にあると言える。
 具体例
 つい先日秋田で行われた全国障害者市民フォーラムで、分科会で障害者と性を取り上げられていたが、そのテーマは「障害者の恋愛結婚、障害者だって合コンがしたい」でした。この市民フォーラムは2年に一度開かれる全国規模のもので、実は、僕はその前の鳥取で開かれた市民フォーラムにパネリストとして呼ばれて行きました。それで、今回の市民フォーラムでもなんらかの形で盛り込まれるのかと思っていたら大はずれでした。そこで僕は前回の経緯もあるのに、何故、セクシュアル・マイノリティも参加できるような企画にされなかったのかと、秋田の実行委員会に問い合わせた。返ってきた対応はとてもひどいものでした。「異性愛の障害者でさえが現実問題大変なのに、そこにゲイやバイセクシュアルなどのセクシュアル・マイノリティを入れる余地はない」と、いったものでした。確かに、障害者と性が語られ出したのはここ数十年あまりで現実問題としてまだまだ理解されていない面がある。しかしだからと言って、セクシュアル・マイノリティを入れる余地はないというのは、おかしな話。この対応から見えるのは、明らかに障害者自身がヘテロセクシズムの陥穽にはまってしまっている。そして、ヘテロセクシズムに安住するためにセクシュアル・マイノリティを排除し、ホモフォビアを強化した。
 その後、市民フォーラムの実行委員長から謝罪と、今後障害者と性の分科会を開く機会があれば、セクシュアル・マイノリティの問題も取り上げていきたいとのお返事を頂きました。

5 問題の整理
 これまで異性愛の障害者がおかれてきた状況とセクシュアル・マイノリティの現状は、多くの点で共通した課題を持っていると考えている。セクシュアリティは違っても、同じテーブルについて話すことが可能。逆に、テーブルから排除することによって、これまで健常者が障害者にしてきた二の舞を踏むことになり、また、障害者自身も健常者がゲイに対する偏見や予断を行っていることと、まったく同じことをしていることになる。今後、いかにしてお互い同じテーブルに着くことができるかが大きな焦点になってくると思われる。
 これまでの話から、次の二点に問題を整理することができる。
1.障害者自身がヘテロセクシズムによって抑圧されていながら、ヘテロセクシズムの存在に気づいていない。
2.障害者はヘテロセクシズムの存在に気づかないまま、内なるヘテロセクシズムに合わせようとしている。
 この障害者の内なるヘテロセクシズムについては今までまったく議論されてきませんでした。それは、障害者と性が語られ出した歴史が浅いから仕方がないと言えるかもしれません。しかし、だからと言って何の疑問の余地もなく健常者のつくりあげたヘテロセクシズムを受け入れてよいのか、きちんとヘテロセクシズムの中身について考える必要があるのではないか。
 セクシュアル・マイノリティの存在を打ち出したときに、よく「異性愛の障害者でさえが」という言い方をされる。これは明らかに多数者が先で少数者は二の次といった価値観の序列を意味している。セクシュアリティについては、いかなる区別も、いかなる価値観の序列もつくってはいけない。
 これまで障害者は、ヘテロセクシズムにふさわしくないとして恋愛や結婚の機会を奪われてきた。それに対して障害者は恋愛や結婚は、一人の人間として当然であると主張してきた。この主張は、ある意味で正しい。しかしそのことだけに目を向けてきたところに問題がある。そのような一方的・一面的な見方でなく、障害者がいかにしてヘテロセクシズムの陥穽にはまることなく自分らしい生き方を選択することができるのか、といった見方も必要。
 別の言い方をすれば、障害者がヘテロセクシズムからなおざりにされてきたからこそ、それを逆手にとってヘテロセクシズムの陥穽にはまることなく、多様な生き方を選択できる可能性を持っている。しかし、障害者がヘテロセクシズムにふさわしくないと、なおざりにされてきた歴史的事実については、決して容認できるものではない。

6 七色セクシュアリティ:LGBTIHA
 Lesbian :古代ギリシャの女性詩人サッフォーが女性たちを集めて暮らしたレスポス島に由来すると言われている。
 Gay :アメリカでは、Gay Men/Gay Women と言うが、日本では男性同性愛者を指す場合がほとんど。レズビアン/ゲイをまとめて同性愛者と言う。
 「同性愛って何ですか」と、聞いてくる人がいるが、何故そのことを問わなければないかを、その人自身が考えなくてはならない。裏を返せば、質問者は問われる/疑われる必要のない安全装置のなかにいるからだ。安全装置のなかにいられる保証を獲得するために、このような質問をしなければならないのだ。
あえて説明するとすれば、「同性と親密なまたは性的な関係を持つ人たち」と、なると思う。
 Bisexual:両性愛。これは、いろいろな意味でとらえられている。きちんとした説明をしようとすれば、「人を恋愛の対象とする時に相手の性別が関係ないかまたは重要ではない人たち」と、なると思う。 
トランス系
Transgender :身体的性別と心の性別にギャップのある人たち。つまり、「身体的性別と反対の心の性別を持ち、心の性別で生きていこうとする、あるいは社会に対してもそのように認めてほしいと望んでいる人たち」と、なると思う。 Transsexual :基本的にはトランスジェンダーと同じ。トランスジェンダーと大く異なるのは、「性転換手術を必要としている、あるいは性転換手術をしなければ自己肯定できない人たち」と、なると思う。
Transvestite:日本語で異性装と言う、女装・男装を好む人たち。このなかには、異性愛者も同性愛者も含まれる。ただし、パーティーやお祭りなどでの仮装、フェチシズムによる異性装は除く。 トランスジェンダーやトランスセクシュアルの人たちの存在は、人間の性別、つまり身体的性別と心の性別が必ずしも一致しないことを教えてくれる。人間の性別については、レジュメの参考文献のアジャパーWEST創刊号に書いた「公衆トイレから性別を考える」で詳述している。
 また、これら3つのトランス系と呼ばれるものは明確な境界線がある訳ではない。
「とりあえず」の説明をしたが、個人個人によって微妙なところがあり、流動性がある。
 ちなみに、ニューハーフという言い方があるが、これには異性愛、ゲイに関係なく女装する人たちや、トランスセクシュアルも含まれるが、こちらは職業的名称のニュアンスが強い。
 Intersexual :半陰陽・ふたなり。人は生まれた時にペニスの有無で、性別が決まるが、インターセクシュアルは、簡単に言うと、「身体的性別である外性器(ペニス・クリトリス)や内性器(前立腺・子宮)が曖昧な人たち」と、なると思う。
 Heterosexual:異性愛。異性愛以外が説明を求められて、異性愛は説明を求められないのは不平等なので、確認の意味も含めて説明すると、石川准さんの言葉を借りれば、「人はなぜ認められたいのか」(旬報社)のなかで「自分の性的指向が異性に向かうことを確認したときに、人は自分が男であること、女であることを再確認します。異性愛者であることを再確認しているわけではない(中略)それは疑われたことはないのです。」と、言っておられます。
 つまり、異性愛者は異性愛であることをわざわざ確認しなくてもよい存在。もし異性愛者が異性愛であることを確認しなければならない場面があるとしたら、同性愛者を現前にした時。 
具体例 ある男性が一見何の変哲もない飲み屋に入りました。なかに入ってみると、カウンターのなかの店員や客はみな女性だった。しばらくして男性は、その店の雰囲気や交わされる会話からレズビアン・バーであると気づく。その次の瞬間、男性は現前に「男性」を性的対象としない女性がいることを知り、「女性は男性を性的対象とするもの」と思い込んでいた既成概念が崩れ去り、これまでの自分の性的ありようが揺すぶられ、恐怖すら感じたと言う。
 まさしくそれは男性にとって「疑われたことがない」ものだった。疑われる必要のないもの、すなわちそれはヘテロセクシズムという名の安全装置なのである。
 何故異性愛者は、疑われる必要のない安全装置のなかにいられるのか。それは、同性愛者を貶めているから。実は異性愛者が異性愛者でいられるのは、同性愛者が否定的なレッテルを貼られているから。逆に言えば、同性愛者の否定的レッテルなくして異性愛者の足元を確立できない。つまり、異性愛は同性愛でないことの裏返し、同性愛者の否定的レッテルなくして、異性愛である確証を保ち、支えることができない。すなわち、異性愛者のアイデンティティは同性愛者によって支えられていると言うことができる。
 Asexual :人間には必ず性欲があるという大前提によって成り立っている社会のなかで、「性欲を持つことを強制・強要されたくない、性欲を持たない人たち」と、なると思う。あえて日本語で言うとすれば、無性欲者となる。


7 ヘテロセクシズムの社会的側面の一考察 具体例
 NHKが放送している「プロジェクトX挑戦者たち」という番組、昨年12月19日に放送された「女たちの10年戦争」〜「男女雇用均等法」誕生〜。
 内容としては、男女雇用均等法が成立するまでの女性たちの奮闘が描かれていた。そのなかで、男女雇用均等法の成立に対して男性の反対があり、ある会社の幹部が「女性差別があるからこそ、会社が成り立っている」と、紹介された。これは、日本の社会が男性中心に成り立っていることを象徴している。
 日本の社会は男性同士の結びつきが強く、男性だけでつくる集団、男性同士の結びつきによって動かされている社会。この男性同士の結びつきができるためには、男性がみな異性愛であることが必要不可欠な条件として位置づけられる。
 一方男性である優越感は、女性を私的な獲得物として家庭に閉じ込めることで定義されている。だから男性中心社会から、女性を排除しようとする。これが、ミソジニー(Misogyny)。つまり、ミソジニーを土台として男性中心社会が成り立っている。
【ミソジニー】女性を貶め排除しようとする感情及び言動。 この男性中心社会をかく乱する要因として、男性を性的対象とするゲイの存在が挙げられる。男性中心社会を維持するためには、男性を性的対象とするゲイを排除しなければならない。これが、ホモフォビアへとつながっていく。これは同時に、ミソジニーとホモフォビアが密接な関係にあることを示している。その根拠として結婚制度を挙げることができる。 結婚制度は、男性が女性を私的な獲得物として家庭に閉じ込めておく、あるいは女性をコントロールできる支配下に組み込むことのできる装置である側面がある。これは、女性の存在が男性中心社会をかく乱するもう一つの要因とされているからだ。だからこそ、男性中心社会から女性を排除もしくは、コントロールすることが必要。
 もう一つ結婚制度には、「公認された異性愛者」であることを証明してくれる側面がある。男性中心社会のなかでゲイという汚名から保護するための装置である。 

具体例
 有名人にホモ疑惑が持ち上がった時、しばしば婚約会見が開かれる。 これは最もこのことを良く表している。つまり、ゲイでない証明である結婚を経て男性中心社会が強化され、維持されている。 


参考及び引用文献
アドリエンヌ・リッチ(大島かおり訳) 1989 「強制的異性愛とレズビアン存在」
 『血、パン、詩』晶文社
石川准 1999 「人はなぜ認められたいのか」 旬報社
エーヴィ・コルベリイ・イヴォン・フォルケソン(河東田博・河東田誠子訳) 1994
 「性について話しましょう」 大揚社
エリザベート・バダンテール(上村くにこ・饗庭千代子訳) 1997 「XY−男とは何か」 筑摩書房
エリック・マーカス(金城克培訳) 1997 「Q&A同性愛を知るための基礎知識」
 明石書店
小田切明徳・橋本秀雄 1997 「インターセクシュアル(半陰陽者)の叫び」 かもがわ出版
掛札悠子 1992 「『レズビアン』である、ということ」 河出書房新社
風間孝・キース・ヴィンセント・河口和也 1998 「実践するセクシュアリティ」 
動くゲイとレズビアンの会
キース・ヴィンセント・風間孝・河口和也 1997 「ゲイ・スタディーズ」 青土社
花田実 1996a  「障害者とゲイの狭間で――マージナル・マンからの提言」 クィア・スタディーズ編集委員会 『クィア・スタディーズ’96』 七つ森書館
花田実 1996b  「ボクがボクであるために」 障害者の生と性の研究会 『知的障害者の恋愛と性に光を』 かもがわ出版
花田実 2000a  「公衆トイレから性別を考える」 『アジャパーWEST』 創刊号発行人・大西純(まこと)
花田実 2000b  「『ゲイで、障害者で』あることないこと――ボクがボクを受け入れるまで」『アジャパーWEST』 2号 発行人・大西純(まこと)
花田実 2001 「ゲイからのメッセージ――異性愛中心の“当然”という『こころの壁』。」『WE'LL 』 VOL26 アテックインターナショナル
“人間と性”教育研究協議会編 1995 「障害者・マイノリティの性と性教育」 シリーズ 科学・人権・自立・共生の性教育 第5巻 あゆみ出版
平野広朗 1994 「アンチ・ヘテロセクシズム」 現代書館伏見憲明 1996 「クィア・パラダイス」 翔泳社
松尾寿子 1997 「トランスジェンダリズム」 世織書房メンズセンター 2000 
「男の子の性の本」 解放出版社

レジュメは以下にも掲載。
http://homepage2.nifty.com/M-hanada/kouen/20011027r.htm

 障害学研究会関東部会           2001年10月27日
テーマ 「セクシュアルマイノリティ−特に障害を持つゲイから見た社会」

 まず初めに簡単に自己紹介をします。仏教大学通信教育で社会福祉学科を就学期限ぎりぎりで卒業。その間に、障害者運動やゲイ・リベレーションと出会い、後で詳しくお話しますが、自分自身の問題として「障害者と性」や「ゲイ」について考えるようになりました。
 そのうち、大学の勉強がおもしろくなくなってきて、卒業単位をそっちのけにして、障害者と性やゲイに関する文献や論文を読む日々を3年間ぐらい費やしました。その間に、女性学にも興味を持ちジェンダーという言葉に出会い、ますます楽しくなっていきました。と、まぁ、自己紹介はこれくらいにして早速本題に入っていきます。
 僕が今まで読んだ障害者と性に関するそのほとんどが異性愛について書かれたもので、ゲイについてふれられているのは皆無でした。ただ、唯一と言っていいでしょう。ゲイについてふれられていたものがあります。エーヴィ・コルベリイの「性について話しましょう」大揚社。これは、知的障害者向けに書かれたものです。〓このなかでは、ゲイは異常ではなく自然なこととして取り上げられています。またゲイに関するものについては、異常、倒錯と言った否定的なものが多く、肯定的にとらえているものは少なかった。
 僕が当時求めていた障害とゲイに関する情報がほとんどなかった。ないなら自分で創るしかないと思った。しかしこれは、実際大変骨が折れる作業です。どこにもモデルがないのですから。逆に、モデルがないからやりやすかったという言い方もできます。モデルがないからやりやすいというのは、下手をすると自分だけの世界、独り善がりの世界に陥ってしまう危険性も同時に孕んでいますから、自分一人だけではないことをどうしても証明しなければならなかった。と同時にそれは、僕は障害をもつゲイである確信を得る、すなわちアイデンティティを確立させるためでもあった。
 具体的には、ゲイの自助団体のなかに障害を持つゲイのセクションを創り、その代表を務めたこともありますし、それ以前に当時ニフティ・サーブに入りそのなかの障害者フォーラムのセクシュアリティに関する会議室で旭さんとお会いすることになったのです。
 これを皮切りにどこで知ったか、新しくセクシュアリティフォーラムを創るから、障害者も視野に入れたいのでボードリーダーになってくれと依頼され、そのあともズルズルときまして今は、性と社会を語るフォーラムスタッフをしています。
 これらの活動を通して、あっ、やっぱり、自分一人だけじゃないんだという実感が湧いてきました。自分一人だけじゃない。これを実感することが実はとても大切で、とても困難で、とてもエネルギーのいることなのです。これだけ性に関する情報が氾濫している現在ですら、必要な情報を得るのはとても困難な状況です。ましてや、障害とゲイになると、その情報は今でも皆無に近い状態で、別に自負するつもりはありませんが、僕はそういった意味でも情報を流し続けたいと思っています。
 やっぱり、自分一人だけじゃないんだと思えるのは、これまでの活動を通していろんな方が僕のところにコンタクトがあったからです。〓例えば一人で外出できない男性障害者が、男性のエロビデオを見たい・買いたい、どうしたらいいか。この場合、わざわざ店まで行かなくてもインターネットの通販で買えますよと、サイトを教えてあげる(一人でこっそり見られるかという問題もありますが、それはひとまずおいておく)。また、わりと軽度な方だとは思いますが、ある日女装専門の店に入って女ものの下着を買ったら急に女装をしたくなった。中年にもなった男性が女装するなんておかしいと思われるのではないか。この場合、誰に迷惑をかけている訳でもないのだから、楽しんだらよろしいと言ってあげる。これ、重度の方だとちょっと難しいかもしれません。「女装したい」と言われて、はいそうですかと言って介護者が女装させてくれるのか。〓ちょっと深刻な例では、24時間介護が必要な男性障害者が一人の男性介護者に好意を持った。ある日、彼はそれを介護者に告白した。するとほかの男性介護者にも広まってしまって、男性介護者は一切彼に寄りつかなくなってしまった。この後どうなったのかは詳しく知りませんが、何度か話しを重ねるうちにやっぱりそれはおかしいという話しになったそうです。
 こうした方々とコミュニケーションをとるうちに、障害を持つゲイは自分一人だけじゃない、障害者にもいろんなセクシュアリティを持っている人がいるんだってことがわかってくる。そうすると、「しんどいのは僕だけじゃないんだ」と思えるようになる。僕と同じように悩んでいる、情報を求めてくる人たちに情報を提供することができる。そこで何となく、「しんどさ」を共有することができるのではないかと思います。
 さて次に、障害とゲイ二つのアイデンティティが僕のなかでどのように形成し確立していったのか、その辺のマージナルなお話しをもう少し詳しくしていきたいと思います。
 障害をどのように受け入れてきたか。言い換えれば、自分のボディ・イメージをどのように受け入れてきたのか。鏡に映った自分の姿にしろ、常に障害を持った自分と向き合わなければならない。 例えば、僕が道を歩いていると、向かいから学生服を着た数人の女性が歩いてくる。彼女らが僕の方を見てソワソワと、何かを確認するかのように互いの目を合わせクスクスと笑っている。そして僕とすれ違う瞬間、大声を出して逃げ去る。それはあたかも汚いものや気持ち悪いもの、恐いものを目の当りにして逃げ去っていくような 場面です。
 健常者に限らず、障害者からも同じような待遇を受けました。僕は、一年間障害者の職業訓練校で寮生活をしたことがありますが、そこで女性障害者から、あからさまに気持ち悪がられる言動をとられました。通路ですれ違う時に大声を出して慌てて避けて通っていった。しかもそれは、一人がそのような言動を取ると、まわりにも波及していった。
 僕は、障害を持った体を好きにはなれませんでした。そして、誰も僕を愛してはくれないのではないかと思っていました。障害を持った体から抜け出したい気持ちが強かった。この体から抜け出して健常者の体を手に入れることができれば、僕はきっと自分を好きになれるだろうし、誰からも愛されるはずだと思い、自分のありのままの姿を直視することを避けていました。しかし一方では、この体から抜け出せないこともわかっていました。この体からなんとかして抜け出し健常者の体を手に入れたい気持ちと、抜け出すことができない現実との狭間で葛藤を繰り返していました。
 僕が健常者の体に近づけたいと思ったもう一つの理由は、社会が障害者に対して付与した気持ち悪いなどといったイメージを僕自身が内面化していたことが挙げられます。そしてそのことによって、僕の体は、既存の男らしいとされているイメージからは程遠く、男性的な価値や要素を持っていないのではないかと思っていました。〓つまり僕が、男らしいとされる男性になるためには、障害を持つ体を否定しなければなりませんでした。こうした既存の男らしさは、障害を肯定するまでの過程でも、これからお話するセクシュアリティを肯定するまでの過程でも、大きな弊害となりました。
 一方、ゲイをどのように受け入れてきたかについてお話したいと思います。高校生の頃、漠然と男性に惹かれる気持ちに気がついていた。特定の男性を見ると、なぜか胸がドキドキしたことを鮮明に覚えています。これはいったいなんだろう? まわりの男友達からは、男性を見てドキドキしたといった話は聞いたことがありませんでした。もっぱら彼女をつくる話や結婚の話をしていました。しかし僕は、そのような話には興味がなく、反対に違和感を持っていました。
 高校を卒業してからは、男性に性的魅力を感じる気持ちが強くなっていきました。しかし、僕はそれを受け入れたくなかった。何故なら、当時入手できたゲイに関するほとんどの情報が、変態・オカマなどと揶揄・嘲笑した情報でしかなく、僕はあんな気持ち悪い変態になりたくないと、男性に性的魅力を感じる気持ちを否定していたからです。男性に性的魅力を感じる自分と、それを受け入れたくない自分との間で葛藤を繰り返していました。
 これまでの障害者ではない・ゲイではないといった内なる二重否定は、今だからまったく別のものであると言えますが、当時の僕のなかでは、ほとんど並行し混沌とした状態で存在していました。〓男らしいとされる男性として認められるためには、障害のある体を否定しなければならなかった自分と、現実的には不可能であることの葛藤、そして男性に対する性的魅力を感じる自分と、それを受け入れたくない拒否感との葛藤、この二つの葛藤の交錯であったと言えます。〓そしてこの両者の葛藤の間には、何か重大な関係があるように思えてならなかった。何故なら、健常者の体を手に入れることができれば、僕の性的なあり方や生き方が変わるのではないか、いや変わるはずだと思っていたからです。もちろん今は、この両者の葛藤は、まったく別のものであると言えます。
 この内なる二重否定を支えていたのは、レジュメの図にもあるように既存の男らしさでした。そしてその男らしさの根底には、ゲイに対するホモフォビア(Homophobia)が含まれていたのです。つまり男らしくあろうとすればするほど、その裏には「僕は女性を好きになることができる男性で、あんな気持ち悪い人たちと同じではない」といった、ゲイに対するホモフォビアが存在していたのです。〓社会が障害者に対して付与した気持ち悪いなどといったイメージを僕自身が内面化していたこと同様、社会がゲイに対して付与した気持ち悪いなどといったイメージも同時に内面化していたのです。ホモフォビアとは、同性愛に対する嫌悪感や攻撃、恐怖感を言います。
 混沌とした内なる二重否定の状態から抜け出すためには、次の二つの手続きをしなければならなかった。一つは、僕のなかでつくられた男らしさのイメージを打ち砕き自分のボディ・イメージを肯定すること、そしてもう一つは、ゲイに対するホモフォビアを克服することでした。さらにこの両者を同時に肯定もしくは克服しなければならなかった。そうすることによって初めて僕は障害者であることと、ゲイであることを肯定することが可能になり、それはやがて自己肯定へとつながり、ありのままの自分を受け入れることができるようになった。
 さて次に、現在語られている障害者と性についてお話したいと思います。これまで障害者と性というと決まって異性愛の内容に終始してきました。これは、現在の日本の社会が異性愛主義だからです。異性愛主義、すなわちヘテロセクシズム(Heterosexism)です。ヘテロセクシズムを最初に使ったのは、アドリエンヌ・リッチ(Rich, Adrienne)です。リッチは、「強制的異性愛とレズビアン存在」(Compulsory Heterosexuality and Lesbian Existence, 1980)のなかで、強制的異性愛(Compulsory Heterosexuality)という言葉を使っています。そこから異性愛主義、ヘテロセクシズムが使われ始めました。この強制的異性愛について、リッチは明確な定義をしていません。また僕が調べた範囲では、ヘテロセクシズムを明確に定義したものはありませんでした。
 あえて僕が定義すると、異性愛を前提とし、結婚し子どもをつくり、家族を一つの単位と見なし様々な法的制度(健康保険・年金・家族手当・遺産相続・所得税控除など)によって経済的に優遇される社会であると同時に、健常者の男性に有利に働く社会システムとなります。
 実は、これまでの障害者と性の課題は、この社会の前提としているヘテロセクシズムの上にのっかった形で展開しています。これはすごく大事で、これまでの障害者と性の課題に取り組んでいる多くの人は、ヘテロセクシズムの上にのっかっているとは思っていないし、気づいてもいない。知らず知らずのうちに、それは当然だ、当たり前だと思い込んでしまっています。実はこのヘテロセクシズムは、セクシュアル・マイノリティのみならず、障害者をも抑圧してきたのです。
 ヘテロセクシズムと言うのは、先程も申し上げました通り、異性愛を前提とし、結婚し子どもをつくり、家族を一つの単位とみなしていますから、このシステムに適当でない・ふさわしくないとして障害者が排除されてきたのです。
 その端的な例が、女性障害者の子宮摘出です。健常者が女性障害者の子宮を摘出するように追いこんでいく背景には、女性は健全な子どもを産んでこそ価値があるのだとされていることが考えられます。女性障害者は、健全な子どもを産むことができないから、女性としての価値がないものとして扱われます。だからこそ女性障害者自身が尊重されないまま、子宮摘出が行われるのです。
 また、人並みに結婚できたと思っている障害者もこのヘテロセクシズムに阻まれます。例えば、ある障害を持つ既婚女性は、家事などの女性としての役割を充分に果たせない、障害者のくせに結婚してと、まわりから抑圧があると話していました。またある障害を持つ既婚男性は、働くことができず育児をしており、生計は妻の収入で立てている。男のくせに働きもせず育児をし、その上妻の収入で生計を立てていると言われ、さらに障害者のくせに結婚してと、まわりから抑圧があると話していました。このように、障害者と性の課題の様々な局面で、ヘテロセクシズムが弊害しているのです。
 このように言うと、多分、多くの障害者は、障害があるから男性として/女性として充分に役割を果たすことができないのだと言うと思います。しかしこれはまったく反対だと思います。つまり、障害があるから男性として/女性として充分に役割を果たすことができないのではなくて、ヘテロセクシズムによって社会が構成されているから障害者がそれに苦しみ、囚われ、自由に生きられないのです。そこのところ、多くの障害者は勘違いをしています。
 そしてこのことが、障害者のなかでホモフォビアを強化する結果になっています。何故なら、従来のヘテロセクシズムが当然と思い込み、縛られると同時に、ホモフォビアが強化されてしまうからです。先ほども言ったように、男らしくあろうとすればするほど、その裏にはホモフォビアが強化されます。このことから、ホモフォビアとヘテロセクシズムは密接な関係にあると言えます。
 もう一つ例を挙げると、つい先日秋田で行われた全国障害者市民フォーラムでも、分科会で障害者と性を取り上げられていましたが、そのテーマは「障害者の恋愛結婚、障害者だって合コンがしたい」でした。この市民フォーラムは2年に一度開かれる全国規模のもので、実は、僕はその前の鳥取で開かれた市民フォーラムにパネリストとして呼ばれて行きました。それで、今回の市民フォーラムでもなんらかの形で盛り込まれるのかと思っていたら大はずれでした。そこで僕は前回の経緯もあるのに、何故、セクシュアル・マイノリティも参加できるような企画にされなかったのかと、秋田の実行委員会に問い合わせたのです。〓返ってきた対応はとてもひどいものでした。「異性愛の障害者でさえが現実問題大変なのに、そこにゲイやバイセクシュアルなどのセクシュアル・マイノリティを入れる余地はない」と、いったものでした。確かに、障害者と性が語られ出したのはここ数十年あまりで現実問題としてまだまだ理解されていない面があります。しかしだからと言って、セクシュアル・マイノリティを入れる余地はないというのは、おかしな話です。この対応から見えるのは、明らかに障害者自身がヘテロセクシズムの陥穽にはまってしまっているのです。そして、ヘテロセクシズムに安住するためにセクシュアル・マイノリティを排除し、ホモフォビアを強化したのです。
 その後、市民フォーラムの実行委員長から謝罪と、今後障害者と性の分科会を開く機会があれば、セクシュアル・マイノリティの問題も取り上げていきたいとのお返事を頂きました。
 僕は、これまで異性愛の障害者がおかれてきた状況とセクシュアル・マイノリティの現状は、多くの点で共通した課題を持っていると考えています。ですから、セクシュアリティは違っても、同じテーブルについて話すことが可能です。逆に、テーブルから排除することによって、これまで健常者が障害者にしてきた二の舞を踏むことになり、また、障害者自身も健常者がゲイに対する偏見や予断を行っていることと、まったく同じことをしていることになります。〓そしてそれは、多くの点で共通した課題を持っているにもかかわらず、テーブルから排除することによって、異性愛の障害者自身が不利益を被っていると考えています。今後、いかにしてお互い同じテーブルに着くことができるかが大きな焦点になってくると思います。
 これまでお話した事実から、次の二点に問題を整理することができます。まず一つ、障害者自身がヘテロセクシズムによって抑圧されていながら、ヘテロセクシズムの存在に気づいていない。そして二つ、障害者はヘテロセクシズムの存在に気づかないまま、内なるヘテロセクシズムに合わせようとしている。
 この障害者の内なるヘテロセクシズムについては今までまったく議論されてきませんでした。それは、障害者と性が語られ出した歴史が浅いから仕方がないと言えるかもしれません。しかし、だからと言って何の疑問の余地もなく健常者のつくりあげたヘテロセクシズムを受け入れてよいのか、きちんとヘテロセクシズムの中身について考える必要があるのではないか。〓そして、障害を持つセクシュアル・マイノリティがいるにもかかわらず、その存在をなおざりにし、排除し、無視してもよいのか。逆に、歴史が浅いからこそ、柔軟性を持っていると言えるのではないか。
 セクシュアル・マイノリティの存在を打ち出したときに、よく「異性愛の障害者でさえが」という言い方をされます。これは明らかに多数者が先で少数者は二の次といった価値観の序列を意味しています。僕はセクシュアリティについては、いかなる区別も、いかなる価値観の序列もつくってはいけないと考えています。
 これまで障害者は、ヘテロセクシズムにふさわしくないとして恋愛や結婚の機会を奪われてきました。それに対して障害者は恋愛や結婚は、一人の人間として当然であると主張してきました。この主張は、ある意味で正しいと言えます。しかしそのことだけに目を向けてきたところに問題があります。〓何故なら、それは障害者がいかにしてヘテロセクシズムを権利として獲得するのか、といった話でしかないからです。そのような一方的・一面的な見方ではなく、障害者がいかにしてヘテロセクシズムの陥穽にはまることなく自分らしい生き方を選択することができるのか、といった見方も必要です。
 別の言い方をすれば、障害者がヘテロセクシズムからなおざりにされてきたからこそ、それを逆手にとってヘテロセクシズムの陥穽にはまることなく、多様な生き方を選択できる可能性を持っていると言えます。しかし、障害者がヘテロセクシズムにふさわしくないと、なおざりにされてきた歴史的事実については、決して容認できるものではありません。

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 最後に、社会の方へと視野を広げていきたいと思います。セクシュアル・マイノリティって一口に言いますけれど、具体的にどんな方たちなのでしょうか。僕は勝手に「七色セクシュアリティ」と名づけ、その頭文字をとって、LGBTIHAと呼んでいます。レジュメにもありますように、LはLesbian (レズビアン)。古代ギリシャの女性詩人サッフォーが女性たちを集めて暮らしたレスポス島に由来すると言われています。
 GはGay (ゲイ)アメリカでは、Gay Men/Gay Women と言いますが、日本では男性同性愛者を指す場合がほとんどです。レズビアン/ゲイをまとめて同性愛者と言います。これから僕が特に断りなく同性愛者と言った場合、両者を含むと思って下さい。
〓よく「同性愛って何ですか」と、聞いてくる人がいるんですが、これは後でも言いますが、何故そのことを問わなければないかを、その人自身が考えなくてはなりません。裏を返せば、質問者は問われる/疑われる必要のない安全装置のなかにいるのです。その安全装置のなかにいられる保証を獲得するために、このような質問をしなければならないのです。あえて説明するとすれば、「同性と親密なまたは性的な関係を持つ人たち」と、なると思います。
 BはBisexual(バイセクシュアル)両性愛です。これは、いろいろな意味でとらえられています。きちんとした説明をしようとすれば、「人を恋愛の対象とする時に相手の性別が関係ないかまたは重要ではない人たち」と、なるかと思います。 Tはトランス系と呼ばれていまして、3つあります。一つは、Transgender (トランスジェンダー)身体的性別と心の性別にギャップのある人たちです。つまり、「身体的性別と反対の心の性別を持ち、心の性別で生きていこうとする、あるいは社会に対してもそのように認めてほしいと望んでいる人たち」と、なるかと思います。〓二つは、Transsexual (トランスセクシュアル)性同一性障害と言えばわかりやすいかと思いますが、基本的にはトランスジェンダーと同じです。トランスジェンダーと大く異なるのは、「性転換手術を必要としている、あるいは性転換手術をしなければ自己肯定できない人たち」と、なるかと思います。〓もう一つは、Transvestite(トランスベスタイト)日本語で異性装と言いますが、女装・男装を好む人たちです。この
なかには、異性愛者も同性愛者も含まれます。ただし、パーティーやお祭りなどでの仮装、フェチシズムによる異性装は除きます。
 トランスジェンダーやトランスセクシュアルの人たちの存在は、人間の性別、つまり身体的性別と心の性別が必ずしも一致しないことを教えてくれます。人間の性別については、レジュメの参考文献のアジャパーWEST創刊号に書いた「公衆トイレから性別を考える」で詳述していますので、そちらをご覧頂ければと思います。また、これら3つのトランス系と呼ばれるものは明確な境界線がある訳ではありません。とりあえずの説明をしましたが、個人個人によって微妙なところがあり、流動性があります。ちなみに、ニューハーフという言い方がありますが、これには異性愛、ゲイに関係なく女装する人たちや、トランスセクシュアルも含まれますが、こちらは職業的名称のニュアンスが強いです。
 話が少しそれましたのでもとに戻します。IはIntersexual (インターセクシュアル)日本語で半陰陽・ふたなりと言います。人は生まれた時にペニスの有無で、性別が決まりますが、インターセクシュアルは、簡単に言うと、「身体的性別である外性器(ペニス・クリトリス)や内性器(前立腺・子宮)が曖昧な人たち」と、なるかと思います。
 HはHeterosexual(ヘテロセクシュアル)異性愛。これは皆さん説明いりませんね。と、言っても異性愛以外が説明を求められて、異性愛は説明を求められないのは不平等なので、確認の意味も含めて言いますと、石川准さんの言葉を借りれば、「人はなぜ認められたいのか」のなかで「自分の性的指向が異性に向かうことを確認したときに、人は自分が男であること、女であることを再確認します。異性愛者であることを再確認しているわけではない(中略)それは疑われたことはないのです。」と、言っておられます。つまり、異性愛者は異性愛であることをわざわざ確認しなくてもよい存在なのです。〓もし異性愛者が異性愛であることを確認しなければならない場面があるとしたら、同性愛者を現前にした時でしょう。一つ例を挙げますと、ある男性が一見何の変哲もない飲み屋に入りました。なかに入ってみると、カウンターのなかの店員や客はみな女性だったのです。しばらくして男性は、その店の雰囲気や交わされる会話からレズビアン・バーであると気づきます。その次の瞬間、男性は現前に「男性」を性的対象としない女性がいることを知り、「女性は男性を性的対象とするもの」と思い込んでいた既成概念が崩れ去り、これまでの自分の性的ありようが揺す
ぶられ、恐怖すら感じたと言います。まさしくそれは男性にとって「疑われたことがない」ものだったのです。疑われる必要のないもの、すなわちそれはヘテロセクシズムという名の安全装置なのです。
 何故異性愛者は、疑われる必要のない安全装置のなかにいられるのでしょうか。それは、同性愛者を貶めているからです。実は異性愛者が異性愛者でいられるのは、同性愛者が否定的なレッテルを貼られているからなのです。逆に言えば、同性愛者の否定的レッテルなくして異性愛者の足元を確立できない。つまり、異性愛は同性愛でないことの裏返し、同性愛者の否定的レッテルなくして、異性愛である確証を保ち、支えることができないのです。すなわち、異性愛者のアイデンティティは同性愛者によって支えられていると言うことができます。
 さて最後にAがありますが、今までお話してきたセクシュアリティは全てあることを前提にしています。それは人間の根幹にもかかわることで、おそらく誰も疑ったことはないと思います。と言っても、障害者だけは特別視されてきましたが。それは、人間には必ず性欲があるという大前提です。AはAsexual (アセクシュアル)です。人間には必ず性欲があるという大前提によって成り立っている社会のなかで、「性欲を持つことを強制・強要されたくない、性欲を持たない人たち」と、なるかと思います。あえて日本語で言うとすれば、無性欲者となります。本当に性欲がないのか、人間には必ず性欲があるといった大前提を強制・強要されたくないと思っているのか、僕はまだアセクシュアルの方とお会いしたことがないので何とも言えませんが。少なくとも、セクシュアリティとして存在すること自体疑う余地はありません。
 セクシュアル・マイノリティの運動をしている人のなかでもLGBTまではよく耳にするのですが、IHAについては、ほとんど耳にしません。やはり僕は、IHAについてもきちんと頭の片隅に入れておくべきだと考えています。このなかで、ヘテロセクシュアルがマイノリティだとは思いませんが、多様なセクシュアリティのなかの一つとしてヘテロセクシュアルも入れています。
 ヘテロセクシズムについて、もう少しお話したいと思います。先の障害者のところでもお話しましたが、社会的側面としてどんな構造を持っているのかについて少しふれておきたいと思います。
 その前に一つ例を挙げたいと思います。NHKが放送している「プロジェクトX挑戦者たち」という番組があるのですが、ご存じの方も多いと思いますが、昨年12月19日に放送された「女たちの10年戦争」〜「男女雇用均等法」誕生〜、男女雇用均等法が成立するまでのドキュメントでした。
 内容としては、男女雇用均等法が成立するまでの女性たちの奮闘が描かれていました。そのなかで、男女雇用均等法の成立に対して男性の反対があり、ある会社の幹部が「女性差別があるからこそ、会社が成り立っている」と、紹介されました。これは、日本の社会が男性中心に成り立っていることを象徴しています。先ほどのヘテロセクシズムの定義でも言ったように、健常者の男性に有利に働く社会システムです。
 日本の社会は男性同士の結びつきが強く、男性だけでつくる集団、男性同士の結びつきによって動かされている社会です。この男性同士の結びつきができるためには、男性がみな異性愛であることが必要不可欠な条件として位置づけられます。一方男性である優越感は、女性を私的な獲得物として家庭に閉じ込めることで定義されています。だから男性中心社会から、女性を排除しようとする。これが、ミソジニー(Misogyny)です。つまり、ミソジニーを土台として男性中心社会が成り立っていると言えます。ミソジニーとは、女性を貶め排除しようとする感情及び言動を言います。
 この男性中心社会をかく乱する要因として、男性を性的対象とするゲイの存在が挙げられます。男性中心社会を維持するためには、男性を性的対象とするゲイを排除しなければならない。これが、ホモフォビアへとつながっていく。これは同時に、ミソジニーとホモフォビアが密接な関係にあることを示しています。その根拠として結婚制度を挙げることができます。
 結婚制度は、男性が女性を私的な獲得物として家庭に閉じ込めておく、あるいは女性をコントロールできる支配下に組み込むことのできる装置である側面があります。これは、女性の存在が男性中心社会をかく乱するもう一つの要因とされているからです。だからこそ、男性中心社会から女性を排除もしくは、コントロールすることが必要なのです。そしてこのことは、同時に男性が女性の連帯といったものに対して危機感・恐怖感を持っていることを意味しています。
 もう一つ結婚制度には、公認された異性愛者であることを証明してくれる側面があります。言わば、男性中心社会のなかでゲイという汚名から保護するための装置であると言えます。例えば、有名人にホモ疑惑が持ち上がった時、しばしば婚約会見が開かれますが、これは最もこのことを良く表しています。つまり、ゲイでない証明である結婚を経て男性中心社会が強化され、維持されているのです。
 以上で、報告を終わります。


REV:....20030218
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