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優生思想?・4

新書2のための連載・04

立岩 真也 2020/09/07 『eS』

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 この文章は、2020年中には出したいと思っていた本・2の草稿として準備を始めたものです。
 『介助の仕事』のための連載と異なり、順不同で書いていきます。今のところ、以下に記す取材時の記録を切り貼りしているだけのものです。だんだんと整理し、かたちを作っていきます。
 ここにおく註と文献表は、新書では大幅に減らされます、というよりなくすと思います。紙の新書をご購入いただいた方に有料で提供する電子書籍版には収録しようと思います。
 2021年の刊行になりました。7月には刊行していただきます。『eS』に連載?した文章(というか、方々で話したものの記録の抜粋)はそのままでは使えないので、大幅に書き直し書き足すます。〈Webちくま〉での連載をお願いしようと思っています。

◆立岩 真也 2021 『(本・2)』,ちくま新書,筑摩書房

優生学優生思想
優生学優生思想関連文献


 この7月に、ALSの人が嘱託殺人で死ぬというできごとがあったことが報じられ、その後、いくつか取材を受けたり、話したり書いたりすることがありました。そのなかで次のようなことを言っています。
◆2020/08/20 「ALS嘱託殺人事件から・上」,『京都新聞』
 「こうした〔「もし私なら死にたい」といった〕言葉を発する人は、「自分のことを言っているだけで、他人を非難しているわけではない」と思っているかもしれないが、それは違う。もはやヘイトクライムと言っていい。困難な状況で生きている人に対して、「わたしはあなたの状態が死ぬほどイヤです」というのは、相当強い否定だ。
 例えば、なんでもいいですよ、「私がもし黒人として生まれたら、生きていられない、死んじゃう」とかね。相手の属性・状態を、命という非常に重いものと比較して、それに劣ると指摘するのは犯罪的だ。
 しかも、発言者は、目の前にそうした状況が迫っていて、明日にでも死を選ぶのか、と言ったら全然そうではなく、自分は安全圏にいて言っている。
◆2020/08/22 「何が辛かったのだろう――「ALS嘱託殺人事件」に」,配信されず
 「例えば「ああなったら私は死ぬ」とSNSで言われる。それは病い・障害の状態を死より耐えがたいと強く否定する言葉だ。「自分が黄色人種だっら私は死ぬ」と言ったら、その人たちへの最大の侮蔑だろう。それとどれほど違うのかと考えてみたらよい。」
 ちなみに2つめは記事のための原稿が送られたきて、それは私の談話ということですから、あまり不正確なこととか誤解を生じさせるようなことがあってはならないわけで、なおしてこれでお願いしますということにしたのですが、採用してももらえず記事も配信されませんでした。そういうことがときどき、というほどではないですが、たまにあります。
 前回、米国における移民の制限の話をしましたが、もちろんそれと関わっています。黒人は奴隷として働かせるために連れてこられましたが、黄色い人たち他様々な人たちが排斥もされました。
○さてここでの問題の一つは、「人種」について「もし……だったら死ぬ」と言ったらそれはだめだとして、病や障害についても同じなのか、ということです。たぶん、私たちの多くは「…だったら死ぬ」と言ったりする時にそんなことを考えてはいません。しかし、私が以上のようなことを言うと、初めて気づいて、そのうえで「いや違う」と言ったりするわけです。とすると何が違うのか、違わないのか、先回りして考えておいてもよいということになります。
 また、やはり前回話したのは、「まちがい」と「強制」が問題にされたわけだが、ではまちがいでなかったどうなるのだという問いがあるということでした。原則的な答えはありますが、……

 要約:
 差別すること自体の快はあるだろう 加えて 利害

  〜やっかいなのは、差別をするにあたっての屁理屈があるのか、そうでもないのか、ときに判然としないことがあること。
  〜この問題をどう処理するか。:(屁)理屈が理屈になっていないことを言えれば、非難したり差別したりするのはだめだということにはなる。
  これが完全に成功する場合もある。ただ、議論がずっと続いてしまうこともある。
 排除することによる(職…に関わる)利得はありうる。とくに移民の問題・〜これは本書では指摘だけしておく。が、基本的には…

 不利益〜加害

  例えば感染による、…
 確率的〜統計的(講義録より)
 ゆえある差別どころか 差別でないとされる。だから殺されるわけではないとしても、死んでも仕方がないぐらいのことにはなる。
 そこで……このことを書いてきたので略
  もう一つ、正しいとかどうかは別に。資源の話〜(講義録より)
 負担〜 生産から 純粋に資源の危機ということもあるが 国境の問題が(ここでも)大きい
 人口の問題はつねに ただ時期によってかなり異なる
  人口爆発が心配されたのはそう昔のことではない。たった50年の間に何が起こったのか?
 能力の規範・価値:


■ゆえなき差別/たんなる差別
 こういう場合に限って「ゆえなき」とか言うので、「○○よりきたりし勇者たち」とか「○○に選ばれし戦士たち」とかアニメで言うのと同じで、すこし笑いますが、「ゆえのない」、わけがない、根拠がない、ということです。差別する側にというのと、差別される側にというのと、少なくとも2つはあります。(そもそも差別される側に「ゆえ」がないのは差別だともされるのですがこのことは後で説明します。)
 差別する側に理由があるか、あるいは利得があるか。理由と利得は同じではないですが、自覚しなくても、なにかするのは自分にとって益があるからだという話はまあそうだろうと認めてもよい、とすると、そんなに違わないとも言えます。さて、そのうえで、です。
 一つ、誹謗・中傷するすること自体の快というものがきっとあるのだろうと、差別すること、非難したりして、いい気持ちになるということがある、と言ってしまうことにします。
 そして、相手側は自分(たち)ではないので、自分たちは予め守られています。そして、相手方が自分ではない皆ということになると、味方がいないことになるけれども、自分側が複数いると心強いということもあります。
 これが差別すること自体による益だとすると、もう一つ、排除・排外に伴う実利的・物質的な利得のある場合があります。誰かたちを職場に入れないことができるのであれば、自分たちの職が保たれるとか、競争相手が少なく有利な待遇を得られるといったことがあります。そしてここでも、その不利益は、すくなくとも自分にはかかってこないということがあります。
 これは物質的なできごとです。実のところは私は、こちらの方の差別については別の人たちにやってもらうことにし、別の種類のことを考え書いてきたのではあります。ただ細かなことはおいて、おおまかなことは言えると思います。
 これは誰にとっても得ということではありません。雇う側にとっては、雇われたい人がたくさんいた方がよいので、基本は歓迎すかはずです。)〜ただ失業者にも対応しけてければならないとなると違ってきます。
 だから、得をする人たちは、安全な人たちですよ。差別をしなくてもだいじょうぶなのです。むしろ、安い労働力として入ってくるなら、……。そして、言語とか、いろんな社会的障壁によって防ぐことができる。からまあ安泰ということになります。
 だから差別する人たちは、。米国とか、そういうところに起こっているのはそういうことです。


 具体的には移民の制限に関わることです。
 WASPがアイルランド系を排斥したとか、黄色い人たちを排斥したといったことになると、それは自明に悪いことだと思われます。しかし常にそう言い切れるかということはあります。平和に、あるいはかつかつ暮らしていたのに、そこにどこかから人々がやってきてしまい、ということはありえるし、実際ある。そしてそうした場合には、常に受け入れるべきであるということにはならず、ときには入ってくる側の方がわるいのだともされるし、それもまたもっともと思われることがあります★。
 長いこと起こってきて、そして今も方々で起こっていることには、こんなところがあります。そう簡単ではない。このことを考えるのは、別のところでというにします。いや、実は私が過去に書いたものもなくはないので、読んでもらえればと思います★。ということにしておきますが、一つ加えると、これは後で言及する「救命ボート問題」にすこし似たところがあります。そしてそこでも同じことを言いますが、基本的にはこの「問題」を起こさないようにするのがよいし、そしてそれは不可能ではないということです★。
 つまり人があまりひとところに短期的に集まりすぎない方がよいというとこです。そして、多くの人は、自分の生まれ育ったところに暮らし続けるほうがよいと思っていると想定するのはそう外れてはいないでしょう。とすると、それを可能にする容易にするのが、ときには大変に困難ではあるけれども、よいということになります。
 この排外主義と優生学・優生思想はどう関係するか。ただ「排外」を言ってもそれは正当性を得られないということはあります。この場合に、しかじかの範疇の者たちを受け入れるなら、しかじかのよくない結果が生ずることをもってくるということがあります。
 そしてそれはときに、A(1そして/あるいは2)の理由によって排除したいのだが、それを言うのは憚れるので、あるいはそれも言うが加えて、Bの理由もある、というように用いられたりします。すると、それを批判・否定したい側は両方について、言わざるをえないということにもなります。
 挙証責任はそんなことを言う側にあるとは言えるでしょう。しかし、……

■加害〜確率

 一つ、禁止することです。それはなされるべきだと考えます。
 しかしただだめだと言っても「効かない」。とするとどうしたものかということになります。
 一つは、誤解をといたり、理解したり、仲良くなったりすることです。これは、その前提となる「交流」が実現すればですが、かなりの有効性があります。まったく大切なことだと思います。
 一つは、利害を弱めることです。これはまともに考えるなら、かなり大きな話になってしまいます。大きく現れているのは人の移動に伴うものです。移民



 ……


■ただの差別のこと

 次に「差別される側」について。死ぬほどであるかどうかは別として、ネガティブなものである

 「根拠のない」差別、というか、差別というものはそういうものだとされます。この「根拠」にもいろいろがありますが、事実として間違っていることを言うことがあります。あるいは、攻撃できる正当な理由がないのに、攻撃するといった場合もあります。
 (ゆえなき〜ゆえあるの境はときに定かではないのですが、)……
 例えば紹介した米国でのできごと。「人種」間に大きな差があるという話があり、反論がなされました。IQ論争と呼ばれるものが起こりました。……。

 ではどうしたらよいのか。ただ差別したいからする、とか、得をするから差別をするとは言わない。ことが多い〜もちろんなにも言わずにということもまたある。けれども、……。
 

 それに対して、今まで言われてきたこと行われてきたことは4つぐらいだと思います。

 一つは、間違いをただすことです。間違いを言ってくる側に対して、いちいち反論せねばならないというのは、損する感じはします。しかし、それでもそうした方がよい、せざるをえないことがあります。優生思想に関係するところでは、米国では「IQ論争」というものがありました。ある/ないを巡って、えんえんと争いが続いてしまうことがあります。それでも仕方がないのですが。

 以上の意味では「ゆえ」はあるわけです。しかしむろん、それは、だから仕方がないということではない。けれども、あるいはだからこそ、だめだと言わねばならないことになります。

■註

立岩真也・杉田俊介『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』表紙   立岩真也・アフリカ日本協議会編『運動・国境――2005年前後のエイズ/南アフリカ+国家と越境を巡る覚書 第2版』表紙

表紙クリックで紹介頁へ&HP経由で購入すると寄付されます

★ 2017/01/05 「障害者殺しと抵抗の系譜」,立岩・杉田[2017:46-92]より関係のある部分は以下。
○「ナチは民主的に政権をとり、民主的に独裁に至り、それを継続させる。その時、経済を成長させ景気を維持して支持を得た。障害者を殺したからというわけではないだろう。それでいくらかを節約できたかもしれないが、それが直接国力に響くといった場合には、既にその経済運営は失敗していると言ってよいだろう。そうした節約によってでなく、経済についてすくなくともいっとき成功した。社会保険他を導入したこともよく知られている。さらにこの時期のナチの政権に限らず、排除、排外主義がどのように実行され支持されるかである。たしかにそこに偏見はあるだろうし、差別したい心情もあるだろう。だがそうしたものと込みになりながら、移民を制限したり、既にいる人を排外することで、得をする人がいる。
○例えば金融業で大きな利益を得ている層を追放して同業の人を儲けさせるといったこともありうるが、むしろ、今般各国で生じているのは国境に纏わる文化障壁によって流入者を気にしなくてよい人たちとそうでない人たちの分化である。例えばその国の言葉がうまく使えなくてもできる仕事に人が多く流入してくれば、もとからその仕事をしていた人たちの就業率や労賃は下がるかもしれない。だからその人たちは排外主義に賛成することがある。他方、損をしない人は、市場全般としては自由市場の方が効率がよいこともあり、安く買えるものは安く買いたいから自由市場化に賛成することがある。こうして労働者のある部分が排除、防衛に賛成することがある。
○「重度障害者」は単純にこの社会の構制から割を食う人だから、その点では社会を変えること、変えるべきことに単純に同意できるところがある。ただ、とくに得もしていないがなにがしかはできる人にとっては、この社会はそれほど単純ではない。ではどうするのか。基本的に言えることは幾つかある。しかし言えることがあることはその実現可能性とはやはり別のことだ。考えれば言えることが言われていないという問題と、言えても現実に難しいところとある。これは大きな問題でここではこれ以上述べないが、まず国家をそうした相において捉えることだ(cf.[2016/10/10])。漠然としたしかし確かなものに思える不安、殺さなければ社会がもたないとまでは思わないが、(あまり)殺さないためにも、(自分たちに関わる)経済をよい状態に保つこと、そのための国力への期待、強さへの志向、いくらか乱暴なことは許容されると思うこと。その国は実際そのような方向に動いたのでもあり、そしてその経済について成功して支持された。その殺害の行ないはうすうすは知られていたが、大きく問題にされることはなかった。作戦の中止は、戦争の相手方が「人道」を持ち出して非難してくるのを嫌ったからだと言われる。
○それと現在とは、この日本国にまったく限らず、いくらか似ている。そして明らかなのは、その状況を批判するのに、道徳的な文言では、すくなくともそれたけではだめだということだ。道徳的な文言は、「自由化」によって益を得ている人たちを正当化する装飾だと受け止められるだろうし、実際かなりの部分そのとおりなのである。だから(社会科学の)大きな問題だと述べた。」(立岩[201701015:76-78])
★ 立岩真也・アフリカ日本協議会 編 2007/12/31 『運動と国境――2005年前後のエイズ/南アフリカ+国家と越境を巡る覚書 第2版』Kyoto Books,100p. MS Word:800円 に再録した「国家と国境について・1〜3」(2001)より。
 「3 移ることについて
 このようなところから、人の移動、流入と流出をめぐって起こっている事態をみることもできると思う。
 まず、その人がこれまで自分がいたところから移ろうとするのは、移っていくその先の土地、そこでの生活の様式が好きだからそこに行くのでないとすれば、また既に有利な位置にいる人がより大きな利益を得ようとするのでなければ、つまりは暮らしていくためにやむをえずである。かなり多くの人はその場から離れたいわけでない。だが、その中の多くの人たちが離れざるをえないから離れる。その土地や人そのものに魅力を感じているわけではない。
 外からの人の流入がその内部にもたらす損得は国境のあり方に規定され、場合によるし、人が置かれている場所によると3(本誌6号)に述べた。例えば労働者が職を得る機会が減ることはある。実際にどれほどの影響力があるかは別としてそのように感じられることはあり、そしてそれはまったくの妄想だというわけでもない。
 教義と教義、流儀と流儀とが内在的に深刻に対立するかどうか。これは容易に答えられない。互いに排他的な教義や流儀を想定することはいくらもできるが、一つに、規則は解釈とともにあるから、現実の対立に至るかどうかは予め決まらない。一つに、信条として対立してもそれは顕在的な対立をもたらすものではない。互いに無関心であったりすること、無関心であるようにつとめ関与し合わないことはできる。だから思想や信仰に内在的な対立と外在的な要因による衝突を現実には独立に考えることはできないのだが、利害が関わって問題が生じやすくなる、顕在化する可能性が高くなるとは言える。
 こうしたことを背景に「問題」が起こることがある。もちろんうまくやっていく人もいるし、そうした人の方が多いかもしれない。しかし「統計的差別」が起こる。その人が将来なにをするか、しないかは常にわからないのだが、集団として捉えると、ある集団に属する人はそうでない人たちに比べ確率的にはいくらか危険であったり、有用でない率が高いとは言えるとしよう。それでその範疇の人たちを排除したり、雇用しない、等々、そんなことがしばしばある。その人自身にはなんの責任もないのだが、排除されたり扱いが悪かったりする。さらにそれは多くの場合、悪循環を作り出すだろう。危険だとされて排除されたり扱いが悪かったりする。そこに生ずる抑圧と困難のために、抑圧する側によって行われることがある。するとそれはその人たちが危険であることを「実証」してしまう。こういう循環が生じてしまう。
 こうした事態について差別を批判する側は何を言ってきたか。一つに、実際には確率は高くなく他と同じであること、あるいはむしろ低いことを言ってきた。他方が危険であると強調し宣伝し、それは間違っているのだから、それを言い続ける必要はある。あるいは、なにかを言うとすぐにそれが解釈や言い訳の中にすぐに含みこまれてしまうことがあるから、数値の比較という同じ土俵に乗らないようにしてきた。「社会問題」を語ることの難しさがここにはある☆11。しかし他方の側が積極的に確率を、多く粗野なやり口で、持ち出してくる。その数値はときに否定できない。例えば統計的に犯罪率の差がある。それに対してもう一つ、それは遺伝的要因などによるのでなく社会・経済的な要因によると主張する。しかし理由はなんであれ、それだけ負荷をかける人なら受け入れなければよいではないかと言われる。
 そんなことを言われながら、受け入れを肯定する側は、社会的格差を減らすための教育政策など、その土地でうまくやっていけるための施策や、相互理解のためのプログラムを求めてきた。ここでは、以上で検討してきたことから、それ以外のことを確認し、追加する。
 第一に、たしかにある人たちは豊かな地にいて利益を得ている現在より、得られる利益が少なくなるかもしれないのだが、しかし、それは不当な損失だと必ずしも言えないこと。現在ある国境と所有の規則とが正当でないのだからいま利益を得られている状態も正当でないというところから、いやでも、出発すること☆12。
 第二に、統計的差別も、自らに非がないのに不利に扱われるのだから、不当な差別であることを確認すること。危険でないから隔離すべきでないと主張するのは当然だが、では危険であったらよいかといえばそれもならないということである。
 ただ、実際には多くないにしても、確率が他の集団の何倍も高かったらどうか。どこまでも特別扱いすべきでないと押していくのは難しいようには思われる。確率による差別、確率を理由とした差別を当然のこととすべきでないという点を確認しながら――というのも現状では少しもそのことははっきりさせられていないと思うからだが――、状況を変えていくしかない。
 だから第三に、あるいは最初に、移りたくない人が移らなくてすむのであればそれでよい、その方がよいということである。移りたい人が移るようになればよい。その場が気に入ってそれで移ることになるから、それはそれで歓迎されるかもしれない。そこに問題が生ずる可能性は少なくなるだろう。他方、ただより大きな利益だけのため入り込むことがあるとすれば、それは拒絶されることもある。これらは、先に述べた、もとのところで暮らせることが可能であるという条件のもとで、つまり現在の所有に関わる権利のあり方の変更の上で、正当性が得られ、実現が可能になる。
 分離独立や分権の主張の必然性を了解しつながら、その限界は見ておかないとならない。素朴に小さいものはよいが大きいものはよくないということにはならない。むしろ、国境が開かれながら閉じていることによって、分配が困難になり、不要な競争にまきこまれる。だから、一つひとつの小さなものを保持するためにも、徴収と分配の範囲が大きいことが――単一の統治圏は必要でなく、所有・流通についての取り決めで足りるのだが――必要になる。このことを前回に述べた。これは手段の分配にかかわることだから、一人ひとり、あるいは人の集まりの独自性を破損することにはならない。むしろそれは固有性を保存する。そのためにも、分配策はその地の政体・政策を経由するのでなく、直接に個人に対するものであることが要請される。
 しかし世界大の分配などと言うと、そんなことは空想的な話だと言われる。好戦的な人たちばかりでなく、分配について肯定的な人も、理念としては普遍的な分配を否定しないが、現実にはそれは無理だと言う。税の徴収や、犯罪の防止のためにも、連帯、共感や同情が必要で、そのためには人と人との紐帯が必要であり、それが可能であるためには同一性が必要だと言う。だから国家はすでに大きすぎると言う人もいる。家族や、地域、地域にある小さい集まりに贈与の契機はあり、その気持ちはそれより遠くの人には届かないというのである。また国家という単位においてなら可能だとしても、それより大きい単位では不可能だと言う人もいる。
 ここで問題は、規範・規則自体を普遍的に設定することの妥当性と可能性の問題ではなく、立てられた原則を実際に普遍化することが可能かどうかという問題に移っている――議論の中では、ときに両者が混同されていることがあるのだが☆13。これは論理によって決定できず、事実的な可能性の問題だが、実験して証明することも困難で、確実な答は出せない。さらに、このことについての憶測、悲観や楽観が、人々の了解に繰り入れられるだろう。できないと言われればできないような気がし、できると言われればできるような気もするということである。だからわからない。ただ、それにしても、なにか具体的な関係が必要であることは認めるとしよう。
 その上で、言われていることが単純すぎないかと疑ってみてよい。例えば、具体的なものにしか人は心を動かされないとしても、そしてそれはひとまず近い関係のもとにあるとしても、同様のことが遠くにあることを人は知っている。また共にあることの中には同一性だけがあるのではなく、むしろ近い関係の中に差異と距離の遠さの経験があり、それは遠くにある存在の肯定にもつながる。そして国家という単位においてともかくもの分配策が実現できているところもあるのだが、その国家は、互いに見知っている範囲をはるかに超え、既に十分に大きく遠い。これだけ大きくそして遠いところでもなんとかはなるのなら、その数倍から数十倍の規模の集合についてもどうにもならないことではないかもしれない。国家という単位がちょうど可能性の限界を画しているなどどされるなら、出来事の複雑さが過度に単純にされているというだけでなく、それはいささか作為的で操作された言明ではないかと疑ってよいはずである。

 もちろん、今どうするか、今の状況の中でできるよりましな方途を考えることが必要なのではある。ただそのためにも、ひとたびは初歩的なところから考えることが必要になると思う。わかっている人はわかっているのかもしれないが、私を含む多くの人はわからないままのことが多いのではないか。弱くされている側につくという方針でやっていけばおおむねよいのかもしれないとしても、ときには整理して考えてみることも必要になる。
 たしかに国家は記憶の創造と記憶の忘却とともに成立する。だから忘れないこと、神話に事実を対置することには意味がある。また、今思っているのと異なる境界やまとまりや広がりが示されると、想像力を喚起され、ものごとを別様に見られるようになるかもしれない。それらはみな大切なことだ。ただそうした作業を行いながら(行える人に行ってもらいながら)、同時に、繰り返せばまったく初歩的なところから、考えることが必要だと思う。そう思って少しのことを述べた。」
 「☆11 こうして「実在」に「構築」が対置される。その戦略にはもっともな理由があり、そしてかなり有効な場面があるとも思う。しかしそれだけでやっていけるというものでもない。「統計的差別」については立岩[1997:368][2001b][2001c]でふれた。違いはない(なくなる)という言説、違いは社会的要因によるという言説に関しては立岩[1997:271ff][2000:92ff,159-160]。 ☆12 国家内で生産され蓄積されたものをその内部の人たちが取得できるとする主張を集めてその根拠とされるものを分類し、それぞれについて否定する必要があるが、ここでは略す。 ☆13 こうした観点から注03にあげた本を読むこともできる。自由のための分配の「根拠」に」ついて、その実現可能性について、立岩[2001a:(3)]で考えた。」


 


 ※以下は2020/05/16の講義の記録をすこし編集した(しつつある)ものの前半。一部今度の本に使うところがあるかもということでここで編集していきます。

◇i2020 講義 2020/05/16 講師:立岩真也 於:
◇文字起こし:ココペリ121 0200516立岩京都看護大学大学院講義コロナ_229分
※聞き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
 聞き取りが怪しいところは、【  】(hh:mm:ss)しています。

 いま大学、今日もこうやってオンラインでやってるわけで、コロナウィルスのことがあるわけですよ。そのことに関して、どういうふうに生命倫理とか倫理の問題とかが関係してしまってるのか、みたいなことも話していいのかなと思ったので、今日はそういう話をしようと思います。
 なんで今日慣れないスカイプ・フォー・ビジネスっていうのを使おうかなと思ったかっていうと、今画面にみなさん映ってると思いますけど、前回「これ見ながら見てね」って言いながらしゃべってたんですけど、僕が操作するのが実際に見れるほうがいいだろうと思って。スカイプはそれちょっと難しいのかできないのかよく知りませんけれども。ということなので、スカイプ・フォー・ビジネスでできるっていうことで、画面の共有っていうか、プレゼンテーションをみんなに見てもらおうってことで、慣れないスカイプ・フォー・ビジネスっていうのを使っているわけです。[00:03:36]
 それで、ちょっと前回の復習。前回は優生学について話をしようっていうことで、しました。で、今見えてるのが生存学研究所っていうのの、で検索してもらうと出てくる「arsvi.com」(アルスヴィ・コム)っていうサイトです。でこれは何かと便利だと思います。みなさんこれから知りたいことにとっても。
 あれ? 切れた? 〔中断〕ちょっと猫のために席を外しただけなのに、なんかスカイプが止まったみたいな。なんじゃこりゃ? 猫のせいだ。うーん何が起こってんだ?[00:07:35]
 はい。すみません。何事かが起こったようです。猫のせいだと思いますけど。猫のためにドアを開けに行ったらスカイプが落ちて、いったんストップになっちゃいました(笑)。なんてことでしょう。ごめんなさい、再開します。猫に免じて許してやってください。それで、今やりますね。なんかばたばたするよね、慣れないと。[00:08:28]
○はい。たぶんまた出たと思います、ホームページです。これがサイトで、先々週は優生思想っていうか優生学の話をしました。たぶん何も聞いたことないと思うので、昔の話をしました。私が最初に書いた本で『私的所有論』っていう本があって、これは京都看護大のみなさんには申し訳ないが、「持っててください」っていうので、持っててもらってるはずです。それの第6章第4節に書いた話なんです、実は。前回しゃべった話ってのはそこに書いてあるんですけれども、たぶん読んだだけだと、なんでこの話がここに、こういうふうに書いてあるのかってわかんない、ってこともあると思って。たとえばね、ドイツの話じゃなくってアメリカの話を前回したじゃないですか。なんでアメリカの話をそこでしているのか、とかね、そういうことも含めて、本に書いてある話をしゃべったので、前回来てなかった人も話した中身自体はこれを読んでくれればいいっていうことなんですね。


 それで、今どきのこととして、このホームページをこれから見てもらうようになると、ここに「優生〜母体保護法・不妊手術 2020」っていうのがあるじゃないですか。これは優生保護法っていうのが戦後できて、それがなくなって母体保護法って法律に変わったんですけれども。前回この話をしたあとくらいにプチッと切れたのかな? その優生保護法のもとで不妊手術が行なわれた、強制的な不妊手術が行なわれた。そのことをずいぶん、僕らは10年前20年ぐらい前から知っていたんだけれども、それを訴えるっていうことがなかなか難しくって、そこの中でずっと時間が経ってきたんだけれども。それが2017年になって、それを公表するというか訴えるというか、裁判が仙台のほうで起こって、それ以降ようやく、「ああ、こういうことがあったんだ」っていうことを、全国の新聞が報道する、それから各地で裁判が起こるっていうようなことが2017年から始まったんですよ。最近のことです、ですから。最近っていうか、近年のことです。[00:11:31]
 で、これも特に今年になってから、その裁判も今ちょっと中止になったり、それから新聞がもうコロナ一色になっているので、新聞なんか出てこないと思いますけど、でも去年今年起こっていることをお知らせしようっていうことで、このページがあると思います。
 で、そこをちょっとクリックしてもらうと、今見えてると思いますけれども、「優生 2020」「2019」っていうふうになって、それ以前のものもいっぱい出てくる。関心がある人にとってみれば、有意義な、有意味なサイトだと思います。見ていただけると嬉しいです。
 ここの中の一番下に「優生学・優生思想」っていうページもあって、前回お話ししたようなことも含めて、それから文献も含めてごちゃごちゃいろいろと出ているので。たぶんこれをざっと見るだけでも1日ぐらいかかると思うのね。だからもう「あとはこれ見てください、今日終わり」っていうんでもいいんですけれども。前回も言ったけれども、とりあえずこういうものがこの世の中にあるっていうことを知ってもらうっていうだけでも、私、窪田さんに呼んでもらって授業をするってことの意味があると思うので、それを知ってくださいっていうことです。[00:13:25]
○前回お話ししたのはアメリカの話でしたけど、アメリカでのことについて、『ゴッドファーザー』って映画の話ばっかして、知能テストの話とかね、あんまりしませんでしたけれども、その辺のこと。今見てもらっているのは、『私的所有論』って私の本の一部、それからそれの英訳の部分なので、みなさんにとっては手元に本があるはずなので、それはいいわけですけれども。こんなものがあるということですね。[00:14:06]
○それから新型コロナウィルスについては、ひと月半ぐらい前かな、これやっぱり何か作んなきゃいけないっていうふうに思って、それで大学院生ですね、修士課程今年終わって後期課程、博士課程に入った塩野さんっていう女性ですけれども、若いですけれども、彼女はもともとは結核の、結核も感染症じゃないですか、20世紀最大の感染症とも言えるわけですよね。それの歴史研究をしている人なんですけれども、彼女なんかに仕事してもらって、それでページを作りました。既にめちゃくちゃ巨大なものになっています。
○やっぱり今テレビとか新聞とか見てるかぎりでは、やっぱり何県に何人新しい感染者が出たとか、どっかで誰かが死んだとか、あるいはマスクがどうだとか、三密がどうだとか、そういう話で。もちろんそれはそれで大切な話なんだけれども、ただそれ以外にもいろんなことが起こっていて。マスメディアではあまり報道されないっていうのはよろしくないっていうことで。NHKだとか新聞社のように、ニュースを全部載っけるっていうことはそういうところに任せときゃいいわけなので、それで、いくつかのことをやっています。[00:15:57]
 なんとなく落ち着かないので、さみだれにというか、いきますね。


○一つは、これ今日どのぐらいお話しできるかわかりませんけれども、病院がいっぱいになって、既に京都市内のところでもそんな感じなのかなと思いますけれども、そうして次々と患者が運ばれてきたりすると、そうした時に「みんなを全部受け入れられるか?」っていう話が持ち上がると。そうすると「順番つけなきゃいけない」っていう話になる。ほんで、トリアージ(triage)っての、もともと救急救命ですね、そういう場面で、事故現場、火災とか地震だとかそういうところにドクターヘリとかああいうのが乗りつけて、とにかく全部一緒には無理だと、っていうのをトリアージって言うわけじゃないですか。それはみなさん、そういう職業だから知ってると思いますけれども、そういうことがこの新型コロナの場合も現に出てきたり、あるいは論じられたりってことが起こっていると。そのことをどう考えたらいいのかっていうのは、この科目は生命倫理っていう科目でもあるし、それのかなり重要な部分なんですよね。なので、そういうコーナーがあります。
○特に日本でも紹介されている部分もあるし。それもね、ただ紹介されりゃあいいのか?っていうところがあって。むしろ何て言うのかな、こういう話がガンガン前に出ると、「そっか、やっぱ命の選別も必要なんだな」みたいな話になっちゃうように報じられるというか、そういうことがあって。ただ報じればいいっていうもんでもないなと思っているんですけれども。とにかくそういう視点っていうか出来事が起こっていて、それをどう見るかっていう重たい暗い話が一方にある。それについての情報を集めてもらっています。[00:18:12]
○それからもう一つ、その上ですけれども、「新型コロナウイルス感染症と障害者・病者、マイノリティ」っていうところがありますね。これももうずいぶんな量になっているはずです。こんなんでそれに関係する、実は報道されないか、非常に短く紹介されるぐらいなんだけれども、今回の出来事に関して、さっきのトリアージっていう命の選別、優先順位づけみたいなことにも関係して、いろんな個人それから団体が声明とか意見書とか質問状とかそういうものを出しているんです。そうしたものをとにかく並べて、読んでもらえるようにしようってことを私たちが今やっているんですね。今日はそういうことをやってるよっていうことだけ紹介しますけれども。紹介して、少しだけ話をしますけれども、まずそういうことをやっていると。


○それからもう一つ、ちょっと関係する話では、今、表紙にもう一回移って、見えてると思いますけれども、ここんところに「異なる身体のもとでの交通&交信」ってのがあります。交通っていうのは移動っていうか、車いすで移動する時に街がどうだとか、そういう話で。そういうことにも関係して僕らは仕事しているんですけれども。
 今ちょっと、最近っていうかひと月前ぐらいからやんなきゃなと思って始めてるの何かっていうと、ここには「オンライン交信術」ってありますが、これですね、見えてると思いますけれども。僕ら今、Skype for Business で授業をやってるわけですけれども。そうした時に、たとえば目が見えないとか、手話を使っているとか、そうした人たちがいま一定いるわけですよ。そうした時にオンラインで授業をやる時に、プラス手話とか、プラス字幕とか、それから目が見えない、たとえば目が見えないっていうことはどういうことかというと、僕らは、みなさんの場合、生まれた時からパソコンっていうのはマウスであったり、あるいは指で画面を触って操作するもんだと思っているわけじゃないですか。僕らはそれよりちょっと前の世代なので、キーボード打ち込んでいろいろ操作するっていうところから始まって、やがてウィンドウズ(Windows)ってのが出てきて、マウスや、画面を指でタッチして、っていうふうになってきたわけですわ。で、それはそれである種の進化というか発展なわけだけれども、でも目が見えないと画面をタッチするとかマウスを操作するってできないじゃないですか。そうした時にどうするかっていう。細かいっちゃ細かいことなんだけれども、そういうことをちゃんと互いにわかってないと、視覚障害の人がこのスカイプに参加できないっていうことにもなるわけだ。ほんで、そういうことに関するいろんな知恵を集めてサイトに載っけようっていうことをやってます、っていうかやってもらってます。
○たとえばね、ここで「オンライン交信術」ってのいま見えてると思うけど、ここのところの4番目で「各種ソフトの紹介とショートカットキー一覧」、これ出てるんですよ。マイクロソフト・チームズ(Microsoft Teams)、ズーム(Zoom)、それからスカイプ・フォー・ビジネス(Skype for Business)、これまだ出てないですね(笑)、何にも書いてないですね。っていうふうに、今こういうオンライン会議ソフトっていうか、そういうものは何種類かあるじゃないですか。で僕らはそれを「なんかわかんねー」とか言いながらも、言いながら、こうやってマウスで操作して、見たり聞いたり話したりしているわけだが、マウス使わない・使えないって人どうするかというと、これ今黄色になってますけどね、ショートカットキーってわかるかな? 要するに、いや簡単な話なんですよ、キーボードのキーを押して、コントロール(Ctrl)プラス何とか、とかね。ま、みなさんもたとえばコピペする時に、いちいちマウス使うんじゃなくて、コントロールC(Ctrl+C)だっけ、でコピーして、コントロールV(Ctrl+V)で貼り付けるみたいなことはやってるんじゃないかと思いますけれども。そんなことが、たとえばスカイプならスカイプでもできるんだけれども、ちょっと探さないとわからないところにそういう指示が書いてあったりするわけよ。そうすると、そういうのがすぐにわかるようにしとくと、ちょっとは便利じゃないですか。ね。そういうことで、今そういうことをやったりもしています。[00:23:36]
 ですから今僕らがやっている、っていうか僕が関心がある、で、みんなにやってもらっていること、ホームから「新型コロナ」って行った時の、倫理とかそういうもんに関係する選別とか優先順位の設定っていうことについての情報とか人の意見であるとか。それから2番目に、というかその上にありますけれども、障害者・病者、こう二つ違うものがあるわけじゃなくて、そういう状況のもとで、さっきのちょっとしたコンピューターの使い勝手なんかもそうですけれども、みんなばたばた慌てているから、やっぱり普段だったらもうちょっと余裕をもって「みんなが使えるように」っていうふうに考えるけれども、なかなかそういうふうにいかなくてばたばた、「とにかく始めなきゃ」ってんで始めてしまう。そうした中でどっちかっていうと少数者、少数派、マイノリティっていうのが、忘れられるっていうか横に置かれてしまう、ということがあったりする。それから病院がいっぱいで順番つけなきゃいけないとか、場合によったら誰か出てもらわなきゃいけないとか、みたいなことが起こった時にも、高齢であったり、それからなんか状態が重いとか、「そういう人はあとにしましょう」っていうか「診れません」みたいなことになったりもする。っていうふうに、二つ別々じゃなくて繋がってるんですけどね。そういうことについての情報であるとか、そういうものを載せている。それからそういう時に除(の)けられるというか、忘れてしまうというか、そういうことにもなってしまうことのある情報格差のこととかについて、できることをしよう、ということをやっているっていうのが紹介でした。[00:26:01]


 それの話をしたあと、じゃあ僕がどういうことを考えたり、どういうことを言ってたりするのかっていうことを次にお話しします。この「立岩」ってとこ見てもらうと、前回も紹介しましたけど、前回は画面を見ながらではなかったのですが。私のページは、こうやって最初に私が書いた本の一覧みたいなものの写真がベーっとあって、それ以降は新しいものが上、古いものが下っていうかたちで時間順に、時間逆順っていうかそういうかたちで並んでいます。もう2020年になってそれまでのファイルが巨大になったので、2010年から2019年の仕事は別のページにして、今は2020年のものだけがトップにあるっていう、そういう状態になっています。
 それで今日は2020年55月の16日ですけど、さぼってまだできてない。できてない代わりに、先々週の5月2日の授業のために作ったメモのところに今は繋がるようにしてあります。時間的な余裕が多少でもあれば16日…、ていうか5月2日と5月16日と共用のページを作ればいいと思うんですけど、そんなことをしています。これは今日の講義というか授業のためだけではなくて、いろんなところで私、話をさせてもらったり、あるいはものを書かせてもらったりするんだけれども、できるだけというかそのたびごとにそういうページを作って、補足情報とか、場合によったらその時の記録を文字にして載せるとか、そういうことをやっています。、さぼりがちではあるんですけれども、そんなことをやっているので、時々でいいですから見てもらえるといいかなと思います。
 本当に5月6月の企画がどんどん中止になっていって。僕は3月に徳島で話をする予定、それはなくなりましたし、来月の頭に韓国に行くって話も流れましたし、なんですけどね。直近では石垣島で11月8日に話をするっていう話が。これは行けるかな? その頃には、ちょっと何とかなってるのかなと思いますけれども。そんなまだ先の話から、最近のことまでこうやって並んでいます。これが2020年からのやつですね。[00:29:13]
 今回その、前回の優生学っていうことにも関係して、それから今起こっているコロナに関わるトリアージ、生命倫理ということにも関係して、文章を三つとりあえず載っけてるんですね。それは講談社っていう出版社の『現代ビジネス』っていう、普通は関係ねえだろっていうところに3回書かせてもらって、それが出ています。最初その草稿をこちらのサイトに載っけたんですよ。で、正式に掲載されてるのはこちらのサイトではなくて、講談社のサイトに載っかっているので、こっちのほうが写真もいっぱい使われてるし、なんかいい感じかなと思うんで、そっちを見てもらいたいんですけど。そっちに飛べるようにして、この第1回目、それから第2回目、第3回目までを書いて、先週それが掲載されたのかな。1、2、3っていうふうになっています。そこで書いたことっていうのは、やっぱりみんなにお伝えしたらいいのかなと思って、考えました。

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 ※以下の部分を第5回にもっていって手直しすることに。




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