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労働の分配が正解な理由
立岩 真也
200210
『グラフィケーション』123(富士ゼロックス)特集:働くことの意味
http://www.fujixerox.co.jp/company/fxbooks/graphication/index.html
*この文章は、新たに注を付した上で
『希望について』
に収録されました。買っていただけたらうれしいです。
「若ものたちの労働観」という題をいただいたのだが、その人たちが何を考えているのか、よくは知らない。ただ、親がいて親の家があったりしてひとまずなんとかなるならその深刻さは他の世代よりすこし少ないとしても、なかなかに悩みは深いようだ。とくに女性はたいへんで、この社会はまあなんという社会であるのかと、就職活動ではじめて知ることになる。
ただ私が勤める大学の学生などまだよほどましだろう。しばらく前には豊かさがもたらす社会病理などと語られていたのだが、労働に関わる荒廃、貧困の問題が浮上している。加虐的で自暴自棄に見える様々な出来事もそれに連なっているように思える。そして考えてみると、そこになにか基本的な変化があったのではない。ここが大切なところで、貧困の問題がどうしても生じなくてはならない事情はなく、その意味では危機はない。にもかかわらず、たしかに一人一人にとってはつらい状態がある。そのつらさそのものもさることながら、どうにもならないものではないはずなのにこうなってしまっている、それがつらいという感覚がある。つまり基底にあるのは、こんなはずでないのに、こんなはずであってはならないのに、という「不正」の感覚だと思う。その感覚はそうはっきりしたものでないかもしれないけれど、こんなことではないだろうかと考えて言うことはできると思うから、私は考えて、例えば講義で「若もの」に、言う。
芹沢俊介さんとの対談(本誌第一一八号、二〇〇一年一二月)でも話したことだが、まず私は、労働の産物でもあるところの生産は足りているか足りていないかのどちらかであるはずだと言う。足りていると考える。そして、その社会に失業がある。今は余っていて失業があるがそのうち少子高齢化が進んで人手が足りなくなるという見方もあり、私はその将来予測を信じていないのだが、ここではそのことは置こう。ともかく今そしてここしばらくは余っている。ここのところ続いている経済の状態は政策の失敗によるとしても、そしてそれが解消されたとしても、足りる、余ると考えてよい。このことは、とりたてて大きな失策があったのではなく、景気がわるいとも言えないヨーロッパのいくつかの国の様子を見てみてもわかる。
次に、ものはあり失業もあるという状態は、すべての人が暮らすだけのをものを、働けるすべての人が働かなくても作ることができているということであって、基本的に、まったく好ましく望ましい状態であると考えるしかない。このあまりにも当たり前のことを、当たり前のこととして確認しておく必要がある。
ただたしかに失業はあり、それはその人にとっては困ったことだ。それに対してとられてきた手の一つは職業訓練等の機会を提供することである。近頃はワークフェアなどという言葉もあるらしく、イギリスなどで成功しているのだとか言う。そうかもしれないとも思いながら、しかしうまくいくのかなと思う。まずそれはずっととられてきた手であり、じつは少しも新しくはない。そして他人に言われなくとも、多くの人は役に立つかもしれないと思って資格をとったりしている。さて訓練した上で職業があればよいが、なければどうにもならない。その仕事に必要とされる人の数が同じなら、けっきょく職を得られる人もいるが得られない人もいるという状況は変わらない。たしかにそこに競争が働き、それはその仕事の質を高めることもあるだろう。しかし、得られる人と得られない人の違いはよりわずかなものになり、そして結局職も得られなければ苦労した分だけさらに損を重ねたことにもなる。さらに、お膳立てはしたのだからあとはあなたのせいだと言われるなら、なおつらい。つまりこの策は、それだけでは不正の感覚に応えず、むしろ不毛さを増やす。
とするとどうするか。「完全雇用」を実現するのだとして、はたして本当にそのためであったかどうかともかく、これまでずっと生産を拡大し消費を拡大することが政策として行なわれてきた。(前段に記した技能を得る機会の提供にしても、求められている職能と現に人が有するものとの格差が放置しても解消されないとされる場合でなければ、「新たな職域の開発」が伴う場合に意味をもつ。)しかし、とくにこの社会にあって、総量を増やすという方向がよいとは考えられない。それはもちろん一つには、資源と排出の問題、有限のものか消費され浪費され、無益あるいは有害なものが残されるからだが、それだけでない。
次に、それを政策として行なうことの正当性が疑わしい。これぐらいの生活は当然という水準を一人ひとりに保障することは政治の義務であり、今あるものを分配するだけでは足りないなら、それを生産しなくてはならない。しかし、少なくとも日本という場をとってみれば、そのような社会であるとは考えられない。総量を分けてそれでもどうにも足りないものがあるのでないとき、生産のための政策に加担することを強いる権限、具体的には生産のための徴税を行なう権限は政治には本来なく、それに応ずる義務は人々にない。
第三に、人はもうこれ以上いらなくなっていて、消費への呼びかけに応えなくなっている。企業がそれぞれ懸命に考えて作って売ろうとしているのに、さらにそれ以上のことを、たいていはその道にそう長けてもいない人たちが、しようというのだ。たいていうまくいかない。
最後に、このように水増しされたもののために働かないとならないということだ。仕事には常につらい部分があるのだが、それでも必要とされているならするだろう。本当はしなくてもよいこと、求められていないことをするのはさらにつらい。つまりこの策によっても、やはり、いま人々が感じている不正と不毛の感覚を減ずることはできない。というよりむしろ、そうした感覚はこのようなことが行なわれてしまうことに発しているのである。こうして、需要を喚起するとか雇用を創出するなどといった不遜な、だいそれた政策を行なうべきではないし、行なってもうまくいかない。
とすると残るのは一つになる。足りているのだからそれを分ければよいという一番単純な答が正解ということになる。仕事をしている人だけが暮らしていける権利があるのではないとしよう。仕事につけなくても暮らしていけることを基本におくところから考えよう。なにかに恵まれて失業していない人は仕事から得たものから仕事をしていない人に贈与しなくてはならないとしよう。これはひとまず労働市場自体はそのままにして、失業者には所得保障で対応するというものだ。基本的にはまったくそれでよいとしよう。このことを認めるなら、さらに、以下のような理由で、労働の分割・分配が支持される。
まず職がなく給付を受ける側を考えよう。所得保障だけで暮らす場合、第一に、得られるものの水準は、今よりずっとましな水準になったとしても、最低限にとどまる。働く場合より多く受け取れるなら(例えば私は)働かなくなるかもしれないからだ。第二に、働くのはつらいことでもあるがおもしろいことでもある。そのおもしろさが得られない。他方、仕事を得ている側にとっては、自分だけ働いて負担することになる。同じ手取りなら、仕事の一部も渡した方がよい。簡単な例を示すと、稼ぎのある一人は稼ぎのないもう一人に本来自分の稼ぎの半分を渡さなくてはならないのだが、だったら仕事も半分してもらった方がよいということである。
つまり、労働の分割、分配は、あるものを分けるという原則をとるなら肯定され、政策としてそれを行なう正当性も得られる。ワーク・シェアリングという言葉はここしばらくの間、にわかに誰もが言うようになったので、かえって居心地がわるい。何十年も前からあるアイディアなのに、ほとんど注目されてこなかった。ようやくこれしかないということに気がついたということでもあるだろう。ただ、そうきちんとものごとが進んでいくとも思えない。不正を蔽う言葉として使われることもあるだろう。そのためにも基本的な論理を確認しておく必要があるということだ。
それは既得権を(すくなくとも今は)得ている側に支持されるだろうか。わからない。たしかに、働いている人とそうでない人、常雇用の人とパートタイムの人、稼ぎが多い人と少ない人、国境内にいる人と職を求めて国境を越えてくる人との利害の対立の問題は大きい。ただ、職につけている人の多くにしてもつらいところはある。一人の稼ぎで大人(配偶者)を含む一家を養えてしまえるというのは異様と言ってよいことだが、それは稼いでいる側をも圧迫する。仕事も少なく給料もその分少ない二人の方が、そうでない一人よりたいてい楽なはずだ。また職の獲得と維持とを巡る苦労と、水増しされた多忙がある。仕事に苦労がつきものなのは承知していて、ほんとうに仕方がないならそれを受け止め、意味があるなら引き受けるが、なくてもよいようなことをひどく苦労してやらなくてはならないことがつらいのではある。席の取り合いを放置しながら、生産・消費を拡大・水増しすることによって事態を取り繕ろうとすることは、いま席に座れている人にとってもそう楽しいことではないはずだ。
最後に分配、労働の分配が意欲の減退、社会の停滞をもらたすという懸念について。私はそれでもかまわないと思っている。「停滞する資本主義のために――の準備」(栗原彬他編『越境する知・5 文化の市場:交通する』、東京大学出版会、二〇〇一年)という文章を書いたことがある。ただ、人が新しいこと未知のことに挑戦するのはわるいことではない。あまりに単純な人は貧困の脅迫が挑戦を生むというのだが、そんなことは一定の水準に達した社会にあってはむしろ例外的だと考えた方がよい。なにせ人生は長いから人々が先々のことを考えて不思議ではない。なんとか食いはぐれることはないと思えた方が、挑戦的になるはずだ。例えば年金をあてにできるなら、極端に向こう見ずではない人も、さしあたり実入りのそうよくない、不安定な、しかしおもしろい、そして/あるいは社会的に意義のある仕事をしようとするはずだ。
この社会はすでに豊かだと言った。もちろん、絶対的な貧困が世界にはより普通のこととしてあり、それについてはここで述べたのとまた別のことを考えなければならない。ただ、貧困の度合いは絶対的であっても、存在している事態はほんとうは死ななくてもすむのに死ななくてはならないという事態である。すでに存在し出回っている薬を受け取れれば死なないのに、受け取れず、一年に三〇〇万人の人がエイズで死ぬ。だから違いはあるにしても、そしてたしかにこの国の悩みは比べれば贅沢な悩みではあるだろうが、存在するのは基本的には同じものだ。不正とそれに関わる不毛と不全、絶望である。しばらく消費が論じられてきた。それはそれでよいとして、これからすくなくとも数十年、労働や国家や分配といった古色蒼然としたものについて考えることが大切なことになる。
cf.
◆2001/12/00「私的所有を問う――無理せずボチボチやっていける社会に向けて」(
芹沢俊介
との対談)
『グラフィケーション』118:3-11(富士ゼロックス)
http://www.fujixerox.co.jp/company/fxbooks/graphication/backnumber/118/
UP:20020903
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