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福島 智 様

立岩 真也 1999



  立岩です。本をたくさん届けていだだきました。ありがとうございます。『盲ろう者とノーマライゼーション』はこれで2冊です。私が買ったのはたしか今、学生が借りていっている。学生に読んでもらうのにも2冊あると便利です。(本の売り上げには逆効果かもしれません。すみません。でも)ありがとうございました。
  &その前には講演のための原稿をいただき、ホームページに掲載させていだたきました。こちらはお礼が大変遅くなってしまいすみません。ありがとうございました。

  なんとなく福島さんの方が年上かなと思っていたのですが、1962年生まれですか。私は1960年生まれです。「博士課程満期退学」が私は1990年、福島さんが1991年、そのあと学術振興会の特別研究員。私も、1990年4月〜1992年3月まで学術振興会の特別研究員でした。私はその後1年間フリーターで、次の職(千葉大学の助手)は1993年4月から、福島さんは1996年7月(都立大学の助手)そして12月に金沢大学。私が信州に移ってきたのは1995年4月。だからなんだってことでもないですが、福島さんの「年表」を作ってて、わりと近いものがあるなと思いました。

  そして本の中にもたびたび出てくる小島純郎先生。93年度、千葉大学につとめ始めた年が先生の定年前の1年間で、私は先生が参加なさっている会に、手話サークルに入っていた学生を介してだったか1度だけ顔を出しました。先生の部屋はそういう集まりに食べものを作って出せるように鍋釜があって、食器があって、そして先生が、会の後半、皆が食べたり飲んだりする時間のその後半に、バイオリンを弾き出したのを覚えています。でもその1年だけで先生は定年で退官なさった。次の教職ではなくて、盲ろう者協会の仕事の方を選ばれたというふうにも聞きました。私がいた研究室のちょうど1階下の部屋が先生の部屋でした。

  次に、ずいぶん前(6月9日)にいただいたメイル(講演のための原稿をお送りくださった時のメイル)に書かれていたこと。

>私の関心は、「障害文化論」と「能力による差別の廃棄」との
>理論的統合、および、その現実的展開です。
>また、文字どおりの「タレントプーリング」は、可能か?
>あるいは、ロールズのいう「社会的基本財」の内、
>「自尊」(Self Respect)自体の再分配は可能か、というのが
>今気になっています。

1 「能力による差別の廃棄」という主題は、私にとっても、私にとっての一番大きな主題であり、拙著『私的所有論』はこのことについて書いた本です。総じて福島さんが書かれたことは私が考えようとしたこと、考えようとしていることにすごく重なる。これは偶然ではなくて、あることを考えると必ずここに着く、少なくともここを通るという必然的なものだと思います。

2 「文字どおりの「タレントプーリング」」ということの「文字どおり」をどうとるかだと思います。例えばAさんとBさんの頭脳(の一部でよいと思いますが)を回線か何かでつないで共用できるようにするとか、といったことが文字通り、であるとすれば、それはもしかして技術的に可能であるかもしれないが、しかし、そういうことをここで言いたいのではないとすると、文字通りのとはどんなものか。
  私は「才能の個別性」ということ自体は、否定しつくすことはできないし、また、否定する必要もないと考えています。(『私的所有論』第8章2節3「個別性の不可避性」、331−332頁で、この主題を全部覆う話ではないけれどある程度のことを述べました。)[今、お送りしたファイルの第8章(だけ?)に頁数を示す「▲***▲」をどうやら入れてないようであることに気がつきました。だとしたら、とても、すみません。)
  才能が一人一人に帰属するということと、その才能によって産出されたものがその各々に帰属すべきであるということとは別のことです。前者を認めても後者を認めないことは、可能ではあります。しかしなお前者が問題とされるべきであるとすると、それはなぜなのか、考えて答える必要があるでしょう。
  もう一つ、タレントプーリングという考え方は次の2通りの話とどう絡むのか。
  一つには、「才能はみんなのものだから、勝手に使ってはならない。君は本来Aの仕事よりBの仕事の方が適しているのだから、Aの仕事をしたいと思ってもそれは認められない。Bの仕事をすべきだ。」というはなしにつながることも考えられる。しかし、それは認めがたいと私たちは思うかもしれない。
  とすると、もう一つ、先に述べたこと、「君はしたいことをする。しかしそれで得たもののすべてが君の取り分というわけではない。…」という主張。いずれがタレントプーリングという把握に近いのか。そして、どちらをなぜ認め、あるいは認めないのか、…。といった問いに関わると思います。
  関連する部分として他に第2章の注25(65−66頁)があります。ここは「能力を社会の共有資源とみなすこと」への小林公の批判の一部を受け入れつつ、さらに、それを批判するという論になっています。

3 「分配できる財」/「分配できない財」という主題も非常に重要だと考えています。
  このことを考える際に、まず、第一に、「「自尊」の分配」とはどういう事態であるのかを考えてみる必要があると思います。これはわかるようでよくわからない。イメージできるようでうまくイメージしにくい。
  第一点とほとんど同じなのですが第二点。「調達(分配)の仕方(あり方)」。
  このことを意識して私が書いているのは同じ本の第8章5節4「他者が他者であるがゆえの差別」という部分(365−366頁)およびそこに付けた注19(372頁)です。
  次のような部分があります。

  「例えば、贈与とは、自らによる相手の制御不可能性において初めて成立する行為である。反応は基本的に相手に委ねられている。しかもその他者の反応は、他者自身にとっても操作可能なものでないとされる。それがこの関係の条件になっている。
  ……
  ここでもAは、ゆえなく、Aの側になんらとがめられるべきことがないのに、Bに受け入れられない可能性がある。例えば理不尽にもAはBに愛されない。これはAにとって十分に不幸なことだ。これは世界に十分な量の不幸を生じさせる。そしてこれも差別だと言いうる。」(365−366頁)

  これは「愛」について述べたところです。例えば「尊厳」を認めることと愛することとは違うかもしれない。違うとしてどう違うか。
  (メイルマガジンの第1号でM・イグナティエフの『ニーズ・オブ・ストレンジャー』、風行社、をちょっととりあげましたが、この本もこうしたことに関して書かれている本です。)
  以上は、例えば果物なら果物をAさんからとってきてBさんに与えてもその果物は果物でありBさんも食べられるが、しかしそういう性格をもたない(もてない)財もあるようだということ。
  そして、第三点、というか第二点のもう一つの部分。「分配」という語には「分割」という意味が含まれている場合がある。また分配には「譲渡」がともなう。あるいは分配とはある種の譲渡である。こう考えると、次のような疑問も生じるでしょう。これは私の文章ではなく、大川正彦の文章ですが、上記した拙著の第2章注24(65頁)に引用しています。

  「単純な平等を根本原理として主張する者は、<視力をまったく欠いた他者と比べて、私には十分な視力があるとき、私は自分の眼に関する特権を剥奪されるべきなのか>という問いの前に窮してしまうであろう。」(大川正彦[1993:245])

  物理的には譲渡・分配可能であるかもしれないが、そうすべきでないとされているものがあるようだということ。
  以上、つまり、(強制力を介した)譲渡・分割か不可能なもの、無意味なもの、あるいは譲渡・分割すべきでないものとは何か、それはなぜかという問いもまたあるということです。

  話が広がってしまいましたが、福島さんが出された問いはそういう広がりをもってしまう問いだと思う。終わらなくなるのでひとまず以上。

  さらに。講演「「共生」の思想とテクノロジーの未来」について。

1 ロールズ的な発想*と距離をとって考えようとしておられることがわかりました。私もこの点、同様に考えています。(同書第7章2節「保険の原理による連帯」、及び、「未知による連帯の限界――遺伝子検査と保険」(『現代思想』26-9(1998-9)(特集:遺伝子操作)、1998年9月)

2 ただ「A 進化論的次元」については私はこのような言い方をしない道を行こうと考えています。第4章でも関連したことを述べていますが、第9章、424頁の記述を受けた、この本の最後の注、第9章注31(442頁)でもふれています。ここで加藤秀一の文章を引用しています。その一部は次のようです。

  「「類的種族としての人間存在の認識」……といった全体主義(「種」主義というべきか)は反差別運動の射程を根本から堀り崩す倒錯であるように、私には思われる。女性も障害者も、その解放運動の出発点は、自らを、他に置き換えのきかない一人の人間=個人として認めよという叫びではなかったか。個人は種内の遺伝子の多様性を保存するプールとして価値があるのではない、という思いに立ち帰ること――障害者運動とフェミニズム運動は、個人の尊厳の擁護というこの出発点を徹底して共有するところから、生命の質を一元化する優生思想に反対するという、原理的な共存を獲得できるはずだ。」(加藤[1991a])

  ……

  とりあえずこんなところで。本、どうもありがとうございました。私の書いたものでテキスト・ファイルでほしいものがあったら、どうぞお申しつけください。

  * 私の書いたメイルについて、それが「私信」であっても、いくらか「学問」にかかわるような内容である場合、ホームページに掲載していこうと思っており、このメイルの全文も掲載いたします。一部福島さんの文章がありますが、これは(問題ない部分の)「引用」ということで、御了承願います。
  そして送り手=著者がそれを希望されるあるいは許可される場合、私がいただいたメイルについても掲載させていただきたいと考えております。よろしかったらどうぞよろしく。

  では失礼いたします。


 *この記述は必ずしも正確ではありません。同書の注をごらんください。(2000補記)


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福島智  ◇立岩発eMAIL
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