HOME > 犯罪/刑罰 > 「死刑執行人」 >

「死刑執行人」――イギリス


Tweet
last update: 20160526


■誰が「死刑執行人」となるか?
 専門の絞首刑執行人がいた。1969年(厳密には1998年)死刑廃止。

◆関連言及・引用(年代順)

◇Ellis, John =安東 禾村(あんどう・かそん) 訳 19280301 『死刑囚の犯罪記録──死刑臺に載せるまで(陪審資料)』,酒井書店,259p.

「さて讀者の中には、何故に私が死刑執行人などになつたのであるかと、多少不審を打たれる方無いとも限らない。成る程、考へて見れば、他に仕事が無いでもないのに、何を好んで私が人の生命を取ることを職業として生計を立てる途を選んだのであるか。讀者が恁うした不審>6>を抱かれるのも満更ら理由の無いことではない様にも思はれる。
 しかしながら、死刑執行人の仕事は、そんなに迄人から嫌がられる性質のものであらうか? 私に言はせると、それは一國の法律で立派に其權能と責任とを承認されて居る尊敬すべき官吏の仕事であつて、結局何人かゞ死刑執行人となるのを希望することが、國家の爲めには是非必要な條件であらねばならぬのだ。私が死刑執行人となつた動機も、全く恁うした私の確信から出た譯で、決してそれについて深い他の理由があつた次第ではない。しかし、其初め私が愈々此官吏の地位を志願する意志を發表した時には、遉に私の母の驚きは非常なものであつたばかりでなく、殊に私の妻などは、テンで此事柄に付て私と口を利くことさへ拒んだ程であつた。
 『お前が死刑執行人になるなんて實に飛んでもない事だ。世の中の人は私達一家の事を何んと批評するだらう。そんな考はもう廢めた方がいゝよ』
 母親は呆れ返つたといふ顔をして恁う叫んだ。そして又妻は
 『マア、そんな仕事は誰れか他の人にお譲りになつたがよいでせう。私は死刑などの事を耳>7>にするのも嫌です』
 と言ひ切つて、以後此事については一切く口を利かないと迄斷言した。
 しかし、それにも拘らず、私はどうしても死刑執行人にならうといふ決心を固めた、そこで急ぎ志願書を提出すると、四五日經つてから、倫敦の内務省に出頭する様にとの指令書が到着した。茲に斷つて置くが、英國では監獄吏や死刑執行人などの任免は勿論の事、其他監獄行政に關する一切の事項は、内務省の所管に屬して居るのである。
言ふ迄も無く、たとへ死刑執行人となつたからとて、さう毎日續いて死刑の執行がある譯ではない。そして私は全英國の總ゆる監獄で行はれる死刑を取扱つたのであるけれども、時としては數日間、又時としては數週間も無爲に手を空けて居る場合もないではなかつた。又死刑執行人となるにしても、法律は或適當の期間、其人に仕事の見習を要求することになつて居り其期間中は死刑執行のある度毎に、必ず本職の執行人の助手として働かねばならないのである」(pp.6-8:毎、空は旧字)

「私が愈々此助手としての任命を受けた時には、最早餘程老年のゼームス・ビリントンといふ>8>人が、本職の死刑執行人を勤めて居た。此人が其頃迄に手にかけた死刑囚は、實に數百人以上にも上り、死刑執行人といへば、アヽあのビリントンかと言はれる程、其名が全國に響いて居た。死刑執行人及び其助手は一定の月給を受けるのではなく、其行(や)つた仕事の分量に依て報酬を支拂はれることになつて居る。即ち死刑執行一回に付き助手は金弐磅(ポンド)(約我二十圓)本職の死刑執行人は金拾五磅(我約百五十圓)の報酬を支拂ふことにして居る。或時私は三日引續いて毎日一人宛の死刑を執行したことがある。即ち其所得は三日間金蔘拾磅(約我蔘百圓)で其外に實費として又幾らかの金が手に入つたのである。しかし、いつもいつも恁うした甘い報酬に有付けるものと思つてはいけない。仕事が恁んなに忙しい事は、十年に一度あつたか無い位のものである事を茲に斷つて置く」(pp8-9:毎は旧字)

「死刑執行人と其助手
 助手としての任務と、本職の死刑執行人としての任務との間に、頗る重大なる差違の存する事は、言はずして明かである。死刑執行に關する主たる仕事は、専ら後者の司る處で、而かもそれに付ての全責任も亦、當然彼に於て之を負はなければならないのだ。即ち毎死刑囚に付て其身體に適當するドロツプの長さを測つたり。絞首臺其物に故障は無いかどうかを確めたり、總ゆる附随的設備が完全して居るかどうかを調査したり、死刑囚に手錠を嵌めたり、彼れの顔に白い帽子を被せたり、其首に絞索の係蹄(わな)を嵌めたり、而して最後にあの致命的根杆を引いたりすることは、死刑執行の最も重要なる仕事であつて、是等は皆本職の執行人が自ら手を下さなければならないのである。>38>
 助手は其言葉の意味の示すが如く、單に死刑執行人の仕事を援助するに過ぎない。助手が單独でやる仕事といふのは、本職の死刑執行人が絞索の係蹄を死刑囚の首に嵌めたり、其顔に白い帽子を被せたりする間に其兩膝を革紐で縛る位の事である。否、此仕事さへも、時としては助手の手を煩はさずに濟ませることもある。>39>
 斯く述べたからとて、私は必ずしも助手が不必要であるといふのではない。否、實際をいふと、時々立會官吏が助手を省いてもよいではないかと慫慂する際にも、私は常に助手必要論を力強く主張し來つたのである。只だ私が茲で力説して置きたいと思ふのは、本職の死刑執行人の仕事と、其助手の仕事との間には、前述の如く極めて著しい差違の存在するといふ事である。蓋しさうして置けば、私が今茲に初めて本職の死刑執行人として總ての責任を負はなければならなくなつた時、私の心に果してどんな感想が湧いたかを、一層よく讀者に了解して貰へると考へたからである」(pp.38-40:毎は旧字)

◇Bailey, Brian 1989 Hangmen of England──A History of Execution from Jack Ketch to Albert Pierrepoint,London:W.H.Allen,206p. =199102 谷 秀雄 訳 『ハングマン──絞首刑執行人 ジャック・ケッチからアルバート・ピアポントに至る英国社会史の知られざる暗黒』,中央アート出版社,333p.+15p.

「ほとんどの死刑執行人は自らを公僕と考えたばかりでなく、政府の代理人であると考えがちであったようだが、(少なくとも厳密な法解釈に従えば)死刑執行人は政府の代理人ではなかった。ベリーは退職後「四人の内務大臣の下で働いた」と語った。彼は、「死刑執行人」は給料(サラリー)が与えられ年金が付く役人でなければならないと考え、職についてまもなく、このように変更することを議会で押し進めてくれるよう地元の国会議員に交渉した。「『仕事がなくなっていない』ことを確かめたくなるたびに、同胞が死刑を宣告されたかもしれないことを期待して新聞記事を精読しなければならないとは、ひどいことだと思う」と彼はのちに書いている。しかし、同様の提案は一八八四年に内務省によってすでに退けられていた。しかしながら、アバーデア委員会が設立されたとき、ベリーは委員会の議長に自分の地位に関する長い手紙を書いた。
 彼は回想録のなかで次のように指摘した。以前の何人かの死刑執行人たちは司法長官によって依頼料を支払われていたし、カールクラフトは週二五シリングの年金を受け取っていた(じっさいには一ギニーだったかもしれないが)、と。ベリーは、自分は公務員として年俸三五ポンド支払われるべきである、とアバーデア卿に提案した。ベリーの死刑執行は年平均二五回だったので、この数字は彼が出来高仕事で稼げると予想したよりもかなりの増額を意味していたが、彼は自分の要求を彼自身が死刑>167>執行人──他の誰も雇おうとはしない人、しかも子供を現在住んでいる町から離れた学校に入れるための出費を必要とする人となってわかった「特殊な社会的地位」を根拠として正当化した。彼は、考え直して、もし自分の訴えが却下される場合には、通常の処刑料に(フィー)に加えて、内務省から年間一ポンドの依頼料を授けて欲しい、と提案した。結局、彼の提案のいずれも受け入れられず、彼は現状に甘んじなければならなかった。
 じっさい、死刑執行による通常の収入では生活できないとベリーは主張したが、彼はこのときまで、絞首刑執行人に伝統的なやり方、つまり彼の使ったロープを売ったり、通常処刑が行われる直前に刑務所長によって手渡された絞首刑執行人への死刑執行を遂行することの公式委任状、といった他の記念品を売ったりして彼の収入を補っていた。彼以前の他の絞首刑執行人とのように、ベリーは自分が使うロープを買わなければならなかったし、ときには二度ならず同じロープを使いもしたが、特に悪名高い殺人者に用いられたロープの場合には、そのロープを売って彼はいつもかなりの利益を得ることができたのである」(pp.167-168)

「しかしながら、その後間もなく、絞首刑執行人のこういった臨時収入はなくなった。記念品に病的な趣味を持っていたある男がベリーからロープを買い、それを彼の同僚の乗客たちに列車のなかでみせびらかしたのだろう。少なくとも彼らの一人は、不快きわまりない遺物に魅惑されるなどということもなく、この胸の悪くなるような情景について内務大臣に手紙を書き、その結果、イングランドで行われる死刑執行に用いるロープはすべて今後は当局から支給され、使用後も政府の財産とする、という趣旨の法令が執行されたのである。それぞれのロープは一度だけ使用されるべきものとされ、使用後に処刑された人の衣服と一緒に燃やされた。処刑された人の衣服もまた以前には死刑執行人の臨時収入になっていたのだ。アイルランドやスコットランドに出向く死刑執行人たちは、その後も自分のロープを準備しなければならなかった」(p168)

「一九〇五年に、ベリーが深い良心を持っていることを打ち明けたもう一つの小さな本が出版された。彼は若いときに苦しみ以外の何ものも彼にもたらさなかった無分別な職業に従事していた。「私は今や、極刑という法律は過酷な重荷となって絞首刑執行人にのしかかり、人にそういった職業につくことを許すのは、彼をひどく虐待することだと考えている」と彼は書いたのである」(p183)

「オールダムから汽車でロッチデールに行く途中最初に出会う綿工場が、ヴィクトリア女王通りの男子中等学校(グラマー・スクール)の向かい側にあるイーグル工場である。イーグル紡績会社の発祥地であるこの工場で、若きジョン・エリスは、すぐ近くに住んでいた家族のために、学校を卒業してすぐ働かされたのであった。
 彼は四人兄弟の一番上で、下に二人の妹と一人の弟がいた。父ジョージェフ・エリスは床屋で、母は一八七四年十月四日に第一子として彼を産んだ。ジョージェフは、近所の人から尊敬されていた男で、裕福な暮らしをしていた。第一子として彼を産んだ。ジョージェフは、近所の人から尊敬されていた男で、裕福な暮らしをしていた。オールダム通りを下り、「運河とロンドン中部およびスコットランド鉄道」を越えて、彼は自分の仕事を広げた。彼は町の不動産に投資して「相当な数の家」の所有者に>213>なった。
 彼が繁盛したのは、大部分、当時の町の一般的安寧に彼が無慈悲であったことに起因する。彼は、倹約のため、無理やり娘の一人ヘレンを泡たての仕事をさせて店で働かせた。彼頑丈な身体の中背の男で、躾にたいへん厳しかった。政治的には自由主義者であったが、他のことに関してはかなり偏狭であった。彼はメソジストでありファンダメンタリストであって、家族はレッド・スクールとして知られたオールダム通りの教会に通っていた。
 目立たない生徒だったジョン・エリスは学校を卒業し、イーグル工場で就いた仕事は外皮を剥ぎ、粉を挽くことだった。二〇歳のとき、彼はミドルトン教区教会で、同じ工場で働くアニー・ビートン・ウィットワースと結婚した。花嫁は二二歳で、結婚式は一八九五年四月二〇日に行われた。若いカップルは、バルダーストーンに家を建て、人が予想するような平均的労働者の家庭というありきたりの生活に落ち着いた。しかし、まもなく予期しなかった方向に事態は変化した。
 ある晩、ジョン・エリスは、ビクトリア女王通りの工場近くに住む作業長ホプキンス氏の家を訪ね、推薦状を書いてくれるように頼んだ。ホプキンス氏は、この若者が死刑執行人の職に応募したいというのを聞いてさして驚かなかった。家に帰って一週間よく考え家族と相談してきなさい、そしてまだ応募したかったらもう一度来なさい、と慎重に彼はエリスに語った。一週間後、エリスは戻ってきてもう一度頼み、やがて、三通以上にもなる推薦状を入れた応募書類を内務省に送った。こんな辛い仕事に応募する者は少なく、内務省は、適任だという印象を持った。ロッチデールの州警察長官の機密報告が、彼の証明書が本物で、エリスがふさわしい性格の持ち主であることを確認していたのだ。>214>写真>215>
 アニー・エリスは夫の決心に少しも喜ばなかったが、彼は心を決めていたのであり、彼女には彼を止める手立ては何もなかった。しかし、ジョージェフ・エリスがこのことを耳にしたとき、彼は激怒した。死刑執行人になろうなどという考えは父親をびっくりさせたに決まっており、尊敬された商人としての彼の地位を脅かしたはずであった。「あっちこっちをめちゃくちゃにし」、躊躇せず親子の縁を切ってはじめて、彼の怒りは静まったのである。一方、ジョン・エリスは後悔せず、内務省からの返事を待った。
 こんな職をなぜ選んだのかと尋ねる新聞記者に、彼は次のように答えたと報じられている。「なぜと言われてもほとんどわからない、でも影響されて選んだわけではない。僕は他の若者と一緒に空席になっていた絞首刑執行人の助手の職に応募したのだから、僕は幸運だったのだと思う。この職をはじめて知ったのは、友人と一緒に死刑執行の記事を読んだときだったと思うが、友人の一人が僕にこう言ったのだ、『おい、人の首を吊るす勇気なんてないだろう』って。僕はできるだろうと言った――そしてじっさいにできたのさ」
 これは、ほとんど説明になっていない、たぶん、エリス自身にも本当の理由はわからないのだろう。彼は反省ばかりしているような内向的な性格ではなかった。この職は広告された訳ではなかったが、内務省は絞首刑執行人を志望する者から週に平均五通の志願書を受け取っていた。もちろん、なかにはましな志願者もおり、あとから強い義務感を持ち得る者――エリスもそうだった――もいたにしても、ほとんどの志願書は変わり者からのもので、共同体を維持したいというわれを忘れた欲求が純粋にある者などいなかった>216>
 (中略)
 何れにせよ、エリスは工場のベルに起こされて、毎朝、丸石を敷き詰めた通りを鬱々と進む群集の一人でいることに満足しなかったのである。結果が出るまでたいして時間はかからなかった。彼の手紙は見込みのあるものと選ばれた一つだった。所長と面接するためにニューゲート刑務所に来るように招かれ、所長はよい印象を持ち一週間ニューゲートで訓練を受けるように勧めた。エリスはこの刑務所が廃止になる前に訓練を受けた最後の死刑執行人の一人であった。彼は申し分のない実習生であることを証明し、自分が州の司法長官に渡される公職殺人官(オフィシャル・キラーズ)の名簿に載ることを確信して、一九〇一年五月の週末にロッチデールに帰った。
 このときまでに、選らばれた応募者すべては、彼らが望んだ身分についての記録に載っていた。この記録には「どんな者にも、公共業務に関する詳細を漏らしてはならない」という禁止事項が含まれていた。それゆえ、『デイリー・メール』紙が一九〇一年一二月一四日の紙面で、エリスが助手に任命されると発表したとき、彼は即座に、期待される行動基準に従わない場合は免職になりうると警告>217>された」(pp.213-218)

「エリスの親類が私に語ったところでは、彼は決して自分の仕事の話しをしなかった。エリスが家族に仕事の話しを決してしなかったということは本当だろうし、彼の妻は、ベリー夫人と同じように、仕事のことに関して決して質問をしないように心得ていた、とエリスはその回想録で述べている。しかし、特に酔っているときには、ときどき親しい友人に彼が仕事の話しをしたということも、また同じように確かだ。彼は犠牲者の話しをするとき「絞首した」とか「処刑した」という言葉をいつも避け、代わりに「始末する」という表現を使った。ことに死刑執行人の地位が何であるかは「職務上の秘密」に関連して明白ではなかったのだから、当局が彼に注いだ信頼を彼が裏切ったと言うのは言い過ぎであおう。内務省はこの問題に関してずっと頑なに沈黙したままだったのである。……(中略)……>232>
 エリスにとって誰かに話したいという誘惑は、ときおり彼が感じた自分が社会的に排斥されているとの印象によって、いっそう強められたのかもしれなかった。「私が近寄ると、会話が突然途切れたのです」と彼は告白している。「そして、戦慄の間の展示物を見るような目を私に向けているのを感じました。彼らは、紹介されたとき私と握手するのを避けました。――殺人者を縛り、絞首台のレバーを引く私の手を握ると思うと彼らはゾッとしたのです。社会的には、絞首刑執行人であるとは、忌まわしい職業なのです。」」(pp.232-233)

フレデリック・ウォレス・ブレイク少佐は、経験豊かでかなり慈悲深い刑務所役人だった。彼は一九一九年にペントンヴィル刑務所の所長に任命され、一一回の死刑執行を目撃した。死刑は擁護し得ないものだという確信に支えられて、彼はこう書いている。「ある男がまさに絞首されようとするとき、あたかも罪に荷担しているかのように、なぜわれわれは恐怖を感じるのであろうか。清浄なものではなく、何か不浄なものを、なぜわれわれは感じるのか。それは、私だけの感情ではなく、絞首刑を補佐する看守たちの感情でもあるのだ。彼らは、気を取り戻すために蒸留酒(スピリッツ)を飲む。このおぞましい形態の刑罰がもはや存在しなくなるとき、私は喜びを感ずるでしょう。この刑罰はぞっとするほどの苦痛なのだ。なぜなら、人は打ひしがれた者の思考は刑務所中に反響するかのように、彼が通り抜けて行く恐怖がわれわれに伝播するから。だから、どんな囚人も>237>皆独房にあって顔面蒼白で、処刑台への行列で神経は張りつめている。この哀れな男が墓場に行き、神に召されるまで、刑務所には物音ひとつ聞かれない。」」(pp.237-238)
 
「彼の辞職願いは受理されたので、エリスはリーズで彼の最後の死刑執行を遂行した。彼は不滅のジャック・ケッチと同じ長期間、この仕事を勤めたのだった。このときまでに二三年というケッチの期間を越えた絞首刑執行人はほんの四人にすぎなかった。エリスは二〇三回の死刑執行を行い、そのうちのいくつかはスコットランドとアイルランドでなされた。スコットランドでは、処刑料(フィー)はイングランドより高かった――必要経費を加えて一五ポンドが支払われた。だからたぶん、公職死刑執行人(オフィシャル・ハングマン)としての一六年間、年間平均約九〇ポンドを受け取っていたのであり、同胞の男女を死に至らしめることで総額二〇〇〇ポンド近くを稼いだのであった」(p.247)

「エリス夫人は、八月二四日の早朝、一時頃に、ズドンという銃声で眠りを覚まされ、階段を降りていって、首から激しく血を流しながら居間の床に倒れている夫を発見した。すぐそばに拳銃が転がっていた。彼女は夫に包帯を巻き、警察を呼び、駆けつけた警察官は、エリスが顔を包帯でまかれ、血塗られたシャツを着て椅子に座っているのを見た。彼はどうにかその巡査に言うことができた、「自分で自分を撃ったのだ。申し訳ありません。他に言うこともありません。」彼は病院に運ばれ、折れた顎>248>の治療をした。銃弾は、顎の下の首から入り、上顎へと貫通していた。
 翌週の水曜日、エリスの怪我が十分に回復して、彼はロッチデール下級裁判所に連行され、自殺未遂で告発された」(pp.248-249)

「二〇日火曜日、エリスはいつもより遅く帰宅した。お茶を飲み、煙草を吸いに居間に入った。酒は飲み続けていた。七時一五分に彼は食卓につき、お茶を一杯飲み、軽い食事をした。エリス夫人と娘のアイヴィーは台所にいた。突然、エリスは椅子から飛び上がり、ワイシャツのカラーを引き抜き、台所に突進した。棚から剃刀を取り出し「殺してやる」と叫んだ。妻は家の外に駆け出した。びっくりした娘はどうしたものかと尋ねたが、前かがみになってエリスは、「頭を切り取ってやる」と叫んだ。娘もまた外に逃れたとき、彼女の兄がその場に現れた。
 彼は家に入って、手にまだ剃刀を持ち、喉に二つ深手を負い、床に倒れている父親を見た。警官が到着したとき、血の海にうつ伏せになって横たわっているエリスを目にした。死刑執行人エリスは自分の最後の仕事をしたのだった」(p254)

▲イギリス補足
◇英国死刑事情メモ(文責:櫻井悟史)
 1829年ロンドンに警察制度が導入され、1837年に死刑相当罪が15に減少、さらに1861年には殺人罪、反逆罪、海賊行為、特殊放火罪の4種だけが死刑相当罪になった(柳本1970:28)。1908年、16歳以下の少年に対する死刑が廃止され、1930年にその年齢は18歳に引き上げられ、さらに1948年には21歳にまで引き上げられた。1928年、死刑廃止法案が提出され5年間の試験的死刑廃止を勧告したが、これは否決される。しかし、1930年以来、「死刑に関する特別委員会」が設置され、死刑廃止は下院に訴え続けられた。その成果もあって、1948年の死刑廃止法案は賛成254、反対222で下院を通過するが、上院で賛成28、反対181で否決されてしまう(斎藤1980:13)。同年には、死刑制度の問題を議論するために、王立委員会が設置されたが、それが死刑廃止に決定的な役割を果たしたわけではなかった(石塚2003:46)。
 イギリスの死刑問題を大きく動かしたのは、ティモシー・エヴァンズ事件で、この事件は、自分の妻子を殺害した罪で1950年に死刑となったティモシー・エヴァンズが、処刑から三年後に無罪が判明した、いわゆる冤罪事件である。(伊藤・木下編1992:128)
 ティモシー事件の真犯人が捕まった1953年、ロンドンに近いマーローで巡査傷害事件が起こったが、直前に起きた誤判事件の反省から、犯人と思われた人物は懲役刑となった(正木1968:97)。その二年後、この事件も誤判であったことが判明し、真犯人が逮捕されるにいたると、もしも死刑だったら取り返しがつかないところだったという意識が死刑廃止論者の間で確信的に浸透した。1955年、1956年と続けて死刑廃止法案が提出されているのは、その事件の影響である(ただし、この法案も退けられている)。
 1957年、殺人罪に等級をつけるという「殺人罪法」(The Homicide Act 1957)が成立する(柳本1970:28)。これによって、死刑相当罪とそうでないものとが分けられたが、この法律には問題点があった。それは、減弱責任(Diminished Responsibility)という概念についてであり、これによって、たとえば銃ではなくナイフで殺せば死刑は免れる、というような抜け道が多数用意されてしまったのである。このため「殺人罪法」には多数の非難が寄せられた(柳本:28-9)。
 これを受けて、1964年11月8日に「殺人(死刑廃止)法」(The Murder 〔Abolition of Death Penalty〕 Act)が両院を通過し、1965年10月28日に成立することとなった。これは、5年間、試験的に死刑の執行を中止するという時限立法であった。この有効期限が切れる前の1969年にウィルソン内閣は死刑永久廃止法案を下院に提出し、1969年12月16日に343票対185票で下院を通過した(斎藤1980:14)。このとき、死刑廃止は時期尚早ということで、現行法の試験期間を73年3月まで延長するという修正動議が出されたが、賛成174票、反対220票で退けられ、死刑永久廃止法案は成立するにいたった。ただし、これは上述した4種の死刑相当罪のうち、殺人罪に対する死刑を廃止しただけであり、また陸、海、空軍の刑法では死刑が適用されるので、完全な死刑廃止法案ではなかった。
 イギリスで死刑が完全に廃止されたのは1998年5月のことである。また、翌1999年には欧州人権規約第六議定書、ならびに、市民的及び政治的権利に関する国際規約第二選択議定書を批准した。これらは、いずれも例外なく死刑を認めないという宣言である。

(参考文献)
石塚 伸一 監修 2003 『国際的視点から見た終身刑──死刑代替刑としての終身刑をめぐる諸問題』,成文堂
伊藤 公雄・木下 誠 編, 1992, 『こうすればできる死刑廃止──フランスの教訓』, インパクト出版会
正木 亮 1968 『現代の恥辱――わたくしの死刑廃止論』,矯正協会
斉藤静敬, 1980, 『新版 死刑再考論』, 成文堂
柳本 正春 1970 「イギリスにおける死刑制度の廃止」『法律時報』42(6):27‐32

*作成・担当者:櫻井 悟史 追加者:
UP:20080911 REV: 20160526
犯罪/刑罰  ◇「死刑執行人」
TOP HOME (http://www.arsvi.com)