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『ハングマン──絞首刑執行人 ジャック・ケッチからアルバート・ピアポントに至る英国社会史の知られざる暗黒』

Bailey, Brian 1989 Hangmen of England──A History of Execution from Jack Ketch to Albert Pierrepoint,London:W.H.Allen,206p.
=199102 谷 秀雄 訳,中央アート出版社,333p.+15p.


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■Bailey, Brian 1989 Hangmen of England──A History of Execution from Jack Ketch to Albert Pierrepoint,London:W.H.Allen,206p. =199102 谷 秀雄 訳 『ハングマン──絞首刑執行人 ジャック・ケッチからアルバート・ピアポントに至る英国社会史の知られざる暗黒』,中央アート出版社,333p.+15p. ISBN-10:4886396038 ISBN-13:978-4886396037 \2243 [amazon] c0134

■内容(「BOOK」データベースより)
絞首刑執行人(ハングマン)たちの亡霊は何を物語るのか?17世紀から今日に及ぶイギリスの絞首刑執行人たちにスポットをあて、血塗られた歴史の脱落を明るみに出す画期的試み。

■目次
序 ベイリーの舞踏場で踊る
1 任命による貴族の虐殺者たち
2 タイバーンへの長い行進
3 罪なき人びとの虐殺
4 使い古したロープの金額
5 長い落下
6 “少しも困らない”
7 名家の人びと
8 誰がために鐘は鳴る
9 “家業”
10 過剰の絞首刑執行人
あとがき
人名索引/出典/参考文献

■引用

「死刑執行人は、ロープの扱いと同じように斧の扱いにも熟練した首切り役人や絞首刑執行人として勤めるだけでなく、手足の切断や公開の笞打ち、焼き印押しや火刑や他のあらゆる、残酷な社会のバカげた「正義」という観念の付属物を遂行することもまた要求されたので、非人間的な技巧の何にでも向く代表的人物でなければならなかった。かつて公職死刑執行人に共通の渾名は、残忍な法律が一七年のあいだ(一五三〇〜四七年)施行され、毒殺者は死ぬまでゆで上げる(ボイルド)という刑を宣告されていたので、「ウィリアム・ボイルマン」であった。また、死刑執行人はペーヌ・フォルト・エ・デュールの刑罰、すなわち圧殺することも実行した。その刑罰では、起訴された罪を認めるか、あるいは死ぬまで、床に磔にされた犠牲者の胸に重量のある重りを載せたのである。犠牲者が罪を告白したとしても、彼はこの受難のあとに絞首刑に処されたらしい。そしてこの刑罰は、ニューゲート監獄の一部が>16>プレス・ヤードと呼ばれていたほど、かつてよく行われていたのである」(pp.16-17)

「ケッチに纏わる憎悪は非常に大きく、「ジャック・ケッチ」という渾名は、優に一〇〇年以上にわたってケッチのあとのすべての絞首刑執行人に一般的に用いられ、「ジャック・ケッチがお前を連れに来るぞ」と脅すと、子供たちは恐れをなしておとなしくなった。……(中略)……他の誰にも増してケッチに、近代における公職死刑執行人(パブリック・ハングマン)を卑しからぬ社会が忌避する悪役にしたことの責任があった。以後、絞首刑執行人は村八分の対象、つまり普通の人間から隔離された人殺しであった」(p25)

「平民の公職絞首刑執行人(コモン・ハングマン)が、大半の庶民、ことに貧しい人たち、社会的境遇から絞首刑執行人の犠牲者になりがちであった人びとからひどくさげすまれていたのはそれほど驚くべきことではない。一七六八年四月にキングストン=オン=テムズでターリスが三人の男を絞首したとき、暴徒が彼に石を投げつけ、ターリスは切り傷と打撲傷を負った。また、翌年の三月にサウスウォークである男を曝し台>62>に据えたとき、ターリスはまたもや頭と顔に切り傷と打撲傷を負った。
 フロイトが『トーテムとタブー』で指摘したように、刑罰は「それを遂行する人びとに、贖罪という行為を装って、同様の非道な行いを犯かす機会を与えるであろうこと、稀ではない。じっさい、これが人類の刑罰体系の根源の一つであり、禁じられた衝動が犯罪的社会と復讐的社会とに等しく存在しているとの前提に刑罰が基礎づけられるのは、あきらかに正しいのである。」」(pp.62-63)

「ターリスの死から一二年後の、一七八三年に、タイバーンで最後の死刑が行われた。六世紀以上ものあいだ、キリスト教国の法の名の下に、イングランドの男や女、子供がさまざまに笞打ち、手足切断、絞首、火あぶり、斬首、内臓摘出などされていた場所が、急速に拡大する首都には邪魔になったのである。五万人もの人がそこで殺されたであろうと推定されている。その後、首都での死刑執行の主たる場所は中央刑事裁判所(オールド・ベイリー)の改築されたニューゲート監獄の正面となった」(p65)

「一八六七年一一月にサルフォード監獄の外で三人を絞首して、カールクラフトはその仕事を終えた。彼が、給料で雇われて、ロンドンとミドルセックスを離れて働いたときは、死刑執行毎に一〇ポンドを州の司法長官に請求したので、結局彼はこの仕事で三〇ポンド稼いだのである。三人の男は「マンチェスターの殉教者」として知られるようになった。
 しかし、カールクラフトはまだアイルランド人との関係を断てなかった。カールクラフトに対する敵意は、翌年もう一人の若いフェニアン団員マイケル・バーレットがクラーケンウェルでの爆破事件に荷担した廉でロンドンで死刑を宣告されたときまで続いた。その爆破事件ではアイルランド人の囚人を逃がそうとしてクラーケンウェルの地元の留置場の塀の一部が爆破され、子供を含む罪もない何人かの人が殺されたのだった。カールクラフトは一八六八年にニューゲートでバーレットを絞首刑に処した。バーレットは爆破事件のときにはグラスゴーにいたと主張し、彼を信じた者も多かった。騒がしい群衆を無視して、ただ死の祈りを唱えている司祭に注意を払いながら、彼は静かに処刑台に立った。カールクラフトの犠牲者の一人としては異例にも、彼はあがき苦しむことなく死に、一時間後>120>にカールクラフトが死体を降ろしに戻ってきたとき、絞首刑執行人カールクラフトは罵詈雑言を浴びせられ、群衆の一人が叫んだ、「とっととやれ、死体泥棒!」
 とかくするうちに、公開で遂行された死刑は利点よりも害悪の多い風紀を乱す見せ物となっていることを、遅蒔きながら、またしぶしぶではあったが、当局はついに納得するようになった。〔死刑の公開は〕抑止力として働くよりはむしろ、生命が安価な価値のないものだいう(ママ)考えを一般に強化して、おそらく意図された効果とはまさに反対の効果をもたらしたのである。この問題を調査するために特別委員会が設けられ、元警察部長ヘインズのような人びとの証言にもかかわらず、公開の死刑執行を廃止することを勧告したのはパーマー医師の処刑の年〔一八五六年〕であった。ヘインズは死刑がほとんど抑止的効果を持たないというのが彼の意見であるかどうかを尋ねられたとき、こう答えたのであった。「まったく逆だ。極刑は犯罪が犯されるのをかなり防止していると私は確信している。私は、もし極刑がなくなれば、この国では何人の生命も安全ではあり得ないということにわずかの疑問も抱いてはいない。」
 しかしながら、事実は彼の証言とは逆であることを委員会は理解した。委員会のメンバーはトーマス・ウィックスの場合のような多くの事例を知ったのである。ウィックスはカールクラフトが一八四六年に殺人罪で絞首刑に処したのだが、彼は数年のあいだロンドンでの絞首刑の大部分を目撃していたのだ。絞首されている罪人自身がスリであったとしても、公開の処刑以上にスリの腕を研く機会を与えてくれる群衆はいないということをあきらかにした、一八〇〇年代初期の多くの目撃者の報告を、委員会のメンバーたちはよく知るようになったのだ。>121>
 とは言え、調査委員会が開かれてから一二年たっても英国の千年以上にわたる一つの伝統であった公開の死刑執行が最終的に消滅することはなかった。公開の死刑執行は死刑改正法(アクト)によって廃止されたのである。一八六八年五月二六日のマイケル・バーレットの死刑執行が英国での最後の公開の死刑執行であり、一番解放されたのはカールクラフトであった。四月二日にメイドストーンにおいて殺人罪でカールクラフトが絞首刑に処したフラーンセス・キッダー嬢は結局公開で処刑された最後の女性となった」(pp.120-122)

「ほとんどの死刑執行人は自らを公僕と考えたばかりでなく、政府の代理人であると考えがちであったようだが、(少なくとも厳密な法解釈に従えば)死刑執行人は政府の代理人ではなかった。ベリーは退職後「四人の内務大臣の下で働いた」と語った。彼は、「死刑執行人」は給料(サラリー)が与えられ年金が付く役人でなければならないと考え、職についてまもなく、このように変更することを議会で押し進めてくれるよう地元の国会議員に交渉した。「『仕事がなくなっていない』ことを確かめたくなるたびに、同胞が死刑を宣告されたかもしれないことを期待して新聞記事を精読しなければならないとは、ひどいことだと思う」と彼はのちに書いている。しかし、同様の提案は一八八四年に内務省によってすでに退けられていた。しかしながら、アバーデア委員会が設立されたとき、ベリーは委員会の議長に自分の地位に関する長い手紙を書いた。
 彼は回想録のなかで次のように指摘した。以前の何人かの死刑執行人たちは司法長官によって依頼料を支払われていたし、カールクラフトは週二五シリングの年金を受け取っていた(じっさいには一ギニーだったかもしれないが)、と。ベリーは、自分は公務員として年俸三五ポンド支払われるべきである、とアバーデア卿に提案した。ベリーの死刑執行は年平均二五回だったので、この数字は彼が出来高仕事で稼げると予想したよりもかなりの増額を意味していたが、彼は自分の要求を彼自身が死刑>167>執行人──他の誰も雇おうとはしない人、しかも子供を現在住んでいる町から離れた学校に入れるための出費を必要とする人となってわかった「特殊な社会的地位」を根拠として正当化した。彼は、考え直して、もし自分の訴えが却下される場合には、通常の処刑料に(フィー)に加えて、内務省から年間一ポンドの依頼料を授けて欲しい、と提案した。結局、彼の提案のいずれも受け入れられず、彼は現状に甘んじなければならなかった。
 じっさい、死刑執行による通常の収入では生活できないとベリーは主張したが、彼はこのときまで、絞首刑執行人に伝統的なやり方、つまり彼の使ったロープを売ったり、通常処刑が行われる直前に刑務所長によって手渡された絞首刑執行人への死刑執行を遂行することの公式委任状、といった他の記念品を売ったりして彼の収入を補っていた。彼以前の他の絞首刑執行人とのように、ベリーは自分が使うロープを買わなければならなかったし、ときには二度ならず同じロープを使いもしたが、特に悪名高い殺人者に用いられたロープの場合には、そのロープを売って彼はいつもかなりの利益を得ることができたのである」(pp.167-168)

しかしながら、その後間もなく、絞首刑執行人のこういった臨時収入はなくなった。記念品に病的な趣味を持っていたある男がベリーからロープを買い、それを彼の同僚の乗客たちに列車のなかでみせびらかしたのだろう。少なくとも彼らの一人は、不快きわまりない遺物に魅惑されるなどということもなく、この胸の悪くなるような情景について内務大臣に手紙を書き、その結果、イングランドで行われる死刑執行に用いるロープはすべて今後は当局から支給され、使用後も政府の財産とする、という趣旨の法令が執行されたのである。それぞれのロープは一度だけ使用されるべきものとされ、使用後に処刑された人の衣服と一緒に燃やされた。処刑された人の衣服もまた以前には死刑執行人の臨時収入になっていたのだ。アイルランドやスコットランドに出向く死刑執行人たちは、その後も自分のロープを準備しなければならなかった」(p168)

「一九〇五年に、ベリーが深い良心を持っていることを打ち明けたもう一つの小さな本が出版された。彼は若いときに苦しみ以外の何ものも彼にもたらさなかった無分別な職業に従事していた。「私は今や、極刑という法律は過酷な重荷となって絞首刑執行人にのしかかり、人にそういった職業につくことを許すのは、彼をひどく虐待することだと考えている」と彼は書いたのである」(p183)

「新聞による絞首刑執行人の追跡を加速させていたのは、ベリーの時代に新聞で報道されていた身の毛もよだつような失策が大きな原因となって、今や死刑執行を包み隠してしまった秘密主義の覆いであった。司法長官たちは、新聞記者を完全に締め出すか、記事が簡潔で扇情的でないことを確実にするよう勧告を受けた。言い換えれば、内務省は出版の自由を束縛しようとしていたのである。今後は、英国国民に代わってなされる死刑執行は秘密裡になされなければならなかった。公務機密法(アクト)の圧力で、刑務所役人たちは死刑についてもっとも基本的な事実以外の何事であれあきらかにすることを禁止されていたのである」(p191)

「オールダムから汽車でロッチデールに行く途中最初に出会う綿工場が、ヴィクトリア女王通りの男子中等学校(グラマー・スクール)の向かい側にあるイーグル工場である。イーグル紡績会社の発祥地であるこの工場で、若きジョン・エリスは、すぐ近くに住んでいた家族のために、学校を卒業してすぐ働かされたのであった。
 彼は四人兄弟の一番上で、下に二人の妹と一人の弟がいた。父ジョージェフ・エリスは床屋で、母は一八七四年十月四日に第一子として彼を産んだ。ジョージェフは、近所の人から尊敬されていた男で、裕福な暮らしをしていた。第一子として彼を産んだ。ジョージェフは、近所の人から尊敬されていた男で、裕福な暮らしをしていた。オールダム通りを下り、「運河とロンドン中部およびスコットランド鉄道」を越えて、彼は自分の仕事を広げた。彼は町の不動産に投資して「相当な数の家」の所有者に>213>なった。
 彼が繁盛したのは、大部分、当時の町の一般的安寧に彼が無慈悲であったことに起因する。彼は、倹約のため、無理やり娘の一人ヘレンを泡たての仕事をさせて店で働かせた。彼頑丈な身体の中背の男で、躾にたいへん厳しかった。政治的には自由主義者であったが、他のことに関してはかなり偏狭であった。彼はメソジストでありファンダメンタリストであって、家族はレッド・スクールとして知られたオールダム通りの教会に通っていた。
 目立たない生徒だったジョン・エリスは学校を卒業し、イーグル工場で就いた仕事は外皮を剥ぎ、粉を挽くことだった。二〇歳のとき、彼はミドルトン教区教会で、同じ工場で働くアニー・ビートン・ウィットワースと結婚した。花嫁は二二歳で、結婚式は一八九五年四月二〇日に行われた。若いカップルは、バルダーストーンに家を建て、人が予想するような平均的労働者の家庭というありきたりの生活に落ち着いた。しかし、まもなく予期しなかった方向に事態は変化した。
 ある晩、ジョン・エリスは、ビクトリア女王通りの工場近くに住む作業長ホプキンス氏の家を訪ね、推薦状を書いてくれるように頼んだ。ホプキンス氏は、この若者が死刑執行人の職に応募したいというのを聞いてさして驚かなかった。家に帰って一週間よく考え家族と相談してきなさい、そしてまだ応募したかったらもう一度来なさい、と慎重に彼はエリスに語った。一週間後、エリスは戻ってきてもう一度頼み、やがて、三通以上にもなる推薦状を入れた応募書類を内務省に送った。こんな辛い仕事に応募する者は少なく、内務省は、適任だという印象を持った。ロッチデールの州警察長官の機密報告が、彼の証明書が本物で、エリスがふさわしい性格の持ち主であることを確認していたのだ。>214>写真>215>
 アニー・エリスは夫の決心に少しも喜ばなかったが、彼は心を決めていたのであり、彼女には彼を止める手立ては何もなかった。しかし、ジョージェフ・エリスがこのことを耳にしたとき、彼は激怒した。死刑執行人になろうなどという考えは父親をびっくりさせたに決まっており、尊敬された商人としての彼の地位を脅かしたはずであった。「あっちこっちをめちゃくちゃにし」、躊躇せず親子の縁を切ってはじめて、彼の怒りは静まったのである。一方、ジョン・エリスは後悔せず、内務省からの返事を待った。
 こんな職をなぜ選んだのかと尋ねる新聞記者に、彼は次のように答えたと報じられている。「なぜと言われてもほとんどわからない、でも影響されて選んだわけではない。僕は他の若者と一緒に空席になっていた絞首刑執行人の助手の職に応募したのだから、僕は幸運だったのだと思う。この職をはじめて知ったのは、友人と一緒に死刑執行の記事を読んだときだったと思うが、友人の一人が僕にこう言ったのだ、『おい、人の首を吊るす勇気なんてないだろう』って。僕はできるだろうと言った――そしてじっさいにできたのさ」
 これは、ほとんど説明になっていない、たぶん、エリス自身にも本当の理由はわからないのだろう。彼は反省ばかりしているような内向的な性格ではなかった。この職は広告された訳ではなかったが、内務省は絞首刑執行人を志望する者から週に平均五通の志願書を受け取っていた。もちろん、なかにはましな志願者もおり、あとから強い義務感を持ち得る者――エリスもそうだった――もいたにしても、ほとんどの志願書は変わり者からのもので、共同体を維持したいというわれを忘れた欲求が純粋にある者などいなかった>216>
 (中略)
 何れにせよ、エリスは工場のベルに起こされて、毎朝、丸石を敷き詰めた通りを鬱々と進む群集の一人でいることに満足しなかったのである。結果が出るまでたいして時間はかからなかった。彼の手紙は見込みのあるものと選ばれた一つだった。所長と面接するためにニューゲート刑務所に来るように招かれ、所長はよい印象を持ち一週間ニューゲートで訓練を受けるように勧めた。エリスはこの刑務所が廃止になる前に訓練を受けた最後の死刑執行人の一人であった。彼は申し分のない実習生であることを証明し、自分が州の司法長官に渡される公職殺人官(オフィシャル・キラーズ)の名簿に載ることを確信して、一九〇一年五月の週末にロッチデールに帰った。
 このときまでに、選らばれた応募者すべては、彼らが望んだ身分についての記録に載っていた。この記録には「どんな者にも、公共業務に関する詳細を漏らしてはならない」という禁止事項が含まれていた。それゆえ、『デイリー・メール』紙が一九〇一年一二月一四日の紙面で、エリスが助手に任命されると発表したとき、彼は即座に、期待される行動基準に従わない場合は免職になりうると警告>217>された」(pp.213-218)

「エリスの親類が私に語ったところでは、彼は決して自分の仕事の話しをしなかった。エリスが家族に仕事の話しを決してしなかったということは本当だろうし、彼の妻は、ベリー夫人と同じように、仕事のことに関して決して質問をしないように心得ていた、とエリスはその回想録で述べている。しかし、特に酔っているときには、ときどき親しい友人に彼が仕事の話しをしたということも、また同じように確かだ。彼は犠牲者の話しをするとき「絞首した」とか「処刑した」という言葉をいつも避け、代わりに「始末する」という表現を使った。ことに死刑執行人の地位が何であるかは「職務上の秘密」に関連して明白ではなかったのだから、当局が彼に注いだ信頼を彼が裏切ったと言うのは言い過ぎであおう。内務省はこの問題に関してずっと頑なに沈黙したままだったのである。……(中略)……>232>
 エリスにとって誰かに(ファイル作成者註:強調本書著者)話したいという誘惑は、ときおり彼が感じた自分が社会的に排斥されているとの印象によって、いっそう強められたのかもしれなかった。「私が近寄ると、会話が突然途切れたのです」と彼は告白している。「そして、戦慄の間の展示物を見るような目を私に向けているのを感じました。彼らは、紹介されたとき私と握手するのを避けました。――殺人者を縛り、絞首台のレバーを引く私の手を握ると思うと彼らはゾッとしたのです。社会的には、絞首刑執行人であるとは、忌まわしい職業なのです。」」(pp.232-233)

「フレデリック・ウォレス・ブレイク少佐は、経験豊かでかなり慈悲深い刑務所役人だった。彼は一九一九年にペントンヴィル刑務所の所長に任命され、一一回の死刑執行を目撃した。死刑は擁護し得ないものだという確信に支えられて、彼はこう書いている。「ある男がまさに絞首されようとするとき、あたかも罪に荷担しているかのように、なぜわれわれは恐怖を感じるのであろうか。清浄なものではなく、何か不浄なものを、なぜわれわれは感じるのか。それは、私だけの感情ではなく、絞首刑を補佐する看守たちの感情でもあるのだ。彼らは、気を取り戻すために蒸留酒(スピリッツ)を飲む。このおぞましい形態の刑罰がもはや存在しなくなるとき、私は喜びを感ずるでしょう。この刑罰はぞっとするほどの苦痛なのだ。なぜなら、人は打ひしがれた者の思考は刑務所中に反響するかのように、彼が通り抜けて行く恐怖がわれわれに伝播するから。だから、どんな囚人も>237>皆独房にあって顔面蒼白で、処刑台への行列で神経は張りつめている。この哀れな男が墓場に行き、神に召されるまで、刑務所には物音ひとつ聞かれない。」」(pp.237-238)
 
「彼の辞職願いは受理されたので、エリスはリーズで彼の最後の死刑執行を遂行した。彼は不滅のジャック・ケッチと同じ長期間、この仕事を勤めたのだった。このときまでに二三年というケッチの期間を越えた絞首刑執行人はほんの四人にすぎなかった。エリスは二〇三回の死刑執行を行い、そのうちのいくつかはスコットランドとアイルランドでなされた。スコットランドでは、処刑料(フィー)はイングランドより高かった――必要経費を加えて一五ポンドが支払われた。だからたぶん、公職死刑執行人(オフィシャル・ハングマン)としての一六年間、年間平均約九〇ポンドを受け取っていたのであり、同胞の男女を死に至らしめることで総額二〇〇〇ポンド近くを稼いだのであった」(p.247)

「エリス夫人は、八月二四日の早朝、一時頃に、ズドンという銃声で眠りを覚まされ、階段を降りていって、首から激しく血を流しながら居間の床に倒れている夫を発見した。すぐそばに拳銃が転がっていた。彼女は夫に包帯を巻き、警察を呼び、駆けつけた警察官は、エリスが顔を包帯でまかれ、血塗られたシャツを着て椅子に座っているのを見た。彼はどうにかその巡査に言うことができた、「自分で自分を撃ったのだ。申し訳ありません。他に言うこともありません。」彼は病院に運ばれ、折れた顎>248>の治療をした。銃弾は、顎の下の首から入り、上顎へと貫通していた。
 翌週の水曜日、エリスの怪我が十分に回復して、彼はロッチデール下級裁判所に連行され、自殺未遂で告発された」(pp.248-249)

「二〇日火曜日、エリスはいつもより遅く帰宅した。お茶を飲み、煙草を吸いに居間に入った。酒は飲み続けていた。七時一五分に彼は食卓につき、お茶を一杯飲み、軽い食事をした。エリス夫人と娘のアイヴィーは台所にいた。突然、エリスは椅子から飛び上がり、ワイシャツのカラーを引き抜き、台所に突進した。棚から剃刀を取り出し「殺してやる」と叫んだ。妻は家の外に駆け出した。びっくりした娘はどうしたものかと尋ねたが、前かがみになってエリスは、「頭を切り取ってやる」と叫んだ。娘もまた外に逃れたとき、彼女の兄がその場に現れた。
 彼は家に入って、手にまだ剃刀を持ち、喉に二つ深手を負い、床に倒れている父親を見た。警官が到着したとき、血の海にうつ伏せになって横たわっているエリスを目にした。死刑執行人エリスは自分の最後の仕事をしたのだった」(p254)

■書評・紹介

■言及



*作成:櫻井 悟史
UP:20080807 REV:20080808
「死刑執行人」  ◇身体×世界:関連書籍 1980'  ◇BOOK
 
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