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『死刑囚の犯罪記録──死刑臺に載せるまで(陪審資料)』

Ellis, John =安東 禾村 訳 19280301 酒井書店 259p.


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■Ellis, John =安東 禾村(あんどう・かそん) 訳 19280301 『死刑囚の犯罪記録──死刑臺に載せるまで(陪審資料)』,酒井書店,259p. \2 c0134

■内容紹介(はしがきより)

 本書は、原著者ジョン・エリス氏が過去二十五年間死刑執行人として取扱った有名なる死刑囚に就て、其犯罪の動機より説起し、犯罪の手段態様、犯罪の科學的捜査、公判廷に於ける其劇的審理、死刑囚が愈々絞首臺に登る断末魔迄を詳細如實に述べたもので、死刑執行人の手記に成る此種の著書としては、恐らく世界中本書を以て其嚆矢とするとこであらう。從来死刑臺の周圍や死刑囚の身邊には、常に秘密の幕が附物となつてゐたが、本書一度び世に出づると共に、其幕は忽然として切落され、死刑囚に關する總ゆるローマンスは、茲に公衆の眼前に展開されたのである。
 原著者の其序言に於て述べて居る如く、本書が裁判官、陪審員、辯護士、警察官、司獄官は云ふに及ばず、其他一般犯罪及び行刑の事に趣味を有する者の好参好資料たるべきは言ふ迄も無い。殊に我國に於ては來る十月より愈々陪審制度が實施せられ、一般國民は陪審員として當然死刑囚の審理に参與することとなるのであるから、其重大なる権利と義務とを良く理解し、併せて法廷に於ける陪審員としての豫備的知識を養ふ上に於ても、此際陪審裁判の本家本元たる英國の裁判實例を研究し置くことは、最も必要緊急の事と信ずるのである。譯者が特に本書を「陪審裁判資料」の一助として世に紹介する所以のものは、全く此意味に他ならないのて、幸に多少なりとも此方面の目的に貢献するところあれば、譯者の本懐之に過ぎないのである。

(補足説明:ファイル作成者)
 陪審法(大正十二年四月十八日法律第五十号)は、1928(昭和3)年10月1日より実施され、同年10月23日には、初の陪審裁判が大分地方裁判所で開かれている。その後、1943(昭和18)年、陪審法ノ停止ニ関スル法律(昭和十八年法律第八十八号)により、陪審法は廃止ではなく停止となり、現在に至る。裁判所法(昭和二十二年四月十六日法律第五十九号)第3条3項には、「この法律の規定は、刑事について、別に法律で陪審の制度を設けることを妨げない」とある。

■目次(強調はファイル作成者による)

第一章 私は何故死刑執行人となつたか
 死刑囚の種々相=死刑執行人志願=母と妻の反對=死刑執行人の報酬=思慮ある沈黙=見習時代=世人の好奇心=まんじともしない一夜=死の部屋=『陷し戸』=練習用の藁人形=助手時代=最初の死刑立會=奇縁=兩ミラーの最後
第二章 死刑執行人としての最初の經験
 死刑執行人と其助手=人妻殺しのデヴイス=『覗き窓』から見た死刑囚=看守長との口論=助手の練習=死刑囚に勇氣を付ける=無事に通過した試錬=上衣を着た儘死に度くない=絞首臺上で氣絶した死刑囚=危く死刑囚に殺されかゝつた一例=妻を毒殺したアームストロングの最後=死刑赦免令状の事=監獄吏の囚徒待遇問題=死刑囚の人格が監獄吏の心を懐柔した場合
第三章 最後迄無罪を叫んだ死刑囚
 『浴槽の花嫁殺』事件=スミスの生立=結婚と殺人=七度の重婚=最初の犠牲=相互的遺言状の作製=醫師を籠絡す=又も新しい犠牲=一萬弗の保險=女家主人の豫言=第三の犠牲=薄氣味の悪い微笑=スミスの生立=死刑宣告=大僧正とスミス=死刑執行の準備=思掛ない出来事=スミスの最後
第四章 夫殺しトムソン夫人の死刑
 多情のトムソン夫人=秘密の甘い戀=戀文が祕密露顯の元=暗闇の悲劇-生々しい血の着いたナイフ=姦夫姦婦の捕縛=死刑の宣告=全英國民の死刑反對與論=示威運動=數知れぬ脅迫状=死刑執行に伴ふ困難=群衆を出し拔く=ブランデーの氣附=『覗き孔』から見たトムソン夫人=監房内で氣絶=絞首臺へ擔がれて來た婦人=無苦痛の最後=トムソン夫人の獄中感想記
第五章 監獄吏を困らせ拔いた死刑囚
 監獄長述懐中の一節=ホルトの犯罪=砂丘から掘出された屍體=ホルトの我儘=獄衣に付ての難題=死刑間際に又も難題=不思議な毒殺事件=屍體發掘=セツドン夫人の公判=含砒蠅取紙=死刑宣告=金に穢いセツドン=冷淡無頓着の死刑囚=シーモアの最後=若い臆病な死刑囚=驚くべき防禦陳述
第六章 冷静な死刑囚と臆病な死刑囚
 『顔隠し殺人者』祕密事件=犯罪の梗概=犯人の捕縛=公判=前代未聞の訴願=落着拂つたウイリヤムの最後=嚢中の屍體=二つの手懸り=劇的場面=鹽水に漬けた二本の腕=死刑宣告=臆病の本性=涙に濡れたハンケチ=汚い最後
第七章 死物狂の格鬪を續けた死刑囚
 モートファーム祕密事件=求婚廣告で釣られたホルランド嬢=紫水晶の指環古城の一軒家=下女の不審=家宅搜索=逮捕令状=お濠の浚渫=掘出した婦人の死骸=『待てツ』=ヅーガルの最後=看守等と格鬪したパーマー=パーマーの犯罪=監房内の修羅場=彼れの狂亂=袋入殺人事件=犯罪の梗概=運河から引上げられた袋入の屍體=奇怪極まる説明=頓間な死刑囚=手紙の文句
第八章 クリツペン博士の犯罪と其死刑
 前書き=クリツペンの人格と其犯罪=友人の不審=警察官の活動=尋人廣告=地下室から出た人間の屍體=世界各國に廻された人相書=大西洋の眞只中から無線電信=怪しい二人の旅客=義齒を見定める船長の奇策=二汽船の競爭=水先案内と化けた探偵=捕縛=科學の提供した證據=藥劑師の證言=クリツペンの重大の手拔り=公判=『覗き孔』から見たクリツペン=冷靜なる彼の最後=絞首臺に急いだ死刑囚
第九章 十八歳の死刑囚と其最後
 極めて稀な事件=クリツケツトの遊戯に耽るジャコビー=犯罪の梗概=思掛ない自白=兇器の選擇=金が欲しさ=辯護人の辯論=ジャコビーの最後の手紙=新式の絞索=監獄牧師と私との會談=自若たりしジャコビーの最後=地下室埋葬祕密事件=階下から起る臭氣=地下室の搜査=三人の子供の屍體=ロバートソンの捕縛=有力な證言=家宅搜索=死刑宣告=最後迄自白しなかつたロバートソン=其最後

(作成者注:縁、錬、状、弗、僧、情、概、嚢、内、説、判は旧字)

■引用(強調はファイル作成者による)

「私(作成者注:死刑執行人である作者)が彼(作成者注:死刑囚)の顔に白い帽子(ホワイトキャップ)を被せた時、(これは死刑執行人の擧動を見させぬ樣、死刑囚に目潰しを呉れる爲めの慣例である)彼は殊更ら私を呼び懸けて」(p2:呉は旧字)

「死刑囚の此世の見納めの朝は、後れの勇氣を試錬する此上なき好時期である。私個人としては、たとへ死刑囚が其最後の瞬間に於て、醜い喪心状態をみせたからとて、別にそれを不思議とも何んとも思はない、何故かといふに、私は絞首に依る死刑が他の如何なる方法に依る死刑よりも、恐らく最も迅速な又最も苦痛の少いものであることをしつては居るが、しかし私は又それと同時に、たとへ如何に氣の強い身體壯健な人でも、其首にしつかり索(つな)を捲き付けられ、氣味の惡いあの『陷し戸』の上に立たせられる其最後の瞬間に於ては、多少なり恐怖の念に類する或物を抱かずには居れないことを、よく知つて居るからである」(p4:朝、錬、状、壮は旧字。強調は、著者による)

「さて讀者の中には、何故に私が死刑執行人などになつたのであるかと、多少不審を打たれる方無いとも限らない。成る程、考へて見れば、他に仕事が無いでもないのに、何を好んで私が人の生命を取ることを職業として生計を立てる途を選んだのであるか。讀者が恁うした不審>6>を抱かれるのも満更ら理由の無いことではない様にも思はれる。
 しかしながら、死刑執行人の仕事は、そんなに迄人から嫌がられる性質のものであらうか? 私に言はせると、それは一國の法律で立派に其權能と責任とを承認されて居る尊敬すべき官吏の仕事であつて、結局何人かゞ死刑執行人となるのを希望することが、國家の爲めには是非必要な條件であらねばならぬのだ。私が死刑執行人となつた動機も、全く恁うした私の確信から出た譯で、決してそれについて深い他の理由があつた次第ではない。しかし、其初め私が愈々此官吏の地位を志願する意志を發表した時には、遉に私の母の驚きは非常なものであつたばかりでなく、殊に私の妻などは、テンで此事柄に付て私と口を利くことさへ拒んだ程であつた。
 『お前が死刑執行人になるなんて實に飛んでもない事だ。世の中の人は私達一家の事を何んと批評するだらう。そんな考はもう廢めた方がいゝよ』
 母親は呆れ返つたといふ顔をして恁う叫んだ。そして又妻は
 『マア、そんな仕事は誰れか他の人にお譲りになつたがよいでせう。私は死刑などの事を耳>7>にするのも嫌です』
 と言ひ切つて、以後此事については一切く口を利かないと迄斷言した。
 しかし、それにも拘らず、私はどうしても死刑執行人にならうといふ決心を固めた、そこで急ぎ志願書を提出すると、四五日經つてから、倫敦の内務省に出頭する様にとの指令書が到着した。茲に斷つて置くが、英國では監獄吏や死刑執行人などの任免は勿論の事、其他監獄行政に關する一切の事項は、内務省の所管に屬して居るのである
言ふ迄も無く、たとへ死刑執行人となつたからとて、さう毎日續いて死刑の執行がある譯ではない。そして私は全英國の總ゆる監獄で行はれる死刑を取扱つたのであるけれども、時としては數日間、又時としては數週間も無爲に手を空けて居る場合もないではなかつた。又死刑執行人となるにしても、法律は或適當の期間、其人に仕事の見習を要求することになつて居り其期間中は死刑執行のある度毎に、必ず本職の執行人の助手として働かねばならないのである」(pp.6-8:毎、空は旧字)
→ファイル作成者コメント:イギリスでは、死刑執行人と看守が厳密に分けられていたこと、監獄の中で死刑が行われていたことなどが、ここから分かる。

「私が愈々此助手としての任命を受けた時には、最早餘程老年のゼームス・ビリントンといふ>8>人が、本職の死刑執行人を勤めて居た。此人が其頃迄に手にかけた死刑囚は、實に數百人以上にも上り、死刑執行人といへば、アヽあのビリントンかと言はれる程、其名が全國に響いて居た。死刑執行人及び其助手は一定の月給を受けるのではなく、其行(や)つた仕事の分量に依て報酬を支拂はれることになつて居る。即ち死刑執行一回に付き助手は金弐磅(ポンド)(約我二十圓)本職の死刑執行人は金拾五磅(我約百五十圓)の報酬を支拂ふことにして居る。或時私は三日引續いて毎日一人宛の死刑を執行したことがある。即ち其所得は三日間金蔘拾磅(約我蔘百圓)で其外に實費として又幾らかの金が手に入つたのである。しかし、いつもいつも恁うした甘い報酬に有付けるものと思つてはいけない。仕事が恁んなに忙しい事は、十年に一度あつたか無い位のものである事を茲に斷つて置く」(pp8-9:毎は旧字)

「死刑執行人と其助手
 助手としての任務と、本職の死刑執行人としての任務との間に、頗る重大なる差違の存する事は、言はずして明かである。死刑執行に關する主たる仕事は、専ら後者の司る處で、而かもそれに付ての全責任も亦、當然彼に於て之を負はなければならないのだ。即ち毎死刑囚に付て其身體に適當するドロツプの長さを測つたり。絞首臺其物に故障は無いかどうかを確めたり、總ゆる附随的設備が完全して居るかどうかを調査したり、死刑囚に手錠を嵌めたり、彼れの顔に白い帽子を被せたり、其首に絞索の係蹄(わな)を嵌めたり、而して最後にあの致命的根杆を引いたりすることは、死刑執行の最も重要なる仕事であつて、是等は皆本職の執行人が自ら手を下さなければならないのである。>38>
 助手は其言葉の意味の示すが如く、單に死刑執行人の仕事を援助するに過ぎない。助手が單独でやる仕事といふのは、本職の死刑執行人が絞索の係蹄を死刑囚の首に嵌めたり、其顔に白い帽子を被せたりする間に其兩膝を革紐で縛る位の事である。否、此仕事さへも、時としては助手の手を煩はさずに濟ませることもある。>39>
 斯く述べたからとて、私は必ずしも助手が不必要であるといふのではない。否、實際をいふと、時々立會官吏が助手を省いてもよいではないかと慫慂する際にも、私は常に助手必要論を力強く主張し來つたのである。只だ私が茲で力説して置きたいと思ふのは、本職の死刑執行人の仕事と、其助手の仕事との間には、前述の如く極めて著しい差違の存在するといふ事である。蓋しさうして置けば、私が今茲に初めて本職の死刑執行人として總ての責任を負はなければならなくなつた時、私の心に果してどんな感想が湧いたかを、一層よく讀者に了解して貰へると考へたからである」(pp.38-40:毎は旧字)

「此命令を受けた私に對して、公衆が其總ゆる復讐を試みようとした事は云ふ迄も無かつた。氣味悪い無名の手紙は、各方面の人々から、續々として私の手許に届いた。或一人の如きは、大版洋紙(フルスキャツプ一杯に思ひ切つた大文字で、次の樣な文句を書いて送つた者もある。
 人間たれ、そして機械たる勿れ!
 兩人何れにも死刑を執行する事を拒絶せよ!
 法律は常に必ずしも正義と一致せず! 考一考せよ! (退役軍人より)
 此外、之と同じ性質の手紙は、數へ切れない程やつて來た。そしてどれもこれも、其宛名は「倫敦ホロウヱー監獄長氣附」としてあつた。或一人の如きは、新聞紙からトムソン夫人の冩眞を切取つて、それを厚紙に貼付け、次の様な事を書き添へてゐた。
 『人間たれ、而して婦人を絞殺する勿れ。汝も亦數年後には死せざるを得ざるにあらずや。考一考せよ!!』
 又他の一人はダートムーア監獄の門前の光景を現はせる繪葉書に、左の抗議を書き記せる者>108>もあつた。
 『若し汝にして彼の根杆を引き婦人の生命を奪はゞ、~は又汝に酬ゆるところあらむ』懲罰應報の女神より。
 しかしながら、私は常に私の議論として、若し死刑の執行に對して責任を負ふべきものがあるとしたならば、それは死刑の判決を宣告した裁判官其人にある事で、其命令により死刑を執行する私には、それ以上何等の責任は無いといふ事を信じてゐたから、たとへどんな恐喝じみた手紙が舞込まうとも、私は敢てそれを苦にして、勇氣を阻喪するが如きことはなかつたのである。」(pp.108-109:喝は旧字)

■英国死刑事情メモ(文責:櫻井悟史

 1829年ロンドンに警察制度が導入され、1837年に死刑相当罪が15に減少、さらに1861年には殺人罪、反逆罪、海賊行為、特殊放火罪の4種だけが死刑相当罪になった(柳本1970:28)。1908年、16歳以下の少年に対する死刑が廃止され、1930年にその年齢は18歳に引き上げられ、さらに1948年には21歳にまで引き上げられた。1928年、死刑廃止法案が提出され5年間の試験的死刑廃止を勧告したが、これは否決される。しかし、1930年以来、「死刑に関する特別委員会」が設置され、死刑廃止は下院に訴え続けられた。その成果もあって、1948年の死刑廃止法案は賛成254、反対222で下院を通過するが、上院で賛成28、反対181で否決されてしまう(斎藤1980:13)。同年には、死刑制度の問題を議論するために、王立委員会が設置されたが、それが死刑廃止に決定的な役割を果たしたわけではなかった(石塚2003:46)。
 イギリスの死刑問題を大きく動かしたのは、ティモシー・エヴァンズ事件で、この事件は、自分の妻子を殺害した罪で1950年に死刑となったティモシー・エヴァンズが、処刑から三年後に無罪が判明した、いわゆる冤罪事件である。(伊藤・木下:p128)
 ティモシー事件の真犯人が捕まった1953年、ロンドンに近いマーローで巡査傷害事件が起こったが、直前に起きた誤判事件の反省から、犯人と思われた人物は懲役刑となった(正木1968:97)。その二年後、この事件も誤判であったことが判明し、真犯人が逮捕されるにいたると、もしも死刑だったら取り返しがつかないところだったという意識が死刑廃止論者の間で確信的に浸透した。1955年、1956年と続けて死刑廃止法案が提出されているのは、その事件の影響である(ただし、この法案も退けられている)。

 1957年、殺人罪に等級をつけるという「殺人罪法」(The Homicide Act 1957)が成立する(柳本1970:28)。これによって、死刑相当罪とそうでないものとが分けられたが、この法律には問題点があった。それは、減弱責任(Diminished Responsibility)という概念についてであり、これによって、たとえば銃ではなくナイフで殺せば死刑は免れる、というような抜け道が多数用意されてしまったのである。このため「殺人罪法」には多数の非難が寄せられた(柳本:28-9)。
 これを受けて、1964年11月8日に「殺人(死刑廃止)法」(The Murder 〔Abolition of Death Penalty〕 Act)が両院を通過し、1965年10月28日に成立することとなった。これは、5年間、試験的に死刑の執行を中止するという時限立法であった。この有効期限が切れる前の1969年にウィルソン内閣は死刑永久廃止法案を下院に提出し、1969年12月16日に343票対185票で下院を通過した(斎藤1980:14)。このとき、死刑廃止は時期尚早ということで、現行法の試験期間を73年3月まで延長するという修正動議が出されたが、賛成174票、反対220票で退けられ、死刑永久廃止法案は成立するにいたった。ただし、これは上述した4種の死刑相当罪のうち、殺人罪に対する死刑を廃止しただけであり、また陸、海、空軍の刑法では死刑が適用されるので、完全な死刑廃止法案ではなかった。

 イギリスで死刑が完全に廃止されたのは1998年5月のことである。また、翌1999年には欧州人権規約第六議定書、ならびに、市民的及び政治的権利に関する国際規約第二選択議定書を批准した。これらは、いずれも例外なく死刑を認めないという宣言である。

(参考文献)
石塚 伸一 監修 2003 『国際的視点から見た終身刑──死刑代替刑としての終身刑をめぐる諸問題』,成文堂
伊藤 公雄・木下 誠 編, 1992, 『こうすればできる死刑廃止──フランスの教訓』, インパクト出版会
正木 亮 1968 『現代の恥辱――わたくしの死刑廃止論』,矯正協会

柳本 正春 1970 「イギリスにおける死刑制度の廃止」『法律時報』42(6):27‐32

■参考

絞架台(日本)

「絞架式は、明治四年(作成者注:1871年)、囚獄権正小原重哉が英国領治新嘉坡(作成者注:シンガポール)監獄条例により設けられていた英国刑具の絞台を写生して帰朝、日本橋大工町鍛冶職吉田辰蔵に示して試作させ、改定律例公布の三月前にあたる明治六年二月二五日「各地方監獄絞罪器械改正」として示達したものである」(重松一義 19790915 『近代監獄則の推移と解説──現行監獄法への史的アプローチ』,北樹出版,p100)

■書評・紹介

■言及
◇重松一義 20010415 『図説 世界の監獄史』,柏書房,p260

「ニューゲイトその他で二〇〇件もの執行を行ない、一九二〇年代に退職した執行人ジョン・エリスは『死刑臺に載せるまで』という著を記している。死刑執行人が著した書としては最初で最後といえるもので、わが国で一九二八年(昭和三)、酒井書店より安東禾村訳で出版されている。今では稀覯書となっているが、それにはイギリス内務省より死刑執行人・同助手・見習を命ずるといった辞令が出されていたことや、刑場の「陥し穴(ドラップ・ドアー)」(深さ一七呎[フィート]=約5.2m)の上で等身大の藁人形を用い絞首刑執行の練習を行い、革紐に縛り四五秒で吊るし上げる技術を習得したといったことや、判事より死刑判決があると同時に、絞首刑言渡しの印として両手の親指を頑丈な紐でしっかりとくくり合わせるとか、女の死刑執行には白い帽子をかぶせるとか、いろいろな慣習が記されており、一九二三年(大正一二)一二月、ロンドンのホロウェイ監獄で夫殺しを依頼したエディス・トムソン夫人(二八歳)の絞首刑執行の情景など、死刑囚の種々相を伝えている」
→ファイル作成者コメント:「女の死刑執行には白い帽子をかぶせる」は、「私(作成者注:死刑執行人である作者)が彼(作成者注:死刑囚)の顔に白い帽子(ホワイトキャップ)を被せた時、(これは死刑執行人の擧動を見させぬ樣、死刑囚に目潰しを呉れる爲めの慣例である)彼は殊更ら私を呼び懸けて」(p2:呉は旧字)との記述から、誤りと思われる。男女関係なく、白い帽子は被せていたようである。

◇Bailey, Brian 1989 Hangmen of England──A History of Execution from Jack Ketch to Albert Pierrepoint,London:W.H.Allen,206p. =199102 谷 秀雄 訳 『ハングマン──絞首刑執行人 ジャック・ケッチからアルバート・ピアポントに至る英国社会史の知られざる暗黒』,中央アート出版社,333p.+15p. ISBN-10:4886396038 ISBN-13:978-4886396037 \2243 [amazon] c0134

「オールダムから汽車でロッチデールに行く途中最初に出会う綿工場が、ヴィクトリア女王通りの男子中等学校(グラマー・スクール)の向かい側にあるイーグル工場である。イーグル紡績会社の発祥地であるこの工場で、若きジョン・エリスは、すぐ近くに住んでいた家族のために、学校を卒業してすぐ働かされたのであった。
 彼は四人兄弟の一番上で、下に二人の妹と一人の弟がいた。父ジョージェフ・エリスは床屋で、母は一八七四年十月四日に第一子として彼を産んだ。ジョージェフは、近所の人から尊敬されていた男で、裕福な暮らしをしていた。第一子として彼を産んだ。ジョージェフは、近所の人から尊敬されていた男で、裕福な暮らしをしていた。オールダム通りを下り、「運河とロンドン中部およびスコットランド鉄道」を越えて、彼は自分の仕事を広げた。彼は町の不動産に投資して「相当な数の家」の所有者に>213>なった。
 彼が繁盛したのは、大部分、当時の町の一般的安寧に彼が無慈悲であったことに起因する。彼は、倹約のため、無理やり娘の一人ヘレンを泡たての仕事をさせて店で働かせた。彼頑丈な身体の中背の男で、躾にたいへん厳しかった。政治的には自由主義者であったが、他のことに関してはかなり偏狭であった。彼はメソジストでありファンダメンタリストであって、家族はレッド・スクールとして知られたオールダム通りの教会に通っていた。
 目立たない生徒だったジョン・エリスは学校を卒業し、イーグル工場で就いた仕事は外皮を剥ぎ、粉を挽くことだった。二〇歳のとき、彼はミドルトン教区教会で、同じ工場で働くアニー・ビートン・ウィットワースと結婚した。花嫁は二二歳で、結婚式は一八九五年四月二〇日に行われた。若いカップルは、バルダーストーンに家を建て、人が予想するような平均的労働者の家庭というありきたりの生活に落ち着いた。しかし、まもなく予期しなかった方向に事態は変化した。
 ある晩、ジョン・エリスは、ビクトリア女王通りの工場近くに住む作業長ホプキンス氏の家を訪ね、推薦状を書いてくれるように頼んだ。ホプキンス氏は、この若者が死刑執行人の職に応募したいというのを聞いてさして驚かなかった。家に帰って一週間よく考え家族と相談してきなさい、そしてまだ応募したかったらもう一度来なさい、と慎重に彼はエリスに語った。一週間後、エリスは戻ってきてもう一度頼み、やがて、三通以上にもなる推薦状を入れた応募書類を内務省に送った。こんな辛い仕事に応募する者は少なく、内務省は、適任だという印象を持った。ロッチデールの州警察長官の機密報告が、彼の証明書が本物で、エリスがふさわしい性格の持ち主であることを確認していたのだ。>214>写真>215>
 アニー・エリスは夫の決心に少しも喜ばなかったが、彼は心を決めていたのであり、彼女には彼を止める手立ては何もなかった。しかし、ジョージェフ・エリスがこのことを耳にしたとき、彼は激怒した。死刑執行人になろうなどという考えは父親をびっくりさせたに決まっており、尊敬された商人としての彼の地位を脅かしたはずであった。「あっちこっちをめちゃくちゃにし」、躊躇せず親子の縁を切ってはじめて、彼の怒りは静まったのである。一方、ジョン・エリスは後悔せず、内務省からの返事を待った。
 こんな職をなぜ選んだのかと尋ねる新聞記者に、彼は次のように答えたと報じられている。「なぜと言われてもほとんどわからない、でも影響されて選んだわけではない。僕は他の若者と一緒に空席になっていた絞首刑執行人の助手の職に応募したのだから、僕は幸運だったのだと思う。この職をはじめて知ったのは、友人と一緒に死刑執行の記事を読んだときだったと思うが、友人の一人が僕にこう言ったのだ、『おい、人の首を吊るす勇気なんてないだろう』って。僕はできるだろうと言った――そしてじっさいにできたのさ」
 これは、ほとんど説明になっていない、たぶん、エリス自身にも本当の理由はわからないのだろう。彼は反省ばかりしているような内向的な性格ではなかった。この職は広告された訳ではなかったが、内務省は絞首刑執行人を志望する者から週に平均五通の志願書を受け取っていた。もちろん、なかにはましな志願者もおり、あとから強い義務感を持ち得る者――エリスもそうだった――もいたにしても、ほとんどの志願書は変わり者からのもので、共同体を維持したいというわれを忘れた欲求が純粋にある者などいなかった>216>
 (中略)
 何れにせよ、エリスは工場のベルに起こされて、毎朝、丸石を敷き詰めた通りを鬱々と進む群集の一人でいることに満足しなかったのである。結果が出るまでたいして時間はかからなかった。彼の手紙は見込みのあるものと選ばれた一つだった。所長と面接するためにニューゲート刑務所に来るように招かれ、所長はよい印象を持ち一週間ニューゲートで訓練を受けるように勧めた。エリスはこの刑務所が廃止になる前に訓練を受けた最後の死刑執行人の一人であった。彼は申し分のない実習生であることを証明し、自分が州の司法長官に渡される公職殺人官(オフィシャル・キラーズ)の名簿に載ることを確信して、一九〇一年五月の週末にロッチデールに帰った。
 このときまでに、選らばれた応募者すべては、彼らが望んだ身分についての記録に載っていた。この記録には「どんな者にも、公共業務に関する詳細を漏らしてはならない」という禁止事項が含まれていた。それゆえ、『デイリー・メール』紙が一九〇一年一二月一四日の紙面で、エリスが助手に任命されると発表したとき、彼は即座に、期待される行動基準に従わない場合は免職になりうると警告>217>された」(pp.213-218)

「エリスの親類が私に語ったところでは、彼は決して自分の仕事の話しをしなかった。エリスが家族に仕事の話しを決してしなかったということは本当だろうし、彼の妻は、ベリー夫人と同じように、仕事のことに関して決して質問をしないように心得ていた、とエリスはその回想録で述べている。しかし、特に酔っているときには、ときどき親しい友人に彼が仕事の話しをしたということも、また同じように確かだ。彼は犠牲者の話しをするとき「絞首した」とか「処刑した」という言葉をいつも避け、代わりに「始末する」という表現を使った。ことに死刑執行人の地位が何であるかは「職務上の秘密」に関連して明白ではなかったのだから、当局が彼に注いだ信頼を彼が裏切ったと言うのは言い過ぎであおう。内務省はこの問題に関してずっと頑なに沈黙したままだったのである。……(中略)……>232>
 エリスにとって誰かに(ファイル作成者註:強調本書著者)話したいという誘惑は、ときおり彼が感じた自分が社会的に排斥されているとの印象によって、いっそう強められたのかもしれなかった。「私が近寄ると、会話が突然途切れたのです」と彼は告白している。「そして、戦慄の間の展示物を見るような目を私に向けているのを感じました。彼らは、紹介されたとき私と握手するのを避けました。――殺人者を縛り、絞首台のレバーを引く私の手を握ると思うと彼らはゾッとしたのです。社会的には、絞首刑執行人であるとは、忌まわしい職業なのです。」」(pp.232-233)

「彼の辞職願いは受理されたので、エリスはリーズで彼の最後の死刑執行を遂行した。彼は不滅のジャック・ケッチと同じ長期間、この仕事を勤めたのだった。このときまでに二三年というケッチの期間を越えた絞首刑執行人はほんの四人にすぎなかった。エリスは二〇三回の死刑執行を行い、そのうちのいくつかはスコットランドとアイルランドでなされた。スコットランドでは、処刑料(フィー)はイングランドより高かった――必要経費を加えて一五ポンドが支払われた。だからたぶん、公職死刑執行人(オフィシャル・ハングマン)としての一六年間、年間平均約九〇ポンドを受け取っていたのであり、同胞の男女を死に至らしめることで総額二〇〇〇ポンド近くを稼いだのであった」(p.247)

「エリス夫人は、八月二四日の早朝、一時頃に、ズドンという銃声で眠りを覚まされ、階段を降りていって、首から激しく血を流しながら居間の床に倒れている夫を発見した。すぐそばに拳銃が転がっていた。彼女は夫に包帯を巻き、警察を呼び、駆けつけた警察官は、エリスが顔を包帯でまかれ、血塗られたシャツを着て椅子に座っているのを見た。彼はどうにかその巡査に言うことができた、「自分で自分を撃ったのだ。申し訳ありません。他に言うこともありません。」彼は病院に運ばれ、折れた顎>248>の治療をした。銃弾は、顎の下の首から入り、上顎へと貫通していた。
 翌週の水曜日、エリスの怪我が十分に回復して、彼はロッチデール下級裁判所に連行され、自殺未遂で告発された」(pp.248-249)

「二〇日火曜日、エリスはいつもより遅く帰宅した。お茶を飲み、煙草を吸いに居間に入った。酒は飲み続けていた。七時一五分に彼は食卓につき、お茶を一杯飲み、軽い食事をした。エリス夫人と娘のアイヴィーは台所にいた。突然、エリスは椅子から飛び上がり、ワイシャツのカラーを引き抜き、台所に突進した。棚から剃刀を取り出し「殺してやる」と叫んだ。妻は家の外に駆け出した。びっくりした娘はどうしたものかと尋ねたが、前かがみになってエリスは、「頭を切り取ってやる」と叫んだ。娘もまた外に逃れたとき、彼女の兄がその場に現れた。
 彼は家に入って、手にまだ剃刀を持ち、喉に二つ深手を負い、床に倒れている父親を見た。警官が到着したとき、血の海にうつ伏せになって横たわっているエリスを目にした。死刑執行人エリスは自分の最後の仕事をしたのだった」(p254)


*作成:櫻井 悟史 
UP:20080725 REV:20080731, 0808
「死刑執行人」  ◇身体×世界:関連書籍 1990'  ◇BOOK
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