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last update: 20081020
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■麻生 令彦 19830915 「クロニクル 七〇年代イタリア革命的左翼――アウトノミアを中心に」(『インパクション』25、インパクト出版会)
「本稿は、70年代イタリア新左翼運動を、特に77年を頂点とする「運動(モビメント)」(わが国では、77年の運動=アウトノミアとしてしばしば語られ ているけれど)、この闘いにおけるアウトノミアの位置・戦略・組織を中心に考察しようとするものである。ただし、その前に、60年代後半から70年代に至 る「前史」、特に、アウトノミア・オペライアの中心軸(イデオロギー的にも活動的メンバーとしても)となるポテーレ・オペライオ(労働者の権力)を中心に その概略を見ておきたい。
ポテーレ・オペライオは、67年、ピサで結成された革命的左翼の集団であり、中心指導者としては、ローマのオレステ・スカルツォーネ、フランコ・ピペル ノ、およびパドヴァのアントニオ・ネグリがいた。(…)」(p.15)
「68年の学生運動、69年の「暑い秋」と呼ばれた労働運動の季節が過ぎ去ったあと、POは、より戦略的に「革命」へ向けて準備を開始する。(…)
ちょうどその頃、イタリア全土は、暴力的な労働運動、学生運動が高揚しつつあった。特に、Cub(底辺統一委員会)――のちに、アウトノミア・オペライ アの起源となる――を中心とした、伝統的な組合の戦術を逸脱した戦闘的労組運動が爆発、一種の都市ゲリラ的な戦術をとるまでに至っていた。(…)」 (p.16)
「アウトノミア、は、上部からの中央集権主義に対して「労働者の自立の上に闘争を組織し、また、下部からの中央集権主義の上に建設された党組織の建設」 (72年2月マニフェストのローマの活動家有志、アウトノミア・オペライアのプロレタリアート連名の声明)を目ざして活動を開始したのだ。
「革命的な労働者の党が伝統的な方法で建設される、などということを我々は信じない。……様々な自立した運動が直接的に、労働者の党を建設するのに貢献 すべきだ。そして、我々は、現存のいかなるグループも、この党の任にそぐわないと考えている。」(「PO」、73・1月)」(p.19)
「また、先に引用した、M・モニチェッリは、アウトノミアを、三つに分類している。つまり、小文字のアウトノミアautonomia、第二に、イデオロー グの教授たち、そして最後に大文字のアウトノミアAutonomiaである。第一のアウトノミアは、ボッカの分類でいう「解放主義者」を代表している、と いえる。文化運動(自由ラジオ、雑誌運動)等々の〈創造的〉なグループであり、まさに《自律》(アウトノミア)という言葉、様々な運動の《アンサンブル》 (粉川)というにふさわしい運動であるといえる。第二のグループは、「イデオロギー」を代表している。ネグリを中心とするパドヴァの教授グループがその中 心である。そして最後に第三のグループ、大文字のアウトノミアがある。既成政党・労組の枠からはみ出さざるを得ない下層労働者、失業者、失業予備軍として の学生を中心に、ブルジョワ国家に対する有効な一撃としての都市ゲリラ―武装蜂起を目ざして、全国的な武装せる党の建設を常に追及し続けた――そして、そ れに失敗せざるをえなかった――大衆的武装政党としてのアウトノミア(「組織されたアウトノミア・オペライア」)である。」(p.21)
「2月9日、「運動」は、ローマの街頭で、そのデビューをかざる。三万人の学生がデモに参加する。そして、77年の「運動」の一つの花である「インディア ンたち」が始めて登場するのは、このデモの過程においてであった。彼らは、デモの中で、歌い、踊り、また様々な創造的な試みを街頭で展開していく。
こうした、学生たちの行動に対して、おいてきぼりをくった共産党は、17日、ローマ大学構内で、イタリア労働総同盟書記長ラーマの演説―政治集会を設定 し、何とか、運動のヘゲモニーを握ろうとする。アウトノミア、「インディアンたち」、「とき放たれた犬たち」は、このラーマの講演集会を襲撃、共産党と総 同盟の防衛隊と衝突し、これを粉砕して、彼らを学外へ放逐する。この時の彼らの叫びは「出て行け!新たな警察ども!」であった。アウトノミアは、「共産党 の構造は、すでに階級情勢の新しくて創造的な要素を結集する能力を構造的に失っているのだ」と宣言した。こうしてアウトノミアの組織されたグループは、初 期のローマにおける学生の闘いにおいてヘゲモニーを発揮していく。」(p.22)
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酒井 隆史
20010723 『自由論』青土社
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db2000/0107st.htm
「さらに七六年にスクウォッティングは、住宅問題への対応というだけでなく政治的、文化的センターとしての意味を帯び、不法占拠は増え続ける。七七年には ミラノの「若者調整グループ」は次のような声明をあげた。「われわれは家族とは異なる生を営みたい。われわれが思うがまま生きたい」、と。スクウォッティ ングは、このようにコミュニティへの指向性をもっていたのであり、そのために、そこでは従来は政治運動の周縁的存在であり、またそれ以前にポジティヴなア イデンティティを剥奪されていた女性やゲイたちのオルタナティヴな共同性構築のための自律的空間、実験場となったのだった。六八年に端を発するこのような 主要には文化的アイデンティティや表現のレヴェルでの動きが、イタリアの六八年以来の長期にわたる議会外の既存の左翼組織も包摂する自律を志向した運動の 諸潮流(〈運動〉という固有名詞で呼ばれた)において――主体も立場もさまざまなグループからなる横断的動きとしての〈アウトノミア〉(1)――目立って あらわれたのは七六年とされている。長続きしない多様な小集団、マニフェストの数々、自発的値引き、山猫スト、そして機動隊との衝突、テロリズム。文化的 創造性を志向する勢力、より政治的指向性を有する勢力、あるいは直接軍事行動を指向する勢力などが混在して、またひとつの勢力のなかでもこうした相容れな い諸要素が混在して、その熱気が最高潮に達したのは七七年のことである(2)。」(p.19-20)
「〈運動〉において徐々に中心をしめるようになりフェリックス・ガタリ、ジル・ドゥルーズたちを注目させた側面は、次のようにまとめることができるかもし れない。他者に変化を要求すること――敵とぶつかること――を第一目標としない、という「今日まで歴史を揺るがせた革命とはまったく異なる」(ガタリ)異 例の運動のかたち。たとえ〈運動〉が他者と正面から衝突するとしても、それは副次的な問題にすぎない。〈運動〉はなによりもまず「自足」的だった。「自足 的」とはいっても、必ずしも排他的、閉鎖的であるということと等しいのではない。〈運動〉自体が目的、すなわち「生の形式」(の実験)となるという意味で 「自足的」なのである。手段と目的が分かれることのない、スピノザ的な「構成的実践」。〈運動〉は一種の実験の場となった。われわれの生がどのようなもの でありうるのか、われわれの身体がなにをなしうるのか、その可能性の自由な展開が試されるような場。その意味で〈運動〉は本質的に肯定的なものである。」 (p.20-21)
「(…)たとえばヴィルノはこの「反革命」を「反転された革命(revolution in reverse)」と位置づけている(5)。つまり八〇年代においてその相貌をあきらかにした新しい保守、ニューライト、あるいはネオリベラリズムは、運 動が解き放ったさまざまな欲求や、それにもとづく試み、主体性の形成にたいして受動的にリアクションしたわけではない。それは〈七七年の運動〉――さかの ぼれば六八年――のもたらした時代のうねりに、あたかもサーファーのように積極的に身を委ね、たくみにそのベクトルを向け変えたのである。(…)現代は、 敵が運動の担い手であるという意味でも〈運動〉以降なのだ。」(p.22)
「その一方で、この時期に重要なことは、労働市場の劇的な転換である。社会的必要労働時間の急激な縮減を、労働市場を通じて資本主義的にマネージメントす る戦略の展開。労働市場は硬直性をさらに緩め、準雇用や断続的あるいは短期労働という「グレイ・ゾーン」が大幅な拡大をみせた。ヴィルノによれば、これは 〈運動〉のなかでもオルタナティヴな意義をはらんでいた要素を、資本が活用(put to work)したということでもある。「運動のノマディズム、安定した職への嫌悪、アントレプレナー的尊大、そして個人の自律、実験への嗜好すら。これらす べてが資本主義的生産組織へ向けて集約された」(p.249)。(…)なるほど、それらの「自律的労働」は、七七年にはじまった工場体制からの逃走の継続 であることはたしかだ。しかしそれはイタリアの大企業に厳密に従属していて、生産コストカットの安全弁になってしまっている。それは諸々のイタリア産業界 のトップを走る諸グループの、生産コスト負担の一部を免れるためのひとつのやり方なのであり、自律的労働が、きわめて高次の自発的搾取と重なっている、と いうのだ(26)。」(p.43-44)
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酒井 隆史
2005 「ポストフォーディズムのなかのフーコー――クラウゼヴィッツの転倒 と「生権力」「生政治」」『フランス哲学思想研究』Vol.10, p.41-62
◇要旨
「本報告では、現在、ミシェル・フーコーのもっとも生産的な読解をおこなっていると考えられる潮流の一つ、イタリアそしてフランスのオペライスモも流れに あるマルクス主義者たちの議論を追尾しながら、フーコーの提出した「生権力」「生政治」をめぐる現在の理論的水準を確認してみたい。」
◇章立て
オペライスモ的反転
フーコーのオペライスモ化?
生政治とはなにか?
権力の戦争モデルから統治モデルへ
労働力とその住まいとしての生
「自己との関係」と「自己価値化」
「一般的知性論」
時間と自己の構成
あたらしい服従様式
保障と自律
注
参考文献
◇引用
「フーコーの導入は、いわば「フーコーのオペライスモ化」と「オペライスモのフーコー化」という二つの引力によって規定されている。そしてその中心に浮上 するのが「アウトノミア」、すなわち自律というテーマであり、具体的な概念としては「生政治」であるといえるだろう。(…)」(p.42)
「イタリアのアウトノミストたちは、ポストフォーディズムにおける労働形態、生産形態の非物質化やコミュニケーション化などの趨勢を分析しながら、生と生 産が重なりあい新しい革命的主体の生成を潜在態として形成する平面を捉えようとする。しかしその議論も、情動、感情といった非知性的であり身体的な領域が 生産に包摂されるという局面を見落としていると批判を加えながら、しかしこれらの議論の流れに寄り添いつつ、ネグリたちは生の生産性をよりはっきりとさせ ようとする。
生が生産性に直接に統合されるということ、つまり生が、いわば剥きだしのままで生産力にまで高まるのである。ここで剥きだしの生は、死のなかに廃棄され た受動的な存在ではなく、途方もない潜勢力をはらんだものとしてあらわれる。「生のシナジー効果、あるいはより具体的には剥きだしの生の生産的発現」こそ が、ポストフォーディズムの、ということは<帝国>の社会の表面上で社会的協働を形成しているのだから。ナチスという出来事はネグリたちにかかれば、「剥 きだしの生が生成可能であった巨大な力を打ち砕き、マルチチュードによる生産的協働の新しい諸力が蓄積される形態を追い払おうとむなしく苦闘した」(訳 457頁)ということになるわけである。」(p.46)
「ネグリたちによれば、諸構造の編成とその効果という、フーコーが脱出しきれなかった構造主義的枠組みから、諸機械の生産という社会の存在論的実質をみい だしたドゥルーズ=ガタリはより一歩、歩みを進めている。しかしドゥルーズ=ガタリもなお、生の生産性をカオス的で不確定な地平としてか(ママ)捉えられ ていない。そこでこうした困難な地点をまたぎこえつつ、より生の生産性の実質をあきらかにした潮流としてネグリに近いイタリアのアウトノミストたちの議論 が提示されるわけである。つまり、これらの分析は、ポストフォーディズムの分析として、あるいはより一般的にいえば、資本制分析として、実質化されなけれ ばならない。」(p.47)
「なぜ生政治かについて、さらにフーコーとの関連では、パオロ・ヴィルノが参照されるべきである(Virno, 2002, pp.88-94)。ヴィルノは、フーコーにおいては、いまだ生政治の「いかにして」と「なぜ」はあいまいだ、と述べている。生政治という概念は流行であ るものの、あるとあらゆる文脈で用いられている。これを回避するためには、生政治の非神話的起源を求めねばならない、というのである。そこで、労働力(の 存在様態)がとりあげられる。哲学的には生政治に比較してもはるかに複雑な概念なのだ。
労働力という概念は、なにを意味しているのか? 「生」という概念を、「労働力」というより深い概念から捉えかえすことで獲得できる。労働力、それは、 生産する力としての純粋な力(la puissance pure)、しかも、現前しない
包括的/類的で未規定な力
を意味している。資本制 のもとにおいては、潜在力としての潜在力。それが売り買いされる。その「純粋な潜在性」の住まいとして、ビオスbiosがあるのだ。とすれば、なぜ生その ものが管理され、統御されるのか? という問いに対する回答があきらかになる。それは、なぜ「bios」か、という問いについての回答である。生政治のな かのひとつの項目として労働力の管理があるのではない、生政治は、実は、歴史的・哲学的であるような、第一の事実のひとつの表現、効果なのである。
ここでは「無規定な力」、「純粋な潜在性」が労働力として、措定されなおしている。ここに生政治と労働の問題を重ね合わせ、生をめぐる闘争を、もう一 度、マルクス主義的な問題設定に引き入れるという試みの重要な地点になる。」(p.50-51)
「ラツァラットとネグリは、三つの時代区分をフーコーから導き出していた(ibid.)。まず「古典主義的政治」の時代。これは「支配」としての権力の定 義の時代とも言い換えられる。本源的蓄積の究極の諸形態が、古典的でリジッドな社会構造の形態とむすびついていた、アンシャン・レジームの時代である。二 番目の時代は、「政治的代表」と「規律的な技術」の時代。おおよそ大工業の発展期からフォーディズムの時代に該当しているといえる。この時代においては、 権力は、権利の主体の法律的・代表的な権力としてあらわれると同時に、特異な身体の服従として、つまり、ノルム的機能の一般化された内面化としてあらわれ る。この時代の法や規範が根本にすえるのは「労働」である。この時代には、権力の行使はみずからの正当性を労働のうちにみいだすのである。たとえばブル ジョアジーであれば、資本主義であれば、生産条件の組織者として、社会主義であれば労働の解放として。三番目にやってくるのが、コミュニケーションの政治 の時代、あるは(ママ)コミュニケーションの主体のコントロールか解放か、の闘争の時代である。」(p.53)
「このヴィルノのいう「純粋な力」ともひとしいだろう「無規定な潜在力」と、ネグリたちは91年の時点で、それをむしろ失業者、不安定な労働者など、とい うことは「貧民」の形象にみている。「熟練労働者においては、若い労働者、「不安定」労働者、若き失業者において、問われているのは、純粋な「潜在力 (une pure virtualite)」、いまだ無規定な能力であり、それは、しかしすでにポスト工業時代の生産的主体性の特性のすべてを分かちもっている」、となるの である。より具体的な事例をあげれば、(ポスト)オペライスモの流れのなかで使われる表現でいうと、「非物質的労働の水たまり」もこの「潜在力」をイメー ジするときの手がかりになるだろう(たとえば、ただダラダラしゃべっていることが主要な活動である自然発生的なネットワークで生まれたアイディアが、商品 になる、という局面など)。そしてこの能力の潜在性は、「空虚な能力でも非歴史的な能力でもな」く、むしろ「フォーディズム的労働者による「労働に対抗す る闘争」を歴史的起源として前提としている」潜在力である。だからこそ、いまや、「非物質的労働は、もはや資本も必要としてないし、存在するために資本の 社会的秩序も必要としてない、それは直接に自由で構成的である」、とネグリとラツァラットはいうのである。このあいだの関係は、弁証法的ではなく、敵対で あり、さらには敵対も超えてオルタナティヴである。」(p.56)
「(…)「雇用創出」というイデオロギーは、この「労働社会の終焉」とその根底にある動きを隠蔽する、というか、隠蔽しながら再編成するものの筆頭にあげ られる。「万人のための雇用を」という現在の左派の多数派がとなえるスローガンに対して、ラツァラットは、「一九世紀の人間なら」、と次のようにつづけて いる。「それは「あたらしいボスがほしい」というあらたな隷属状態を求めるスローガンとして聞こえるだろう」(Lazzarato, 2002, p.15)。このようなスローガンが生まれる背景には、生産活動と不生産活動を、生活と労働(つまり再生産と生産)を分割する、ポストフォーディズム以前 のイデオロギーが残響している。このようなイデオロギーというか、労働過程と価値増殖過程のちぐはぐだがともに作動する動きのその結果、生産的である「活 動」は「価値」の指令によって、恣意的に分割されたり、階層化されたりし、そして、そのような振るまいが(非)労働者のフレキシビリティとして対象化さ れ、労働者の不安定性や失業の増大として捉えられている。まさに、ネグリが冒頭であげたエッセイでいうように、いまや労働者は、「社会的な生産活動に積極 的に参与すればするほど、貧困は増していく」。いまや潜在力は、そのままでアクチュアルなのである。生政治と労働力をむすびつけることは、このアクチュア リティを取り戻し、価値法則による分割を拒絶して、ポストフォーディズムの権力関係とそれからの脱出を同時におこなっていく作業の前提となるわけだ。」 (p.59)
「とすれば、『<帝国>』では、最後のほうでわずかに触れられている無条件の保障所得、社会所得は、このような自律と保障をともに可能にする、生政治のひ とつの要である掛け金となるだろう。保障所得は、従来の社会保障にかわるあらたな保障の手段として、それをどう構想するかは、ネオリベラルからエコロジス トにいたるまで、あらゆる政治的陣営の争点になっているが、そこには「労働社会の終焉」のもたらすさまざまな逆説と倒錯、力関係が凝縮されている。
そこにこそ、生の技術、統治術の発明という、フーコーの晩年の問題設定で介入することが必要になるのかもしれない。」(p.60)
■Lazzarato, Maurizio 2004
La polotica dell'evento
,Rubbettino Editore.=20080625 村澤 真保呂・
中倉 智徳訳
『出来事のポリティクス――知‐政治と新たな協働』
,洛北出版,382p. ISBN-10: 4903127079 ISBN-13: 978-4-903127-07-1 \2800
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[kinokuniya]
※ autonomia f05 sd-sc1
*このファイルは文部科学省科学研究費補助金を受けてなされている研究(基盤(B)・課題番号16330111 2004.4〜2008.3)の成果/の ための資料の一部でもあります。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/p1/2004t.htm
作成:
橋口 昌治
(
立命館大学大学院先端総合 学術研究科
)
UP:20070806 REV:20070810 20081020
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