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『出来事のポリティクス――知‐政治と新たな協働』

Laszzarato, Maurizio 2004 La politica dell'evento,Rubbettino Editore.
=20080625 村澤 真保呂・中倉 智徳 訳 ,洛北出版, 382p.

last update:20110108

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■Lazzarato, Maurizio 2004 La polotica dell'evento,Rubbettino Editore.=20080625 村澤 真保呂・中倉 智徳 訳 『出来事のポリティクス――知‐政治と新たな協働』,洛北出版,382p. ISBN-10: 4903127079 ISBN-13: 978-4-903127-07-1 \2800 [amazon][kinokuniya] ※ autonomia f05 sd-sc1

■内容


◆オビの言葉
耐え忍ばないことを欲し
生成変化への道を開く

出来事は、事故、リスク、社会現象として、国家や企業、マスメディアによって回収され、無力化されてきた。人々の生に寄生するこのコントロール社会によって弛緩させられないために、さまざまな社会運動を一人ひとりが開始することを呼びかける。

◆出版社による紹介 (洛北出版web siteより)
現代は、工場が製品を生産する時代ではなく、企業が「世界」を生産する時代である。この変化にともない、かつて労働運動が依拠してきた「労働」は、資本からも国家からも見捨てられ、いまやコントロールの手段としての「雇用」に取って代わられた。人々の創造性(脳の協働)をたえず捕獲しつづけるこの「知-政治」を、いかにして解体するか?

本書は、現代の資本主義と労働運動に起こった深い変容を描きだすとともに、不安定生活者による社会運動をつうじて、新たな労働論、コミュニケーション論を提唱する意欲作である。イタリア生まれの新鋭の思想家、初の邦訳。

■目次


chapter 1
出来事と政治
  ネオ・モナドロジー/ノマドロジー
  包囲から捕獲へ
  可能世界の淘汰
  集合的なものについての批判
  配分的全体と集合的全体
  自然と社会
  怪 物

chapter 2
コントロール社会における生と生体の概念
  監禁されるものは外部である
  規律社会からコントロール社会へ
  群集、階級、公衆
  生と生体
  労働運動と規律社会

chapter 3
企業とネオ・モナドロジー
  コミュニケーション/消費
  労働と可能性の生産
  資本‐顧客
  モナドとしての労働者、その自律と責任
  金融界と表現機械
  企業と脳の協働
  「生産」という概念
  集合化した脳の活動とその協働
  脳の協働による生産――共同財
  測定とその外部
  共同財をめぐる闘争
  資本主義と貧弱な生の様式

chapter 4
表現とコミュニケーションの対立
  会話と世論
  テレビ
  会話とナショナリズム
  時間のテクノロジー
  インターネット
  権威主義的発話と説得的発話
  ミハイル・バフチンと差異の政治学
  哲学的ノート/存在論としての対話主義

chapter 5
ポスト社会主義の政治運動における抵抗と創造
  マジョリティの基準としての賃金労働者
  マジョリティ/マイノリティ
  生体、抵抗、権力
  戦争の体制

chapter 6
マウリツィオ・ラッツァラートへのインタビュー

訳者による解説
人名索引

■引用


「生成変化型民主政のばあい、「万人のため」という言葉は、統合も排除も意味しない。というのも、そこではマジョリティとして受け入れられるモデルがまったく存在しないので、万人がマイノリティに、あるいは少なくとも潜在的マイノリティに生成変化するからである。実際、われわれが民主政の基盤である「万人」に出会うとしたら、それは生成変化においてでしかない。というのも、マイノリティに生成変化することは、権力による役割の割り当てから逃れることだからである。」(268)

「「万人」のマイノリティへの生成変化が成立するための経済的条件は、賃金労働の体制によっては保証されない。それを保証するものがあるとしたら、所得の政治だけである。というのも、賃金労働者は、あらゆるマジョリティのモデルと同じように、包摂/排除の論理にもとづいて行動するからである。しかし、われわれは、〈万人に所得を保障すること〉を特異性の生成変化が起こるための条件とするためには、それをたんなる社会正義の尺度や、社会的に産出された富の再配分にかんする新しい規範にすぎないものとみなしてはならない。
 〈万人に所得を保障すること〉は、そのようなものである以上に、真の制度的革新として、また同時に、あらゆる人々の生成変化を創造し実験するための条件として考えられなければならない。」(305)

■書評・紹介


◆京都新聞朝刊(2008年7月6日)評者名なし
「現代とわたりあうには」
 臨機応変さこそは、政治、企業から個人生活のレベルに至るまで、現代社会の鍵を握っているように見える。偶然をチャンスに変える力は、計画性と規律訓練よりも不確実な時代を生き延びる術として必要であり、既存の需要を満たすより、新しい需要をいかに先取りしてつくり出すかが現代社会の問題となる。
 こうして記号やイメージの操作に覆われた世の中にあって、個々人がポジティブな生を取り戻すための主戦場は、大量生産の工場に代表される労働者の団結から、一人ひとりが特異で多様な人々のコミュニケーションをめぐる場に移ってきた、とパリで芸術系非常勤労働者の活動にかかわる社会学者の著者は主張する。
 かつて先鋭的な思想家たちが指摘してきた「出来事の哲学」は、今日の社会では誰の目にも明らかな事態になったとして、著者は個人がフレキシブル社会に取り込まれることなくわたりあう視点を、一方では啓蒙(けいもう)思想から現代思想にいたる哲学の系譜を、もう一方ではパリの不安定労働者らの活動を参照しながら提起する。「蟹工船」後の時代を考える一冊。

◆東京新聞朝刊(2008年8月24日)

◆東琢磨 2001010 「「グローバルな機械」とは別の…――『出来事のポリティクス 知‐政治と新たな協働』(マウリツィオ・ラッツァラート著)」『インパクション』 165: 159-160.

■言及
◆白石 嘉治 20100426 「3 院生サンディカリズムのために」『不純なる教養』,青土社,59-74.

 「ラッツァラートは『出来事のポリティクス――知‐政治と新たな協働』で「共同財(認識、言語、芸術作品、科学など)」についてつぎのようにいう。65>>66
  このような財は、タルドによれば「触れたり、所有したり、交換したり、消費したり」することができる政治経済学的な財とは異なり、「知ることはできるが、所有することも、交換することも、消費することもできない」ものとしての財である。共同財は、さまざまな主観性の協働による共同的創造と共同的実現の結果である。それは、「無償であると同時に、かぎりなく分割不可能なもの」である。それが所有できないものであるのは、ある共同財(認識、言語、芸術作品、科学など)が、たとえある人物によって入手され、数多く蓄積されたとしても、それらは彼の「独占的所有物」とされるべきではなく、その特徴からして分有される正当性を認めるべきものだからである(注12)。
 ラッツァラートの原著が出た二〇〇四年には、大学やアンテルミタン(演劇・映画・テレビなどの非常勤芸能従事者)の運動がフランスで高揚していたことに注意すべきだろう。たとえば『レザンロキュプティブル』誌は、同年二月一八日号で「知性に対する戦争に反対する」という声明を出し、知的職業にたずさわる八〇〇〇名をこえる署名をあつめる。それはこう書き起こされていた。 66>67
  今日、大学は予算を欠いており、そのさまは、立ち行かなくなった科学研究所ときわめて似ている。アンテルミタンたちの生存は不安定にされ、その様子はさながら、不安定な博士課程の大学院生のようである。つぎつぎに運びこまれる大勢の患者に対応せねばならない緊急医療の医者は、膨大な書類に追われ、何件もの訴訟をかかえる判事と見まがうばかりであり、医療行為を剥奪されつつある精神分析医は、発掘をおこなう機械を奪われた考古学者とたいして違わない。建築家ほど、活動の自由が徐々に制限されつつある弁護士や医師と比肩しうるものはないだろう。失業者といえば、生活保護をうけているアーティストとそっくりであり、さらには、老朽化した教室につめこまれた大学教員や学生たちと見分けがつかない(注13)。
 問われているのは「知‐政治(noo-politique)」である。ラッツァラートがいうように、非物質的な「共同財」は、共有されても枯渇することはない。なんらかの認識を語っても、その認識が失われるのではないし、芸術や科学の受容は、それらの消費や消尽ではない。ラッツァラートは十九世紀の社会思想家ガブリエル・タルドへの参照をうながしているが、そのタルドは社会の変容の底に「群集」状態をみてとり、そこではたらいている知識や情動の模倣の力能について語った(注14)。知識や情動としての「共同財」は模倣され伝播するもの 67>>68 であり、国家や市場の尺度によっては捕獲しえない、と。したがって、それらの尺度をしりぞけること自体が、「ラジカルな政治行為」となる。「共同財」をめぐる闘争は「資本/労働の関係をコード化しようとする意志から逃れることを目指す行為」なのである(注15)。  それゆえ大学の知‐政治は、こんにちのネオリベラルな施策の限界をかたちづくる。新自由主義が照準を合わせるのは、医療と教育の領域である。それらの営利事業化によって資本の蓄積をめざすが、大学が両者の根幹にかかわっていることに注意しよう。大学は医師を養成し、教員と教材をつうじて教育課程の全般にかかわる。しかしながら、大学が「共同財」に根ざすかぎりにおいて、交換という経済の原則そのものになじまない。「政治経済学」の「財」は稀少性によって規定されているが、「共同財」はたとえ万人に無償で提供されても消失することはない。ネオリベラリストたちが語る「コモンズの悲劇」(入会地の牧草の消滅)は起こらないのである。
 だが「新たな協働」は、いかにして可能なのだろうか? ラッツァラート自身は、大学よりもアンテルミタンの活動、とりわけ後者が発動した知‐政治の「動的編成」に関心をよせる。すなわち、アンテルミタンの「連携組織」は、従来の政党や労働組合の「垂直的あるいは階層的な形態」とは異なり、「配分的ネットワークのような形態」であることに注目し、両者の原理的な種差をつぎのように敷衍する。 68>>69
  一般に、政党や労働組合の集会は多数決の原理にもとづいているが、それでも、結局は一部のエリートを選出し、垂直的で権威主義的な権力構造がつくられてしまっている。しかし、連携組織とその委員会は、配分的パッチワークのモデルにもとづいてつくられている。そのモデルは、個人や集団が主導性を発揮し、新しい形態の活動を柔軟かつ責任ある仕方でおこなうことを可能にする。そのような組織形態は、階層的な組織形態にくらべて、アマチュアの人々に向けて大きく開かれており、あらゆる人々が政治活動に参加するのに適している(注16)。
 こうしたアンテルミタンの「連携組織」は、アヴィニョン演劇祭のボイコットによって政府への要求を認めさせたが、興味深いのは、その「動的編成」が喜安朗の語った「革命的サンディカリズム」を思い起こさせることだろう(注17)。一九世紀末には、議会制度から自律した労働運動が模索されていた。当時、社会主義の正統を自認する労働党は、政党政治の手段として労働組合を組織しようとする。その「階層的な組織形態」にたいして、ゼネストによる政府との対峙という原則のもと、各地の「労働取引所」を拠点に「革命的サンディカリズム」が練り上げられていく。そこにみられたのは「労働組合のアナーキスティックな運営」であり、「労働者の直接的な経済的開放」のための「各ミリタンや各労働組 69>>70 合の複合的な連携」だった(注18)。それはいわば「配分的パッチワークのモデル」にもとづいていたといってよい。そしてアンテルミタンの「連携組織」がボイコットの戦術にうったえたように、革命的サンディカリズムは一九〇六年にはゼネストを実現する。
 ストライキはたんなる交渉の手段ではない。それはむしろ交渉を絶つことによって、みずからの力を取り戻すことである。あるいはコミュニケーションの切断による生そのものの表現の獲得である。じっさい喜安はこの革命的サンディカリズムの起源を求めるかのように、その後の著作で一八四八年の二月革命の諸相にさかのぼっていった(注19)。二月革命では、普通選挙の実現をかかげる急進共和派の思惑をこえて、パリの民衆の愉悦にみちたストライキや直接行動がくりひろげられたという。「諸党派、正常な社会の区分であり枠組みであるこれらのものは,明らかに行動の外にあった。上げ潮はそれらの頭上をのりこえていった。それは舗石の割れ目や穴倉の換気窓からふき出してきた、新たな何ものかであった」(注20)。そこには議会の代理表象に還元されない、自律的な生の表現の湧出があった。われわれとしてはアンテルミタンという制度の誕生の経緯を想起しておくのもむだではないだろう。一九三六年、左派のレオン・ブルム内閣が突如として成立し、自発的な「喜びのストライキ」が野火のようにひろがっていく。そのなかで獲得されたのがヴァカンスであり、アンテルミタンである。二月革命、革命的サンディカリズム、そして「喜びのストライキ」――賭けられていたのは、交換の外部に普遍的に滞留するものであり、そこに知‐政治の系譜をたどることができる。そして大学の知‐政治もこの系譜上にあるとすれば、同じ律動が脈打っているはずである。」(白石 2010: 65-74)

美馬 達哉 20101210 「第8章 ミラーニューロンのレッスンン」『脳のエシックス――脳神経倫理学入門』,人文書院,215−235.

 「私という主体による理解を媒介として伴わないままに直接的に共感しあう社会脳としての人間社会というガレーゼの主張は、一九世紀末フランスの社会学者ガブリエル。タルドの「模倣をめぐる社会理論と驚くほど似通っている。多様な個々人の集合としての社会が、一つの全体としてある種の規則性(たとえば文化や社会制度)を保って持続することを、人間相互の「模倣の法則」で説明しようとするタルドは、次のように自分の主張を要約している。」 65>>66
  とにかく、私が望んでいるのは、少なくとも次のことを読者に感じ取ってもらうことである。まず、私が考えている本質的な社会的事実についてもっと理解してもらうためには、かぎりなく繊細な器官である脳で起こっている現象について理解する必要があること、またみた目にはまったく単純で皮相な学問と映る社会学は心理学や生理学の秘められた暗い核心を根にもっていること、以上の二つである。社会とは模倣であり、模倣とは一種の催眠状態である――本書を要約するとこのようになるだろう。(注8)。
 本章の文脈に置き直せば、ミラーニューロンによって結びついた社会脳は互いを反映しあう 226>>227 模倣の社会と読み替えることができるし、自己意識の主体が存在しないままに生じる共感は催眠状態と見なすことも可能だろう。
 ……
 そうした状況のなかで、二〇世紀には社会学史の一頁に登場する人物としての存在以外では忘れ去られていたタルドは、二十一世紀のグローバルな大衆社会を予見していた社会理論家として注目されつつある。たとえば、イタリアのマウリツィオ・ラッツァラートは、タルドの議論を引き受けつつ、インターネットなどの遠隔地を密接につなぐメディアを通じて模倣が瞬時に拡大していくことを、「脳の協働」として捉え、そのなかに新しい社会の可能性を見出している(注10)。

 

■感想



UP:20081006 REV:20100903, 20110108
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