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『精神科医がものを書くとき・T』

中井 久夫 19960705 広英社,349p.

last update:20110207

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中井 久夫 19960705 『精神科医がものを書くとき・T』,広英社,349p. ISBN-10: 4906493025 ISBN-13: 978-4906493029 2600+ [amazon][kinokuniya] ※ m.

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内容(「BOOK」データベースより) 現代人の心の荒廃と沃野を探る。専門領域にとどまらず、日常的体験からポストバブル、冷戦後の政治経済、世界情勢への発言まで、精神科医の透徹したまなざしで語る。現実をみつめ、考える日本人へおくる中井久夫のエッセイ・論集。

■目次

精神科医がものを書くとき
わが精神医学読書事始め
微視的群れ論
日本人がダメなのは成功のときである
外国語が話せるということ
昆虫についてのアンケートに答えて
「頑張れ」と「グッド・ラック」
「疎開体験」に寄せて―佐竹調査官への手紙から
クラス会に出る
ムンク展覧会に寄せて〔ほか〕

■引用

◆「わが精神医学読書事始め」 1994 『学術通信』56,岩崎学術出版社→中井[19960705:13-20]

 「医学部に移った私が精神医学に進むことを全然考えていなかったといえば嘘になるが、一九五七年頃、私の友人が抑鬱的になって、その婚約者といっしょに京大病院に連れていった。直ちに電撃療法となって、私は付き添ったが、これは私には耐えられない、私の中の何かが壊れそうだと思った。私は当直医として、主治医の指示でやむなく行った数回のほかは電撃を指示したことも実施したこともない。東大分院も、私が勤めた青木病院も、指導者の意向で原則として電撃を行わない病院であった。昭和四〇年代のことである。京大の精神科に行かなかったのも、その時の暗さの印象が尾を引いてのことかもしれない。」(中井[1994→1996:14]) cf.電気ショック

◆「私に影響を与えた人たちのことなど」 1991 『兵庫精神医療』12,兵庫県臨床精神医学研究会→中井[19960705:130-152]

 「私の祖父は早くに陸軍を辞めた軍人でしたが、そこにまだ中国に行かされて戦っている友人たちが訪ねてきて、今は「南京事件」として知られる残虐行為のことなどを話していました。今度の戦争では日本軍は勝ったとはいえないとか、「皇軍」の名に値しないということを話していたのも覚えています。こどもに対しては油断しているものですから、そういう話を私は足許で聞いていま<0152<した。それで、小学校時代には私は精神的に孤立していたと思います。かなりいじめらもしました。特に、天皇を神格化するということにはどうもなじめなかったのです。[…]
 ところが、これだけいろいろ心理的努力をやっておきましたせいか、終戦のときのショックがあまりなかったんです。それがかえって私にはしんどいことでありました。つまり、エイヤッと切開手術をしてもらって膿を出して、反対側にまわるほうが楽なんです。それで、中学生の私はむしろちょっと国粋主義者――といっても神懸かりではないんですけれども――で、天皇制をうっかり廃止して大丈夫だろうかというような、むしろ保守的な考えの人間になりました。特に、アメリカの人たちが宣伝する民主主義というものに対して懐疑的になった時期がありました。このころ、『民主主義』という本がアメリカの勧めでしょうか、編纂され、文部省の名前で出て、みんな読んでいたわけですが、歯が浮いたような本だといって私は読まなかった。」(中井[1991→19960705:130-134])

 (共産党への)「入党を勧める人はたくさんいたのですが、どうして私がそうならなかったかというと、戦争中から戦後にかけてもっともらしいプロパガンダにはすべて眉に唾を付けたほうがいいという、こまっしゃくれた考えが強かったせいだろうと思います。そのことは、マルクス主義といっても、スターリン主義でありまして、スターリンの御用学者――荒れ区サンドロフとか何とか今はまったく入手できないでしょうけど――、そういう本が読まれていました。そういうものを論破するのはそんなに難しいことではありませんでした。ちょうど山村工作隊といってゲリラ戦の真似をしようとした時期でもあったのですが、私はそういってくる友人を宇治の山の上に一緒に連れていって、君はどうやってここでゲリラ戦をするのかと聞いたことを覚えています。」(中井[1991→19960705:139-140])

 「なぜ精神科に入ったかということですが、それまで精神科に入りそびれていたことにはいくつかの原因があります。学生のときに、同級生がデプレッシヴになったので京大病院に連れていったのですが、電気ショックに立ち会ったのです。私は非常に陰惨な暗い感じがしました。そのころは、電気部屋というのがあって、電気ショックの終わった患者さんを寝かせていました。[…]  たまたま、私は近藤廉治先生に会いました。南信病院という開放病棟で診療しておられまく近藤先生です。本当に偶然でした。彼の話はいろいろご存じだと思いますが、彼の哲学をよく表している<0147<のは、病院の建物ですね。二階が張り出して一階がへこんでいた、「凸」という字を逆さにしたような形になっているのです。どうしてかと聞くと、「こうしてあったら患者が飛び降りても、下は五メートルぐらい砂をうめてあるから怪我をしない。こうしておかないと、建物のすぐそばは犬走りといってコンクリートで固めてあるものなので、そこに落ちて、死ななくでもいい人が死ぬんだ」ということでした。近藤先生はいろんな精神病院に勤めて、それを肥やしにして作ったんだと言っておられました。初めて私が私が会ったのは近藤先生が病院を建てる前でしたが、こういう人が精神科医なら精神科医になってもいいなと思いました。
 それから、そのころ薬が効くようになってきたというのもかなり大きな要因でした。学生時代の私は、クロルプロマイジンの人体実験の被験者になっていましたが、この薬は今までの薬とはまったく違うという印象を持ちました。
 そして最後に、脳外科と神経内科と精神科との三つを考えました。[…]それで精神科にしたのですが、たいていの方と違うのは、私は精神科を明るい科と感じて入ったということです。つまり、少しおぼつかない表情にせよ、はげまされ、見送られて退院する人がいるという発見です。私の医学生の頃は、結核病棟でも伝染病棟でも死亡退院が多かった。大学病院はとくにそうでした。
 どこの精神科に入るかということを近藤先生に相談したのですが、京都は同級生が六年目ぐらいになっているから、お互いに遠慮したい、東大分院は当時、笠松章先生が精神科の教授でした。笠松先生はどんな人でも受け入れるから、このおっさんのところへ行ってみたら、ということになった。」(中井[1991→19960705:147-149])
 *1967年4月 東京大学医学部附属病院分院精神科研究生

 「治療というものには「高度の平凡性」のようなものが必要だと思います。」(中井[1991→19960705:151])

◆1994 「近代精神医療のなりたち」『心の健康』第46・47合併号(兵庫県精神保健協会)→中井[19960705:251-257]

 「十九世紀の前半、アメリカの精神病院の治療率は高く、「アメリカ楽観主義」といわれるぐらい「精神病は治るんだ」という信念のもとに立派な精神病院が作られ、ボランティアがたくさん入りました。退院率は高く再発率が低いという素晴らしい結果が出ました。現在のアメリカでもそれだけの精神医療はやれていないと思います。<0165<
 一九二〇年に、ハリー・スタック・サリヴァンという人が当時の治療を個人的に試みました。やはり分裂病患者の治癒率に非常に良い結果が出ました。サリヴァンのやっことを調べてみますと、非常に素人くさいことをやっております。[…]ただ、いつでも求められれば手をさしのべることの出来る看護チームを持っていました。この素人くささが良かったんではないかと私は思います。[…]彼は非常に変わった人で、むしろなよなよとした人だったらしいんですが、ドクターとして素晴らしく、患者も非常に彼に信頼していたということです。」(中井[1991→19960705:151])

◆「精神保健の将来について」 1991 『心の健康』45,兵庫県精神保健協会→中井[19960705:251-257]

 「私は、多少の緊急往診も、ケースワークもしたし、若気の至りで患者の家庭に泊まり込んだことも、患者と共同生活を試みたこともないわけではない。毎夏を患者とキャンプしたことも、運動会をしたことも、文化祭をしたことも、ひととおりのリハビリテーションも、絵画療法も、箱庭療法も試みた。集団療法にも立ち会った。とにかくよいと言われることは何でもやってみようとした。結局、そこから今言えることは、慢性化しつつある患者、慢性化した患者に、これがよいといわれる特権的な方法、いわば「王道」はないだろということである。強いていえば、かつて「心のうぶ毛」と表現した、ある繊細さと向日性とでもいうものが感じられるようになることが、非常に重要なステップではないかということである。それは、おそらく患者の自然回復力の表現であるとともに、他の人間の善良さを引き出す生命的能力である。そのような患者を私は家族として受け容れることができる。医師としての課題は、したがって、患者のすさみを、あるいは萎縮を、どのように<0256<して和らげ、うるおすかということになる。私にいわせれば、それは、人間であることさえも超えて、すさんだ生命、萎縮した生命を回復させる機微が確かにあって、それを忍耐づよく、しかし晴々とした気持ちを失わずに行ってゆくことであろうと思われる。」(中井[1991→19960705:256-257])

■言及

◆立岩 真也 2011/05/01 「社会派の行き先・7――連載 66」,『現代思想』39-5(2011-5):- 資料

◆立岩 真也 2011/10/01 「社会派の行き先・12――連載 71」,『現代思想』39-(2011-10): 資料

 「中井久夫が、彼の友人が受けた電撃療法に「付き添ったが、これは私には耐えられない、私の中の何かが壊れそうだと思った」こと、それが京都大学の精神科に進まなかったことに影響しているかもしれないこと、また彼が務めた病院は原則として電撃療法を行わない病院であり、彼が主治医として電撃療法を行なったことはないことを述べていることは以前に紹介した(中井[1994→1996:14]、[1991→1996])。」

◆立岩 真也 2013/11/** 『造反有理――身体の現代・1:精神医療改革/批判』(仮),青土社


UP: 20110207 REV:20110414
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