HOME > BOOK

『生きているだけではいけないのだろうか――年寄りに学ぶ』

関 増爾 199004 日本看護協会出版会,230p. ISBN-10: 4818001147


このHP経由で購入すると寄付されます

関 増爾 199004 『生きているだけではいけないのだろうか――年寄りに学ぶ』,日本看護協会出版会,230p. ISBN-10: 4818001147 ISBN-13: 978-4818001145 1632 [amazon] ※ b a06

◆関 増爾 197103 「ねたきり老人とは何か――特別養護老人ホームよりは病院を!」『浴風会』3号,社会福祉法人浴風会 → 199004 『生きているだけではいけないのだろうか――年寄りに学ぶ』,日本看護協会出版会,86-96.

■引用
 「ねたきり老人とは何か――特別養護老人ホームよりは病院を!
 「ねたきり老人焼死」とか「老人またも孤独死、風呂場で冷たく一週間」などという悲惨なニュースが最近の新聞にしばしば見られます。そして、ねたきり老人や、ひとり暮らしの老人に対する施策の充実が叫ばれています。
 これに対して政府も、全国で約三十万といわれる居宅のねたきり老人には、不充分ながらも老人家庭奉仕員の派遣や、ギャッジベッドの貸与、訪問健診などと、その対策を進めています。また、老人施設としては養護老人ホームとともに、ねたきり老人のためにという唱い文句で特別養護老人ホーム(特養)の増設を進めています。
 『浴風合』2号でも厚生省の森幹部氏は「老人ホームの方向」の中で「今後の養護老人ホームは病弱者を中心とした施設に、特養はねたきり老人を中心とした施設に専門化し……」<86<と、その方向を示唆していますが、私は、ねたきり老人収容施設すなわち特養とする考え方には、どうしても納得しかねるものがあります。
 それは、「ねたきり老人」という言葉・概念の中で具体的にはどのような老人を考えるかのちがいに端を発しており、ひいては特養とはどういう施設であるかという認識にちがいがあるからだと思います。
 結論をはじめにいえば、私は「ねたきり老人」は特養ではなく、病院へ収容するのが正しいあり方であると考えます。
 その理由を述べましょう。
 まず、はじめに、「ねたきり老人」とはいったい何かという疑問です。「ねたきり老人」という言葉は老人のある状態を示すのに便利な言葉として便われます。そして、多くの場合、それはまさに字のごとく、ねたきりであって自分の用もほとんどできない老人を意味しているようです。
 厚生省の特養への収容措置の基準も、そのようなことになっていると解釈されます。それは、特養へ収容すべき老人としてつぎの二つの条件を定めています。老人福祉法では「欠<87<陥」、厚生省社会局長通知には「障害」という言葉が便われていますが、ここでは後者を取り上げました。
 すなわち、その老人は、
(1)身体上又は精神上の著しい障害のため、常時臥床しており、かつ、その状態が継続すると認められる場合、と、
(2)身体上又は精神上の著しい障害のため、常時臥床はしていないが、食事、排便、寝起き等、日常生活の用の大半を他の介助によらなければならない状態であり、かつ、その状態が継続すると認められる場合、なのです。
 では、そのような老人はいったいどのような状態の老人なのでしょうか。それを具体的に知るために私達が行った調査(関増爾ほか「特別養護老人ホーム入所者の日常生活動作能力の全国調査成績」浴風園調査研究紀要、第45輯、昭和43年)から見ると、実際に特養に入っている老人の活動能力はきわめて低い者が多く、平均してオムツ使用者が約三分の一、便器使用者が約四分の一、着衣・入浴は約三分の二が介助を要し、食事も箸を便って自分でできる者が半数にすぎませんでした。<88<
 しかし、重要なことは、ただそれだけではないのです。特養入所者は医学的に見ると、脳卒中などの脳血管性障害あるいは高血圧などの循環器疾患、さらには精神障害の患者がおり、入所者の七〇%弱が投薬、注射などの治療を行っています。そして、特養の死亡率は昭和四十三年では一七%という高率を示しています。これらの状態は、浴風会病院の入院患者の状態とそれほど変わらないと考えられるものでした。なお、慈恵医大・新福尚武教授の全国調査(全国施設老人の精神医学的実態調査・社会精神医学研究所紀要1巻1号・昭和45年)によると、特養には痴呆およびその他の精神障害を有する老人が、三七%も見られます。
 以上非常に簡単に調査結果の概要を記しましたが、見られるように、特養に現実に入っている「ねたきり老人」は「ただ単にねたきり老人」ではないのです。それらの老人は「ねたきりであると同時に医療を必要とする相当の病気をもっている老人」なのです。
 「ねたきり老人」という言葉・概念は、そのような事実を合んでいると理解すべきです。
そういう概念で使われるべき言葉であると考えます。実際に老人を処遇した方々はきっと、この考え方がおわかりいただけると思います。
 では、このような「病人であるねたきり老人」がなぜ特養に入ってきたのでしょうか。<89<
 それは、特養の入所基準がある意味では忠実に守られているからにほかなりません。そして、その入所基準に基本的な誤りがあるのではないかと思われます。
 入所基準に「身体上又は精神上著しい障害のため……」と規定されているような老人は「単なる障害者」ではなく、現実には「障害をもった病気の老人」が多いのです。そのような老人を単に「障害」という面からのみ、あるいは、「どの程度動けるか」という面からのみ医師ではない者が判断して区分し処遇しており、老人を心身両面から全体としてみないというところに本質的な誤りがあるのではないでしょうか。
 それはまた、「老人」とはどのような人間であるかというその認識の仕方に根本的な問題があるのだと思いますし、その基本的認識のいかんが老人福祉の方法論の基盤になるものだと思います。たとえ胃癌患者であっても相当進まなければ活動能力はそれほど衰えません。
 また、たとえば、熱があるというのは一つの症状であっていろいろの原因から起こります。単なるカゼでも、肺炎でも熱が出ます。
 熟のある老人にカゼ薬だけをのませるか、抗生物質を使うか、あるいは入院させて治療<90<するか、その原因を確かめて処置するのが、患者を取り扱う常識です。「ねたきり老人」という言葉は熱があるというのと同じように一つの症状です。それがどういう原因で起こっているかを確認してからその老人を処遇すべきでしょう。したがって「ねたきり老人」だから介護をというのは、熱があるからとりあえず解熱剤をというのと同じ発想によるものです。
 日本医大、村地悌二教授の調査(村地悌二著「健康老年者の栄養状態」日本老年医学会雑誌、3巻、237頁、昭和41年)によりますと、自覚的に健康であると思って日常生活を追っている老人でも、その約七割には何らかの障害が見られます。またいうまでもなく、老人の身体の状態は、それがいつまでも同じ状態で継続しているものではありません。常に衰退の坂道を下っています。年をとればとるほどその速度は遠くなります。そのような過程にあるものとして老人の精神および肉体を捉え、認識しなければなりません。
 「身体上又は精神上の著しい障害のある……」ような老人であれば、同時に相当の病気をもっていると考えねばなりません。そう考えることが、老人を人間として、より正しく認めることになるのだと思います。<91<その理念の上に立って行われる福祉こそほんとうの老人福祉であると思います。
 特養がわが国で設置されてきた過程とその理由は、理解できないことはありません。

 急性期を過ぎたばかりの脳卒中患者を病院から引き取らされ、あるいは、発作がなく徐々に動けなくなった脳軟化症のオムツ患者を抱えて、少ない職員の養護老人ホームではほんとに困っていました。医師のいない老人ホームで淋しく死んでいく老人が少なくはありませんでした。
 現在の医療保険制度の下では、付添婦をつけられないタレ流しの生活保護の老人患者を好んで引き取ってくれるような病院はありません。
 また、老人患者は入院期間が長く病室の回転率を非常に悪くします。そのため急性の患者が入院できなくなるとか、そのほか種々の理由で、慢性病の老人患者は一般の病院からは閉め出されています。
 そのような状態にくらべれば、たしかに特養は十分ではありませんが、養護老人ホームよりは多い職員で老人の世話ができ、また、ある程度の治療も行えるということはいえましょう。<92<
 しかし、現実の特養を見るとき、「これがほんとの老人福祉のための施設である」、「これで事終われり」と考えられては困ります。
 特養は病院ではありません。しかし、現実には病院の役割を相当に果たしています。そして「ねたきり老人は特養へ」という唱い文句のためにますますその方向へ進んでいるような気がしてなりません。
 特養に病院の肩代りをさせてはなりません。老人のための病院をつくるべきです。
 老人の慢性病患者をも優先的に収容する充実した老人病院は、現在の日本にはありません――(今の浴風会病院は老人患者を収容して、できるだけのことはしておりますが、これがほんとの老人病院であると考えられては困ります)――。特養の入所基準から考えられるような慢性病患者をも収容する老人病院を設置する方向へ進むのが、老人のことを考えた行き方だと思います。
 現在の特養入所者が全て入院を必要とする患者であるとはかぎりません。しかし特養の根本的な矛盾はその入所基準と、入所決定に医師が全くタッチしないことにあります。
 それをまず速やかに変えることであると思います。現在の特養はこのままの姿ではなく、<93<あくまでも過渡的なものとしての意義があるのだと思います。
 最後に、以上のことに関連して、浴風会における特養のあり方についての私の考え方を述べたいと思います。
 なお、浴風会では福祉事務所から養護老人ホームヘ送られてくる老人を、まず新入者寮に収容し、そこでいろいろのインフォメーションを与え、また、精密な身体検査および専門家の心理面接などを行っております。その結果にもとづいて医師が老人の収容区分(養護老人ホーム一般寮・虚弱者寮・病院)を決定して、その健康度に応じた処遇を行ってきました。
 また、浴風会独自の判断で養護老人ホームの中に虚弱者寮を設けて、集団生活に耐え難いと思われる虚弱・病弱老人や、退院患者の予後観察を行い、その養護を特別に行ってきました。それは必ずしも充分なものではありませんが、しかし、老人をその健康度に応じて処遇するという点で相当大きな寄与をしているものと確信しています。
 さて、「今後の老人施設は住宅部門、ナーシング・ホーム部門、病院部門の三者を併設し<94<たワンセットシステムでなければならず……これは欧米諸国で最も望ましい形の老人施設とされているものです」と森幹郎氏は言われています。それが一つの方向であるとして、その姿を、自分流に想い浮かべ、現状に当てはめながら考えますと、浴風会には一応曲がりなりにも養護老人ホームという住宅部門? 老人患者を収容している病院が併設されています。そのような所における特養は、病院部門のない特養とは質的に異なってよいのではないか、いや、むしろ異なるのが当然であると考えます。病院部門のない所の特養は、現実に病院の役割をも果たさざるを得ない状況ですが、それと同じ質のものを、病院のある浴風会の中につくるのであれば、それは何の理念もない、見通しのない、全くナンセンスなことです。
 もし、一般の特養と同じものが浴風会の中に生まれるのであれば、それは浴風会という団体の存在意義を失うことにもなるといってもよいでしょう。言葉をかえていえば、一般の特養と異なった質の、新しい特養を設置することこそ、浴風合の存在価値があるのだといえましょう。
 普通に見られる特養の設置は、他の人々におまかせし、それをそのまま真似をする必要<95<は毛頭ないと思います。
 浴風会におけるいわゆる特養は、養護老人ホーム、病院とともにワンセット・システムの中のものとして、あるべき姿を追求する新しい質のものであらねばなりません。
 浴風会の現状としては、たとえば養護老人ホームの共同生活が困難な虚弱者寮の老人を収容し、その判断は医師が行うべきものであると考えています。そして、将来、病院および養護老人ホームの改築と処遇の改善に伴って、そのあり方も当然変化していくべきものだと思います。
 浴風会であればこそ為しえること、あるいはまた、浴風会でなければできないこと、それを行うところに浴風会の社合的意義が見いだされるのではないかと考えます。
 そういう理念のもとに、浴風会の特殊性を認め、それを利用することこそ、欧米ではなく、日本の福祉の具体的方向を究明するための、またとない機会になるものと考えます。
 関係官庁ならびに老人福祉関係者および読者各位の深きご理解とご協力ならびにご援助を切に望むものであります。
 (浴風会3号・昭和46年3月)」(関 1971→1990:86-96)


*作成:北村健太郎 *情報提供:天田城介
UP:20060216 REV:
老い  ◇1990's  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
TOP HOME (http://www.arsvi.com)