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『人種・国民・階級――揺らぐアイデンティティ』(新装版)

Balibar,Etienne・Wallerstein,Immanuel 1988 Race, nation classe:Les identites ambigues,La Decouverte
=19970306 若森 章孝・岡田 光正・須田 文明・奥西 達也 訳,大村書店,446p.


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Balibar,EtienneWallerstein,Immanuel 1988 Race, nation classe:Les identites ambigues,La Decouverte =19970306 若森 章孝・岡田 光正・須田 文明・奥西 達也 訳 『人種・国民・階級――揺らぐアイデンティティ』(新装版),大村書店,446p. ISBN-10:4756310192 ISBN-13:978-4756310194  [amazon][kinokuniya] ※ er s03 e03

■内容(「MARC」データベースより)
民族紛争、人種対立、宗教問題が頻発する90年代の構造を二人の学者が読む。近代世界のパラドックスを解き明かす。1995年刊の新装版。

■目次

文庫版のための序文……E・バリバール、I・ウォーラーステイン/若森章孝 訳
序文……E・バリバール/若森章孝 訳

第一部 普遍的人種主義
 第一章 「新人種主義」は存在するか?……E・バリバール/須田文明 訳
 第二章 資本主義のイデオロギー的緊張――普遍主義 対 人種主義・性差別主義
       ……I・ウォーラーステイン/岡田光正 訳
 第三章 人種主義とナショナリズム……E・バリバール/須田文明・若森章孝 訳

第二部 歴史的国民
 第四章 民族性の構築――人種主義、ナショナリズム、エスニシティ……I・ウォーラーステイン/岡田光正 訳
 第五章 国民形態――歴史とイデオロギー……E・バリバール/若森章孝 訳
 第六章 資本主義世界経済における世帯構造と労働力の形成……I・ウォーラーステイン/岡田光正 訳

第三部 諸階級/両極化と重層的決定
 第七章 資本主義世界経済における階級コンフリクト……I・ウォーラーステイン/奥西達也 訳
 第八章 マルクスと歴史/実りのある思想と不毛の思想……I・ウォーラーステイン/奥西達也 訳
 第九章 ブルジョワ(ジー)――その概念と現実……I・ウォーラーステイン/奥西達也 訳
 第十章 階級闘争から階級なき闘争へ?……E・バリバール/須田文明 訳

第四部 社会的コンフリクトの軸心移動
 第十一章 独立後ブラック・アフリカにおかる社会的抗争[コンフリクト]――人種と身分集団の概念の再考
        ……I・ウォーラーステイン/岡田光正 訳
 第十二章 「階級の人種主義」……E・バリバール/須田文明 訳
 第十三章 人種主義と危機……E・バリバール/須田文明 訳

あとがき……I・ウォーラーステイン/岡田光正 訳

解説:近代性の再把握と史的システムとしての資本主義
訳者あとがき……若森章孝
新装版への訳者あとがき……若森章孝
索引

■引用
(原文の傍点は太字で、一部省略は …… で、ルビは〈 〉で単語の後に示す。( )、[ ]は原文のまま。)

序文 エティエンヌ・バリバール

「つまり本書は、次のようなやっかいで重大な問題の解明に取り組もうとするものである。現代の人種主義(racism)の独自性はどこにあるのか? 現代の人種主義の独自性は、資本主義の階級分割や国民国家〈ネイション・ステイト〉の諸矛盾とどのようなかたちで結びついているのか?逆に言えば、人種主義的現象はいかなる点で、国民主義〈ナショナリズム〉と階級闘争との接合関係の再検討へとわれわれを誘うのだろうか? このような問題を通じて本書はまた、「西欧マルクス主義」の内部で今日に至るまで10年以上にも渡っておこなわれてきたもっと広い議論に寄与しようとするものである。「西欧マルクス主義」が議論の結果として見事に刷新され、再び時勢に遅れないようになることを、われわれは期待している。いうまでもなく、このような議論が国際的性格をもっているのはけっして偶然ではない。また、かかる議論が哲学的考察と歴史的総括とを、あるいは、概念の作り替えの試みと(とりわけフランスにおいて)今日緊急性を増している政治的諸問題の分析とを>0005>結びつけるものであることも明らかである。」(pp.5-6)

「したがって、資本主義的社会構成体がなぜ諸国民の携帯(form of nations)をとるのかという問題、より詳しく言えば、「強い」国家装置を囲んで個別化される国民〈ネイション〉と、統一が無い害から妨げられる従属的国民〈ネイション〉とは何によって差異化されるのかという問題、さらに、このような差異が資本主義の歴史とともにどのように変容するかという問題――、これらの問題が人びとの盲点であることを止めて、決定的な争点になったのである。」(p.9)

「『近代世界システム』第一巻の最後のところで、ウォーラーステインは「社会システム」の相対的自律性を識別する基準を提案している。社会システムの発展の(あるいはその動態の)内的自律性の基準がそれである。彼はそこから次のようなラディカルな結論を引き出している。すなわち、われわれが一般に「社会システム」という呼び名を用いている(「民族」から国民国家〈ネイション・ステイト〉までの)歴史的単位のほとんどは、実際には社会システムではなく、たんに非自律的な単位にすぎないのである。これまでの歴史のなかで本来の意味で社会システムと言えるのは、自己充足的>0012>な共同体と「世界システム」(世界帝国と世界経済)だけである。マルクス主義用語で言い直せば、今日の世界において本来の意味で社会構成体と言えるのはただ世界経済だけである。なぜなら、世界経済は歴史的諸過程がそのなかで相互依存的になるいちばん大きな単位だからだ、ということをこの命題はわれわれに考えさせるのである。換言すれば、世界経済はたんい経済的単位および諸国家システムであるばかりでなく、社会的単位でもある。したがって、世界経済の発展の弁証法はそれ自体、グローバルな弁証法であり、世界経済の発展は少なくとも、地方的なものにたいするグローバルな制約の優位によって特徴づけられる。」(pp.12-13)

「ここで重要なのは、唯物論と観念論の対立を蒸し返すことでも、社会の経済的単位をシンボル的単位――その定義は、方や宗教の領域に、また、近親相姦の禁止、等々のうちに見出される――によって補完しなければならない、あるいは、置き換えねばならない、と主張することでもない。むしろ重要なことは、マルクス主義者が自分たちの分析――彼らの文政の大部分は自由主義的な経済イデオロギーで(およびそれに暗暗裏に含まれている人類学)を引き継いでいる――の意味についての巨大な幻想の犠牲者になったのは偶然ではないことを問うことである。資本主義的分業は、個人および社会集団間の仕事における補完関係とは無関係なのである。資本主義的分業はむしろ、ウォーラーステイン自信が何度も強調しているように、社会構成体の、「共通」利害が次第になくなっていく敵対的階級への両極化をもたらすのである。このような資本主義的分業のうえで、社会的統一(対立的でさえある統一)の基礎はいかに生み出されるだろうか? おそらくそのためには、マルクス主義お命題についてのわれわれの解釈>0015>を逆転させねばならない。資本主義的分業を、相対的に安定した「集合体」としての人間社会の基盤を与えるものとして、あるいはそれを確立するものとして表象する代わりに、われわれはそれを人間社会を破壊するものとして考えるべきではないだろうか? より正確に言えば、もしその他の社会的実践――一様に物的であるが、経済人の行動〈ホモエコノミックス〉に還元できない実践、例えば、言語による意思疎通、性行為、技術、認識といった実践――が帝国主義的生産関係の膨張に限度を課し、それを内部から変革しないならば、人間社会の内的不平等に非和解的な敵対関係の携帯をあたえることによってこの人間社会を破壊するものとして、われわれはこの資本主義的分業を把握しなければならない。」(pp.15-16)
「……確かなことは、国民〈ネイション〉と民族〈ピープル〉を歴史的構築物として理解することが重要であると考える点では、われわれ二人が一致していることである。このような歴史的構築物のおかげで、現在の諸制度やさまざまな敵対関係が過去>0020>に投影され、その結果、個人の「アイデンティティ」の感情を左右する「諸共同体(communautes)」に相対的安定性が付与されるのである。」(pp.20-21)


第一章 「新人種主義」は存在するか? E・バリバール

「真の「総体的社会現象」としての人種主義は、実践(暴力や軽蔑、不寛容、侮辱、搾取の諸形態)のなかに、また言説と表象のなかに含まれているのである。つまりこの場合、言説や表象は予防や隔離といった幻想(社会体の鈍化の必要性、つまりあらゆる混沌や混血、侵入から、「自己」や「われわれ」のアイデンティティを保護するという必要性)の知的精緻化なのであり、また他者性の傷痕〈スティグマ〉(名称、皮膚の色、宗教的実践)の周囲に接合されているのである。したがって人種主義が情動(心理学がその強迫観念的性格および「不合理な」両義性を記述することに努めた)を組織するのは、その「対象」についても、またその「主体」についても同様に、ステレオタイプ化された形を付与することによってなのである。」(p.32)

「ところで人種主義共同体の形成にとっては、人種主義理論が不可欠のものである。結局のところ(諸)理論なしには人種主義は存在しないのである。人種主義理論はエリートから生まれるか、それとも大衆からか、支配階級からかそれとも非支配階級からか、などと問うのはまったく無意味であろう。むしろこの理論は知識人によって「合理化されて」いるということが明らかなのである。さらにもっとも重要なことは、学問的人種主義の理論化(その原型は19世>0033>紀末に成立した「生物学的」人種にかんする進化論的人類学である)が、人種という意味作用〈シニフィアン〉をめぐって構成される共同体の具体化のなかで演じている機能について検討することである。」(pp.33-34)

「したがって敢えて言えば、人種主義複合体は、否認という決定的な機能(これ無くしては、それを実践する当の側にとって、いかなる暴力も耐えがたいものであろう)と知への欲求、すなわち社会諸関係の直接的認識への暴力的な欲求とを分かちがたく混在させているのである。」(p.34)

「しかしわれわれが人種主義的教義をまさにデマゴギー的な理論的精緻化(大衆の知識への欲求にたいしてこの教義が与えるあらかじめの回答に、この精緻化の有効性は由来している)と定義する場合、われわれ自身>0035>こうした曖昧さから逃れることができるであろうか。「大衆(masse)」という(あるいは「民衆(populaire)」という)カテゴリーそのものは中立的なものではなく、社会的なるものの自然化およびその人種化の理論と直接関連しているのである。この曖昧さを一掃するためには、人種主義的「神話」がその大衆への支配を獲得するやり方を考察するだけでは十分ではなく、「知的」活動と(広義での)「肉体的」活動との分割の枠内で精緻化された他の社会学理論がなぜ、この知への欲求と容易に融合することができないかを問わねばならないのである。人種主義的神話(「アーリア神話」、遺伝の神話)が神話であるのは、たんにその疑似科学内容によってだけではなく、知性を大衆から分離している断絶の、創造的な克服の形態(これは言わば、生れつきの幼稚さへの大衆を閉じ込める暗黙の運命論と分かちがたい)においても神話なのである。
 こうしてわれわれは、「新人種主義」へと目を転じることができる。」(pp.35-36)

「人種概念の代替としての、また「階級意識」を解体する要因としての移民カテゴリーの果たす機能が、われわれに最初の手がかりをあたえてくれる。」(p.36)

「もう一つの危機の時代としての両大戦間期は、ユダヤ人であろうとなかろうと、ファシスト運動の枠組みを越えて「外国人」にたいする攻撃キャンペーンを経験している。ヒトラーの野望へのヴィシー体制の加担がこうした運動の理論的帰結を示しているのである。しかしその当時、他者への憎悪と恐怖の表象の決定的なカギとして、「生物学的」記号の「社会学的」記号への決定的代替が見られなかったのはなぜであろうか。人類学的神話のとりわけフランス的な伝統の重みを別にすれば、多分一つには、当時移民の受容(特にヨーロッパ人)と植民地の経験(一方ではフランスは「侵略」され、他方ではフランスは「支配」していた)との間に存在していた制度的、イデオロギー的断絶のためであり、また一つには、世界的レベルにおける国家と民族(people)と、文化との新たな接合様式の不在のためなのである。」(p.37)

「……新しい人種主義は、「脱植民地主義の時代の、旧植民地と旧中心部との間の人口移動の逆転の時代の、単一の政治的空間内における人間の分割の時代の人種主義なのである。われわれのところでは複合的移民現象(移民コンプレックス)に集中している現在の人種主義は、イデオロギー的には、フランス以外で、とりわけアングロ・サクソン諸国ですでに広範に普及した「人種なき人種主義」という枠組みのなかに一括される。つまりそれは、その支配的テーマが生物学的遺伝ではなく、むしろ文化的差異の還元不可能性にあるような人種主義なのである。またこの人種主義は一見したところ、ある特定グループなり人びとの、他の者にた>0037>いする優越性を仮定するようなものではなく、むしろ「たんに」境界の消滅の有害さだけを、生活形態や伝統の両立不可能性だけを仮定しているような人種主義である。つまりそれは差異主義的人種主義(racisme differentialiste)(P・A・タギエフ)と正当にも名付けるべき人種主義なのである。」(pp.37-38)

「[この新しい人種主義の議論においては]人種は生物学的に区分し得る単位ではないということ、結局のところ「人間の諸種族」など存在しないということが即座に承認されている。また個人の行為とその「性向」は血や遺伝子によっては説明されず、その歴史的な「文化」への帰属によって説明されるということもまた承認されている。ところで諸文化の多様性と平等(こうした文化の多様な総体のみが人間文明を構成している)の承認、さらには文化の超歴史的な「永続性」の承認へと、総じて方向づけられた人類学的文化主義は、戦後のヒューマニズムとコスモポリタニズムに満ちた反人種主義にたいし、非常に多くの論拠を提供してくれたのである。こうした人類学的文化主義の価値は、ある画一的な帝国主義ヘゲモニーにたいする、またマイノリティの文明の根絶、つまり「人類抹殺」にたいする闘争においてそれが行なった貢献によって確認されるのである。ところが差異主義的人種主義はこの論拠を字義どおり受け取ってしまった。あらゆる文明が同じように複雑で、人間の思考に>0038>とって不可欠なものである(クロード・レヴィ=ストロース、『人種と歴史』)と論じることで、名をあげていた人類学の大家が、今や、本人が望んでいようといまいと、「文化の混合」や「文化的距離」の末梢は、人間的知性の死に値し、生物学的生存を保証しているとされる調節機能を危機に陥れさえする(『人種と文化』)という考えに加担しているのである。こうした「証明」は人間集団(実際は国民集団ということ。とはいえ、国民(nation)という政治的カテゴリーの人類学的意義は明らかに疑わしいものではあるが)の「自発的」傾向、すなわちその伝統を、したがってそのアイデンティティを維持しようとするという傾向と直接に結びつけられるのである。以上のことから明らかにされているのは、生物学的ないし遺伝的自然主義が、人間的行動と社会的帰属を自然化するさいの唯一の様式なのではないということである。」(pp.38-39)

「……人類史における人種の理論あるいは人種の闘争の理論(……)から、われわれは社会における「エスニックな諸関係」(……)の理論へと移行しているのであり、後者の理論は人種的帰属ではなく、人種主義的態度を自然化するものである。」(p.40)

「「首尾一貫した」差異主義的人種主義が、あらゆる文化の不変性を弁護しながら、一様に保守主義である、といった逆説は偶然ではない。この人種主義が実際保守主義的であるのは、ヨーロッパの文化と生活様式を「第三世界化」から保護するという口実のもと、それはあらゆる現実の発展方向を幻想的に閉じてしまうからである。」(p.44)
「……そこでは、血統神話の歴史物語(人種(race)と、民族(people)、文化、国民(nation)の間での代替ゲーム)が相対的に影響力を失う一方で、「正常な」社会生活への(あるいは逆に犯罪や逸脱への)、また(感情的ならびに衛生学的、優生学的観点から)「最適な」再生産への知的性向や「資質」の心理学的評価が全面にでるのである。その際、一連の認知科学や社会心理学、統計学が、遺伝と環境との持ち分を配分しながら、こうした性向と資質を測り、選別し、管理するために提供されることになる。」(p.46)


第二章 資本主義のイデオロギー的緊張――普遍主義 対 人種主義・性差別主義 I・ウォーラーステイン

「そういうわけで、資本主義的社会関係とは「普遍的溶媒(universal solvent)」にほかならず、それは貨幣という単一の尺度によって表示される同質的な商品形態に万物を還元するように作用するので>0056>ある。
 このことは二つの主要な帰結をともなっている、といわれる。第一に、それは財貨の生産効率を最大にするという。……
 第二に、能力主義〈メリトクラシー〉は経済的に効率的であるばかりか、政治的にも安定をもたらしている、といわれる。……たいていの人びとにとっては、相続によって獲得された特権よりも能力によって獲得された特権のほうが道徳的にも政治的にもいくらか許容しやすい、と考えられているのである。
 このような政治社会学的説明は、疑わしいように思われる。実際には、まさにその正反対のことが正しいのである。」(pp.56-57)

「拡大しつつある資本主義システムは(大半の場合には)、見いだせるかぎりの労働力を必要とする。なぜなら、この労働は財貨を生産し、それによってより多くの資本が生産され、実現され、蓄積されることになるからである。システム外への労働力の追放は無意味である。ところが、もし資本の蓄積を最大限に増加させたければ、生産費(それゆえ労働力の費用)を最小限におさえると同時に、政治的混乱にともなう費用を最小限におさえる(それゆえ、労働力の異議申し立ては――排除できない以上、排除するのではなく――最小限におさえる)ことが必要である。人種主義は、これらの目標を調和させる魔法の公式なのである。」(p.59)

「……人種主義は、われわれが人種〈レイス〉または民族的〈エスノ〉・国民的〈ナショナル〉・宗教的集団と呼ぶ、これらの物象化された実体の正確な境界を定義するにあたって、(遺伝的および/あるいは社会的)過去との連続性に基礎をおく要求と、現在志向的な伸縮性とをつねに結びつけてきた。現在におけるこれらの境界を絶えず引き直すことと結びついた、過去の境界とのつながりを要求するというこの伸縮性は、人種的および/あるいは民族的〈エスノ〉・国民的〈ナショナル〉・宗教的集団ないし共同体〈コミュニティ〉の創出と、これらの絶えざる再創出という形態をとる。これらの集団はつねに存在し、つねに階層制的に等級づけられているが、まったく同一のままだというわけでは必ずしもない。」(p.61)


第五章 国民形態――歴史とイデオロギー E・バリバール

「フランスの国民主義的〈ナショナル〉>0188>イデオロギーの歴史のなかには「原住民保護主義(nativism)」が潜在的に含まれていたが、19世紀末に、植民地化や労働力輸入の拡大やエスニック的出自の相違による肉体労働者の差別が「フランス民族〈レイス〉」という幻想を狂信的に作り上げるにいたるまでそれは潜在的なままであった。反対に、アメリカの国民的〈ナショナル〉イデオロギーの歴史のなかにはきわめて早いうちから、原住民保護主義が明示的なかたちで存在している。」(pp.188-189)


第十章 階級闘争から階級なき闘争へ? E・バリバール

「……一部の人びとは、……世界経済危機の下で、マルクス主義が搾取や階級闘争と関連付ける一連の社会現象……が見られた時期(1970年代および80年代)に、階級の消滅を宣言するなどというのは大ウソではないか、といぶかった。他方では、それと同時に、マルクス主義にまったく染まっていない人の目にさえ、「階級的」色彩の強い政策――この政策の明白な緊急のねらいは、……企業経営の健全性や経済戦争、「人的資本」の収益性や人間の可動性などである――として理解されるべき、中央政府の政策が実行されたのである。このような政策の実行は階級闘争に現実味をあたえないであろうか、というのである。
 しかしながら、ここで欠落しているのは(S・ド・ブリュノが正しく指摘しているように)、社会的なもの、政治的なもの、理論的なものの間の接合関係なのである。この欠落のために、階級対立の可視性が不透明なものに変換しているのである。おそらく新自由主義と新保守主義の政策は、>0280>統治不能性や国際関係の不安定性やそれ固有のポピュリズム(および倫理主義)に内包される矛盾などに埋没する傾向にある。しかし新自由主義と新保守主義の政策は、労働運動の制度形態や組織された階級闘争を解体し、それらの正統性を否定することを通して、否定的な意味で疑うべくもない成功をおさめたのである。言い換えれば、労働運動や階級闘争を解体する試みが徹底的かつ執拗なものであるということは、[階級および階級闘争の]神話が今なお抵抗を続けているということを示唆するものであろう。しかし、労働運動が数十年に及ぶ組織や経験や理論的論争の蓄積をもっていたにもかかわらず、新保守主義の成功が、大部分の資本主義中枢において生じたのである。ところで、最近数年の典型的な労働者闘争のうちでもっとも激しくもっとも主要であったものの多くは、イギリスの炭坑のストライキ、フランスの鉄鋼所労働者および鉄道労働者の闘争のように、その産業部門だけに関わる(すなわち「同職組合主義的〈コーポラティブ〉な」)防衛的な闘争として、労働者全体の将来にとってあまり意味のない、降伏前の名誉の戦闘のように見えたのである。だがそれと時を同じくして、社会的対立は一連のさまざまな形態を採っていた。そのうちいくつかのものは、制度的安定性を欠くにもかかわらず、あるいはそうであるがゆえに、ずっと重要な意味を有しているように思われる。このことは、世代間の紛争、環境を侵害するテクノロジーの脅威に関連した対立、「民族的〈エスニック〉な」対立(あるいは「宗教的な」対立)、慢性的な戦争状態、国家枠を越えた〈トランスナショナル〉テロリズムの慢性化等々にまで当てはまるのである。
 おそらくこのような対立は、「階級の消滅」のもっともラディカルな形態なのかもしれない。しかしそれは、社会経済的闘争およびそれが表現している諸利害の純然たる消失なのではない。それが>0281>示しているのはむしろ、社会経済的な諸闘争が政治的中心性を喪失し、多様な形態の社会的対立のネットワークのなかに再吸収されていることである。そこにおいては、……諸闘争はいかなる階層化にもしたがわないし、社会の「二大陣営」への可視的分割にも、……いかなる「最終審級」にもしたがわず、また……変容のいかなるベクトルにもしたがわないのである。要するにこれは「マルクス的」というよりも「ホッブス的」な状況を示しているのであり、最近の政治哲学の展開はこのような状況を反映しているのである。
 このような状況を検討するためには、……マルクス主義の概念や歴史的形態を分析する次元と、綱領ないしスローガンを考察する次元とを明確に区別することが必要である。というのもこの両者の混同が、マルクス主義の議論に実践的真理という資格を前もって付与することによって、自己の議論の普遍性と客観性にたいするマルクス主義の認識に、絶えず影響をあたえてきたと考える十分な理由があるからである。それゆえ、理論と実践の接合関係を考えるための、十分条件ではないにせよ、その必要条件なのである。理論と実践の接合関係は、思弁的な経験主義ではなく、戦略的創意に依存しているからである。」(pp.280-282)

「 ここにプロレタリア化の三つの側面があり、それは同じくプロレタリアートの再生産の三つの局面をなしてもいるのである。……それは「大衆」と「階級」との暗黙の弁証法を含んでいるのである。すなわち、歴史的に不均質な(多様な特性を刻印された)大衆(あるいは人びと)の、[単数不定冠詞の]労働者階級への、あるいは[単数定冠詞の]労働者階級なるものの継起的布置への永続的変換であり、階級の状態に固有な「大衆化」諸形態(「大衆の労働」、「大衆文化」、「大衆運動」)の平行的発展なのである。」(p.288)

「……マルクスは、社会集団および諸個人をお互いに束ねているものは、良質な公共財、すなわち法的秩序ではなく、つねに発展しつつあるコンフリクトであるという逆説的な考察にたいして歴史的な基礎を与えたのである。それゆえまさに、「経済的」概念においてさえ(あるいはとり>0298>わけ、経済的概念として)、階級闘争と階級はつねに、もっぱら政治的な概念であったのであるが、これは同時に、形式的な政治の観念を潜在的に訂正するものでもあった。しかし、経済主義や「オーソドックスな」進歩主義によってと同様、革命的国家主義によっても、こうした断絶や訂正は隠蔽され、また多かれ少なかれ、完全に破棄されることになった。つまり、階級闘争概念は、組織化のテクニックと国家の独裁のためのステレオタイプ化された口実となる。まさにこのために、階級アイデンティティと組織化の実態、および国家の変容の歴史的関係をより詳細に検討しなければならないのである。」(pp.298-299)

「……暗黙のうちに私は(マルクス自身も「社会構成体」について語るさいにはほとんどつねにそうであった、ということを言っておかねばならない)、国民的〈ナショナル〉な枠組みのなかで議論していたのであり、階級闘争と階級形成の場が国民的〈ナショナル〉な空間であるということを私は認めていたのである。言い換>0306>えれば、私はむしろ、資本主義的社会諸関係が、国民的〈ナショナル〉な枠組み(国民国家〈ネイション・ステイト〉のそれ)と同時に世界的枠組みのなかで展開しているという事実を軽視してきたのである。
 こうした欠落をいかに修復すべきであろうか。ここでは「国際的な〈インターナショナル〉」生産・コミュニケーション関係に言及するだけでは不十分であろう。われわれに必要なのは、階級闘争の布置状況が依存している経済的・政治的諸過程の、「本来的に国家枠を越えた〈トランスナショナル〉」性格をより的確に表現する概念なのである。」(pp.306-307)

「この資本の国際化はけっして、統一された社会的・政治的「ヘゲモニー」をもたらしたのではなかった。この資本の国際化はせいぜいのところ、資本家や国家や経済政策や情報ネットワークをよりいっそう自身の戦略に従属させることによって、また絶えず国家の経済的・軍事的機能を統合することによって、世界的優位を確保しようとする、一部の民族〈ナショナル〉ブルジョワジーの伝統的な試みをもたらしただけだった……。矛盾に満ちた試みによって、国民国家〈ネイション・ステイト〉の特徴の一部をより大きい規模で再創出しようとする場合(実際の唯一の例はヨーロッパである)も含めて、このような民族〈ナショナル〉ブルジョワジーの戦略は一国レベル〈ナショナル〉的なものでしかない。こうした戦略は、国民国家〈ネイション・ステイト〉による独占から多少とも完全に脱した政治形態の出現――現代に特徴的な形態であるが、まだほとんど輪郭が描かれていない――と混同されるべきではないのである。」(p.309)

「1960年代および70年代における「歴史主義的」マルクス主義と「構造主義的」マルクス主義の激しい論争を記憶している人びとに私がここで提案したいのは、決定的な争点は構造と歴史を対立させることにあるのではなく、目的論(主観主義的および客観主義的なそれ)と構造主義的歴史とを対置させることである。だからこそ私は歴史についてのより有効な手がかりを得るために、少なくとも本来のマルクス主義の構造主義的概念のいくつかを使用し、その成果を展開しようとしたのである。
 このような考え方において、古典的マルクス主義の本質的な点が修正された。すなわち、たとえ傾向的に、という条件をつけたとしてであっても、社会諸階級間の固定された区分などは存在しな>0314>のである。敵対関係についての考察を、二大陣営という軍事的ならびに宗教的メタファーから(それゆえ、「内乱」かそれとも「合意」か、という二者択一から)引き離さなければならない。階級闘争は表象の水準でであれ、物理的にであれ、例外的にしか内戦の形態をとらない(階級闘争が内乱の形態をとるのは、とりわけ階級闘争が民族的〈エスニック〉ないし宗教的対立によって重層的に決定されているとき、あるいはそれが国家間の戦争と結びついている場合である)。むしろ階級闘争は多くの他の形態をとり、階級闘争の多様性はアプリオリには限定することができない。……階級闘争には単一の本質など存在しないという理由のため、このように言うことができる(それゆえ私はとりわけ、依然として古典的マルクス主義と同じメタファーでとらえられている「塹壕線」と「陣地戦」というグラムシの区別に不満を感じるのである)。階級は対象としても主体としても、社会的な、超個人性(個人的特性を超越したもの)(super-individualites)ではないということ、言い換えれば、階級はカースト制ではないということをはっきりと確認しよう。つまり構造としても歴史としても、諸階級は相互に重なり合っており、少なくとも部分的には複雑に入り組んでいるのである。ブルジョワ化されたプロレタリアの存在が必然的であるとの同じように、プロレタリア化されたブルジョワの存在も必然的なのである。このような諸階級の重なり合いは、物質的な分割なしには起こりえない。別の言葉で言えば、相対的に均質的な階級アイデンティティは、事前の決定の結果ではなく、状況の結果なのである。」(pp.314-315)

「階級闘争は、社会的実践のすべてを包括する一つの規定的構造(しかし唯一のものではない)として理解することができるし、またそのように理解しなければならない。言い換えれば、階級闘争が必然的に別の諸構造の普遍性と共鳴するのは、まさにそれがあらゆる実践を包括しているからである。重層的決定が非決定の同義語ではないのと同様に、ここでいう普遍性とは単一性の同義語ではありえないのである。」(p.319)

「つまり、ナショナリズムの危機が、ナショナリズムの過剰およびその拡大再生産にまで進行しないためには、社会というものの表象の場〈シャン〉において、階級闘争の審級が、まさに還元不可能な他者として(それとはまったく別のものとして)登場しなければならないのである。したがって、階級あるいは階級闘争のイデオロギーは――いかなる名称で表現さ>0320>れようとも――、この模倣衝動からのがれでることによってその自律性を再構築しなければならない。」(pp.320-321)


第十一章 独立後ブラック・アフリカにおかる社会的抗争〈コンフリクト〉――人種と身分集団の概念の再考
      I・ウォーラーステイン

「 国民〈ネイション〉、つまりわれわれが「国民主義的〈ナショナリスト〉」感情を覚える国民〈ネイション〉は、この身分集団の定義がそっくりあてはまらないだろうか。どうもあてはまるようだ。しかし、身分集団の概念の使用にあたってふつ>0330>うまず念頭に浮かぶのは、国民的〈ナショナル〉帰属ということではない。ヴェーバーの概念は、もともと中世の身分〈エステイト〉から発想を得ており、現代アフリカに適用するにはいささか限界がある。近代アフリカについての文献は、むしろ、「部族」および/ないし「エスニック集団」について記述したものが多数を占めている。大多数の著者は、身分集団をさすもっとも意義のある経験的事例として、「エスニック集団」を捉えている。それがヴェーバーの概念の趣旨にかなうものであることは、疑いないところである。人種という用語も頻繁に使用されている。けれども、それは大多数の著者にみられる支配的傾向としては、身分集団との関係が明らかにされていない。人種は、アフリカ研究のなかでは、何よりもヨーロッパ系の白人とこの大陸の土着の黒人との対立に関連して使用されている’いくつかの地域では第三のカテゴリーとしてインド亜大陸から移り住んできた者やその子孫がいる)。しかし、この用語が土着の黒人人口の内部の多様性を区別するために用いられることはまずない。
 では、人種とエスニック集団は、互いに異なる二つの現象なのだろうか。それとも同じ主題の二つの変形なのだろうか。」(p.331)

「 独立はまた、もう一つの重要な変数をつけ加えた。より大きな精神的共同体における第一級の成員としての地位、つまり市民権のかなり厳格な法的定義がそれである。この概念によって引かれる境界線は、植民地化以前のアフリカと異なるばかりか、植民地時代のものとも異なっていた。」(p.334)

「 これまでアフリカの状況について素描してきたのは、次の一点を強調するためである。すなわち、>0338>エスニック集団、宗教集団、人種、カーストといった考えられるさまざまな身分集団の間には、有用な区別などひとつも存在しないということ、これである。それらはすべて、ただ一つの主題が形を変えたものでしかない。それらは、現在の経済・政治情勢より以前に神話的に存在していた類縁性による民族〈ピープル〉のグループ分けであり、そして階級的あるいはイデオロギー的観点から規定された人びとの団結に優先する結束を主張するのである。……スキナーの表現によれば(Skinner 1967, p.173)、身分集団の中心的な機能は、「その環境内で価値があるとみなされるすべての財やサービスの獲得を目ざして、他者と競争できるような社会的・文化的・政治的諸統一体に民族〈ピープル〉を組織させること」なのである。
 この機能が身分集団という概念に固有のものである限りは、定義上、身分集団は何らかのもっと大きな社会――身分集団がその一部を構成するような――より優位にたつものとして存在することはできない。たとえ、その身分集団が一つの社会システム以上に組織化されている、もしくはそのようなものとして存在していると主張する場合においてでもある。」(p.339)

「……おそらくわれわれは、ヴェーバーの階級、身分集団、党派の三者を、三つの異なった相交差する集団としてではなく、同一の本質の三つの異なった存在形態として捉え直すことができよう。この場合、どんな条件のもとで身分による階層化が階級意識よりも優勢となるのかというヴェーバーの問題は、どんな条件のもとで社会階層が階級、身分集団、党派として現れるのかという問題に変化する。このように考えるならば、集団の相次ぐ実体化において集団の境界線が重なり合う――そうすれば逆に、外面的に異なる衣装をまとうことにはならない――だろうということはいうまでもない。いやむしろ、どんな時代でも、どんな社会構造においても、互いに関係をもちながら対立しあう一定の集団群が存在する、ということになる。」(p.343)

「かりに社会がエスニック的に「統合」されるようなことがあっても、階級間の敵対は弱まりはしない。実際は、その反対である。身分集団への帰属化のネットワークの機能の一つは、階級差の現実を覆い隠すことにある。しかし、個々の階級間の敵対ないし差異が減少したり消滅するならば、その程度に応じて、身分集団間の敵対(差異さえ)も減少し消滅してゆくのである。」(p.349)

「しかし、国ぐにの事例は、別々の論理的に区別されたものではない。それらは世界システムの一部なのである。国内システムのなかの身分と威信は、すでに今日のブラック・アフリカにおけるヨーロッパ白人移民の役割を論じたさいに触れたように、世界システム内の地位やランクと無縁ではありえない。国内的な身分集団と並んで国際的な身分集団がある。われわれのいう人種とは、本質的にはこのような国際的な身分集団のことである。白人と非白人の間に基本的な区別がある(もちろん、非白人にもいろいろな種類があり、カテゴリー化は時と場所によって異なる。一つのグループ分けは肌の色によるが、これは実際にはあまり広く普及しているわけではない。もう一つのより一般的なグループ分けは、大陸によるものであるが、ただ、アラブ人はしばしば別個に数えられることを主張している)。」(p.350)

「 人種は、現代世界において、唯一の国際的な身分集団のカテゴリーである。これは、少なくとも八世紀以来、宗教が果たしてきた役割にとって代わっている。肌色よりも、この世界システムのなかでのランクが、身分集団の成員を規定している。かくして、トリニダードにおいて、政府がアメリカ帝国主義の手先として働いているという理由で、全員黒人の政府にたいする「ブラック・パワー」運動が存在しうるのである。また、ケベックの分離主義者は、自分自身を北アメリカの「白い黒ん坊」と呼ぶ。そして、汎アフリカ主義は北アフリカの白い肌のアラブ人を含むが、南アフリカの白い肌のアフリカーナを除外する。さらに、キプロスとユーゴスラビアは三大陸会議(アジア、アフリカ、ラテン・アメリカ)に招待されるが、イスラエルと日本は除外される。身分集団カテゴリーとしての人種は、国際的な階級のカテゴリーの、プロレタリア的国民〈ネイション〉のカテゴリーの、不鮮明な集団表象にほかならないのである。それゆえ、人種主義〈レイシズム〉は、たんに既存の国際社会構造を維持する行為であるにすぎず、人種差別〈レイシャル・ディスクリミネイション〉の新しい表現ではない。人種主義と人種差別は別個の現象だというのではない。人種主義は、明らかにその戦略の兵器庫の一部として、主要な武器として、たしかに差別を利用する。しかし、直接的な意味で、人種主義が差別なしに存在しうるようなさま>0351>ざまな状況もある。……重要なのは、これらの概念が社会組織の異なったレベルにおける行為を表示しているということである。人種主義は世界の舞台の内部での行為をさし、差別は相対的に小規模な社会組織の内部での行為をさすのである。」(pp.351-352)

Skinner, Elliott P., 1967, 'Group Dynamics in the Politics of Changing Societies: The Problem of "Tribal" Politics in Africa', in June Helm, ed., Esseys on the Problem of Tribe, pp.170-85. Proceedings of 1967 Annual Spring Meeting of the American Ethnological Society.


第十二章 「階級の人種主義」 E・バリバール

「われわれは人種主義の発展がどのように階級的コンフリクトをずらし、あるいはむしろ「人種主義的」社会関係によってこのコンフリクトがどのように、つねにすでに変容されているのかを自問しなければならないであろう。また逆に、階級闘争にたいするナショナリストの対案がもっぱら人種主義の形態をとるという事実が、どのようにして階級闘争の非妥協的な性格の指標として考え得るのか、を問わねばならないであろう。」(p.362)

「つまるところ個人主義は(労働者の競争も含む)市場競争の具体的形態のなかでしか成立せず、また諸個人からなる組織との不安定な均衡においてしか、階級闘争の制約の下でしか成立しないのである。さらに平等主義が存在し得るのは、政治的民主主義や「福祉国家」(それらが存在するとして)の矛盾に満ちた形態のなかでしかなく、また存在条件の両極化、文化的分断、修正主義的あるいは革命的ユートピアといった矛盾に満ちた形態のなかでしかないのである。こうした諸決定こそが、人種主義に、たんなる人類学的様態ではなく、「経済的」次元をあたえているのである。
 ところが、人種主義と階級闘争の関係の歴史的形態の多様性が問題をなげかけている。反ユダヤ主義が、「ユダヤ・マネー」を標的にした安っぽい「反資本主義」へと発展していく仕方から、移民カテゴリーが今日、人種主義的傷痕〈スティグマ〉と階級への憎悪を結びつける手法にいたるまで、両者の関係は多様である。これらの歴史的形態の布置は(それぞれに対応する諸状況と同様)還元不可能なもの>0363>であり、そのために人種主義と階級闘争との間のたんなる「表出」関係(あるいはもちろん代替関係)を定義することが不可能なのである。」(pp.363-364)

「ユダヤ人は一般にすべての国民〈ネイション〉にたいして内的に排除されていながら、神学的憎悪の対象となることによって否定的に、「キリスト教的民族〈ピープル〉」を統一すべき博愛の証しとなるのであるが、彼らが想像上で「資本のコスモポリタニズム」(これは失われた統一の軌跡を再活性化することにより、あらゆる国民的独立に驚異を与える)と同一視されるのはこのような理由によるのである。
 ところが、反移民的人種主義が階級の状態と民族的(ethnique)出自との最大限の同一化を実現するとき、様相は一変する(こうした実現の現実的基礎は、――ある時は大量のまたある時は周辺>0364>的な、しかし決して消えることのない、地域間でのあるいは国家間での、また大陸間での――労働者階級の可動性のなかにつねに存在していた。そしてこの可動性こそ彼らの特殊プロレタリア的な特性のひとつなのである)。人種主義はこうした同一化を、矛盾した社会的諸機能の混合物と結びつける。」(pp.364-365)

「 こうした布置状況の複合性が同時に、「階級意識」に対抗させるための人種主義の利用という考えを純粋にかつ単純に受け入れることがなぜできないかを説明してくれる(階級意識は階級条件から自然に発生するわけではなく、それは人種主義によって妨害され歪曲され、ねじ曲げられるかぎりで発生するのである)。」(p.365)

「……軽蔑と差別の言説へと供され、また人間を「優越した人間」と「劣等な人間」とに分割するのに奉仕する、そのようなものとしての人種主義の近代的概念は、当初、国民的〈ナショナル〉な(または民族的〈エスニック〉な)意味ではなく、階級の意味あるいはむしろ――社会階級の不平等を生まれたままの不平等として表象することが重要であったということから――カースト制的な意味を持っていたというのである。こうした観点からすると、この人種主義概念は二重の起源を持っていることになる。つまり一方では優越した「人種」としての世襲貴族という特権階級的表象である(……>0366>……)。他方では奴隷取引の下に置かれた、つねにすでに従属させられ、自立した文明を築きえない劣等な「人種」という、従属させられた人びとの奴隷制度的表象である。それゆえ血と皮膚の色、混血といった言説が生じるのである。後になってはじめて人種概念は「民族化(ethnicisee)」され、国民主義〈ナショナリスト〉的複合体(その後のあいつぐ変容の出発点であった)に統合されることになったのである。こうして、当初から歴史の人種主義的表象が階級闘争と関連しているという事実が明らかになる。しかし人種概念の発展の仕方、「階級の人種主義」の最初の登場以来のナショナリズムの影響、つまりナショナリズムによる人種主義の政治的決定をわれわれが検討する時にしか、この事実はその完全な価値をもたないのである。」(pp.366-367)

「レコンキスタ以降のユダヤ人迫害は不可避的に国家宗教としてのカトリックの構成に貢献したが、この迫害は同時に「他民族」文化(これに対抗してヒスパニア化、あるいはむしろカスティリア化が実行された)の痕跡でもあったのである。したがってこの他民族文化の痕跡はヨーロッパナショナリズムのこのような原型の形成と緊密に結びついているの>0367>である。しかしこの痕跡は「純血法(limpieza de sangre)」の判定にいたるや(ヨーロッパやアメリカの人種主義の言説はこれを引き継いでいる)、いっそう両義的な意味を帯びることになった。つまりモール人やユダヤ人との先天的混血を否認することで、「人種(raza)」の遺伝的定義(およびそれに付随する、純血であるか否かの審問手続き)は結局国内の特権階級を孤立させると同時に、「スペイン人」全員に虚構に貴族身分をあたえ、彼らを「傑出した人びと」にするのに貢献したのである。それと同時に、彼らは恐怖とジェノサイド、奴隷制、強制的教化によって巨大な植民地帝国を征服し、支配したのである。こうした典型的な軌跡のなかで階級の人種主義はすでに国民主義的な〈ナショナリスト〉人種主義に変容しているのであるが、だからといって消滅したわけではないのである。」(pp.367-368)

「……ルイ・シュヴァリエは人種主義の意味作用の広がりについて詳細に述べている。つまり「労働者という人種」に関連して、人種観念はその歴史的、神学的合意から離れて、社会学及び心理学、架空の生物学、「社会体」の病理学の混合物へと転移したのである。読者はここで、推理・探偵文学の、また医学ものや慈善主義的な文学の、つまりあらゆる文学のテーマを思い浮かべるかもしれない(このテーマは主要な劇的原動力の一つであり、社会的「リアリズム」の政治的なカギの一つなのである)。つまりここにおいて、今日にいたる社会集団の人種主義化のあらゆる手続きに特徴的な諸側面がはじめて同一の言説に凝縮されたのである。すなわちそれは物質的かつ精神的な惨状の側面であり、犯罪や先天的な悪習(アルコール中毒や麻薬常習など)、肉体的道徳的欠損、身体的不潔、性的放縦、人間性に「退化」の脅威をもたらすような特定の病気の側面である。」(p.369)

「……フランス革命は、その急進的な法的平等主義によって不可逆的なかたちで大衆の政治的権利の問題を提起してしまった。これはその後の一世紀半に及ぶ社会闘争の賭金となったのである。個人間の生まれつきの差異という考えは、想像しがたいとまでは言わなくとも、法的にも倫理的にも矛盾に満ちたものとなった。しかしながら、……(安定した社会秩序や私有財産、「エリート」の権力にとって)「危険な階級」は、長い間暴力と法によって政治的「能力」から排除され、都市の周辺部に囲い込まれなければならなかったし、……彼らには完成された正常な人間としての資格が先天的に「欠如している」ということを示すことで(あるいは自ら納得することで)彼らに市民権を拒否することが長い間にわたって重要であったのである。したがって二つの人間学が衝突することになった(わたしは二つの「人間主義」を強調しておいた)。すなわち生まれつき平等という人間学と遺伝的不平等(これは社会的対立を再び自然化させるのに役立つ)のそれである。」(p.370)

「身体の美学化過程は、人種的劣等の「肉体的特徴」のスティグマ化やあるいは優越人種の「人間類型」の理想化を引き起こすことで、あらゆるヴァリアントの近代的人種主義を特徴づけているのである。こうした歴史的状況および社会諸関係は、また人種主義理論の歴史における生物学の援用の真の意味作用を照らし出してくれる。その援用は科学的発見の影響などとはほとんど見るべき関係はなく、むしろ身体的幻影のメタファーと理想化とに関わっているのである。さらに、(学問的)生物学だけではなく他の理論的言説が、身体の可視性、その有り様や態度、手足、象徴的な諸器官の可視性に接合されるやいなや、>0373>この機能を演じることができる。……つまりこうした人種主義化については今日、IQの道具的利用から、意志決定に関わる「中間〈カードル〉指導者層」や知的あるは、スポーツの「エリート」の美学化にいたるまで目にすることができるのである。
 しかし、階級の人種主義においてはもう一つ別の決定的側面が存在する。つまり、労働者階級は定義からして不正確な「境界」を有する、不均質であると同時に流動的な人びとなのである。といのも、こうした境界は労働過程や資本の運動の絶えざる変容に依存しているからである。」(pp.373-374)

「現在の人種主義複合体〈コンプレックス・ラシスト〉が(……)「人口問題」に接ぎ木されるとしても、また(不当な表現>0375>であるが)「移民の」第二世代の問題に集中するとしても何も偶然ではない。つまりこの第二世代が第一世代(適切に言うところの「移民労働者」)の後を引き継ぐであろうか……、それともこの世代が下層プロレタリア化と労働者的条件からの「閉め出し」との間の不安定な状態にあって、「脱落した」諸個人の総体を増大させることになるのだろうか、を知ることが重要となるのである。つまり、以下のことが、……階級の人種主義の焦点となっている。それは、集団として資本主義的搾取へと運命づけられている人びと、あるいは、経済過程によるシステムの直接的管理から引き離されていながらも(……)、搾取のための予備軍として維持されなければならないような人びと、このような人びとを一般的な記号で一括することである。それはまた定まった場所を持っていない人びとを世代から世代へと「彼らの場所に」維持することであり、したがって彼らは系譜をもたねばならないということになるのである。同時にそれは放浪と社会的世襲という矛盾した要請、すなわちいく世代にわたる馴化と、抵抗する能力の解除という要請を想像のうちに統合するということである。」(pp.375-376)

「 要約すれば、ナショナリズムと人種主義との間に不断の相補的決定が存在しているのと同様に、「階級の人種主義」と「エスニックな人種主義」との間にも相補的決定が存在するのであり、この二つの決定は独立したものではないのである。いわばそれぞれが他方の領域において、その制約の下で効果を生み出している。」(p.378)

第十三章 人種主義と危機 E・バリバール

「アメリカ社会のような他の社会にとって自明のことが、実のところフランス社会でもあてはまるのである。つまり、人種主義は、国民的〈ナショナル〉アイデンティティと呼ばれるものと一体化した、長期持続的な物質的諸構造(物理的、社会政治的な構造がそれに含まれる)に根をおろしているのである。……
 しかし、当初は認められなかったような断絶が生じている。」(p.386)

「……その言語、その目標、その拡大の勢いという点について、人種主義がまず知識人の行為であるか、あるいは民衆のそれであるか、または伝統的な意味での小ブルジョワジー(小所有者)の、または勤労者(すなわち工場労働者)のそれであるかが重要なのである。また、それがまずユダヤ人かアラブ人、それとも「外国人」一般を狙ったものであるのか、ということも重要である。というのも、人種主義が法律上の外国人に集中しているということ、またそれが社会体の純化という幻想を、「偽フランス人」、すなわち国民の癌になっているといわれている外国人集団の根絶への熱狂を助長しているからである。」(p.387)

「 このように移民現象のカテゴリーは、言説や行動を構成するというだけではなく、さらに一層重要なことに、人種主義者にたいし、すなわち人種主義者としての個人と集団にたいし、思考の幻想、つまり認識され、探究されるべき「対象」の幻想(これこそ「自己意識」の根本的なバネとなっているものである)を提供するのである。この文章を記述し終わって、わたしはそれが曖昧であることに気づいた。というのも、ここにあるのは思考の幻想ではなく、むしろ幻想的な対象についての実行的な思考なのであるから。すなわち分類する者は思考し、思考する者は存在しているのである。この場合、分類する者は集合的に存在する。あるいはむしろ――もう一度訂正しなければならないとすれば――、分類する者は、集合体がその構成員の同質性にもとづいているという幻想を実践的に存在させているのである。この二重の実行性の効果を考慮しなかったために、しばしば反人種主>0391>義そのものが次のような幻想で自分を欺くことになったのである。すなわち人種主義は思考が欠如している、それは厳密な意味で少数者の熱狂であるという幻想、あるいは人種主義を退却させるには思考させること、あるいは熟考させることだけで十分である、という幻想がそれである。思考様式を変革するという、何よりも困難なことが問題となっているというのに。
 このように、われわれとしては、現在のフランスにおいて「移民現象」が、とりわけ人種の名称になったことを発見する。しかし「移民」が、人種主義的な類型への個人の分類を可能にすることを主要な特徴とするのと同じように、この移民現象という名称は新しいものではあるが機能的には古い呼称と同じである、ということをわれわれは発見するのである。」(p.392)


■書評・紹介

■言及



*作成:石田 智恵 更新:石田 智恵
UP: 20081024 REV:20090220,0323
民族・エスニシティ・人種(race)…  ◇国家  ◇平等/不平等/格差  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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