『ハマータウンの野郎ども――学校への反抗・労働への順応』
Willis, Paul E. 1977 LEARNING TO LABOUR: How working class kids get working class jobs, Aldershot
=198503 熊沢 誠・山田 潤訳,『ハマータウンの野郎ども――学校への反抗・労働への順応』,筑摩書房
■Willis, Paul E. 1977 LEARNING TO LABOUR: How working class kids get working class jobs, Aldershot=198503 熊沢 誠・山田 潤訳,『ハマータウンの野郎ども――学校への反抗・労働への順応』,筑摩書房→199609,ちくま学芸文庫,478p. ISBN-10: 4480082964 ISBN-13: 978-4480082961 \1523 [amazon]/[kinokuniya] p0601
■内容(「BOOK」データベースより)
イギリスの中等学校を卒業し、すぐに就職する労働階級の生徒のなかで、「荒れている」「落ちこぼれ」の少年たち=『野郎ども』。彼らのいだく学校・職業観はいかなるものか?学校はどのような進路指導をしているのか?彼らの形づくる反学校の文化―自律性と創造性の点で、たてまえの文化とはっきり一線を画している独自の文化―を生活誌的な記述によって詳細にたどり、現実を鋭く見抜く洞察力をもちながらも、労働階級の文化が既存の社会体制を再生産してしまう逆説的な仕組みに光をあてる。学校教育と労働が複雑に絡み合う結び目を解きほぐす、先駆的な文化批評の試み。
■引用
「精神労働にたいするある種の異和感をつくり出し、手労働への親近感を築きあげるのは、ほかでもない学校教育である。少なくとも手労働の世界は学校的な価値体系の支配圏外にある。そして、手労働そのものからくる特徴ではないけれども、手労働の世界にはほんとうのおとなの社会の味わいがある。逆に、精神労働は貪欲にひとの能力を食いつくそうとする。精神労働は、まさに学校がそうであるように、ひとのこころの侵されたくない内奥へ、ますますいとおしく思われる私的な領分へ、遠慮なく入りこんでくる。精神労働に特有の組織機構は、自由であるべき自我の内面を他人の支配にゆだねるようにつくられており、それが不公平な「等価交換」の組織であることを〈野郎ども〉はとうに知りつくしている。そういう精神労働に従事することは、屈服と体制順応への言いようのない奇妙な圧力にさらされつづけることを意味する。逆に精神労働への抵抗が権威への抵抗と結びつくことは、少年たちが学校的な価値に反撥する過程で学びとったことなのである。現代の資本制社会では階級対立と学校制度とは独特の出会いかたを見せ、そこでは、教育は管理に姿を変え、労働階級の抵抗は教育の拒否となって現われ、人格の個人差は階級帰属の差に転移されてしまう。「机でペンを動かす仕事とほんとうに力まかせにやる仕事とのちがい、まったくその差なんだよ」、ビルは自分の将来と〈耳穴っ子〉の将来とのちがいをこう表現したが、ここには社会が階級に分立している事態への洞察がある。それは学校で学び知ったことであり、学校生活のたまものなのだが、その意味の広がりは学校を超えて社会全体に向っている」(p.254-255)
「私がこの本で明らかにしようとするのは、労働階級の文化にはまことに不可思議な契機が存在すること、まさにその存在のために、階級にとっての未来に向かう扉がみずから閉ざされることにもなっていること、これである。それは、労働力をすぐれて手の労働として供給する態度にかかわる。そして、手労働の文化は、一方で自由と満足と体制離脱を表現し、同時に他方では労働する人びとを搾取と抑圧の制度に封じこめる。未来を約束するのが前者であれば、現在を示すのは後者である。そして、現代資本制社会の現実における不平等にたいして自由という鉄槌を打ち込むのは、現在のなかにやどる未来以外のなにものでもないであろう。」(p. 290)
「学校が制度としてとりつくろう装いの下には鉄の鎧がある。目ざとくそれと見通す目が、反学校の文化には備わっている。反学校の文化は、それ自身のための独特の行動様式をもつだけではなく、公教育のうちにきわどい社会的機能と対立関係がひそんでいることを探りあて、批判の矢面にすえるのである。その論難は三つに整理できるが、学校が提供する「等価物」の性質をあばくという点ではどれも共通している。
まず第一の論点。学校は労働階級の生徒から順応と服従を引き出そうとして、さまざまな見返りを用意する。ところが反学校の文化は、それらの見返りをいわば「機会の損得勘定」に照らして値ぶみするためのなかなか巧妙な尺度を備えている。(中略)306>(中略)>309
第二の論点。<野郎ども>の文化には、現代社会の労働の質にかんするある判断が含まれている。その労働観ゆえに少年たちの職業生活が安定するとはかならずしもいえないが、成績証明がその持主にそれにふさわしい質の労働機会をもたらすという観念がもともと虚構に近いものだとはいえるだろう。(中略)>309>(中略)>311
そして第三の論点。反学校の文化には、いわば個人原理と集団原理との相違に関する洞察が含まれている。さらに、現代の公教育がこの二つの異なる論理をことさらに混用していることをも見ぬいている。」(pp. 306-312)
「こうして労働階級は独自の生活能力を鍛えあげる。フォーマルなもの世俗の文脈に据え直して見る知恵、鋭く生々しい言葉づかい、制度に与しないかぎり相互に結束しなければならないこと、職務・職階に社会的地位の上下を読みこまずに人間としての愉快な風貌や生活感覚を重んじること、これらは、ほかでもなく資本主義という歴史的時代の産物でありながら、しかもこの時代に対する反逆性を陰に陽にたたえもっている。」(p. 322)
「つまり、<野郎ども>のいかにも不合理な自発的脱落があってはじめて<耳穴っ子>の順応主義が合理的な選択として意味をもつのである。」(p. 348)
「それは、対抗文化が内在させていた洞察、とりわけすべての労働は抽象労働として同質であるという洞察をあらぬほうへねじ曲げてしまう。そして結351>352局は肉体的な労働力能の肯定へとゆきついてしまう。この点が重要である。そこには二つのことが含まれている。まず第一に、さまざまな職種を男性的あるいは女性的と色わけすることによって、実在する分業のありかたをますます固定的にとらえるようになる。精神労働と目される領域が<野郎ども>に縁遠いのは、学校制度のなかで彼らが味わう独特の体験のせいばかりではなく、それが女性的な領分だと見下されるためでもある。(中略)
こうして第二に、この男っぽさという観念に引きずられて、手の労働力に対する積極的肯定の姿勢が強められる。現代社会における労働の性格と労働力の意味についての一定の洞352>353察は、ここで方向を見失って矛盾だらけの結末に達する。」(pp. 351-353)
「労働階級のなかでもとくに<野郎ども>のような階層にとっては、自分の労働力を用いるべき機会についての感性的な判断基準が、人種差別の介在によってある程度は制約されるようになる。手労働一般の肯定ではなく、ある特定限定内の手労働に対する肯定へと、色分けがはっきりしてくるのだ。言い換えれば、男らしさの領分にも加減が設けられる。」(p. 360)
「まず第一に、社会の再生産の特定のありようはそれにふさわしい独特の国家制度と見合っており両者はみごとに調和していると、考えてはならないだろう。たとえば、学校制度とその正規の教育課程が、手の労働力が実際に育成陶冶される過程とは微妙にすれ違っていたように、他のどのような制度においても、この公的な主旨とそれが実際に果たす社会的機能とはときとしてぎこちない不協和音をかなでる。」(p. 413)
「そして第二に、制度というものは単純なユニットと見立てて研究できるような対象ではない。ひとつの制度には少なくとも三つの異なった層が重なり合っている。その三層をとりあえずたてまえの層、実務の層、文化の層と呼ぶことにしたい。」(p. 414)
「労働階級の若者たちは、どのようにして、なにゆえ、伝統的に労働階級のものとされる職域をあたかもみずからの意思で引き受けるようになるのか、これが序章で提出した問題であった。今、こう答えることができよう。学校に不満をもつかなりの数の生徒たち――ちなみ428>429に、彼らとの対比において学校に恭順を示す生徒たちのこともよりよく理解できる――この反抗的な少年たちは、彼らを取り囲む現実にたいする部分的な洞察を通じて、また手の労働にたいする幻想的な価値付与を通じて、しかるべくそのように行動するのである。」(pp. 428-429)
■紹介・言及
◆立岩 真也 2013/05/20 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版,973p. ISBN-10: 4865000062 ISBN-13: 978-4865000061 1800+ [amazon]/[kinokuniya] ※
◆橋口 昌治 200908 「格差・貧困に関する本の紹介」, 立岩 真也編『税を直す――付:税率変更歳入試算+格差貧困文献解説』,青土社
◆立岩 真也 1997/09/05 『私的所有論』,勁草書房,445+66p. ISBN-10: 4326601175 ISBN-13: 978-4326601172 6300 [amazon]/[kinokuniya] ※
*作成:橋口 昌治・伊東香純