表皮水疱症(Epidermolysis Bullosa以下、EB)は日常生活における軽微な外力により、容易に皮膚に水疱やびらんを生じさせる。重症例では口腔や食道などの粘膜にまで影響を及ぼし、食道狭窄に至る場合など、症状が多岐にわたる遺伝性疾患である。現段階では根治療法はない1)。EB者数は約300名2)であることから希少難治性疾患といえる。EBの標準的皮膚ケアは確立されておらず、EB者たちは日々終わりのない皮膚病状と向き合っている3) 4)。
EBの医学的研究の歴史背景をみると、日本では1901年に1例が報告されており、1950年代までには約100例の医学報告が発表されているという5)。医療制度面では1972年に厚生省(当時)が、難病対策要綱を策定し、調査研究や治療研究(医療費助成)の対象となる疾患を設けた6)。当時EBは対象疾患ではなかったが、1983年に厚生省特定疾患稀少難治性疾患調査研究班が発足し、EBの医学研究や疫学調査がはじまった。特に当時は日本における診断基準が確立されていなかったことから、厚生省特定疾患稀少難治性疾患調査研究班昭和58年度研究報告集では「EB診断基準(案)」が報告されている7)。さらに翌年の報告書では「本性は稀少疾患であるため日常診療において症例に遭遇することは比較的まれである。そのため一般的に本症に対する認識は低く、正確な診断がなされないまま姑息的対症療法が行われていることがある。」とし診断基準案を改正8)、その後も改正が続けられ現在に至る9)。1987年には特定疾患治療研究事業対象疾患に追加され、続いて2015年厚生労働省により定められた「難病の患者に対する医療等に関する法律」(以下、難病法)が定める指定難病にも指定された6)。このようにEBは近年になって病気の発見や制度化された疾患ではないことが言える。
医学研究以外の先行研究では、新生児期の看護の症例検討10)や、幼児期の母親によるケア方法に関する研究11)など、限られたライフステージにおける看護学研究や、粘膜にも病状が及ぶことから嚥下障害に関する研究12)、皮膚保護の為の靴制作に関する報告13)等、病状が出現している身体の部位に限られた研究が行われてきた。しかし正確な診断が難しいとされたEB者がいかに医療とつながり、診断前後の思いや生活の様相については、これまで明らかにされることはなかった。そこで本研究では、EB者がいかに医療とつながり、診断前後における生活がどのように変様したかを明らかにする。
研究協力者の選定については「NPO法人表皮水疱症友の会DebRA Japan(以下、友の会)」代表者の協力を得た。友の会は2007年に当事者である宮本恵子氏により立ち上げられた。全国のEB者や家族など約200名が会員となっており、毎年EBに関する医療講演会や交流会等が活発に行われている14)。友の会代表者に本研究の目的と方法、倫理的配慮の説明を行い研究協力者の推薦を依頼した。研究協力の同意が得られたのは、水疱やびらんが難治性である栄養障害型のEB当事者である60代女性(以下、A氏)であった。
本研究は、研究者の所属する大学における人を対象とする研究倫理審査委員会の承認を得て実施した(倫理審査番号:衣笠-人-2018-17)。A氏から研究参加への同意を得る際に、文書および口頭により研究目的や内容、意義、データ収集方法、研究への不参加や途中辞退により不利益は生じないこと、データの内容は研究以外の目的には使用しないこと、学会発表等の可能性について説明した。以上について文書で同意を得てからデータ収集を行った。
受診に至った行為は診断前で4分類、診断時・診断後は各1分類であった。< >は分類ごとの各ラベルを示す。A氏による語りは斜体文字で記し、一部、相槌や繰り返しの表現は省略した。なお、( )は文脈がつながるよう研究者が補足した。
出生当初のA氏は明らかなEBの症状である水疱やびらんなどはなく、少し赤らんでいたような程度で特段周囲も気にかける様子はなかった。しかし、生後3ヵ月頃より動くことや衣類の縫い目など接触する部位の皮膚に、水疱が繰り返し出現するなどの病状が徐々に出現してきた。皮膚に異変が生じ母親はA氏を連れて、地元のB大学病院皮膚科に受診をしたが診断名はつかなかった。医師からは継続受診や対処法の指導もなく、A氏の母親が看護師であったことから自宅でのガーゼ・包帯による対症療法的な皮膚ケアがはじまった。一方、自宅で可能な範囲の皮膚ケアという病状であり、緊急性のある重篤な病状ではなかったゆえに専門医療機関へ再度受診をするという選択肢からは遠のき始めていた。
(生後)3ヵ月ぐらい経ってから、だんだんちょっと症状が…。何か違うと。水疱ができたりとかしてきたんじゃないでしょうかね。それでたぶん、病院にかかったんだけども。…たぶん、B大学病院(地元大学病院)だと思います。で、診てもらったんだけど、分かんなかったと。分かんなくって、「まあ、様子見ましょう。」で、また、ずっと自宅で過ごしてたっていうのがありますね。母親がやっぱり看護師だったので、日常的な水疱ができても、潰したり、皮膚がびらんになっても、それを母親が、まあ職業意識もあって、たぶんやっちゃったんでしょうね。普通にほら、子どもが擦りむいたらケアするような感覚でいたんじゃないかなって思うんですよ。
A氏は成長に伴い、皮膚に留まらず粘膜にも病状は広がりをみせた。食事による刺激で食道粘膜にも容易に水疱・びらんを繰り返し、徐々に食道粘膜が肥大することで食道が狭くなる食道狭窄を引き起こしていった。狭窄部位に引っかかった食塊は自然に落ちる1週間頃までは待つしかなく、その間は食事はおろか水分も飲み込めず結果的に脱水症状となり近くの内科病院で点滴を受けていた。それらは1ヵ月から2ヵ月に1回の頻度で出現し小学校に上がったA氏はその都度、学校を休まざるを得なかった。
(皮膚ケアは)家で手当てが出来たし親が。そういう大変な病気だって誰もが思ってないままに過ぎたんじゃない。その点滴は結局ほら、物が食べれなくて。1週間食べれなくて脱水症状になって、近くの病院に点滴だけ受けてたっていう。それがこの病気(EB)が源だとは誰も思わなくて。もちろん親も思わなくて。とにかく…こうとにかく点滴。親の感覚はそうだよね。とりあえずとりあえずみたいな。
A氏はその後、中学へと進学していく。中学進学に際して脆弱な皮膚病状に対する診断書を学校側から求められ、B大学病院皮膚科に再び受診をした。今回の受診では皮膚病状の診察と問診により水疱症と診断はされたが、詳細な検査やその後の継続受診を促す発言はなく終了した。また継続受診の指示はなかったものの、A氏自身もその後の受診を拒んだ。その理由は、診察のため裸になったA氏を大学病院の多くの医師が診察をし、当時思春期だったA氏にとって羞恥心を強く感じさせる受診経験として残ってしまった。
(中学に提出する)健康診断書が必要だって言われて、それでたぶんB大学病院に行ったんですよ。私も一緒に。その時に、大学(病院)によくあるかたちでほら、若い先生たちがズラーっと並んで、それでどうだこうだ、どうだこうだって言って、服を脱いでどうだこうだってなって、私、その時に…、年頃ですからねえ。「もう嫌だ!」って言って、それから行ってないんですよ。ただその時に、診断がついたみたいで。その時に水疱症っていう…、EBじゃなくて、うん、水疱症っていうふうな。うん。でも、何か詳しい検査も別に何もしなくて、1回それで、ただ問診受けたような程度じゃないですかね。で、その時にも、別に病院から「またいらっしゃい。」ってこともなく、「検査しましょう。」っていうこともなく、終わったんじゃないんですかね。
A氏は説明できない脆弱な皮膚・粘膜を抱えながら自宅での対症療法的なケアでやり過ごしてきた。大学まで進学し卒業後は社会人となり、現在の夫であるC氏と出逢い結婚の準備が進められることになった。結婚を前にした娘に対し、母親は少しでも病状が改善できればという思いから漢方薬の服薬をA氏に勧めた。しかしそれはA氏が医療機関等に受診をしたうえで処方された漢方薬ではなく、母親が独自に入手したものであった。いわゆる民間療法の漢方薬であった。服薬後1ヵ月頃に副作用と思われる全身のかゆみと皮膚のびらんが急激に出現した。地元ではB大学病院に次いで2番目に大きいD病院に緊急搬送され、皮膚科専門医により副作用の治療は早急に進められたが、EBの診断はされなかった。さらに副作用による全身びらんとD病院のケア方法によって、A氏の身体機能は変化する。全身のびらん状態は手指1本ずつにも及んでいたが、当時のケアは軟膏を塗布し手指1本1本個別に包帯固定をせず、全ての手指をまとめて包帯固定を行った。その結果、後日ガーゼ交換で開いた時には手指全て癒着している状態となった。
何かね、結婚が決まってから、うちの親(母親)が体調を心配して、漢方薬を作って、私に「飲みなさい。」って言われて、飲まされたんですよ。私、結構そういうの、あの、あんまり…、「親が言うから。」と思ったのもあったし、まあ「漢方で治るんだったら。」と思って、真面目に飲んだんですよね、1ヵ月間。そしたら、1ヵ月ぐらい経ってからかなあ、全身、びらん。何かね、一瞬ね、記憶途切れるぐらい、かゆみと、全身びらんで。私、本当その時の記憶あんまりないんだけど。うん。ズル剥け。ズル剥けになってきて、全身、ズル剥けになって。ほんで緊急搬送されて。結局近くの病院に行ったんだけど、「これは大変だ。」って言うので、すぐD病院(皮膚科)に転送されたんですよ。(A氏が居住する地域の)D病院って言ったら、B大学病院の次に大きな病院。で行って、そこで…、そこでも、今から思えば、この病気のことは調べないんですよ。だから(D病院は)普通の緊急の患者さんっていう感じで、治療にあたったんじゃないですか。で、とにかくステロイドと、たぶん全身に軟膏薬を塗るのと、っていう対症療法だったような気がするな。でグルグル巻きにされたんですよ。その時に、右がグーになったんですよ。指…、だからまっすぐだったから、だからそれを、あの、軟膏全部べったべたに塗って(指をひっつけた状態で包帯固定)。うん。一気に(癒着)ですよ。一気に。次、(包帯)開いた時にはグーになってましたもん。びっくり。そうそう。「グーじゃん。」みたいな。
A氏はその後、退院をしC氏と結婚をした。夫であるC氏の協力もあり脆弱な皮膚・粘膜、さらに癒着した手指を抱えながら日々の皮膚ケアや家事を工夫し仕事にも励んでいた。しかし皮膚・粘膜病状だけでなく合併症である貧血も起こしている状態であった。そんなある日、A氏に新たな病状が出現する。それは足背の皮膚に角質化した魚の目のようなもので、日毎に痛みを増していった。A氏はその魚の目のような病変を除去してもらうため、点滴のための日常的な内科病院へ受診をした。しかし皮膚科ではないので対応はできないと言われE病院を紹介される。E病院はB大学病院の皮膚科医師が外来診察に来ている病院であり、その皮膚科医師がA氏の病変を診た結果、B大学病院へ早急に受診するよう促しA氏に紹介状を渡した。A氏にとってB大学病院は生後3ヵ月時と中学受験時に続き3度目であり、約30年を経ての受診だった。急ぎ紹介状を持ってB大学病院へ向かったA氏と家族は、診察室で初めて出逢ったEB専門医のF医師から診察後すぐに皮膚癌の診断を受け、その後にEBという病名を44歳にしてはじめて聞くことになる。その時の心境をA氏はこう語る。
それで紹介状もらって、B大(学病院)に行ったんですよ。うん。何故かあの時、母も旦那も一緒に来たんだ(笑)。勢揃いで行ったっていうの、何でだったんだろう?それで行ったら、F先生がいらして、すぐ診てもらったら、「Aさん、よかったですね。僕はこの病気を、世界で一番多く患者を診てるんですよ。安心して下さい。すぐ手術しましょう。皮膚癌です、これ。すぐ入院しましょう。」ってすぐその場で(病棟に)電話して。ほいで話したら、いやEBだ、って話になって。だからみんな、キョトンだよね。だからその、F先生の皮膚癌っていうのは…、うん、ということにもそんなに衝撃受けなかったのは、たぶん「EBっていう病名があるんだ。」って分かって、もしかしたら何か…、何ちゅうのかな、腑に落ちたんだろうね、きっと。何か、「そんなすごい難病だったんだ。」っていうのが分かって、色んなことが…、「あ、それだったら、もちろん専門の先生も今いるわけだから…」、この偶然が怖いじゃない? うん。したらやっぱり治してもらって…、で、先生もそうやって言ってくれたんですよ。何かその、「定期的にちゃんと病院に来て、しっかり治しましょう。」って。で、入院ね、「1年に1回でもいいから入院して、きちんと皮膚のケアもね、やりましょう。」っていうようなことまで言ってくれたんですよね。だから要するにその、私の体のことをきちんと分かってくれる人が専門医としているっていう、この安心感は画期的ですよね。私の人生においては、初めてですもん、だって。うん。何かこう「開けた」っていう感じだよね。すべての謎が解けたっていうか。うん。だから、その衝撃は、やっぱり…、44年ですからね、だってね、知らないで生きてきたの。
F医師の勧めで、皮膚癌の手術と同時に右手指癒着部分の形成手術も行うことになった。EB者の場合、テープ固定などの処置を行えばテープを剥がすと同時に皮膚も剥がれてしまう。ゆえに手術準備や術後の管理に関しても入念な準備が必要であり、様々な手術をまとめて施行すれば皮膚への負担軽減につながる。そこで皮膚癌の手術と同時に右手指の形成手術も行うことになった。そこにはEB専門医のF医師だけではなく、EBの形成手術経験がある医師が担当することになった。数年後には消化器外科の医師も加わり食道狭窄を広げる手術等も受けていくことになる。ここにきてEB専門医のF医師だけでなく多角的にA氏のEBケアについて検討が行われていく。44年にしてはじめてのチーム医療であった。この複数カ所の手術は約4ヵ月の入院期間を要した。手術前の検査でもう片方の足にも皮膚癌と疑われる病状が発見された。A氏は初めての手術で両足と右手指の複数カ所、さらに手術で切除した創傷部分を覆うため大腿部からの皮膚移植も行った。入院期間中、日々のケアもA氏自身では行うことは出来ず、初めてA氏と家族以外である看護師のケアを受けることとなった。これまでA氏自身や家族で対症療法的に確立してきたケアに対し、看護の視点で新たな工夫点も提案された。このことはA氏の病状に対し専門医療だけではなく、看護の視点もはじめて加わった瞬間であった。A氏は現在60代であるが、定期的な外来通院や、病変による入院時などEB専門医や看護師との関わりの中でEBとともに日常生活を送っている。語りの中でA氏は、44歳の入院時の様子をこう振り返っている。
(F先生より)「Aさん、右手の手術もついでにしたら?」って。で、やっぱりもうその時にたぶん、鉛筆も持てないぐらい(右手指)癒着が進んでたんですよ。それでその時に形成の先生が入ってきて。で、これがすごいスペシャリストの先生だったんですよ。EBの手の手術件数がすごいある先生で。その先生も入ってきて。だけどここ(形成手術後、右手親指根元部分)が平らになっただけで随分違う。力がグッと入るからね。全然違う。だから本当は、やっぱり専門の先生に診てもらうと…、やっぱり経験のある人に診てもらうと、その…、生活の質が変わる、変わる。全然違う。うん。だからこの時に初めて他人の手を借りて、皮膚のケアを全部したんですよ。そう。専門家、それも。看護師さん。やっぱりねえ、丁寧だった。(笑) 絶対、だって痛がるようなこと、まずしないじゃないですか。だから私の、私の意見もちゃんと聞きながら、「Aさん、どうしたらいいですか?」って。うん。「言って下さい。」って。で、言った通りにきちんとしてくれて。またそれ以上の、自分たち(看護師たち)の工夫とか考えてくれて。
A氏の生後3ヵ月からはじまった説明できない脆弱な皮膚・粘膜に対し、EBという病名が付いたのは44年を経てからであった。その間、A氏や家族は医療を拒んでいたわけではなく医療と緩やかにつながっていたが、病名はつくことはなかった。その要因として、診断が難しい希少難病であることが大きく影響している。現在の診断は、皮膚病状などの臨床所見や病理学的検査として光学顕微鏡や電子顕微鏡等を用いている。さらに病型診断では家族歴の聴取や遺伝子検査を行う場合もある9)。A氏の語りでは<乳児期:繰り返す水疱と継続受診途絶>と<思春期:羞恥心を強く感じさせる受診とさらなる継続受診途絶>は、1950年から1960年代であり当時の医学文献では、臨床所見や光学顕微鏡を用いて診断を行っている事例が報告されている15) 16) 17)。しかし44年間A氏は受診時に詳細な検査を受けることはなかった。その理由として当時は診断基準がなく、A氏自身の病状も全身にまでは至っていなかったことや、家族歴がなかったことなどが考えられる。病型によって重症度が異なるというEBの特質も踏まえると、このような状況は他のEB者にも及んでいたことは十分に考えられる。
またA氏の語りから<乳児期:繰り返す水疱と継続受診途絶>以降は、<思春期:羞恥心を強く感じさせる受診とさらなる継続受診途絶>や<成人期:未診断によって生じた手指癒着>など、これらはライフイベントによって必要性に迫られての受診や入院であり、積極的に診断名を求めての行動ではなかった。これらの行動の背景には、<乳児期:繰り返す水疱と継続受診途絶>や<幼少期~学童期:食道狭窄による食事摂取困難と日常的な点滴通院>など、医療とつながってはいたが診断にはいたらなかったことを根底に、日々生じる皮膚・粘膜ケアに追われA氏や家族だけの工夫で乗り切らざるを得ないという思いを根付かせ、さらなる診断を求めて行動するといった動機を逸してしまった可能性がある。その後A氏と家族は民間療法に治癒の道を求めた。それは説明できない脆弱な皮膚・粘膜に対しA氏や家族だけの工夫で乗り切らざるを得なかった現状において、何らかの治癒や病状軽減への希望を持ち続けていたからである。このことは日々のケアだけでなく、治癒への道もA氏と家族の中だけで暗中模索されていたことがわかる。
A氏の語りからは診断時の44歳まで、看護師の存在について語られてはこなかった。44年間の医療とのつながりの中で看護介入が必要であったかと思われる視点で振り返ると、<幼少期~学童期:食道狭窄による食事摂取困難と日常的な点滴通院>では、医師の処方による点滴処置が恒常化していた。看護介入として食事内容や嚥下、皮膚ケアなど在宅の様子を聞き取り、その上で看護の視点から医師との調整を図り、安定的に生活が送れるよう保健師や養護教員など地域支援者との連携が必要であった。<思春期:羞恥心を強く感じさせる受診とさらなる継続受診途絶>においては、A氏にとって羞恥心を感じる受診経験となっており、その後の積極的な受診意欲を削いでいた。EBのように全身の皮膚状態を診察する場面では、特に羞恥心への配慮など看護師の介入は重要であった。さらに<成人期:未診断によって生じた手指癒着>では、全身のびらん状態や病院でのケア方法により手指が癒着した状態となった。癒着した手指で行う退院後の皮膚ケア方法や家族への指導、日常生活で必要になるかと思われる障害福祉サービスの情報提供など、A氏の生活が安定的に送れるための在宅生活移行支援が必要であった。
坂野ら18)は神経難病患者の在宅療養への円滑な移行を可能にする看護実践について、患者・家族の全体像をつかみ在宅療養の継続性を支えるなどの必要性を示した。EBは神経難病の様にADLの低下が顕著に表れる疾患ではないが、合併症として食道狭窄、栄養不良、貧血、指趾間癒着などがあり、日々の皮膚ケアはもちろん予防的な視点も必要とされる。だがA氏は44年間、医療とつながってはいたが看護介入はなかったことにより、生活の困難さはEB者や家族のみで孤軍奮闘しながら対応せざるを得なかった。EBは皮膚疾患であることから、表面上はEB者や家族だけの工夫で在宅生活を送れているかと捉えがちである。しかし日々のケア状況や生活の様子などEB者や家族の全体像を把握し、必要に応じて医師との調整や地域支援者と連携を図るなど、予防的な視点でEB者や家族が孤立せず、安定的に在宅生活が送れるよう看護師が関わる意義は大きい。
木戸19)は発症ピークが思春期から青年期にかかるクローン病患者の体験に関する研究において、希少な疾患のため診断がつかず多感な時期に羞恥心を強く感じる診察を重ね、診断までに身体と心が消耗する体験をしていることを明らかにした。A氏も皮膚疾患である事から思春期に羞恥心を感じる受診経験や、EBも診断が困難であることから、病名がつくまでに身体と心が消耗していたことは十分に考えられる。一方、井狩ら20)は多発性硬化症患者の心理的変化に関する研究において、診断により治療ができることに対しての微かな希望と、病が一生付いてくることへの絶望が同時に生じる複雑な思いを抱えていることを明らかにした。EBの場合、診断がついたところで現在でも治療はなくケア方法も対症療法であることに変わりはない。しかしA氏は診断時の思いを「私の体のことをきちんと分かってくれる人が専門医としているっていう、この安心感は画期的」と語っている。治療はなく対症療法のみであったとしても、説明できない脆弱な皮膚・粘膜を抱え、これまでA氏と家族のみで孤軍奮闘してきた状況から考えると、診断はA氏にとって孤立していた状態からの救済となっていた。またEB診断の意義は心理面だけではない。EB合併症である皮膚癌は、通常の皮膚癌と比較して転移例が多いという報告もあり21)、癌転移を防ぐためには早期発見が重要となる。EBの診断を受けたことにより皮膚癌への予防的な視点を得られたことは、今後のA氏の人生において大きく影響することだった。
EB者や家族たちだけの工夫で乗り切らざるを得なかったケアからEB専門医療とケアが受けられたことにより、手指癒着や食道狭窄の改善など生活の質は明瞭かつ確実に向上した。また技術や知識だけではない。日々の病状について相談ができるEB専門医をはじめとする医療者がいることは、44年間 A氏や家族だけの工夫で乗り切らざるを得なかった人生とは大きく変様した。診断がついたことにより、伴走してくれるEB専門医等の医療従事者がいることは未だに根治療法がないEB者のA氏にとって画期的な安心感であった。これらは「正確な診断がなされないまま姑息的対症療法が行われ」8)た医療からEB専門医療へ切り替わったことによりもたらされた。
これまでのA氏の語りからは、診断に至らなかったことを根底に、日々生じる皮膚・粘膜へのケアは自分たちだけの工夫で乗り切らざるを得ないという思いが生活に根付いていたことが明らかになった。診断前の様相では、A氏や家族は医療を拒んでいたわけではなく医療と緩やかにつながっていたが、病名はつくことはなかった。その要因として、診断が難しい希少難病であるということが大きく影響していた。診断時の様相では、EB専門医からの診断は孤立していた状態からの救済となり、診断後の様相では、未だに根治療法がないEB者にとって相談できるEB専門医たちの存在は安心感をもたらしていた。
本稿では、長年、診断に至らなかったA氏の語りから診断前後の生活の様相を明らかにした。A氏が生まれた当時と比べ、現在は医学の進歩により診断は早期につくようになった。さらに難病法のもと早期診断を行うための医療体制が整備されつつある。しかし、患者数が少ないことからEB専門医も少なく、現在も原因不明の皮膚疾患として診断がつかないEB者も存在する22)。さらに、診断さえつけばすべてのEB者たちの生活が安定的に送れているかといえば、決してそうではない23)。すべてのEB者が診断後も安定した生活を送ることがなぜできていないかについては、別稿で明らかにしたい。
本研究にあたり、これまでの生活を詳細に語って下さったA氏に心から感謝を申し上げます。