長山弘氏インタビュー
2019/08/25 聞き手:
立岩真也 於:東京都調布市・長山氏自宅
文字起こし:ココペリ121
◇長山 弘
◇こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす
◇病者障害者運動史研究
※20190825長山 弘氏_93分
聞き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
聞き取りが怪しいところは、【 】(hh:mm:ss) としています。
立岩 長山さん、年齢は?
長山 62です。
立岩 62っていうことは、
長山 1957年2月〔1日〕。
立岩 どちらのご出身で?
長山 出身は東京都大田区です。
立岩 大田区にいて、57年ですよね? それからちょっとそういう、どっちかっていうと今日、人生前半みたいな話を少しと思いまして、思うんですが。
長山 なんでもお話ししますんで。
立岩 ありがとうございます。
長山 僕にわかることなら。
立岩 はい。それでその57年で、その後っていうのは、概略というか、どんな経緯といいますか。
長山 じゃあ今お話しましょうか?
立岩 はいい、お願します。
長山 概略は、昭和32年生まれで、それで、筋ジストロフィーっていう病気が発覚したのが、中学校3年生の時でした。
立岩 じゃあそんなに早いわけでもないというか。何型って診断になってるんですか?
長山 そうですね。肢帯型。肢帯型っていうのは、デュシェンヌとかと違って、発症も遅いし、進行も遅いんですよ。そいで、中学校3年生の時に。
立岩 それで、中3までは
長山 もうもう、普通高校、普通学校ですよ。
立岩 それは中学校まで? 高校ぐらいまで?
長山 いや、高校まで普通高校です。
立岩 それは大田っていうか、東京にある?
長山 そうですね、高校、高校も大田区内にある高校ですね。
立岩 じゃあ高校生の時にその診断というか、
長山 いや違うんですよ。中学校3年の時、まさか自分がそういう筋ジストロフィーの病気だなんて、もう全く思わな…思いませんでしたから。ほぼ普通だったんで。ただ、階段昇ったりとか、駆け足とかちょっと遅かったんですね。でもまさかね、病気だとは思ってなくて。で、中学校3年の時の体育の先生から、ちょっと駆け足とか遅いから、僕の母親に、その体育の先生が「ちょっとおかしいから病院に行って、あの、診てきてください」って言ったらしいんですよ。僕の母親に言ったらしいんですよ。それで近くの病院に行ったら、どうも筋萎縮症の可能性があるから、大学病院に行ってくださいって言われたんです。ほいで、大学病院に行きました。
立岩 ちなみにどこの大学病院?
長山 東邦大学大橋病院です。大橋にある、渋谷の。そこに行きました。神経内科へ。そこにかかったら、そこで、進行性筋萎縮症っていう病名がつきましたね。つきましたっていうか、そういうふうに言われたんですね。[00:05:07]
立岩 初めて聞くような名前っていうか、そんなものは知らないぞって。
長山 全くわかんないです。親だってわかんないですよ。
立岩 そうですよね。でも進行性筋萎縮症っていう、名前っていうか言われたわけですね。それで、
長山 つきましたね、はい。そっからですよ、だから、病気と付き合いが始まったのは。だから中学校3年卒業するくらいですね。
立岩 卒業前後というか、卒業の、
長山 そうそう、その頃からです。
立岩 じゃあもう、そういうことはありつつも、地元というか高校には、
長山 その辺詳しく言うと、一応受かった高校が、駒澤大学付属高校、世田谷区にあるんですけど。そこに行ったんですよ、入学して。そして、結構自宅から遠かった、片道1時間ぐらいある。電車とバスで。ちょっと遠かったから、1年の1学期終わった段階で、もうちょっと近い高校に転校したんですよ。
立岩 そん時はもうなんかこう、通学が辛いっていうか、
長山 やっぱり結構、結構大変だ…あんまり大変だったっていう記憶もないんですけど。ただ、校舎が1年生だから4階で、その階段の昇り降りがちょっとやっぱり大変だった。
立岩 4階上がったりっていうのが、
長山 そうですね、階段がね。
立岩 それはこう、痛いって感じなんですか? 動かないって感じ? 両方ですか?
長山 動かないって感じですね。痛いじゃないです。重ったるいみたいな。
立岩 じゃあ4階まで上がるの辛くって、
長山 多少ね。あんまり、もうあんまり覚えてないけど、ちょっと辛かったかなって感じ。
立岩 それで1学期までは、その駒沢大のほう行って、
長山 行って、そっから、もうちょっと大田区内の近くの、東京高校という高校があって、そこに転校しました。で、そこの高校を卒業した。
立岩 高校は卒業した。で、高校の間にも、その状態というのは、こう、
長山 やっぱりちょっと進みました。
立岩 高校出るぐらいには、どのぐらいの感じだったんですか?
長山 あのね、高校3年生ぐらいになるとやっぱり、結構階段の昇り降りが大変になってきて、高校3年の時は、自宅の車で、車、自家用車で送迎してもらってましたね。それは高校3年生の時ぐらいかな。
立岩 高3の時には親ですか?
長山 親というか、兄弟。兄弟だったり。
立岩 上の?
長山 そうですね。兄弟とかの。僕の家、材木屋だったんですよ。だからそこの従業員だったり。
立岩 材木屋さんを経営なさっていて、おうちで。
長山 そう、僕の父親がね。
立岩 だから従業員もいたりとか。
長山 そうそう、従業員に送ってもらったりとか、なんかそんなことやってましたね。
立岩 じゃあ、徐々にというか、ゆっくりと進行というものは、
長山 そう、そうです。
立岩 高校の間進んでいき、
長山 そうです、そうです。
立岩 で、まぁ高校は、でも出た?
長山 出ました。
立岩 で、またその後とか、
長山 そのあとは、高校卒業したはいいけど、なんか就職もせずにちょっとプラプラしてた(笑)。ねぇほんとね、就職すればよかったのにね。やっぱほら、だって17、8歳のほら、悩み盛りじゃないですか。その頃って、なんていうの、
立岩 57年の18か。
長山 やっぱりちょっと、なんかね、面白くなかったんだね。うん、そう、なんか。
立岩 うちにいたんですか? じゃあその材木屋さん。
長山 うちにいましたね。そしたら母親が見かねて、近くに養護学校があったの。当時、養護学校って言ってたんだけど。養護学校の先生に相談したんですね。どうしましょうみたいな。
立岩 うちの子どもが進学もしなければ、就職もしないしって。
長山 そうそうそう、そう。
立岩 どうしたもんやらっていうこと。[00:09:56]
長山 そう。したら、そこの先生が、新宿にそういう障害者が行く職業訓練校か、そういうのあるから、そこへ行かれたらどうですかって言われたんですね。それでそこに行きました。東京都立の職能開発センター。多分今でもあるんじゃない?
立岩 あると思いますね。はい。
長山 そこに行ったんですよ。そこに行って、そろばんと商業簿記、簿記、簿記を習った。
立岩 で、その簿記って資格があったりするんじゃないですか?
長山 そう、資格も取りました。2級は取りました。そろばんも3級とった。
立岩 それでそこには、どのぐらいいらした?
長山 ほぼ1年ぐらい行ったのかな。寮が併設されてて、寮に、
立岩 寮に寝泊まりしてたんですか?
長山 しました。
立岩 じゃあその高校出てから、そこの訓練校に行く間は数ヶ月みたいな、
長山 半年ぐらい、半年ぐらいかな。
立岩 半年ぐらいブラブラしてたら、親が…母親が見かねて相談に行ったらそういうこと、ああいうことになって、そこのその宿舎というか、そこで寝泊まりしながら、資格を取った。
長山 取りました。
立岩 それが1年? 1年ぐらい?
長山 9ヶ月とか。正確に言うと10ヶ月ぐらいかな。
立岩 丸一年はかからずにということですか。それで資格取って、資格取ったらそこは終わりになるんですか?
長山 その職能開発センター行った時に、じゃあ就職先どうするって話になった時に、アビリティーズ社って福祉機器販売の今でもありますけど、そこの社長が見に来てたんです。だからそこ卒業して、そのアビリティーズに就職する人がいたんでしょうね、きっとね。その社長とか、来てたのかな。で、「長山くん、うちの会社どうですか?」みたいな話になって、そこに一応研修に行きました。当時渋谷にあったんですよ。そこに研修…どのぐらい行ったのかな? 2〜3週間行ったのかな? それでそこに就職すればよかったものの、そこも行かなかった。
立岩 それはなんだったんですかね?
長山 やっぱり渋谷まで通うのは、やっぱり電車だと駅の昇り降りとかあるから、階段の。だから車で行くしかなくて。当時、運転免許は一応取って、取ったんですよ。取って一応、
立岩 その時の体の状態っていうのは下肢ですか? 足ですか?
長山 ほぼ下肢ですね。
立岩 足がその、動かなかないけどもっていうぐらいなのかな?
長山 いや、その時はだいたい年齢で言ったら19、20歳ぐらいでしょうけど、歩けたんだけど、やっぱり時々車いす使ってたみたいな。歩くのと車いすの併用みたいな。
立岩 やっぱ階段の昇り降りとか、それがかなり辛いってことか。
長山 大変でした。うん。
立岩 手はその時は動いてた? そのそろばんを、
長山 まぁほぼ。手はまぁだいたい支障はなかった。
立岩 そのぐらいの体の状態で、でも通勤というものは辛かろうと。
長山 でも通おうと思えば、1年や2年は多分通えたでしょうね。ちょっと大変だったかもしれない、通おうと思えば通えたと思いますよ。でもやっぱり、
立岩 ちょっと辛いなと。
長山 その時の気持ちですよね。やっぱり気持ちがちょっとあの、なんていうの、
立岩 前向きになれないみたいな? そんな感じ?
長山 そう。そう前向きになれない状態がずっと続いてて。今、振り返ると、あん時、アビリティーズにもう1年でも2年でも、入社してればよかったなって今は思いますよ。失敗したなと思った。[00:15:21]
立岩 まぁ結局行かなくって、研修はしたけど行かなくて、ほんで?
長山 行かなくて。結局、どうしたかっていうと、自分ちの材木屋に勤めたんですよ。そこの経理。自分ちだから自宅の隣だから、材木屋は。だからそこでまぁアルバイトみたいな形で、そこで経理事務を手伝ってましたね。
立岩 それはわりと続いたんですか?
長山 それは続きましたよ。まぁ、もう隣だからね、通うのは楽だし。ほぼ20年勤めました、そこに。
立岩 そうなんだ。じゃそれは長い。
長山 それは長い。長いけど、今思うとね、他人様のメシを食っとけばよかったなと思いますよ。アビリティーズに入社して。
立岩 じゃあそのご両親がいて、家があって、会社があって、その隣っていうのは、その会社の建物とご自宅が隣り合わせっていう?
長山 そうそう。
立岩 そういう感じで、親もいる自宅の隣の会社のその社屋というか、そういう所で、
長山 そうです。だから通勤だって楽じゃないですか。隣だから。
立岩 そうだね。で、20年も?
長山 結局そのくらい勤めましたね。ちゃんと経理担当の人がちゃんといたんだけど、その人ほら、途中で退職しちゃったから。ほんでなんか自ずと僕が経理をやるようになっちゃった。
立岩 最初は2人やってたけれど、
長山 その人中心、その人がリーダーみたいな感じ。
立岩 それを補佐するような感じでやったけれども、その方が会社辞められて。
長山 そう、年齢も年齢だし。
立岩 1人だったんですか? その会計担当というか。
長山 1人でしたね。小さい会社だから、そんな【大きくないし】(01:17:35)。
立岩 で、それで、そうすると20年勤めたら、もう、
長山 40歳ぐらいまで。
立岩 ですよね? 40ぐらいになりますよね。それ、40ぐらい、57年の40年か。97年とか。
長山 だいたいそのぐらいだね。
立岩 ほいで、その後っていうのは?
長山 その後は大変ですよ、もう。そっから大変になっちゃう。
立岩 それは、何が大変? 体ですか?
長山 97年に母親亡くなったんですよ。ガンで。僕が40歳の時ですよ。
立岩 じゃあ70ぐらいですかね。
長山 70? 母親が? 年齢的に? 68。
立岩 わりと若くて、若く亡くなられた。
長山 68はちょっと若いですよ。
立岩 そうですよね。お母様が亡くなられて。
長山 ほいで、その3年後に父親が亡くなった。
立岩 じゃあ両親とも。で、その会社ってものはどうなった?
長山 俺ね、あのね、俺40歳ぐらいの時にね、俺も会社、あの材木屋たたんで、辞めようかなと思ったんです、もう。もう20年も働いたし。
立岩 たたんでっていうのは、さっきお兄さんと、なんか、
長山 一応兄貴いたんだけど、たたんでっていうか、なんか整理して、僕自身は材木屋辞めようかなと思ってた矢先に、母親が亡くなったり、3年後に父親が亡くなったりして。
立岩 亡くなってからというよりは、その手前ぐらいで、
長山 まぁ同時に。
立岩 もう、そろそろね。
長山 親が亡くなったのは、ちょっと手前ぐらいかな。なんかそれで、ちょっとね、その…、まぁ兄貴がいて、あの不動産、不動産の方もやってたんで、材木屋プラス、
立岩 同じ会社というか、所で、
長山 そうそうそう。不動産部みたいな。兄貴は不動産部の方やってたんだけど。兄貴がとんでもないこと起こしちゃって。要はほら、長男のなんとかって言うでしょう? 長男っていうのは、ほら、[00:20:20]
立岩 使い込んじゃったとか、そういう話ですか?
長山 そう、そういう話。僕自身、わかんなかったんですよ。
立岩 そのお金のことを、だいぶ気がつかなかった?
長山 気がつかなかった。僕もほら、こういう体だから、フルタイムで出勤してなかったから、僕がいない時に、いろんなことやってたんですね。僕が出勤してない時。
立岩 会社の金を使ったみたいな感じですか?
長山 そういうことです。そんなことやって。それで、もう、そんなこと発覚してからもう、会社もたたむにたためなくなっちゃって。かえって、もう。
立岩 借金とか?
長山 取引先に借金とか作っちゃってたから。その整理するのに、3年ぐらいかかりました。その整理に、僕が、僕がほぼやりました。
立岩 それは、もうお父さんも亡くなられてからっていう感じですか?
長山 だから親父だって、もうヨボヨボしてきちゃって、親父だって当てになんなくなっちゃって、もう。ちょっと、もう。
立岩 お父さんまだいらした時に、そのことが発覚したけれども、その処理というか、は、お父さんというよりかは、
長山 ほぼ僕がやってました。ちょっとなんかボケてきたみたいな感じになっちゃった。
立岩 で、何年もかかって、
長山 3年ぐらいかかったかな。
立岩 お金というか、整理というか、
長山 一応、だからいろいろね、資産売却したりして、一応整理はつけたんですけど、大変でしたよ、だから。その40歳から、4〜5年は大変でした。
立岩 で、そのなんとかするにはして、それでもう、そうすると40、
長山 もう44、5。
立岩 そうですよね。で、それでその会社は結局たたんだんですか?
長山 たたみました。有限会社でしたけど、結局もう、すべてこう返すもの返して、資産も売却して。したらもう何にもなくなて、スッキリはしたんで、それでよかったかなとは思うけど。
立岩 その会社の建物も売って?
長山 そうです。
立岩 ご自宅は残ったんですか?
長山 最終的には自宅も売りました。結局もう父親も母親もいなくなって、今度、自分の体の面倒見る人もいなくなっちゃったから、両親もいないし、兄弟、兄貴だってね、そんなことやっちゃったもんだから、どっかに失踪しちゃったし。それでもう、
立岩 それ以来ですか? お兄さんとは。
長山 だから、まぁそうですね。まぁ時々は、まぁそれに近い…。
立岩 全く音信不通でもないけれども、でもっていうぐらいの、遠さというか。
長山 でもあんまり会いたくもないしね。
立岩 すると家族いない、
長山 弟はいるんですけど。ただ弟も、そんなに当てにもできないし。今度じゃあ僕の面倒見てくれる人もいないし、今度そっちの方で困る。さてどうしようかなって。
立岩 その頃は概ね車いす生活な感じですか?
長山 そう。もう、もう歩くのももう、まぁできなかったですね。
立岩 電動使ってた?
長山 使ってました。
立岩 使ってた。手は?
長山 一応動きましたけど、もの書いたりとか、そういうのはできない。
立岩 細かいことはできない。それでまぁとにかく、お父さん、お母さんそういうことで、お兄さんいなくなってみたいな、
■下志津病院
長山 弟もあてにできないと。じゃあこれからどうしようってなった時に、下志津病院とか施設みたいなとこに行くか、頑張って在宅生活続けるか、二者択一の問題が起きてきた。
立岩 それは自分で、選択肢としてはこの2つだねっていう、そういうふうに思われたってことですか?
長山 それしかなかった。
立岩 下志津なりなんなりっていうのが、あるっていうことはどういうふうにしてお知りになった?[00:25:12]
長山 それはね、役所ですね。大田区役所に相談したら、そういう施設とかそういう病院があるから、そこに行く手がありますって言われて。ただ僕としてはね、在宅…、あのサービス受けて、在宅生活したかったんだけど、ただ大田区、今でもそうだろうけど、1日に16時間ぐらいしかサービスが出せないってはっきり言われて。それ以上は出せませんよって言われて。それで、16時間じゃ足りないよなって。どうしようかなって。そこで悩みました、迷いました、かなり。かなり迷ったんだけど、結局、下志津病院に行く選択をしました。
立岩 それは何年ってことになるんですかね?
長山 2000ね、2002年です。2003年かな、2年か、3年。
立岩 2年か3年、入ったのがその頃。入ること自体はわりとすんなり入れたんですか? その、待ってくださいとかなんか、そういうことはなかった?
長山 確かね…、少しは待ったかな? いやでも、すんなり、
立岩 わりとすんなり?
長山 待ったっていっても、1ヶ月、2ヶ月待ったぐらいかな。
立岩 そんな感じで。わりとすっと入って。でも、そういうタイプの入所施設って、その訓練校の時は多少あったとしても、初めてじゃないですか?
長山 だから下志津か、あと日野の療護園って日野にある。そこも提示されました。そこか、下志津か。
立岩 日野か下志津っていうのは、どういう決め方で、下志津? 下志津にいらしたんですよね?
長山 僕は下志津。
立岩 それはなんか、そのどっちにしようかみたいなことあったんですか?
長山 やっぱり、筋ジスのね、国立病院だから。それからね、下志津病院、知ってたっていうことありました。
立岩 知ってた?
長山 実はあの、僕は18、9の頃から、障害者と健常者のボランティアサークルに入ってて、そこのボランティア側の人たち、結構大学生とか、看護師とか多くいて、そのうちの大学生の1人が下志津病院に就職した人がいたんですよ。それで、下志津病院のことは知ってましたね。あと筋ジストロフィーだから、そういう全国に筋ジスの人が入れる国立病院が何ヵ所もあるっていうことも知ってました。だから知ってたから、下志津を選んだのかな。それでね、もう一つ話すとですね、立岩さんの書かれた本に出てくる、高野くんとか福嶋あき江ちゃんと。実はその2人と僕はもう、同年代なんですよ。僕はその2人と実際会ってます。会って話をしたこともあります。だからその本、立岩さんのくれた本、あぁこんなことまで調べて、よく書かれたなぁって思って。それインターネットで目次だけ見たのかな。したら、高野岳志とか福嶋あき江って書いてあったから。僕はもう、その2人とそんなたくさんは会ってないけど、知ってるんですよ、同世代だから。[00:31:14]
※福嶋あき江:1957〜1987
※高野 岳志:19570606〜19841227
立岩 生年…、同じですね。57ってそうですよね。それはどこであの2人に? 下志津?
長山 下志津の学園祭で会いました、福嶋あき江ちゃんとは。ボランティア、一緒にサークル活動してた人は下志津病院に就職したから、そこで指導員の職をやってたから、「長山くん、今度学園祭あるから見に来ない?」なんて言われて、それで行ったんですよ、わざわざ下志津病院まで。それ行ったのが20歳ぐらいの時だったな。
立岩 じゃあそれはずっと前ってことですよね?
長山 そうそうそうそう。20歳の時下志津の学祭、見た時に、福嶋あき江ちゃんがいたんですよ。彼女がいた。
立岩 福嶋さんも、まだその20歳とかそのぐらいの年ってことですよね。
長山 そうです。同年齢です。
立岩 同じ年だもんね。
長山 そう。そいで、「やけに可愛い女の子いるんだな」なんて思って、ちょっと話もしたりしましたよ。高野岳志くんもその時、いた、いたと思いますね。
立岩 彼も、年ほぼ同じで、おなじ時に下志津に入って。
長山 そう。そいで、その後高野くんはね、もう1人井上くんっていう子がいて、その子と下志津病院を出たんですよ。出て、宮崎町っていうとこのアパート借りて、そこにも1回遊びに行きました。
立岩 行ったことあるんですか? 千葉ですよね? 千葉の宮崎ですよね?
長山 そうです。
立岩 じゃあそれも20代ってことですか?
長山 それも22、3だったかな。
立岩 結構、若い時に、
長山 結構、その下志津病院とは、なんか縁があったんでしょうね。だから知ってたんですよ。それで40過ぎになった時に、じゃどうするってなった時に、その若い頃知ってたっていうこともあって、そいで下志津に行ったんじゃないですかね、多分。
立岩 高野さんのこと少しね、こないだ書いた本にちょっと書いたんですけれども、その千葉の宮崎のところって、何か記憶に残ってらっしゃることは?
長山 あのね、一番強烈だったのはね、そのアパートに行った時に、高野くんともう1人、井上くんっていう筋ジスの子がいて、2人いて。あと大学生みたいな、ボランティアが1人、2人いましたね。いたんだけど、そのボランティアがどっか出かけてっちゃうんですよ。買い物に行くんだか、どこ行くんだかわかんない。いなくなっちゃって、それで高野くんと井上くんだけになっちゃって、その時の言葉ですよ。高野くんが発した、井上くんだったかな。「あーあ、また障害者だけになっちゃった」って言ったんですよ。そのことをはっきりと覚えてます。
立岩 誰もいないというか、2人だけというか。
長山 そう、だからそういうね、厳しい状況の中で、彼らは在宅生活してたってことですよね。
立岩 その2人は同じ棟というか、同じ屋根の下というか、そういう感じだったんですか? 共同生活というか。
長山 そうですね。その宮崎町のアパート、一つのアパートの中での話ですね。
立岩 彼は、かなり出てから早くに亡くなってしまったんですよね。
長山 高野くんですか?
立岩 えぇ、高野さんはね。
長山 そうね、高野くん、あのね、当時あの、東京進行性筋萎縮症協会っていう団体が、ご存じでしょうけど、
立岩 東筋協、ですよね。
長山 東筋協です。僕当時、東筋協に入ってて、高野くんも入ってたんですよ。
立岩 そうなんですか?
長山 それで、年に1回東筋協、2泊3日の旅行するんですよ。関東一円で。その旅行にも、高野くん参加してて、だから旅行で2、3回会ってますよ、高野くんとは。[00:35:58]
立岩 そのアパートというか、住んでる所でのこと以外に高野さんなり、何か、覚えていることって、
長山 あとだから、その旅行で、旅行でもだから会ってるし。彼は結構、やっぱりアクティブでしたね、うん。
立岩 何かその、「1人きりになっちゃったよ」っていう以外に、何か覚えてらっしゃることってあったりします?
長山 そう、旅行の時なんかね、頭に包帯巻いてましたよ、ぐるぐる。なんか頭打って怪我でもしてたんじゃないですか。全然でもね、屁の河童みたいな顔してましたね。あの、頭に包帯巻いてたけど、全然、「大丈夫だよ、こんなの」って顔してましたよ。
立岩 それは20歳代というか、20代のことで。で、遠い、それからもう20年近く経ってるわけですよね。で、下志津を知ってると。だからってことで、下志津に2002年、3年、その辺で入れた。で、どうでした? そこには何年いらしたんですか? ちなみに、その下志津は。
長山 結局ね、2年9ヶ月いました。
立岩 そんなに長くもなかったのか。
長山 はい。
立岩 で、どうでした? っていうのもバクッとした質問ですけど。
長山 あのね、最初はその、自宅のあの…、その…、悪い環境から抜け出して、こう逃げるようにして下志津病院入ったから、最初の2、3ヶ月は、なんかこう、落ちついたなって感じだけど。でもね、段々だんだんね、内情がわかってくるにつれて、やっぱり居心地悪くなりましたね。
立岩 その時の部屋っていうのは、4人部屋みたいな感じですか?
長山 4人部屋です。
立岩 結構状態が重いというか、そういう人もいたんではないですか?
長山 僕がいたのは8病棟で、8病棟はわりと、もうみんな大人、みんな20歳過ぎの大人の病棟で。症状的には、まぁわりと軽い人もいれば重い人も、様々でしたね。
立岩 それでまぁなんだかんだ、自宅からしばらくは。その時の介助っていうか、要介護度というか、どのぐらいの感じだったんですか? 2002年、3年。
長山 入院したのが、45歳の時か。まだ僕の体もそんなに、今ほどひどくなくて、結構元気でしたよ、動いてたし。車いすでしたけど。
立岩 車いすの移乗なんかは?
長山 それはできませんね。自分ではできない。
立岩 移乗は介助が入って、で、車いす乗って。それをまぁ2、3ヶ月過ぎて、で、その内情というか、だんだんわかってきたっていうのはどういう?
長山 やっぱりね、やっぱりあれですよね、排泄、排尿排泄か。そういうのが、やっぱり大変でしたね。やっぱりいちいち職員に頼まなきゃいけない。で、一番あれだったのは、あのベッドに移る時間が決められてて、午後3時になると、自力でベッドに移れない人は、もう強制的にベッドに上がらされてました。午後3時です。僕もその組でした。[00:40:23]
立岩 朝ごはん食べますよね? 朝ごはん食べて、午後3時だと昼ごはんも食べてるか?
長山 朝、ベッド上で朝ごはん食べて、で、その後排泄して。排泄もベッド上でやるんですけど、排泄終わると車いすに移るんですね。車いすに移るのが朝9時ぐらいなのかな。だから9時から午後3時までは、車いす上で過ごしてました。
立岩 お昼なんかも、車いすに乗って食べるみたいな感じですか?
長山 お昼も乗ったまま、食堂で。午後3時になると、自力でベッドに移れない人は、もう全員、強制的にベッドに移らされてたんです。
立岩 そうすると、もう寝るまでってことですか?
長山 もう寝るまで。
立岩 3時から寝るまでは、ずっとベッドの上にいなきゃいけない?
長山 はい。
立岩 それがまぁ端的にというか、辛いと、嫌だというか。
長山 まぁそれが端的な話で、あと細かいことを言えば、いろいろ規則がありますよね。あの、外出の時はいちいち外出届け出さなきゃいけないとか、誰か1人付き添い人つけなきゃいけないとか。病院から外へ出る場合ですけどね。
立岩 そうやって外出はなさってたんですか?
長山 結構してましたね。
立岩 それはどういう人たちとというか、
長山 有料ボランティアっていう、そういうグループがあったんですよ、「ふきのとう」って。1時間につき500円払うのかな。そうすると、そういう付き添い、してくれるんですね。外出、一緒にしてくれたり。
立岩 その頃は、ちなみに長山さん、年金生活的な感じですか?
長山 そうですね、障害年金。
立岩 障害基礎年金で、そこからその1時間500円っていうのは出してた?
長山 そうですね、そうですね。プラス、まぁ貯金もありましたし。
立岩 なるほど。蓄えがあり、プラス基礎年金の1級ですよね?
長山 1級でした。
立岩 1級の年金で、そういうので、少しお金を払って。どのぐらいの頻度で外出っていうのは?
長山 1週間に、要は近くに買い物に行ったりするとか、あとはちょっと外食するとか、そういうことでしたから、1週間にでも2回ぐらいやってましたかね。
立岩 その外出そのものについて、付き添いがいる、届けを出すっていうことであれば、施設は特には言わない感じでした?
長山 病院の敷地から外へ出る外出っていうのは、届け出なきゃいけないです。外出届け。病院の敷地内で散歩する場合はそれは大丈夫です。ただ1歩、敷地から外へ出て、例えばヨーカドーに買い物に行くとか、そういう場合は外出届を書かないと出してくれないです。
立岩 ちなみに門限とかはあったんですか?
長山 門限は8時。夜の8時。
立岩 8時までに着いてなきゃいけないんですか?
長山 そう。
立岩 こないだ沖縄の療養所にいたっていう方に話聞きましたけどね、その人はしょっちゅう門限を破っては叱られてたって言ってましたね。じゃあ8時、そういう有償ボランティアの人たちに付き添ってもらって週1ぐらいで出てて。でも中の暮らしっていうものは、その3時になるとそれっきりというか、っていう感じだったってことですか?[00:45:24]
長山 そうですね。ベッドに3時に上がったら、翌朝まではずっとベッド上。
立岩 今その結構ベッドでネットをやったりとか、パソコンとか、
長山 それはできました。
立岩 それはベッドに寝たままで見れるみたいな、そういう感じのPC、パソコン?
長山 だから、まず部屋に一つでっかいテレビがあって。でもそれも途中から各々一人ひとり、ベッドサイドにマイテレビですね。一人ひとり、テレビ買ってもいいっていうことになって、途中からそうなりました。
立岩 テレビはベッドサイドに?
長山 テレビとパソコンか。テレビとパソコンは自由に一人ひとり。
立岩 それはその夜、夜中でも大丈夫だったっていうことですか?
長山 いやいやいや、それはもうだって、就寝が、就寝が夜9時だったかな。9時か10時就寝だから、もう就寝以降はできないです。もう寝るだけ。
立岩 それはほんとに真っ暗になっちゃうんですか?
長山 なります。9時だったかな。
立岩 それは電気つけちゃいけないっていう、そういうことなんですかね?
長山 いや、あの手元の豆電球ぐらいは。あれ、なかったかな? あ、でも豆電球ぐらいはよかったのかな。うん。
立岩 でもその本が読めたり、パソコンができたりっていうことではないんですか? どうだったんだろう?
長山 どうだったかな。でも一応、病院みたいな仕切りのカーテンがあったから、カーテン閉めれば、本ぐらいは読めた、
立岩 …たかな、ぐらい?
長山 でもあまり読む人もいなかったですね。みんな寝てましたよ。
立岩 とにかく就寝の時間は決まってて、
長山 9時、確か夜9時。
立岩 電気は消えて。
長山 もう9時になると、病院ってどこもそうでしょうけど、もう一緒に消されちゃいます、明かりが。
立岩 せいぜい手元の、ちっちゃい電球は、
長山 そうそうそう、ちっさいランプぐらい。
立岩 ぐらいのことで、もうしょうがないから、それで寝ちゃうって。
長山 そう。せいぜいラジオ聞くとか、その程度。
立岩 3時にベッドに上がって、9時に就寝の時間で、朝、
長山 そうそうそう。
立岩 それが繰り返されてるっていうのは、辛いというか?
長山 だんだん辛くなっちゃいます。最初の入った1、2ヶ月は、あぁ三度の食事は出てくるし、ずっと寝てられるし、楽、楽だなみたいにちょっと思ったりしてたんだけど。
立岩 それはまぁ2、3ヶ月で、
長山 せいぜい2、?3ヶ月。
立岩 だんだんきついというか、辛いって感じですかね? 退屈って感じですかね?
長山 あの、ここは一生いるとこじゃないなと思いましたね。そういうふうに思ってきちゃったんですね。やっぱり、団体生活なんだなって思いましたね。うん。あの団体生活で、簡単に言えば、個人個人の生活ではない。家庭とは違う。団体生活なんだって。病院ってこういうところなんだって、思ってきたんですよ、3ヶ月ぐらい経ったら。
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立岩 それで、その次の、行動というか、どういうふうになっていくんですか?
長山 それで、そのことはちょっと、そのことは僕、文字にして、懸賞、懸賞論文みたいなのがあって、それに俺、書いて応募したら佳作になって、そこにあんだけど。後でコピーして差し上げますよ。
立岩 ありがとうございます。
長山 そこにも書いてあるけど。その後、半年ぐらい経って、たまたま友達が八王子ヒューマンケアの事務局長やってたんですよ、その当時。
立岩 誰?
長山 中原えみ子って、今亡くなっちゃった。あの筋ジス…。
※中原えみ子:1956〜20110604 https://shop-pauline.jp/?pid=46885681→注文しました
立岩 そうですか。中原さん、あの存じ上げていました。[00:50:18]
長山 そうですか。中原えみ子ちゃんって、彼女とも僕、もう20歳頃から知ってるんですよ。
立岩 そうだったんですか。どういう付き合いというか、つながりで?
長山 それは「あかね会」っていう、神奈川で活動してたサークルで知り合ったんです。それで僕、これちょっと中原さんに相談しようと思って手紙書いたんです、彼女に。だいたい入院して、半年ぐらい経った頃かな。そしたら返事来て、「長山さん、そういうことだったら、もう全面協力しますから、地域生活移行する方向でいきましょう」みたいな、そういう返事もらって。
立岩 手紙出して、手紙が来たんですか?
長山 来ました。だって友達だったから。知ってたから、昔から。初めての人じゃないから。
立岩 手紙の往復があったんですね。ほんで? で?
長山 それで、俺もちょっと心強くなって、それでヒューマンケアに行ったんですね。1年ぐらい経った頃かな、入院して。
立岩 入院して1年後ぐらいに、八王子までわざわざ。
長山 彼女を訪ねて行って、いろいろお話しして。したらじゃあ、もう出る準備しましょうってことになって、そこからいろいろなんか研修受けたりしました。
立岩 八王子の研修ですか?
長山 日野でしたね。CIL日野。
立岩 それはヒューマンから日野を紹介された的な感じですか?
長山 そうです。今でもいますが、秋山さん、秋山浩子ちゃん、彼女がいましたね。そこで研修を受けましたね。
立岩 それはいわゆる自立生活プログラムみたいな、そういうやつですか?
長山 そうですね。そういうの受けて。
立岩 行って、日野でやって。でも日野って、下志津からって遠いじゃないですか、とても。
長山 もう最高に遠いです。
立岩 (笑)ですよね。通ったんですか?
長山 通いました。いや、その研修受けている時は、
立岩 体験室的なところですか?
長山 そうそうそう。日野、日野が体験室持ってて、日野CIL。そこで2泊3日したのかな。その時に、研修を一緒に合わせて受けた。
立岩 2泊3日、体験室で2泊して、それで3日間、日野で研修受けた。
長山 3日間研修受けた。そう。
立岩 じゃあ、さすがに日帰りでどうこうっていう話じゃなくて、2泊3日。
長山 そうですね。
立岩 ちなみに、日野、中央線で行くんでしょうけど、
長山 3時間かかりますよ。たっぷり。
立岩 かかりますよね。
長山 かかる。行ったんですよ、だから僕ももう、やる気、
立岩 移動とかどうしたんですか?
長山 電車ですよ。その1時間500円の有償介助者と一緒に行ったんですよ。
立岩 それを使ったわけですね。
長山 それを使って。夜8時ギリギリまで、ギリギリで帰ってくるんですよ。(00:54:02) もう病院に着いた時は、もう8時回ってた時もありましたよ。
立岩 その2泊3日っていうのは、何回かやったんですか?
長山 やりましたね。
立岩 1回ではなくて?
長山 1回じゃないです。
立岩 何回か、その泊りがけの2泊3日のやつを日野でやって?
長山 それがね、日野は1日24時間のサービス出ないっていうことがわかって。それではちょっと困るっていうことで、そっからCIL昭島に行ったんですよ、昭島。昭島でも、ちょっと研修っていうか。でも昭島も結局24時間出ないっていうことがわかって、ほいで、どうしようかなぁつって。
立岩 その昭島でも、その研修みたいなのやったってことですか?
長山 確か1回やったかもしれない。
立岩 1回ぐらい、やったとして、
長山 泊まって、[00:55:30]
立岩 でも、それ行ったけど、
長山 昭島もやっぱり1日24時間も出ないと。それで、あぁどうしようかなっつって、今度はCILふちゅうに行ったんですよ。府中。どうして府中に行ったのかな? あまりよく覚えてない。CILふちゅうの鈴木さんに相談しました。
※鈴木一成 https://blog.goo.ne.jp/kazu--suzuki/e/fd1b99ef4091cb460cb25ff8c520e8ba
立岩 府中に行ったんですか? それともメールとか、手紙とか?
長山 いや、行きましたね。どうして府中に行ったのか。中原さんあたりから言われたのかな? あんまり覚えてないです。どうして府中に行ったのか。
立岩 でも行ったんだ? 府中に。
長山 行きました。
立岩 これから僕も行きますけど(笑)。
長山 そいで、そのCILふちゅうの代表の鈴木一成さん、今、残念、亡くなったんですけど。あの彼に相談したら、「長山さんね、今調布だったら24時間出そうだから、一緒に交渉しませんか」って言われたんですよ。鈴木さんに。それで、「そうですか、じゃぜひやりましょう」つって、それで2人で、交渉が始まった…交渉に行きましたね。
立岩 じゃあもう直接に鈴木さんと、もう2人というか、2人プラス、みたいな?
長山 で、鈴木さん、僕にアドバイスしてくれたんですよ。「長山くんね、交渉するにあたって、長山くんの1日24時間のこうしてもらいたいっていう、スケジュールを書いて来るように」って紙に、1日の。僕もそのスケジュールを、1日の行動スケジュールを書いたんですよ。だいたい何時頃おしっこするとか、何時頃食事するとか、何時頃排泄するとか。そういうのもいちいち書いて、それを持って、役所行って見せました。それ、みんなもう鈴木さんに言われたことを僕はやっただけなんだけど、うん。
立岩 で、わりと役所は、
長山 よかったです、反応は。
立岩 わりとすんなり通った?
長山 通りました。いや、すんなりって、一応それ交渉したら、「わかりました」って言われて、で、ちょっとあの、「こちらも検討しますから」つって。すぐ返事くれたわけではないです。で、2ヶ月ぐらい待ったかな。
立岩 鈴木さんと行ったのは1回、で行って、で「待ってください」って言われて、
長山 行ったのは2回ぐらい、交渉は1回じゃないな。2回ぐらい行って、
立岩 行って、わかりましたというのは、わりと肯定的というか、前向きな?
長山 受付はしてくれました。
立岩 で、2ヶ月待ったら、
長山 待ったら、僕の携帯に電話が入ったんですよ、その当時担当の。
立岩 電話だったんですか?
長山 電話でした、携帯に電話があって。そしたら、女性だったんですけど、「長山さん、大丈夫です」って。もう「24時間出します」って言われましたよ。
立岩 それが2005年ぐらい?
長山 それが2005年ですよ。2004年、2004年の12月。
立岩 12月にその知らせが来たんですか?
長山 電話が入った。来ました。僕の携帯に。
立岩 2004年の12月ね、はいはい。
長山 それで「やったー!」って思って、そこからもうどんどんどんどん事を進めていって、住宅の確保とか、そういうことして。
立岩 ふちゅうにお世話になったけど、制度があったのが調布だったので、調布で、場所、住む場所探す?
長山 そうそうそう。なんかでも、返事来る、なんか、同時進行ぐらいでやってたのかな。
立岩 多分いけそうだっていう感じで、住む場所も探そう的な。
長山 そうそうそうそう。だから鈴木さんは、多分調布だったら状況的に行けるだろうって、多分そう、
立岩 鈴木さんの読みがあったわけですね。
長山 そういう読み、だいたいそう読んでたんじゃないですかね。[01:00:23]
立岩 で、調布で探したのはここですか?
長山 いや、住むところはもう20ヶ所ぐらい当たりました。
立岩 それはわりとだめだっていう?
長山 だめっていうか、なかなかほら帯に短し襷に長し。
立岩 それは何? アクセスっていうか、そういうことであったり、
長山 アクセスだったり、部屋の広さ。1回は飛田給にいい物件があって、そしたらあの、CILふちゅうのその当時僕を担当してくれてたコーディネーター、要は健常者のコーディネーターに言われたんですよ。「長山さん、この飛田給の浴室は狭すぎる」と。「狭すぎて介助できないから、ちょっとここは」って。そのコーディネーターからクレーム入っちゃった。
立岩 そっか。門前払い的なことではなくて、
長山 違う。もう、内部的、
立岩 自分の住環境っていうか、そういうのいろいろ考えてくと、
長山 そう、ヘルパーが介助できないっていう。
立岩 ここはいいけど、あれはだめだとか。居室はいいけど、トイレがだめだとか、そういうんで、こう20軒、いろいろ。
長山 そう。最終的にここになった。
立岩 それがここですか?
長山 ここ。最終的に。
立岩 それはそのいろんな意味で、1階だし、入って来るのに、
長山 お風呂場もそこそこ広いし。
立岩 じゃあ結構長いということですね、ここ。
長山 長いですよ。14年ですよ。
立岩 ですよね。じゃあ何、それで調布からオッケー出て部屋探して。12月にオッケー出て部屋が決まったのが、翌年ということですよね?
長山 2005年の…、あ、でも1月…1月、2月に決まりましたね。
立岩 じゃあふた月、そのぐらいの感じで。
長山 毎週のように、それこそ下志津病院から調布へ通ったんですから、毎週。
立岩 それもあれ? さっき言った500円のその有償、
長山 そう。
立岩 それは結構大きいかもね。その手段がない人もいるじゃないですか。
長山 そうだね。
立岩 結構その、移行しちゃったら、それなりになんとかなると。病院にいるだけだったら、病院がなんとかなると。間のところの移動であるとか、それがうまいこと、なかなか難しいっていう話は聞きますね。
長山 あ、そうですか。
立岩 それはもっぱらその病院の人にサービスというか、提供するようなそういう会だったの?
長山 そうです。
立岩 なるほどね。わりとあそこもそれなりに、歴史はあるし、
長山 すごくまぁ、まぁ働き手は主婦だったり、定年退職したおじさんだったり、そういう人たちでしたけど、みんないい人ばっかりでしたよ。
立岩 そうか、そういう人がいて、遠く、下志津から。今日久しぶりに僕京王線乗りましたけど、結構ありますね。新宿からでもね。
長山 国領はね各駅停車しか停まらない(笑)。それがあるんですよ。
立岩 僕、中央線は長いこと住んでたんで、だいたい感じわかるんですけど。昨日国分寺だったんですけど。やっぱ京王線はあぁそうかみたいな、意外とかかるなとかって。ね、電車待ったりなんかして。それで、制度あると、出ると。で、2月に2ヶ月で場所見つけて、で、もう越しちゃった?
長山 実際越したのは4月27日。2005年の4月27日。
立岩 それはもうなんだかんだ言って、始めたらそんなにかかったわけじゃないというわけですかね。まぁでもそうか。
長山 でも、1年、日野から、あれした後、1年ぐらいはかかってますよ。
立岩 日野に行ってプログラム受けたけど、
長山 結局、
立岩 暮らせるわけではないと。
長山 そう、日野、要はサービス提供時間の問題で、日野がだめで昭島がだめで、さてどうしよう、困ったな、どこ行けばいいんだろうって。したら、ふちゅう、ふちゅうの鈴木さんが、もう、[01:05:16]
立岩 そのふちゅうの鈴木さんと、さっきヒューマンの方は前から知り合いだったけれども、ふちゅうの鈴木さんのきっかけ、なんか覚えてらっしゃいます?
長山 あんまりよく覚えてないです。ただ、CILふちゅうの存在は知ってたのかな。知ってたけど、全然、付き合いとかはなかったですね。だから、
立岩 あらかじめ知り合いであったわけではなくて、
長山 そういうのは全く、確かなかったですね。
立岩 だけど、そういう情報というか、「行けるよ、長山さん。ここ***(01:05:50)」ってことですかね?。
長山 ただ、エリア的に近い、日野とか府中とかね。ただ僕の中に、僕ほら、実家が蒲田で大田区の蒲田ですから、多摩川の近くに住みたかった、多摩川。蒲田っていうのは、多摩川脇に通ってますから、ちょっと行くとね。六郷ですけど。だから、多摩川の近くに住みたかったんです。それが僕の自立の条件。結局多摩川沿線つったら、調布、府中、日野。それで、府中って頭があったのかな。要はあのこの辺に住んで、寂しくなったら多摩川下れば実家に行けるなと思って。それがなんか面白いから(笑)、なんか多摩川つながりで。多摩川はもう、もう子どもの頃から花火見に行ったり、もう馴れ親しんだ川だから。
立岩 ちなみにここから多摩川って行けるんですか?
長山 行けますよ、下れば。だいたい距離にして、20キロぐらいありますけど。
立岩 結構あるんですね。
長山 ずっと下ってけば、僕の実家の方に行くんですよ。だから、多摩川の近くに住みたいな、それはもうずっと思ってました。
立岩 それはずっと思ってて、なかなかその具体的なきっかけはよく覚えてないけども、だけど結果的に、
長山 そのCILふちゅうにしたっていうのも、多摩川沿いだからだったのかもしれません。
立岩 なるほどね。4月5月に出てきて、それから10何年経ってるわけですね。
長山 14年。
立岩 どうです? どうですっていうの、漠然とした、ですけど。
長山 いや、病院出てよかった思いますよ、それは。
立岩 それはもういいと。
長山 もう120パーセントよかったです。
立岩 ここでの暮らしっていうのは、10数年そんなに大きな変化っていうものはないですか?
長山 やっぱりね、ちょっとね、身体的にね、ちょっと衰えましたけど。うん、まぁここへ引っ越した当初みたいな、ワクワク感はないですけどもね。
立岩 まぁ淡々というか。ちなみにメール書いたりとかそういうこう、コミュニケーション系はどうやってやってるんですか?
長山 できますよ。パソコン使ってますよ。
立岩 それは指?
長山 長い鉛筆使えば、もっと楽です。
立岩 手で持つ?
長山 手で。結構僕、指先がきくんですよ。
立岩 じゃあ手で、こう、棒というか鉛筆というか持って、キーボード叩くみたいな? そういう感じですか?
長山 そうですよ。遅いですけどね。
立岩 そうやって、今は、そうやってコミュニケーションというか、とって、
長山 まぁそうですね。
立岩 今その、ふちゅうなり調布なり、そういうこうセンターとか、そういうとことの付き合いっていうか、
長山 ありますよ。
立岩 どういう形のどことの付き合いというか。
長山 だからCILふちゅう、のままですけどね。
立岩 ふちゅうではどんな形の、こう、関わりというか、
長山 だからほら、ヘルパー派遣もしてもらってるし、それ以外になんか、CILふちゅうのイベントみたいなものがあれば参加したりしてますけど。
立岩 今その事業所というか、派遣の方は、ふちゅう?
長山 ケア府中って、別な団体。[01:10:19]
立岩 いくつか、複数使ってらっしゃる?
長山 それが使ってないんですよ。
立岩 府中だけで足りてるというか。
長山 びっくりされます。
立岩 そうですよね。
長山 みんなビックリされます。
立岩 みんな3つ4つ使うの普通ですもんね。
長山 「24時間入ってて1つだけなの?」って。
立岩 それは結構びっくりするって、確かに。長いことそれでやっておられるんですか?
長山 最初からですよ。
立岩 最初から10何年それで、続いてるんですか? それは確かに珍しいっちゃ珍しいですね。でもまぁそれでやれてるっていう。
長山 なんとかね。
立岩 府中に、その外に出たりっていうのは、(笑)今暑いですけど、府中にイベントに行ったり、あとはその、買い物、
長山 いろんなとこ行きますよ。
立岩 結構出歩いてる?
長山 前ほどね。ちょっと体力的に落ちちゃったんで、前ほどではないけど。出てますよ。
立岩 今年も暑かったですけどね。去年よりかは多少マシかな。僕は京都なんで、京都もっと暑いですから。今日も、まぁ来る時暑かったけど、これからちょっと良くなるのかな。
長山 朝晩は涼しいですよね。
立岩 今、そうか。これからのことってなんか考えたりすることって、あります?
長山 ありますね。ありますよ、はい。
立岩 何かしようとか、なんかそういうことですか? こういうのいいな、とか。
長山 そうねぇ、今趣味、短歌、和歌、短歌、それが趣味で、それ一生懸命やってて。
立岩 それはどっかに投稿というか、そんなんしたりしてるんですか?
長山 そうそうそう。なんか応募したり。
立岩 俳句じゃなくて、和歌、短歌。両方?
長山 俳句も好きで、俺、結構文学系好きなんで。あと将棋もずっと、将棋。将棋も趣味でやってて。将棋一応初段目指してやってて、一応初段の免状もらったんです。したらなんか、急に冷めちゃって、
立岩 それまでは一生懸命、
長山 目標の初段取ったから、まぁいいかみたいな(笑)。それで今、短歌の方一生懸命やってます。
立岩 将棋って、僕は古込さんって囲碁をやってた人、ちょっと知ってるんですけど、彼はネットで対局してましたけど。そんな感じですか?
長山 あぁネットでやりますよ。
立岩 ネットでリアル相手っていうか、相手がいて、
長山 おんなじです。
立岩 なるほどね。そんな感じで。短歌か。そっちの才能は僕は全然なくて。そうすると2年、結局下志津いたのは2年と、
長山 9ヶ月。
立岩 2年と9ヶ月。でも結局一つにはそうやって、ヒューマンケアの事務局長か、知ってたりっていうのが、入る前にそういう人間関係なりっていうのがあったっていうことが、一つあるんですかね?
長山 いや、一番大きいその、出た原動力は、自分の気持ちですよね。出たいと思ったから。もう、もう病院を出るんだったら、その時の年齢…、47歳か。もう47の今しかないなと思ったんです。
立岩 これ以上年くったら、もっと、
長山 そう、もう体力的に。
立岩 出にくくなっちゃうだろうと。今やんないと。
長山 もう出るなら、今だと。だからそれが一番、原動力になってますね。
立岩 そうだよね、これからもっときつくなるっていうか。その時にその病院の側っていうか、っていうのは、何か言ったりとか、なんかあるいは協力してくれたりとかそういうのはあったんですか?
長山 協力的でしたね。下志津はね、結構、そのいい部分もあったのかもしれないですね。僕には、少なくとも、僕が出るっていう時は協力的でした。[01:15:06]
立岩 それはその具体的には、その移動の介助なんかは、さっき言った団体の人にやってもらったと。それ以外にその、病院の方からの支援というか、そうしたものって何か記憶にありますか?
長山 なんかあったかな? 特になかったかもしれないけど。
立岩 具体的に何かをしてくれたってわけじゃないが、でも肯定的ではあったんですか?
長山 そうです。
立岩 「出たら」っていうか、「いいんじゃないの」っていう感じですかね?
長山 そうそうそう。
立岩 それはその、どういうその、看護師さんであるとか、いろんな職種の人が働いてらっしゃいますよね。それ、例えばそういう声をかけてっていうのは、どういう人たち、人ですか?
長山 いや、看護師さんとか、指導員っていわれる職員。一番はっきり覚えてるのは、看護師、なんか、一人協力的な看護師でしたけど、俺が出る時に「長山くんね」、あの、あの、ベッド上で使えるおまるみたいな便器、「長山くんにこれ1個あげるから、これ持って行きなさいよ」って言われて。もらいましたよ、だから。そういう、そういう協力的な、全員が全員そうでもないけど、そういう協力的な感じでしたね。全体的にね。
立岩 主治医はなんか言いました?
長山 お医者さんも、別に何も言いませんよ。主治医たって、僕、そんなに身体的にひどい状況じゃないから、
立岩 常時、医者がこう積極的に関わるような身体の状態ではないですもんね。
長山 でも当時、本吉先生っていう、その神経内科の本吉先生。偉い、結構偉い先生いたんです。その人、すごくいい先生でした、本吉先生って。その先生がトップの方にいたから、よかったのかもしれないですね。あんまり詳しいことわかんないけど。
立岩 それはなんか施設…病院出るにあたって、何か肯定的なというか、そういう、
長山 別に何にも、
立岩 特に何があったわけじゃないと。これを、ということではないけれども、
長山 別にだめだとも言わない、
立岩 支障は何もなかったという感じですかね?
長山 その先生に、「長山くんの筋ジスの型は、そんなに心肺機能が悪くはならないから」って確か言われました。
立岩 確かに、やっぱりデュシェンヌ型とかで、やっぱり体重い、重いからっていうのはどこまで、わかんないですけど、それを理由にされて、なかなかその出れないっていう人は多くてですね、
長山 そうでしょうね。ただ筋ジスからも、筋ジス、下志津、いのうえ、なんだ、さとしくんだったかな? 出てる人もいるんですよね。その人は5年間多摩地区で生活して、また下志津へ戻りました。いのうえさとしくんっていったかな。
立岩 それは体の状態が、
長山 もうデュシェンヌですよ。体の状態悪くなって、5年間多摩地区で生活して、また下志津へ戻った。そういう人がいます。
立岩 あぁ、そういう方もいらっしゃる。
長山 はい。だから意外に下志津は、出たいっていう人には協力的かもしんないですね。
立岩 その下志津にいた時の同じ病棟であったり、同じ部屋であったり、そういう人たちとの付き合いってものは、その当時、あるいは、その後も含めて、あったんですか?
長山 今でもありますけどね。
立岩 そうですか。それは何か便りというか、メールくれたりみたいなことですか?[01:20:10]
長山 そう、だから、今回のそのアンケート取るにあたって、下志津に1人知ってる女性がいたから、その人に言いました。「今回、こういうアンケートやってるから、協力してくれない?」ってその女性に言って、それで、ちょっと僕も一緒に岡本直樹さんと下志津へ行く予定だったんだけど、その時僕体調悪くしちゃって。ほいで、直樹さんが1人で行って、その女性と面会して、アンケート聞き取り、そういう。
立岩 そういうことだったんですね。
長山 ただね、僕のいた8病棟に、***(01:21:03)に友達いたんですよ。したら、やっぱり、やっぱ皆さんね、亡くなった人が…、亡くなっちゃったんですよねぇ。
立岩 4人部屋に一緒にいた人?
長山 だから、僕が病院出た時に親しくしてた、5、6人いたんですよ。5、6人のうち、4人ぐらい亡くなりましたね、結局。
立岩 そうやって残っておられる方が、そのさっき、
長山 その女性と、
立岩 女性の方と、ぐらい?
長山 もう1人、おじさんがいるけど、その人もだいぶ状況的に、厳しい状況になってました。去年行った時は。
立岩 去年もう?
長山 僕1人で遊びに行ったんですけど。ただ結局、ね、筋ジストロフィーだから、悪化する人、悪化しちゃうんだよね。
立岩 そうですね。そっか、わりとそういう個人的なつながりってものは亡くなられた方もいるけれども、まぁ、
長山 そのほら、年賀状のやり取りとか、ずっとやってたから。
立岩 それこそ、最初、今日、話の最初の方に出た高野さんであるとか、福嶋さんっていうのは、多分80年代ぐらいに、まだ、それなりに下志津の自治会みたいなことをやってらっしゃったはずなんです。それはもう、どうですか? 今結構、もうみんな歳取ったり、重度になったりして、そういう院内の活動みたいなものっていうのは、なかなかっていう、厳しいって話も聞きますけれども、何かそういうので、
長山 その辺のことは僕はわかりません、今の状況は。僕がいたのは、8病棟で大人ばっかりの病棟で、そのデュシェンヌとか、若い人がいる病棟は6病棟か7病棟なんですよ。ほいでその、その女性、今言った僕の、唯一残ってる女性は、その6か7のどっちかにいます。その人に聞けば、今の状況はわかるはずです。
立岩 いらした、3年弱いらした時に特にその中で、入居者がなんやかんやっていうような動きっていうのは、見知ることはなかったんですか?
長山 ありましたよ、自治会は。
立岩 それはどういうことをやってか、聞いてますか?
長山 僕のいた8病棟は、やっぱり自治会があって、自治会があったつっても病院内の行事をまとめるだけです。そういうあれですよ。その程度の活動。
立岩 そういうことはやってたと。知ってるのは個人的な、こう同じ部屋で会ったりの中で知ってる人っていうのはいたと。けど、やっぱり、そうか、もうだいぶ経ちますもんね。15年とかの間に、
長山 もう病院出て、14、5年ですから、
立岩 まぁその間にね。
長山 今の状況がどうなってるのかって言われても、僕はわかんないです。
立岩 なるほど、わかりました。どうもありがとうございます。その先ほどおっしゃってた、お書きになったものっていうのは、どういったものなんですか? もしなんだったら、こちらで写してもらってもいいし、だから僕いっぺん戻って複写して、郵送でお返しするっていう手もあるんですけど。
長山 じゃあそうしましょう。
立岩 それでいいですか?
長山 うん。
立岩 ありがとうございます。それが、そこにあるものですか? 取っていいですか?
長山 一応2冊ありまして、出していいですよ。その上のホッチキスで止まってるのが、それがきちんとした、佳作を取った文章です。[01:25:06]
立岩 これはどこに出したっていうようなことはわかるんですか?
長山 一番上に、一番上、タイトルの一番上。どこの団体だっけな? なんか新聞かなんかに載ってたんですよ。確か。
立岩 どっかに載った、ですかね?
長山 いやだから、
立岩 佳作の入選っていう結果は届いたというか、そういうことでしょうね。
長山 応募して、佳作に入りましたっていう返事が来て、どういう団体かは調べないとわかんない。忘れちゃった。
立岩 わかりました。もしわかったら、わかった時に。これ、この8年っていうのは?
長山 2008年。
立岩 2008、こっち2008年ね。こっちは平成の17ですね?
長山 それは、あの、ほぼ佳作に入ったやつと内容はおんなじなんだ、若干違う。後からまた僕がまとめたんです。
立岩 これね、もしよろしかったらですよ、これを打ち直して、ホームページにあげたりってことは、ご許可いただけますか?
長山 ホームページって?
立岩 僕らが今やっている、その立命館の大学にウェブサイトがあって。で、例えばこないだ僕、仙台に行って5人ぐらい、北は北海道、南は沖縄、今日みたいな形で、こないだは結構慌ただしかった、短かったんですけど、そういうのを、例えば5人ぐらいの人に聞いて、それを業者に頼んで、で、本人に見てもらって、直すなら直す、削るなら削ってもらったやつを載せるとか。あるいは、なんかの会で発表する時、原稿書かれる人もいるじゃないですか。それを載せるっていう形で、今そういう、今の生活であったり、病院の時の生活であったり、そういうようなことを、今いろいろやってくれてるアンケートとはちょっと別に、一人ひとりのよろしければ名前も出す形で掲載してるんです。もしそれでよろしければですよ。もちろん、これ、コピーさしてもらってお返ししますけれども、これを打ち直してというか、掲載させてもらえれば、それはそれでありがたいなと思います。
長山 それは何? 立命館大学のホームページ? に載せるわけ?
立岩 はい。えっとね、ちょっとお待ちください。〔画面をお見せする〕こういう感じでね、ホームページがあって、今その国療の関係のプロジェクトをやっているんですよね。そうすると、こういうふうに、あの、これは2007年とかの、これはそのビデオ、映像ですけれども、この辺くると、こないだ僕が話聞いてきた沖縄の人であるとか、鹿児島の人であるとか、そういった人のインタビュー、こうやって出てくるんです。
長山 そうですね。それは僕も見ました。
立岩 そして、そのインタビューはインタビューとして、それから例えばこないだだと、集会にその原稿書いてくれた人がいると。それは原稿は原稿で、その原稿のまま載せるというようなことを今やっているんです。もしよろしければ同じような形で、これは平成17年に書かれたもの、これは2008年に書かれたものっていうことで、これ例えば2006年、2007年とかの、これは映像ですけれども、っていうんで、それをどういう形で整理するのかっていうのは、またこれからっていうとこもありますけど。とにかく、そういう記録、例えば長山さんが、わりといろいろな条件があって、わりとちゃんと出れたっていうのは、こういうふうにすれば、こういう条件が揃えば、まぁやれんこともないなっていう、ことになるんだと思うんですよ。そういう意味で、もしよろしければ、今日のインタビューのと、内容的には重なる部分もあると思いますけど、僕は重なっても全然構わないと思いますよ。だから、例えばそのこの2つプラス、インタビューのやつを載させていただければ、それはそれで、後進のこれから出たい人とかの人の役に立つんじゃないかなっていうようなことを思って今、こうやって話聞いて回ったりしてるんです。
長山 わかりました。いいですよ。[01:30:00]
立岩 じゃあまた、あのその件は例えばこういうふうに掲載しましたとか、もし何かあったら連絡くださいっていうのは、メールで、やりとりさしていただくということで。
長山 はい。
立岩 ありがとうございます。
長山 ちなみにそのホームページ、アップする時って多少なんか、文言変えてあるんですか?
立岩 基本は全く変えません。インタビューに関しては、まぁあまり意味のない僕の相槌とかもそのまま起こしてくれるので、それはある程度削ったり。それから文章はもう全く、誤字をなんかする場合にはありえますけれども、それ以外全く何も。
長山 そのままで?
立岩 そのまま。
長山 わかりました。
立岩 インタビューに関しては、後で、これ言い漏らしたとか、あるいは、これちょっと都合悪いから削ってくれとか、そんなのあればその通りにいたしますので、よろしくお願いいたします。はい、じゃあちょっとこれお借りして、また後で郵送で。今日、こないだ、
長山 住所わかってます?
立岩 教えていただいたので、あのそれで。はい。写真を撮らせていただいていいですか? よろしければですけど。
長山 いいですか、これで?
立岩 いいです。(写真撮影)ありがとうございます。まあまあ暑いですね。これの、この書は? 「笑う門には福来たる」。
長山 これは僕が、僕自身が書きました。毎年、なんか年の初めに(笑)なんか書道みたいな、そういうの。
立岩 これ、わりと最近ですか?
長山 これ今年の正月です。
立岩 結構手先器用というか、なんか、
長山 結構、昔は器用でした。でも今はだんだん手動かなくなって。その器用さも影を潜めてます。
立岩 そうですか。ありがとうございました。またテープ起こして、それまたお知らせしますので。これから僕は今日は、
長山 府中へ行く?
立岩 府中行って、それから武蔵境行って、
長山 頑張ってください。
立岩 ありがとうございます。ありがとうございます。グーグルマップって慣れてなくて、なんか汗かきながら来て、バタバタしてしまいましたけれども、どうもありがとうございます。
[01:32:32]音声終了