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高野 岳志

たかの・たけし

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・19570606〜19841227 千葉市宮崎町 宮崎障害者生活センター 筋ジストロフィー

 1957/06/06生
 1964 小学校
 196706 国立療養所下志津病院に9歳で入院
 1967?(小)少女マンガで筋ジストロフィーを知る
 1970 中学1
 1971 中学2 NHK取材を受ける
 1972 中学3
 1973 高校1
 1974 高校2
 1975 高校3
 1981/04/04 宮崎障害者生活センター開設
父の反対
 1981/09/19 病院を出て自立
 専従介助者:加藤祐二 (月11万) +高橋恵 (下志津の看護婦) と住む 家族と親戚から15万, 86000 を受け取り, 残りをセンターの資金として貯金 加藤専従をやめる (加藤は新しい自立センターを設立 福嶋〔1987〕)
 1984/12/27 死去・『そよ風』9:38-43, 20:39-40, 22:35

■新着

◆立岩 真也 2017/05/01 「高野岳志/以前――生の現代のために・21 連載・133」,『現代思想』45-8(2017-5):-
◆立岩 真也 2017/06/01 「高野岳志――生の現代のために・22 連載・134」,『現代思想』45-(2017-6):-

『現代思想』2017年5月号 特集:障害者・表紙

■文献

http://wallaby-clinic.asablo.jp/blog/2014/12/10/7514137

◆高野 岳志 197610 「進行性筋ジストロフイーと私」,『ありのまま』2→山田・白江[2002:229-236]*
山田 富也・白江 浩 20020212 『難病生活と仲間たち――生命の輝きと尊さを』,燦葉出版社,323p. ISBN:4-87925-064-3 1905 [amazon][kinokuniya]※ md. n02h.

◆小林 敏昭 1981 「攻めに生きる――高野岳志と共同生活者たち」,『そよ風のように街に出よう』9:38-43

◆柳原 和子 198304 「筋ジス青年の自立への闘い」,『潮』288:196-211

◆高野 岳志 1983 「障害者の自立の場宮崎障害者生活センター」,『リハビリテーション』267(83-10):32-37
2017/05/15*仲村 優一・板山 賢治 編 1984 『自立生活への道』,全国社会福祉協議会,317p. ※

◆高野 岳志 19831125 「生と死と人生と」,山田[1983:167-174]167-174

◆高野 岳志 19840415 「進行性筋ジストロフィー(PMD)者らによる自立生活センターの運営」,『理学療法と作業療法』18-4:266 

◆高野 岳志 19840915 「(『そよ風』二十号に)」,『そよ風のように街に出よう』20:39-40

◆高野 岳志 19841215 「街のなかに生きるために」,仲村・板山編[1984:286-296]

◆小林 敏昭 198150315 「サヨナラ、高野岳志」,『そよ風のように街に出よう』22:35

◆松永 正訓 20141210 「日本最初の自立障害者・高野岳志「ある生の記録」」,

◆加藤裕二 20141124 「オリーブハウス30周年に思うこと」
 http://www.olivehouse1984.com/blog/20161011001.html

■生涯 ※作成途上

◆〜196404小学校

 「一九五七年六月六日。東京で高野君は生まれた。
 ようやく歩き始めた頃、ご両親は転びやすい高野君を見て、その異変に気づき始めていた。
 その後も、転ぶ回数が増え、生まれた病院で診てもらった。
 その結果「筋ジストロフイー」と診断された。
 おなかを突き出し、踵を上げ、つま先立って立って歩く様は、典型的な筋ジスの特徴だった。
 その風貌が西郷隆盛に似ていたので、「西郷さん」と呼ばれたこと
 四歳の頃、茨城県の石岡市に引っ越した。」(白江[2002:220])

 「小学校は石岡市の普通小学校に入学した。
 お兄さんとで歩いて通った。
 この頃から、歩行が難しくなってきた。
 ランドセルを背負って、歩くことが大変になってきていた。
 ある夏休みのことだった。△220
 高野君は、お兄さんが近所ど野球をしているところにやってきて、仲間に入れろ、と訴えた。
 何とか歩くことはできても、野球が出来る状態ではなかった。
 しかし、高野君ばお兄さんに「自分がボールを打つから、代わりに兄貴が走れ」と言った。
 友だちも最初はそれを受け入れてくれた。
 しかし、球拾いも出来なくなった高野君の要求は、次第に拒否されるようになった。
 そんなある日、高野君はひょこひょこホームべースまでやってきで、突然おしっこをし始めたことがあった。
 仲間に入れてもらえず、自分をアピールしたかったようだ。
 そんな高野君を見ていて、ご両親は、難病だから、少しでも最先端の医療を受けさせたい、と思った。そこで、西多賀病院と並んで日本では早くから筋ジス患者を受け入れた、千葉県四街道にある国立療養所下志津病院に入院させることを決断した。△221
 高野君が小学校三年生の時だった。」(白江[2002:220-222])

◆19660610 入院

○高野[1976→2002:229-230]
 「私が千葉県四街道町にある、国立療養所下志津病院に入所したのは、昭和四十一年六月十日のことでした。下志津病院は仙台の西多賀病院と並び昭和三十九年に進行性筋ジストロフィー患音収容指定を受けた所で、私は筋ジス専用病棟の建設に伴う増床によって入所したわけです。当時の私は小学三年生でしたが、入所を決める際に両親が私の意見を求めてくれたことは、今でも忘れることができません。両親が私のことを一個の尊重されるぺき人間として扱っていること、また、入所ということが如何に重要な問題を含んでいるかということを私は子供心にも感じていました。
 このとき、父が私に言ったことは次のような内容でした。「岳志君も良く知っていると思うけど、岳志君の病気はまだ治らない病気なんだよ。だから、日本や世界のおおぜいのお医者さんが、一生懸命に病気の治療法の研究をしているわけだ。そこで、入院するかもしれない病院は、岳志君と同じ病気の人達を集めて、お医者さんが研究をするために、検△229 査をしたり、投薬したり、機能訓練をしたりする所なんだ。だから、治療法が発見されれば一番先に治るし、岳志君と同じ病気の人達のためにもなると思う。それに、学校だってあるんだもの、淋しいだろうけど入院したらどうかね。」これに対して私は「二、三年ならがまんできるよ。六年生くらいにはもどってこれるよね。」と応えたものです。
 早いもので、あれからもう十年の月日が流れ去っています。」(高野[1976→2002:229-230])

○白江[2002:222-223]
 「高野君が小学校三年生の時だった。
 まだ、筋ジスのこともよく知られていなかったために、余計に入院させることへの理解が浅かったのだと思う。
 入院後は、病院に併設されていた養護学校に通った。
 仲間もできた。またI先生と出会い、様々なことを学んだ。
 勉強にも励んだ。
 高野君は中学三年生の時、お兄さんと一緒にアマチュア無線四級の免許を取った。
 その後I先生の尽力で機材を揃えてもらい、無線クラブを作るなど、活動は広がった。
 無線は今で言えば、パソコン通信(電子メール)同様、外部の人たちとのつながりを持つ、数少ない手段だった。中学・高校というのは、苦しみ・楽しみも共にもっとも多感な頃であり、活発に活動する時期でもある。又、人生の進路に悩む時でもある。
 そんな時に、筋ジス患者はもっとも進行著しく、十八歳で高校を卒業した後に寝たきりとなり、二十歳前後で亡くなることが、当時としてはパターンであった。△222
 その事実を、仲問の死を通して、患者たちも否応なく承知していた。
 高野君は自分はそうはなりたくない、と思いながらも、日々矢われていく自由と機能を実感せざるを得なかった。生きたいと思いつつ、残された時問を計り、何ができるのか、高野君の中にも、将来への焦りが強くなってきた。
 そんな中学二年生の時だった。NHKのド牛ュメント番組で、筋ジスについて取り上げたいと、病院に申し出があった。」(白江[2002:222-223])

○小林[1981:39])
 「筋ジスのベッドが百床に増床されたので入らないかと保健所から話があった。父は「この病気は治らないけれども、いろんな先生が研究しているから、入院していれば一番早く治せる。養護学校が棟続きで建っているから、通学に苦労しなくていい」と息子に話して聞かせたという。」(小林[1981:39])

○高野[19831125:167-168]
 「入所を決める際に両親が私の意見を求めてくれたことは、今でも忘れることができません。両親が私のことを一個の尊重されるべき人間として扱っていること、また、入所ということが加何に重要な問題を含んでいるかということな私は子ども心にも感じていました。/このとき、父が私に言ったことは次のような内容でした。「岳志君も良く知っていると思うけど、岳志君の病気はまだ治らない病気なんだよ。だから、日本や世界のおおぜいのお医者さんが、一生懸命に病気の冷療法の研究をしているわけだ。そこで、入院するかもしれない病院は、岳志君と同じ病気の人達を集めて、お医者さんが研究をするために、検査をしたり、投薬したり、機能訓練をしたりする所なんた。たから、治療法が発見されれば一番先に治るし、岳志君と同じ病気の人達のためにもなると思う。それに、学校たってあるんだもの、淋しいだろうけど、入院したらどうかね」これに対して私は二、三年ならがまんできるよ。六年生くらいには、もどってこれるよね」と応えたものです。」(高野[19831125:167-168])

○立岩[20170501]
 「高野は後に、自身の退院を巡ってこの父とたいへん厳しく争うことになるのだが、この入所の時のことについてはよい父親であったと、その争いの後に書かれた文章でも述べている。連載で見てきたように、この時期はちょうど、一九六四年から開始された国立療養所への筋ジストロフィーの子の収容が拡大していた時期にあたる。今は治らないがそのうち治るようになる可能性と教育の機会があることが病院入院への理由にされる。高野もまた多くの人も筋ジストロフィーの予後がわるいことはその時には知らされない。」(立岩[20170501])

◆1967? 少女マンガの筋ジストロフィー
 ※小学四年生 196704〜196803

 ※以下は約1年違うべつの作品?
 しかし貴重な情報なので別途頁に収録します。
https://twitter.com/lotus_flower19/status/862980990339137536
 「初めまして。お疲れ様です。自分で読んだわけでもなく無責任で申し訳ないのですが、集英社の『マーガレット』に掲載されていたらしい、木内千鶴子『1歩2歩3歩・・・ほら 歩ける!」」

○木内千鶴子 19681110 「一歩二歩三歩…ほらあるける!」,『週刊マーガレット』1968-11-10(45)
 http://www.kudan.jp/EC/mrg1968.html
○木内 千鶴子:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E5%86%85%E5%8D%83%E9%B6%B4%E5%AD%90
http://www.kudan.jp/EC/mrg1968.html ○国会図書館:http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000800574-00

○高野[1976→2002:229-232]
 「私が体験の他に、筋ジス≠知るようになったのは、いわゆるマスコミからでした。これは、私の体験を体系づける働きをしたのです。というのは、マスコミから受けた知識が体験により実証されていったわけです。
 私が最初に筋ジス≠フ記述を見たのは、小学四年生のときであったと思います。それは、ある少女雑誌のマンガでした。内容は進行性筋ジストロフィーに冒された少女が、徐々に進行して行く病気との闘いの中で葛藤し、ついには死んでしまう過程を克明に描いたもので、筋ジスに関する小さな解説が付いていました。これを読んだとき私は、全く信じられずに一笑に付してしまいましたが、後になって正しいことがわかっていきました。私の内面では強烈な否認が起こっていたのです。根拠は、死んだものはいない(当時死んだ人を知らなかった)、主人公が女性である、自分は足が不自由なだけで健康であるなどの点でした。」(高野[1976→2002:229-232])
○高野[1983:170]
 「私が最初に筋ジス≠フ記述を見たのは、小学四年生のときであったと思います。それは、ある少女雑誌の中でのマンガでした。内容は進行性筋ジストロフィー症に冒された少女が、徐々に進行して行く病気との闘いの中で葛藤し、ついには死んでしまう過程を克明に描いたもので、筋ジスに関する小さな解説が付いていました。これを読んだとき私は、全く信じられずに一笑に付してしまいましたが、後になって正しいことがわかって行きました。私の内面では強烈な否認が起こっていたのです。根拠は、死んたものはいない(当時死んだ人を知らなかった)、主人公が女性である、自分は足が不自由なだけで健康であるなどの点でした。」(高野[1983:170],立岩[20170501]に引用)

○山田[1978:138-140]
 「ふいに、幸司は、まだ小学生のころ読んだ少女マンガの物語をまざまざと思い出した。/(あの話はほんとうだったんだ。栗原は、筋ジスで死んだんだ。そうか。栗原は、数をかぞえることによって、死の恐怖と闘っていたのにちがいない。かわいそうに。あいつは自宅療養なんかじゃないんだ。個室で死んで、退院していったんだ。ボクにも、もうすぐ死がやってくる。)
 進行性筋ジストロフイー症がそんなに恐ろしい病気だなんて、幸司は信じたくなかった。/(筋ジスはなおる病気だと思っていた小学生のころはよかった。療養所にきて、なおらないと聞かされ、こんどは死につながる病気だなんて、どうしよう。どうしたらいいんだろう。死ぬのは苦しいだろうか)」(山田[1978:138-140])

○立岩[20170501]
 「山田の小説にあったのと同じ少女マンガが念頭に置かれているのかもしれない。そのマンガを読んで筋ジストロフィーを知ったが、その時はそのままに信じる気にはならななかった、だが、写真集で確かなことを知ったというのである。二人に一つずつ、同じ経過があったということだろう。」

◆1971 『車椅子の眼――筋ジストロフィー症の子どもの誌文と写真集』(197102発行)
 ※高野の文章では中学校1年生の時に「出版された」とある。

○高野[1976→2002:223-234]
 「結局私に筋ジス≠決定的に教えたのは、中学一年生のときに出版された、西多賀病院の写真集だと記憶しています。私はこれに出会うまで筋ジス≠ニいう病気を楽観的に捉えていましたが、自分の置かれた現実を改めて思い知らされました。私達にとっては、当たり前となってしまっていることが、一般社会の位置づけからみると、特殊で、異常で、△232 悲惨な状況であることがわかり、筋ジス≠ェ死≠フ病であり、狭い療養所という空問的に限られた場で、時間的に極く限られた、生≠送らねばならないことを知りました。
 写真集ではカメラを通しての客観的な眼が、私達の日常を暗い陰を帯びたものとして映し出していました。寝返りさえ打てずに横たわる最重度患者の眼は、死≠ノ観念したようでいて、怨念のこもった視線を向けていました。やせ衰え骨と皮ばかりになった身体は、飢餓状態に置かれ路端に倒れ伏したアジア・アフリカ諸国の子供等を連想させ、生命の宿りさえ感じさせない点がありました。また、退院の日を夢見て身体的苦痛に耐え貫き機能訓練に励む子供達の姿は、最重度患者を頭に描くためか、そのあどけなさがかえって残酷さを強調しています。いくら機能訓練をしたところで進行を若干遅らせることが精一杯なのですから。そして、そこに映しだされた姿はまきれもない私自身の姿でもあるのです。最後の解説には筋ジス≠フ詳しい説明と、筋ジス患者は収容されるだけで、死≠待つだけの状態にあり、能率的な研究体制も打ち出せない行政の不備が指摘されていました。
 このときには死亡患者も多く、私は筋ジス≠ェ恐ろしい病気であるという感じは抱いていましたが、いざ、既定事実を知ると死≠ノ対しての動揺がつのり、不安と恐怖の念が襲って来ました。何度も何度も自分の死≠頭の中で想定し、冷静に考えようとした△233 ところで一向に考えはまとまらず、この世から自分が消滅してしまうことが、まるで他人事ででもあるかのようにしか思えず、大変無感動な状態となり、何に対しても気力が起こりません。自分が矮小化され生きている意味さえもないように思え、生まれて来なければ良かったという思いが走りました。「何故自分は苦しまねばならないのか。」「何故自分はこのような運命を背負ってこの世に存在しているのか。」としだいにやり場のない怒りがこみ上げ、どうしようもない孤独感と悲しみの内に絶望の端に立たされたような思いにかられたのです。」(高野[1976→2002:223-234])

○高野[19831125:170-171]
 「結局私に筋ジス≠決定的に教えたのは、中学一年生のときに出版された、西多賀病院の写真集だと記憶しています。私はこれに出会うまで筋ジス≠ニいう病気を楽観的に捉えていましたが、自分の置かれた現実を改めて思い知らされました。私達にとっては、あたりまえとなってしまっていることが、一般社会の位置づけからみると、特殊で、異常で、悲惨な状況であることがわかり、筋ジス≠ェ死≠フ病であり、狭い療養所という空間的に限られた場で、時間的に極く限られた生≠送らねばならないことを知りました。
 写真集ではカメラを通しての客観的な眼が、私達の日常を暗い陰を帯びたものとして映し出していました。寝返りさえ打てずに横たわる最重度患者の眼は、死≠ノ観念したようでいて、怨念のこもった視線を向けていました。やせ衰え骨と皮ばかりになった身体は、飢餓状態に置かれ路端に倒れ伏したアジア・アフリカ諸国の子ども達を連想させ、生命の宿りさえ感じさせない点がありました。また、退院の日を夢見て身体的苦痛に耐え貫き機能訓練に励む子ども達の姿は、最重度患者を頭に描くためか、そのあどけなさがかえって残酷さを強調しています。いくら機能訓練をしたところで進行を若干遅らせることが精一杯なのですから。そして、そこに映しだされた姿はまぎれもない私自身の姿でもあるのです。最後の解説には筋ジス≠フ詳しい説明と、筋ジス患者は収容されるだけで死≠待つだけの状態になり、能率的な研究体制も打ち出せない行政の不備が指摘されていました。」(高野[19831125:170-171],立岩[20170501]に引用)

○小林[1981:39]
 「父から「治らない病気」と言われても、それは足の病気だと思っていた彼が、仙台の西多賀病院の写真集を手にしたのは中学一年の時だった。そこには、筋ジス患者の多くは二十歳までに死んでいくこと、この病気の研究費として国からは一千万円しか出ていないこと、病棟生活は患者にとって人生そのものだから、内容を改善していかなければならないこと等が書いてあった。/「ショックでしたねえ。」」(小林[1981:39],立岩[20170501]に引用)

○立岩[20170501]
 「写真集には研究費の具体的な記述はないから、高野がそのことを知ったのは、この写真集ではないだろう。ただ写真集の終わりに置かれる近藤文雄院長(幾度もその文章を紹介してきた)による解説には「一五才から二〇才の間に大抵死んでしまいます」(近藤[1971:105])と書いてある。写真には、「一五で死亡」「二一才…」「一四才…」「一八才…」といったキャプションが付されている。
 写真を見てもそう悲惨は感じない人もいるはずだ。そして映画を撮った柳沢はむしろ明るいとも述べていた。だが一つ、本人たちにとっては違うだろう。それは自らの未来を予示するものになる。補装具ができたのが四年前だと記され、それらを付けた子どもたち、それを付けて訓練する子どもたちの写真もある。「非同性筋萎縮の防止」のためであり、病気を治すものではないという近藤の解説が入っている。がんばっている表情はあるが、極端な苦行のようには見えない。小さい子たちが足の補装具を付けヘルメットをかぶっているのは可愛くもある。ただ当人たちにとっては、それは虚しい行ないだ。画像・映像は、衰弱と死を現実に示すものとなる。  写真集がなくとも、療養所にいる期間が長くなれば、そこで人は亡くなっていくことを知ることになる。ただ当初は現実の未来としてはなかなか受け止められない。高野にとってはこの写真集だったという。山田の小説が七八年、高野の八三年の文章はそれを読んで書かれたわけでないが、同じ筋になっている。「結局私に筋ジス≠決定的に教えたのは、中学一年生のときに出版された、西多賀病院の写真集」の前は次のようだ。[…]」

◆19721201 NHK『ある生の記録』
 ※白江[2002:223-224]からは2本の番組がつくられたことがわかる。2本めの『ある生の記録』の放映が19721201であるのは確実で、それは50分の番組。賞を受けているのもこれ。とすると1本目の30分の番組が「ある生の記録」だったというのは同じ題の2つの番組があったということか記憶の誤りか。
 中学2年:197104〜197203 中学3年:197204〜197303

○白江[2002:223-224]
 「そんな中学二年生の時だった。NHKのド牛ュメント番組で、筋ジスについて取り上げたいと、病院に申し出があった。病名もあまり知られておらず、どちらかというと、その頃は病院に隔離されたイメージが強かった。
 そんな状況下で、骨と皮になった肉体をさらけ出すことに、何の意味があるんだ。病院側は難色を示した。
 そこで、NHKでは、ひとりひとり、本人や家族に聞き取りを行った。
 その時の高野君の答はこうだった。
 「病院がかわいそうだとか、情けをかけてやろうとか、そういう番組なら嫌です」
 NHKがどういう意図で、この番組をを企画したのかは分からないが、高野君の発言に対△223 して、少なからぬ興味を示した。
 そして、高野君の意思を受け入れ、高野君を中心にした、番組を構成した。ご両親にも了承をとり、撮影はスタートした。
 毎日のリハビリ訓練の様子を中心に撮影は進んだ。
 多くの患者が諦めて、訓練をしていなかったが、高野君は少しでも、鍛えて進行を抑えたいと考えていた。
 その様子をカメラは追った。
 三十分のドキュメント番組「ある生の記録」が放映されると、反響は大きかった。
 こんな病気があるのか。視聴者から寄せられる反響に対し、NHKでは、再度高野君のその後を追った番組を作ることにした。高校一年生の時だった。この時の番組の内容は、たとえ短い人生であっても、やりたいことに夢中になって取り組む生き様、表情を伝えた。この番組はヨーロツパで短編のドキュメンタリーとして、高い評価を受け、最優秀賞を受賞した。△224
 テレビを見た人が、筋ジストの子供たちを支援したいと、ヴォランティアとして、病院に来ることが急に増えたと言う。恋もした。看護婦さんだった。本気で結婚も考えていたようだ。」(白江[2002:223-224])

http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/2002/h020908.html

○松永 正訓 20141210 「日本最初の自立障害者・高野岳志「ある生の記録」」,

○立岩[20170501]
 「高野はその療養所で活発な子どもだったという。七二年十二日一日、当時一四歳の高野の一年間の生活を取材したNHKのドキュメント番組『ある生の記録』が放映される。この番組はいくつか賞をとる★01。今でも各地のNHKの「番組公開ライブラリー」で見ることができる。それを見た人に、後に下志津病院に看護師として務め、福嶋あき江の渡米に付き添うことになる武田恵津子がいる。

 「自分を必要としてくれる場所、空間、そういうものを必要とした時期に、NHKの高野君のドキュメンタリーを見たんですね。高校の二年のときでした。それで、看護婦になろうと思って聖路加の看護学科に進学したんです。[…]
 なぜ筋ジスだったのか? ドキュメンタリーを見たときは高校生で、それがなんであるか調べようという気もなく、不治の病気にめげずにがんばっている、っていう印象だったんです。[…]/その番組には、高野君だけでなく、彼の先輩ですでに亡くなった人の声が背景に流されていたのね。その人はクリスチャンだっていうのが、ひっかかったのかもしれない。彼の言葉は今も覚えています。/「お父さん、お母さん、僕が死んでも悲しまないでください。僕は幸せでした」/たんたんと語っていました。石川〔正一〕君の文を読んでも、死を前にとても幸せそうで、安らかで。それが、やっぱりすごいショックだったんです。
 私自身、中学生のときに洗礼を受けていましたので、人の役に立つ生き方をしなければならない、と考えていました。その一方で、私のような者でも、必要としてくれる対象がほしかった。そのことで自分の存在を確認したかった。そういう志向が筋ジスへと目を向けさせたのかもしれません。」(武田[1987:173-174])

 そんな人が、数は多くはないとしても、いつもいくらかはいる。人の死生や存在価値についてその人たちは何かを得たように思う。それは否定されることではないだろう。ただ、そんな具合に、なにか達観できた人間として受けとめられるのは違うと思う本人たちもいる。ただ達観できない人も懸命であることはあって、それにも武田恵津子は、また多くの人は感じ入っている。その感じ入られ方に対してもまた反発を感じる人もいる。ただその感じ入られ方が人から「支援」を引き出すこともある。
 だからといって実際に深く関わるようになる人は少ない。ただ武田は後に映画の上映会で高野に会い、下志津病院で働き始め、そして福嶋あき江の渡米に際して一人で介助者を務める。そして二人はひどく疲労し衝突し、すっかり消耗してしまう。後述する。」

「★01 モンテカルロ国際テレビ祭ゴールデンニンフ賞(最優秀作品賞)受賞。 日本テレフィルム技術賞奨励賞受賞(撮影)。」

◆197710 『車椅子の青春』(1977)上映会〜
 石岡(茨木県)での上映会の後千葉での上映会があったということのようだ。

○高野[198412:286-287]
 「昭和五十二年十月、国立S療養所に入所していたTは、ボランティアと共に、筋ジス患者の記録映画「車椅子の青春」千葉上映会を行い、大成功をおさめました。これに自信をえた彼らは、「千葉福祉を考える会」(以下「千福会」と略す)というサークルをつくり、筋ジスを中心とした障害者問題と取△286 り組むことになりました。千福会は、合宿、車いすで街を歩く会、映画上映会、と活発に活動を重ねていきました。そのなかで、必然的に筋ジスの、(1)原因も治療法もわからない難病であること、(2)除々に身体が動かなくなり二〇歳前後で死ぬこと、(3)人生をおくる場所が療養所などに限られていることなどの問題が話し合われるようになりました。
 そしてTは「療養所でひたすら死を待つのは嫌だ。街のなかに出て自分を試せるような生活がしたい」と、本音を千福会のメンバーにぶつけていきました。けれども、小さなサークルでは手に負えない問題です。そうしているうちに、Tの心臓は弱り、二度の発作を起こしました。Tは、非常に焦ります。そのなかでTの「願い」であった「自立・街のなかでの生活」が、彼の「人生の目標そのもの」に変化していきました。
 しかし、自立と言っても障害の進んだ筋ジス患者は、トイレ、入浴はもちろん、夜間の寝返りまで二四時間の介助体制が必要です。また、発熱や心臓発作などの緊急時の医療体制もつくらねばなりま一せん。ましてや、末期に及んだTにたいして、親や療養所は退所を許すでしょうか。解決しなければならない課題は、山債みされていました。けれども、具体策がなくTはますます焦っていきました。」

○白江[2002:235-236]
 「高野君は高校を卒業後、東京にある大学の通信課程に籍を置いたことがあった。
 夏に行われるスクーリングは、学生だったお兄さんがずっと付き添った。
 それを二年間続けた。しかし、体力的に続かなかったのだろう。それ以来スクーリングにも参加していない。
 映画「車椅子の青春」と高野君が出会ったのは、ちょうどその頃である。
 お兄さんとも相談して、石岡上映を準備し、実行した。何ができるのか、悩んでいた頃のことである。
 実行委員長になり、友達や仲間が参加して行われた。結果は、市民会館が満員(二、〇〇〇名近い)になる大盛況だった。
 この時、山田富也と高野君は出会った。△235
 その後、冒頭で申し上げた千葉上映も成功させた。
 それから程なくだった。
 一九八一年九月に高野君が病院を出て、アパートでの暮らしを始めた、と聞いた。」(白江[2002:235-236])

 「山田富也にあこがれ、ありのまま舎の連動に興味をもち、干葉市で行われた映画「車椅子の青春」の上映会では、実行委員長を務めてくれた。
 入院中の病院内から準備を進めるということで、様々な問題を抱えていた。
 しかし、高野君たちは、それを超えていくこともこの上映運動の意義と位置付けていた。
 高野君には、人を引き付ける不思義な力△217 があった。実行委員のメンバーも高野君には一目置いているように見えた。
 リーダーとして、頼もしさを感じた。
 上映会の後、私は彼の勧めもあって、病院内で一泊させて頂いた。
 当然私のべッドなどないわけで、ぺッドサイドの床には、新聞紙が敷かれ、その上にはどこで調達してきたのか、布団とマットレスが敷いてあった。
 どうやら、ナースの中にも理解者がいるようで、彼らの運動を心援してくれているという。
 その夜、遅くまで実行委員会のメンバーと話した。その中で高野君は、山田富也の行動力、ありのまま舎の活動を見ていて、自分もどのような困難があっても、やりとげたいことがある、と語っていた。
 「地域で暮らし、啓蒙運動をする」というだけで、それ以上のことは具体的には考えていなかったようだ。
 高野君の話を聞いていると、山田富也とありのまま舎を思い描きながら話しているようにさえ、聞こえた。
 その後、電話と手紙で何度か連絡をとり合ったが、彼なりに着々と準備を進めていった。△218
 しかし、周囲(家族や病院関係者)の反対は強く、なかなか退院できる状況にはならかった。
 医師は「退院したら、一年の生命だ」と告げた。」(白江[2002:217-219])

◆1980夏 豊田障害者生活センター

○高野[]
 「昭和五十五年夏、T、看護婦Mらは、千福会のメンバーで静岡の施設に就職したKの呼びかけで、静岡市豊田にある豊田障害者生活センターに体験入寮しました。ここは「共に生きる場を求めて」をスローガンに、障害者と健常者が共同生活をしながら、内職、印刷、販売などの労働と、障害者への△287 援助活動を行っているところです。Tたちは、障害者が健常者と対等に働いていること、生活保護など現行の福祉制度をすべて活用していること、介助は、ボランテイアに依頼し、不足分を共同生活者が補っていることなどを学ぴ、「自立」を具体的に考えられるようになって千葉に帰りました。
 とくに、筋ジス、CPなどの重度の人びとでも大変活発で生き生きとしている点に、感動と、やればできるんだという確信をうることができました。私たちは、静岡のこの人たちを先駆者として尊敬しており、いまでも活発に交流を行っています。」

○福嶋[1987]*
*福嶋 あき江 19871113 『二十歳もっと生きたい』(柳原和子編),草思社,222p. ISBN-10: 4794202989 ISBN-13: 978-4794202987 1365 [amazon] ※ md.,
 「「静岡に遊びにこないか?」
 久しぶりに、静岡の施設に就職した加藤祐二さんが病棟にきました。学生時代、ポランティアとして病院にきていた彼は、私たちに最新の障害者の生活、運動、行動などの情報を教えてくれる友だちです。
 「ひまわり寮っていうのがあってね、筋ジスの人が一人、脳性麻痺が二人、それに健常の独身者が一人、一所帯の家族が一緒に生活しているんだ」
 彼の話に、いつも私たちは夢をふくらませまず。
 七月の終わり、太陽が照りつける日、私たちは新幹線で静岡を訪ねました。静岡駅には、車椅子用のエレべーターがありません。四人のボランティアで、四人の電動車椅子を運ぶのは重労働です。駅員さんが手伝ってくれました。
 数日間滞在し、彼らの暮らしぷりを見せてもらいました。
 「内職や駐車場の管理料で、生活費は間に合うんですか?」△106
 「健常者なら、もっと安定した割りのいい職業があるんじゃないかな?」
「同じ屋根の下で、四六時中一緒では、息が詰まって、険悪な関係になったりしませんか?」
 思いつく限りの質問をしました。しかし、彼らは屈託なく笑うだけです。
 「やってあげたいんじゃないもの。やりたいからやっているんだから」
 そこには、障害者の周辺にありがちな悲壮感や、気負いがありません。
 「僕たちの病気は進行性なので、末期には特別な医療を必要とします。そのとき、地域の医療体制は十分なのでしょうか?」
 高野君の筋ジスに関する知識は医者も舌をまくほどです。冷静で、客観的な知識を持っていないと、正当な医療を受けられない、これが彼の患者学です。
 「施設を出たのは、畳の上で死にたいからさ。だから行動した。そんなもんだよ」
 「筋ジスは頭で考えてるだけで、なかなか行動しないんだよな。脳性麻痔は考える前に行動するけど」
 静岡から帰った高野君は、さっそく千葉福祉を考える会のメンバーとともに病院を出て、自立生活の準備にかかりました。加藤祐二さんも、ともに行動しようと施設をやめました。△107」(福嶋[1987:106-107])

◆198010-198104- 宮崎障害者生活センター

○高野[198412:288]
 「同じ五十五年十月に、Tらは、豊田障害者生活センターをモデルとした共同生活構想を千福会の会合で発表し、正式な支援が決定されました。また、共同生活者としてMとKが内定し、五十六年四月から共同生活を始めることとなりました。あとは話をすすめるだけです。
 五十六年二月、淑徳大(千葉市にある福祉系の大学)の生徒一〇数名が介助ボランティアに決まり、三月には、淑徳大の近くにアパートも借りて、準備資金づくりのカンバ活動も行いました。
 しかし、Tの親は、あくまでも反対し、Tは、四月までに退所することができませんでした。
 そのようなわけでセンターは、健常者だけの共同生活体に、Tらが療養所から外泊してくるという形で開設されました。ですから、四、五、六月は、月の半分しか障害者がいないという状態でした。この間、Tは、親の説得と医療体制づくりに努めます。」(高野[198412:288])

◆父親の反対 198109

○高野[198412:288])  「しかし、Tの親は、あくまでも反対し、Tは、四月までに退所することができませんでした。
 そのようなわけでセンターは、健常者だけの共同生活体に、Tらが療養所から外泊してくるという形で開設されました。ですから、四、五、六月は、月の半分しか障害者がいないという状態でした。この間、Tは、親の説得と医療体制づくりに努めます。
 しかし、Tの親は、あくまでも反対し、Tは、四月までに退所することができませんでした。
 そのようなわけでセンターは、健常者だけの共同生活体に、Tらが療養所から外泊してくるという形で開設されました。ですから、四、五、六月は、月の半分しか障害者がいないという状態でした。この間、Tは、親の説得と医療体制づくりに努めます。
 Tの親は「共同生活といっても善意の集まりだ。いずれ、結婚や子どもができたりという状況が起△288 こったとき、自然に崩れてしまうだろう。そんなところに息子を出せない」、また「重度の障害をもち、施設の中で育ったTに、社会的な判断力はない。Kたちが自分たちの理想のために、Tを利用しようとしているのだ」と決めつけ、医療についても、「S療養所が一番安全なのに、外に飛び出すような自殺行為をしなくてもよい」と猛烈な反対を統けます。
 しかし、Tは「親の意思ではなく、自分の意思で自分の人生を決めたい。生命体としてではなく、人間として生きたいのだ」と親の反対を突き離します。
 七月に入り、Tはまったく偶然にセンターの近くのK病院に、S療養所に勤めていた筋ジスの専門医であるH医師がいることを知り、医療面での全面協力を取り付けました。これで、Tは「自立」のためのあらゆる準備を整えたわけです。けれども親のハンコがなければ退所はできません。
 機は熟して八月三十日、Tはセンターに立てこもることを両親とS療養所に通告しました。それに告訴の手続きをとりますが、結局、「本人の意思」ということで告訴はできませんでした。その後三週間にわたって電話によるにらみあいが続きます。そして結局、療養所の外泊期限切れという状況となり、強制退所の形をとられるのを恐れた親が折れて、和解へと向かったのでした。こうして、Tは、五十六年九月十九日、S療養所を退所して、晴れてセンターでの自立生活へと入ることになりました。こうして、名実共に「宮崎障害者生活センター」となったのでした。△289」([198412:288-289])

○小林[1981:39]
 「去年〔1980年〕の六月、彼は意を決して両親に「療養所を出て共同生活をしたい」旨を伝える。父親は猛烈に反対した。その理由は明解だ。「仮に今、一緒に生活しようという者がいたにしても、それは善意でしかない。その善意が萎えた時、おまえはどうするのか。それに体のことを考えれば、退院などできるわけはない」(小林[1981:39])。

 […](以下最後まで全文)
 残る障碍は父親だけだった。もっと正確に言えば、退院の書類に押す保護者の判だけが、問題だった。医療と密接につながらざるを得ない筋ジス患者の高野さんは、「強制退院」手続きを取られて、医療からボイコットされる事態だけは極力避けたかった。
 父親との熱いたたかいは、年を越した今年の四月から、外泊限度の月二週間(国からの措置費の関係で、それ以上の外泊は認められていない)を彼はセンターで過ごした。すでに高橋さんも加藤さんも退職しセンターに詰めている。彼は焦った。
 「ここで退院できなければ、僕はもうここから出られず一生を終わるだろうと思ったんです。つの生命体としてではなく、一人の人間としての人生が、ここから出られないんだと観念した時に終わってまうんだとね。でも親父は、話を持ちだすと、頭っから「できるわけがない」「絶対だめだ」と怒鴫りだすんです。
 ドクターも「心臓がかなり弱ってるから一週間以上は出ちゃだめだ。無理をすると心不全をおこす」と言うしね。でも僕は本当の意味で生きたかったんです」
 その頃は、母も兄も妹も、彼の側についていた。「本人が一望むのだったら好きをようにさせてやりたい」と母親は言った。しかし父親は、テコでも動かない。「告訴」の二文字が父親の口をついて出たのは、七月だった。

 「おまえの話はよく分かった。しかし体のことを考えると、どうしても首をタテに振ることはできない。どうしても退院すると言うのだったら、あるべき処置を講ずる」
 「そう言ったからといって、自分の生き方を変えるわけにはいきません。自分の判断でさせてほしい」
 「おまえは十五年も施設にいて、正常な判断能力がない。周りの人聞がおまえをそそのかして、白分たちの運動の実験材料にしている。息子の生命を守るために、親としては周りの人問を排除する必要がある。そのためには告訴しなければならない。」
 「告訴するのだったら、僕はそれを受けて、やりますよ」△040
 九月十四日。病棟が工事になって仮退院をした七月十日から、もう二か月以上が経っていた。その間彼は、盆の三週間を家で過ごした以外は、センターに居座り続けていた。延ばし延ばしにしていた「強制退院」手続きも、もうこれ以上先に延ばせないという日、病院からセンターに電話がかかってきた。
 「退院後の医療についてドクターから話しがあるから来てもらえないか」両親が来ているのは分かっていたが、彼には逃げ隠れする理由はなかった。
 両親、婦長、ドクター、それに彼と加藤さんで話し合いの場が持たれた。席上、医師は「あなたは自分の体の状態が分かっているのか。あなたの心臓は、あと一年もつかもたないかなんだよ」と念を押す。
 話し合いは平行線のままだった。「このまま退院させるわけにはいかないから病院で預ってくれ」と父親が切り出した時、突然、中年の看護婦が割りこんてきた。「置いてくれと言っても、お父さんそれは困ります。こんな興奮した状態で置いていかれても、看護するのは私たちなんです。迷惑です」
 選択の範囲はせばめられていた。それならば家へ連れて帰ろうとする父親と、それを止めようとする加藤さんが、車いすの彼をはさんで揉み合った。父親の「告訴」の対象であり、かつて電話で「ばかやろう、人殺し」と怒鳴られた加藤さんである。その場に第三者がいなければ、事態はどう展開したか分からない。
 ともあれ、その場に仲裁が入り、高野さんたちはセンターに帰った。しかし同じ療養所の仲間で、センターに居続けようとしたIさんは八月、親の手で強制的に病院に連れ戻されている。彼にも「暴力的に運れていかれるのではないか」という恐怖心が常につきまとっていた。
 三日後、父親から電話がかかってくる。「センターの経済状態はどうなんだ。具体的にどれ位金がいるんだ」
 彼は一瞬、わけが分からなかった。それでも生活保護費として受け取れるだろう額を告げ、活動資金として必要な金、その獲得の方法を伝えた。
 「生活保護には絶対反対だ。親も親戚もいるんざから出せる範囲は出す」彼はこの点については妥協した。九月十九日に正式の退院手続きが取られ、親の判子が押された。
 現在、家族と親戚から月十五万円の援助がセンターに対してある。うち八万六千円を高野さんが受け取り、残額はセンターの資金として貯金されている。

 なぜ九月十四日から二、三日の聞に親父さんは変わっただろう。
 「一番最後にはね、お袋が親父に『どうしてもダメだということだったら、私が岳志の所へ行きます』と言ったんです。お袋の決心は固かった。今まで僕と親父の間に立って一番つらかったんだと思う。だから十九日はとても嬉しそうな顔してましたね」
 親父さんにも意地があるから、資金援助をすることについては、相当つらかった?
 「逆にね、自分の責任ということをずっと考えてた。医療が必要ならあくまで入院させた方がいい。でも、いったん退院を認めたんだから、自分の責任として経済的な援助する。一貫してるんですよ」
 その援助についでは、どう思ってる?
 「親の過保護でしかないんだろうけど、まあ今はしょうがいないやってとこですね」(小林[1981])

○白江[2002:226]
 「一九八一年九月に高野君が病院を出て、アパートでの暮らしを始めた、と聞いた。
 このまま病院で死にたくない。負けず嫌いの高野君にとって、どうしても受け入れ難かったのだろう。
 お父さんは、反対した。
 せっかく、最先端の医療を受けさせようと、幼い時、周囲の反対にも関わらず、入院させたことを考えると、簡単には認められなかった。
 親子の言い争いがあった。お互いに真剣だった。
 決してお父さんは認めたわけではないが、頑固で負けず嫌いの高野君も、引くわけにはいかなかった。」

◆宮崎障害者生活センター

○高野[]
二 センターの活動
(一)自立援助活動
(1)介助の保障
(2)リフト付きバスの運行
(3)ボランティアの育成
(4)情宣、啓もう活動
(二)労働活動
(1)内職・作業部門
(2)障害者の店よろず市(バザー)
(3)廃品回収
(2)野菜、卵の訪問販売
三 センターの運営
四 まとめ

○白江[2002:226-227]
 「アパート住まいを始めてから、近くの農家で野莱を仕入れ、野菜を売って、家賃の足しにした。リヤカーに野菜を乗せ、電動車椅子で引っ張り、後ろからヴォランティアが押しながら、何キロも売り歩いた。
 また、今では全国に一〇〇ケ所以上にまでなった自立生活センターを作り、障害者の自△226 立生活の支援活動も始めた。
 野菜の販売以外にも、廃品回収やバザーを行いながら資金を捻出していた。
 このころ、山田富也とも再会している。
 富也はどうすればこれほど真っ黒になれるのかと思うほど日焼けした高野君を見て、「筋ジスらしくない筋ジスだ」と言った。」

○小林[1981] 1981/10/28
 「共同生活者たち
 十二時近くになって、加藤さんが帰ってきた。夕食の酢豚と一升瓶を手に持って、どっと座りこむ。人間味というものに目鼻を付けたら、こういう顔になるのだろう。よく飲み、笑い、多弁である。彼をまじえて、センターの今のこと、これからのことを話し合った。
 舞台が設置され、役者がそろっでまだ二か月である。当面は、下志津療養所の筋ジス患者(複数)と健常者の地域に根ざした共同生活の場をめざしているが、それさえも定かなものではない。高野さんの例にあるように、家族や医療の壁が、筋ジス者の自立の前に大きく立ちはだかっているのだ。
 「先ゆきどんな形になっていくのか、今はさっぱり分からない。高野君だっていつ肺炎でぽっくりいくか分からないわけで、そういう意味ではゼロから、五や六までを考えとかなきゃいけない。でも、例えば高野岳志という人問の生きざまに、人がどう感動して集まり、どう一緒に生きていこうと思うのか。そこが基本じゃないかと思う」と加藤さん。
 彼の月給十一万円は、彼自身の言葉を借りれば「暇かできた時にね、ちよっとカネ稼ぎに行くかあってなことでカンパやったり、四十万円でフィルムを買い取った「ぼくの中の夜と朝」の上映収入、バザーや各種の催し物の水揚げから捻出されている。これさえも「先ゆきは分からない」
 さて、残る一人の共同生活者、高橋恵さんについても、とうしても触れなければならない。彼女はあいにく中国を観光旅行中で、会うことができなかったが、高野さん、加藤さんかのロから出る「高橋さん」という名前の響きには、彼女に対する二人の敬意と思いやりが、強く込められているように感じられたのだ。
 彼女は、何十人もの人間が出入りし、時には夜遅くまで語り合うこの部屋の奥に、ふすま一枚隔てた自分の生活の場を持っている。現在は下志津の看護婦を辞め、一般病院に動めているが、例え夜勤明けでもここに人がいれば話の中に加わり、部屋の掃除をし、食事を作る。「こっちでやるよって言ったって自分でやっちゃうんだ。そういう人なんだ」と加藤さんは言う。部屋の中に干した自分の下着まで皆なに見られる生活というのは、二十六歳の彼女にとって何なのか。
 「プライバシーもなく、女性としての思いやりもかけられないなかで、なおかつ彼女がここに全てを託している意味はすごく大きいなと思う。ごく普通の看護婦である彼女が、下志津での管理者としての自分を切って、障害者と健常者が二人三脚でやっているんだということを忘れちゃうと、他の人の心も集まってこないんだと思う」
 こう語る加藤さんが「現在のセンターができる起爆剤が彼女だ」と続ける時、その話にただ頷いているだけの高野さんにとっても、自立の決意を固め、親とたたかっていく過程ではたした彼女の存在の意味がどれ程大きかったかを、私は一人、勝手に合点した。

 三人の共同生活者たちの夢が何倍にも何十倍にもふくらんでいくことを、そして高野岳志の心臓の鼓動が永く世を打ち続けていくことを願いながら、翌十月二十九日の午後、私は雨の落ち始めた干葉を発った。△043

◆困難

○白江[2002:227-228]
 「アパートでの生活に問題が出始めた。学生中心のヴォランティアは、卒業したらやめていくことが多い。後輩たちが受け継ぐが、定着させるのは大変だ。また、いんなタィプの人がいて、それをまとめくいくのは本当に大変なことだった。△227
 体調も優れず、風邪を引いても十分な対応が出来なくなった。
 負けず嫌いで、頑固な高野君は弱音を吐かなかった。」

○高野[19840915:39-40]
 「「そよ風」二十号記念オメデトウゴザイマス。私は、たしか第九号三十八ぺージに登場させていただいたと記憶しております。何やら、さだまさしを男の側にグッーと引き寄せると私の顔になるとか記者氏におだてられて(ケナされて?)しまって、周囲の者からはポロクソに言われてしまいまました。「そよ風」は、ヨイショ(?)がうまいですね。その積み重ねが二十号を迎えることになったのかもと、一人勝手にうなずいております。
 「攻めに生きる」と称された私たちの運動も足かけ四年目に入りました。これがまた順調にと育って行けばよいのですが、三年目に暗礁に乗り上げ「宮崎障害者生活センター」より、健常者一名、障害者五名が分裂し新たに作業所を作るということが起こりました。障害者と健常者が「共に歩む場」をスローガンにした私達の連動ですが、障害者と健常者が同等の立場で生きて行くことの難しさを痛感しました。
 現在、センターは筋ジス者二名、CP者二名で運営されています。昨年十二月の分裂の直後は介助者もことかくありさまでしたが、全く障害者だけの主体的な組織体として、自主独立運営をすすめてゆく中で、活動も財政も地に足のいたものになって来ました。
 只今、(一)1二十四時間介肋の保障、(二)リフトバスの運行、(三)各種相談等々、障害者の自立の為△039 の援助活動と、(一)行商(電動車イスでリヤカーを引く)、(二)常設バザーよろず市、(三)廃品回収、(四)ミニコミ紙「なの花」の発行等々の労働活動を行なっており、近々障害者だけの事業所として再スタートする予定です。
 これに関して情報のある方、お知らせ下さい。」

○柳原[1987:193-198]
 「彼は下志津病院に患者自治会を創設したメンバーの一人として、初代の自治会会長を務めました。患者こそ、病気と医療の総合的な専門家である――それが彼の一見、過激にみえる行動を支える考え方です。彼はあき江さんに先がける一年前、「あと、一年しかもたない」という医師の告知にもかかわらず、下志津病院を退院。ボランティアの加藤裕二さん、看護婦の高橋恵さんらと共に千葉県千葉市宮崎町のアパートで自立生活を開始しました。
 加藤さん、高橋さんは、それぞれの職場を離れ、彼と行動を共にしたといいます。あき江さんにおける武田恵津子さんと同じです。
 しかし、彼のアパートを訪れた私がそこに見た世界は、無惨な闘いの姿でした。△193
 経済環境、やりくりのつかないボランティアの手配――何よりも病院での生活は、彼に人間と外界への期待感ばかりを膨らませ、現実生活への抗体を培かってはいなかったようです。青年たちの〈病院脱出〉〈自立生活〉の夢は、負わされ過ぎた苦労の連続で半ば壊れかけていました。
 介助、経済力の確保、センターの運営――高野君を陰になり、陽なたになって支えつづけようという加藤さんの健常者としての心労も極限にまで達していたようです。彼らが、日々相互につきつけ合う存在の重さは、二人の関係を冷酷なものにしていきつつありました。
 来日したCILのメンパーの一人、エド・ロングが咳いた言葉を思いだします。
 「障害者と障害のない者が共に生きるという夢が困難であることは、私もよく知っている。しかし、そのプロセスこそが、私たちの夢なのではないだろうか?」

 しかし、彼のアパートを訪れた私がそこに見た世界は、無惨な闘いの姿でした。△193
 経済環境、やりくりのつかないボランティアの手配――何よりも病院での生活は、彼に人間と外界への期待感ばかりを膨らませ、現実生活への抗体を培かってはいなかったようです。青年たちの〈病院脱出〉〈自立生活〉の夢は、負わされ過ぎた苦労の連続で半ば壊れかけていました。
 介助、経済力の確保、センターの運営――高野君を陰になり、陽なたになって支えつづけようという加藤さんの健常者としての心労も極限にまで達していたようです。彼らが、日々相互につきつけ合う存在の重さは、二人の関係を冷酷なものにしていきつつありました。
 来日したCILのメンパーの一人、エド・ロングが咳いた言葉を思いだします。
 「障害者と障害のない者が共に生きるという夢が困難であることは、私もよく知っている。しかし、そのプロセスこそが、私たちの夢なのではないだろうか?」

 「私があき江さんに出会った成田空港へは、高野君と一緒に行きました。途中、私たちは下志津病院に立ち寄り、彼の後輩を見舞いました。
 「どんなことがあっても、僕はこの病院には帰らないからね」
 車椅子を押す私への言葉なのか、自分自身への決意なのか。
 彼もアメリカに行きたい、と言いました。人工呼吸器つきの電動車椅子がアメリカにはある――末期の病者もそれがあれば〈普通〉の生活をしながら、死んでいける……。
 加藤裕二さんは、その後、さまざまな葛藤を経て新しい自立センターを設立しました。彼と別れた後、高野君は専従の介助者のない不安にも耐えなければなりません。介助者もなく丸一日、部屋の片隅でときを過ごした日もあったといいます。
 ただ、無惨な苦労とばかり映る彼らの生活も、基本的には人間らしさ、人間の営みの実感にはプラスに作用したようです。
 あと一年しかもたない、といわれていた高野君の生命は、病院の中のような設備のない2DKの木賃アパートの中で、人と人との感情的摩擦に囲まれながら、約三年間、長らえたのです。それは、医学的には奇跡に近い出来事だったと思われます。△197
 しかし、これは人が生きる環境とは何か、を考える上で貴重なデータだったといえないでしようか。
 そして、その後の病状の悪化。半年間、病床の彼と、加藤さんを含めたボランティアたちは病院よりも徹底した看護を、2Kのアパートに生みだそうとしました。」

◆死

○柳原[1987:198]
 「そして、その後の病状の悪化。半年間、病床の彼と、加藤さんを含めたボランティアたちは病院よりも徹底した看護を、2Kのアパートに生みだそうとしました。
 彼の死床には、アメリカ製の人工呼吸器つき電動車椅子のパンフレットが置いてあったといいます。
 それは壮絶な闘病の姿でした。
 高野岳志、二八歳。三年間の短い〈自由〉」

○白江[2002:228-229]
 「最後は病院で亡くなった。
 あの欲しがったチェストをつけていた。
 痛々しかった。
 葬儀の場に、山田富也の姿があった。
 富也は、高野君が亡くなったことを聞いで、いてもたってもいられなかった。
 仙台から石岡まで車での数時間の旅は、富也にとっても辛い道のりだったが、最後の別れをどうしてもしたかった。
 お母さんが、富也に言った。
 「富也さんの運動を見て、岳志は自分も富也さんを目指して頑張っていきたい、と言ってました。富也さんを励みに頑張っていました」と。
 富也は今も思う。
 「もっと生かしてやりたかった。せっかく・自立運動を始めて、これからどんどん輪が広がっていく予感がしていたのに、残念でならない」△228
 死後、解剖された彼の心臓には、ほとんど筋肉組織がなかった、と聞いた。」(白江[2002:228-229])

○小林 敏昭[19850315]「サヨナラ、高野岳志」,『そよ風のように街に出よう』22:35
 「高野岳志さんが昨年十二月二十七日、亡くなった。平穏だが「生かされている」病院から、困難は多いが「生きている」地域の中へ飛ぴ出して三年と三か月、進行性筋ジストロフィーは二十七歳の心臓を止めた。」

◆追悼

○小林 敏昭[19850315]「サヨナラ、高野岳志」,『そよ風のように街に出よう』22:35
 「〔1985年〕二月二日、千葉市教育会館で催された「高野岳志を慨ぶ会」には遺族や友人たち二百人を越える人々が集い、故人をなつかしみ、「共に生きる」未来を確認し合った。保育専門学院の若いボランティアは、送る言葉を語りながらついに溢れる涙をおさえることができなかったし、静岡からきた筋ジスの仲問は、故人との交遊を語る節々で何度も立往生した。彼は皆に愛されていたのである。
 「私が病院を出る時に彼は。人は幸せとか不幸せとかいう言葉を使うが、それは自分で決めることだ。一緒に歩む仲間が周りにいることが最高の幸せだ≠ニいうメッセージを贈つてくれました」(筋ジスの福島あき江さん)
 「去年、考え方の違いで別の道を歩むことになったんですが、自分にとっては一番信頼できるライパルでした……彼はいつも前を見ていました。遺った人も決して後ろを向かないで、活動を進めてほしい」(障害者生活センターを共にスタートさせた加藤裕二さん)  「岳志はとても気の強い子で、幼稚園の時に一門で待ちぶせしてクラスの子を全員なぐってしまったことがありました。動きがにぶいということで皆に相手にされないと思ったらしい…岳志が病院を出て活動を始めたことは今も反対ですが、自分の意志で懸命な生き方をしたのだと思っています(父の高野勝美さん)
 当日の会場で印象に残った言葉は全て、私が本誌九号で「攻めに生きる」と称して紹介した高野さんの体の構えを、様々な角度で再現してみせてくれた。多くの本を読み、多くの人に接し、迷い、立ち直り、それらの総体と共に灰になった個性。人の死とは、どのひとりをとっても、遅れをとった者が彼の生の総体を引き受けることなどできぬ性質のものだが、「生かされるのではなく自ら生きたし」高野さんの意志は、凡々たる日々を送る私を叱る。それは障害を持つ仲間たちに語りかけ、私と同様に「生かされている」かも知れない世の多数の人々の頭を、角々で待ちぶせしてコツンと叩き続けるのだ。(敏)
 高野さんが中心にてって発足した「宮崎障害者自立生活センター」は、障害者が中心となつて様々な「商い」をしつつ自立の拠点を作ろうとしている。彼が状態が悪くなる前にまとめた「国立療養所下志津病院志向会(注・自治会)記念誌文集翼を求めて¢謫版」を、その商いの一つとして現在発売中である。詩や散文の他、入院する筋ジスの人たちへの詳細なアンケートが収められているが、「性衝動にかられた事はありますか」「何歳まで元気でいられると思いますか」等の質問項目と解答結果は、「文集」のイメージを大きく越えている。ぜひともご一読願いたい。〈翼を求めて≠ヘA五版二七四ぺージ、九八〇円。申し込み先=〒二八〇千葉市宮崎町五四六宮埼障害者生活センター電話〇四七ニ(六六)五九六八〉」(全文)


 

◆高野 岳志 197610 「進行性筋ジストロフイーと私」,『ありのまま』2→19831125 「生と死と人生と」,山田[1983:167-174]
 ※『筋ジストロフィー症への挑戦』第七章「筋ジストロフィー症への九人の挑戦」に収録。この章の冒頭には「季刊誌『ありのまま』の中の、全国から集められた患者のおもいを紹介することにより、患者の願いや苦しみ、生活の様子をわかっていただけるのではないかと思い、抜粋しました。」(p.141)とある。初出についての記載はない。以下全文収録

 「生と死と人生と

 「私が千葉県四街道町にある国立療養所下志津病院に入所したのは、昭和四十一年六月一〇日のことでした。下志津病院は仙台の西多賀病院と並び昭和三十九年に進行性筋ジストロフィー患者収容指定を受けた所で、私は筋ジス専用病棟の建設に伴う増床によって入所したわけです。当時の私は小学三年生でしたが、入所を決める際に両親が私の意見を求めてくれたことは、今でも忘れることができません。両親が私のことを一個の尊重されるぺき人間として扱っていること、また、入所ということが如何に重要な問題を含んでいるかということを私は子供心にも感じていました。△167
 このとき、父が私に言ったことは次のような内容でした。「岳志君も良く知っていると思うけど、岳志君の病気はまだ治らない病気なんだよ。だから、日本や世界のおおぜいのお医者さんが、一生懸命に病気の冷療法の研究をしているわけだ。そこで、入院するかもしれない病院は、岳志君と同じ病気の人達を集めて、お医者さんが研究をするために、検査なしたり、投薬したり、機能訓練をしたりする所なんた。たから、治療法が発見されれば一番先に治るし、岳志君と同じ病気の人達のためにもなると思う。それに、学校たってあるんだもの、淋しいだろうけど、入院したらどうかね」これに対して私は「二、三年ならがまんできるよ。六年生くらいには、もどってこれるよね」と応えたものです。
 早いもので、あれからもう一〇年の月日が流れ去っています。私にとってこの一〇年は、どうやら、進行性筋ジストロフイー症を理解するためにだけあったような気さえします。入所当時の私は、治らない病気だということは知っていましたが、死≠ノつながる病気であることなど想像すらできませんでした。また治療法は必ず発見されて、白分の身体は健康にもどるものと信じて疑いませんでしたが、今になってみれば答は明確です。元気に歩行できた身体はもうすっかり萎え、体験的に進行性筋ジストロフィー症デュシャンヌ型を知りました。入所当時の療友は一〇〇名中一〇名足らずとなり、私が確実に知っているだけでも六〇名以上が苦悩しつつ死んで行きました。今でも私の脳裏には、一人△168 ひとりの言葉、音声、しぐさ、性格などが鮮やかに残されていて、生前を思い起こさせるのです。
 私は別れ慣れてしまって、この頃あまり、死≠ェ感じられなくなって来ていますが、妙なことに一度も最期の別れをしたことがありません。小児病棟の特性だと言ってしまえばそれまでかもしれませんが、毎口同じ屋根の下で暮らした仲問の最期の別れができないことは不自然であり、いつも未練が残されます。今ではだいぶ変わって来ましたが、四、五年前までは仲問の死≠ヘ知らされませんでしたし、ある病棟では「遣体を窓から出した」とか「強制退院させたと言った」とか、うわさが流れたことさえありました。
 今まで死≠ヘ職員の配慮によって隠されて来たのですが、私には隠すことによりかえって死≠フ陰惨さ、恐ろしさな増幅してしまっているように思えてなりません。死≠フ病である筋ジス≠考えるには死≠考えることが必然であり死≠考えることによって、はじめて現在の生≠ェ確立され人生設計≠烽ナきるものだと思います。しかし、病気の本質を隠され続けると(ほとんどの回りの人達は隠そうとする)、末期に至るまでは病気のことを考えようとしないので、自分の短い人生の認識もなく、一番重要な自分の生≠考えることもありません。したがって前向きな主体性を持つこともなく、自分に与えられた問題、たとえぱ、悲願である「病因の究明、治療法の確立」「生活の改善」「生活圏の拡大」等に取り組む姿勢も薄れてくるものと考えられます。また死期が近△169 づいたときに死≠フ受容がなかなかできないということも起こるでしょう。もっとも筋ジス≠フ難しさは他の領域をも考えなければなりませんが。
 私が体験の他に、筋ジス≠知るようになったのは、いわゆるマスコミからでした。これは、私の体験を体系づける働きをしたのです。というのは、マスコミから受けた知識が体験により実証されて行ったわけです。
 私が最初に筋ジス≠フ記述を見たのは、小学四年生のときであったと思います。それは、ある少女雑誌の中でのマンガでした。内容は進行性筋ジストロフィー症に冒された少女が、徐々に進行して行く病気との闘いの中で葛藤し、ついには死んでしまう過程を克明に描いたもので、筋ジスに関する小さな解説が付いていました。これを読んだとき私は、全く信じられずに一笑に付してしまいましたが、後になって正しいことがわかって行きました。私の内面では強烈な否認が起こっていたのです。根拠は、死んだものはいない(当時死んだ人を知らなかった)、主人公が女性である、自分は足が不自由なだけで健康であるなどの点でした。
 結局私に筋ジス≠決定的に教えたのは、中学一年生のときに出版された、西多賀病院の写真集だと記憶しています。私はこれに出会うまで筋ジス≠ニいう病気を楽観的に捉えていましたが、自分の置かれた現実を改めて思い知らされました。私達にとっては、あたりまえとなってしまっている△170 ことが、一般社会の位置づけからみると、特殊で、異常で、悲惨な状況であることがわかり、筋ジス≠ェ死≠フ病であり、狭い療養所という空間的に限られた場で、時間的に極く限られた生≠送らねばならないことを知りました。
 写真集ではカメラを通しての客観的な眼が、私達の日常を暗い陰を帯びたものとして映し出していました。寝返りさえ打てずに横たわる最重度患者の眼は、死≠ノ観念したようでいて、怨念のこもった視線を向けていました。やせ衰え骨と皮ばかりになった身体は、飢餓状態に置かれ路端に倒れ伏したアジア・アフリカ諸国の子ども達を連想させ、生命の宿りさえ感じさせない点がありました。また、退院の日を夢見て身体的苦痛に耐え貫き機能訓練に励む子ども達の姿は、最重度患者を頭に描くためか、そのあどけなさがかえって残酷さを強調しています。いくら機能訓練をしたところで進行を若干遅らせることが精一杯なのですから。そして、そこに映しだされた姿はまぎれもない私自身の姿でもあるのです。最後の解説には筋ジス≠フ詳しい説明と、筋ジス患者は収容されるだけで死≠待つだけの状態になり、能率的な研究体制も打ち出せない行政の不備が指摘されていました。
 このときには死亡患者も多く、私は筋ジス≠ェ恐ろしい病気であるという感じは抱いていましたが、いざ、既定事実を知ると死≠ノ対しての動揺がつのり、不安と恐怖の念が襲って来ました。何度も何度も目分の死≠頭の中で想定し、冷静に考えようとしたところで一向に考えはまとまらず、△171この世から自分が消滅してしまうことが、まるて他人事ででもあるかのようにしか思えず、大変無感動な状態となり、何に対しても気力が起こりません。自分が矮小化され生きている意昧さえもないように思え、生まれて来なければ良かったという思いが走りました。「何故自分は苦しまねばならないのか」「何故白分はこのような運命を背負ってこの世に存在しているのか」としだいにやり場のない怒りがこみ上げ、どうしようもない孤独感と悲しみの内に絶望の端に立たされたような思いにかられたのです。
 私はこの一〇年間、以上のようにして筋ジス≠、決定づけられた人生≠知り、療養所の中で成長して来ました。そして、現段階では経済的理由、介助者、緊急時の医療、学校教育などの点によって、私達の生活の場は療養所の他にはないことを知りました。私達は一生を療養所の中で過ごし、死んでいかなければならないのです。その意味において療養所は家庭よりもずっと大切な場所であると思います。しかし、私は療養所の中に寵もり、そこに自分達の楽園≠形成してしまってはならないと思います。療養所はあくまで国によって仮に設けられた収容所であり、本来は、私達も一般の人間と同じように、社会の中で暮らして行くことが当然なのですから。療養所の中にあっても社会の一員であるという自覚に基づき、一般社会とのつながりを強化し、声を絶やすことなく参加して行かなければなりません。△172
 今年は「国立研究所」が建設されていますが、筋ジス≠フ問題はまだやっと手がつけられたばかりです。当事者である私達は問題の解決に向かって最大限に努力する必要があるのです。「病因の究明・治療法の確立」は問題解決のための根本ですが、それと共に現在の私達の生活をよりいっそう充実したものとし、人間的な生≠送れる環境を築き上げることが最も重要なことであると思います。
 S君は「俺は患者である前に人間なんだ」という言葉を遺してこの世を去りました。ある側面から見れば短絡的であると言われるかもしれませんが、健康面で多少の影響があったとしても、タレは自分のなすべきことをしたかったのです。彼は職員を僧んでいました。しかし、最期には理解されることをあきらめていたようです。彼の口癖は「俺はいつ死んでも良い人間たから」たったのです。死≠超える生≠ネ彼は実現したかったのだと思います。彼の最期の望みは絶たれましたが、今でも彼は私の心の中に生き統けています。「良き友」彼の死≠ヘ私にとってショックでしたが、彼の生きざま≠ヘ「素晴らしい」の一語でした。彼のなずべきことは「自治の確立」「生活の向上」「筋ジス運動の推進」だったのです。
 私は自分の置かれた状況に気づくのが遅く、また、自分のなすべきことを見つけるのに、えらい回り道をしてしまいましたが、療養所の中にあっても社会人≠ナあることを忘れずに「生≠フ確立」「病因の究明・治療法の確立」を目指して進んで行くことにしています。△173
 私は死≠迎える日まで、自分自身を呪い、恨み、悩み続けるでしょうが、一瞬一瞬を大事にして掛け替えのない自分の生≠歩んで行こうと思うのです。」(全文)

◆高野 岳志 197610 「進行性筋ジストロフイーと私」,『ありのまま』2→山田・白江[2002:229-236]
 ※以下全文収録。上掲の山田『筋ジストロフィー症への挑戦』に収録されたものと同じ文章。数字の扱い、「」内の。の扱いなどがわずかに異なる。『ありのまま』掲載時の題がどちらであったかは(『ありのまま』を見ていないので)わからない。

 「進行性筋ジストロフイーと私  高野岳志

 私が千葉県四街道町にある、国立療養所下志津病院に入所したのは、昭和四十一年六月十日のことでした。下志津病院は仙台の西多賀病院と並び昭和三十九年に進行性筋ジストロフィー患者収容指定を受けた所で、私は筋ジス専用病棟の建設に伴う増床によって入所したわけです。当時の私は小学三年生でしたが、入所を決める際に両親が私の意見を求めてくれたことは、今でも忘れることができません。両親が私のことを一個の尊重されるべき人間として扱っていること、また、入所ということが如何に重要な問題を含んでいるかということを私は子供心にも感じていました。
 このとき、父が私に言ったことは次のような内容でした。「岳志君も良く知っていると思うけど、岳志君の病気はまだ治らない病気なんだよ。だから、日本や世界のおおぜいのお医者さんが、一生懸命に病気の治療法の研究をしているわけだ。そこで、入院するかもしれない病院は、岳志君と同じ病気の人達を集めて、お医者さんが研究をするために、検△229 査をしたり、投薬したり、機能訓練をしたりする所なんだ。だから、治療法が発見されれば一番先に治るし、岳志君と同じ病気の人達のためにもなると思う。それに、学校だってあるんだもの、淋しいだろうけど入院したらどうかね。」これに対して私は「二、三年ならがまんできるよ。六年生くらいにはもどってこれるよね。」と応えたものです。
 早いもので、あれからもう十年の月日が流れ去っています。私にとってこの十年は、どうやら、進行性筋ジストロフイーを理解するためにだけあったような気さえします。入所当時の私は、治らない病気だということは知っていましたが、死≠ノつながる病気であることなど想像すらできませんでした。また、治療法は必ず発見されて、自分の身体は健康にもどるものと信じて疑いませんでしたが、今になってみれば答は明確です。元気に歩行できた身体はもうすっかり萎え、体験的に進行性筋ジストロフィーデュシェンヌ型を知りました。入所当時の療友は一〇〇名中十名足らずとなり、私が確実に知っているだけでも六十名以上が苦悩しつつ死んで行きました。今でも私の脳裏には、一人一人の言葉、声、しぐさ、性格などが鮮やかに残されていて、生前を思い起こさせるのです。
 私は別れ慣れしてしまって、この頃あまり、死≠ェ感じられなくなって来ていますが、妙なことに一度も最後の別れをしたことがありません。小児病棟の特性だと言ってしまえ△230 ばそれまでかもしれませんが、毎日同じ宅屋根の下で暮らした仲間の最後の別れができないことは不自然であり、いつも未練が残されます。今ではだいぶ変わって来ましたが、四、五年前までは仲問の死≠ヘ知らされませんでしたし、ある病棟では「遺体を窓から出した。」とか「強制退院させたと言った。」とか、うわさが流れたことさえありました。
 今まで死≠ヘ職員の配慮によって隠されて来たのですが、私には隠すことによりかえって死≠フ陰惨さ、恐ろしさを増幅してしまっているように思えてなりません。死≠フ病である筋ジス≠考えるには死≠考えることが必然であり、死≠考えることによって、はじめて現在の生≠ェ確立され、人生設計≠烽ナきるものだと思います。しかし、病気の本質を隠され続けると(ほとんどの回りの人達は隠そうとする)末期に至るまでは、病気のことを考えようとしないので、自分の短い人生の認識もなく、一番重要な自分の生≠考えることもありません。したがって、前向きな主体性を持つこともなく、自分に与えられた問題、例えば、悲願である「病因の究明、治療法の確立」「生活の改善」「生活圏の拡大」等に取り組む姿勢も薄れてくるものと考えられます。また死期が近づいたときに死≠フ受容がなかなかできないということも起こるでしょう。もっとも筋ジス≠フ難しさは他の領域をも考えなければなりませんが。△231
 私が体験の他に、筋ジス≠知るようになったのは、いわゆるマスコミからでした。これは、私の体験を体系づける働きをしたのです。というのは、マスコミから受けた知識が体験により実証されていったわけです。
 私が最初に筋ジス≠フ記述を見たのは、小学四年生のときであったと思います。それは、ある少女雑誌のマンガでした。内容は進行性筋ジストロフィーに冒された少女が、徐々に進行して行く病気との闘いの中で葛藤し、ついには死んでしまう過程を克明に描いたもので、筋ジスに関する小さな解説が付いていました。これを読んだとき私は、全く信じられずに一笑に付してしまいましたが、後になって正しいことがわかっていきました。私の内面では強烈な否認が起こっていたのです。根拠は、死んだものはいない(当時死んだ人を知らなかった)、主人公が女性である、自分は足が不自由なだけで健康であるなどの点でした。
 結局私に筋ジス≠決定的に教えたのは、中学一年生のときに出版された、西多賀病院の写真集だと記憶しています。私はこれに出会うまで筋ジス≠ニいう病気を楽観的に捉えていましたが、自分の置かれた現実を改めて思い知らされました。私達にとっては、当たり前となってしまっていることが、一般社会の位置づけからみると、特殊で、異常で、△232 悲惨な状況であることがわかり、筋ジス≠ェ死≠フ病であり、狭い療養所という空問的に限られた場で、時間的に極く限られた、生≠送らねばならないことを知りました。
 写真集ではカメラを通しての客観的な眼が、私達の日常を暗い陰を帯びたものとして映し出していました。寝返りさえ打てずに横たわる最重度患者の眼は、死≠ノ観念したようでいて、怨念のこもった視線を向けていました。やせ衰え骨と皮ばかりになった身体は、飢餓状態に置かれ路端に倒れ伏したアジア・アフリカ諸国の子供等を連想させ、生命の宿りさえ感じさせない点がありました。また、退院の日を夢見て身体的苦痛に耐え貫き機能訓練に励む子供達の姿は、最重度患者を頭に描くためか、そのあどけなさがかえって残酷さを強調しています。いくら機能訓練をしたところで進行を若干遅らせることが精一杯なのですから。そして、そこに映しだされた姿はまきれもない私自身の姿でもあるのです。最後の解説には筋ジス≠フ詳しい説明と、筋ジス患者は収容されるだけで、死≠待つだけの状態にあり、能率的な研究体制も打ち出せない行政の不備が指摘されていました。
 このときには死亡患者も多く、私は筋ジス≠ェ恐ろしい病気であるという感じは抱いていましたが、いざ、既定事実を知ると死≠ノ対しての動揺がつのり、不安と恐怖の念が襲って来ました。何度も何度も自分の死≠頭の中で想定し、冷静に考えようとした△233 ところで一向に考えはまとまらず、この世から自分が消滅してしまうことが、まるで他人事ででもあるかのようにしか思えず、大変無感動な状態となり、何に対しても気力が起こりません。自分が矮小化され生きている意味さえもないように思え、生まれて来なければ良かったという思いが走りました。「何故自分は苦しまねばならないのか。」「何故自分はこのような運命を背負ってこの世に存在しているのか。」としだいにやり場のない怒りがこみ上げ、どうしようもない孤独感と悲しみの内に絶望の端に立たされたような思いにかられたのです。
 私はこの十年間、以上のようにして筋ジス≠、決定づけられた人生≠知り、療養所の中で成長して来ました。そして、現段階では経済的理由、介助者、緊急時の医療、学校教育などの点によって、私達の生活の場は療養所の他にはないことを知りました。私達は一生を療養所の中で過ごし、死んでいかなければならないのです。その意味において療養所は家庭よりももっと大切な場所であると思います。しかし、私は療養所の中に寵り、そこに自分達の楽園≠形成してしまってはならないと思います。療養所はあくまでも国によって仮に設けられた収容所であり、本来は、私達も一般の人間と同じように、社会の中で暮らして行くことが当然なのですから。療養所の中にあっても社会の一員であると△234 いう自覚に基づき、一般社会とのつながりを強化し、声を絶やすことなく参加して行かなければをりません。
 今年は「国立研究所」が建設されていますが、筋ジス≠フ問題はまだやっと手がつけられたばかりです。当時〔ママ〕者である私達は問題の解決に向って最大限に努力する必要があるのです。「病因の究明・治療法の確立」は問題解決のための根本ですが、それと共に現在の私達の生活をよりいっそう充実したものとし、人間的な生≠送れる環境を築き上げることが最も重要なことであると思います。
 S君は「俺は患者である前に人間なんだ。」という言葉を残してこの世を去りました。ある側面からみれば短絡的だと言われるかもしれませんが、健康面において多少の影響があったとしても、彼は自分のなすべきことをしたかったのです。彼は職員を憎んでいました。しかし、最後には理解されることをあきらめていたようです。彼は自分の病状を知りすぎる程、良く知っていました。彼の口癖は「俺はいつ死んでも良い人間だから。」だったのです。死≠越える生≠彼は実現したかったのだと思います。彼の最後の望みは絶たれましたが、今でも彼は心の中に生き続けてします。「良き友」の死≠ヘ私にとってショックでしたが、彼の生きざま≠ヘは「素晴らしい」の一語でした。彼のな△235 すべきことは「自治の確立」「生活の向上」「筋ジス運動の推進」だったのです。
 私は自分の置かれた状況に気づくのが遅く、また、自分のなすべきことを見つけるのに、えらい回り道をしてしまいましたが、療養所の中にあっても社会人≠ナあることを忘れずに「生≠フ確立」「病因の究明・治療法の確立」を目指して進んで行くことにしています。
 私は死≠迎える日まで、自分自身を呪い、恨み、悩み続けるでしょうが、一瞬々々を大事にして掛け替えのない自分の生≠歩んで行こうと思うのです。

                     〜ありのまま 第二号より〜
                     (一九七六年十月発行)」(全文)

■小林 敏昭 1981 「攻めに生きる――高野岳志と共同生活者たち」,『そよ風のように街に出よう』9:38-43

 「筋ジスのベッドが百床に増床されたので入らないかと保健所から話があった。父は「この病気は治らないけれども、いろんな先生が研究しているから、入院していれば一番早く治せる。養護学校が棟続きで建っているから、通学に苦労しなくていい」と息子に話して聞かせたという。」(小林[1981:39])

 「父から「治らない病気」と言われても、それは足の病気だと思っていた彼が、仙台の西多賀病院の写真集を手にしたのは中学一年の時だった。そこには、筋ジス患者の多くは二十歳までに死んでいくこと、この病気の研究費として国からは一千万円しか出ていないこと、病棟生活は患者にとって人生そのものだから、内容を改善していかなければならないこと等が書いてあった。/「ショックでしたねえ。」」(小林[1981:39]◎)

 「去年の六月、彼は意を決して両親に「療養所を出て共同生活をしたい」旨を伝える。父親は猛烈に反対した。その理由は明解だ。「仮に今、一緒に生活しようという者がいたにしても、それは善意でしかない。その善意が萎えた時、おまえはどうするのか。それに体のことを考えれば、退院などできるわけはない」(小林[1981:39])。

 […](以下最後まで全文)
 残る障碍は父親だけだった。もっと正確に言えば、退院の書類に押す保護者の判だけが、問題だった。医療と密接につながらざるを得ない筋ジス患者の高野さんは、「強制退院」手続きを取られて、医療からボイコットされる事態だけは極力避けたかった。
 父親との熱いたたかいは、年を越した今年の四月から、外泊限度の月二週間(国からの措置費の関係で、それ以上の外泊は認められていない)を彼はセンターで過ごした。すでに高橋さんも加藤さんも退職しセンターに詰めている。彼は焦った。
 「ここで退院できなければ、僕はもうここから出られず一生を終わるだろうと思ったんです。一つの生命体としてではなく、一人の人間としての人生が、ここから出られないんだと観念した時に終わってまうんだとね。でも親父は、話を持ちだすと、頭っから「できるわけがない」「絶対だめだ」と怒鴫りだすんです。
 ドクターも「心臓がかなり弱ってるから一週間以上は出ちゃだめだ。無理をすると心不全をおこす」と言うしね。でも僕は本当の意味で生きたかったんです。攻めの生き方をしたかったんです」
 その頃は、母も兄も妹も、彼の側についていた。「本人が望むのだったら好きをようにさせてやりたい」と母親は言った。しかし父親は、テコでも動かない。「告訴」の二文字が父親の口をついて出たのは、七月だった。

 「おまえの話はよく分かった。しかし体のことを考えると、どうしても首をタテに振ることはできない。どうしても退院すると言うのだったら、あるべき処置を講ずる」
 「そう言ったからといって、自分の生き方を変えるわけにはいきません。自分の判断でさせてほしい」
 「おまえは十五年も施設にいて、正常な判断能力がない。周りの人聞がおまえをそそのかして、自分たちの運動の実験材料にしている。息子の生命を守るために、親としては周りの人問を排除する必要がある。そのためには告訴しなければならない。」
 「告訴するのだったら、僕はそれを受けて、やりますよ」△040
 九月十四日。病棟が工事になって仮退院をした七月十日から、もう二か月以上が経っていた。その間彼は、盆の三週間を家で過ごした以外は、センターに居座り続けていた。延ばし延ばしにしていた「強制退院」手続きも、もうこれ以上先に延ばせないという日、病院からセンターに電話がかかってきた。
 「退院後の医療についてドクターから話しがあるから来てもらえないか」両親が来ているのは分かっていたが、彼には逃げ隠れする理由はなかった。
 両親、婦長、ドクター、それに彼と加藤さんで話し合いの場が持たれた。席上、医師は「あなたは自分の体の状態が分かっているのか。あなたの心臓は、あと一年もつかもたないかなんだよ」と念を押す。
 話し合いは平行線のままだった。「このまま退院させるわけにはいかないから病院で預ってくれ」と父親が切り出した時、突然、中年の看護婦が割りこんてきた。「置いてくれと言っても、お父さんそれは困ります。こんな興奮した状態で置いていかれても、看護するのは私たちなんです。迷惑です」
 選択の範囲はせばめられていた。それならば家へ連れて帰ろうとする父親と、それを止めようとする加藤さんが、車いすの彼をはさんで揉み合った。父親の「告訴」の対象であり、かつて電話で「ばかやろう、人殺し」と怒鳴られた加藤さんである。その場に第三者がいなければ、事憩はどう展開したか分からない。
 ともあれ、その場に仲裁が入り、高野さんたちはセンターに帰った。しかし同じ療養所の仲間で、センターに居続けようとしたIさんは八月、親の手で強制的に病院に連れ戻されている。彼にも「暴力的に運れていかれるのではないか」という恐怖心が常につきまとっていた。
 三日後、父親から電話がかかってくる。「センターの経済状態はどうなんだ。具体的にどれ位金がいるんだ」
 彼は一瞬、わけが分からなかった。それでも生活保護費として受け取れるだろう額を告げ、活動資金として必要な金、その獲得の方法を伝えた。
 「生活保護には絶対反対だ。親も親戚もいるんざから出せる範囲は出す」彼はこの点については妥協した。九月十九日に正式の退院手続きが取られ、親の判子が押された。
 現在、家族と親戚から月十五万円の援助がセンターに対してある。うち八万六千円を高軒さんが受け取り、残額はセンターの資金として貯金されている。

 なぜ九月十四日から二、三日の聞に親父さんは変わっただろう。
 「一番最後にはね、お袋が親父に『どうしてもダメだということだったら、私が岳志の所へ行きます』と言ったんです。お袋の決心は固かった。今まで僕と親父の間に立って一番つらかったんだと思う。だから十九日はとても嬉しそうな顔してましたね」
 親父さんにも意地があるから、資金援助をすることについては、相当つらかった?
 「逆にね、自分の責任ということをずっと考えてた。医療が必要ならあくまで入院させこ方がいい。でも、いったん退院を認めたんだから、自分の責任として経済的な援助する。一貫してるんですよ」
 その援助についでは、どう思ってる?
 「親の過保護でしかないんだろうけど、まあ今はしょうがいないやってとこですね」

 共同生活者たち
 十二時近くになって、加藤さんが帰ってきた。夕食の酢豚と一升瓶を手に持って、どっと座りこむ。人間味というものに目鼻を付けたら、こういう顔になるのだろう。よく飲み、笑い、多弁である。彼をまじえて、センターの今のこと、これからのことを話し合った。
 舞台が設置され、役者がそろっでまだ二か月である。当面は、下志津療養所の筋ジス患者(複数)と健常者の地域に根ざした共同生活の場をめざしているが、それさえも定かなものではない。高野さんの例にあるように、家族や医療の壁が、筋ジス者の自立の前に大きく立ちはだかっているのだ。
 「先ゆきどんな形になっていくのか、今はさっぱり分からない。高野君だっていつ肺炎でぽっくりいくか分からないわけで、そういう意味ではゼロから、五や六までを考えとかなきゃいけない。でも、例えば高野岳志という人問の生きざまに、人がどう感動して集まり、どう一緒に生きていこうと思うのか。そこが基本じゃないかと思う」と加藤さん。
 彼の月給十一万円は、彼自身の言葉を借りれば「暇かできた時にね、ちよっとカネ稼ぎに行くかあってなことでカンパやったり、四十万円でフィルムを買い取った「ぼくの中の夜と朝」の上映収入、バザーや各種の催し物の水揚げから捻出されている。これさえも「先ゆきは分からない」
 さて、残る一人の共同生活者、高橋恵さんについても、とうしても触れなければならない。彼女はあいにく中国を観光旅行中で、会うことができなかったが、高野さん、加藤さんかのロから出る「高橋さん」という名前の響きには、彼女に対する二人の敬意と思いやりが、強く込められているように感じられたのだ。
 彼女は、何十人もの人間が出入りし、時には夜遅くまで語り合うこの部屋の奥に、ふすま一枚隔てた自分の生活の場を持っている。現在は下志津の看護婦を辞め、一般病院に動めているが、例え夜勤明けでもここに人がいれば話の中に加わり、部屋の掃除をし、食事を作る。「こっちでやるよって言ったって自分でやっちゃうんだ。そういう人なんだ」と加藤さんは言う。部屋の中に干した自分の下着まで皆なに見られる生活というのは、二十六歳の彼女にとって何なのか。
 「プライバシーもなく、女性としての思いやりもかけられないなかで、なおかつ彼女がここに全てを託している意味はすごく大きいなと思う。ごく普通の看護婦である彼女が、下志津での管理者としての自分を切って、障害者と健常者が二人三脚でやっているんだということを忘れちゃうと、他の人の心も集まってこないんだと思う」
 こう語る加藤さんが「現在のセンターができる起爆剤が彼女だ」と続ける時、その話にただ頷いているだけの高野さんにとっても、自立の決意を固め、親とたたかっていく過程ではたした彼女の存在の意味がどれ程大きかったかを、私は一人、勝手に合点した。

 三人の共同生活者たちの夢が何倍にも何十倍にもふくらんでいくことを、そして高野岳志の心臓の鼓動が永く世を打ち続けていくことを願いながら、翌十月二十九日の午後、私は雨の落ち始めた干葉を発った。△043

■高野 岳志 1984 「街のなかに生きるために――宮崎障害者生活センターの実践」
 仲村・板山編[84:286-296]*
*仲村 優一・板山 賢治 編 1984 『自立生活への道』,全国社会福祉協議会,317p. ※

第六章 街のなかに生きるために――宮崎障害者生活センターの実践

 国際障害者年の昭和五十六年四月、重度の進行性筋ジストロフイー(以下「筋ジス」と略す)患者T、看護婦M、元施設職貝Kの三名が、なんの変哲もないアパートを借りて、共同生活を始めることとなりました。そして、障害者が宮崎町という地域に根付いて生きられるように、生きるためのセンターになるようにとの願いを込めて「宮埼障害者圭活センター」(以下「センター」と略す)と名付けました。
 それから二年半、センターでは障害者一〇数名、健常者二名のスタッフが、ポランテイアや地域住民に支えられて「障害者の自立と社会参加を求めて」活動をすすめています。

一 目立への取り組み

 昭和五十二年十月、国立S療養所に入所していたTは、ボランティアと共に、筋ジス患者の記録映画「車椅子の青春」千葉上映会を行い、大成功をおさめました。これに自信をえた彼らは、「千葉福祉を考える会」(以下「千福会」と略す)というサークルをつくり、筋ジスを中心とした障害者問題と取△286 り組むことになりました。千福会は、合宿、車いすで街を歩く会、映画上映会、と活発に活動を重ねていきました。そのなかで、必然的に筋ジスの、(1)原因も治療法もわからない難病であること、(2)除々に身体が動かなくなり二〇歳前後で死ぬこと、(3)人生をおくる場所が療養所などに限られていることなどの問題が話し合われるようになりました。
 そしてTは「療養所でひたすら死を待つのは嫌だ。街のなかに出て自分を試せるような生活がしたい」と、本音を千福会のメンバーにぶつけていきました。けれども、小さなサークルでは手に負えない問題です。そうしているうちに、Tの心臓は弱り、二度の発作を起こしました。Tは、非常に焦ります。そのなかでTの「願い」であった「自立・街のなかでの生活」が、彼の「人生の目標そのもの」に変化していきました。
 しかし、自立と言っても障害の進んだ筋ジス患者は、トイレ、入浴はもちろん、夜間の寝返りまで二四時間の介助体制が必要です。また、発熱や心臓発作などの緊急時の医療体制もつくらねばなりま一せん。ましてや、末期に及んだTにたいして、親や療養所は退所を許すでしょうか。解決しなければならない課題は、山債みされていました。けれども、具体策がなくTはますます焦っていきました。
 昭和五十五年夏、T、看護婦Mらは、千福会のメンバーで静岡の施設に就職したKの呼ぴかけで、静岡市豊田にある豊田障害者生活センターに体験入寮しました。ここは「共に生きる場を求めて」をスローガンに、障害者と健常者が共同生活をしながら、内職、印刷、販売などの労働と、障害者への△287 援助活動を行っているところです。Tたちは、障害者が健常者と対等に働いていること、生活保護など現行の福祉制度をすぺて活用していること、介助は、ボランテイアに依頼し、不足分を共同生活者が補っていることなどを学ぴ、「自立」を具体的に考えられるようになって千葉に帰りました。
 とくに、筋ジス、CPなどの重度の人びとでも大変活発で生き生きとしている点に、感動と、やればできるんだという確信をうることができました。私たちは、静岡のこの人たちを先駆者として尊敬しており、いまでも活発に交流を行っています。
 同じ五十五年十月に、Tらは、豊田障害者生活センターをモデルとした共同生活構想を千福会の会合で発表し、正式な支援が決定されました。また、共同生活者としてMとKが内定し、五十六年四月から共同生活を始めることとなりました。あとは話をすすめるだけです。
 五十六年二月、淑徳大(千葉市にある福祉系の大学)の生徒一〇数名が介助ボランティアに決まり、三月には、淑徳大の近くにアパートも借りて、準備資金づくりのカンバ活動も行いました。
 しかし、Tの親は、あくまでも反対し、Tは、四月までに退所することができませんでした。
 そのようなわけでセンターは、健常者だけの共同生活体に、Tらが療養所から外泊してくるという形で開設されました。ですから、四、五、六月は、月の半分しか障害者がいないという状態でした。この間、Tは、親の説得と医療体制づくりに努めます。
 Tの親は「共同生活といっても善意の集まりだ。いずれ、結婚や子どもができたりという状況が起△288 こったとき、自然に崩れてしまうだろう。そんなところに息子を出せない」、また「重度の障害をもち、施設の中で育ったTに、社会的な判断力はない。Kたちが自分たちの理想のために、Tを利用しようとしているのだ」と決めつけ、医療についても、「S療養所が一番安全なのに、外に飛び出すような自殺行為をしなくてもよい」と猛烈な反対を統けます。
 しかし、Tは「規の意思ではなく、自分の意思で自分の人生を決めたい。生命体としてではなく、人間として生きたいのだ」と親の反対を突き離します。
 七月に入り、Tはまったく偶然にセンターの近くのK病院に、S療養所に勤めていた筋ジスの専門医であるH医師がいることを知り、医療面での全面協力を取り付けました。これで、Tは「自立」のためのあらゆる準備を整えたわけです。けれども親のハンコがなければ退所はできません。
 機は熟して八月三十日、Tはセンターに立てこもることを両親とS療養所に通告しました。それに告訴の手続きをとりますが、結局、「本人の意思」ということで告訴はできませんでした。その後三週間にわたって電話によるにらみあいが続きます。そして結局、療養所の外泊期限切れという状況となり、強制退所の形をとられるのを恐れた親が折れて、和解へと向かったのでした。こうして、Tは、五十六年九月十九日、S療養所を退所して、晴れてセンターでの自立生活へと入ることになりました。こうして、名実共に「宮崎障害者生活センター」となったのでした。△289

二 センターの活動
(一)自立援助活動
(1)介助の保障
(2)リフト付きバスの運行
(3)ボランティアの育成
(4)情宣、啓もう活動
(二)労働活動
(1)内職・作業部門
(2)障害者の店よろず市(バザー)
(3)廃品回収
(2)野菜、卵の訪問販売
三 センターの運営
四 まとめ

■高野 岳志 19840915 「(『そよ風』二十号に)」,『そよ風のように街に出よう』20:39-40

 「「そよ風」二十号記念オメデトウゴザイマス。私は、たしか第九号三十八ぺージに登場させていただいたと記憶しております。何やら、さだまさしを男の側にグッーと引き寄せると私の顔になるとか記者氏におだてられて(ケナされて?)しまって、周囲の者からはポロクソに言われてしまいまました。「そよ風」は、ヨイショ(?)がうまいですね。その積み重ねが二十号を迎えることになったのかもと、一人勝手にうなずいております。
 「攻めに生きる」と称された私たちの運動も足かけ四年目に入りました。これがまた順調にと育って行けばよいのですが、三年目に暗礁に乗り上げ「宮崎障害者生活センター」より、健常者一名、障害者五名が分裂し新たに作業所を作るということが起こりました。障害者と健常者が「共に歩む場」をスローガンにした私達の連動ですが、障害者と健常者が同等の立場で生きて行くことの難しさを痛感しました。
 現在、センターは筋ジス者二名、CP者二名で運営されています。昨年十二月の分裂の直後は介助者もことかくありさまでしたが、全く障害者だけの主体的な組織体として、自主独立運営をすすめてゆく中で、活動も財政も地に足のいたものになって来ました。
 只今、(一)1二十四時間介肋の保障、(二)リフトバスの運行、(三)各種相談等々、障害者の自立の為△039 の援助活動と、(一)行商(電動車イスでリヤカーを引く)、(二)常設バザーよろず市、(三)廃品回収、(四)ミニコミ紙「なの花」の発行等々の労働活動を行なっており、近々障害者だけの事業所として再スタートする予定です。
 これに関して情報のある方、お知らせ下さい。」(全文)

■柳原 和子 1987 「弔辞というエビローグー」,福嶋[1987:187-210]*
福嶋 あき江 19871113 『二十歳もっと生きたい』,草思社,222p.

 「伊藤先生は、彼のもう一人の教え子、高野岳志君を紹介してくれました。高野岳志という青年の名前は、あき江さんの日記、メモ、原稿の随所に登場します。彼女の青春を考える上で、その考え方、理論、行動のすべてにわたって大きな影響を及ぼしたと考えられます。
 彼は下志津病院に患者自治会を創設したメンバーの一人として、初代の自治会会長を務めました。患者こそ、病気と医療の総合的な専門家である――それが彼の一見、過激にみえる行動を支える考え方です。彼はあき江さんに先がける一年前、「あと、一年しかもたない」という医師の告知にもかかわらず、下志津病院を退院。ボランティアの加藤裕二さん、看護婦の高橋恵さんらと共に千葉県千葉市宮崎町のアパートで自立生活を開始しました。
 加藤さん、高橋さんは、それぞれの職場を離れ、彼と行動を共にしたといいます。あき江さんにおける武田恵津子さんと同じです。
 しかし、彼のアパートを訪れた私がそこに見た世界は、無惨な闘いの姿でした。△193
 経済環境、やりくりのつかないボランティアの手配――何よりも病院での生活は、彼に人間と外界への期待感ばかりを膨らませ、現実生活への抗体を培かってはいなかったようです。青年たちの〈病院脱出〉〈自立生活〉の夢は、負わされ過ぎた苦労の連続で半ば壊れかけていました。
 介助、経済力の確保、センターの運営――高野君を陰になり、陽なたになって支えつづけようという加藤さんの健常者としての心労も極限にまで達していたようです。彼らが、日々相互につきつけ合う存在の重さは、二人の関係を冷酷なものにしていきつつありました。
 来日したCILのメンパーの一人、エド・ロングが咳いた言葉を思いだします。
 「障害者と障害のない者が共に生きるという夢が困難であることは、私もよく知っている。しかし、そのプロセスこそが、私たちの夢なのではないだろうか?」

 しかし、彼のアパートを訪れた私がそこに見た世界は、無惨な闘いの姿でした。△193
 経済環境、やりくりのつかないボランティアの手配――何よりも病院での生活は、彼に人間と外界への期待感ばかりを膨らませ、現実生活への抗体を培かってはいなかったようです。青年たちの〈病院脱出〉〈自立生活〉の夢は、負わされ過ぎた苦労の連続で半ば壊れかけていました。
 介助、経済力の確保、センターの運営――高野君を陰になり、陽なたになって支えつづけようという加藤さんの健常者としての心労も極限にまで達していたようです。彼らが、日々相互につきつけ合う存在の重さは、二人の関係を冷酷なものにしていきつつありました。
 来日したCILのメンパーの一人、エド・ロングが咳いた言葉を思いだします。
 「障害者と障害のない者が共に生きるという夢が困難であることは、私もよく知っている。しかし、そのプロセスこそが、私たちの夢なのではないだろうか?」

 「私があき江さんに出会った成田空港へは、高野君と一緒に行きました。途中、私たちは下志津病院に立ち寄り、彼の後輩を見舞いました。
 「どんなことがあっても、僕はこの病院には帰らないからね」
 車椅子を押す私への言葉なのか、自分自身への決意なのか。
 彼もアメリカに行きたい、と言いました。人工呼吸器つきの電動車椅子がアメリカにはある――末期の病者もそれがあれば〈普通〉の生活をしながら、死んでいける……。
 加藤裕二さんは、その後、さまざまな葛藤を経て新しい自立センターを設立しました。彼と別れた後、高野君は専従の介助者のない不安にも耐えなければなりません。介助者もなく丸一日、部屋の片隅でときを過ごした日もあったといいます。
 ただ、無惨な苦労とばかり映る彼らの生活も、基本的には人間らしさ、人間の営みの実感にはプラスに作用したようです。
 あと一年しかもたない、といわれていた高野君の生命は、病院の中のような設備のない2DKの木賃アパートの中で、人と人との感情的摩擦に囲まれながら、約三年間、長らえたのです。それは、医学的には奇跡に近い出来事だったと思われます。△197
 しかし、これは人が生きる環境とは何か、を考える上で貴重なデータだったといえないでしようか。
 そして、その後の病状の悪化。半年間、病床の彼と、加藤さんを含めたボランティアたちは病院よりも徹底した看護を、2Kのアパートに生みだそうとしました。
 彼の死床には、アメリカ製の人工呼吸器つき電動車椅子のパンフレットが置いてあったといいます。
 それは壮絶な闘病の姿でした。
 高野岳志、二八歳。三年間の短い〈自由〉」

■小林 敏昭 19850315 「サヨナラ、高野岳志」,『そよ風のように街に出よう』22:35

 「高野岳志さんが昨年十二月二十七日、亡くなった。平穏だが「生かされている」病院から、困難は多いが「生きている」地域の中へ飛ぴ出して三年と三か月、進行性筋ジストロフィーは二十七歳の心臓を止めた。
 二月二日、千葉市教育会館で催された「高野岳志を慨ぶ会」には遺族や友人たち二百人を越える人々が集い、故人をなつかしみ、「共に生きる」未来を確認し合った。保育専門学院の若いボランティアは、送る言葉を語りながらついに溢れる涙をおさえることができなかったし、静岡からきた筋ジスの仲問は、故人との交遊を語る節々で何度も立往生した。彼は皆に愛されていたのである。
 「私が病院を出る時に彼は。人は幸せとか不幸せとかいう言葉を使うが、それは自分で決めることだ。一緒に歩む仲間が周りにいることが最高の幸せだ≠ニいうメッセージを贈つてくれました」(筋ジスの福島あき江さん)
 「去年、考え方の違いで別の道を歩むことになったんですが、自分にとっては一番信頼できるライパルでした……彼はいつも前を見ていました。遺った人も決して後ろを向かないで、活動を進めてほしい」(障害者生活センターを共にスタートさせた加藤裕二さん)  「岳志はとても気の強い子で、幼稚園の時に一門で待ちぶせしてクラスの子を全員なぐってしまったことがありました。動きがにぶいということで皆に相手にされないと思ったらしい…岳志が病院を出て活動を始めたことは今も反対ですが、自分の意志で懸命な生き方をしたのだと思っています(父の高野勝美さん)
 当日の会場で印象に残った言葉は全て、私が本誌九号で「攻めに生きる」と称して紹介した高野さんの体の構えを、様々な角度で再現してみせてくれた。多くの本を読み、多くの人に接し、迷い、立ち直り、それらの総体と共に灰になった個性。人の死とは、どのひとりをとっても、遅れをとった者が彼の生の総体を引き受けることなどできぬ性質のものだが、「生かされるのではなく自ら生きたし」高野さんの意志は、凡々たる日々を送る私を叱る。それは障害を持つ仲間たちに語りかけ、私と同様に「生かされている」かも知れない世の多数の人々の頭を、角々で待ちぶせしてコツンと叩き続けるのだ。(敏)
 高野さんが中心にてって発足した「宮崎障害者自立生活センター」は、障害者が中心となつて様々な「商い」をしつつ自立の拠点を作ろうとしている。彼が状態が悪くなる前にまとめた「国立療養所下志津病院志向会(注・自治会)記念誌文集翼を求めて¢謫版」を、その商いの一つとして現在発売中である。詩や散文の他、入院する筋ジスの人たちへの詳細なアンケートが収められているが、「性衝動にかられた事はありますか」「何歳まで元気でいられると思いますか」等の質問項目と解答結果は、「文集」のイメージを大きく越えている。ぜひともご一読願いたい。〈翼を求めて≠ヘA五版二七四ぺージ、九八〇円。申し込み先=〒二八〇千葉市宮崎町五四六宮埼障害者生活センター電話〇四七ニ(六六)五九六八〉」(全文)

◆白江浩 20020212 「筋ジストロフィー患者として生きる」,山田・白江[2002:129-319]

 「第五節 高野岳志(たかのたけし)

 一九八四年十三月二十七日、高野岳志君が亡くなった。
 その翌日、山田富也から私の自宅に電話が入り「高野君が亡くなった」と告げられた。
 山田富也にあこがれ、ありのまま舎の連動に興味をもち、干葉市で行われた映画「車椅子の青春」の上映会では、実行委員長を務めてくれた。
 入院中の病院内から準備を進めるということで、様々な問題を抱えていた。
 しかし、高野君たちは、それを超えていくこともこの上映運動の意義と位置付けていた。
 高野君には、人を引き付ける不思義な力△217 があった。実行委員のメンバーも高野君には一目置いているように見えた。
 リーダーとして、頼もしさを感じた。
 上映会の後、私は彼の勧めもあって、病院内で一泊させて頂いた。
 当然私のべッドなどないわけで、ぺッドサイドの床には、新聞紙が敷かれ、その上にはどこで調達してきたのか、布団とマットレスが敷いてあった。
 どうやら、ナースの中にも理解者がいるようで、彼らの運動を心援してくれているという。
 その夜、遅くまで実行委貝会のメンバーと話した。その中で高野君は、山田富也の行動力、ありのまま舎の活動を見ていて、自分もどのような困難があっても、やりとげたいことがある、と語っていた。
 「地域で暮らし、啓蒙運動をする」というだけで、それ以上のことは具体的には考えていなかったようだ。
 高野君の話を聞いていると、山田富也とありのまま舎を思い描きながら話しているようにさえ、聞こえた。
 その後、電話と手紙で何度か連絡をとり合ったが、彼なりに着々と準備を進めていった。△218
 しかし、周囲(家族や病院関係者)の反対は強く,なかなか退院できる状況にはならかった。
 医師は「退院したら、一年の生命だ」と告げた。
 しかし、のちに高野君は言った。
 「退院したらあと一年の生命だ、なんて言われたけど、あのまま病院にいたら、それこそ一年の生命だったと思う」
 その頃ようやく聞こえ始めたアメリカ自立生活運動(IL)に呼応するように、高野君は動き始めた。
 IL関係の集会や講演会の場に、よく顔を出していて、そこで何度か高野君と出会った。
 高野君は山田富也にすこぶる似ていた。風貌ではない。その考え方、行動様式が、である。
 頑固であること。信じた道を必ず実現しようとすること。周囲は無謀と見ても、本人はいたって楽観的であること。そういうと神経の図太さと雑把な人問を連想する方もいるだろう。
 しかしその実、繊細な神経と、綿密な計質ができている、という点も似ていた。△219
 病院のべッドサイドで語り合った思い出、上映会をやり切った姿、自立生活運動に傾倒していった在りし日が思い出される。

 一九五七年六月六日。東京で高野君は生まれた。
 ようやく歩き始めた頃、ご両親は転びやすい高野君を見て、その異変に気づき始めていた。
 その後も、転ぶ回数が増え、生まれた病院で診てもらった。
 その結果「筋ジストロフイー」と診断された。
 おなかを突き出し、踵を上げ、つま先立って立って歩く様は、典型的な筋ジスの特徴だった。
 その風貌が西郷隆盛に似ていたので、「西郷さん」と呼ばれたことr
 四歳の頃、茨城県の石岡市に引っ越した。
 小学校は石岡市の普通小学校に入学した。
 お兄さんとで歩いて通った。
 この頃から、歩行が難しくなってきた。
 ランドセルを背負って、歩くことが大変になってきていた。
 ある夏休みのことだった。△220
 高野君は、お兄さんが近所ど野球をしているところにやってきて、仲間に入れろ、と訴えた。
 何とか歩くことはできても、野球が出来る状態ではなかった。
 しかし、高野君ばお兄さんに「自分がボールを打つから、代わりに兄貴が走れ」と言った。
 友だちも最初はそれを受け入れてくれた。
 しかし、球拾いも出来なくなった高野君の要求は、次第に拒否されるようになった。
 そんなある日、高野君はひょこひょこホームべースまでやってきで、突然おしっこをし始めたことがあった。
 仲間に入れてもらえず、自分をアピールしたかったようだ。
 そんな高野君を見ていて、ご両親は、難病だから、少しでも最先端の医療を受けさせたい、と思った。そこで、西多賀病院と並んで日本では早くから筋ジス患者を受け入れた、千葉県四街道にある国立療養所下志津病院に入院させることを決断した。△221
 高野君が小学校三年生の時だった。
 まだ、筋ジスのこともよく知られていなかったために、余計に入院させることへの理解が浅かったのだと思う。
 入院後は、病院に併設されていた養護学校に通った。
 仲間もできた。またI先生と出会い、様々なことを学んだ。
 勉強にも励んだ。
 高野君は中学三年生の時、お兄さんと一緒にアマチュア無線四級の免許を取った。
 その後I先生の尽力で機材を揃えてもらい、無線クラブを作るなど、活動は広がった。
 無線は今で言えば、パソコン通信(電子メール)同様、外部の人たちとのつながりを持つ、数少ない手段だった。中学・高校というのは、苦しみ・楽しみも共にもっとも多感な頃であり、活発に活動する時期でもある。又、人生の進路に悩む時でもある。
 そんな時に、筋ジス患者はもっとも進行著しく、十八歳で高校を卒業した後に寝たきりとなり、二十歳前後で亡くなることが、当時としてはパターンであった。△222
 その事実を、仲問の死を通して、患者たちも否応なく承知していた。
 高野君は自分はそうはなりたくない、と思いながらも、日々矢われていく自由と機能を実感せざるを得なかった。生きたいと思いつつ、残された時問を計り、何ができるのか、高野君の中にも、将来への焦りが強くなってきた。
 そんな中学二年生の時だった。NHKのド牛ュメント番組で、筋ジスについて取り上げたいと、病院に申し出があった。病名もあまり知られておらず、どちらかというと、その頃は病院に隔離されたイメージが強かった。
 そんな状況下で、骨と皮になった肉体をさらけ出すことに、何の意味があるんだ。病院側は難色を示した。
 そこで、NHKでは、ひとりひとり、本人や家族に聞き取りを行った。
 その時の高野君の答はこうだった。
 「病院がかわいそうだとか、情けをかけてやろうとか、そういう番組なら嫌です」
 NHKがどういう意図で、この番組をを企画したのかは分からないが、高野君の発言に対△223 して、少なからぬ興味を示した。
 そして、高野君の意思を受け入れ、高野君を中心にした、番組を構成した。ご両親にも了承をとり、撮影はスタートした。
 毎日のリハビリ訓練の様子を中心に撮影は進んだ。
 多くの患者が諦めて、訓練をしていなかったが、高野君は少しでも、鍛えて進行を抑えたいと考えていた。
 その様子をカメラは追った。
 三十分のドキュメント番組「ある生の記録」が放映されると、反響は大きかった。
 こんな病気があるのか。視聴者から寄せられる反響に対し、NHKでは、再度高野君のその後を追った番組を作ることにした。高校一年生の時だった。この時の番組の内容は、たとえ短い人生であっても、やりたいことに夢中になって取り組む生き様、表情を伝えた。この番組はヨーロツパで短編のドキュメンタリーとして、高い評価を受け、最優秀賞を受賞した。△224
 テレビを見た人が、筋ジストの子供たちを支援したいと、ヴォランティアとして、病院に来ることが急に増えたと言う。恋もした。看護婦さんだった。本気で結婚も考えていたようだ。

 ところで、高野君は高校を卒業後、東京にある大学の通信課程に籍を置いたことがあった。
 夏に行われるスクーリングは、学生だったお兄さんがずっと付き添った。
 それを二年間続けた。しかし、体力的に続かなかったのだろう。それ以来スクーリングにも参加していない。
 映画「車椅子の青春」と高野君が出会ったのは、ちょうどその頃である。
 お兄さんとも相談して、石岡上映を準備し、実行した。何ができるのか、悩んでいた頃のことである。
 実行委員長になり、友達や仲間が参加して行われた。結果は、市民会館が満員(二、〇〇〇名近い)になる大盛況だった。
 この時、山田富也と高野君は出会った。△235
 その後、冒頭で申し上げた千葉上映も成功させた。
 それから程なくだった。
 一九八一年九月に高野君が病院を出て、アパートでの暮らしを始めた、と聞いた。
 このまま病院で死にたくない。負けず嫌いの高野君にとって、どうしても受け入れ難かったのだろう。
 お父さんは、反対した。
 せっかく、最先端の医療を受けさせようと、幼い時、周囲の反対にも関わらず、入院させたことを考えると、簡単には認められなかった。
 親子の言い争いがあった。お互いに真剣だった。
 決してお父さんは認めたわけではないが、頑固で負けず嫌いの高野君も、引くわけにはいかなかった。
 アパート住まいを始めてから、近くの農家で野莱を仕入れ、野菜を売って、家賃の足しにした。リヤカーに野菜を乗せ、電動車椅子で引っ張り、後ろからヴォランティアが押しながら、何キロも売り歩いた。
 また、今では全国に一〇〇ケ所以上にまでなった自立生活センターを作り、障害者の自△226 立生活の支援活動も始めた。
 野菜の販売以外にも、廃品回収やバザーを行いながら資金を捻出していた。
 このころ、山田富也とも再会している。
 富也はどうすればこれほど真っ黒になれるのかと思うほど日焼けした高野君を見て、「筋ジスらしくない筋ジスだ」と言った。
 いつだったか、高野君はお父さんとヴォランティアさんとで、青年の翼でハワイに行ったことがあった。
 それがきっかけどうか分からないが、アメリカの筋ジス事情をよく勉強していた。
 その時、人工呼吸器「チェスト」(第二節の中島さんで紹介した)を見て、欲しがった。
 呼吸が苦しくなっていたのだろうか。
 しかし、高価なものだったので、手にいれることは叶わなかった。
 アパートでの生活に問題が出始めた。学生中心のヴォランティアは、卒業したらやめていくことが多い。後輩たちが受け継ぐが、定着させるのは大変だ。また、いんなタィプの人がいて、それをまとめくいくのは本当に大変なことだった。△227
 体調も優れず、風邪を引いても十分な対応が出来なくなった。
 負けず嫌いで、頑固な高野君は弱音を吐かなかった。
 最後は病院で亡くなった。
 あの欲しがったチェストをつけていた。
 痛々しかった。
 葬儀の場に、山田富也の姿があった。
 富也は、高野君が亡くなったことを聞いで、いてもたってもいられなかった。
 仙台から石岡まで車での数時間の旅は、富也にとっても辛い道のりだったが、最後の別れをどうしてもしたかった。
 お母さんが、富也に言った。
 「富也さんの運動を見て、岳志は自分も富也さんを目指して頑張っていきたい、と言ってました。富也さんを励みに頑張っていました」と。
 富也は今も思う。
 「もっと生かしてゃりたかった。せっかく・自立運動を始めて、これからどんどん輪が広がっていく予感がしていたのに、残念でならない」△228
 死後、解剖された彼の心臓には、ほとんど筋肉組織がなかった、と聞いた。」(この節の白江の執筆部分の全文)


『現代思想』2016年2月号 特集:老後崩壊――下流老人・老老格差・孤独死…・表紙   『現代思想』2016年3月号 特集:3・11以後の社会運動・表紙

◆立岩 真也 2016/02/01 「国立療養所/筋ジストロフィー――生の現代のために・9 連載 120」『現代思想』44-3(2016-2):14-25

 「六四年、先記したように国立西多賀療養所と国立療養所下志津病院に各二〇ベッドの専門病床を設けるとしたのに対して、予想を超えた希望が殺到し、九道府県の九施設に一〇〇床を置くことにする。そして六五年、国立療養所に限って児童福祉法の育成医療制度が適用される。六七年国立療養所のベッド数は五八〇床★06。  そして六八年、国立西多賀療養所に初めての筋ジストロフィー専門病棟ができる。。そしてこの年、山田富也がここに入院することになる。このようにして個人史と制度の変遷の一部が重なっている。  その本人たちの本が出るのが七〇年代の前半以降になる。それらから、そこがどんなところであったのか、いくらかを知ることができる。政策が始まってから一〇年経ってはいない。その時期、幼い時に入所した人たちが一〇代や二十代で書いた文章が現れるのだ。  あらためてあるいは初めて、二〇〜三〇年以上前の文章にあたってみると、私がなんとなく思っていたのと異なり、その人の生年が私(一九六〇年生)とさほど変わらないことに気づく。そのことを最初に思ったのは後出の『こんな夜更けにバナナかよ』(渡辺[2003])の主人公・鹿野靖明が五九年の生まれであることをその本で知った時だ。私は八〇年代の後半、つまり約三〇年前にその人の文章を読んではいた。だが年が一つしか違わないことに気づかなかった。そして鹿野はわりあい長く生きたが、そうでない人たちもいる。とくに八〇年代初頭の文章がだいぶあり、それらを私が読む機会を得たことには当時の障害者政策・運動に関わる事情があることは後述するが、その時私が「大人」だと思って読んだその人たちの多くは、大学院生だった私とたいして年の変わらない人だった。山田三兄弟に加え、例えば次のような人たち――以下一年異なる可能性がある、わかりしだい訂正する。  渡辺正直(一九五四〜二〇一二・五九歳)、石川正一(一九五五〜・一九七八・二三歳)、阿部恭嗣(一九五五〜二〇〇八・五三歳)、高野岳志(一九五七〜一九八四・二七歳)、福嶋あき江(一九五八〜八九年・二九歳)、鹿野靖明(一九五九〜二〇〇二・四二歳)、轟木敏秀(一九六二〜一九九八・三六歳)。これらの人たちの書いたものと行動について次回以降紹介していく。  ちなみに渡辺、高野、福嶋は千葉県の下志津病院、鹿野は北海道の八雲病院、轟木は鹿児島県の南九州病院――いずれも国立療養所(現在は独立行政法人国立病院機構◯◯病院)――に入院し、ある時期に退院した、あるいは死ぬまでを暮らしてた。」

◆立岩 真也 2016/03/01 「生の現代のために・10(予告) 連載 121」『現代思想』44-(2016-3):-

2017/05/12 「筋ジストロフィーについて、本人たちの運動は困難だった。その例外の一つが仙台の「ありのまま舎」だった。それはようやく二〇歳を超える人たちがいて、可能になった部分がある。そしてその生起には、七〇年頃の学生運動の関係もすこしばかりはあったことを山田富也が証言している。病棟の自治会運動から始まったその運動は、やがて皇族他の著名人も味方につけてのよく知られる動きになっていく。その活動は出版と、そして「ケア付住宅」の運動に向かう。一九八〇年代において身体障害者の運動があって作られたケア付住宅――今は「グループホーム」という言葉の方が通りがよいはずだ――建設の動きとして比較的知られているのは、東京青い芝の会によって作られた「八王子自立ホーム」、札幌いちご会が運動してできた北海道営のケア付き住宅、そして仙台のありのまま舎だった。
 各々にそれらを作ろうとするもっともな理由があった。しかし苦労して実現したそれらは、かけた労力に比して、得られたものの少ないものであったと私は考えている。そして実際そのことをそれを先頭に立って推進して実現させ本人(山田富也)が語っている文章もある。そして、前回紹介した鹿野靖明は札幌のケア付き住宅建設運動に加わり、そこに入居できたのだが、うまくいかず、一人で暮らすことになった人だった。
 筋ジストロフィーに限れば、これらと関係しつつも、すこし異なるところを目指す運動は一九八〇年代初頭に始まる。そしてそれは、私が知る少数の事例についていえば、七〇年代の運動の「過激」な部分を引き継ぐというよりは、八一年の「国際障害者年」を機会に来日して講演などしそれが紹介された米国の運動の影響をより大きく受けたと言えるかもしれない。
 ここでは一人だけをあげておく。高野岳志(一九五七〜一九八四)という人がいた。その人は八一年の九月、千葉の国立療養所下志津病院国立療養所を出て、「自立」しようとした。名称だけということであれば、「自立生活センター」を名乗ったのは、彼が千葉市中央区宮崎にこの年に設立した「宮崎自立生活センター」が日本で最初であったかもしれない。『リハビリテーション』という雑誌に書いた文章(高野[1983])がある。また、当時、一時的に行政と協調路線をとった青い芝の会他の人たちと当時障害福祉課長だった板山賢一という厚労省の官僚とが作った研究会から出版された『自立生活への道』という本に文章も書いている(高野[1984])。山田富也の著書、「ありのまま舎」が出した本にも文章を寄せている。ただその人は八四年に亡くなってしまう。実質的には一人の人を支援するものとして設立された組織は少なくないのだが、それは、亡くなってしまえばまた終わりになるということでもある。
 そんなことがありながら、[…]」

 ※「宮崎障害者生活センター」なので上の記述は正確でない。

◆立岩 真也 2017/05/01 「高野岳志/以前――生の現代のために・21 連載・133」,『現代思想』45-(2017-5):-
◆2017/06/01 「高野岳志――生の現代のために・22 連載・134」,『現代思想』45-(2017-6):-

◆立岩 真也 2017 『(題名未定)』,青土社


UP:20160204 REV:20161001, 20170220,0404,07,13, 0511,12,13,18
筋ジストロフィー  ◇病者障害者運動史研究  ◇自立生活センター  ◇自立生活/自立生活運動  ◇「難病」  ◇WHO
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