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「書評 熊谷晋一郎著 『リハビリの夜』」

田島 明子 20110430 『障害学研究』7,366-378p.

last update:20110801

1.はじめに
 本書は、「脳性まひ」によって生まれながらの「重い身体障害」を持つ筆者が、子供の頃のリハビリテーションにおける経験等を振り返りつつ、自らの身体を通して立ち上がる実感を言葉にすることによって、これまで自らの身体を「障害」と一言で片付けられ、自立や回復、あるいは正常を目指すべきと見做されてきたことへの強烈な拒否表明(むしろ本書の語り口は分析的で抑制的ではある)と、そうした眼差され方を否定し、もっと別様の、自らの身体の息づかいを丁寧に紐解いている、それこそ渾身の作品である。筆者の言葉では、次のように表現されている。

 「「脳性まひ」だとか「障害」という言葉を使った説明は、なんだかわかったような気にさせる力を持っているが、体験としての内実が伝わっているわけではない。もっと、私が体験していることをありありと再現してくれるような、そして読者がそれを読んだときに、うっすらとでも転倒する私を追体験してもらえるような、そんな説明が欲しいのだ。つまり、あなたを道連れに転倒したいのである」(p22)

 そうした意味において、本書は、「障害」に対してそうした見方を色濃く持っているリハビリテーション学に対する強烈な批判が、まずは大きく含まれていると見てよいだろう。私は、作業療法士というリハビリテーションの一業種を仕事としつつ、リハビリテーション学やその実践について障害学的な観点から批判をするという立ち位置を取ってきたので、評者として選定されたのだろうと理解している。
 そこで本書評では、リハビリテーション(さらに、私の専門である作業療法)という観点を中心として、本書のリハビリテーション学における影響力の斬新さ、また、リハビリテーションをする側の立場からの批判的観点、更に筆者に考えてほしい、記述してほしいと思う私からの要望を述べたいと思う。

2.本書の概要
 最初に、本書の全体の構成と内容を確認しておきたい。
 本書は、序章から始まり、第1章から第6章で成り立っている。各章のタイトルを見ると、第1章が「「脳性まひ」という体験」、第2章が「トレイナーとトレイ二ー」、第3章が「リハビリの夜」、第4章が「耽り」、第5章が「動きの誕生」、第6章が「隙間に「自由」が宿る――もうひとつの発達論」となっている。
 第1章の「「脳性まひ」という体験」では、「身体内協応構造」「内部モデル」というモチーフを用いながら、「脳性まひ」という身体に特有の現象である身体の「緊張」や、「折りたたみナイフ現象」等について筆者独自の解釈を行なったり、あるいは、多数派の身体に囲まれた少数派の身体を持つという特殊な状況から生じると思われる身体の動きのシミュレーションの特異性についても触れられたりしている。1つずつ説明していこう。
 まず、「身体内協応構造」「内部モデル」というのは聞きなれない言葉だが、次のようなことを意味している。「身体内協応構造」とは、ロシアの運動生理学者であるベルシュタインによるものだそうだが(p38)、例えば、「歩く」という行動を思い起こしてほしい。私たちは、その行為に伴う筋活動のいちいちを頭の中で組み立てながら歩いているわけではない。つまり、「たくさんある筋肉同士がある程度自発的に、互いの緊張ぐあいを拘束しあう」(p38)ような「横の連携」(p38)を持つことで、歩行という協調的で自然な動作が生成されているのである。この「横の連携」が「身体内協応構造」と呼ばれるものである。「内部モデル」は、「脳の中にある身体や外界についての「うつしえ」」(p31)と表現されている。再び「歩行」を例に取ると、私たちは「歩く」という行為以前に、すでに「歩く」という行為の運動シミュレーションを脳内で作りあげているというのである。実際の「歩く」という動作は、その「内部モデル」の追体験に過ぎないと言う。しかしだからこそ、私たちは、何の気になしに目的地に向かって「歩く」という行為を日常的に繰り返すことができているのかも知れない。
 そして、筆者は「脳性まひ」の身体に生じる「緊張」を「過剰な身体内協応構造」(p40)と解釈する。筆者の日常的な身体の動きを振り返っても、「個々の筋肉の緊張ぐあいがそれぞれ分節しておらず、ある部位を動かそうとすると、他の部位も一緒に動いてしまう実感」(p40)があるからだ。しかし一方で、「折りたたみナイフ現象」という「緊張」がほどける現象も生じる。これは、施術者が緊張した筋肉をその抵抗力に逆らって伸ばし続けると、ある時、すとんとその抵抗力が消えて緊張がほぐれる現象である。身を持って体感する筆者は、その現象を「[…]折りたたみナイフ現象においては、大きな力がいくぶん乱暴に過剰な身体内協応構造をほどくことで、緊張が抜けていく。このとき私の身体は、協応構造以前の多自由度なぐにゃぐにゃとした身体になり、相手の身体のフォルムに合うように屈曲率が変わるのである。それは、過剰な身体内協応構造をほどかれることによってあそびができ、私の身体が他者の身体になじんでいくことが可能になる瞬間であり、そこに快楽がある」(p46)と表現する。
 また、筆者は2つの「内部モデル」を持っているという。1つは「健常者の動き」をシミュレートとする仮想的内部モデルで、もう1つが、等身大の自分の体をシミュレートする内部モデルである(p32)。本来であれば自分の体の内部モデルが出来上がればよいはずである。なぜ「健常者の動き」の仮想的内部モデルも持ち合わせたかと言えば、幼い頃から目に飛び込んでくる多くの身体の動きが「健常者の動き」であったことが影響している(p49)。しかも周囲やリハビリテーションは、筆者に「健常者の動き」を実行できるように要請してきたので、筆者は長い間、自分の体の内部モデルが未完のままとなってしまった(p32)。
 第2章の「トレイナーとトレイ二ー」では、筆者自身のリハビリテーションの経験から、リハビリをする側とされる側の関係性とそれから織りなされる筆者自身の身体感受によって、3つの特徴的な関わり(関わられ)方を抽出している。それは次の3つである(p68)。

(A) 互いの動きを≪ほどきつつ拾い合う関係≫
(B) 運動目標をめぐって≪まなざし/まなざされる関係≫
(C) 私の体が発する信号を拾わずに介入される≪加害/被害関係≫

 ≪ほどきつつ拾い合う関係≫では、先に述べた「折りたたみナイフ現象」にも似た身体の緊張をほどかれる快楽が伴う。筆者が経験したリハビリテーション過程では、セッション前半のストレッチがそれに相当する。そしてこの関係では、互いに「相手の動きを想像的に取り込む作業」(p75)を行い合うことから、複眼的な互いのまなざしが融和的に調和している状態と捉える。
 一方、≪まなざし/まなざされる関係≫は、ストレッチを行い身体に「あそび」ができた後に「健常な動き」に仕向けようとされる過程で生じる。リハビリをする側はストレッチで生じた「あそび」を「健常な動き」に変換する主体性を筆者に求めるが、それはリハビリをする側への従属を同時に意味したと筆者は回顧する(p70)。だから、身体のみならず、努力の仕方や注意の向け方などの内面までもがリハビリをする側によって監視されており、しかもうまくできない責任はリハビリをされる側に担わされる。その焦りが、かえって身体内協応構造を強めることになり、リハビリの目的は成功しないばかりか、等身大の自分の動きまでも奪う結果に繋がっていることの問題の大きさを筆者は指摘する(p70)。
 ≪加害/被害関係≫は、≪まなざし/まなざされる関係≫の暴走性とみなしうる。「健常な動き」を引き出そうとした介入の後、リハビリをする側にとって思うような動きが得られなかった時のストレッチである。それは、思い通りの形にならない筆者の身体に対して粘土細工を正しい形にするように物理的に介入する、リハビリをする側の苛立ちの表出でもある(p66)。そこにあるのは、筆者にとって「強靭な腕力を持った他者として私の体に力を振るう」(p67)暴力的存在であり、「痛みと怯えと怒り」(p67)であった。そして、そのような暴力的過程は、「私にとって無関係なモノとして体のパーツを見捨てていくプロセス」(p76)であり、「腕や、足や、腰を、私の体から切り離してトレイナーという他者へ譲り渡す」(p67)ことになり、自らの統一性を見失うプロセスと化す。 第3章、第4章では、本書全体を通低して重要なエッセンスである「敗北の官能」が過去の記憶の映像とともに映し出されるとともに、規範を軸にした行為の変貌が「敗北の官能」を誘うプロセスとして描写される。例えば次のような場面が紹介される。
 小学校で移動の介助を受けた時、力に自信のある重量感のある女子が、戯れに「歩く練習をしようか」と筆者に声をかけ、床に足がつくすれすれまで体を降し、「はい、右足を出して」と始めた(p119)。その時、筆者は、「この大きな身体に我が身をあずけ、その命令に動きをゆだねたら、どんなに気持ちがいいだろう」(p119)と感じる。そして、「[…]力の入らない体を命じられたままに動かす。うまく動かせないことはわかっている。うまく動かせないからこそ、そこに敗北の官能が生じる。だからうまく動かせないことに期待を膨らませつつ、私は命じられたままに右足を前に出そうとするのだ。私のつたない動きに女子が痺れを切らし、仕方ないなとばかりに抱え上げるのを心待ちにしながら」(p119)。
 「敗北の官能」とは、「健常な動き」といった規範を一時は担おうとする身体が、それを否応なく放棄し(させられ)、規範から逸れてほどかれた身体が、他者によって拾われることによってもたらされる感覚だという(p127)。第2章の関係性で見るなら、≪ほどきつつ拾い合う関係≫に他ならない。
 第5章では、「私」固有の動きが環境や他者とのどのような関わりから生まれたのかについて触れられ、「私の動き」が生存するための要素について考察を加えている。
 筆者は、大学入学後に一人暮らしをするまで、「自分はなにができて何ができないのかさえ正確に知らなかった」(p154)が、一人暮らしをするようになり、日常的な様々なモノや人との交渉を繰り返すなかで、「私の身体の輪郭」(p158)、「等身大の内部モデル」(p158)が徐々にくっきりとしてきたという。
 例えば、トイレ。多数派の動きを手本にできない筆者にとって、筆者の体のありように反映した形でトイレの特徴を学び、手探りで運動や表象イメージの分節化を立ち上げることによって「私の動き」を獲得することになった。特徴として、「教師なし学習」(p158)、「つながり→内部モデルの習得」(p161)を挙げて、リハビリテーションにおける運動獲得と対照化している。リハビリテーションは、「教師あり学習」「内部モデルの習得→つながり」を特徴としており、「健常の動き」を規範としてそれに同化することを要求するが、「教師なし学習」「つながり→内部モデルの習得」は、「手探りで新たな分節化を立ち上げる独創的」(p159)な学習方法であり、リハビリテーションの方法論の真逆ではないかと捉える。
 もう一例は、研修医時代の採血である。(一年目はそうではなかったが)二年目の研修先では、「融和的なまなざし」で筆者の動きを拾う同僚の存在があり、チームワークとも言える運動の連鎖によって採血が行えたという。筆者はそれを「身体外協応構造」と表現し、そこには、筆者の指先のわずかな動きに呼応してその意味を拾い上げる他者とともに、≪ほどきつつ拾い合う関係≫があったという。
 そして、「私の動き」が生き続けるためのいくつかの要素を挙げる。1つは、「大枠の目標設定」(p186)とすること。結果オーライとするなら、施行錯誤が許され、あそびのなかで運動規範を超えたオリジナルな動きが生まれやすい。2つめは、「敗北の官能を拾い合う」(p187)こと。例え目標達成に失敗したとしても、互いの身体に開かれる悦びを優先する心性こそに協応構造が生み落とされる。3つめは、「規範の多重性を持ちあう」(p193)こと。筆者は、介助を受ける少数派の身体を持つ者として、オリジナルな運動規範だけでなく、多数派の運動規範をキープすることが生きるための必要条件であり、また、一方的に規範を押し付ける同化的な≪加害/被害関係≫に陥らないための必須条件ともする。
 第6章では、協応構造の「隙間」、いわば、自分の身体内、あるいは、人やモノとの「つながれなさ」の意味が再構成されている。それは言い換えれば、未発達であるとか不適応と表現される事態でもある。しかし、「つながれなさ」「隙間」に遭遇するからこそ、交渉を必要とする他者へ開かれるからこそ、そこに新たなつながりと、私にとっての世界の意味が立ち現れるのだ(p232)、と筆者はいう。そして、「他者とのつながりがほどけ、ていねいに結びなおし、またほどけ、という反復を積み重ねるごとに、関係はより細かく分節化され、深まっていく」(p232-233)、その過程を「発達」と再定義する。 再定義した「発達」は、「衰え」という、発達とは逆行するかに見える過程とも重複することを指摘して、筆者は本書を締めくくっている。その一文を紹介しよう。

 「衰えは、ある意味では「敗北」を意味する。これまでなしえていたこと、享受できていたことの多くができなくなってしまうことは、当然ながら幾ばくかの痛みを伴う出来事である。しかし、それは同時に許しでもあるのだ。一人で立つ自分を失う一方で、一人で立てなくなったわが身が世界との拾い拾われる関係を取り戻すような、つながりの回復でもあるのだ。そのような回復過程に目を向けたとき、衰えは必ずしも恐怖や不安や悲しみの色だけでなく、開かれてつながっていくような官能を伴うものになっていくだろう」(p235)

3.リハビリテーション学における影響力の斬新さ
 以上が本書の全体像であるが、筆者自身の身体にまつわるこれまでの関係性の特徴の分節化と「私の動き」の獲得の過程の記述を通して、リハビリテーションの目指す方向性の功罪が見事に抉出されていることがわかる。
 端的に言えば、「目指す方向性」とは「「健常者の動き」に同化させようとする身体への働きかけ」のことであり、その「功罪」とは、リハビリテーションは本来的に「動き」の創発を目指しているにも関わらず、その前提となる「等身大の内部モデル」の生成を見逃し、「私の動き」の獲得に向けて、すっかり軌道を外してしまっていることである。
 しかも、そうした働きかけの内には、≪加害/被害関係≫に至るほどの暴力性が常に/既に胚胎しており、そのように変転した関係性からは、もはや「健常者の動き」どころか痛みや、怯え・怒りという悲痛な感情、自らの統一性の喪失しか産み落とさないというわけであるから、リハビリテーションの功罪は極めて重いと言わざるを得ないことになる。
 こうした自らの身体性より立ち上る関係論から捉えたリハビリテーションに対する批判は、リハビリテーション学の構築手法にまで浸潤して大きな揺さぶりをかける影響力を持っていると考える。
 現行のリハビリテーション学では、科学的であることを重視し、治療展開に客観的根拠を求める傾向が強いため、個別的・体験的・主観的な記述のなされた研究は学問的な発展に影響を与えづらい状況にあると言って間違いはない。 そうした状況において、本書におけるリハビリテーションついての批判的言説は、これまで自立能力や機能の向上のための方法論とその効果を客観的に捉えることに重点を置き、それを当然に良いとしてきたリハビリテーション学に対して、筆者一身の身体から反論を行ったという性質のものである。つまり、「効果なし」と身体を位置付けるその科学性・客観性は、そのように私の身体を位置付け、私の身体の緊張を増すばかりで、結局、「私の動き」を拾えなかったし、拾おうともしなかったではないか、そもそも、「私の動き」を引き出すことがリハビリテーションの目的ではなかったのかとして、個別的・体験的・主観的な意味世界から既存の学問構築のための信念にまでその批判性を突いているのである。そのような意味において、本書はリハビリテーション学を震撼とさせる一書であると捉えることができるだろう。

4.批判的観点
 しかしながら、リハビリテーションをする側の経験から照らしてみて、いくつかの批判的な観点も浮かぶ。次はその点について述べたいと思う。
 1点目は、本書では、リハビリテーションを、「「健常者の動き」に同化させようとする身体への働きかけ」を行なうものとして位置づけているが、そうした側面があることは無論認めるが、それだけかという疑問である。
 例えば、筆者の行動範囲や移動能力を飛躍的に拡げた電動車いすだったが(p165)、そうした機器の開発にもリハビリテーションは関与するし、身体とモノとの微調整の部分にもリハビリテーションは関わっている。リハビリテーション従事者は、身体と電動車いすの接続機能を持つジョイスティックを、乗る人の身体特性が最も生かされる形に補正することも仕事としているのである。 類似した例として、作業療法士の仕事領域としても自助具と呼ばれるものがある。これもジョイスティックの補正と同じような介入視点を持つものといえる。具体的には、少し離れた物品を取るためのリーチャー、腰を曲げて靴下を履くことが難しい人のためにそれを助けるためのソックスエイド、手指の操作性や筋力を補助するためのバネ箸等々、自助具と呼ばれるものは様々ある。市販の自助具を必要な人にマッチングさせたり、あるいは手作りでその人に適合したものを作成したりすることは、作業療法士の仕事の1つである。
 リハビリテーションには、大きく分けて「回復アプローチ」と「代償アプローチ」という2つのアプローチ法があるが、本書での指摘は「回復アプローチ」、上に述べた介入視点は「代償アプローチ」に分類できるかも知れない。もちろん、この「代償アプローチ」にしても、うまく行く時もあれば、うまく行かない時もある。しかし、この働きかけの視点が≪まなざし/まなざされる関係≫とは異質であることは確かではないだろうか。健常者の運動規範を逸れた対象者の身体性を拾いあげ、それに適合させてモノの変容を図ろうというのであるから、むしろ、≪ほどきつつ拾い合う関係≫に近似しているのかもしれない。
 したがって、本書をリハビリテーションへの批判の書として読む限りでは、リハビリテーションの一側面を、リハビリテーションの全体像として強調して記述している印象を受けたので、それは本書の主張の偏りを示すものではないかと考えた。
 2点目は、運動目標をめぐる≪まなざし/まなざされる関係≫の否定が本書でなされているが、その関係が、事実、いかに規律的であり、加害に発展しかねないものであったとしても、リハビリを受ける個人しだいでその意味は変容すると思われるので、筆者の指摘がリハビリテーションの関係論として一般化が可能かどうかという疑問であり、それから派性して、その否定が現実世界で対応可能かという疑問である。
 まず、運動目標をめぐってリハビリテーションという関わりを求める人が少なくないことがリハビリテーションを社会的に機能させる原動力にもなっているだろうと想像するのである。
 筆者が指摘するように、こうした人々の発動性も、世の中の規律化の一表象であり、人々の行動や考え方に対するテクノロジーの稼動が影響しており、それに煽られた衝動と言える部分があるのかも知れない(p147)。しかも、そうした志向性が、身体の他者性を見過ごし、捨て去るという指摘は、まさにその通りだとも感じる。
 しかし一方で、運動目標をめぐる≪まなざし/まなざされる関係≫が全否定されるべきか、とも思うのである。というのも、例えば、運動目標をめぐる≪まなざし/まなざされる関係≫が、運動目標の到達可能性に希望を見出す人にとってみれば、≪希望を託す/希望を託された関係≫として関係の意味が変容することもあると考えるからだ。
 具体的な例で見てみよう。以下は、社会科学者の鶴見和子氏が生前に作った短歌1)である。

 政人いざ事問わん老人われ生きぬく道のありやなしやと
 
 ねたきりの予兆なるかなベッドより
 おきあがることできずなりたり

 鶴見氏は、1995年に脳卒中で左片麻痺となり、その後10年以上リハビリテーションを行い、著作活動も行ってきたが、2006年の診療報酬改定後、リハビリテーションの打ち切りの宣言を受け、まもなくベッドから起き上がることができなくなり、持病の大腸癌が悪化し、2006年7月30日に他界した。
 鶴見氏は、短歌が掲載された同じ雑誌に次のような文章も寄せている2)。

「私のような条件の老人は、リハビリテーションをやっても機能が全面的に回復するのは困難である。しかし、リハビリテーションを続けることによって、現在残っている機能を維持することができる。つまり、老人リハビリテーションは、機能維持が大切なのである。もしこれを維持できなければ、加齢とともに、ますます機能は低下する。そして、寝たきりになってしまう。」(p5)
 
「戦争が起これば、老人は邪魔者である。だからこれは、費用を倹約することが目的ではなくて、老人は早く死ね、というのが主目標なのではないだろうか。老人を寝たきりにして、死期を早めようというのだ。したがって、大きな目標に向かっては、この政策は合理的だといえる。そこで、わたしたち老人は、知恵を出し合って、どうしたらリハビリが続けられるか、そしてそれぞれの個人がいっそう努力して、リハビリを積み重ねることを考えなければならない。」(p6)

 鶴見氏の言うリハビリテーションは「機能維持的」なリハビリテーションであるが、運動機能に対する働きかけは、運動発達・回復に沿った働きかけを行うので、筆者の指摘する運動目標をめぐる≪まなざし/まなざされる関係≫に位置すると見て大きく外れてはいないと判断される。しかし鶴見氏は、「寝たきり」を死の予兆と捉え、リハビリテーションに生きる希望を託していることが伺われる。
 つまり、筆者が運動目標をめぐる≪まなざし/まなざされる関係≫と表現した関係についても、別の身体性や歴史的文脈を持つ個人からすると、別様の意味が織りなされる可能性があるのではないか。それは、鶴見氏の例を見たように、必ずしも否定的な意味ばかりでなく、むしろ、その人の<生>を形作る重要な要素となっている可能性もある。 
そうした事例を考え合わせた時、運動目標をめぐる≪まなざし/まなざされる関係≫も、リハビリを受ける個人の身体性や歴史的文脈によって、多様な意味付けがなされている可能性を推測できるし、そのように重層的な意味によって形作られているリハビリテーションを、運動目標をめぐる≪まなざし/まなざされる関係≫として収斂することに困難を感じるのである。また、それゆえに筆者の指摘に対する現実的な対応の難しさも立ち上ってくるのではないだろうか。
 ここで私は、個別的・体験的・主観的な記述について、矛盾したことを述べたことになる。一方では、3で述べたように、学に対する鋭い批判性と評し、一方では今述べたように、現実世界の多様性による薄まりとも評しているわけである。それが本書の限界性を示しているのではないか。これが批判的な観点としての3点目である。つまり、個別的・体験的・主観的な記述の限界性である。

5.筆者への要望
 批判的観点として3点を述べたが、それらは本書の一貫性ある主張を骨折させるまでには到達できていないだろう。それだけ本書は骨太な主張を貫いている。そして、これまで知ることのなかった脳性まひの身体世界を人やモノとの関わりの窓を通して可視化してくれている。それはぞくっとする程魅力的な世界である。最後に、私が筆者にもっと教えてほしい、記述してほしい!と思う事を気ままに述べ、筆を置きたい。
 冒頭で、私はリハビリテーションの一業種である作業療法士であると述べたが、作業療法士は人とモノとの関係のあり方に介入する専門職である。
 本書のなかには、モノをイキモノ化しているような記述がいくつも見られる。例えば、「人と違ってモノは、「これが普通の動き」という先入観にとらわれない」(p163)、あるいは、「トイレは私の体に合わせて形を変えた。そして私はそんなトイレの変化に応じて自分の身体内協応構造を組みなおした。トイレと私の体は、互いに自らをほどきつつ、相手の動きを拾いあって、歩み寄ったのである」(p157)。
 私はモノを無機質なモノとしてしか捉えてこなかったので、モノにこれ程の懐の深さがあることを初めて知り、驚いた。モノの価値を再発見した思いである。筆者には次なる本として、是非、モノと身体を中心としたテーマで執筆してほしいと願っている。

1) 鶴見和子 2006 「鶴見和子の歌 予兆」『環』26:2-3.
2) ―――― 2006 「老人リハビリテーションの意味――【連載】鶴見和子の言いたい放題・その九」『環』26:2-3.





*作成:大谷 通高
UP: 20110801 REV: 更新した日を全て
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