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田島明子論文
「「寝たきり老人」と/のリハビリテーション――特に1990年以降について」
へのコメント

於:第76回 SPSN(Social Polcy Studies Network)研究会討論 20090131
井口 高志


1.全体として何を解き明かそうとしているのか?(確認を含めて)
○問い(はじめにから)と結論の対応、ストーリー(★まで論文からの引用)

なぜ「寝たきり」の状態を呈する「老いた人」の存在・生存が否定的に見なされがちとなるのかという素朴な疑問と同時に、「寝たきり老人」という言葉の定着には少なからずリハビリテーションが関与していることが想定されたことがあげられる。(1頁)

端的に言えば、介護保険領域で行われる維持期・慢性期のリハビリテーションは、医療領域で行われるリハビリテーションに比べ、質・量ともに十全ではないのである。何故そのような断裂・乖離が生じるのだろうか。(1頁) 問@

リハビリテーション領域の言説空間において(も)「寝たきり老人」の存在・生存が肯定的にみなされてはこなかったことと維持期・慢性期におけるリハビリテーションが質・量ともに十分な進展がなされてこなかったことには何らかのつながりがあると筆者には思われるのである。 問@に対する仮説

 維持期・慢性期におけるリハビリテーションとは、いわば明確な回復・改善が見込みづらい人たちへのリハビリテーションである。つまり、端的に言って、そうした人たちへのリハビリテーションを多くのセラピストは担おうとせず、技術・理論的な進展がなされてこなかったということである。リハビリテーションの理念は回復・改善可能性の乏しい人にはリハビリテーションを行う必要はないとは言っていない(例えば、上田[1984]、カナダ作業療法士協会[2000])。ではなぜ、そのような現実になっていったのだろうか。(1頁) 問A

特に1990年以降における高齢期(特に「寝たきり老人」)に対するリハビリテーションの諸様相を、1.制度・政策、2.リハビリテーションの医療経済、3.リハビリテーションにおける言説、の3つの視点とその連関から整理し、当事者からの批判的論点を押さえつつ筆者の評価を行い、今後の方向性について規範的主張を行う  本稿の構成・意図

 そして、筆者は、「寝たきり老人」の存在・生存が肯定的にみなされてはこなかったことと維持期・慢性期におけるリハビリテーションが質・量ともに十分な進展がなされてこなかったことが関係しているのではないかと仮説を立てたが、維持期・慢性期のリハビリテーションは、「寝たきり」予防という政策的・(リハ)医学的・経済学的な諸言説とその有用性が結びついたからこそ進展を始めたとも言える。言うなれば、医療費や人手のかからない安上がりな身体でいるためのリハビリテーションの拡張である。ということは、仮説ははずれていたと言わざるを得ない。維持期・慢性期のリハビリテーションが質・量ともに進展してこなかったのは、維持期・慢性期において、「寝たきり老人」の存在・生存の否定を肯定できる有用な諸言説が育っていなかったから、ということになる。  一つの結論



頭の整理も兼ねて、「はじめに」における本稿の問いについての記述と、「おわりに」の部分の結論的な記述から、本稿がどのように問いに対して答えようとしていて、その答えを導くストーリーがどうなっているのかを、ものすごく大雑把に私なりに整理してみる(間違っているかもしれないがご容赦)。
まず問@に関しては、「高齢者の医療費抑制」を背景とした財政上の理由からの医療政策に基づき、医療から見ればいわば切り離された先にある介護保険に置かれたということが、「質量ともに十分ではない」ことの最も大きな理由と言えるだろうか。そこに対して答えているのが2節の医療経済について追った部分。ただ、加えて、特に田島さんが言及している「質」の不十分さの理由に対する答えとしては、「寝たきり予防」という言語(を用いること)でしか、維持期・慢性期のリハビリテーションを拡大できなかったリハビリテーション専門職内部の言語の「まずしさ」のようなものを置いているように思われる。それに対して、2000年代中頃になって(診療報酬改定を契機に)多田富雄などのアクターによる(田島さんの観点あるいはリハビリテーションの理念から言うと本来リハ専門職団体がはじめから言ってくる必要があった)「生存を肯定するリハビリテーション」の主張が出てきたのだよ、というストーリーになっている。 本稿を無理矢理こうした問いに対して答えを導くストーリーとして読むと、疑問に思う(というか論証して欲しい)のは、いわゆるリハビリテーションの専門職の言説というのが、どれだけアウトプットである維持期のリハビリの貧しさの要因となっているのかという点である。医療経済的要因というのはとてもよく分かり(2節)、その動きと時代的に並行してリハ理論やリハ思想も動いてきた(3節)というのもよく分かる。しかし、その二つの関係性が分かりにくい。そんな印象を持った。
また問Aに関して。これは、最後の方に、2004年になってリハ業界が維持期のリハについて本腰を入れて語りはじめたという記述はあるものの、なぜかはやはり分からない(あるいは読み取れなかった)。この「遅れ」は、すなわち「理念」と「現実」の乖離であるが、その乖離の要因にひょっとしたら医療経済の流れと適合したリハ団体の戦略とか、医療の論理(エビデンスを根拠に領域拡大していく)に適合した戦略とか、そうしたことがあるのかも知れない。その辺の議論もあると繋がってくるのではと感じた。

○三つのパートの関係
上のコメントと同じ(なので省略)。1.制度・政策、2.医療経済、3.リハビリテーションにおける言説という三つに分かれているが、@この三つの区分が今ひとつ何を指しているのかがわかりにくいということと、A三つの関係がわかりにくい。たとえば、@について、制度・政策のところは「制度・政策」そのものの動きというよりも、制度・政策に関する(公式化された)言説、あるいは、なされた政策の記述・今後の政策の方向性の提示と言えるのではないか。制度・政策そのものの動きであるならば、お金の動きも込みで捉えられるべきであろう。
 そこで1の制度・政策に関する言説の変化の背景に2の医療経済の動きがあると考えればよいのかと思いつつ読んでいくと、今度は3のリハビリテーションにおける言説(すなわち専門職集団の言説)が中心的に分析されている。三つの関係を問うのが主眼ではなく、動きをとりあえず三つに分けて並行して流れを見てみたということなのかも知れないが、気になるところではある。すなわち、「なぜ?」という問いが立っている割に記述が中心になされている感じがあるので、その辺の関係性について(雑誌に出した後ということなので、後付の解釈や今後の構想でもよいので)補足的にご説明いただけたらと思う。

○言説政治の研究への展開?
 後半の、最近の動き、すなわち患者(鶴見和子、多田富雄)からの批判の辺りが面白かった。何となく思ったのは、いわゆる政策について語る言説においても、そこは一枚岩ではなく、リハ専門家、医療経済を考える人たち、患者などで言うことが異なってくるということ。そうすると、政策・制度に関する言説を、『厚生労働白書』などの表に出てくる政策的な文書でざっと追うことの先に、様々なアクターが、政策や制度の方向性を論じる空間でどういうやり取りをなして来たのかを見ていく作業が課題としてありうるのではないか。

2.内容確認:リハビリテーションの変化・「寝たきり」の位置について
○三つの軸:予防、サービス基盤の整備、財政的制度の創設
【1】1節で「寝たきり」というキーワードに注目して抽出される制度・政策(厚労白書の言及)から見えてくる、この三つの軸?(キーワード?)同士の関係はどうなっているか?私見では、この三つを関連づけた問いを立てる必要があるのではないか?と思った。
 たとえば、私の関心で行くと、寝たきりに対する対応が「予防」の方向に動いていくのはなぜか?そしてそれはどういう意味でまずいことなのか?に関心がある。
 まず「寝たきり」状態という対象理解から、具体的疾病名称に分解されて理解されていくという事態はいかなることを意味するか?たとえば、ある種(還元論的?疾病分類的?)の「医療・医学」的発想を適用する形で対象が理解されていった、解析されていったことで「予防」によりリアリティを与える「方法」が明確になっていったためではないか、というようなことが(正しいかどうかは分からないが)回答として思い浮かぶ(逆に言えば、この図式に乗らない部分や状態は排除される?それが田島さんの抱いている違和感か?)。
 こうした方向性での問題への対処(予防)が現実に起こっていたとして、では、それ以外の道筋(たとえば、回復してもしなくてもよいのでケアをするといった発想)は現れなかったのかとか、あったとしたらそれが潰えたのはなぜかとか、そういった問いが出てくる(たとえば、その問いに対する仮説として、医療におけるエビデンス志向の強まり影響をリハももろに受けた、とか)。
また、気になるのは、そもそも「予防」という発想に進んでしまったこと自体が「寝たきり老人の生存・存在を肯定する」リハという基準から見たとき、間違った道筋をとってしまったということになるのかという点。すなわち、「寝たきり老人の生存・存在を肯定する」働きかけのようなものは、「寝たきり予防」という発想をとった初期時点で封じられてしまった道なのか、それとも「寝たきり予防」自体はともかくとして、それが原因疾患の予防という医学的・原因論的発想という道に行ってしまったからなのか、とか。そんなことも気になる(大熊由紀子らの「寝かせきり」キャンペーンがある意味で高齢者介護の拡大に結びついていたなどと考えるとそんなふうに思ってしまいます)。

【2】また、次の課題なのかも知れないが、「予防」の軸と「サービス基盤整備」の軸との関連についても気になるところである。「サービス基盤整備」が、寝たきりとか介護が必要な人に対する資源の整備と思える一方で、「予防」はそうならないようにするという軸に思えるため。この二つの軸は論理だけ見ると矛盾するとも見える。
 ただ、たとえば、目を医療に転じると、現実には「予防するから治療はいらないよ」という人はいない、というか予防に第一次、第二次とついていくように治療の中にも予防の論理は入っていく。やっぱり基本的には両方必要よね、というのが問題に対処する臨床現場では正論として言われるはず。
 そこから話を戻し。だとすると問うべきは、医療経済などの制約などの中で、どっちに力が入れられたのかとかそういう話ではないか?たとえば、「サービス基盤整備」の内実が、当初考えられていた状態(本稿の規範的な前提から見るとより生存・存在を肯定する方向性)から外れてその代わりに予防に力点がうつっていったのだとか、そういったことを知りたいなと感じてしまう。
 もちろん原稿の論点としては、「寝たきり老人」という言葉に着目した分析なので、ここでの主張は「寝たきり(老人)」という言葉が、両方に使える(恐怖を喚起しつつ、でも実際にたくさんいるからサービスを作らないといけないという気持ちにも訴える)ということなのだと思う。だとすると、サービス基盤整備が一段落したあと(これは2000年代以降ということで次の課題となるか)の「寝たきり老人」という言葉の位置の変化などが気になるところである。(リハ専門誌の言説においては言及がなくなってきていると述べられている)。論文的な読みやすさとしては、「寝たきり(老人)」という用語の用いられ方の転換といったところに焦点が当たっているのだということが強調されている方が分かりやすいのかも知れない。

○鶴見・多田の言説と「寝たきり予防」との違いについて(★から★まで論文からの引用)


 ここで1つ考えたいことは、お2人の主張には「寝たきり」化を予防したいという切実なる思いが書き記されているが、それはこれまで見てきた制度・政策、あるいはリハビリテーションにおける「寝たきり」予防言説と同一のものであるのだろうかということである。筆者が決定的に異なると思われる点は、予防の先の世界の想定である。つまり、お2人は、今の自分の身体の連続線上に起こり得る身体世界として「寝たきり」を捉えているのである。だから、さらにその線の先にある自分の身体に生じる生命・生存の危機をも予見している。身体の行く先を見つつ、死に至る病の諸相を見定めつつ(多田[2008])、生きようとしておられる。そして、お2人の文章から、リハビリテーションによって昨日と同じ身体を生きられることが、その次の時間を生きることの希望になっていると筆者には感じられた。お2人にとって「寝たきり」予防とは、生きることへの衝動に応答する何か、を言葉にしたものと言えるのではないか。それに対して、これまで見てきた「寝たきり」予防言説は、あえて端的にいうなら、「寝たきり」を予防することにのみ注意が払われていた。その状態は不幸であるという否定的前提と、そこから派生する様々な客観的問題―医療財源、介護負担など―を想定してのことである(21-22頁)

しかし、(1)、(2)で確認してきた多田富雄、鶴見和子らの重要な論点は、この動向のなかには含まれてはいない。多田富雄、鶴見和子らが望むリハビリテーションは、一言で言い表せば、生存・生命を水準とした老い衰えゆくあらゆる身体を包摂するリハビリテーション、ということになろうかと筆者なりに咀嚼をした。そうすると、現在の関連団体などの動向は、維持期リハビリテーションの量的拡充に着目しており、多田富雄、鶴見和子らは、質の問題を指摘しているとも受け取れようが、筆者は、多田富雄、鶴見和子らの論点を、質という一言には納め難い、もう少し深い位相を持ったものであると捉えている。
生存・生命を水準とした老い衰えゆくあらゆる身体を包摂するリハビリテーションとは、要するに、揺らぐことのない存在の肯定を基盤としたリハビリテーションということになろうか。筆者は、田島[2008:459]において、「(リハビリテーションの理論に:筆者追記)むしろ私が問題だと感じるのは、能力主義的な障害観(感)に対抗し、その人が感受する障害(身体)世界を肯定できる明確な基準線がリハビリテーションの理論にはないことです」と指摘を行ったが、ここでも同様の指摘ができるように思われる。多田富雄、鶴見和子らの指摘は、なにも維持期のリハビリテーションのみに通用するものではない、リハビリテーション全体に求められるものであると考える。つまり、お2人の主張は、存在価値が能力価値に揺らぐことのない基準線を迫っているのではないか。そしてまた、存在の肯定が基盤となるリハビリテーションは、現在とは別様のリハビリテーションの姿を導くはずである。(25頁)


 生命・生存を肯定するリハビリテーション、すなわちここで鶴見や多田が望み、田島さんが現在の動向を評価する基準(物差し)としている理想的なリハビリテーションというのはどういったものか?もう少しお話を聞きたい。
まず、具体的というか卑近(ではないか?)な話としては、5-3)-(3)で言う作業療法士協会の最近の地域移行支援への量的拡大では不足であるという不足点は何か?(診療報酬、介護報酬の)制度として問題があるのか?それとも協会が考えている地域移行支援のリハの内容(質?)に問題があるのか?もう少し聞かせて欲しい。
 より本質的、理論的な話として。そもそも生存を肯定するリハとはどういうものとして構想できるであろうか?(具体的な技術レベルではなく、論理のレベルで)。たとえば、鶴見、多田の言うように、リハを受ける当事者が「寝たきり」予防を「希望」と位置づける側面というのはあると思う。たとえば、私がフィールドとしている若年認知症の人たちも、より認知症が進まないことや、その先の「よくなること」を希望として日々生活している。このように、現実に病いを生きる人たちの意味世界においては、生存を肯定する働きかけ(ケア的なもの、そのままで良いのだよという働きかけ)と、衰えに抗うあるいは現状を維持する、あるいはより先の悪い状態にならないための働きかけとが併存し、矛盾していないということは不思議でない。おそらく作業療法士の臨床レベルでの議論をするときには、こうした二つのものを併存させて行くこと(田島さんの言葉で言うと存在価値が上位目標にあるということを十分に認識した上で、能力価値を位置づける)の重要性を説きつつ、現場の実践のあり方をデザインしていくということになるだろう。
 だが、ここで難しいというか面白いなあと思うのは、こうした「予防」や「ケア的なもの」が社会的というか制度的というか別様の文脈においては対立やねじれた位置に置かれてしまう(置かれざるを得ない)ことである。理念だけを見れば維持期のリハとは現状を維持し生活を保持するためのリハと見える。しかし、財政上は別システムの介護保険(より金や資源の配分が少ない、あるいは整っていないシステム)に置かれることで、制度的には医療と介護の両方にまたがってその領域を作っているリハビリテーションにおいては、より「生存を肯定しない位置づけ(=より金や資源をかけていない)」と(田島さんの視点からは)評価されることになる。一方で、急性期・回復期のリハの論理とは面白いもので、前述したように当事者にとっても「回復」という言説が意味を持つ場合もあるし、制度上も、医療保険制度の中に(当たり前だけど)存在し、リハ専門職たちもより重要なものとして価値づけてきた。そして、こうした位置づけは当然そうした制度の中で生きる当事者にとっては、より「自分の生存を肯定する制度」となる。当然、疾病ごとに医療保険適用の上限日数を設けられて介護保険制度に移行させられることはたまらん、となるわけである。
 こうしたことを考えると、リハビリテーションという営みを、「生存を肯定するもの」としていくためには、現実的にはどんな言説政治を行っていく必要があるのだろうか。まず、リハビリテーションが、ある種、医療のサブシステム的なところにある(医療の範疇の中に食い込んできた、あるいはその中に発生してきたもの)だとしたら、「回復(維持)」や「予防」という言説を使わざるを得ない。あるいは当事者にとっても「回復」や「予防」が望まれている場合もある。そうすると、急性期・回復期と維持期という言葉の区分とは違う区分を考えていくことが第一ではないか。すなわち、制度上は急性期・回復期と維持期という区分になってしまっているけれども、実はその言葉を使って対立軸を設定するよりも、病いをかかえた人にとっての「回復」「予防」とは何を意味するかとか、「回復」「予防」が本人の生存の肯定にとってどのように位置付くべきかという問いを立てて、敵を見出していくことになるのではないか。そうだとするならば、「生存を肯定するリハ」に近づいていくために敵として設定されるのはなんであろう?たとえば、これは全くの思いつきであるが、非常に短いスパンを設定した形でのエビデンスを根拠に「予防」や「回復」などを判断していくリハビリテーションや医療の発想とか、そういったあたりに対して違うのだ!ということを言っていくことになるだろうか。
 ただ、こうした道もとても大変なんだろうなあと思う。というのも、先日、現場で働いている理学療法士の大学院生と話していて、彼女は、そもそもリハ領域ではエビデンスに基づくという議論自体がほとんどなされていない、だからエビデンスに基づいた臨床研究を積み重ねて行かなくてはならないとも言っていた。臨床実践においてエビデンスがすべてではないにしても、医療の領域で自己を主張していく上でエビデンスに基づくというところを手放してしまうことは、とても困難な道筋であると思う。また、いわゆる専門家とクライアントの対等性に近づく上で何かしらの形でエビデンスが必要になってくる局面もある。そうなってくると、エビデンスに基づくぞ!的なことを言いつつ、そうした範囲での「回復」や「予防」がリハの最終目的ではないということも言っていかなくてはならない。とても難しい。  また、「予防」や「回復」の意味を読み替えていく作業というのは、逆に、医療経済の流れのなかで、別立ての読替をなされていく危険性を常に孕んでいるだろう。介護予防などの発想が、医療・介護費の抑制と結びついて強調されていったということは、一部の良心的な専門家にとっては意図していない(考えていなかった)ことでもあったのではないか(あくまで推測。加えて、二木先生が言うように介護予防はそもそもエビデンスがなく、逆に対象者を拡大することで医療費抑制に効果がないとするならば、そもそも医療経済的価値を枕詞として持って来た言説でなければ、政策的になかなか受け容れられないという解釈もできよう。そうすると、現実にはまさに田島さんが結論づけているように医療経済的な言説が非常な力を持っているためということになる)。

3.外在的な問い:田島さん(臨床での専門職)がこうした研究をやる意味合い
 田島さんは、臨床で実践をしつつこうした研究をしている。臨床でというのがポイントで、作業療法の世界を代表するスポークスマンという形で学問をやっている訳ではない。臨床を相対化すると同時に、作業療法業界も相対化しているという意味で、よりメタ的に作業療法の歴史というかリハの歴史と方向性を描こうとしている。
 端的に、こうしたスタンスがもたらす利得は?ご自身にとって、現場での実践家にとって(少なくとも何を伝えたいと思っているか)、作業療法などのリハ業界にとって。さらには、それだけをやっている(私のような)社会科学者にとって。
またどこに対して一番ものを言っていきたいかということも。

 以下は、半分以上、冗談というか雑談。
加えて、作業療法士になる人を教えている私にアドバイスというか、田島さんみたいな発想を持つ人を育てるというか洗脳(笑)するためにはどうやったらよいのか?つまり社会学に興味を持ってもらうにはどうすればよいのか教えて欲しい。


*作成:石田 智恵
UP: 20090212 REV:
◇田島 明子 「「寝たきり老人」と/のリハビリテーション――特に1990年以降について」(論文)  ◇老い  ◇「寝たきり老人」
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