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スモン被害者として

古賀 照男 19991101 浜・坂口・別府編[1999]



古賀 照男 19991101 「スモン被害者として」,浜・坂口・別府編[1999:68-69]*
 http://www.npojip.org/jip_semina/semina_no1/pdf/068-069.pdf
*浜 六郎・坂口 啓子・別府 宏圀 編 19991101 『くすりのチェックは命のチェック――第1回医薬ビジランスセミナー報告集』,医薬ビジランスセンターJIP,発売:日本評論者,479p. ISBN-10: 4535981698 ISBN-13: 978-4535981690 5000 [amazon] ※ b d07

  *このファイル作成に当たり上掲のpdfファイルを用いた。保存されるべき資料であるため、ここに掲載する。

  わたくしは、スモンに罹患し、裁判に関係し、先の泉さんの話にもあったように分裂等を経て、スモン運動に参加した。東大医学部、薬学関係者を含めて、キノホルム被害者を支援する会、が発足した当初からずっと行動し、各地の支援の人々とも連携をしながら行動を共にしてきた。

ことごとく敗訴
  まず、厚生省で1 週間の座り込みをしたとき、薬害エイズで被告になっているミドリ十字社長の松下廉三が、当時の薬務局長だった。1 週間の座り込み貫徹をしたときに、彼から謝罪を勝ち取った。が、そのときにすでにサリドマイド事件があり、座り込みがあった後、サリドマイド事件は和解ということになった。当時、森永ヒ素ミルク事件、そして四大薬害とも言われるコラルジル、クロロキン、スモン、サリドマイド、この4 つの被害者や支援者との連携の中で、直接行政、企業にぶつかる、公開性を求める、というやり方できた。わたしは、高裁に残り、敗訴した。最高裁判所でも敗訴した。東京地裁の法廷前にテントを張った。和解案が提示されていたが、最高裁判所の可部恒雄氏がスモン問題を全面解決すべく、東京地裁に下りてきた。最高裁の調査官でスモン解決のために東京地裁の裁判長として全国地裁(スモン裁判)をまとめたのである。そして、東京地裁は他の裁判の中心である、判決も東京地裁が先である、と表明していた。金沢地裁が先ほど泉さんが話したような、奇妙などうしようもない判決をなぜしたか。それは東京地裁への援護射撃の判決である。和解案を全面的に認めさせるための判決であると、わたしは認識し、金沢地裁の結審のときに金沢に行ったときに、金沢にスモン患者自身やそれを支える人々などの何の運動もないことを知り、これは負けると思った。
  司法の動きはこれだな、と思った。判決を勝ち取ることが今後の救済につながるのではないかと考えて、法廷前にテントを張った。翌日の昼に強制退去となった。その後、裁判長と話し合いをして、現状の原告の動向から考えて、判決を出せば筋が通る。国も製薬会社も被害者を補償せざるを得ない、と話しあった。そして判決が出た。これは和解案とかわらない。ただし、わたし自身は切り捨てられている。サリドマイド事件の後、1967 年に指導要綱というものが出ている。これによると10 月以降の罹患は国に責任があるが、わたしはその前の6 月に罹患した。指導要綱前の罹患だから、国は関係ないと切り捨てられた。そして裁判は負けた。しかし、他の薬害や公害の運動に広く係わってきた。

ウイルス説を展開する企業と研究者
  東京高裁においてのわたしの提訴に対する裁判内容はひどい。田辺製薬はウイルス説を全面展開する。元京都大学のウイルス研究所の助教授井上幸重氏とその助手で薬学出身の西部陽子氏がウイルス説を出していた。製薬会社はそれを基本にして何の立証もなく、論文だけで終始一貫ウイルス説を展開していた。裁判長がわたしに和解を勧めたので、田辺製薬がスモンと自社販売のエマホルムとの因果関係を認め、責任を認め、患者に謝罪する、ということを要求したわけです。ところが、原告は全国でわたし一人しか残っていない。司法は、そういう弱者(少数者)にはそっぽを向いている。結局、判決内容はわたしの原疾患をいっぱい並べたてて、あれはもう田辺製薬が書いたとしかいいようがない判決文だった。そうしてわたしは裁判に負けました。<0068<

田辺製薬への抗議行動
  終始一貫やってきた実践運動の一つとして、今月24 日にも田辺製薬への抗議行動をします。医薬品事故対策室というのが厚生省にあります。そこから通達を出させた。スモンウイルス説を撤回せよ、エマホルムとスモンとの因果関係を認めよ、スモン患者に対し責任を認めよ、スモン患者に対し謝罪せよ、と電話で話し合いました。医薬品事故対策室に、田辺製薬に質させようとしましたが、回答はありませんでした。行政と企業の癒着がはっきりしました。医薬品対策室もわたしに対してスモンであることを認めています。関西水俣訴訟を支える会と共同して、田辺製薬に行き、回答を寄越せと抗議行動を1 時間毎回やっています。もしここで参加できる方がいましたら、24 日朝8 時から淀屋橋でビラ撒き、10時から田辺製薬の前で抗議行動をしますのでよろしく。
  コメント:抗議行動は以後も続けています。今年(1999 年)も7 月28 日に淀屋橋でビラ撒きをしました。

■言及

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社


UP:20080104
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