宇尾野 公義
うおの・まさのり
1923〜2015/06/02
・東京都都立府中病院
・国立静岡病院※院長
2001年(平成13年)10月 ‐ 国立療養所静岡東病院と国立静岡病院を統合し、国立療養所静岡神経医療センターとして開院
2004年(平成16年)4月 ‐ 独立行政法人国立病院機構静岡てんかん・神経医療センターに名称変更
◆http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/88630.html
◆宇尾野 公義 197303 「いわゆる難病の概念とその対策の問題点」,『公衆衛生』37-3:186-192(42-48)
「いわゆる難病なる名称は医療に従事する側よりもむしろ患者友の会などが医療福祉を願い,病因の究明や医療費の公費負担などを訴えて国や地方自治体などに呼びかける場合に用いられていたが,それがいつの間にか一般的名称となってしまった。つまり@原因が不明である,A適切な治療法がなく,死亡率が高い,B長期慢性経過をとり,後遺症を残す,C療養に高額の費用がかり,患者や家族の物心両面の負担は大きい,などの諸条件を有する場合に一応難病としてとり扱われるように思う。
現在医学は第1健康増進医学,第2予防医学,第3治療医学,第4リハビリテーション医学と漸次してきたが,難病対策は福祉行政とからんで正に第5の医学として頓に重要性を増しつつある。本稿はまず厚生省の難病対策要領につきのぺ,難病の概要,その対策のあり方などをのぺてみたい。[…]
昭和47年7月には公衆衛生局に「特定疾患対策室」を発足させ、9月にはスモン病、べーチェット病、重症筋無力症、全身性エリテマトーデス、多発性硬化症、サルコイドージス、再性不良性貧血、難治性肝炎の8疾患を47年度特定疾患に指定し初年度調査研究費として1億9千万円を計上L,疫学,病態生理,治療の三大分野を一応3カ年計画で事業を聞始した。さらに最初の4疾患に対しては治療研究費として3億1千万円を計上し,患者1人当たり月20日以上の入院患者に対し遅ればせながら治療費の補助を決めた。福祉国家として一歩前進したといえる。
[…]
厚生省はさらに昭和48年度からは特万定疾患の枠を20疾患に広げ,筋萎縮性側索硬化症,脳底動脈輪閉塞症,悪性腎硬化症などをも含めるとともに医療機関を整備し,難病専門病院を各ブロツクごとに作り,5力年計画で14,000床を作るほか,医師・看護婦・検査技師など6,000人の増員を予定している。これを実現させることは誰の目から見てもきわめて至難であり,今後幾多の困難に当面するものと思われるが,是が非でも目標達成に近づくぺくあらゆる分野の努力が結菜されねばならない。」(宇尾野[1973:186])
1.厚生省特定疾患対策の概要
1)本年度の調査研究概要
2)来年度以降の調査研究について
2.各難病の概説と診断基準
1)スモン
2)べーチェット病
3)重症筋無力症
4)全身性エリテマトーデス・
5)多発性硬化症
6)再性不良性貧血
7)サルコイドージス
8)難治性肝炎
9)その他の難病
3.難病対策のあり方
1)難病患者の指定について
2)医療費の公費負担について
3)難病対策施設について
4)難病対策推進について
むすび
◆川村 佐和子・木下 安子・別府 宏圀・宇尾野 公義 19780501 『難病患者の在宅ケア』,医学書院,176p. ASIN: B000J8OLMQ [amazon]/[kinokuniya] ※ n02. als.
「まえがき
神経難病に対し、行政との協力下に、研究者たちが積極的にその解決に乗り出してから、すでに6年を経過した。そして、数ある難病のなかで、あるものはその要因についてかなり核心にせまる研究成果がみられ、より効果的な治療法が開発された。そしてある種の難病に対し、医療費の公費負担が国および地方自治体で実施されるようになったことは、福祉国家として喜ばしいことである。
しかるにここに、筋萎縮性側索硬化症(以下、ALSと略す)という、きわめて頑固な、そして厳然として研究者を一歩も寄せつけず、はては残酷無道なまでに患者をむしばむ、いわぱ神経難病の最たる疾患がある。そしていま、ALSを含む広義の運動ニューロン疾患は、日本に約5,000人またはそれ以上が概算され、日夜、物心両面にわたる苦悩を背負いながら生活し、あるいはぺッドに畔吟しつつ、いつ訪れるかわからない死の宣告を待っているのである。
本書で紹介する事例は、井伊政幸さんというALS患者の、発病から死に至る6年10か月の克明詳細な記録である。その記録は、内外の神経学教科書にもけっしてみられないほど、きわめて具体的かつ切実である。すなわち、発病後、身体の自覚的、他覚的症状がどんな順序で現われ、それが日常生活上、どんな形で支障をきたしていったか、また、この病気に関連して患者さんの周囲の人々による介護や援助、とくに奥さんの心労はいかばかりであったか、さらに、患者自身および家族の職業・学校などの経済上の問題、入院生活と自宅療養におけるホームドクターの役割の重要性や、自宅における生活上の種々の工夫、とくに末期症状である全身骨格筋(ただし、眼球運動筋、膀胱および肛門括約筋は最後まで保たれる!)の△004 脱力や萎縮によって起こる言語障害、嚥下障害、喀出障害、呼吸障害、手足の完全萎縮麻薄、そして遂に訪れた死の転帰に至るまで、詳細に述べられている。ALS患者および家族の受ける有形無形の悲惨さが、これほど余ずところなく描写されているドキュメンタリーを私は知らない。
さて問題は、このような癌にまさる恐るぺき倣慢な難病にとりっかれた患者を治療・看護し、少しでも延命を図り、残された短い生命をいかに有意義に生活させ、患者に満足と安堵感を与えるかを、われわれ医療従事者は真剣に考えねばならないことである。本書にみられるごとく、ALS患者はある時期にその病名を知り、その不治なるを悟り、あるいは治療にもかかわらずそれと無関係に症状の進行が日に日にみられるとき、患者はそれを嘆き悲しみ、ときには自暴自棄となり、はては精神錯乱状態をきたし、また自殺を図る場合さえもときにはみられる。しかも全身骨格筋の萎縮・脱力により、自らの手で首を絞めたり、毒物を飲んだり、ガス栓をひねることすら許されない。こんな無残な、進行の早い成人の病気は、ALS以外には考えられない。
患者はやがて平静を取りもどしながらも、絶えず苦悩に明け暮れ、病状の進行とともに周囲の人々とのコミュニケーションも種々工夫されるが、漸次表情筋もおかされているため、喜怒哀楽をつぶさに示すことすらできなくなる。
このように、言語、廉下、喀出、呼吸のみならず、身体全体の運動能力がすべておかされ、はては意志表示すら満足にできない患者に対し、われわれは医療、看護、運動練習、食事、入浴、排池、衣類の工夫、その他日常生活上のケア、風邪など合併症の対策、人工呼吸、コミニニケーシ三ンの工夫など、個々の症例についていかに指導すべきであろうか。上述の課題は各症例により異なり、それぞれに適応した処置を講ずるのはもちろんであるが、その他あらゆる予測される突発事態に対し、あらかしめ十分な知識と対策法を心得ておかねばならない。
ALSに対する薬物療法に、現在なんらの期待も持てず、蛇の生殺し=「005 的生活を強いられる患者にとり、やはり必要なのは、医療従事者によるゆきとどいた対症療法と、規則正しい運動練習、そして障害度に応じた日常生活上の工夫、さらに周囲の人々からの暖かい絶えざる励ましにより、少しでも進行を食い止めようとする意欲を、患者自身に持たせることであろう。これらの一貫した努力により、比較的長期間良い経過をたどり、患者によっては10年あるいはそれ以上にわたり生命を維持させ、かなり充実した日々を送らせることができるのである。以上の意味あいから、本書は、一般の神経学や看護学と異なった、きわめて具体的、実用的かつ内容の濃厚な指導書といえる。そして、神経難病の医学に携わるすべての医師、看護婦、保健婦、リハビリテーション訓練士、ケースワーカー、ボランティア、患者の家族の皆さんが、本書の事例を通して難病≠ネるものの本質を十分に理解され、今後の難病医療・看護に活用されんことを願うものである。
昭和53年3月
宇尾野公義」(宇都宮[1978:4-6]、全文)
◆宇尾野 公義 19840515 『神経筋疾患』,医歯薬出版,114p. ISBN-10: 4263218337 ISBN-13: 978-4263218334 [amazon]/[kinokuniya] ※ n02.
◆今井 米子 19860225 『筋無力症を乗り越えて』,長崎出版,185p.※ mg, n02, hsm
第一部 インタビュー
第二部 手記
第三部
重症筋無力症について 国立静岡病院・院長 宇尾野公義
「世の光として」――友の会と10年 上智大学カトリック学生の会 森謙三
筋無力症友の会の歩み 会長 武田治子 173-176
用語解説――一般の方の理解のために
全国筋無力症友の会支部一覧表
◆宇尾野 公義 編 199102 『最新神経難病』,金原出版,527p. ISBN-10: 4307100700 ISBN-13: 978-4307100700 [amazon]/[kinokuniya] ※ n02.
◆http://www.med.or.jp/nichinews/n111120c.html
平成11年秋の叙勲・褒章受章者 勲三等瑞宝章
http://opac.lib.niigata-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BN04034542?hit=-1&caller=xc-search
[宇尾野公義] ほか著 [静岡] : [厚生省特定疾患難病のケア・システム調査研究班], 1989.3-
厚生省特定疾患難病のケア・システム調査研究班 <DA03803114>
宇尾野, 公義(1923-)・廣瀬, 和彦
班長: 宇尾野公義 平成2年度以降の班長: 廣瀬和彦
出版地は事務局の変更により交替する
事務局所在地: 静岡, 国立静岡病院 (昭和63年度-平成元年度) → 東京, 東京都 立神経病院 (平成2年度-平成3年度) → 府中(東京都), 東京都立府中病院 (平成4年度-)
◆2016年06月17日 「宇尾野公義先生を偲ぶ会」を開催
http://www.mgjp.org/info/detail/?INFORMATION=17
「6月4日(土)、静岡県沼津市で行われた「第14回筋無力症フォーラム」に先立って午後1時から、「宇尾野公義 元国立静岡病院名誉院長を偲ぶ会」が開催されました。
全国筋無力症友の会が設立されたのは1971年(昭和46年)の10月。当時、東大病院の神経内科に通院されていた初代会長の武田治子さんが、主治医だった宇尾野先生から友の会結成について進言されたことがきっかけでした。
宇尾野先生からは長年にわたって数多くの医療講演をしていただいたほか、友の会の主要事業だった「筋無力症無料検診会」では全国各地に出向いていただくなど、患者・家族の大きな支えとしてご尽力いただいたのでした。
宇尾野先生は昨年6月にご逝去され一周忌を迎えたことから、友の会静岡県支部の紅野支部長らが「偲ぶ会実行委員会」を立ち上げ、国立病院機構静岡富士病院院長の溝口功一先生の全面的なご協力のもと準備を進め、この日の開催となったものです。
「偲ぶ会」では、溝口先生の開会のあいさつ、献花、そして前愛知医科大学 神経内科教授の佐橋功先生、公益社団法人鹿児島共済会 南風病院長の福永秀敏先生、全国筋無力症友の会の横尾宏・元代表から追悼のことばがありました。
当日は、宇尾野先生のご遺族も参列され、ご長男の宇尾野公敬様からごあいさつを頂戴いたしました。
最後に、友の会の桜井美智代代表から閉会のあいさつがあり、宇尾野先生への感謝の気持ちを表わしご冥福をお祈りしながら、おごそかにとりおこなわれた「偲ぶ会」を終了いたしました。」
◆宇尾野先生を偲ぶ会(前)(2016/06/09)
院長雑感(南の風)
http://www.nanpuh.or.jp/ones-impressions/ones-impressions-160609.html
「宇尾野公義先生は2015年6月2日に92歳で亡くなられた。家族葬が執り行われたという知らせを受けたのは、亡くなられてからしばらく経ってからのことだった。昨年の8月に母が亡くなったときに「家族葬」にすんなり賛成できたのは、「あの宇尾野先生も家族葬に」という思いが根底にあったからではないだろうか。
昨年の秋頃だっただろうか、重症筋無力症の友の会などが中心になって「偲ぶ会」を開催したいので、私にも是非出席をして欲しいとの依頼を受けた。私が宇尾野先生から 直接の薫陶を受けたのは昭和49年からの2年弱に過ぎないが、その後も何かと目をかけて頂いたように思う。恩師の井形先生が東京大学時代に宇尾野先生と同じ研究室であり、私は孫弟子にあたるということもあったのだろうか。
宇尾野先生の業績等に関しては、日本自律神経学会の理事長(宇尾野先生も長年、この学会の理事長を務めておられた)の黒岩義之先生が詳しく書かれているので少し抜粋する。
先生は大正12年に新潟県で生まれている。学習院から陸軍士官学校卒で陸軍大尉、高射砲連隊に属し終戦。東大医学部に入学、沖中内科に入局している。昭和46年に美濃部知事の要請もあり都立府中病院に副院長として赴任、私は49年に鹿児島大学第三内科から国内留学として派遣されて、ご縁ができたのである。
当時府中病院の神経内科で働いていた医師の中には、その後何人も大学教授になった人もいた。ところが学会などでお会いするとにこやかな表情で、「福永君はよく頑張ったね」という言葉をかけてくれていた。想像するに宇尾野先生ご自身が、あの東京大学沖中門下で秀逸の存在でそのキャリアも輝かしいものがあったが大学教授とは縁がなく、最後は国立静岡病院院長でご退官されたというご略歴とも関係しているのかも知れないと秘かに思うことである。
6月4日、鹿児島はやや肌寒く、雨が降っていた。朝8時10分発のANA620便で鹿児島空港を発ち羽田空港に向かった。京急線から品川駅、そして新幹線ひかりで三島駅に、東海道線に乗り換えて沼津駅に着いたのは予定時刻の11時56分だった。会場のプラサ ヴェルデは沼津駅に隣接している。偲ぶ会は13時の開始予定だったので、控室で溝口先生や佐橋先生、難病連の伊藤さんなどと昼食の弁当を食べながら、宇尾の先生の思い出など語った。
私の中の宇尾野先生は、外からも内からも紳士という印象で、時には茶目っ気な部分も持ち合わせておられたが、「強い人」と思っていた。ただ歳をとられてからは佐橋先生にも溝口先生にも夜間に長時間の電話をされてきたと言うことである。奥様に先立たれて、「嫁の世話にはならない」と強がっておられたが、案外寂しかったのかも知れない。
偲ぶ会はプラサ ヴェルデの3階で開催された。全国から重症筋無力症の役員などが多数参加されていたが、その中に都立府中病院時代に佐橋先生の患者だった町井さんもおられてびっくりした。当時はほとんど寝たきりの状態だったが、見事に元気になられていた。
◆宇尾野先生を偲ぶ会(後)(2016/06/10)
院長雑感(南の風)
http://www.nanpuh.or.jp/ones-impressions/ones-impressions-160610.html
まず溝口先生(国立病院機構静岡富士病院院長)の挨拶に始まり、佐橋先生(前愛知医科大学神経内科教授)が白い菊の花を献花したのち、佐橋先生と私が「追悼の言葉」を捧げた。(私の部分を下記に)
宇尾野公義先生への「別れの言葉」
本日の「故宇尾野公義先生を偲ぶ会」に出席と、そしてまた「別れの言葉」を捧げる機会を頂きましたこと、心より感謝申し上げます。先生のご略歴やご業績に関しては、さきほど一番弟子だった佐橋先生がお話されましたので、あえて繰り返しません。
私は医師としての大半を難病の臨床や研究に取り組んできましたが、そのきっかけをつくってくださったのが宇尾野先生と佐橋先生でした。
とりわけ宇尾野先生には、神経学の基礎を教えていただいたのは勿論のこと、医師としてのたしなみや躾けまで教育してもらったように思います。私が府中病院でお世話になったのは昭和49年7月からのほぼ2年間でした。ある時、散髪に行かずに髪をぼうぼうで病院に来たことがありましたが、その時に先生は「医師は2週間に一回ぐらいは、散髪屋さんに行きなさい」と、たしなめていただいたこともありました。
その後、私は鹿児島に戻り、いくつかの病院を回ったのちに、昭和55年から3年間、メーヨークリニックのエンゲルラボに留学しました。偶然にも佐橋先生とはすれ違いでしたが、留学先が同じだったことはこれも何かの縁だと思います。また昭和59年から国立療養所南九州病院で働くことになって、宇尾野先生には同じ国立病院で働く医師として何かと心にかけていただき、これも感謝に堪えません。
昨年の1月1日、新しい難病法が施行されました。私も難病対策委員会の副委員長として関わりましたが、その理念は共生社会の実現であり、たとえ難病になっても地域で暮らし、就労の機会も保証したいということでした。
府中病院で働いていたときに、重症筋無力症で闘病していた18歳の米山政江さんという可愛い高校生がおりました。彼女の夢は美容師になりたいということでしたが、その後の40年間で見事に実現させました。私は難病対策委員会での法律の策定にあたって、彼女のことが忘れることができませんでした。この法律はまさに米山さんの夢の実現でもあり、これも宇尾野先生の思いにもつながるものと思います。
今後も、先生のライフワークでもありました難病のケア・システムの構築に向けて努力して参りたいと思います。
その後、元重症筋無力症友の会代表の横尾宏さんの挨拶、スライドで流される思い出の写真を見ながら紅野泉さん(友の会静岡県支部長)のお話、ご遺族からの御礼の言葉で偲ぶ会は終了した。
偲ぶ会が終わると、私は14時10分の沼津駅発の東海道線に飛び乗って、今朝来た経路と全く逆の経路で鹿児島へと向かった。「たった45分の偲ぶ会のため」と思わないでもないが、お世話になった恩師の一人との別れであり、十分に値すると思うことだった。
■言及
◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社