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大阪と沖縄


last update: 20130115


■文献
▼本
水内俊雄編 20000329 『大阪・沖縄・アジア』大阪市立大学教務部.
冨山一郎 19901220 『近代日本社会と「沖縄人」』日本経済評論社.
金廣烈ほか(朴東誠監訳)『帝国日本の再編と二つの「在日」』明石書店.
宮本銀左エ門編 195305 『わが大正區』
大正区沖縄県人会五十周年記念誌編集委員会編 198705 『大正区沖縄県人会結成五十周年記念誌』
大正区未来わがまち会議 200603 『大正区未来わがまちビジョン――新発見!!人・まち・自然』
大阪市土木局編 1976 『大阪市大正区における新交通システム』
関西・沖縄県人差別問題研究会編 1971 『沖縄差別』
大阪俘虜収容所研究会, 大正ドイツ友好の会編 200803 『大阪俘虜収容所の研究――大正区にあった第一次大戦下のドイツ兵収容所』
大阪市経済局編 1959 『大正区三泉市場商店街実態調査及診断報告書』
大阪市経済局企業診断課編 195910 『大正区泉尾本通・中泉尾商店街実態調査及診断報告書』
大阪市大正区役所編 200511 『大正区の歴史を語る』
大正区制30周年記念事業委員会編 196311 『大正区30年の歩み』
大阪沖縄県人会連合会五十周年記念誌編集委員会編 199706 『雄飛――大阪の沖縄』*
沖縄県人会兵庫県本部35年史編集委員会編集 198206 『ここに榕樹あり――沖縄県人会兵庫県本部35年史』
日本復帰記念大阪沖縄会館建設記念誌編集委員会編 1978 『大阪沖縄会館建設記念誌――日本復帰記念』*
大阪沖縄県人会連合会40周年記念誌編集委員会編 198706 『雄飛 : 大阪の沖縄』
国吉真永 199405 『沖縄・ヤマト人物往来録』同時代社.
『けーし風』第30号(2001年3月.特集:大阪のなかの沖縄)

▼論文・雑誌記事
梶浦恒男 1968 「既存市街地のすみか--大正区・三軒家の居住地をみる (群としての住居特集)」『建築と社会』49(9), 44-46, 1968-09.
西野公ほか 1970 「大正区千島開発計画」『建築と社会』51(3), 31-33, 1970-03.
西野公ほか 1970 「大正区千島開発計画続」『建築と社会』 51(5), 13,15, 1970-05.
新垣秋好, 1971, 「部落解放運動と沖縄解放――私の歩んだ道をふりかえって」『解放教育』4.(再掲:全国解放教育研究会編, 1976, 『沖縄の開放と教育』明治図書出版.)
金城宗和 1997 「本土沖縄人社会の生活世界--大阪市大正区を事例に」『立命館大学人文科学研究所紀要』 (68), 193-229, 1997-03.
宮田幸浩ほか 1998 「7053 臨海部の1970年代以降の土地利用変化に関する研究 : 大阪市大正区・住之江区を事例に」『日本建築学会近畿支部研究報告集. 計画系』 (38), 589-592, 1998-05-25.
赤羽三郎 1999 「大阪歴史散歩(3)大正区の史話」『大阪の歴史』 (53), 109-113, 1999-06.
井口淳子 1999 「大阪に息づく沖縄芸能「エイサー」--大正区「がじまるの会」にみる民俗からの離脱」『年報音楽研究』 (16), 5-26, 1999.
辛基秀 2000 「大正区の朝鮮人 1935-45」『戦争と平和』 (9), 5-14, 2000.
本山謙二 2001 「闘走的音楽案内(30)「押入れ」から聞こえる音。そして「外」へ出る音--大阪市大正区第27回エイサー祭りより」『インパクション』 (128), 188-190.
水内俊雄 2001 「大阪市大正区における沖縄出身者集住地区の「スラム」クリアランス」『空間・社会・地理思想』(6), 22-50.
堀田暁生 2002 「正区の近代 (2001年度 〔大阪歴史学会〕現地見学検討会 港湾からみた近代大阪)」『ヒストリア』(181), 52-69, 2002-09.
小谷みすず 2003 「地域住民の福祉要求と生活相談活動(大阪市大正区)」『福祉のひろば』41 (406), 21-25.
「巻頭カラー2 島唄が聞こえてくる大阪--沖縄より沖縄的! 大正区の夜は熱い」『イグザミナ』(191), 8-12, 2003-08.
恐田光子 2003 「地域住民のくらしを支える生活相談活動--解決はネットワークで(大阪市大正区) 」『福祉のひろば』42 (407), 19-21.
真鍋一弘 2005 「大阪市大正区における沖縄関連店舗の立地展開」『立命館地理学』17, 87-99.
小柳伸顕 2007 「大阪・大正区とウチナーンチュ」『リプレーザ』(2), 99-106.
金城馨 2007 「幻想としての沖縄タウン・大正区」『環』30, 150-154.
「どっこい 生きているぞ!--大阪市大正区鶴町」『福祉のひろば』138, 1-4.
上地美和, 2007, 「『クブングヮー闘争』と沖縄出身者『社会』」大阪大学大学院文学研究科日本学研究室『日本学報』26: 1-18.
辻信一, チカップ美恵子, 金城馨 1999 「シンポジウム報告 日本におけるマイノリティ文化の継承と創造--多民族・多文化共生社会に向けて」『KIECE民族文化教育研究』(2), 5-46.
金城馨 2009 「沖縄と日本の交差する時空に根をおろして」『飛礫』(64), 154-164.


■年表

【1969年】
4月 クブングヮーについての住宅地区改良事業計画の発表(区画整備事業と住宅地区改良事業)
クブングヮー 2度の火事 → 1970年 小林東町、泉尾7丁目に市営住宅の建設、移転開始。
10月7日東田大阪府会議員(社会党)が大阪府会商工労働委員会でパスポート問題を追及
 → 毎日新聞、琉球新報、社会新報の報道 → 泉州地方労働組合連合会との話し合い
11月15日付 定時制普通高校通学保障協定書締結
【1973年】
10月13日 在阪沖縄人によるハイキング→「交流の広場」を作ろうとの提案多数(→がじゅまるの会へ)
10月25日 大阪市大正区、沖縄会館にて関西謝花祭開催。沖解同の発足記念集会と位置付けられる。
【1974年】
1月 がじゅまるの会結成
6月 Y君自殺
11月 クブングヮー(北恩加島・小林地区)の立ち退き問題を考える会 結成
【1975年】
1月18日 北恩加島・小林町くらしを守る会 結成
7月 皇太子沖縄上陸阻止・海洋博粉砕のたたかい(沖解同ほか)
1975年夏 第1回 沖縄青年の祭り
9月? 「小林町4番地自治会」発足
【1979年】
小林町クブングヮー、最後の住民の改良住宅への移転


■『けーし風』第30号(2001年3月.特集:大阪のなかの沖縄), 新沖縄フォーラム刊行会議.
◆特集にあたって 屋嘉比収
「大阪のウチナーンチュが提示する「多様な沖縄像」の視点によって、大阪のなかの沖縄の生活実相の多様性を提示しながら、自明で一枚岩の沖縄の像を相対化する差異や、重層性を含んだ新たな沖縄像を考える契機にしたい。」(14)

◆座談会 三世代のユンタク 屋良朝光・金城馨・大城康代 司会・仲間恵子
「屋良 父、朝栄は此花区(当時は西成郡稗島)のラサ島工業で働いていた。北大東村のラサ島(現沖大東島)から燐鉱石を採掘してきて精製し、化学薬品や肥料などを製造している化学工場で、一九二〇年ごろにできた会社。労働者の八〇パーセントは奄美、沖縄の出身だった。先輩、知人、友人を頼って集団で生活圏を形成していた。ラサ工業のなかに県人会もあった。活動は親睦とともに労働者の権利を守る目的があったと聞いている。此花区ではラサに勤めているウチナーンチュは、借【ママ】家を借りるときに保証人が必要だったが、住友系に勤めている人は保証人はいらなかったらしい。[…]戦前、此花区の県人会には三〇〇人ぐらいおったようだ。会社ごとに県人会があった。戦後は帰還業務に協力をするために、県人会が強化される必要があった。終戦後の混乱期に県人会が海外から引き揚げたウチナーンチュの帰還に協力したことは評価されてもいいと思う。」(16)
●戦前、企業内県人会の存在。親睦団体であるとともに、労働運動も展開していた?

「金城 おじぃは蔑称だった「リキジン」と言われて、飲んだ勢いでガァーッとよう喧嘩していた。沖縄というのは差別される対象なんだと知って、マイナスイメージが自分のなかにつくられていった。[…]小学五年生のときに自己紹介したときに「沖縄出身」と言った瞬間に、教室に「あいつ沖縄やで」というざわめきが広がって、怖くなった。」(18)

「金城 高校では、自分たちで部落問題ゼミという選択制で単位制のゼミをつくってたりしていた。」(19)

「金城 自分の育った沖縄人集落は尼崎の武庫川の土手のそばにあった。隣には朝鮮人の集落もあった。よう朝鮮人と喧嘩したり、また、自分らが差別されてんのに、被差別部落の人のとこには行くなとか言っとった。貧しい者同士で、こっちがまし、あっちがましと比べ合ってた。喧嘩はやったけどよう負けた。朝鮮人にやられて、勝った思い出がない。」(19-20)
●沖縄人、朝鮮人、被差別部落民の集住の重なり

「仲間 一九七四年に起きた、ある沖縄青年の事件と彼の自殺がきっかけとなって、関西沖縄青少年の集い「がじゅまるの会」が結成されます。」(22)
●Y君事件 → 1974年がじゅまるの会結成

・集団就職者たちの姿
「屋良 ほんまに単純な連中ばかりやったな。そして根がいいから、引き受けるのも怖くなかったし、そう苦労でもなかったんよ。
金城 ようは怠け者。[…]当時、青年の世話をしてくれる先輩は屋良さんしかおらんかった。だいたいの先輩は、だらしのない奴と言って切り捨てた。」(22)
「屋良 […]ある時は、此花署からドラム缶で寝ている沖縄の青年がいるからと連絡を受けて引き取りに行ったこともある。」(23)

◆私のなかの沖縄 諸見里芳美

「私は二二歳の時、集団就職で大阪に出てきたコザ出身の夫と知り合います。彼は大阪のなかで、沖縄に関する無知に怒って大阪中を走り回っていた人です。同世代の沖縄出身の人たちと「沖縄青年友の会」をつくり、紡績工場や病院などに就職した同じような沖縄出身者の問題や、復帰反対闘争、青年の事件など・・・、一つ間違えば自分自身に起こって当然のこととして取り組んでいたようです。」(26)
●集団就職者と「沖縄青年友の会」
●集団就職者が抱える問題を共有し、解決していく場が少しずつ作られていく。沖縄県人会はその場になりえていたのかどうか。

◆沖縄からの集団就職――関西沖縄青少年の集い「がじゅまるの会」の結成 玉城敏則

「沖縄返還合意が発表されたあたりから七〇年にかけて、沖縄からの集団就職者の数は急増し、高卒者の数が中卒者の数を逆転して増加傾向を示していく。職種は、スーパーなどのサービス業、電気製品の製造・組立部門などの採用が増えている。
 高卒者について、沖縄の職安がまとめた数字によると、一九七〇年度の内訳は、就職組七、一一六人中三、九七六人、割合にして五六%と半数以上が本土への就職となっている。」(32)
●職安資料の確認必要。

「「がじゅまるの会」発足の準備は、集団就職先の確認と就職者名簿づくりからはじまった。沖縄県大阪事務所の協力を得て、山と積まれた資料を数人が分担して一枚一枚書き写した。[…]うち七割近くが返送されて戻ってきた。[…]不参加の理由はいろいろあったが、就職者の大半が六カ月以内でやめて、その会社や住所にいない、会社が理由のいかんを問わず受領を拒否したので本人に配布されなかった、などの理由が多かった。
 送付した葉書は、一九七三年一〇月一三日(日)のハイキングへの誘いだった。当日の朝、京阪電鉄京橋駅前広場に朝早く出かけた私たちは、沖縄民謡を流し、三線を弾き、カチャーシーパフォーマンスをやって呼びかけた。最終的に一四〇人が集まり成功した。このハイキングの反省会で「交流の広場」を作ろうとの提案が多数あり、一九七四年一月、約三〇〇人が集まり、関西沖縄青少年の集い「がじゅまるの会」として正式に発会した。当面は、ハイキング、新規就職者の激励会、エイサー祭り、成人式などの活動を方針として決めた。スローガンとして、
 一、沖縄の青年は団結しよう
 一、集団、単身就職者の生活と権利を守ろう
 一、沖縄の自然を守り、文化を発展させよう
 の三本をあげ、「沖縄青年として誇りをもとう」を合い言葉とした。そして、拘留中の身であった宮古出身のY君が第一審判決後の一九七四年六月、控訴審を前に「破滅を招いた世情を怒りつつ」大阪拘置所内で自殺した。この事件の根底に流れる沖縄差別への怒りと、第二、第三のY君を出してはならないとの思いを強めた私たちは、交流の場づくりに奔走し、一九七五年夏、「第一回沖縄青年の祭り」を開催した。」(32-33)
●経緯
1973年10月13日 ハイキング→「交流の広場」を作ろうとの提案多数
1974年1月 がじゅまるの会結成
1974年6月 Y君自殺
1975年夏 第1回 沖縄青年の祭り

「「祭り」とは団結の場であり、きょうだい同士のきずなをたしかめ合うところです。私たちは「祭り」を通して、同じ島兄弟(チョウデー)の中にある、宮古や奄美に対する偏見を乗り越え、沖縄そのものを発揮することによって、ヤマトの友人、さらには世界の人々とも、相互の理解と親しみを深めたいのです。(『がじまるニュース』第一九号、一九七八年一〇月一日発行)」(33)

◆「祖国・日本」からの訣別と「沖縄人」としての「自立」が問われている! 崎浜盛喜

「このようなあまりにも耐え難い「ヤマトゥにおける沖縄人」の「現実」にこそ「沖縄問題の本質」があり、「沖縄返還」によっては「沖縄問題」が何一つ「解決していない」事を「沖縄の同胞・仲間」と話し合い、七三年一〇月に「関西沖縄解放同盟(準)」を、七五年には「関西沖縄青少年の集い・がじゅまるの会」を結成して一つ一つの「問題」に取り組んでいった。」
●経緯
1973年10月 関西沖縄解放同盟(準)結成
1974年 クブングアー(北恩加島・小林地区)の立ち退き問題を考える会 結成
1975年 北恩加島・小林町くらしを守る会 結成

◆対談 二世の見てきた恩加島(オカジマ) 伊差川寛・金城良明 聞き手・金城宗和・仲間恵子

「金城(良) ウチナーンチュの仕事の中にね、「仲間出し」というのがあった。Uさんなんかはな、人を集めて、海軍省とか、そんなところの仕事を請け負うわけや。いわゆる「人夫出し」というのかなあ。うちの通りは、そういう人たちが集まってくるわけやから、それで行くわけや。そういう仕事をしているウチナーンチュもいたし、商売をする人もいたし、「かつぎ」も多かった。」(41)

「伊差川 俺の印象ではね、戦前の北恩加島というのはやねえ、アメリカの「西部の町」のようなものやねえ。とにかくいろんな所からやって来て、それこそ混沌として、喧嘩も多かった。親父は喧嘩をふっかけられて、勝ったわけやが、その後をつけられて、下宿へ入り込むと、家を間違えて、隣でウチナーンチュが宴会をやっているところへ、そのやくざがなぐり込みをかけてきて、隣で大ゲンカになって、よくあるアメリカ映画のような状態になった。[…]「賭けオオイ」というのもあった。賭けて喧嘩をするんや。この町は島のようなものだった。貯木場などがあって、掘ったり埋めたりの土木工事があったわけだから、いろんな業者、つまりやくざも入ってきただろうし、沖縄の人間も来るし、いろんな人間が混沌としていた状態だった。そういう意味では、「西部の町」のようなものだった。」(44)

「伊差川 いやあ、同級生なんかに琉球人て言われて、何のことを言っているのかなあ、ウチナーンチュと言われたらわかるけど、琉球人と言われても、そんな言葉を知らなかった。使わなかった。」(44)

「伊差川 戦後の恩加島はおもしろかった。馬力屋の馬力大会をやったり、相撲大会をやったり、運動会なんて、北恩加島小学校はすごかった。四階まで鈴なりで。
 それに、製剤所の台板を利用して、沖縄芝居をしょっちゅうやっていた。泉尾劇場でも大宜見小太郎がおった。玉川劇場やら、市岡キネマやら、わしの家は下宿人が多いから、しょっちゅう連れて行ってもらった。玉川劇場にも行った。」(45)


■上地美和, 2007, 「『クブングヮー闘争』と沖縄出身者『社会』」大阪大学大学院文学研究科日本学研究室『日本学報』26: 1-18.

「「クブングヮー闘争」は、新左翼運動、そして1972年の「本土復帰」をめぐる運動が衰退してゆくなか、「沖縄」をめぐる運動の限界から出発し、新たな問題を提起することを意図していた。そのとき、「本土復帰」の現実を前にして、近代資本主義社会だけではなく、沖縄‐日本の関係を新たに問い直すことは不可欠の課題であり、そこに文化闘争が介在する必要があったのである。」(2)

1969年4月 クブングヮーについての住宅地区改良事業計画の発表(区画整備事業と住宅地区改良事業)
1969年 2度の火事 → 1970年 小林東町、泉尾7丁目に市営住宅の建設、移転開始。
「沖縄解放同盟、「北恩加島・小林町くらしを守る会」を中心に、最後の住人が改良住宅へと引越す1979年まで、住民の移転をめぐる権利獲得闘争が行なわれた。いわゆる「クブングヮー闘争」である。」(6)

「1970年代には社会運動そのものが衰退し、転換期を迎えていた。一方、沖縄の現状は「復帰」が既成事実となって以降も好転したわけではなく、「本土」との格差をはじめとして問題は山積していた。本土に住む沖縄出身者も経済的に、社会的に依然として困難な状況下で生活している人も少なくなかった。このような状況を直視することで、新左翼にも影響されない沖縄人独自の統一的運動を作ろうという気運が、関西、関東でも胎動する。この流れの中で、クブングヮー闘争で中心的な役割を果たす関西沖縄解放同盟〔準備会〕(以下、沖解同)が1973年に発足した。沖解同が組織した運動では、1975年に予定された「皇太子沖縄上陸阻止・海洋博粉砕のたたかい」が知られている。しかし、沖解同は、このような「大きな政治」だけでなく、「沖縄人」の生活に根ざした問題からも、「本土」と「沖縄」の歴史的関係を問題化することを意図していた。
 それゆえ、沖解同は部落解放運動に注目した。部落解放同盟を中心に行なわれた部落解放運動は、住宅要求闘争を盛んに闘い、一定の成果をあげていたからである。それに対して、類似した不良住宅地区を形成していた数多くの沖縄出身者にこのような運動は存在せず、1969年以降から住民の移転が始まっていたクブングヮーでも、そのような動きはなかった。」(6-7)
●沖縄闘争の再組織化 + 沖縄人独自の統一的運動の組織化 → 沖解同

1973年10月25日 大阪市大正区、沖縄会館にて関西謝花祭開催。沖解同の発足記念集会と位置付けられる。
1975年7月 皇太子沖縄上陸阻止・海洋博粉砕のたたかい(沖解同ほか)

「「本土」と「沖縄」の歴史的関係を【ママ】そのものを問題化する闘争、そして差別を解消するための具体的現実に即した住宅要求闘争、このふたつの闘争の交差点に、「クブングヮー闘争」が成立することになったのである。」(7)
●本土・沖縄の歴史的関係のみならず、差別解消のための具体的な要求運動とが交差する。

・クブングヮー闘争
1974年 沖解同メンバーとクブングヮーの住民による話し合い
1974年11月 クブングヮー(北恩加島・小林地区)の立ち退き問題を考える会 結成
1975年1月18日 北恩加島・小林町くらしを守る会 結成
「以下の四原則を掲げ会則とした。@地区に居住する全ての人々の生活圏を尊重すること。A地主・屋主の生活権を認め、立ち退きに関して、みんなが納得いくように補償を勝ち取る。B借家人の生活権を認め、納得の行くような補償の元に一日でもはやく、改良住宅へ入居できるようにする。C地区に居住する人で仕事場をもっている人は、将来的にも仕事を営めるように補償する。」(8)
1975年1月30日 「大正区北恩加島・小林地区の立ち退きに関する申し入れ書」
3月3日 大阪市が「建築物等の除却命令書」送付(5月31日までの撤去命令)
6月14日から8月18日 数回の団体交渉
9月? 「小林町4番地自治会」発足
9月25日 小林4番地自治会と大阪市との団体交渉
9月30日 都市再開発局都市改造部整地管理係「建物除却と立ち退きについて(勧告)」
11月25日 「盛土工事に関する要求書」(4番地自治会、くらしを守る会)
1979年 最後の住民の改良住宅への移転

→参考
金城宗和, 1997, 「本土沖縄人社会の生活世界――大阪市大正区を事例に」『立命館大学人文科学研究所紀要』68.
掘田暁生, 2002, 「大正区の近代」『ヒステリア』181.
新垣秋好, 1971, 「部落解放運動と沖縄解放――私の歩んだ道をふりかえって」『解放教育』4.(再掲:全国解放教育研究会編, 1976, 『沖縄の開放と教育』明治図書出版.)



■沖縄県人会兵庫県本部35年史編集委員会編, 19820620, 『ここに榕樹あり――沖縄県人会兵庫県本部35年史』.

※本文執筆を元琉球新報記者、『青い海』編集長の津野創一氏に委嘱。

・沖縄県人会兵庫県本部の運営と活動の特徴
■序 上江洲久(沖縄県人会兵庫県本部会長・財団法人兵庫沖縄協会会長)
「その一つは、活動の拠点としての沖縄会館の建設であり、他の一つは、地方議会への進出である。本土に於ける地方議会での会員による議席の保持は、一九四七年四月の第一回統一地方選挙に始まり、現在に至るまで継承され、沖縄会館からの財源確保とあわせて、県人会の運動面で活力に満ちた、大きな原動力となっている。
 しかし、何といっても沖縄県人会兵庫県本部の最大の特徴は、沖縄返還運動への参画であろう。発足当初の、親睦を基調とする相互扶助の諸事業や諸活動を徐々に強化拡大しながら、やがて母県沖縄の祖国復帰を目指して、在本土沖縄県人会の前衛的組織に進展した。他地域の殆どの県人会が、復帰運動は高度の政治問題だから、県人会の活動にはなじまない――として、意識的にこの運動から目をそらしたなかで、老若男女を問わず、組織の総力を傾注しての県人会兵庫県本部の復帰運動への取組みは、母県沖縄と本土の運動体に注目される程に、活力に満ちたものであった。
 われわれを復帰運動に駆り立てたのは一体何であったか。それは決して政治的見地からのものでもなく、思想、心情に根差したものでもなかった。われわれの復帰運動への理念は、民族自決の国連憲章にもとる異民族の軍事支配から母県沖縄を取り戻し、沖縄に平和を回復し、そして何よりも沖縄県民の人間としての尊厳を確保するための、崇高至純なものであった。だからこそ、組織全体の意志が統一され、組織ぐるみの運動の展開が可能になったのである。」(8-9)

「明治十二年の廃藩置県から五年後、つまり十七年には、早くも大阪商船の貨客船が不定期ながら大阪―那覇間を就航しているのである。翌十八年九月には、大阪―沖縄線が、定期で月一航海からスタートした。」
●1884年に大阪−那覇間の貨客船就航
→『大阪商船株式会社五十年史』(1934年)※Rあり

「今日の兵庫、大阪や和歌山などの県人会の前身ともいうべき関西沖縄県人会は、こうした沖縄からの大量の出稼ぎ労働者を背景に、大正十三年二月に大阪の地で呱々の声をあげた。大阪を中心に兵庫、和歌山、京都などに支部をつくり、その活動は嘱目すべきものがあったが、昭和に入ってからは活動も停滞しがちだったという。発足後間もなく、事業の一つとしての会報『同胞』創刊号が出されているはずなのだが」(31)
「東京の方では関西より三年ほど早く県人会が発足している。[…]明治十五年に、最初の沖縄県費留学生として上京した太田朝敷、岸本賀昌、謝花昇、今帰仁朝藩、高嶺朝教の五人が中心となり、勇進社をつくったのが同十九年だった。二十一年にはそれを沖縄学生会に、二十三年には更に沖縄青年会と改称した。そして、沖縄県人会と名称を三たび改め、名実ともに県人会活動をスタートさせたのが大正十年一月二十三日である。」(32)
●1924年 関西沖縄県人会の結成。大量の出稼ぎ労働者らによる。
●1886年 勇進社 → 1888年 沖縄学生会 → 1890年 沖縄青年会 → 1921年 沖縄県人会
●神山政良編『年表――沖縄問題と在京県人の動き』

・赤琉会: 井之口政雄、松本三益、浦崎康華などの職工らによって結成。関東大震災によって大阪へ。
「「赤琉会」は沖縄の青年をマルクス・レーニン主義で教育し、県人の苦難を打開するための闘いに忍耐づよく挺身する若者をつくる、そのための組織であったと浦崎は書いている。その指導者である井之口、松本が県人会でも本部幹事として名をつらね、実質的なリーダーとして采配を振った。このことが、県人会として嘱目すべき活躍を可能ならしめるとともに、のちには組織の分裂騒ぎのもとともなった。また、井之口、松本の二人とも共産党に入党して地下に潜ったために、県人会活動を停滞せしめる原因ともなるのである。」(34)
「関西沖縄県人会の活動は、沖縄からの出稼ぎ労働者に対する差別撤廃の闘い、そのものであったということができるだろう。ハンディを背負い、劣悪な労働条件のもとで働かざるを得ない何万人もの「琉球人」が居る。それを良いことに「比較的低廉で雇える」と喜ぶ雇用主や、労働災害の補償もせずに放り出そうとする工場がある。そうした不合理、矛盾、差別への怒りと若いエネルギーが、最初に赤琉会に結集した。大正十三年のメーデーには、二七人の赤琉会会員が「労働総同盟予備軍倶楽部」の旗をかかげて参加している。その赤琉会が、関西沖縄県人会をつくる原動力になったのである。県人会そのものも、社会主義運動と結びついていく必然性を、発足の時点から持っていたのだった。だからこそ県人会の活動は、嘱目すべき成果をあげることができたし、大きな力となり得た。」(48-49)
●1924年 赤琉会 結成 http://ryubun21.net/index.php?itemid=766
→浦崎康華『逆流の中で――近代沖縄社会運動史』※Rあり

・1945年11月11日 沖縄人連盟結成
・1945年11月26日 関西沖縄人連盟結成

・渡航拒否と渡航制限撤廃闘争
「本土―沖縄間の往来は、しかし戦後しばらくの間は米軍によって禁止され、監視網をくぐっての渡航は“密航”として厳罰に処されていた。それでも、肉親の安否を気づかう沖縄出身者が、鹿児島から小船で七島灘を越え、島づたいに帰郷していったものである。
 戦後処理の一環として、本土から沖縄への引揚げが開始されたのは、前節で詳述したように昭和二十一年(1946年)八月十五日だった。それから三年ののち、つまり同二十四年(1949年)三月二十九日になって、日本政府はGHQの許可のもとで本土から沖縄への渡航証明書発行を開始した。やや遅れて(五月)、米軍政府は沖縄から本土への渡航を認める。[…]とはいっても、オールマイティーともいうべき高等弁務官の“渡航拒否権”は復帰の直前までいかんなく発揮された。そのため本土に住む沖縄出身者が一時帰郷できず、親の死に目にあえなかったとか、肉親との再会をこばまれたなど、人道上ゆゆしい事態がしばしば起こったことは、沖縄同様であった。」(208)
「申請及び発給の日には、申請者本人が出頭しなければならない、という旅券並みのきびしい決まりもあった。そこで、沖縄県人会兵庫県本部は会員のために渡航手続き事務を代行することを考えた。昭和二十七年(1952年)四月二十八日、対日平和条約の発効とともに、県人会会員の一時帰郷希望者が増えはじめていたからである。[…]紆余曲折はあったものの、最終的には兵庫県庁上層部が“県人会による事務代行を黙認する”というかたちで実現せしめたのだった。昭和二十九年(1954年)六月一日のことである。
 以来、沖縄の本土復帰が実現するまでの十八年余にわたって、県人会会員(のちに一般希望者の分も代行した)の渡航手続きは、県人会事務局の手で、手数料なし(但し一般希望者は有料)で行われてきた。当初は年間数十人ていどだった渡航希望者が、やがて年間一千人を越すまでにふくれあがっていく。」(209)
「渡航手続きを県人会が代行することによって、会員は仕事を休んでまで県庁へ出頭しなければならない、という物理的、精神的負担から解放された。現在、全国に二〇余の沖縄県人会があるといわれているが、渡航業務を代行し得た県人会は、我々を除いて他にない。」(210)
「わが県人会は、旅券法や出入国管理令を、こうしたかたちで空洞化せしめることも、復帰運動の一つの成果だと自負している。」(211-212)
「県人会による渡航手続き事務は、専従職員を置けたという財政の裏付け、そして兵庫県庁の協力があればこそ可能なものであった。」(212)
●県人会による渡航手続事務の代行。

「「[…]手数料まで取られているのは憲法違反だ。日本政府は、これまで不当に徴収した手数料を本人に還付し、この不当な差別によって沖縄出身者が受けた精神的苦痛に対して慰謝料を支払うべきである」
 こんな内容のわが県人会の訴えが、全国の各新聞で大きく報道されたのは、沖縄の本土復帰準備作業にゆれていた昭和四十六年(1971年)二月のことだった。」(213)

1968年3月10日 那覇港での帰省学生3人による入域手続拒否(布令144号違反現行犯逮捕、罰金刑20ドル)
7月15日 羽田空港にて愛知県豊田市会議員・渡久地政司に手続き拒否。運転免許証により通過。
8月22日 鹿児島港でのベ平連学生らによる入域手続拒否。強硬上陸。
8月23日 東京・晴海埠頭での沖縄出身学生らによる拒否。強硬上陸。
1969年7月2日 神戸港で上江洲会長による拒否。船客への呼びかけ。黙認の上、上陸。
「沖縄は日本の領土です。外国から帰ってきた時のようなパスポート(身分証明書)の査証や、入国手続きなど必要ありません。私はこれから手続きを一切拒否して下船します。みなさんも、私と同じように入国手続きなしで下船してほしいのです。[…]せめて今貴方方がさせられている入国手続きが沖縄への差別であり、不当なものであるという認識だけは持って下船して下さい」(408)と呼びかける。
「当分の間神戸港に出向いて船客に入国手続き拒否を訴えていくことを決め、一〇日から実施した。県人会の訴えに共鳴した京都の女子大生二人が、手続きを拒否して下船したのは三週間後のことだった。」(410)
→出入国管理令第61条にもとづく管理であるものの、罰則規定がない。
●「国民」としての差別是正闘争であり、復帰運動の象徴的な実践であった。「国民」の外、非国民を国家が管理する体制である入管体制への反対や批判、入管闘争との接点はあったのだろうか。

・集団就職者への援護・支援
「会員のための援護は[…]戸籍、渡航手続き、敬老会や成人、新入学児童への祝金支給などがある。福祉面でいえば、会員の病気見舞いや物故者遺族への弔慰金支給も、県人会創立以来連綿とつづけられてきた。会員の台風や火災等による罹災者へは、本部からの見舞い金だけではなしに、県下各支部の会員が募金などで物心両面の支えとなってきたことは言うまでもない。」(294)
→就職斡旋、密入国者の保護・身元引き受け、送還手続き
「密入国者あり、海難事故者あり海外引揚者ありで、まさに“領事館”並みの役割りを果たさねばならなかったことがわかる。」(296)

「「郷土の若者たちにも広い本土で働く機会を与えてやりたい」と思ったのが、関西在住の沖縄県人有志たちだった。その奔走で大阪の製パン組合、製麺組合が求人の意向を示し、ともかくも傘下の組合員から男子一二二人の求人票をまとめてくれた。以来、スカイメイトなど若者半額優待システムによる航空機利用が一般化するまで、長い年月にわたって神戸港中突堤は、夢と希望に胸ふくらませた沖縄の少年や少女たちが、はじめて踏みしめる“本土の土”であった。
 沖縄県人の斡旋で実現した大阪製パン、製麺組合の求人に、琉球政府は渡りに船とばかりに飛びついた。ただちに県下の(当時は全琉といった)職業安定所で募集がはじまると、六七〇人もの応募があったというから沖縄の求職難のきびしさが偲ばれる数字である。」(301)
→「沖縄で聞いた就職条件とはまるで違う。一日一二〜三時間も働かなければならないし、超過勤務手当もくれない。寮というのも名ばかりで、雨漏りはするし立て付けは悪いし、まるで馬小屋並みのところも多い」(122人の団長の発言)(302)
「沖縄からやってくる集団就職の少年や少女は、さまざまな問題に直面し、悩んだ。雇用する側の無理解や差別意識に苦しんだり、コミュニケーションの不足から誤解を生じ、こじらせることもあった。まわりに、親身になって相談にのってくれる相手をもたない悩みも深刻であった。復帰前はとくに特殊な事情が加わり、少年少女たちを苦しめるケースが多かったように思う。
 そんな若者たちのために、沖縄県人会兵庫県本部は能う限りの世話と努力をつづけてきた。働く青少年との懇談会を開いたり、企業を訪問して若者たちと語り合い、あるいは問題の解決に力を貸した。」(302)
●集団就職者たちの生活・労働現場で抱えた問題。「親身になって相談にのってくれる相手をもたない悩み」。
→沖縄県人会兵庫県本部による世話と支援。
1968年6月9日読売新聞報道 日本製麻兜コ庫工場で沖縄出身女子従業員が雇用条件が違うと主張し、抗議。県人会はさっそく調査団をつくり、工場にむかう。その結果、雇用契約時の説明と実態との乖離、さらには渡航のための身分証明書の取り上げという問題が明らかとなった。改善を会社側に申し入れ、「早急に改善するとの約束をとりつけたのである。(304)。
●1968年6月9日読売新聞
1968年7月下旬 尼崎市内の久大紡績竃{工場に勤める沖縄出身女子従業員からの相談を受け付ける。「会社を辞めて沖縄に帰りたいのだが、会社は退職金を出してくれそうもなくて困っている。県人会がなんとか交渉して出させてもらえないだろうか」(304-305)
会社の業績不振による本工場の閉鎖決定。それに伴う新たな工場への配転指示。女子従業員は断り、退職を申し出る。しかし、会社側は退職金と、雇用時の約束となっていた帰郷旅費も拒否。
「少女たちの訴えによると、女子の深夜勤務がよくあり、ひどい時には午前五時から翌日の午前零時まで一九時間ぶっ通しで働かされ、一ヵ月の残業が二〇〇時間を超えることもあった。「あまりに仕事がきついので昨年九月、七人が四国へ逃げたが、一週間後に連れ戻されたこともある」(神戸新聞・昭和四十三年七月二十六日付)。深夜作業があるときは職制が会社のまわりを監視、労基署の立ち入り検査があれば、すぐに電灯を消して別室に隠れるように言いつけられていた、ともいう。
 本社工場の閉鎖が発表されたあと、多くの女子従業員が配置転換を拒否、一部政党の介入などもあって労使の紛争もつづいていた。沖縄の少女たちは、そうした状況にも先行き不安を感じたようだ。」(305)
「政党、一部労働団体などが介入してきて手を焼いていたこともあり、会社側は「部外者から出された要望書はいちいち答える必要はない」と頑なな態度をみせた。」(306)
●神戸新聞・昭和四十三年七月二十六日付
しかし、新聞報道により、労働基準監督署や琉球政府大阪事務所の調査が始まり、会社側の対応が柔軟化、退職慰労金と沖縄への旅費の支給という「急転直下の円満解決」(307)をむかえる。
「この久大紡績問題に限らず、わが県人会は労使間のコミュニケーション不足によるこじれや誤解、もつれをほぐすために、仲介の労をいとわなかった。県人会という独得な立場が、こうした役割りにうってつけだったということもできる。労働問題としての交渉なら、久大紡績の場合も紛争はおそらく長引いたに違いない。それを、同胞の子弟のために、政党や思想・信条を超えた県人会という組織が、人道的な立場から会社側との話し合いをする。説得し、解決の糸口を引き出していく。そこにこそ円満解決のポイントがあり、県人会の存在意義の一つがあったのである。」(307-308)
●労働組合とは異なり、思想信条を超えた人道的立場からの介入という特徴(の自負)。

・解放教育副読本『にんげん』問題への掲載賛成/反対派批判の立場からの介入(321〜)




*作成:大野光明
UP: 20111128 Rev: 20130113, 0115

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