自動車運転免許 道路交通法 欠格条項 身体障害者雇用促進法 就労
平成29年版『障害者白書』に付された資料「障害者施策の主な歩み」では、「昭和35年(1960)」の「6月「道路交通法」公布(身体障害者の運転免許取得可能となる)」と書かれてある。道路交通法第88条で「免許の欠格事由」が定められたことによって、逆にその事由にあてはまらない身体障害者の免許取得が制度的に可能になったのである。本報告では、当事者による運転免許獲得運動や国会での審議などに触れながら、道交法制定によって障害者の自動車運転免許獲得がより広く認められることになった背景に、障害者の就労問題があったことを明らかにする。
道交法案は1960年2月17日に内閣より国会に提出され、参議院先議ということになり、地方行政委員会で審議が進められた。その間、60年安保闘争があり、「国会議事堂を取り巻いたデモにより混乱事態が発生し、一時、国会の審議が中断」したが、6月25日に成立する(道路交通問題研究会編 2002a: 259-260)。道交法、そして同時期に審議されていた身体障害者雇用促進法(1960年7月25日公布・施行)は、新安保条約の自然承認(6月19日)、岸信介首相の辞意表明(6月23日)を挟んで、審議と可決・承認が進められたのであった。
1960年2月26日の「第34回国会衆議院地方行政委員会6号」の議事録によると、当時の国家公安委員長の石原幹市郎(参議院議員)が、道交法案の「提案理由」を「現行の道路交通取締法及び同法施行令を廃止し、新たに道路交通法を制定しようとするもの」であること、その背景に「自動車の急激な発達、普及及び増加」などによる道路交通の変化があり、今後も大きな変化が予想されることにあると説明している。ちなみに石原は内務省出身で、1960年4月4日に「警職法の改正はどうしても必要であると発言」し、波紋を広げた人物である(原編 2014: 331)。道交法のデモへの適用については、国会審議においても度々懸念が表明され、法律家の関心も向けられていたが、それは当時の状況とその後の影響を考えれば当然であった。
ただし道交法を、取締りに主眼を置いた抑圧的な法律とのみ捉えることは正しくない。確かに、道交法制定の直接の背景には急増する交通事故があり、取締りを強化することによって解決を図るべきとする声は、警察の内外にあった。しかし道交法においては、戦後の民主化と経済発展を阻害しないことへの配慮のために、単に規制や取締りを強化すればいいという考えは否定されている。
例えば警察庁は、新憲法に合わせた「交通警察のフィロソフィー」が必要であると考え、1958年に「交通警察についての考え方」を作成し、現場の警察官に示している。そこでは「在来の“権力機関としての警察”という考え方を根本的に考え直す」ことが目指された。具体的には、「交通は日日実現している社会生活であるということ」「交通警察は『善人』をその仕事の相手としているということ」「交通法令は、生活のルールを定めたものであるということ」など5つの考え方が示された。そして道交法では、道路交通取締法からは「取締」が削除され、交通の安全とともに「円滑」を図ることが目的とされた。「円滑」は、「安全」を守るために取締りや規制が強化され、交通や流通の発達が阻害されることへの懸念に応えるために、盛り込まれた文言である。戦後の民主化と交通の「円滑」を図るという目的によって、道交法は「安全」のための取締り一辺倒の法律にならなかったのである。
道交法は基本的に道路交通政策のための法であり、また政治弾圧に使われるのではないかという危惧もあった。そのようななか、より多くの障害者の運転免許獲得を可能にする条項が盛り込まれることになったのである。本節では、それを障害者の就労との関わりで見ていきたい。その際、障害者の就労支援が、それらが労働省と厚生省の2つの省にまたがって行われ、「縦割り行政」として批判的に見られてきたことに注目する(坂井 2019: 122-124; 山村 2019; 111-112)。
杉原は、「戦後における障害者の雇用過程」を5つの時期に区切り、それぞれの特徴を論じている。本稿の対象となるのは「雇用基盤の整備期」(1945年〜1959年)と「法による雇用制度確立期」(1960年〜1975年)の時期にあたる(杉原 2008: 93)。「雇用基盤の整備期」においては、まず1947年5月に施行された日本国憲法で社会権(生存権や労働基本権など)が認められ、職業安定法(1947年11月)や身体障害者福祉法(1949年12月)が制定された。職業安定法では、例えば第22条において身体に障害のあるものの職業指導を行わねばならないと定められるなどしており、主に労働省の下で、障害者を対象とする職業紹介、職業指導、職業補導が行われた。職業補導とは、求職者に職場や産業が求める一定の技能を習得させることであるが、1948年当時、大阪身体障害者職業補導所で行われた訓練の内容は、「洋服、和洋裁、刻印、靴、謄写筆耕、時計修理、ミシン修理、自動車修理、竹細工及び理髪など、主に家内工業や自営業として活用できるものであり、雇用されることを前提とした」ものではなかった(杉原 2008: 97)。その要因を、杉原は先行研究を参照して、「一般の健常求職者」であっても雇用されることが難しい現状や、身体障害者は通勤や移動が困難であることなどから、障害者は家内工業や自営業で働くことが現実的と考えられていたと分析している。
一方、同時期に、厚生省社会局を中心に身体障害者福祉法の制定準備が進められおり(矢嶋 1997; 矢嶋 1999)、1948年8月には、身体障害者更生事業を専管する更生課が設置された。初代更生課長の黒木利克氏によると、「わが国で『リハビリテーション』ということばを教えられたのはたしか昭和22年であった。それを『更生』と翻訳したのである」とのことである(矢嶋 1999: 54)。黒木氏は1948年9月に渡米し、身体障害者の職業復帰の促進に関わる「職業リハビリテーション法(Vocational Rehabilitation Act Amendments of 1943, July 6, 1943, ch190, §1, 57Stat347)」などについて学んできた。そして、当時の身体障害者の多くを占めた傷痍軍人の扱いや予算の確保などをめぐって、制定までに紆余曲折があったが、身体障害者福祉法は1949年に成立している。またその過程で、1949年に国立身体障害者更生指導所設置法(5月31日法律第152号)が成立し、日本で初めての身体障害者のリハビリテーションセンターである国立身体障害者更生指導所が、神奈川県高座郡相模原町に同年10月1日に開設された。国立身体障害者更生指導所は、前述したように、道交法案の作成段階で警察庁・警視庁の係官が訪れ、障害者の自動車運転に必要な四肢の操作能力の調査を行った施設である。道交法制定における身体障害者の自動車免許獲得の流れは、厚生省と警察庁によって作られたと考えられる。
労働省主導による身体障害者雇用促進法制定は、1955年のILOによる「障害者の職業更生に関する勧告」(第99号)や、「高度成長」の開始による労働需要の増加を契機にしたものであった(杉原 2008: 99-100)。道交法と身体障害者雇用促進法は、1960年の同時期に国会で審議されているが、障害者の自動車免許獲得について、労働省と厚生省で連携・連絡が取れているようには見えない。例えば、1960年3月25日の「参議院地方行政委員会12号」において、日本社会党の木下友敬が、障害者の運転免許取得について質問をし、内海が回答をしている。そこでは、まず道路交通取締法において、「運転免許を受けた者が身体障害を生じて取り消される場合の条件」が記されており、それが免許を取ろうとする者に対して適用され、実質的に障害者の運転免許獲得が制度的に認められない状況を生んでいるとの説明がなされる。そして内海は「この新しい法律案に基づきます政令におきましては、明確な基準を設定いたしたい」と述べ、科学警察研究所の交通部において身体上の基準の設定が進められていること、義手などを使用して運転が可能と認められれば積極的に免許を認めていきたいと考えていることなどが説明される。この答弁を受け、木下は「ちょうどそれを聞きたかったのです」と述べている。さらに「身体障害者の雇用法」について言及しながら、身体障害者の自動車免許獲得が「かなりの幅」で認められる見通しなのか念を押して確認する木下に対して、内海は明確に前向きな回答をしている。
一方、身体障害者雇用促進法が審議された衆議院の社会労働委員会においては、約2ヶ月後の5月17日に障害者の運転免許について、同じ日本社会党の滝井義高議員が質問をしている。滝井議員は、「補装具の進歩」に触れながら、「いなかや何かで、ある程度運転免許を段階的に認めて、そうして事故がないということになれば、今度は三輪車とか自動車、こういうように段階的に認めていくような制度を、身体障害者にもとってやる必要があるのではないか」と尋ねている。労働省職業安定局長であった堀秀夫氏は「大都会等の交通量の非常に激しいようなところにおきましては、現状としては、ただいまのような身体障害者に対する適当な補助具があったといたしましても、交通安全の見地あるいはその人の人命尊重という見地からも、非常にむずかしい問題があるのじゃないか」と述べ、「よく関係者の御意見を伺い、技術的な検討を加えました上で慎重にきめて参りたい」と回答している。重ねて、段階的でもいいから障害者の自動車免許獲得を認めていくようにと求める滝井に対して、労働大臣であった松野頼三も、「自動車免許のことはまだ私も明快に存じませんが、一応そういうふうな段階を経ながら、やはり適応訓練ということ及び補助具の研究もありますので、あわせてなおこの問題については現実的にもう少し検討して参りたいと考えます」と消極的な回答をしている。
以上から、道交法制定によって障害者の自動車運転免許獲得がより広く認められることになった背景には障害者の就労問題があったこと、厚生省と警察庁の連携によって進められたこと、その際に労働省との連携・連絡が十分ではなかったことが分かる。
1970年の『厚生白書』では、「自動車利用の促進」という項目が設けられ、身体障害者にとって自動車の利用が社会復帰の促進に効果があるため、「自動車にかかる物品税や自動車税等の減免措置あるいは、身体障害者更生資金による自動車取得に要する資金の融資施策(生業資金の貸し付け)などを行なつてきた。45年度からは、さらに各県にある肢体不自由者更生施設に訓練用自動車を配置し、運転免許の取得の促進を図ることとした」と書かれており、障害者の就労・社会復帰と自動車利用が、継続した課題として取り組まれたことが分かる。しかしその一方で、同時期の1968年に荒木氏は検挙され、69年に道路交通法違反で起訴されている(深田 2018)。荒木氏から生活手段を奪った起訴、判決には、やはり首を傾げざるをえない。
本報告では、道交法制定によって、より多くの身体障害者が自動車運転免許を獲得できるようになった経緯を、当事者の運動と厚生省・労働省の動きに着目して明らかにした。その過程で、道交法が戦中から戦後にかけて分割された「警察」と「社会政策」(厚生省と労働省)の境界線上にある法律であることも分かった。道交法に障害者の就労に関わる条項が盛り込まれた背景を、当時の「社会政策」「福祉国家」をめぐる状況から分析することを今後の課題としたい。