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「障害者の就労と道路交通法の制定」

橋口 昌治 2020/09/19
障害学会第17回大会報告 ※オンライン開催

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last update: 20210821

質疑応答(本頁内↓)



キーワード

自動車運転免許 道路交通法 欠格条項 身体障害者雇用促進法 就労

はじめに

平成29年版『障害者白書』に付された資料「障害者施策の主な歩み」では、「昭和35年(1960)」の「6月「道路交通法」公布(身体障害者の運転免許取得可能となる)」と書かれてある。道路交通法第88条で「免許の欠格事由」が定められたことによって、逆にその事由にあてはまらない身体障害者の免許取得が制度的に可能になったのである。本報告では、当事者による運転免許獲得運動や国会での審議などに触れながら、道交法制定によって障害者の自動車運転免許獲得がより広く認められることになった背景に、障害者の就労問題があったことを明らかにする。


1 道路交通法の制定と「身体障害者運転免許獲得運動」

 本節では、運転免許取得が可能になった経緯などについて、道路交通問題研究会編『道路交通政策史概観』の「論述編」(2002a)と「資料編」(2002b)や、吉村(1994)、遠藤(1994)など国立身体障害者リハビリテーションセンター監修『身体障害者・高齢者と自動車運転――その歴史的経緯と現状』に所収された文章などを参照して、詳しく説明していきたい。
まず現行の道交法に定められた運転免許制度とは、一般に禁じられている自動車や原動機付自転車の道路上での運転を、公安委員会が行う運転免許試験に合格したもののみ運転免許証を交付して許可するという制度である(道交法第64条「無免許運転等の禁止」および第84条「運転免許」)。
  日本で初めての全国的に統一された自動車に関する交通法規は、1919年(大正8年)に制定された自動車取締令(内務省令第1号)であり、運転者免許についても定められた。そこで免許は、各種の自動車を運転できる「甲種」と特定・特殊な自動車を運転できる「乙種」に分けられ、「自動車による人の傷害又は物の損壊、精神病者等に該当するに至ったとき、本令又は本令に基づく命令に違反したときなど」に行政処分の対象になるとされた。1933年に全面改定された自動車取締令では、運転免許の種類が普通、特殊(18歳以上)、小型免許(16歳以上)の3種類になり、仮免許と「一般公衆を乗せる車両を運転する職業運転手」の就業免許制度が新設された。そして「精神病者・聾者・唖者・盲者に該当するときは、免許を取消し又は停止すること」となった(吉村 1994: 3-4)。1947年制定の道路交通取締法、道路交通取締法施行令・施行規則(1953年)においても、基本的に障害者は運転免許が取得できない状況が続いた。
  これに対し、動力付きの移動手段を使用する試みが複数の障害者によって取り組まれ、免許獲得のための運動が行われていた。例えば山梨県の原徳明氏(1920年生まれ)は、小学校1年生のときに脳脊髄膜炎によって下半身マヒなり、通学ができなくなったが、独学で機械工作を学び、1936年に「手回し三輪車」を、1955年に「軽三輪自動車」を開発している。「軽三輪自動車」は、1957年に東京陸運局の型式認定を受け、製造販売もされた。また原氏自身も、1953年に「自作の軽三輪自動車で障害者では全国初の県発行運転許可証」、55年には「正式な運転免許証」を取得している。「今ほど障害者の運転に対する理解がない時に、警察、陸運事務所などとねばり強く交渉した結果で、画期的なことだった」と言える。(『毎日新聞』1982.12.12.)。
  一方、1944年に左大腿部を切断した香川県の掛橋一郎氏は、53年にラビット(スクーター)で試験を受け、運転免許を取得している。障害者の自動車運転の沿革をまとめた遠藤光二氏は、「この事例が示すように、制度的には免許の取得はできないが、一部では弾力的な運用が行われていた」と述べている(遠藤 1994: 145)。京都府の長橋栄一氏も、3年間にわたる京都府警への働きかけを経て、1960年に原動機付き三輪車の免許を獲得している(廣野 2019,196)。
  また、事故によって障害者になったあとも、受傷前に取得した免許によって運転を続けた事例として、東京都の藤森善一氏が挙げられる。藤森氏は、1953年に路肩で車の修理をしているときに事故に遭い両足を切断したが、残存していた太腿でクラッチを操作する装置を考案し、運転を続けた。免許の有効期限が切れる前に、装置のついた車を自動車運転試験場に持ち込み、運転能力に問題がないことを示したが、当時の道路交通取締法では認められず、56年に免許を失っている。失効後は、家族に免許を取得させて代わりに運転をさせる一方、警察や陸運局に通い免許制度の改正を訴え続けたという(藤森 1985; 藤森 2012)。
  このように各地で同時発生的に障害者による免許獲得運動が起こるなかで、特に先駆的であったと言われているのが、東京都の渡辺聖火氏である。渡辺氏は、1952年に厚生車輛人団(のちの厚生車輌協会)を創立し、機関紙「自活の友」(後年「足」)などを創刊・発行して、東京都以外に住む当事者、例えば大阪府の吉村昭氏などにも影響を与えた(吉村 2011)。吉村氏によると「同氏は新法成立10年も前から「下肢障害者の自立更生には車両運転が必要」と厚生車両人団を設立、機関紙「足」を発行。(…)毎号のように「免許取得を早めるにはどうすれば!!」と叫ばれていたのが東京の小山力太朗氏でした」と述べている。小山氏は、1921年生まれで、17歳のときに脊髄濃化症によって両下肢機能障害を負い、その後、運転免許取得実現を訴えるために無免許運転を続けた(東京都身障運転者協会 2014: 13)。その小山氏も、「昭和30年頃から、我々歩行不能・不自由者は、身体障害者ドライバーの先駆者である日本車イス協会会長故渡辺聖火氏を中心に「身体障害者運転免許獲得運動」そして「身体障害者自動車教習所」設立運動を展開した」と当時の状況を振り返っている(小山 1995: 124)。
  遠藤氏も、渡辺氏が東京都身体障害者団体連合会(都身連)主催の「身体障害者大運動会の休憩時間に50cc付き三輪車いすを試走させ」、障害当事者と観衆への啓蒙活動を行ったこと、関連当局に対する働きかけを行っていたことを伝えている(遠藤 1994: 145)。1959年2月22日付の産経新聞の記事(「車は私たちの”足” 身体障害者が免許獲得運動」)には、「法令改正にあたっての希望条件を示した請願書を試験場、警察庁、厚生省に提出することになった」とある(東京都身障運転者協会 2014: 16)。
  このような「身体障害者運転免許獲得運動」の背景には、自動車の運転が仕事に必要であったことが挙げられる。原氏も免許獲得後に「仕事などで走り回った」とあるし(前掲の毎日新聞の記事)、掛橋氏も遠藤氏の問い合わせに対して「開口一番『車は生活を助けてくれた! 無事故で運転していますよ』と元気な声」で回答している(遠藤 1994: 145)。タクシー運転手をしていた藤森氏は、受傷後、雇用してくれる事業所がなかったため、生活のために中古のクライスラーのダッジを購入し、改造して装置を付け、移動商店を始めたという。藤森氏の娘である藤森一子氏は当時の状況を以下のように述べている。

  何とかやるしかないか、と腹をくくって退院してみたものの、一九五五年(昭和三十年)前後に両脚がない身体障害者を雇用する事業所はありません。そうだとしたら、自分で何らかの商売を考えるしかない時代でした。いろいろトライしてたどり着いたのは、自動車を使った移動販売です。(藤森 2012: 68)

  1955年は、1960年の身体障害者雇用促進法制定の契機の一つとなる「障害者の職業更生に関する勧告」(第99号)が、ILO第38回総会において採択された年である。
  このように、運転免許取得は障害者の就労(雇用のみならず自営)に関わっていた。そして、当事者による生活を賭けた粘り強い運動の結果、1960年制定の道交法によって、身体障害者の自動車運転免許の獲得が制度的に認められるようになった。その制定の経緯について、遠藤は以下のように述べている。

  昭和34年厚生省社会局更生課の山崎補佐(法令担当)と田原補佐(行政担当)は警察庁保安局交通課長の内海氏に障害者の自動車運転免許の取得についての検討を依頼している。同課長からアメリカ等では障害者の自動車運転免許は認められているので、これからは運転免許が取得できるようにしていくとの約束を得たのもこの頃であった。
(…)
  そして昭和34年道路交通法案作成の段階で、警察庁・警視庁の係官は国立身体障害者更生指導所(昭和39年国立身体障害センターと名称変更、さらに昭和54年国立身体障害者リハビリテーションセンターに組織変更した)へ障害者の自動車運転に必要な四肢の操作能力の調査に訪れた。この際、入所者の柳谷直樹氏、高橋清文氏、小池左加江氏等が調査に協力し実測が行われている。
  かくして昭和35年に施行された道路交通法第88条で「精神病者、精神薄弱者、てんかん病者、目が見えない者、耳がきこえない者又は口がきけない者」「これらの者のほか政令で定める身体の障害のある者」には免許を与えないと定め、これをうけて同法施行令第33条、同施行規則23条が定められた。これにより初めて身体障害者のなかの相当数の者が、法律に基づいて運転免許の取得ができる道が開かれたのである。(遠藤 1994: 146)

  取得第一号は前述の藤森氏で、施行当日に取得したという(藤森 2012:82; フジオート編 2010: 1)。それに多くの身体障害者が続いていく一方、欠格事由を明確にした道交法は、免許を取得できる障害者と取得できない障害者を分けることにもなった。これは欠格条項撤廃の運動へとつながっていく。

2 道交法制定の背景と特徴

道交法案は1960年2月17日に内閣より国会に提出され、参議院先議ということになり、地方行政委員会で審議が進められた。その間、60年安保闘争があり、「国会議事堂を取り巻いたデモにより混乱事態が発生し、一時、国会の審議が中断」したが、6月25日に成立する(道路交通問題研究会編 2002a: 259-260)。道交法、そして同時期に審議されていた身体障害者雇用促進法(1960年7月25日公布・施行)は、新安保条約の自然承認(6月19日)、岸信介首相の辞意表明(6月23日)を挟んで、審議と可決・承認が進められたのであった。
  1960年2月26日の「第34回国会衆議院地方行政委員会6号」の議事録によると、当時の国家公安委員長の石原幹市郎(参議院議員)が、道交法案の「提案理由」を「現行の道路交通取締法及び同法施行令を廃止し、新たに道路交通法を制定しようとするもの」であること、その背景に「自動車の急激な発達、普及及び増加」などによる道路交通の変化があり、今後も大きな変化が予想されることにあると説明している。ちなみに石原は内務省出身で、1960年4月4日に「警職法の改正はどうしても必要であると発言」し、波紋を広げた人物である(原編 2014: 331)。道交法のデモへの適用については、国会審議においても度々懸念が表明され、法律家の関心も向けられていたが、それは当時の状況とその後の影響を考えれば当然であった。
  ただし道交法を、取締りに主眼を置いた抑圧的な法律とのみ捉えることは正しくない。確かに、道交法制定の直接の背景には急増する交通事故があり、取締りを強化することによって解決を図るべきとする声は、警察の内外にあった。しかし道交法においては、戦後の民主化と経済発展を阻害しないことへの配慮のために、単に規制や取締りを強化すればいいという考えは否定されている。
  例えば警察庁は、新憲法に合わせた「交通警察のフィロソフィー」が必要であると考え、1958年に「交通警察についての考え方」を作成し、現場の警察官に示している。そこでは「在来の“権力機関としての警察”という考え方を根本的に考え直す」ことが目指された。具体的には、「交通は日日実現している社会生活であるということ」「交通警察は『善人』をその仕事の相手としているということ」「交通法令は、生活のルールを定めたものであるということ」など5つの考え方が示された。そして道交法では、道路交通取締法からは「取締」が削除され、交通の安全とともに「円滑」を図ることが目的とされた。「円滑」は、「安全」を守るために取締りや規制が強化され、交通や流通の発達が阻害されることへの懸念に応えるために、盛り込まれた文言である。戦後の民主化と交通の「円滑」を図るという目的によって、道交法は「安全」のための取締り一辺倒の法律にならなかったのである。


3 障害者の就労と自動車運転免許

道交法は基本的に道路交通政策のための法であり、また政治弾圧に使われるのではないかという危惧もあった。そのようななか、より多くの障害者の運転免許獲得を可能にする条項が盛り込まれることになったのである。本節では、それを障害者の就労との関わりで見ていきたい。その際、障害者の就労支援が、それらが労働省と厚生省の2つの省にまたがって行われ、「縦割り行政」として批判的に見られてきたことに注目する(坂井 2019: 122-124; 山村 2019; 111-112)。
  杉原は、「戦後における障害者の雇用過程」を5つの時期に区切り、それぞれの特徴を論じている。本稿の対象となるのは「雇用基盤の整備期」(1945年〜1959年)と「法による雇用制度確立期」(1960年〜1975年)の時期にあたる(杉原 2008: 93)。「雇用基盤の整備期」においては、まず1947年5月に施行された日本国憲法で社会権(生存権や労働基本権など)が認められ、職業安定法(1947年11月)や身体障害者福祉法(1949年12月)が制定された。職業安定法では、例えば第22条において身体に障害のあるものの職業指導を行わねばならないと定められるなどしており、主に労働省の下で、障害者を対象とする職業紹介、職業指導、職業補導が行われた。職業補導とは、求職者に職場や産業が求める一定の技能を習得させることであるが、1948年当時、大阪身体障害者職業補導所で行われた訓練の内容は、「洋服、和洋裁、刻印、靴、謄写筆耕、時計修理、ミシン修理、自動車修理、竹細工及び理髪など、主に家内工業や自営業として活用できるものであり、雇用されることを前提とした」ものではなかった(杉原 2008: 97)。その要因を、杉原は先行研究を参照して、「一般の健常求職者」であっても雇用されることが難しい現状や、身体障害者は通勤や移動が困難であることなどから、障害者は家内工業や自営業で働くことが現実的と考えられていたと分析している。
  一方、同時期に、厚生省社会局を中心に身体障害者福祉法の制定準備が進められおり(矢嶋 1997; 矢嶋 1999)、1948年8月には、身体障害者更生事業を専管する更生課が設置された。初代更生課長の黒木利克氏によると、「わが国で『リハビリテーション』ということばを教えられたのはたしか昭和22年であった。それを『更生』と翻訳したのである」とのことである(矢嶋 1999: 54)。黒木氏は1948年9月に渡米し、身体障害者の職業復帰の促進に関わる「職業リハビリテーション法(Vocational Rehabilitation Act Amendments of 1943, July 6, 1943, ch190, §1, 57Stat347)」などについて学んできた。そして、当時の身体障害者の多くを占めた傷痍軍人の扱いや予算の確保などをめぐって、制定までに紆余曲折があったが、身体障害者福祉法は1949年に成立している。またその過程で、1949年に国立身体障害者更生指導所設置法(5月31日法律第152号)が成立し、日本で初めての身体障害者のリハビリテーションセンターである国立身体障害者更生指導所が、神奈川県高座郡相模原町に同年10月1日に開設された。国立身体障害者更生指導所は、前述したように、道交法案の作成段階で警察庁・警視庁の係官が訪れ、障害者の自動車運転に必要な四肢の操作能力の調査を行った施設である。道交法制定における身体障害者の自動車免許獲得の流れは、厚生省と警察庁によって作られたと考えられる。
  労働省主導による身体障害者雇用促進法制定は、1955年のILOによる「障害者の職業更生に関する勧告」(第99号)や、「高度成長」の開始による労働需要の増加を契機にしたものであった(杉原 2008: 99-100)。道交法と身体障害者雇用促進法は、1960年の同時期に国会で審議されているが、障害者の自動車免許獲得について、労働省と厚生省で連携・連絡が取れているようには見えない。例えば、1960年3月25日の「参議院地方行政委員会12号」において、日本社会党の木下友敬が、障害者の運転免許取得について質問をし、内海が回答をしている。そこでは、まず道路交通取締法において、「運転免許を受けた者が身体障害を生じて取り消される場合の条件」が記されており、それが免許を取ろうとする者に対して適用され、実質的に障害者の運転免許獲得が制度的に認められない状況を生んでいるとの説明がなされる。そして内海は「この新しい法律案に基づきます政令におきましては、明確な基準を設定いたしたい」と述べ、科学警察研究所の交通部において身体上の基準の設定が進められていること、義手などを使用して運転が可能と認められれば積極的に免許を認めていきたいと考えていることなどが説明される。この答弁を受け、木下は「ちょうどそれを聞きたかったのです」と述べている。さらに「身体障害者の雇用法」について言及しながら、身体障害者の自動車免許獲得が「かなりの幅」で認められる見通しなのか念を押して確認する木下に対して、内海は明確に前向きな回答をしている。
  一方、身体障害者雇用促進法が審議された衆議院の社会労働委員会においては、約2ヶ月後の5月17日に障害者の運転免許について、同じ日本社会党の滝井義高議員が質問をしている。滝井議員は、「補装具の進歩」に触れながら、「いなかや何かで、ある程度運転免許を段階的に認めて、そうして事故がないということになれば、今度は三輪車とか自動車、こういうように段階的に認めていくような制度を、身体障害者にもとってやる必要があるのではないか」と尋ねている。労働省職業安定局長であった堀秀夫氏は「大都会等の交通量の非常に激しいようなところにおきましては、現状としては、ただいまのような身体障害者に対する適当な補助具があったといたしましても、交通安全の見地あるいはその人の人命尊重という見地からも、非常にむずかしい問題があるのじゃないか」と述べ、「よく関係者の御意見を伺い、技術的な検討を加えました上で慎重にきめて参りたい」と回答している。重ねて、段階的でもいいから障害者の自動車免許獲得を認めていくようにと求める滝井に対して、労働大臣であった松野頼三も、「自動車免許のことはまだ私も明快に存じませんが、一応そういうふうな段階を経ながら、やはり適応訓練ということ及び補助具の研究もありますので、あわせてなおこの問題については現実的にもう少し検討して参りたいと考えます」と消極的な回答をしている。
  以上から、道交法制定によって障害者の自動車運転免許獲得がより広く認められることになった背景には障害者の就労問題があったこと、厚生省と警察庁の連携によって進められたこと、その際に労働省との連携・連絡が十分ではなかったことが分かる。 1970年の『厚生白書』では、「自動車利用の促進」という項目が設けられ、身体障害者にとって自動車の利用が社会復帰の促進に効果があるため、「自動車にかかる物品税や自動車税等の減免措置あるいは、身体障害者更生資金による自動車取得に要する資金の融資施策(生業資金の貸し付け)などを行なつてきた。45年度からは、さらに各県にある肢体不自由者更生施設に訓練用自動車を配置し、運転免許の取得の促進を図ることとした」と書かれており、障害者の就労・社会復帰と自動車利用が、継続した課題として取り組まれたことが分かる。しかしその一方で、同時期の1968年に荒木氏は検挙され、69年に道路交通法違反で起訴されている(深田 2018)。荒木氏から生活手段を奪った起訴、判決には、やはり首を傾げざるをえない。


4 おわりに

本報告では、道交法制定によって、より多くの身体障害者が自動車運転免許を獲得できるようになった経緯を、当事者の運動と厚生省・労働省の動きに着目して明らかにした。その過程で、道交法が戦中から戦後にかけて分割された「警察」と「社会政策」(厚生省と労働省)の境界線上にある法律であることも分かった。道交法に障害者の就労に関わる条項が盛り込まれた背景を、当時の「社会政策」「福祉国家」をめぐる状況から分析することを今後の課題としたい。


【参考文献】

道路交通問題研究会編,2002a,『道路交通政策史概観 論述編』プロコムジャパン.
――――編,2002b,『道路交通政策史概観 資料編』プロコムジャパン.
遠藤光二,1994,「障害者の自動車運転の沿革」国立身体障害者リハビリテーションセンター監修『身体障害者・高齢者と自動車運転――その歴史的経緯と現状』中央法規出版,143-174.
フジオート編,2010,『ハンディキャップドライバー50年の歩み』.
(http://www.fujicon.co.jp/company/_images/HCR_panf.pdf:最終閲覧日2020年8月26日)
藤森一子,2012,『両脚のない闘士 藤森善一――身障者にも車という翼を!』文芸社.
藤森善一,1985,「身障者用自動車の開発」『理学療法と作業療法』19巻6号,377-382.
深田耕一郎,2008,「荒木義昭・オーラルヒストリー――無免許運転68,000キロが意味するもの」『障害学研究』13, 273-300.
原彬久編,2014,『岸信介証言録』中公文庫.
廣野俊輔,2019,「障害者運動」山村りつ編『入門 障害者政策』ミネルヴァ書房,179-205.
小山力太郎,1995,「身体障害者ドライバーの歩み」全国脊髄損傷者連合会九州ブロック連絡協議会編『車イス生活者の戦後50年史 われら市民 めざせ21世紀』,124-125.
坂井めぐみ,2019,『「患者」の生成と変容――日本における脊髄損傷医療の歴史的研究』晃洋書房.
杉原努,2008,「戦後我が国における障害者雇用対策の変遷と特徴 その1――障害者雇用施策の内容と雇用理念の考察」『社会福祉学部論集』第4号,91-108.
東京都身障運転者協会編,2014,『都障運40年のあゆみ』.
矢嶋里絵,1997,「身体障害者福祉法の制定過程――総則規定を中心に その1」『人文学報』No. 281,41-71.
矢嶋里絵,1999,「身体障害者福祉法の制定過程 その2」『人文学報』No. 300,37-60.
山村りつ,2019,「就労・雇用支援」山村りつ編『入門 障害者政策』ミネルヴァ書房,105-140.
吉村幸晴,1994,「運転免許制度の変遷」国立身体障害者リハビリテーションセンター監修『身体障害者・高齢者と自動車運転――その歴史的経緯と現状』中央法規出版,3-23.
吉村昭,2011,「障害者ドライバーの先駆者たち」奈良県障害者運転者協会編『奈障運だより」第22号 40周年記念号』12-14.
(http://www.nashoun.com/kikanshi/22sinnbunn.pdf:最終閲覧日2020年8月26日)
全国脊髄損傷者連合会九州ブロック連絡協議会編,1995,『車イス生活者の戦後50年史 われら市民 めざせ21世紀』.

毎日新聞社「にんげん劇場 体の障害をアイデアで乗り越えた 原 徳明さん(62)」(1982年12月12日付).
(http://ritshigulab.xsrv.jp/BFL/Hara.htm:最終閲覧日2020年8月26日)

国会の会議録については「国会会議録検索システム 検索用API」を利用した。


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■質疑応答

※報告掲載次第、9月19日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人はtae01303@nifty.ne.jp(立岩)までメールしてください→報告者に知らせます→報告者は応答してください。宛先は同じくtae01303@nifty.ne.jpとします。いただいたものをここに貼りつけていきます。
※質疑は基本障害学会の会員によるものとします。学会入会手続き中の人は可能です。→http://jsds-org.sakura.ne.jp/category/入会方法 名前は特段の事情ない限り知らせていただきます(記載します)。所属等をここに記す人はメールに記載してください。

◆2020/09/14 仲尾 謙二

 橋口さま
 お世話になります。
 先端研の修了生で生存学研究所の客員協力研究員の仲尾と申します。
 障害学会でご報告予定の「障害者の就労と道路交通法の制定」を拝読いたしました。いろいろと勉強になりました。今、必要で重要な研究と感じました。
 私は障害学会の会員ではありませんし、意見、質問ということでもないのですが、私の問題意識の延長で関連すると思われる参照資料などをお知らせします。
 よけいなお世話かと思いますが、応援のつもりとご理解ください。
 資料が示すことは総じて言えば、障害者の免許取得に関する環境は、橋口さんのご検証の時期と比べて、現在でもほとんど向上していないという事実です。
 ご研究の重要性の証左となりうるものと考えます。
 なお、既にご存じのことばかりであれば、その際は笑ってご容赦ください。
 仲尾 謙二

*************************************

障害者の自動車運転免許の保有状況
「身体障害者に対する条件付運転免許の保有者数」は絶対数が少なく(2019年で235,485人。総運転免許保有者数の0.28%)、なおかつ近年は減少傾向(210年と比べて16,772人減)にあります。

「運転免許統計 令和元年版」 警察庁交通局運転免許課(p9に表があります)
https://www.npa.go.jp/publications/statistics/koutsuu/menkyo/r01/r01_main.pdf

2 障害者に関する車両の販売状況
 福祉車両と呼ばれるものの販売は伸びていますが、細かく見ると障害者自身が運転する「運転補助装置付車」の販売は減っており(小型車で、2010年819台→2018年129台)、誰かに乗せてもらう「車いす移動車」などが増えてきています(小型車で2010年10,966台→2018年13,519台)。
「はじめての福祉車両ガイド」一般社団法人 日本自動車工業会 (p29参照)
http://www.jama.or.jp/welfare/

3 現在改善のための支援の動き
 いろいろな努力がみられますが、結局は個々の障害者が自分にあったやり方を個別に判断して調整せざるを得ない現状にあると思います。
 さいごの国立障害者リハビリテーションセンターはむしろ例外で、実車による訓練などを行う施設が全国的にないと、現状の改善は困難かと思います。
公益社団法人厚生車輛福祉協会
https://www.normanet.ne.jp/~ww100016/index.htm
NPO法人日本せきずい基金
http://jscf.org/jscf/SIRYOU/s-seido/s10.htm
日本身障運転者支援機構
https://www.hcd-japan.com/drive5.html
国立障害者リハビリテーションセンター
http://www.rehab.go.jp/TrainingCenter/General/training_limbs/training-automobile/

4 現状を評価した文献
 現状を調査し論じたものは少ないです。川口氏のものがまとまっていると思います。なかなか簡単ではない現状がわかります。
「身体障害者の運転免許取得に関する諸問題」 川口明子
https://www.iatss.or.jp/common/pdf/publication/iatss-review/26-1-12.pdf

 以上、もしなにかしら参考になるようでしたら嬉しいです。

 なお、拙著『自動車カーシェアリングと自動運転という未来』でも、第4部第2章「移動に困難をともなう者にとっての自動車利用」におきまして、身体障害者の自動車運転免許取得について論じています。
http://www.arsvi.com/b2010/1809nk.htm

 突然のメールで失礼いたしました。


◆2020/09/14 橋口 昌治

仲尾様
 この度はご連絡をいただき、ありがとうございます。
障害者の自動車運転免許というテーマに関心を持って日が浅いので、十分に先行研究やデータに当たれておりませんでした。大変助かります。仲尾さんのご著書も読ませていただきます。
 現在は、制定当時に政権の座にあった岸信介の「福祉国家」に関する思想と、道路交通法に見られる「安全」と「円滑」の関係について考えるなどしておりますが、バリアフリーへの取り組み(道路・歩道やまちづくり)とも関連させて、少しずつ考察対象を現代に近づけていく予定です。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
橋口 昌治


◆2020/09/14 仲尾 謙二

 橋口さま  ご連絡ありがとうございます。  橋口さんのご研究が「過去の問題」ではない、ということは言えると私は思っております。  ご指摘の、いわゆるバリアフリーの施策との関連も大事なポイントだと思っています。  あと、恥ずかしながらご発表にある「45年度からは、さらに各県にある肢体不自由者更生施設に訓練用自動車を配置し、運転免許の取得の促進を図ることとした」という事実を知りませんでした。  今後ともいろいろ勉強させていただければと思います。                             仲尾

◆2020/09/18 土橋 喜人

 運転免許による通勤と、公共交通による通勤と、現状では、どのような割合になっているでしょうか?(例えば、ガイドヘルパーは通勤通学には使わない、というのが、国の基本方針であるが、運転免許があれば障害者は単独でもかなり自由に動くことができる。)どちらも重要だと思いますが、現状を把握しておきたいです。例えば、一般的(健常者にとって)には交通分担率は、地方の方が自動車の分担率が高いですが、都市部では公共交通が重要になっています。わかる範囲で教えていただけたら幸いです。


◆2021/08/04 黒田 勝支
障害者学会の「障害者の就労と道路交通法の制定」を昨日読みました。
1960年の道路交通法改訂の経緯を検索する過程で上記レポートを拝見しました。
改訂には肢体障害者の方々の大変か苦労があったことを初めて知りました。

私は左眼失明の83歳の男性です。
物心ついた時にはすでに失明していた私には自分が障害者であると言う認識は全くありませんでした。
成人した当時は運転免許を取得出来ないことが納得出来ませんでした。
道交法の改定で運転免許を取得出来る様になった事を友人から聞いたので、友人のスクーターを借りて練習し、
昭和39年3月に雪の残る府中試験場で受験して運転免許を取得しました。
翌40年には普通免許も取得しました。
私は左眼失明ですが、身体障害者には指定されません。
旧道交法には私のように身体に障害があるけど身体障害者とされない者も排除されていたのですね。
先人に感謝

黒田 勝支


*頁作成:中井 良平
UP: 20200828 REV: 20200914, 15, 18, 20210821(岩﨑 弘泰)
障害学会第17回大会・2020  ◇障害学会  ◇障害学  ◇『障害学研究』  ◇全文掲載
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