犯罪心理学者原田隆之は、精神/発達障害と犯罪の関係について「精神障害者よりも『健常者』のほうが犯罪に至る割合がずっと多い」と統計的事実に基づき論じている(1)。そのうえで、2018年6月9日の新幹線殺傷事件について、「障害を持つ容疑者が徐々に行き場をなくし、追い詰められていった過程」に着目すべきとし、成人の発達障害の社会包摂を促している。しかし一見、精神/発達障害への「不当な」差別を抑制するかに見える原田の障害観には幾つかの問題がある。第一に、精神/発達障害において健常者との線引きは明確に確定できるのか。第二に、障害は誰かが「持っている」ものなのか。第三に、精神/発達障害の治療や支援は犯罪抑止と既存社会への適応を軸に語られるべきものなのか。
まず、精神/発達障害と健常者で明確な線引きは不可能である。ラカン派精神分析では、自己意識を伴う人間という存在そのものが「病理」とされている(2)。つまり、「健常者」は医学的布置における「理念的構成物」であって、本来現実には存在し得ないはずである。また、精神科医の香山リカは「軽度」の鬱や発達障害を病理化する動きを「病理」として論じ、「健常者」の「過剰診療」を抑制しようとする(3)。こうした障害の社会的被構築性をよりよく理解するには経済的視点を組み入れることが重要であろう。戦前の日本を事例に取れば、国家主導の「富国強兵」に従順に協力し、帝国主義を支えうる理想的労働者ないし軍人として適合しない者は、潜在的失業者を常に構成する継続的な本源的蓄積過程の中で必然的に収奪/排除の憂き目を被ったという事実も参考になろう(4)。
第二に、障害は障害者が「持つ」ものなのか。竹内章郎の「能力の共同性」論を参照するならば、能力とは他者との関係における「現象」であり、遡及的に個人に帰属させられるのであって、個人の本来的属性だとするのは先入見である(5)。障害が「現象」しなければ、障害者は既存社会へそれなりに「パッシング」しており、必ずしも障害者の「能力」に問題があることにはならない(6)。また、もし障害が「現象」した場合でも、その障害の発現が周囲の環境との相互作用である限りにおいて、また周囲の環境が人間の働きかけで改変できる余地があるならば、障害の発現の責任は相互に負わねばならないはずで、「障害者」の個人的努力だけに帰されてはならないはずである。
第三に、精神/発達障害の治療や支援は当事者の「幸福な生」のためだけに語られるべきである(7)。しかし、たとえば治療としての投薬は被験者の明示された症状とその物理的・化学的原因との因果的把握に基づくが、その因果関係は実は相関関係または蓋然的な仮説にすぎず、同じ「症状」を抱えた患者すべてに同様に「有効」であるとは限らない。また、投薬や訓練のゴールが既存社会への無条件の適応である限りにおいて、その適応・参入は必ずしも善きものとは言えない。既存社会は先述のように構造上、必然的に障害者を生み出すからである。寧ろ、その社会への参入を市場化や社民化によって保障することは、その社会構造を延命させることでもある。投薬や訓練はむしろ、当事者が現に抱える「苦痛」や「不快感」に寄り添う限りにおいて当事者の幸福に寄与するのである(8)。というのも、障害は身体的次元での経験でもあり(9)、現に「苦痛」や「不快感」を感じている者に対して、障害は「過剰診療」という社会的構築物にすぎず、貴方も実は健常者だと説いたところで、その者の「苦痛」は癒えないし、「苦痛」を引き受ける態度も内在的には出て来ないからである。障害の治療や支援の社会的な在り方に問題があることと、治療や支援がその人にとって必要かどうかは区別されねばならない。
本研究は文献学的な研究であり、著作権と文献に紹介された事例のプライバシーに留意することを心掛けたい。