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「もし聞こえない子どもが生まれたら親はどうするか」

伊藤 泰子 2018/11/17〜18 障害学会第15回大会報告一覧,於:クリエイト浜松

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last update: 20181031

キーワード:母語、手話、親子関係

報告要旨

 私自身の聴覚障害・難聴児・ろう者に対する考え方がどのように変わったかを示したい。この考え方の変化を聞こえない子供を持つ親御さんに伝えることによって、親御さんの不安を減らすことができればと願っている。

さて、まず、耳が聞こえない人はコミュニケーションがうまくできないので苦労していると、多くの人は思っているでしょう。「苦労しているね」「大変だね」「かわいそうだね」などの言葉で表される聞こえない人に対する見方は「聞こえない人」という呼び名で耳が聞こえない人をグループ化して固定化することが原点としてある。ところが、ある時、私の難聴の娘との会話から、耳が聞こえないことは一般的な見方通りなのかと疑問を持ち始めた。

  母:あなたは「耳が聞こえない人」だから聞こえないと苦労するね。
  娘:私は「聞こえない人」じゃないよ。「普通の人」だよ。
    それに、聞こえないからって大変でもないよ。当たり前だもん。

 私が娘を「聞こえない人」のひとりと見なすと「ちがう、普通の人」と否定した。そして、聞こえないことを困ることと見なすと「当たり前」と返答した。彼女の答えの「普通の人」とはどういうことか。聞こえないから普通ではないのに、と私は思った。さらには「当たり前」とはどういうことなのか。それは私にはただの負け惜しみの言葉にしか聞こえなかった。しかし、負け惜しみの言葉でないなら、私がイメージしている「聞こえない人」とは異なることになる。当時、私は娘の言葉が理解できなかった。やがて考えるうちに、娘の言葉が真実を表す言葉であると思うようになった。そして、次のように私の考え方は変わった。
 生きているとは、自分が存在していることである。生き物は自分の存在を示し続けなければならない。そのために、コミュニケーション手段である「言葉」を使う。生き物である鳥が鳴いたり、犬がほえたりするように、人間も声を出したり、身振り手振りなど体を使って、そして音声言語を話して、あるいは手話を使ってコミュニケーションする。人間を含め、それぞれの生き物が、それぞれのコミュニケーション手段を持っている。そのコミュニケーション手段には優劣はない。
 このように、聞こえない人は聞こえる人と同様に「生き物の言葉」、あるいは「生きるための言葉」である手話というコミュニケーション手段を使っていると私の考え方は変わった。それによって、私は聞こえない人が「普通の人」であると納得した。聞こえない人は手話という彼らにとって利用可能な言葉を使って完璧なコミュニケーションしている普通の人である。また、聞こえないことは、生まれた時から聞こえない人にとっては「当たり前、普通」であり、聞こえないからコミュニケーションできないわけではなく、手話でコミュニケーションできるのであれば、困らないことも理解できた。
 各人にとって自由自在に使えるコミュニケーション手段を持つことができないと、自分の存在を示すことができず、それは生きる力を奪うことになる。聞こえない人の「生きるための言葉」である手話を禁止することは生きる力を奪うことだ。
 聞こえる人から見ると、聞こえない人は聞こえる人の社会で生活するためには音声言語が必要なので、手話を禁止して口話法で音声言語を習得した方がよいと考えるかもしれない。あるいは、音声の代わりに文字で音声言語を覚えて聞こえる人の社会でうまくやっていくことができると考えるかもしれない。しかし、「生きるための言葉」を持っていなければ意味がない。まずは、手話を覚えて「生きる」ことが必要不可欠だからである。
 親は、その子に適したコミュニケーション手段の「環境」を作って、共にその環境でコミュニケーションをしてコミュニケーション手段を身につけようとすればいいのである。そうすれば、聞こえない子どもは劣等感も感じず、孤立せず、自立して生きる人に成長していく。もし聞こえない子どもが生まれたら、まず第一に親がすべきことは子どもとのコミュニケーション手段である手話を親子一緒に覚えて親子関係を築くことである。



*作成:安田 智博
UP: 20181031 REV:
障害学会第15回大会・2018 障害学会  ◇障害学  ◇『障害学研究』  ◇全文掲載
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